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大河ドラマ「光る君へ」の時代背景を読み解く! 平安時代の女性は、なぜ歴史的な文学作品をのこすことができたのか
平安時代史、女性史を専門とする服藤早苗さんによる新書『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』が刊行されました。紫式部をはじめとする平安期の女性は、なぜ歴史的な文学作品をのこすことができたのか? 栄華極まり陰謀うごめく貴族社会で、女性たちは何を考え、どのように暮らしていたのか? 歴史の表舞台には立たない女性に光を当て、彼女たちの結婚・出産・仕事・教養・老後などを通じて、平安時代のリアルを解き明かします。
本記事では刊行を記念して、内容の一部を特別公開します。
『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』より
『源氏物語』の時代
紫式部が『源氏物語』を書き始めたのは、諸説があるものの、夫藤原宣孝(のぶたか)が亡くなった年の秋あたりからだろうとされている。夫藤原宣孝が亡くなったのは、1001(長保3)年4月25日のことであった(『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』)。享年49歳ころである。二人の間の娘は2、3歳(数え年)、言葉を覚え始めたかわいい年ごろではあったが、まだ夫を亡くした紫式部の話相手になってくれる歳ではなかった。紫式部30歳前後のことである。ぽっかり穴の空いたような日々のつれづれに物語を書き始めたのではないか、とされている。ようとするものである。
この年、貴族のトップ藤原道長(みちなが)は左大臣、36歳。14歳の娘彰子(しょうし)は、2年前に一条(いちじょう)天皇に入内(じゅだい)し、翌年、中宮に冊立(さくりつ)されていた。待望の皇子敦成(あつひら)親王が誕生するのは1008(寛弘5)年のことである。さらに、敦成親王が後一条(ごいちじょう)天皇として即位するのは1016(長和5)年。道長は摂政となり、翌年自身は摂政を辞し、嫡子頼通(よりみち)を摂政にすえた。摂政・関白の地位が、父から子へ世襲的に継承されるようになるはじめである。平安京は都市として活況を呈していた。
平安時代は、桓武(かんむ)天皇が、完成して間近の長岡京(ながおかきょう)から同じ山城(やましろ)国内で都を移し、平安京とした794(延暦13)年から始まる。それから、1185(文治1)年、源頼朝(よりとも)が平氏を滅ぼし、守護や地頭を任命して、軍事・警察権を掌握した年までの、ほぼ400年の時期である。もっとも、平安京が不動の都として定まるのは、嵯峨(さが)天皇が「先帝(桓武天皇)の万代の宮と定める平安京」と宣言して以来のことである。
紫式部が『源氏物語』を書いたのは、ちょうどその真ん中ころ。10世紀ころから11世紀にかけては、摂政・関白が天皇を補佐し政治の表舞台に立つ時代である。ふつう「摂関(せっかん)時代」と呼ばれている。
この平安時代の半ばごろは、奈良時代に始まった律令政治が大きく変容した時代だった。平安時代の初期には、農民たちは、租税台帳でもある戸籍に記載された土地から逃げ出す、すなわち浮浪・逃亡などを繰り返した。さらに、戸籍には、租税負担のない女や子ども、老人がほとんどになってしまうなど、租税を逃れるさまざまな抵抗運動が激化した。そのため、10世紀の初めころには、それまでの租庸調(そようちょう)などの男性成人個人を単位とした律令的租税制度が廃止され、土地を単位とする課税方式に変更された。また、地方の政治を中央から派遣される国守に一任し、国守は各国の政治をおこない、朝廷には決められた進納物を納入するという請負(うけおい)方式にした。したがって、農民から取れるだけ取って、その中から朝廷に納める分を差し引いたものが、すべて国守の収入になった。この国守を受領(ずりょう)という。受領は、中下級貴族が任命されることが多く、妻や子ども、従者、女房など多くの人々を引き連れ実際に地方に赴任していった。このような律令制とは大きく変わった政治のあり方を、王朝国家体制と呼んでいる。
朝廷では、天皇の外戚(がいせき)、つまり、天皇の母の父や兄弟たちが摂政や関白に任命され(十世紀の初頭には一時期摂政・関白が置かれない時代があったが)、天皇を補佐して政治をする摂関政治がおこなわれていた。
紫式部の先輩にあたる歌人で『栄花物語(えいがものがたり)』の作者と考えられている赤染衛門(あかぞめえもん)、少し年上のライバルで『枕草子』を書いた清少納言(せいしょうなごん)、恋多き情熱の歌人である和泉式部(いずみしきぶ)などの女性の名前が思い起こされる時代である。近代以前では、中学校や高校の教科書にも女性名がいちばん多く登場する時代なのではないだろうか。彼女たちは、ほとんどが受領の娘たちだった。
では、なぜ彼女たちは、世界的な遺産ともいうべきすばらしい文学をのこすことができたのだろうか。また、なにに悩み、なにを考え、どのように生活していたのだろうか。本書では主として、平安京で生活した女性たちの結婚や子育て、働き、教養、老後などをさまざまな角度から眺めてみたい。
五位以上の位をもつ階層を貴族というが、紫式部は中下級貴族層の女性である。夫没後、藤原道長の娘彰子に仕え、女房(にょうぼう)になる。彰子は、一条天皇に入内して中宮となり、のちの後一条天皇と後朱雀(ごすざく)天皇を産み、父道長や弟頼通が摂政・関白になる、トップクラスの貴族女性である。いっぽう、紫式部にも雇っている女房や女童めのわらわたちがいたが、彼女たちはいわば下級貴族、あるいは平安京の上層庶民層の女性たちである。今と違って、生まれた身分や階層によって生活の様子が大きく違っていたので、このような点にも十分注意をはらいながら進めていきたい。
著者
服藤 早苗(ふくとう・さなえ)
埼玉学園大学名誉教授。1947年生まれ。専門は平安時代史、女性史。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。文学博士。主な著書に『家成立史の研究』(校倉書房)、『平安王朝の子どもたち』(吉川弘文館)、『平安王朝社会のジェンダー』(校倉書房)、『古代・中世の芸能と買売春』(明石書店)、『藤原彰子』(吉川弘文館)など。
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戦後民主主義教育による歴史教育、昭和55(1980)年のバブル経済時代以降の歴史教科書は、日本民族の歴史を歪曲し改竄し捏造したウソが多く含まれている。
その流れは今も存在し、エセ保守とリベラル左派はメディアや教育を使って子供達への洗脳を続けている。
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