🕯125)─1─民族の文化度は個性豊かな悪魔・鬼・化け物の数でわかる。百鬼夜行。~No.268 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 怪しきものは妖しきものである。
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 八百万の神々と群れなす数多の物の怪・妖怪・化け物・鬼。
 ダメな鬼:泣き虫鬼。臆病鬼。
 悪い神様:疫病神。貧乏神。死神。
 善い妖怪:アマビエ。山童(やまわらわ)。
 仏:薬師如来
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 2021年8月号 Voice「言葉のリハビリテーション  森田真生
 『正しさ』と『精緻』
 最近、我が家の次男(もうすぐ2歳)は、河童の絵本に夢中だ。子ども向けの絵本とはいえ、大人が読んでもちょっと怖くなるような内容である。息子は『おわい(怖い)』とびくびくしながら、それでも翌日にはまた『あっぱ、たい!(河童の絵本読みたい)』とせがんでくるのである。
 子どもが、お化けや妖怪が出てくる話を好むのはなぜだろうか。生き物にとって『怖さ』は、できれば避けたい感情ではないのか。だが、子どもたちを見ていると、明らかに彼らは、怖さを求めているのだ。
 自力で見渡せる世界の外から、何ものかが侵入してくる。その不気味な気配を感知すつとき、人は(そしておそらく人以外の多くの生き物もまた)『怖い』と感じる。怖さは、未知の世界が開ける可能性と不可分なのである。だからこそ、旺盛な好奇心が芽生(めば)える幼少の時期に、子どもたちは恐ろしさを求めてくるのではないか。
 絶滅に瀕した『化け物』
 寺田寅彦の『化け物の進化』というエッセイがある。このなかで寺田は、人間がこれまで発明し創作した作品のなかでも、『化け物』は『最もすぐれた傑作』ではないかと指摘している。昔の人は、自然界の不思議で、不可解な現象を、化け物の所業として説明しようとしてきた。化け物とは、人が不思議な現象を目(ま)の当たりにしたとき、これを説明するため編(あ)み出してきた『仮説』なのである。
 子どもはこの不思議さを、不思議さとして素直に驚く心を持つ。彼らは、自分にとってまだ意味のない世界に、認識を拡げていくことに貪欲である。だからこそお化けや妖怪を恐れながらも、彼らはいつも『怖い』話を求めてくるのではないか。不思議さを、不思議だと驚く柔軟な心こそが、化け物を育(はぐく)む土壌なのかもしれない。
 現代は化け物が絶滅に瀕(ひん)している。それは、『科学というものの真価が誤解され、買いかぶられた結果』だと寺田は語る。科学的に説明されただけで、すべてを見晴らしたような気になる。自分は全貌を見渡していると思い込んでしまう。結果、化け物が住む場所はなくなっていくのだ。
 パンデミックの到来とともに、ウイルスを『正しく恐れよ』よいうかけ声を、しばしば耳にするようになった。そのたびに僕は、言葉の居心地(いごこち)の悪さ、落ち着かない気持ちになった。考えてみれば、この奇妙なかけ声もまた、『化け物』の気配をかき消そうとする必死の叫びだったのかもしれないと思う。
 そもそも、正しさと恐怖は両立し得るのだろうか。
 いま手許(てもと)にある『大辞林』を開いてみると、『正しさ』とは、『物事のあるべき姿を考え、そこに合致しているさま』であると書かれている。だが、『物事のあるべき姿』を規定する尺度そのものが揺さぶられるからこそ、人は『怖い』と感じるのではないか。正しさの基準を決定する側に、自分がもはや立ち続けられないという発見こそが、『怖れ』という感情の根っこではないのか。とすれば、『正しく恐れる』というのは語義の矛盾ではないか。怖れから目を背けようとして、恐怖にすら正しさを求めたところで、それがもたらす安心は束の間のものでしかない。
 人間の傲慢さが招いた危機
 ウイルスとは、核酸とそれを覆(おお)うタンパク質や脂質からなる生物とも無生物ともつかない微小な構造体である。ウイルスは化け物でもなければ妖怪でもない。現代の常識人ならそう考えて当然である。しかしこの粒子(りゅうし)が、凄まじい速度で変異を繰り返しながら、宿主(しゅくしゅ)である人間の社会をかきまわしている。ウイルスが分かりきった、平凡なものでしかないのだとしたら、なぜ私たちはこの粒子に、これほどまでに翻弄されているのだろうか。
 『化け物がないと思うのはあえってほんとうの迷信である』と寺田は先にエッセイで綴(つづ)っている。人間の想像力が生み出す様々な化け物たちは、日常の世界の彼方に、常識の尺度では計り知れない世界があることを告知してくれる。化け物などいないと断定することは逆に、自分に見えているものがすべてだと断じる傲慢な姿勢の現れではないのか。
 ウイルスを科学的に見ることと、化け物の気配に慄(おのの)くこととは、必ずしも矛盾しないはずだ。むしろ、化け物に『ゾッとする』ことを知らない人間には、『まずありたいした仕事はできそうにも思われない』とさえ寺田は言うのだ。
 宇宙は不可解と怪異(かいい)に満ちた場所だ。この不可解と怪異に感覚を閉ざし、自分こそは世界の全体を見晴らせるのだと、近代の人間は自力を過信してきた。その傲慢さが、みずから招いた危機にいま、私たちは苦しめられているのではないのか。
 化け物を『正しく』恐れることなどできない。化け物は怖い。しかしその怖さと正面から向き合うことは、新たな世界の可能性に目を見開くことである。自分の見えている外側にまで、世界が広がっていることを受け入れることである。 正しく恐れるのではなく、ただ怖れること。それは、自分よりも大きなものがあると認めることである。自分の弱さを受け入れることである。
 『2ひく4』の答えは?
 正しさを手放すことは、すべてを相対化することではない。全貌が見渡せない不気味な闇のなかにあっても、人は、これまでより『精緻(せいち)』な認識を求めることができる。
 『正しさ』が強い主体の語彙(ごい)だとすれば、『精緻さ(accuracy)』は弱い主体の武器だ。『正しさ』が、身動きの取れない固着(こちゃく)した状態に人間を追い込むとすれば、『精緻さ』を求める意思は動きそのものである。
 精緻な認識を求めていく動きは、しばしば既存の『正しさ』の概念を打ち砕いてきた。そもそも学問の歴史を駆動してきたのは、既存の正しさへの執着ではなく、さらなる精緻さへの希求ではなかったか。
数学の歴史から1つの例を挙げてみよう。
 かつて、『2ひく4』の答えは『0』が『正解』であった。2個のリンゴから4個のリンゴを取り除いたところで、何もなくなるだけである。『2−4=0』となるのは、ほとんど自明の真理であった。
 ところが、近代のヨーロッパで数式を表すための記号が定着していくに従い、数だけでなく、たし算やひき算などの演算についての理解が精緻に磨(みが)かれていった。『ひく』ことと『たす』ことはたがいに打ち消し合う操作ではないのか。このような観点に立って見たとき、『2−4=0』という式が、にわかに不具合を来(きた)し始めた。
 実際、『2−4=0』だとすると、『(2−4)+4=0』となる。2から4を引いたあとにまた4をたしたとい、もとの2にもどらないのだ。ひき算とたし算がたがいに打ち消し合うという関係が、ここで崩れてしまうのである。
 現在では『2−4=‐2』とするのが常識とされている。それは『数直線』というアイディアの発明によって、数が位置を表すという解釈が誕生し、これによって『2−4=‐2』という式が、十分に意味を持つようになったからである(このあたりの経緯については拙著『計算する生命』〈新潮社〉に詳しく書いた)。だが、数がものの個数を表すという解釈のもとでは、『2−4=0』という数式に、かつてと同じように意味がある。
 どちらが『正しい』かということを問うても仕方ないのだ。肝心なことは、数、演算についての理解が、歴史とともに、より精緻なものへと磨かれてきたことである。
 『正しい』から『精緻』へ
 感染症の専門家から見れば、マスクをすることは正しいことかもしれない。だが、表情を交(か)わすことができない子どもたちの心身の発達への影響を考えるとどうだろうか?大量のゴミが海に廃棄されることによる環境破壊についてはどう考えればいいか?マスクをすることによる帰結の精緻に把握していこうとすると、ただ1つの尺度で『正しい』を論じることなど不可能であることに気づく。
 私たちは科学や技術の力を借りて、一つ一つの現象と帰結について、いまだかつてなく精緻に観察できるようになった。その結果、1つの限定された尺度のもとでだけ正しさを論じようとする姿勢は、様々な場面で現実味を失い始めている。新型コロナウイルスを除去するための過剰な消毒は、同時にまた、人間のからだを守る微生物叢(そう)をも破壊していくだろう。食糧危機から人類を救うはずの農薬や化学肥料の過剰な使用もまた、海洋を汚染し、周囲の生態系を攪乱(かくらん)していくだろう。
 消毒が正しいか正しくないか。化学肥料の使用が正しいか正しくないか。正否いずれかの立場に立ち、たがいの正しさを競い合わせても道は開けない。それでもなお、消毒や化学肥料がもたらす環境への影響について、より精緻に知ろうとする努力を重ねていくことはできる。1つの正しい結論に至ることができないとしても、より精緻な現状の認識は、新たな行動の指針となるだろう。
 何が正しいかと結論を出してからでなくても、生き物は動き続けることができる。肝心なことは、正しさを掲げることにより、精緻さを求め続けることではないのか。だから、『正しい』という言葉が挫折しているのを感じるときに、私はなるべくこれを『精緻』と言い換えてみることにしている。
 『これが正しい』と主張しようとする気持ちを抑え、どうすればいまよりさらに精緻な認識ができるかと自問している。正しさから精緻へ。これもまた自分なりの『言葉のリハビリテーション』なのである。」
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 8月5日 産経新聞「暑さも忘れさせる妖怪たち 高台寺百鬼夜行
 © 産経新聞 石灯籠やほうきなどが妖怪に姿を変えて徘徊する様子が描かれた「高台寺百鬼夜行絵巻」=京都市東山区
 人間が寝静まった夜に妖怪が動き回る「百鬼夜行(ひゃっきやこう)」。そんな様子を描いた絵巻や襖絵を集めた特別展が、京都市東山区高台寺で開催されている。境内各所には一つ目小僧などが描かれた提灯(ちょうちん)が置かれ、18日までは夜間拝観も実施。化野(あだしの)や蓮台野(れんだいの)とともに「京都三大風葬地」と呼ばれ、古くから「冥土への入り口」と考えられていた鳥辺(とりべ)野(の)の近くの寺で、妖怪たちとともに暑さも忘れるほどの体験はいかがだろうか。
 百鬼夜行展は、高台寺開創400年を記念して平成18年から毎年夏に開催。寺所蔵の約10点が方丈や掌(しょう)美術館に展示されている。
 数十体もの恐ろしい姿の妖怪が徘徊(はいかい)する様子が不気味に描かれているのは、全長4メートルの絵巻「百鬼夜行図」。大和絵集団として南北朝時代から活躍した土佐派の土佐経隆による江戸前期の作品とされる。
 「高台寺百鬼夜行絵巻」は、開創400年を記念してして制作された。高台寺にある石灯籠やほうきなどが妖怪に姿を変えて徘徊する様子が、コミカルに描かれている。
 また、赤く染まった夜に、色鮮やかな着物をまとった女性たちが浮かび上がる提灯や火の玉とともに行進する姿を描いた襖絵「妖女赤夜(ようじょあかよる)行進図」(12面)は、妖艶さが漂っており、訪れた人たちはこの時期ならではの作品を堪能していた。
 左京区に住むパートの佐藤香澄さん(63)は「昼はきれいな絵だけれど、夜になったら百鬼夜行になって歩き出しそう」と話していた。
 31日までで午前9時~午後6時半(18日までは午後10時まで)。拝観料が必要。問い合わせは高台寺(075・561・9966)。(鈴木文也、写真も)」
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怪異考/化物の進化 - 寺田寅彦随筆選集 (中公文庫)
日本妖怪考──百鬼夜行から水木しげるまで
図説 百鬼夜行絵巻をよむ (ふくろうの本/日本の文化)
図解大事典 日本の妖怪
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 日本民族が生み出した古典的伝統的な物の怪・妖怪・化け物・鬼は、縄文人の自然観・宗教観・死生観から生み出され、正統男系父系天皇の血の神話が命を与え存在を許してきた。
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 日本における物の怪・妖怪・化け物・鬼とは、偏見と差別の対象であった、血と死を生業としてもなお生きている生命力や活力が旺盛な異能者・異形者・異常者・まれびと(海を渡って来た異邦人=外国人)である賤民・部落民・芸能の民の事である。
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 日本伝統文化は、目に見えない化け物・物の怪・妖怪・鬼に、おどろおどろしい名前と姿を与え、忌まわしい神話・物語・縁起・出自を創り、怖ろしい民話・昔話・言い伝え・伝承として国土を広く浅く覆い、逃げ出したいほどの漆黒の闇・暗黒世界を日本国と日本民族の足元に置いた。
 それは、祖先からの呪いである。
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 日本民族と目に見えない化け物・物の怪・妖怪・鬼とは相互補完共生であった。
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 世界の悪魔・死霊・ゾンビ・モンスターと日本の鬼・化け物・妖怪・亡霊とは違う。
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 目に見えない化け物・物の怪・妖怪・鬼は、民族祖先からの長期的願望と全般意志であり、伝統文化の多角的な多種・多様・多元、つまり社会を複雑怪奇し、格差を縮小させる存在であった。 現代日本が求める科学万能社会とは、民族が受け継いできたあやふや・曖昧を消滅させ、短期的願望と一般意志による社会の縮退、つまり一様・一元・画一で単一明快にし格差を拡大かさせる事である。
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 目に見えない化け物・物の怪・妖怪・鬼は狭間に蠢いている、神域と俗世の狭間、生と死の狭間、光と影の狭間、明と暗との狭間、内と外の狭間など多くの狭間に潜んでいる。
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 世界の常識は日本では通用せず、日本の常識は世界の非常識である。
 世界の常識とは、キリスト教儒教マルクス主義共産主義)である。
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 非科学的非現実的非論理的な有象無象の化け物・物の怪・妖怪・鬼など得体の知れない何ものかを意識して怖れる「心の弱さ」があったからこそ、明治の近代化で、日本民族の古典的伝統的な「多様性」が西洋近代の科学・物・知識を見える化し定着させる為に近代用語としての和製漢字を生み出した。
 つまり、日本文化の「換骨奪胎」や「変換力」は見えない化け物・物の怪・妖怪・鬼が日本民族に与えている。
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 近世の欧州と日本の江戸で、高度な数学が生まれ発達し近代への胎動となった。
 世界文明は、高レベルの数学・算数が発達する社会で生まれる。
 数学・算数は、現象ー解明の方程式・数式・演算ー結果の流動であり、定着・固定をもたらす結果は新たな別の現象を生みだして止まる事がない。
 日本の近代化は、子供でも理解できる日本独自の高度な和算で成功し、そこには目に見えない化け物・物の怪・妖怪・鬼が潜み関わっていた。
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 日本民族の死後信仰とは、神の天国・仏の極楽信仰ではなく、閻魔・鬼の地獄信仰であった。
 江戸時代は、ブラック社会であったが、人々は陽気で、よく笑い、よく泣き、そして喧嘩していた。
 喧嘩と火事は江戸の華であった。
 江戸時代の人々は、死と隣り合わせに生活し、死と共に生きていた。
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 日本全国の、温泉地・観光地には地獄巡りという名所があり、仏教寺院には地獄絵図が飾ってあった。
 庶民は、各地に地獄の閻魔大王や鬼を祀る閻魔堂が建てて信仰していた。
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 ゆるキャラは、神話・物語・寓話・縁起など語る所は何もなく、単なる人寄せ金儲け目的で一時持て囃されるだけのマスコットであるあゆえに、次世代、後世に残る事はない。
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 日本民族は、平安時代までは死後の世界を持っていなかったが、日本仏教で地獄と極楽という死後の世界を手に入れたが、日本民族の関心は極楽ではなく地獄で、世にも怖ろしい地獄を想像する事で文化度を高め、精神力を強靭にし、智慧を身につけ、才能・能力を開花させた。
 日本民族は、生きる勇気を、如何なる苦痛もなく救いのある幸せな天国・神の国ではなく、死後に落ちるであろうおどろおどろしく苦痛に満ちた救いのない地獄から得ていた。
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 現代日本は、反宗教無神論の科学至上主義者(マルクス主義者)によって、無味無臭、無色透明で、微生物・細菌・ウイルスなどの病原体生物や命と健康を脅かす有害物質が完全濾過され、同時に栄養価のない不自然社会に改造されつつある。
 言い方を換えれば、無菌室・純粋培養の社会である。
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 現代に日本と昔の日本は、見た目は同じ日本だが中身は全然違う日本である。
 よって、昔の日本の好例で現代の日本を語っても説明しても意味がない。
 現代日本には3つの毒が蔓延している。
 3つの毒とは、日本の近代化と共に取り込まれた儒教原理主義朱子学キリスト教原理主義、敗戦後に浸透したマルクス主義原理主義共産主義である。
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 日本民族は恐がりの臆病で、その精神的弱さは日本人女性より日本人男性により強い。
 そして、日本人女性は、日本人男性よりも度胸があり頭が良く我慢強く働き者で、日本人男性との口喧嘩で言い負かしていた。
 日本のアニメや漫画で、男の子はスポーツやロボットなど肉体的な体育会系根性物を好み、女の子は恋愛とホラーなど智能的な文化系心理物を好む。
 学校の成績でも、平均すれば日本人男性より日本人女性の方が優秀である。
 遊園地の絶叫マシンであるジェットコースターや恐怖の館であるお化け屋敷を好んで行きたがるのは、女の子であって男の子ではない。
 そして、長生きするのは女性であって男性ではない。
 日本人男性に日本人女性に対する性差別の大本はここにある。
 つまり、日本人男性は口先だけで実際は日本人女性よりも劣っている、という事である。
 日本人男性は、日本人女性の賢い内助の功を得れば偉業を達成できるが、なければ失敗して惨めに終わる。
 日本人男性は、見えない物を怖れるが、その見えない物に憧れ、見えない物が欲しくなり現実に表す事に夢中になる、想像と創作を駆使する夢追い人である。
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 日本民族は、血と死を穢れとして怖れ、血と死を生業として生きている人々を異能力者・異常者として嫌い、彼らを差別で賤民・部落民と偏見で見下し不快で誰も住まない最悪な生活環境地域へと追いやった。
 故に、日本の賤民・部落民は、西洋や中華(中国・朝鮮)など世界で差別され搾取され虐げられた哀れな人民・下層民・奴隷とは違って、人差別でも身分差別でもなく職業差別であった。
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 日本民族の死と直結した地獄を意識した生き方は、明治の近代化まで日本を暗く陰湿・陰険に完全支配し、1980年頃には生を絶対とする天国意識が強くなってはほぼ消えた。
 新しい日本人の実情が明らかになったのが、2020年の新型コロナウイルス蔓延である。
 日本の伝統的な物の怪・妖怪・化け物・鬼を神や仏同様に殺しているのは、反天皇反日本と反宗教無神論で科学万能主義のマルクス主義共産主義である。
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 以前、阿蘇山噴火で某女優が「火の神様、お鎮まり下さい」とSNSに書き込んだら、「噴火は自然科学で宗教ではない」との激しい非難を浴び謝罪をさせられた。
 これは、某女優が正しく、科学を持ち出して批判する者が間違っている。
 これは、日本人の劣化、退化である。
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 世界に通用する現代教育を子供たちに押し付ける親や教育者、政治家・官僚は、子供達の将来への夢や希望を否定し今この時の好奇心や感受性を潰し、言われた事だけを素直に聞いて言われたままに行動する便利な量産型の良い子を作ろうとしている。
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