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2023年10月6日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「応仁の乱」勃発のきっかけは「異常気象」だった!?
15世紀後半の大乱、「応仁の乱」はなぜ起きたのか?
じつは、その背景に15世紀の異常気象があったことをご存じだろうか。
【写真】「刀の相場は3万円?」…戦国時代の「武器のおねだん」
※本記事は川戸貴史『戦国大名の経済学』を抜粋・編集したものです。
15世紀の経済活動はほぼ農業
15世紀後半に応仁の乱のような大乱が、なぜ起こったのか。
将軍の跡継ぎ争い、室町幕府の中枢での跡目争い、などなど、当時の政治情勢、とりわけ権力者たちの思惑にその原因を求めるのが一般的だろう。それは当然、間違いではないのだが、その詳細な経緯については書籍が数多あるので、本書では違った視点から考えたい。
それは、当時の経済事情との関わりはどうだったのかということである。
当時の日本における経済活動は、ほぼ第一次産業(農林水産業)、それも米作を中心とする農業生産にきわめて偏っていた。また日常食としての食糧を輸入した形跡はほとんどなく、食糧はほぼ完全に自給だった。
ということは、当時の日本経済は、農業生産の効率性や収益に大きく左右される社会、すなわち気候に決定的な影響を受ける社会だったということだ。とすれば、長期的な気候変動も、応仁の乱のような大乱の発生にはなんらかの影響を与えたものと思われる。
近年では気候変動の自然科学的手法による分析が進化して、当時の気候が、かなり明らかになってきた。それによると、15世紀日本は、じつは深刻な寒冷期であったと推定されている。温暖な気候を好むイネには過酷な環境で、作柄は決して良くなかったということである。
また、短期的にみても、15世紀は異常気象の多い時代だった。列島各地で冷害に加えて干害が多く見られた。また逆に大雨などによる洪水も多発して、病害虫による被害も深刻化していた。その結果、多くの地域でたびたび飢饉に見舞われた。当時の人口は微増だったとされているが、むしろ微増に抑制されてしまっていた、そう考えるべきだろう。
過酷な環境に置かれた人々は、血縁のみならず地縁による共助を求めて徐々に集住を進め、自治的な共同体を形成した。すなわち「お互いに助け合う」日常生活を構築していった時代でもあったのだ。言い換えれば、命を長らえようとする民衆の知恵によって、人口規模がなんとか維持されていたと言ってもよいだろう。
日本全体の富の蓄積が停滞あるいは下落傾向に陥ったことは、政治権力の獲得にともなって得られる利権をめぐっての獲得競争(椅子取りゲーム)を激化させた可能性がある。応仁の乱も、その一つの帰結と言えるのではないだろうか。
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兵士の装備一式70万円、捕虜の身代金20万~70万円……。川戸貴史『戦国大名の経済学』は戦国時代を「お金」で読み解きます!
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