⚔5)─2・A─応仁の乱。乱取りを始めた足軽。新兵器の鉄砲「三目銃」と槍。~No.24 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本人が戦場で初めて使用した鉄砲は、戦国時代のポルトガル製火縄銃「種子島」ではなく応仁の乱の明国製石火矢「三目(さんがん)銃」であった。
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 戦場の乱取りで逃げ惑う人々を捕らえて奴隷として売り始めたのは、応仁の乱で暴れまわった足軽であった。
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 長禄・寛正の飢饉(ちょうろく・かんしょうのききん)は、長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて日本全国を襲った大飢饉のこと。『碧山日録』『大乗院寺社雑事記』に史料が豊富に残る。 
 2か月で8万2千もの餓死者。
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 「応仁の乱」 足軽の常識破りな戦法を徹底調査!
 歴史探偵
 毎週水曜[総合]後10:30
 佐藤二朗が探偵社を結成、歴史に挑む新感覚番組。
 現場調査、科学実験、シミュレーションを駆使。古代、戦国、幕末、あの大事件の真相に迫ります。
 歴史探偵「ハードボイルド!応仁の乱
 放送日
 11月10日(水) [総合] 後10:30
 出演者ほか
 【出演】佐藤二朗,【司会】渡邊佐和子
 内容
 戦国への転換点になったとも言われる応仁の乱。戦場に姿をあらわしたのが足軽だ。集団で武士に襲いかかり、放火や略奪を繰り返す悪逆非道な戦いぶり。都を恐怖のどん底に叩き落した。今回、足軽の戦法を調査。鉄砲のルーツとみられる謎の新兵器や高層ビルさながらの巨大やぐらまで登場。まったく新しい応仁の乱をCGで徹底再現した。そして、足軽の常識破りの戦いは、戦国の幕開けにつながっていく。ハードボイルドな足軽戦記!
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 2021年11月10日 YAHOO!JAPANニュース「<歴史探偵>今夜は応仁の乱 混乱の元凶「足軽」を徹底調査 鉄砲のルーツ?新兵器も登場
 11月10日放送の「歴史探偵」の一場面 (C)NHK
 11月10日午後10時半から放送されるNHKの歴史番組「歴史探偵」(総合)では、「ハードボイルド!応仁の乱」と題して、混乱の元凶となった「足軽」から応仁の乱を読み解く。
【写真特集】鉄砲のルーツ?足軽も使った謎の新兵器が登場! 京都の寺には応仁の乱の傷痕が…
 「応仁の乱」は、京都で1467(応仁元)年から11年間続き「戦国時代の始まり」ともいわれる。戦場に姿を現したのが足軽だ。集団で武士に襲いかかり、放火や略奪を繰り返す凶悪な兵たちに、京の都は恐怖につつまれた。
 番組では、足軽の戦法を調査し、応仁の乱の激闘をCGで徹底再現した。鉄砲のルーツともいえる新兵器や、高層ビルさながらの巨大やぐらが登場する。
 「歴史探偵」は、俳優の佐藤二朗さんとNHK渡邊佐和子アナウンサーが「探偵」として、歴史上の謎に挑む歴史番組。」
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 応仁の乱足軽の活躍) - 山口県文書館
 解 説
 応仁の乱(1467~77)は,有力守護大名家督争いと将軍の後継者争いが結びついて起こった内乱です。各地の有力武将が東軍と西軍とに分かれ,両軍あわせて約27万人といわれる兵力で11年間,京都を中心に東国と九州を除く全国各地で戦いました。この戦乱には,足軽という傭兵が動員されました。彼らは軽装で機動力に富み,集団で戦って,略奪・狼藉も働きました。
 写真は,周防・長門豊前筑前の四か国の守護大内政弘が西軍方として応仁の乱に参戦した際に,配下の仁保弘有という武士が報告した文書です。摂津国神崎(現在の兵庫県尼崎市)合戦における負傷者の名前や負傷の種類と数が記してあり,その中に仁保氏に雇われた「大和足軽」(大和国足軽)がいたことがわかります。彼らの内5人が全員矢疵を一か所ずつ負い,その内の2人は重症でした。なお,大内政弘が文書の右端に「一見了(いっけんおわんぬ)」という語句と花押(かおう=サイン)を書いて,報告の趣旨を認定しています。
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 骨皮 道賢(ほねかわ どうけん、? - 応仁2年3月21日(1468年4月13日))は、室町時代の傭兵、足軽大将。
 生涯
 元は目付の頭目で、侍所所司代の多賀高忠に仕え、盗賊の追捕を行っていた。
 応仁元年(1467年)の応仁の乱足軽大将として活躍、細川勝元に金品によって勧誘され、東軍に属して戦った。伏見の稲荷山(京都市伏見区)の稲荷社に拠点を置き、300人程の配下を指揮して放火や後方攪乱を担当した。翌応仁2年(1468年)、山名宗全斯波義廉朝倉孝景畠山義就大内政弘らの大軍により布陣していた稲荷社を包囲されると、女装して包囲網を脱出しようとしたが露顕し、朝倉孝景の兵に討ち取られ、首は東寺の門前に晒された。
 道賢の記録が載る禅僧の日記での名前の初見は、3月15日(4月7日)条からであり、21日(13日)までの6日間の活躍しか記述されていない。その最期を「昨日まで稲荷廻し道賢を今日骨皮と成すぞかはゆき」と歌で皮肉られた。
 なお、苗字の骨皮から皮革業を営んでいたという説もあるが、骨と皮ばかりの痩せた者という外観からきているかもしれず、どちらともいえないとされている。
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 NHK for School
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 足軽とは?「ナイス着眼点! この方たちは『足軽(あしがる)』です。足軽とは、臨時で雇われた兵士です」と角田が言いました。「でもなんでこんな危険なバイトしてんの?」と飯塚が聞くと、「応仁の乱が始まる前、大規模な干ばつが続いたそうです」と角田。「生活が苦しくて、農民がアルバイトしたんですね。で、戦いの中、隙を見て物を盗んでいた」と豊本。武将が見ているのにそんなことできるのか不思議に思う飯塚に、「足軽は臨時で雇われた兵士だったので、なかには言うことを聞かない者もいたそうです」と角田。「大名たちの戦いに加えて足軽が暴れてたら、被害は広がる一方ですよ」と豊本が言うと、再び「ナイス探究!」と角田。
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足軽(あしがる)は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。
 平安・鎌倉・室町時代
 発生は平安時代とされ、検非違使の雑用役・戦闘予備員として従軍した「下部」が足軽の原型とされる。鎌倉時代中期頃まで、騎馬武者による一騎討ちを原則としたことから、足軽は従者や運搬などの兵站や土木作業に従事させられることが多かった。
 南北朝時代に悪党の活動が活発化し下克上の風潮が流行すると、伝統的な戦闘形態は個人戦から集団戦へと変化し始め、足軽の活躍の場は土一揆国一揆にも広まった。応仁の乱では足軽集団が奇襲戦力として利用されたが、足軽は忠誠心に乏しく無秩序[独自研究?]でしばしば暴徒化し、多くの社寺、商店等が軒を連ねる京都に跋扈し暴行・略奪をほしいままにすることもあった。
 応仁の乱時、東軍の足軽(疾足)300余人が宇治神社を参詣する姿を人々が目撃したものとして、「手には長矛・強弓を持ち、頭には金色の兜や竹の皮の笠、赤毛など派手な被り物をかぶり、冬だというのに平気で肌をあらわにしていた」という。一方で、雲泉太極の『碧山日録』には、「東陣に精兵の徒300人あり、足軽と号す。甲(かぶと)を擐せず、矛をとらず、ただ一剣をもって敵軍に突入す」と記され、兵装に統一性がなかった事がわかる。『真如堂縁起』には、足軽達が真如堂を略奪している姿が描かれているが、兜をつけず、胴具は身につけているものの下半身は褌一枚の者、半裸の者など無頼の姿である。
 また、足軽を雇ったのは大名といった武家に限らず、東寺など寺社勢力も自衛のために足軽を雇った。東国では太田道灌が「足軽軍法」という名で活用するが、足軽を直属軍に編成した足軽戦法の祖とされる。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「足軽」の解説
 足軽 あしがる
 中世において出現した軽装歩兵の呼称で、戦国時代以後組織化され、近世になって武士の最下層に位置づけられた身分。中世では、疾足(しっそく/はやあし)ともよばれた。『平家物語』『太平記』などには、敵方を攪乱(かくらん)するための兵として描かれている。南北朝内乱期に活躍した野伏(のぶし)の系譜を引くともいわれる。足軽の活動が顕著となるのは、応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱(1467~1477)のころで、『樵談治要(しょうだんちよう)』では「超過したる悪党」「ひる強盗」と記され、武士・公家(くげ)階級を脅かす存在であった。足軽の戦法は「甲ヲ擐(かん)セズ戈ヲトラズ、タダ一剣ヲモツテ敵軍ニ突入ス」(『碧山日録(へきざんにちろく)』)ともいわれるが、武士と異なり逃げることを恥とせず、集団戦を得意としていた。当時、足軽は傭兵(ようへい)的性格が強く、多様な階層より構成され、京都、奈良の近郊荘園(しょうえん)村落が主要な供給源の一つであり、土一揆(つちいっき)、徳政一揆の武力とも重なるところがあったと思われる。また、京都市中では足軽の放火、略奪行為も目だち、東寺が、足軽に加わることを禁じているように、社会問題化した現象でもあった。戦国時代、戦国大名足軽の組織化を図り、郷村(ごうそん)支配の進展に伴って農兵の徴発を強化した。一方、織田信長足軽鉄砲隊に代表されるように、鉄砲の普及によって常備軍化する傾向も強く、足軽の武器別編成も生まれた。近世、足軽は武士の最下層に身分として固定され、平時には雑役をも務めた。なお、明治維新後は卒(そつ)族と呼称され、廃藩置県後には士族に編入されている。
 [小島 晃]
 『三浦周行著「戦国時代の国民議会」「土一揆」(『日本史の研究 第1輯』1922・岩波書店・所収)』▽『鈴木良一著『応仁の乱』(岩波新書)』▽『中村通夫・湯沢幸吉郎校訂『雑兵物語・他』(岩波文庫)』
 [参照項目] | 野伏
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 長禄・寛正の飢饉(ちょうろく・かんしょうのききん)は、長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて日本全国を襲った大飢饉のこと。『碧山日録』『大乗院寺社雑事記』に史料が豊富に残る。
 経緯
 長禄3年は全国的な旱魃に加えて、関東地方の享徳の乱畿内の台風などによって西日本を中心に飢饉が発生、翌年にも大雨による水害と旱魃が交互に訪れた上に虫害と疫病も加わって飢饉が全国で拡大した。さらに畠山氏の家督争い、斯波氏の長禄合戦などによって、両氏の領国では一層事態が深刻化した。
 京都では長禄3年(1459年)旧暦8月に台風が直撃し、賀茂川が氾濫して多数の家屋が流出し、数え切れないほどの死者が出たほか、飢饉がより深刻化した寛正2年(1461年)には、大量の流民が市中に流れ込み事態はより悪化した。同年正月の京都にはすでに乞食が数万人いたとされ、この年の最初の2か月で8万2千もの餓死者が出ている。だがこれだけの惨事にもかかわらず、室町幕府の将軍足利義政は花の御所の改築に夢中で世事に全く関心を示さず、見かねた後花園天皇の諫言をも無視した。こうした混乱は、6年後に発生する応仁の乱の下敷きともなった。
 時宗の願阿弥は、勧進による飢人の供養を将軍義政に願い出てその許しを得、京都六角堂の南に舎屋を設けて粟粥などを流民に施し、連日八千人規模の慈善活動を行ったという。しかし餓死者は減らず、ひと月足らず(2月6日から30日まで)でこれを撤収、次いで四条五条の橋下に、ひと穴千体あるいは二千体ともいわれる屍体を埋め、鴨川の河原に塚を築いてこれを弔った。願阿弥が施行を断念した翌月、将軍義政は五条橋(今の松原橋)橋上での施餓鬼を建仁寺に命じて、餓死者の慰霊を行わせた。また翌4月にも五山の相国寺(10日四条橋)、東福寺(11日四条橋)、万寿寺(17日五条橋)、南禅寺20日四条橋)、天龍寺(22日渡月橋)がそれぞれ施餓鬼を行っている。
 また、延暦寺支配下に置かれて浄土真宗の活動を禁じられていた本願寺では蓮如が救済活動の傍ら延暦寺からの独立を図ってその怒りを招き、いわゆる寛正の法難の原因となった。」
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