⚔46)─1・A─『塵劫記』1627(寛永4)年。江戸時代は理工系時代で、江戸時代人は数学脳であった。~No.191No.192No.193 

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 江戸時代の基礎を造ったのは、関東・江戸の土木工事に力を入れた徳川家康である。
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 江戸時代の日本は、和算(算学)で造られ、和算で動いていた。
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 世界的に数学が盛んであったのは日本、西洋、アラビアであったが、西洋とアラビアは交流が盛んであったが、日本は鎖国をしていた為に長崎を窓口として輸入した書籍から独自で学ぶしかなかった。 
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 江戸時代は、商取引・貨幣金融と土木工学が盛んな理数系社会で、世界的な天才は少なかったが、日本的な秀才は全国に江戸・京・大坂の都会だけではなく地方の田舎にも数多く住んでいた。
 何故か、戦争がない平和な時代で、治安がよく、秩序が保たれ、生計を支える職業は数多くあった為に、人々は遊び心に富み、自分が知らない古いモノや新しいモノに対する好奇心が旺盛で、それをある為の知識や技術を記した書籍が売られ、金を出せば自由に買う事ができた。
 中国や西洋の書物も、キリスト教に関係しなければ飜訳されて公開されていた。
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 算学・和算の塾では、入塾するのは自由で資格はなく、武士・庶民の身分も男性・女性の性別も関係なかった。
 和算を学んだ武士は、地位が低く家禄の少ない貧しい下級武士に多く、算盤武士としてバカにされていた。
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 江戸時代の日本人は、身分に関係なく男の子も女の子も和算を学び、和算好きな大人は知的好奇心旺盛で高度な問題に挑戦し、同時に誰も考案していない難解な問題を作って公表して和算仲間に挑戦した。
 当時の日本人は、数学嫌い、理数系や機械工学・土木工学が苦手な現代の日本人とは違っていた。
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 江戸時代の和算ブームは、日本が平和で治安が良く秩序が守られ、庶民は定職を持ち安定した収入で安心しできる生活を楽しくおくっていた証拠である。
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 武士や農民が数学で腕比べ 和算文化は江戸の華
 2013/9/11
 江戸時代、日本では数学が飛躍的に進歩し、西洋と肩を並べるほどの発展を遂げた。この日本独自の数学を「和算(わさん)」という。名和算家・関孝和の登場は、鎖国中だった日本の数学を世界最高水準に押し上げたといわれる。江戸時代初期に『塵劫記(じんこうき)』が刊行されると、空前の和算ブームが到来。日本中の元祖・理系が、熱に浮かされたように数学の問題を解いた。当時の日本人はなぜ、それほどまでに和算に熱中したのか。和算の歴史をたどり、その秘密に迫ってみよう。
 庶民も武士も熱狂、江戸時代に花開いた和算文化
 (イラスト:ヤマモトマサアキ)
 和算の歴史は、中国の数学が朝鮮半島経由で伝来した飛鳥時代にまで遡る。奈良時代に古代律令制が確立すると、数学は中央官僚の必修科目となった。室町時代に入ると、中国からそろばんが伝わり、江戸時代には本格的な和算ブームが到来する。
 「江戸時代に和算が流行した背景には、貨幣経済の発達があります。農民が1年の収穫高に占める年貢や地方税の割合を計算し、作物を売って貨幣を得る際には、計算ができなければならない。一方、幕府や藩で土木測量や台所を預かる武士にも、数学の知識が必要とされました。こうして、商人はもちろん、武士や農民の間にも和算が広まっていったのです」(和算研究所理事長・佐藤健一さん)。
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 「ピタゴラスの定理を、子どもは暗記して問題を解き、おとなは理解して問題を解く」と加藤さん。
 「おとなの算数」で脳のアンチエイジング
 (イラスト:伊野孝行)
 ここが違う 数学が苦手な人、得意な人の「考え方」
 なかでも流行の火つけ役となったのが、1627(寛永4)年に刊行された『塵劫記(じんこうき)』であった。吉田光由が執筆したこの数学書には、そろばんの使用法や測量計算法、売買代金計算法、土地の面積の求め方などが、用途別に分かりやすく説明されていた。『塵劫記』は空前のベストセラーとなり、和算ブームの発信源となっていく。
 和算が発達した3つの理由
 和算書に書かれた遺題の一部
 『塵劫記』がもたらしたインパクトは、それだけではない。1641(寛永18)年刊行の『新篇塵劫記』の巻末には、あえて答を付けない12の問題(遺題)が載せられた。吉田は世の人々に向けて、「腕に覚えのある者は、これを解いてみよ」とけしかけたのである。
 これをきっかけに、和算文化の真骨頂ともいうべき「遺題継承(いだいけいしょう)」の文化が花開いた。世の数学者は、先人の遺題を解くことで腕を競い、自分もまた新たに遺題を作って後世に託した。この遺題継承によって、和算は実用の域を超え、数学遊戯の様相を呈していく。
 この知的エンターテインメントは、在野の理系人材を発奮させ、多くの優れた数学者を世に送り出すこととなった。その頂点に立つのが、「算聖」とうたわれた関孝和である。関孝和は中国の「天元術」を改良し、筆算による代数の計算法、点竄(てんざん)術を確立した。それは、和算が、実用数学から高等数学へと次元上昇を果たしたことを意味していた。関孝和の登場によって、和算は中国の数学を凌駕し、ヨーロッパに比肩するほどの高みに達したのである。
 和算が発達した理由 『遺題継承』の流行
 遺題継承とは、答えの書かれていない問題(遺題)を和算書に載せ、後世の数学者に解答を呼びかけること。吉田光由の『新篇塵劫記』が最初とされる。各地の数学者は競って遺題に挑戦し、自らも遺題を作成して世に問うた。
 江戸時代「神社仏閣」は知的格闘技の聖地だった
 和算には、現在の数学とは異なる点も多い。その1つに「ゼロ」の扱いがある。
 「江戸時代には、ゼロは○(まる)、零(ぜろ)、空(くう)などと表記されていました。しかし、和算では演算をしないので、数式処理としてのゼロが登場することはありませんでした。現在のゼロの概念は、西洋数学の導入によってもたらされたのです」
 和算の流行は、日本ならではのユニークな数学文化も生んだ。いわゆる「算額奉納」である。
 寒川神社(神奈川県)に奉納された算額
 算額の主な形
 和算が発達した理由 『算額奉納』の普及
 江戸時代には、数学の問題や解法を記した算額を寺社に奉納する、算額奉納が流行した。元来は神仏奉謝の行為だったが、寺社は数学者や愛好家の研究発表や交流の場となり、庶民の数学レベルを向上させるのに役立った。
 有力な数学者が全国を回り、最先端の数学を広めた
 数学者や数学愛好家は、難問を解くことに成功すると、神社や寺に算額を奉納するようになった。問題が解けたことを神仏に感謝し、自分の業績を世に知らしめたのだ。時には、問題だけを書いた算額を奉納して、ライバルに挑戦状をたたきつけることもあった。数学好きは算額を見て回り、難問に挑戦しては腕を磨いた。数学をこよなく愛する江戸時代の日本人にとって、神社仏閣とは、知的格闘技の聖地でもあったのである。
 江戸後期になると、和算ブームは都市から地方へ、上層階級から庶民へと広がっていった。こうした動きに一役買ったのが、山口和などの「遊歴算家(ゆうれきさんか)」である。彼らは全国を旅して回り、行く先々で数学者と問答を行った。村に高名な数学者が訪れたと聞けば、土地の数学好きが列をなして教えを請い、臨時の数学塾が開講された。全国津々浦々を旅する遊歴算家の活躍によって、和算ブームは草の根の広がりを見せていく。
 和算が発達した理由 『遊歴算家』の登場
 江戸後期に入ると和算ブームは地方や庶民層にも波及。その牽引役となったのが遊歴算家である。彼らは全国を旅し、求めに応じて行く先々で数学を教えた。彼らの活躍により、日本の隅々まで高度な数学が広まっていった。
 「江戸時代の日本に空前の和算ブームをもたらしたのは、遺題継承、算額奉納、遊歴算家という3つの要因でした。太平の世の豊かさと、日本人の知的好奇心の強さが、世界に類を見ない和算文化をつくり上げたのです」
 関孝和の登場によってピークを迎えた和算も、明治維新とともに活力を失っていく。新政府は欧化政策の一環として、学校教育に西洋数学を採用した。こうして、和算は、時代の表舞台から静かに消えていったのである。
 この人に聞きました
 佐藤健一さん
 和算研究所理事長。1962年、東京理科大学理学部数学科卒業。明治大学中野八王子中学・高校教頭を経て、東京理科大学非常勤講師。日本数学史学会会長も務める。『和算を楽しむ』(ちくまプリマー新書)、『和算で遊ぼう!』(かんき出版)など和算に関する著書多数。
 (ライター 吉田燿子、日経おとなのOFF 市川礼子)
 [日経おとなのOFF2013年6月号の記事を基に再構成]
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 PRESIDENT 2015年8月3日号
 実は世界最高水準だった! 江戸時代の「和算」とは
 「和算」をご存じだろうか。聞いたことはあっても、よく知らないという人が大半ではないかと思う。それもそのはず。学校の教科書でもほとんど触れられず、高校の日本史で和算家の代表格、関孝和の名前が出てくる程度だからだ。
 和算とは、江戸時代から明治にかけて日本人が独自に研究、発展させた数学だ。そのレベルは極めて高度で当時、世界最高水準にあった。たとえば、関孝和の弟子である建部賢弘は、「円周率π」の計算で41桁まで弾き出すことに成功。これは天才レオンハルト・オイラー微積分学を用いて同じ公式を発見する15年も前のことだ。
 数学というと、我々は西洋から学んだものと思いがちだ。確かに明治維新で「西洋数学」を取り入れたが、それ以前に日本には和算という独自の数学があった。だからこそドイツの数学を輸入する際、いとも簡単に日本語に翻訳できたのだ。また、和算の発展があったから、数学のノーベル賞ともいわれるフィールズ賞を日本人は3人も受賞しているのだ。国別の受賞者数では、米仏ロ英に次ぐ5位で、日本はまさに世界に冠たる数学大国であり、その原点が和算なのだ。
 和算は江戸を中心に全国の各藩で盛んに研究された。私の出身地の山形は、江戸に次いで和算が盛んな藩の1つだった。紅花などで大儲けした富裕層がいて文化的なものを尊ぶ風土があり、また冬は雪に閉ざされるため家で数学の問題に打ち込むのによい環境だった。和算には関孝和の関流を筆頭にさまざまな流派があるが、山形では会田安明が「最上(さいじょう)流」をつくり、関流と20年間も優劣を競い合った。
 そこで今回は、この和算に挑戦してみよう。数ある和算書のなかでも、『算法童子問』(村井中漸著)から「大原の花売り」を紹介したい。書名の通り子ども向けの本だが、案外と難しいので侮れない。
 「京都大原の里から、毎日花を売りに来る女がいる。女の家には『桜・桃・椿・柳』の4種類の花があり、そのうち3種類を毎日均等になるように選び、売り歩く。選ぶ順番も同じだという。ある日、『桜・桃・椿』を買った。次に同じ組み合わせの花を購入できるのは何日後になるだろうか?」
 図を拡大
 どの花を家に置いてくるかを考える!
 これは「組み合わせ」の問題である。4種類の花から3種類を選ぶ方法は何通りあるかを考えるのだが、「選び出す花」を考えると複雑になるので、逆に「家に置いてくる花」に着目する。「4種類のなかから3種類を選び出す」ことと、「どれか1種類を家に置いてくる」ことは同じ意味だからだ。
 これを「余事象」といい、ある事象に対して、そうではない反対の事象を指す。この問題は余事象に注目することがポイントになる。要するに発想の転換だ。
 図の通り、花は4種類なので、家に置いてくる花の選び方も4通りだ。したがって4種類のなかから3種類を選び出す方法も同じ4通り。つまり、花の組み合わせは4日で1回りするので、答えは「4日後」ということになる。
(構成=田之上 信)
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 プレジデントFamily 2013年3月号
 算数が得意な子の脳は、どこが違うのか?
 鈴木 工  プレジデント編集部
 問題を解くとき、脳の複数の箇所が稼働
 世の中には、幼くして方程式が解けたり、微分積分を理解できたりするスーパーキッズがいるという。一方で「数字を見るだけで頭が痛くなる」というような算数嫌いの子も存在する。算数ができる子とできない子は何が違うのだろう。そもそも生まれつき脳に差があるのだろうか。MRIによる脳画像分析のスペシャリストで「脳の学校」代表の加藤俊徳氏に、その違いを聞いてみた。
 「算数ができるかできないかは、生まれつきの能力の差ではありません。訓練すれば誰でもできるようになるのです」と言う加藤氏。「うちの子は算数ができない」と嘆いている親にとっては朗報だが、ではいったいどこで差がつくのだろうか。
 「ポイントは、脳の中に問題を解く回路ができているか、そしてそれが太いかどうかです」
 加藤氏はまず、算数や数学の問題を解く際に脳の中でどんなことが起こっているかを説明してくれた。
 「算数の問題を解く際には、脳の複数の箇所を使います。脳には大きく分けて、前頭葉後頭葉頭頂葉、側頭葉がありますが、それぞれ、運動、視覚、聴覚、記憶など人間が生きていくうえでのさまざまな活動をつかさどっています。脳の中にも、いわゆる『役割』というものがあるのですが、現在の研究では、算数や数学のいろいろな問題を解くときに、脳のどの箇所を使っている、と特定はされていません」
 たとえば国語が得意なら、言語や感情をつかさどる部分、美術が得意なら視覚をつかさどる部分を主に使う、というようにある程度特定できるが、算数や数学の場合は、そうではないらしい。
 「脳の損傷研究でわかっているのは、脳のどこが壊れても、ちょっとずつ算数や数学の能力が下がるということ。つまり、算数や数学の問題を解く際には、脳の複数の部分を同時に働かせていると考えられます」
 そこで加藤氏は、2つの脳の図を描いて説明してくれた。
 「Aが、悩んでいるとき、Bが楽に解けるときの脳のイメージです。初めて問題が出されたとき、脳の中ではああでもない、こうでもないと思考がさまざまな箇所を巡って答えを導き出そうとします。これがAの脳」
 問題を解くためにはどの部分を使えばいいかまだ絞り切れていない状態です。
 「一方で、楽に解けるときの脳では、脳のどの箇所をどの順番で使えばいいかが特定されています。そのルートが出来上がっているので、Bの図のようにスムーズに思考回路がつながって、解答が出せるのです」
 なるほど。これが先ほどの「問題を解く回路」というわけだ。
 何度も解くと簡単に解ける理由
 「解けない問題が解けたとき、カチッと何かがはまったような感じがして、すっきりした経験があるでしょう。これが、回路がつながった瞬間なのです」
 一度解いた問題をもう一度解いたときに簡単に感じられたり、前より短時間で解けたりするのは、この回路が出来上がっているからなのだ。Bの脳では、脳に負担がかかっていないクールな状態。脳は無駄なエネルギーを使わなくて済むのである。一方で、Aでは脳の中で思考の試行錯誤が行われているので、かなりの興奮状態だ。
 「問題が解けなくてどうしていいかわからない、頭の中がふわ~っとなるような感じが、まさしくAの状態なのです」
 この回路を専門的に説明すると、神経細胞同士がネットワークを形成していくということ。約千億個以上の神経細胞がある脳は、細胞同士が集まって思考の中枢となっている神経細胞と、その神経をつなぐ連絡線維の2つで構成されている。脳が適切な刺激を与えられてさまざまな情報を吸収していくと、それまで未発達だった神経細胞と連絡線維は、樹木の枝が伸びるように他の細胞とつながっていく。使われることで回路は太くなり、より楽に問題を解けるようになる。
 「必要な脳の箇所同士が連携して回路が太くなると、問題を解く際に2つのいいことが起こります」
 と加藤氏。ひとつは、「応用が利く」ことだという。
 「ある問題を解く回路が確立できれば、それに類似した問題が出された際に、おおよそどこの箇所を使えばいいかが推測できます。基本の回路ができているので、そこからちょっとはずれるだけでいい。新しい問題に出合って、まったく知らない問題を解くときに試行錯誤するのとはわけが違います」
パッと問題が解けるのは集中している証拠
 もうひとつが「集中力の向上」だ。
 「回路がつながっていない頃や、つながりたての頃は、回路をつなぐパイプが細い状態。短時間で情報を運ぶことができないため、なかなか解答にたどり着けず、問題を解こうとする気持ちが散漫になりやすい。しかし回路を繰り返し使うことでパイプが太くなると、一気に多くの情報処理が可能になり、集中して問題を解くことができます」
 それではわが子もこの回路を強化していけば、スーパーキッズのようになれるのか。
 しかし、「この回路を強化するのが難しい」と加藤氏。それは、脳のある性質が関係している。
 「脳は、ある回路を通って心地よいと感じたら、もう一度同じ回路を通ろうとします。でも、嫌だと思ったら二度と同じ道を通りたがらないんです」
 問題が解けるというような成功体験は脳にとって気持ちよいものであり、もう一度同じ道を通ろうとする。しかし、同じ「解ける」でも、その子のレベルに合っていないものを無理にやらせたり、お母さんから「この問題を解けるまで遊びに行っちゃダメよ!」なんて言われながら嫌々解いた場合には、たとえ解くことができても、脳にとっては苦い印象を与えてしまうのだ。
 「誰かとご飯を食べて楽しかったら、また一緒に食べたいと思うでしょう。それと同じ法則が脳の回路にも当てはまるのです」
 脳の回路を強化するには、何度も同じルートを通ることが必要。そのルートを何度も通らせることができるかどうかが、優秀な子とそうでない子の分かれ目だというわけだ。子供が「楽しい」と思うような環境づくりをすることが、解ける回路をつくる第一歩かもしれない。
 算数や数学ができるようになる脳の仕組みがわかったところで、「回路をつくったり、強化する際にやってほしいことがある」と加藤氏。
頭の中だけで考えても答えが出ないなら……
 「それは、手を使うことです」
 答えがわからないときは、脳のどこを使えばいいか迷っている状態。その際に、頭の中だけで考えるより、指を折って数えたり、図に描いたり、式に起こしたりすることが大事だという。
 「解けないときには、思考が脳の同じ箇所だけをグルグルと回っていることもあります。そのときに手を動かせば、思考を違う箇所に動かすことができるのです」
 算数ができる子は、わかっていることをすべて書き込んだり、文章を図示化したりする。これは、脳にも刺激を与えているというわけだ。
 答えがどこで間違ったかを把握させよう
 最後に、算数で育まれる力について一言。
 「人間は生まれると『周りの人はこうしている』とまず他人を認識し、その後だんだん『自分はどうなのか』と、自分を確かめるようになります。算数で一番育まれるのは、前頭葉で発達するこの自己認識能力だと思います」
 算数には必ず答えがある。問題を間違えた場合、自分がどこで誤ったかというプロセスを計算式の中で確認できる。それを認められる子は、どんどん成長していける。
 「答えが間違ったという事実だけを意識する子は、それ以上先へ進めません」
 算数で間違いを把握する作業は、自己認識能力につながるものなのだ。
 「親は、子供が算数の問題で間違えた際に、どこでどんな間違いをしたかを子供自身が把握しているかにも気を付けたいところです。問題が解ける、解けないで一喜一憂することよりも、この問題を通して、子供の自己認識能力が成長しているんだ、と考えてみてはいかがでしょうか」
 加藤俊徳●Toshinori Kato 
 医師、医学博士。「脳の学校」代表。国立精神・神経センター、ミネソタ大学放射線科などを経て現職。これまで、1万人以上の脳画像を分析してきた。著書に『脳の強化書』(あさ出版)など。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「塵劫記」の解説
 塵劫記 じんごうき
 江戸初期の数学書吉田光由(みつよし)の著。「じんこうき」とも読む。「塵劫」は仏教のことばで、計り知れないほどの長年月であることをいう。「塵劫記」は長年月たっても変わらない真理の書という意味を込めている。1627年(寛永4)初版が出版された。これを記念して1977年(昭和52)京都・嵯峨(さが)の常寂光寺(じょうじゃっこうじ)に記念碑が建てられた。この書の初版は美濃(みの)版4巻、その内容は、大数(大きい整数)の名、小数の名から始まって、八算(はっさん)(1桁(けた)の割り算)、見一(けんいち)(2桁以上の割り算)、米の売買、金銀両替、銭売買、利息のこと、枡(ます)の法、検地、租税、川普請(ふしん)のことなど、日常に入用な計算を収録している。その翌年ごろ第5巻が出版された。大きな数の計算、数学遊戯などを載せたもので、これがのちには『塵劫記』の特徴となった。1631年に、この五巻本が整理されて美濃版三巻本となった。1634年には美濃半裁の小型本4巻が出版された。これは従来の版とはまったく異なったものである。続いて1641年には美濃半裁の小型三巻本が出版された。この版は、大きな数の計算が非常に多いのが特徴である。そして、この版には3巻末に、答えをつけない12題の問題(いわゆる遺題)を載せている。これが元になって日本の数学は飛躍的に進歩した。ついで1643年美濃版三巻本が出版された。これは従来の版を総合したもので、以後この版が『塵劫記』の定本とされるに至った。その後『塵劫記』の類版は引き続き刊行され、明治の末に至っている。
 [大矢真一]
 『新編塵劫記
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「塵劫記」の解説
 塵劫記 じんこうき
 江戸時代初期の通俗算学書。吉田光由 (1598~1672) が著わし,寛永4 (27) 年に刊行した。当時の和算書としては,著者不明の『算用記』 (10頃) と毛利重能の『割算書』 (22) に次ぐものであった。光由は,京都二条にあった毛利の家塾に学んだが,それにあきたらず,宗家の角倉素庵 (1571~1632) に教えられて『算法統宗』を習った人で,『塵劫記』は,当時としては最高の内容を平易に説明した入門書であった。光由はさらに寛永 18 (41) 年に,そろばんを利用した算法の説明などにも工夫をこらした新編『塵劫記』 (小型3巻本) を出版し,その下巻の巻末に遺題 12問を提出した (→遺題継承 ) 。『塵劫記』は実用書として歓迎され版を重ねるとともに,「…塵劫記」と称する通俗算書が,江戸時代から明治前期までに 400~500種は出版された。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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和算-江戸の数学文化 (中公選書 114)
方程式にたよらない和算的思考力をつける (BERET SCIENCE)
江戸の天才達が開花させた和算の魅力に迫る!
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 日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に石器時代縄文時代弥生時代古墳時代日本民族が住んできた。
 日本民族は、縄文人(日本土人)、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が乱婚して混血して生まれた雑種である。
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 ロバート・D・カプラン「揺るぎない事実を私たちに示してくれる地理は、世界情勢を知るうえで必要不可欠である。山脈や河川、天然資源といった地理的要素が、そこに住む人々や文化、ひいては国家の動向を左右するのだ。地理は、すべての知識の出発点である。政治経済から軍事まで、あらゆる事象を空間的に捉えることで、その本質に迫ることができる」(『地政学の逆襲』朝日新聞出版)
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
 神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
 日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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 御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
 日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
 死への恐怖。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
 日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
 生への渇望。
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 仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
 神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
 神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
   ・   ・   ・   
 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
   ・   ・   ・   
 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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