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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
2021年7月9日号 週刊朝日「今週の一冊
盆踊りで熱狂していた謎が解けた 片岡義男
『盆踊りの戦後史「ふるさと」の喪失と創造』 大石始 筑摩選書
2021年から逆算して76年前、アメリカ軍が徹底的に空爆する東京を逃げた僕は、山口県岩国にあった祖父の家に疎開した。そこで6年を過ごし、東京に戻る途中、父親の仕事の都合で、広島県呉市で2年を過ごすことになった。1951年の秋から1953年の夏の終わりだ。
この呉で過ごした2年間で今でも覚えているのは、夏におこなわれた盆踊りとその主題歌のようだった『炭坑節』だ。かつての軍港を見おろす崖の縁に沿って、安普請の二軒長屋が何棟もあり、そのまんなかはなににも使われていなかったから、盆踊りの櫓を丸太で組むには最適だった。したがってここに盆踊りの櫓が作られ、、ある日突然、盆踊りが始まった。
二軒長屋の市営住宅は戦争とその敗戦によって行き場を失った人たちの場であり、近隣に住む昔からの住民も参加したとはいえ、なぜあれほどまでに、盆踊りが人々の熱狂の中心だったのか。盆踊りは3日は続き、『炭坑節』が繰り返し再生され、なにかに向けて人々を駆り立てた。あの盆踊りは、いったいなにだったのか。
謎であり続けた盆踊りと『炭坑節』とは、『盆踊りの戦後史』を読んで、あっさり解けた。もともとの盆踊りは日本各地の固有の文化を取り込んで祖霊を供養するものだった。盆踊りのエネルギーに未婚の男女の性愛が重なり、音頭の歌詞は直截(ちょくせつ)になった。盆踊りで高まった民衆の力が反権力の方向に向くのをおそれた当局は、音頭の歌詞が公序良俗に反するとして、盆踊りの取り締まりを強化した。これによって明治には日本から盆踊りは消えて歴史は途絶えたと言われるまでになった。
しかし時代は進んでいった。1926年にNHKが設立され、1940年までに全国で35のラジオ局が出来た。日本各地の盆踊りの音は全国に届き、一般化された。1933年から『東京音頭』の大流行があり、日比谷公園でおこなわれた大盆踊り大会は、自分たちで新たに作る盆踊りの手本となった。
1938年には国家総動員法の最初の発動があった。日本ぜんたいが盆踊りどころではなくなった。戦争の時代には軍国主義をたたえる盆踊りが推奨されたが、そんなものはなんの役にもたたないままに、日本は敗戦を迎えた。『盆踊りの戦後史』の著者によると、盆踊りは火が消えた状態になった、という。
戦後の日本で盆踊りが復活したのは1946年からだという。敗戦の明くる年ではないか。阿波おどりがこの年に復活した。市民のあいだで阿波おどりへの欲求が高まり、それを受けて徳島県が進駐軍におうかがいを立てたところ許可され、市役所前で阿波おどりはおこなわれ、多くの人々が夢中で踊ったということだ。1946年には日本のさまざまなところで盆踊りが復活した。いま僕は東京の玉川学園というところに住んでいるが、1946年、小田急線のこの駅前で盆踊りがおこなわれたと、本書に書いてある。
『この時期の盆踊りの多くは、戦没者を供養するとともに、敗戦の暗いムードを吹き飛ばそうという明確な目的を持っていた。ただでさえ貧しく、娯楽の少ない時代。盆踊りは人々にとって数少ない楽しみのひとつであり、救いの場でもあった』
1952年の日本では町内会が復活した。戦争中の日本国家が国民に強制した相互監視組織の隣組につながるからという理由で、進駐軍によって禁止されていた。それが新しい時代のなかで復活したのだ。戦後の僕が子供の頃に見て心のなかに謎として残った盆踊りは、復活した町内会ないし類似の組織による、新しく作られた盆踊りだった。」
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日本民族の崇拝宗教とは、古代人・縄文人から受け継いだ命・霊・魂、血・体、心・志、精神・気概を絆の根拠として、自分という生者と祖先という死者の交歓である。
宗教には、ローカルな崇拝宗教とグローバルな信仰宗教がある。
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宗教に無関心の現代の日本人と宗教を大事にする昔の日本人とでは、別人のような日本人である。
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日本民族にとって、ムラの祭り・鎮守の祭り・盆踊りは宗教祭祀以前に気候風土から必要不可欠な行事であった。
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死者供養の象徴的な盆踊りとは、靖国神社の「みたままつり」である。
何故なら、神の血筋を正しく受け継ぐ正統男系父系天皇が祭祀王として親拝してきたからである。
いまは、周辺諸国や国際社会からの非難の為に靖国神社親拝は途絶え、国民は政教分離の大原則から親拝再開を求めてはいない。
みたままつり 7月13日〜16日
日本古来の信仰にちなみ昭和22年に始まった「みたままつり」は、今日、東京の夏の風物詩として親しまれ、毎年多くの参拝者で賑わいます。
期間中、境内には大小3万を超える提灯や、各界名士の揮毫による懸雪洞かけぼんぼりが掲げられて九段の夜空を美しく彩り、本殿では毎夜、神霊をお慰めする祭儀が執り行われます。 また、みこし振りや青森ねぶた、特別献華展、各種芸能などの奉納行事が繰り広げられるほか、光に包まれた参道で催される盆踊りや、夜店の光景は、昔懐かしい縁日の風情を今に伝えています。
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毎年開催される盆踊り・ムラ祭りの作事は、20年ごとにおこなわれる伊勢神宮の式年遷宮祭な短縮版であった。
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浄土宗
仏事まめ知識 ~ 盆踊り
全国的に知られる祭りから町内の夏祭りまで、お盆の行事として馴染み深いのが盆踊りですが、じつは盆踊りは仏教行事なのです。もとは先祖の霊をはじめとする死者の霊をお迎えし送るという目的で踊られるものでしたが、時と共にその意味を失っていきました。
日本三大盆踊りとして、徳島県の阿波踊り、岐阜県の郡上踊り、秋田県の西馬音内の盆踊りが有名。なお、阿波踊りのように全国に広がりをみせ、各地で踊られているものもあります。
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日本大百科全書(ニッポニカ)「盆踊り」の解説
盆踊り ぼんおどり
盆に踊る民俗芸能。祖霊、精霊を慰め、死者の世界にふたたび送り返すことを主眼とし、村落共同体の老若男女が盆踊り唄(うた)にのって集団で踊る。手踊、扇踊などあるが、歌は音頭取りがうたい、踊り手がはやす。太鼓、それに三味線、笛が加わることもある。古く日本人は旧暦の正月と7月は他界のものが来臨するときと考えた。正月は「ホトホト」「カセドリ」などいわゆる小(こ)正月の訪問者がこの世を祝福に訪れ、7月は祖霊が訪れるものとした。盆棚で祖霊を歓待したのち、無縁の精霊にもすそ分けの施しをし、子孫やこの世の人とともに楽しく踊ってあの世に帰ってもらうのである。こうした日本固有の精霊観に、仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)が習合してより強固な年中行事に成長した。盆に念仏踊を踊る例もあるが、念仏踊は死者の成仏祈願に主眼があり、一般に盆踊りとは別個の認識にたつ。
15世紀初頭に伏見(ふしみ)の即成院や所々で踊ったという盆の「念仏躍(ねんぶつおどり)」「念仏拍物(ねんぶつはやしもの)」(『看聞御記(かんもんぎょき)』)は、まだ後の盆踊りというより念仏の風流(ふりゅう)の色彩が濃いものであったが、同世紀末に昼は新薬師寺、夜は不空院の辻(つじ)で踊られたという「盆ノヲドリ」(『春日権神主師淳(かすがごんかんぬししじん)記』)は盆踊りの色彩を強めたものであったろう。盆踊りはそのほか伊勢(いせ)踊なども習合することになったらしいが、にぎやかで華やかな踊りで、異類異形の扮装(ふんそう)をしたとあり、まさに風流(ふりゅう)振りである。16世紀中ごろには小歌(こうた)風の盆踊り唄がつくられていた(『蜷川(にながわ)家御状引付(ごじょうひきつけ)』)。江戸時代以降いよいよ盛んになり、全国的にそれぞれの郷土色を発揮して、いまに行われている。
今日みる異類異形の盆踊りには、鳥獣類の仮装はなく、秋田県の「西馬音内(にしもない)盆踊」のひこさ頭巾(ずきん)(彦佐頭巾、彦三頭巾とも書く)のように覆面姿が多い。これは亡者の姿といい、また佐渡の「真野(まの)盆踊」のように石の地蔵を背負って踊るものもあり、人と精霊がともに踊ることに意義をみることができる。長野県阿南(あなん)町の「新野(にいの)盆踊」では、最終日に村境まで群行して踊って行き、そこで新盆(にいぼん)の家の切子灯籠(きりこどうろう)を燃やし、鉄砲を撃って踊り神送りをする。精霊鎮送の形がよくわかるが、道を踊り流して歩く形は徳島市の「阿波(あわ)踊」にもよく表れている。新盆の家々を回って踊る例もある。また神社や寺の堂や境内、校庭、公園などで円陣をつくって踊る例も少なくない。岐阜県郡上(ぐじょう)市八幡(はちまん)町の「郡上踊」では、幾重もの踊りの輪ができて夜を徹して踊る。沖縄諸島では「エイサー」とよぶ盆踊りが盛んで、手持ちの太鼓踊と手踊の二様がある。八重山(やえやま)列島では「盆のアンガマ」といって、老人姿の精霊仮装が出る。
[西角井正大]
[参照項目] | 阿波踊 | 盂蘭盆会 | エイサー | 郡上踊 | 西馬音内盆踊 | 盆踊り唄
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イーフローラとは?
お盆・初盆のお話
盆踊りとお盆・初盆の関係
夏祭りの代表格といえば盆踊り。現在でもお盆の定番となっている行事の一つですが、そもそも、なぜお盆に盆踊りが催されるようになったのでしょう。
盆踊りのはじまり
盆踊りが日本で初めて登場したのは、平安時代と言われています。空也上人による念仏踊りが「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と結びつき、次第に、お盆に帰ってきたご先祖様の霊を迎え慰め、彼岸へ送り返す仏教行事へと移ろいでいったようです。
また、盆踊りに関しては、次のような説も語られています。「帰ってきた霊を供養し、無縁仏などを安らかに送り出すための舞」「帰ってきた霊を、自分たちの踊りに誘い込みながら送るための舞」「帰ってきた霊に楽しんでもらうための舞」「供養のおかげで成仏できた精霊たちの喜びを表す舞」などなど…。
また、盆踊りが太鼓を叩いたり音を鳴らしながら踊られるようになったのは、室町時代のあたりからとされています。
そして、時代の流れとともに宗教的意義はだんだんと薄れていき、民衆娯楽として広がっていって現代に至るそうです。
地域によっては、帰省した人々の再会の場や地域交流の場、さらには男女の出会いや求婚の場としても親しまれている面もあり、現在ではすっかり「夏を楽しむお祭り行事」として全国各地で開催されています。
夜通し踊る「盆踊り」
盆踊りは、かつては夜通しで踊られていたそうです。旧暦の7月15日は「十五夜(じゅうごや)」、そして、16日は「十六夜(いざよい)」。つまり、いずれかの夜は月が満ちて満月となるため、照明のない時代でも空は明るく、さらに月の引力のせいか人の気分も高揚するため、盆踊りには最適だったということです。
盆踊りの様式について
盆踊り近年催される盆踊りの様式としては、主に2通りあります。ひとつめは、人が多く集まることのできる公園や神社の境内、駅前の広場などに「櫓(やぐら)」を組み、その周りを輪になって皆で踊るというもの。
そしてもうひとつは、大通りなどを列を組んで踊り歩くタイプのもので、これは「念仏踊り」とも呼ばれます。
どちらにしても、お祭りとして露店なども出され、地域の人や盆休みなどで帰省した人たちも大勢集まるため、地元の人々が久しぶりに顔を合わせる交流の場としても大いに機能しています。
お盆で帰省した際には、地域の人との交流を楽しみながら、そんな歴史ある盆踊りを踊ってみるのもいいかもしれませんね。
お盆は、年に一度ご先祖様の精霊をお迎えして日頃の感謝を伝え、供養する日。日本で古くから営まれている伝統行事です。そんなお盆や初盆にまつわる、さまざまなお話をご紹介します。
ご先祖様の精霊を迎えて供養する日として、古くから営まれているお盆。正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と呼びます。そんなお盆の起源は、主に以下の2つの説が語られています。
インドを発祥とするお盆の由来
はるか昔、お釈迦様が仏教の教えを説いていた頃のインドでは、7月15日に「ウラムバナ」という仏教行事が行われていました。
「ウラムバナ」は、苦しみの世界へ堕ちたご先祖様を救い精魂を祭るための行事。これが仏教とともに次第に日本へ伝わってきたというのが、インドを発祥とするお盆の起源説です。
「ウラムバナ(ullambana)」を音写すると「盂蘭盆」、つまりお盆になります。そして「盂蘭盆経」の中の教えでは、盂蘭盆会の起源にまつわる話として次のようなことがいわれています。
「お釈迦様の十大弟子の中でも神通力が一番とされた目連尊者は、ある時、その力によって、亡き母が餓鬼道に堕ちて苦しんでいることを知った。目連尊者は心を痛め、どうにか母を救いたいとお釈迦様に策を訊ねたところ、お釈迦様は「夏の修行が終わる7月15日に、多くの僧たちを招いて供物を捧げ供養をするように」と諭された。そして、目連尊者がその通りに供養を行ったところ、母親は無事に救われ、成仏することができた」
ここから、ご先祖様の精霊を救い供養する行事として盂蘭盆会が行われるようになったというのです。日本では、推古天皇の14年(606年)に行われたのが最初とされています。
日本を発祥とするお盆の由来
古くから日本では、万霊同様ご先祖様の魂を大事にし、死者の精霊を祭る習わしがあったとされています。冬と夏の時期、年に2回、霊棚(精霊棚)を飾ってご先祖様や死者の精霊を供養するお祭りが催されていたそうで、冬に行われるものが「正月」、そして夏に行われるのが「お盆」であったということです。
また、ご先祖様の精霊をお迎えする際、お供え物を置く器のことを「ボニ」と呼んだため、それが次第に訛って「お盆」になっていったという事も言われています。
さらに、旧暦でのお盆の時期というのは、暑い夏も越え、稲作・畑作も一段落する時期であったことから、農耕儀礼と結び付いて「収穫祭」のような面も兼ね備えたものだったという話もあります。
このように諸説語られているお盆の起源ですが、前者のインド発祥説と古くからの日本の習わしが仏教伝来で混じり合い、現在のお盆・初盆につながっているのではないでしょうか。
現在では、ご先祖様が戻ってくる日ということで親戚一同が集まり、故人を偲んで供養する大事な行事としてお盆が行われます。年に一度、日頃のお礼をご先祖様に伝えることのできるすばらしい風習、大切にしていきたいものですね。
お供えの花などの基礎知識
お盆・初盆とは?お供えの花などの基礎知識
お盆は日本の大切な年中行事。普段からご仏前で手を合わせることを日課にしている方も、ご先祖様の“里帰り”であるお盆は、特に心を込めてご供養を行いたいものです。
お盆の由来や習わし、お供え花やお供え物、お墓参りの仕方など、お盆に関する基礎知識についてご紹介します。
お盆とは?由来や習わしなど
多くの地域で夏に行われる年中行事であるお盆。お盆の期間はご先祖様の霊魂が現世に帰ってくると信じられてきました。そのためお盆とは、ご先祖様を招き、ご先祖様を手厚くご供養するための行事とされています。
地域によって異なるお盆の時期
現在のお盆の期間は、地域によって異なります。
もともとは、都市部でも地方でもお盆は旧暦7月13日~16日でした。それが、明治5年(1872年)に新暦が日本全国で導入されると、お盆の日程は地域によって違いがみられるようになってきました。
たとえば、新暦を推奨する明治政府のお膝元にあった東京や神奈川県、北海道の一部や石川県金沢市、静岡県の都市部などでは令を受け入れ暦通りの新暦の7月盆(7月13日~16日)にお盆を行うようになります。一方、政府から離れた北海道や東北、新潟県、長野県、関西地方などでは新暦8月盆(8月13日~16日)が多いです。その理由としては、新暦の7月中旬では農作物の収穫が忙しく、多くの人々の生活様式と合わなかったため、慣れ親しんだ旧暦に近い日付でお盆を行うようにした結果、新暦8月13日~16日に固定されたという説が有力です。
そして、沖縄・奄美地方では「家族を大切に、祖先を大切に」という考えがとても強く、お盆は一年で最も大切な行事。そのため、現在でも旧暦の7月13日~15日にお盆を行う伝統を守り続けています。そのため、沖縄・奄美地方のお盆は毎年日程が変わります。
お盆の由来
お盆の由来には諸説ありますが、中でも有名な説のひとつに、旧暦の7月15日の盂蘭盆(うらぼん)からきているというものがあります。
盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」が語源となっており、インドに伝わる目連尊者の伝説がその由来となります。お釈迦さまの内弟子・目連尊者は、自身の母親が死後、餓鬼道に落ちたことをお釈迦様に相談すると「布施や供養を行うこと」の助言を受けました。目連尊者が言われた通りに人々に施しを行ったところ、餓鬼道で苦しむ母親にもその施しが届き、無事に成仏することができました。母親が救われた日が7月15日であるため、盂蘭盆として覚えられるようになったという説です。
もうひとつ、別の説によれば、かつての中国では旧暦7月を「鬼月」としており、地獄の蓋が開く期間と伝えられてきました。旧暦7月15日の中元節にその蓋は閉じることから先祖供養の習わしがあり、それが盂蘭盆と融合し今のお盆となったとも考えられています。事実、旧暦7月中旬に先祖崇拝を行う地域は日本含む東アジア地方には多く存在します。
その他にも、ペルシャ語の「霊魂」を意味する「ウラヴァン」にちなむ、お供え物を置く盆から来ている、という説もあります。
また、日本にもともとあった農耕儀礼の「収穫祭」が先祖崇拝の「お盆」と結びついた、ということもあったのでしょう。日本では奈良時代・推古天皇の治世に「お盆」の儀式は既に行われており、8世紀頃に定着したようです。かつては貴族や僧侶といった一部階級の年中行事でしたが、江戸時代以降、庶民にも広がりを見せていきました。
お盆・初盆の起源
お盆の習わし
お盆の風習は地域によってさまざまですが、基本的には「ご先祖様をお迎えする」「ご先祖様をご供養する」という考え方であり、お盆の期間には多くのお寺で「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と称した法要が行われています。代表的なお盆の習わしをご紹介します。
まず、お盆に入る前までにご仏壇・仏具を清めておきます。ご仏壇の前には精霊棚(しょうりょうだな)を設け、そこに花やお菓子などのお供えをします。地域によっては、ご仏壇から位牌や灯明を取り出し、この精霊棚に置くところもあります。
また、精霊馬(しょうりょうま)の存在も欠かせません。これは、ご先祖様が現世にお戻りになる時に使う乗り物です。キュウリで馬を、ナスで牛をモチーフに作りますが、これは「この世に戻る時は馬を使って早く、あの世へ帰る時は牛でゆっくり帰ってほしい」そんな願いが込められています。
お盆の初日は「迎え盆」「お盆の入り」と呼びます。この日はお墓参りを行い、その後ご先祖様を自宅でお迎えするために、迎え火を焚く風習があります。これには、ご先祖様の通り道を作る目的があり、本来はお墓参りの際に焚いた線香や迎え火で火をつけた盆提灯を、日が沈んでから家まで持ち帰るというものが慣習でしたが、現在は玄関口などで苧殻(おがら。麻の茎のこと)を焙烙(ほうろく。素焼きの土鍋)で炊いたり、玄関に提灯をさげたりといったことで代替されています。
ご先祖様が自宅で過ごす期間は「中日(ちゅうにち)」と呼ばれ、朝昼晩の三回、家族と同じお食事を精霊棚にお供えします。これは霊供膳(りょうぐぜん)と言い、従来は精進料理がお供えされていました。地域によっては今でも詳細な献立があるところも。
お盆の最終日は、ご先祖様をあの世へ送り出します。「送り盆」「お盆の明け」と呼ばれます。送り盆では夕方に玄関口で送り火を焚きます。昔は提灯に火をつけ、その火から苧殻とお盆で使った精霊馬などを燃やし、そのあと提灯をお墓まで持参し、お墓で火を消すという習わしが一般的でしたが、現在では玄関口で送り火を焚くだけということが多くなっています。集合住宅などで火を使うことが難しい場合は、精霊棚にお供えしたものを菩提寺に納めることもできます。
地域によっては、供物を川や海に流す灯篭流しや精霊流しが行われます。
ちなみに送り火の時、一緒におだんごをお供えすることがあります。これは、ご先祖様がこの世とあの世に続く橋を無事に渡れるよう案内をしてくれる六地蔵に捧げるものと言われています。
お盆・初盆の風習について
初盆とは
初盆(はつぼん、ういぼん)または新盆(しんぼん、にいぼん、あらぼん)とは、故人が亡くなってから初めて行うお盆であり、通常のお盆よりも丁寧で手厚い供養が営まれます。
初盆を迎える家では、親戚がその家の家紋が入った白提灯を贈る習わしがあります。この特別な白提灯は初盆にしか使えないこともあり、現代では絵柄のついた提灯などに簡略化されています。また、この提灯の代わりに「提灯代」として現金を包んで贈ることもあります。
初盆の家では自宅に僧侶を招いて読経してもらったり、お墓参りの時にお布施を届けるといった風習がありましたが、現代ではその風習の在り方も少しずつ変わってきています。とは言え、大切な方が初めて“里帰り”をされる初盆。心を込めてお迎えしたいものです。
なお、お亡くなりになってからまだ四十九日を迎えていない場合は、初盆の供養は翌年となります。
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ウィキペディア
盆踊り(ぼんおどり)は、盆の時期に死者を供養するための行事、またその行事内で行なわれる踊り。
概要
誰でも踊りに参加できるタイプと、主に見せるために限定された踊り手が踊るタイプとがある。前者は、広場の中央にやぐらを立て、やぐらの周囲を回りながら音頭にあわせて踊る形式が一般的である。盆踊りの伴奏音楽としては多く音頭が奏でられる。近年は録音された音頭を電気的に再生して行なうことが主流になっている。
歴史的には村落社会において娯楽と村の結束を強める機能的役割を果たした。そのため、各地にご当地音頭も多く存在し、自治体や商工会などが作成したオリジナルの地域的音頭も増えている。明治以前は歌垣などの風習に結びついていた。お盆の時期に行なわれるが、宗教的意味合いは薄く、農村や庶民の娯楽として楽しまれてきた。明治時代から大正時代にかけて一時衰退したが、復活が叫ばれるようになり、大正末期から農村娯楽として奨励されはじめ、再び盛んになっていった。もともと盆踊りがなかった土地でも新作して踊るところもあり、町内会の祭り行事としてだけでなく、阿波踊りやエイサーなど、一地方の盆踊りから全国に広まったものもある。
夏休みの間の大きなイベントの一つである。かつては夜通しで行なわれることも多かったが、近年は治安維持のため深夜まで行なわれることは少なくなっている。国内外の各地に盆踊りの会や教室がある。
2020年2月19日、文化審議会は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産への登録を目指す国内候補に「風流踊(ふりゅうおどり)」を選んだ。盆踊りや念仏踊りなどとして伝承された23都府県の37件をまとめて一つの遺産とみなし、3月末までに政府がユネスコに申請書を提出。2022年11月ごろのユネスコ政府間委員会で登録可否が審査される見通し。
起源
盆踊りはもともとは仏教行事であるとする説、歌垣の遺風とする説、原始信仰の儀式だったとする説など諸説あるが、文献に最初に登場するのは室町時代と言われる。平安時代、空也上人によって始められた踊念仏が、民間習俗と習合して念仏踊りとなり、盂蘭盆会の行事と結びつき、精霊を迎える、死者を供養するための行事として定着していった。死者の供養の意味合いを持っていた初期の盆踊りは、新盆を迎える家に人々が赴き、家の前で輪を作って踊り、家人は踊り手を御馳走でもてなした。盆には死者が家に帰って来るという考え方から、頬被りをして人相を隠し、死者の生き返った姿に扮した人がその物語を演じたという。
セクシュアリティ研究の立場からの様々な見解
踊り念仏は、鎌倉時代には一遍上人が全国に広めたが、一遍や同行の尼僧らは念仏で救済される喜びに衣服もはだけ激しく踊り狂い、法悦境へと庶民を巻き込んで大ブームを引き起こした。それ以降は、宗教性よりも芸能に重点が置かれる念仏踊りが生み出され、人々はさらに華やかな衣装や、振り付け、道具、音楽などを競うようになった。室町時代の初めには、太鼓などをたたいて踊るようになったといわれている。現在も、初盆の供養を目的の盆踊りも地域によっては催されている。太鼓と「口説き」と呼ばれる唄に合わせて踊る。口説きは、地区の伝統でもある。初盆の家を各戸を回って踊る所もある。昔は旧暦の7月15日に行われていた。ゆえに、盆踊りはいつも満月であった。
鎌倉時代以降、経済力や自治力を得た民衆により新奇な趣向が次々に考案され、江戸時代初頭には絶頂を極めることになる。江戸では7月に始まり連日踊り明かしながら10月にまで続いた。次第に盆踊りは性の解放のエネルギーと結びついていく。日本では性は神聖なものとされ、神社の祭礼を始めとし、念仏講、御詠歌講など世俗的宗教行事の中心に非日常的な聖なる性があるべきと考えられるようになり、盆踊りは性の開放エネルギーを原動力に性的色彩を帯びるようになる。明治時代にはしばしば風紀を乱すとして警察の取締りの対象となって一時は激減していた。盆踊りは未婚の男女の出会いの場にとどまらず、既婚者らの一時的な肉体関係をもつきっかけの場をも提供していた。ざこ寝という、男女が一堂に泊まり込み乱交を行う風習も起こり、盆踊りとも結びつき広まり、ざこ寝堂はほとんど全国の農村には存在した。これは昭和時代に至っても続いていた。
出雲阿国による一風変わった男装の念仏踊りは歌舞伎踊りと言われた(歌舞伎のかぶくとは、「常識外れ」や「異様な風体」と言う意味)[要出典]。以後、歌舞伎など様々な芸能へと派生していったが、歌舞伎も売春を伴い幕府より厳しく取り締まりを受けていたことから鑑み、盆踊りに限定されず芸能全般に性が結びついた江戸文化風俗の一端と言える。
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日本の祭りは、すべて神道もしくは仏教の宗教行事で、全員参加が原則で、参加しないと村八分にされた。
日本の祭りには、日本列島の中で、ムラ・集団・共同体として助け合い協力し合って生きていく智恵と技術を確かめ合い維持し、それを正しく子孫に伝えていくという重要な役割があった。
日本の伝統的祭りは、人集め、金集めが目的の強欲な商業イベントではなく、領主・支配者・権力者・勝者の権威付けの為の俗欲な政治ショーでもなかった。
日本の祭りの中の歌や踊りは、教養なき下層階級の庶民生活から自然発生的に生まれたもので、宗教性、政治性、イデオロギー性などは敬遠されて意図的に排除されている。
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盆踊りや夜祭り・宵宮は、老若男女の自由恋愛の場であり、若い男女にとっては婚活の場でもあった。
若い女性・少女は、親の言い付けで10歳代で結婚した。
ムラでは、夜這いが普通におこなわれていた。
公衆浴場は、男女混浴であった。
子宝の温泉には、女性客の体を洗い流す三助(男)がいて、温泉の御利益で子供を授かったといったとき子供は懇意になった三助の子であった。
地方では、自分の子供を血の繋がりのない赤の他人の夫婦に養育させるという「托卵」行為があった。
夫婦・親子のの定義、認識は、武士・サムライと庶民(百姓や町人)では全然違っていた。
明治時代。キリスト教会は、以上の行為は未開人が行う野蛮行為であり近代国家には似つかわしくないとして明治新政府に禁止・廃止を求めた。
女性差別が酷くなり、女性が生き辛くなったのは、キリスト教の家父長主義が日本を毒したからで、それをさらに救いようがない程に悪化させたのが儒学原理主義(朱子学儒教)の男尊女卑思想であった。
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敗戦後、バブル崩壊後、マルクス主義・共産主義は政教分離の原則から廃止できる祭りは廃止させ、廃止できない祭りは宗教性を抹消した。
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江戸時代のムラには、土木や建築などを生業としている専門職人ははいなかった。
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農耕・漁労・狩猟・採取などの生業とモノ作りの副業で生きてきた日本民族は、一年を季節に合わせた働く時期と働かない時期にわけ、働く時は手を抜かず汗水垂らして重労働し、働かない時は祭りや余暇を楽しんだ。
日本民族は祭り好きで、祭りとなれば羽目を外し、喜怒哀楽を露わにし、陽気に踊り、気持ちよく歌い、浮かれ騒いだ。
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盆踊りで最も重要な事が、毎年、地域の素人達、男も女も、老人も子供も、全員が寄り集まって俄大工となり、村の長老の指示で作業の役割分担を決め、全員参加で協力し、得意な分野の作業・作事で、年齢に関係なく経験者の指図に従って本職の建築家や土木屋が造るような立派な櫓を建てる事であった。
ただし、動けない・働けない病人、怪我人、障害者そして幼い乳幼児を抱えた女性は免除され、決して無理強いはしなかった。
情けは人のためならず、お互いさま、相身互い、助け合いという、日本民族の生き方であった。
それが、それは日本列島で生きる為に必要な事であった。
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1980年代までは、夏となれば、日本全国津々浦々、至る所で夏祭り・盆踊りが行われ、子供が喜んで踊りたくなるような○○音頭が作られた。
老若男女、だれでもが盆踊りの輪に加わって一緒に踊って楽しんだ。
日本の盆踊りは、西洋の紳士淑女の社交ダンスや中国・北朝鮮の政治的マスゲーム(集団ダンス)とは違う。
何処がどう違うかと言えば、政治、イデオロギー、宗教(神仏)、人種・民族さらには時空や生死さえも超えて、身分や地位、貧富などの人間的俗的な如何なる垣根をも消し去り、上手い下手も関係なく、その場の輪に加わって一緒に楽しみながら踊る事である。
つまり、個人ダンスや集団ダンスではなく集団踊りである。
宗教性といっても、狂信とは無縁である。
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日本民族の精神的強みは、縦の繋がりの祖先・私・子孫と横の繋がりの自分・他人も皆一緒、ここに居る者全員が一緒くたんという夏祭り・盆踊りで培われ強化され深化していた。
それが、日本の集団主義である。
つまり、日本郷土料理でいう全の具材を一つの器で煮込む鍋料理である。
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2000年代に入り、夏の風物詩・毎年の恒例行事であった地域の盆踊りが減少し始め、学校や公園で行われていた盆踊りを「騒音だ!」「うるさい!」「宗教行事で公共の場を利用している!」「風紀を乱し治安を悪化させる!」などという「個人の自由」と「宗教の自由」による反対意見で中止に追い込まれている。
真の原因は、騒々しさを嫌う活力が失せた老人が多く、活気溢れるにぎやかを好む若者が少ないという少子高齢化による人口激減である。
出生数は減る一方で、人口激減は続いていく。
老人の夢・希望は、今この時と、数ヵ月先か、長くても数年先どまりで先がない。
若者の夢・希望は、今この時と、20年先、30年先、50年先、さらには100年先でとまる所、つきる所がない。
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現代日本では、リベラル派戦後民主主義教育世代とその薫陶を受けた有能・優秀な次世代である、反天皇反日本・反宗教無神論のマルクス主義(共産主義)信奉者である高学歴な知的インテリや進歩的インテリによる、神話殺し、神殺し、仏殺しそして祖先殺しが行われている。
彼らは、日本列島から日本民族を消し去ろうとしている。
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現代日本では、各地にある宗教所縁の伝統的祭りは、観光資源として宗教性を排除した人寄せ・金儲けのイベントと化している。
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現代の日本人は、昔の日本人とは違って民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がないだけに、地・地縁としての世間・郷土・国土に対する愛着はなく、西洋及び中華の科学的合理的論理的な宗教分離の原則から、日本民族の情緒的そして現実的な血・血縁の祖先がある想いを子孫・後世に伝えるべく始めた宗教行事を無意味無価値として潰し、日本から消滅させつつある。
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日本民族の伝統的宗教文化の象徴が、神の血筋を唯一絶対の神聖不可侵の「正統」とする世襲制男系父系天皇、つまり現皇室である。
神の血筋を正統たらしめているのは、太陽の化身とされる最高神の女性神・天照大神である。
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戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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