💄11)─2─貴族の女房たちって、はっきり言えば「バリキャリ!」~No.24 

    ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2024年2月5日 YAHOO!JAPANニュース 読売新聞オンライン「貴族の女房たちって、はっきり言えば「バリキャリ!」……わかりやすい平安文学の本が続々刊行
 紫式部ら 今風に身近に
 イラスト・大野八生
 世界最古の恋愛小説の一つとも言われる「源氏物語」の作者、紫(むらさき)式(しき)部(ぶ)がヒロインのNHK大河ドラマ「光る君へ」の放送が始まった。平安時代への関心が高まる中、貴族たちの暮らしや考えが分かる王朝文学の世界をのぞいてみよう。
 平安時代は宮廷で働く女性の文学が花開いた時代。川村裕子『平安のステキな!女性作家たち』(早川圭子・絵)は、紫式部を始め5人の書き手の生涯や作品の魅力を紹介する。服も結婚の仕組みも現代と違う時代だけに難しそうだが、心配はいらない。藤原(ふじわらの)道綱(みちつなの)母(はは)を「道綱ママ」、清少納言を「せいちゃん」と呼び、男女の手紙のやり取りをLINEに例えるなど、かみ砕いて解説する。
 セレブ婚主婦作家、道綱ママの「蜻蛉(かげろう)日記」が暗いと言われるのは、玉の輿(こし)結婚でもハッピーなことばかりでないということを伝えたかったから。キャピキャピして自慢話の多いせいちゃんの「枕草子」は、強い信頼感で結ばれた主人、藤原定(てい)子(し)との大切な時間を書き残そうとした。女性たちが作品に込めたそんな思いも、丁寧に説明する。
 他にも歌の名手で恋多き女だった和泉(いずみ)式部、「更級(さらしな)日記」を残した菅原(すがわらの)孝標(たかすえの)女(むすめ)の、「源氏物語」を始めとする物語へのぞっこんぶりなど読み所は多く、平安文学への興味を広げる。
 楠木誠一郎『チーム紫式部!』(酒井以(さね)・絵)は、シングルマザーとなった紫式部が、宮廷で藤原道長の娘、彰子に仕え、道長をモデルにした「源氏物語」が広まっていく流れを空想力豊かに小説化した。朝廷で帝のそばで働く女性を意味する「女房」を「はっきりいってバリキャリ!」と記すなど、現代的な語り口で、和泉式部も「鬼編集者」として登場したりする。
 ロングセラーになっている時海(ときうみ)結(ゆ)以(い)『枕草子 清少納言のかがやいた日々』(久(く)織(おり)ちまき・絵)も、宮中に働きに出た清少納言の半生を描く物語。「春はあけぼの~」など彼女の書き残した随想や宮中の出来事を巧みに取り込んでいる。
 うれしいのは、読んでいない本がいっぱいあること。言葉を汚く使う人にはがっかりする――清少納言の随筆に残された1000年前の女性の感性が、現代人と変わらないことにも気づけるはずだ。(佐藤憲一)
・『平安のステキな!女性作家たち』岩波ジュニア新書、1089円
・『チーム紫式部!』静山社、1540円
・『枕草子 清少納言のかがやいた日々』講談社青い鳥文庫、660円
   ・   ・   ・   
 2月5日 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「紫式部が「夫の死」を契機に書き始めた『源氏物語』 道長との間にロマンスはあったのか
 源氏物語絵色紙帖 若紫 詞青蓮院尊純出典:国立博物館所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyohaku/A%E7%94%B216-50?locale=ja
 藤原道長紫式部は“権門”と“寒門”と身分は異なれど、四歳ほどの年齢差で同じ世代を生きた。道長は、光源氏のモデルとも目されているほど「貴族道」を体現した人物だ。そして光源氏を生み出した紫式部も、宮廷という小宇宙にあって「女房」世界を象徴した。彼らの接点は「貴族道」と「女房」という王朝時代に特化されるべき局面での出会いにあった。紫式部道長の娘彰子のもとに出仕したのは、寛弘二年(一〇〇五)の三十代も半ばの頃とされている。「かりに道長と式部に色恋沙汰があったとすれば、権門と寒門の化学変化の表れともいえなくもない。」と歴史学者の関幸彦氏は言う。同氏の新著『藤原道長紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、関氏の考える藤原道長紫式部の関係性について紹介する。
 【写真】透明感がすごい!紫式部演じる女優はこちら
 *  *  *
 「長保」の年号は、式部の三十代前半に重なる。越前から単身都に戻った式部は、ほどなく当時山城守に任ぜられた宣孝と結ばれる。「長徳の大疫癘」もこの時期には下火になりつつも、不安は続いた。そうしたなかで長保二年(一〇〇〇)十二月、一条天皇の皇后定子が没した。一方、その前年には道長の娘彰子が入内しており、道長の順風と式部の幸福な一時期とが重なるようでもある。ただし、宣孝との結婚は二年ほどで終わりをむかえる。文字通り、死が二人を分かつことになる。
 宣孝は再婚でもあり、式部との年齢差はそれなりにあったという。その出自は藤原北家高藤流に属した。両人は血縁的には無関係ではなく、式部の祖父雅正の妻方の流れに宣孝は属した。いわば遠い「いとこ」になる。『尊卑分脈』その他によれば、備後・周防・山城・筑前の国守を歴任、その家系も典型的な受領クラスに位置した。
 『石清水文書』には、大宰少弐時代の正暦三年九月に宣孝本人の署名が見えている。宣孝は二年前に筑前守に任ぜられていたが、その字面は必ずしも端正ではない。何とも遍と旁が整わない、アンバランスな感じだ。“字は体を現わす”の喩でいえば、器用なタイプではなさそうだ。
 彼は多くの辞典類を参ずると、賀茂祭での舞人を務めるなどの経験も豊かで、中級官人の典型でもあった。その点では和歌を詠じ、道長以下の権門とのチャンネルを有する中級貴族なりの“貴族道”の体現者だった。そんな文人にして芸術家肌の気質に、彼女は反応したのかもしれない。型にとらわれない自由な字面も、そうした気質が垣間見られそうだ。受領任官にともなう都鄙往還の経験も共通する。年長者ならではの信頼感が、彼女の“雪融け”をうながした可能性は否定できない。
 結婚後、両人には娘賢子が誕生する。式部にとって、妻として母として最良の時節が訪れた。宣孝も「宇佐使」や「平野使」の勅使を勤めるなど、多忙を極めた。権門の道長にも信頼されたようで、“使える貴族“として活躍した。けれども幸せは長くは続かなかった。所労も重なったためか、長徳三年(一〇〇一)四月、宣孝は死去する。式部三十二歳の頃だった。
■宮中への出仕─三十代後半
 夫宣孝死去の数年後、彼女は宮中へと出仕する。寛弘二年(一〇〇五)、三十六歳の頃だ。出仕する直前に内裏が焼失、一条天皇及び彰子は道長東三条殿に遷っており、式部はここに出仕した。その後、一条内裏へと皇居が移り、式部の生活もここが拠点となる。彼女が仕えた中宮彰子が一条天皇中宮として入内したのは、六年前のことだ。
 彰子は式部出仕の二年後に皇子敦成親王後一条天皇)が誕生。すでに皇后定子は没しており、彰子は天皇との間に第一皇子敦成、続いて翌年にも敦良親王後朱雀天皇)が誕生し、道長外戚の立場は盤石さを加えていた。
 ちなみに『源氏物語』の起筆は式部の出仕以前のこととされる。諸説あるなかでも、宣孝の死去後程ない時期とされている。彼女にとって、宣孝の死が筆を執る契機となったようだ。多感な彼女が多様な経験をした三十歳前半は、『源氏物語』執筆の契機も潜んでいたのかもしれない。その辺りは定かではない。実名を香子との指摘もあるが、詳細は不明だ。出仕の当初は「藤式部」を名乗った。女房名は一般的に父祖や夫の官職を付すことが慣わしとされる。「式部」はいうまでもなく、父為時の「式部丞」に因む。
越前国守就任に至る十年間は、寒門の悲哀を実感したはずで、そうしたなかにあって、和歌に長じた式部丞の官職は、為時の名誉とするところだったのだろう。出仕後、彼女もそれを通称とした。「紫」については、諸説あるものの、当時宮中でも話題とされた以下の話が一般的とされる。
 道長のブレーンの一人、公任が「あなかしこ、この辺に若紫やさぶらふ」といって、式部の局を訪れたとの話があり、それに由来するらしい。「若紫」は「源氏」の作者たる式部の別称の観もあったようで、それに因むという。他に「日本紀の御局」とも評され、中級ランクの女房ながら、好評を博していたらしい。
 式部の出仕については、道長からの要請の結果だったとしても、彼の当該期の“文”への傾斜は注目に値する。「寛弘」段階の道長の文道への執着は強く、詩歌の作詠会のみでも、二十回前後に及んだという。『文選』『白氏文集』などのへの関心も強かったことが『御堂関白記』からもうかがえる。そうした権門のサロンに、式部の父為時は中級貴族として顔もだすこともあり、それが機縁となったらしい。
 寛弘年間(一〇〇四~一〇一一)は、後宮世界で式部が彰子に仕えた期間に重なる。そして、道長もまた四十歳代の絶頂期であり、両者の間で時間の共有がなされた段階だった。式部一家にとっても、末弟の惟規が蔵人に任ぜられたり(寛弘四年)、前年には父為時が東三条第の花見の宴に列席したり、さらに式部自身についても『源氏物語』が話題となるなどの時期だった。彼女の三十代後半の頃のことだ。前述の公任が式部の局を訪れたのも、寛弘五年(一〇〇八)の、この時期のことだった。
 道長自身は女郎花を折って式部に与えたこともあった。その道長が寛弘六年の夏の夜に、式部の局の戸を叩く出来事もあった。この件に関しては『紫式部日記』によれば、以下のように記されている。中宮彰子が敦良親王懐妊中の道長の土御門殿での出来事とされる。「すきものと名にし立てれば……」(貴女は浮気者という噂が高いから誰もが口説くことでしょうね)との道長側からの式部への歌に、彼女は「人にはまだ折られぬものを……」(私はまだ誰からも口説かれたことはありません。誰が浮気者と言いふれているのでしょうか)と返歌したことが見える。そしてその夜のこと渡殿局の戸を叩く人がいて、その音を聞いたが、恐ろしいので応答せずに夜を明かした。その翌朝に道長から「夜もすがら水鶏よりけになくなくぞ……」(私は一晩中水鶏のように泣きながら、戸口を叩き続けても閉じたまま夜を明かしました)。これに対し式部は「ただならじとばかりたたく……」(ただごとではない様子の戸の叩き方に水鶏と同じくさほどの気持ちではないのに戸を開けたなら、煩わしい思いをしたことでしょう)。こんな歌の応酬があった。
 この件は想像をかきたてられはするが、真偽は不明。『尊卑分脈』には「道長の妾」との表記があり、右に見た『紫式部日記』の記事などが下敷きになった推測なのかもしれない。それとは別に想像を逞しくすれば、土御門殿での道長からの式部への「すきもの……」云々の投げかけに、浮気者ではないことを返歌で示した彼女に、その真意を確かめるための“男心”が道長の夜の訪れに繋がったのかもしれない。それが両人の関係への関心を倍加させることとなった。当時、道長は分別盛りの四十四歳、男盛りでもあることからすれば、不惑前夜の式部とのロマンスも考えられなくはない。同年の冬には敦良親王(のちの後朱雀天皇)も誕生、順風の時期でもあった。
 この時期、道長は『源氏物語』の草稿にもかなりの興味を持っていたようで、中宮彰子出産後の祝のためとされるが、清書用の『源氏物語』の草稿本が未完成のまま、道長に持ち去られるという珍事もあった。それだけ彼女は注目され始めていた。
 関幸彦
   ・   ・   ・