- 作者:宮地 正人
- 発売日: 2015/03/10
- メディア: 単行本
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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
明治天皇の勅書「五箇条の御誓文」は、天地の神々への宗教的誓約であり、国内的には国民に新しく築く近代国家の政治理念であり、国外的には諸外国に日本が目指す民主主義的国家像を明らかにした。
日本民族国家日本は、天皇・皇室と生死を共にして歩む覚悟を世界に表明した。
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日本民族が、天皇と一心同体・不可分の関係にある以上、天皇の戦争責任や戦争犯罪を問う事は絶対にありえない。
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五箇条の御誓文は、慶応4年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇が天地神明に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針である。正式名称は御誓文であり、以下においては御誓文と表記する。
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ[編集]
(現代表記)広く会議を興し、万機公論に決すべし。
(由利案第五条)万機公論に決し私に論ずるなかれ
(福岡案第一条)列侯会議を興し万機公論に決すべし
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フべシ[編集]
(現代表記)上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
(由利案第二条)士民心を一にし盛に経綸を行ふを要す
(福岡案第三条)上下心を一にし盛に経綸を行ふべし
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス[編集]
(現代表記)官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
(由利案第一条)庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す
(福岡案第二条)官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしむるを要す
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ[編集]
(現代表記)旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
(木戸当初案)旧来の陋習を破り宇内の通義に従ふへし
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ[編集]
(現代表記)智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
(由利案第三条)智識を世界に求め広く皇基を振起すへし
(福岡案第四条)智識を世界に求め大に皇基を振起すべし
勅語
勅語と奉答書(太政官日誌掲載)
(現代表記)我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの旨趣に基き協心努力せよ。年号月日 御諱
(意味)我が国は未曾有の変革を為そうとし、わたくし(天皇)が自ら臣民に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てようとする。臣民もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。
奉答書[編集]
(現代表記)勅意宏遠、誠に以て感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出べからず。臣等謹んで叡旨を奉戴し死を誓い、黽勉従事、冀くは以て宸襟を安じ奉らん。慶応四年戊辰三月 総裁名印 公卿諸侯各名印
(意味)天皇のご意志は遠大であり、誠に感銘に堪えません。今日の急務と永世の基礎は、これに他なりません。我ら臣下は謹んで天皇の御意向を承り、死を誓い、勤勉に従事し、願わくは天皇を御安心させ申し上げます。
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明治維新、開国・近代化・文明開化がもたらした失望と落胆そして怒りと絶望。
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尊皇攘夷思想における二大流派は、神道系本居・平田の国学と儒教系藤田東湖の水戸学であった。
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明治維新の発端は、北方領土・蝦夷地がロシアに侵略される危機感から始まった。
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日本人は、歴史的事実の歴史小説より架空の時代劇や時代小説が好きである。
「日本人は歴史が好きである」は嘘である。
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明治時代とは、儒教が国学・日本神道を表舞台から排除した、官主民従・上意下達の官吏支配体制社会である。
その証拠が、国民に対する教育勅語と軍隊に対する軍人勅諭である。
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武士・侍はもちろん庶民(百姓・町人)の大半は、開国による文明開化を望んでいなかった。
ロシアなどの侵略から母国・日本を守る為の手段である、近代教育も殖産興業も富国強兵さえも必要としなかった。
自分の生活が維持できるのなら、外国軍隊に占領され植民地化され、外国人に支配され奴隷となっても気にはしなかった。
武士・侍はもちろん庶民(百姓・町人)の大半は、近代化などには関心もなければ興味もなかった。
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明治以降の日本は、柔軟な日本儒教社会から硬直した中華儒教社会に変貌した。
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多種・多様・多元が濃いのは、三元論・二項割合・二項比率・二項並立を内包する相対的価値観の日本神道・日本国学・日本儒教である。
中華儒教は、キリスト教やマルクス主義同様に二元論・二項対立の絶対的価値観で成り立っている。
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日本の伝統的精神風土では、大陸とは違って宗教や思想・主義による狂信的偏狂的排他的原理主義は生まれない。
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明治期の薩長史観・官軍朝敵史観が、江戸時代を歪めた。
大正期の勧善懲悪に基づく大衆時代小説が、江戸時代を暗く描いた。
日本の勧善懲悪は、男尊女卑同様に中華儒教の絶対的価値観に基づく。
昭和戦後の西洋がもたらした東京裁判史観、キリスト教史観、マルクス主義(共産主義史観)が、江戸時代をキリシタン弾圧及び人民への差別・搾取・弾圧の暗黒時代とした。
1980年代頃の近隣諸国条項に基づく中華(中国・韓国・北朝鮮)から見た日本人極悪非道な重犯罪人史観が、中世の江戸時代や近代の明治時代の印象をさらに悪くした。
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現代日本は、幕末・明治維新時代に似ている。
現代日本人、特に高学歴出身知的エリートは、当時の武士・侍はおろか庶民(百姓・町人)とにてもいない、それどころか比べものにならないほどに退化し劣化している。
故に、現代日本人が、幕末・明治維新時代を駆け抜けた武士・侍や庶民(百姓・町人)に憧れても、足下にも及ばない。
外国語を話し国際知識が豊富な現代日本人が幕末・明治維新に行っても役に立たず、外国に侵略され、日本国は滅亡し、天皇制度は廃絶され、日本人は奴隷にされていた。
それほど、現代日本人は退化し劣化している。
それは、敵が強大で勝てないかもしれない事を自覚しも、天皇と国と民族そして故郷と家族を守るべく、死を覚悟して武器を取り戦うかどうかである。
「死」というリスクを取る勇気があるかどうかである。
残念ながら、現代日本人には「リスクを取る」勇気がない。
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2018年4月号 中央公論「誤解だらけの明治維新
藤村『夜明け前』にみる近代人の理念と情念 猪木武徳
Ⅰ 御一新から明治維新へ
明治維新は封建的な諸規制が廃止される根本的な政治改革であった。士農工商の身分は華族・士族・平民という族籍区分に取って代わった。関所は廃止され、移転・職業の自由も保障された。版(土地)籍(人民)は藩主の所有から天皇へと返上され、続く廃藩置県の断行によって領主の人民支配権は失われた。株仲間解散、米・麦の輸出禁止も解除、営業も自由となった。原則、経済活動における契約の自由が保障され、人身売買は禁止、雇用関係も『身分』ではなく『契約』関係へと移行した。
しかし、封建制国家から近代国家への転換が激しい混乱もなく実現した明治維新には、西洋史学における権力の移行原理がそのまま当てはまらないような固有の特徴があった。したがって、『証拠より論』や『理論に合わない現実は切り捨てる』という類の歴史解釈は、理解の妨げになる。
黒船で日本に開国を迫った人たちが、この国の主権の所在が幕府なのか天皇なのかの判断に苦しみ、英仏の公使が激論を交わしたことはよく知られている。貴族とブルジョワという西洋史学の概念上の区別もそのままの形で適用できない。政権交代を推進した主体が西南雄藩の下級武士であり、岩倉具視や三条実美らの公卿も相当な政治力を発揮している。彼らが維新後も政権の座に残ったこともこの権力移行の特徴である。一方、農民が維新後も『代表なくして課税』され、相当の地租を負担し続けた点も、西欧の『ブルジョワ革命』とは異なる点である。
明治新政府の成立という政治体制の大変化は、当初世間では、慶応3(1967)年12月に発せられた『王政復古の大令』の中にある『御一新』という言葉で、一切が新しくなるという期待を込めて語られた。他方、『維新』という言葉が広く流通するようになったのは、明治初年も過ぎ『王政復古』が『御一新』と呼ばれるような大変化をもたらすものではないという認識が社会に広がってからだろう。本稿で取り上げる島崎藤村の大作『夜明け前』に仔細に描かれている『復古の精神』の衰退が明らかになるのも、明治初年以降、文明開化が広く人々の精神に浸透してからのことなのである。
明治維新がレジームとしての『封建制』の崩壊である限り、そこに断絶を見て取るのは当然であるものの、実は断絶は制度という表層の変化であり、その内実にはかなりの程度の連続性が認められるという点は無視できない。また、封建制自体が近代を準備していたという認識も重要であろう。言い換えれば、封建制がなければブルジョワジーの勃興はなく、近代経済社会の成立はさらなる困難を強いられたという推量も軽視できない。
経済面でも連続性は十分に読み取れる。実際、日本経済史では、封建制の崩壊前の1820年代に農村工業の生産が拡大し、経済の持続的成長が始まっていることが指摘されている。農業技術にも進歩が見られ、養蚕(ようさん)の改良も進んだ。
それとは対照的に、幕府と諸藩の政治権力と財政力が著しく衰弱するという内的な変化が生まれていた。国内治安の悪化、国防力の脆弱さが誰の目にも明らかになったのである。
こうした近代経済成長の胎動と国家の統治力の弱まりに、決定的な衝動を与えたのが、黒船に象徴される外国からの開港への圧力だった。
Ⅱ 想像の素材としての『夜明け前』
さまざまな矛盾を孕み、文字通り錯綜をきわめた維新前後の政治と社会の変化をいくつの側面から推論するために、『夜明け前』を素材としながら、木曽路・馬籠宿の本陣、問屋、庄屋を務めた主人公青山半蔵と脇役たちの思想や行動を考えてみたい。それは近代化の過程における思想と行動の関係を問うことであり、思想を推し量ることでもある。
『夜明け前』では、黒船来航(1853)によって攘夷思想が強まる中、安政の大獄(1858〜59)、生麦事件(1862)、天狗党争乱(1864)、将軍徳川慶喜による大政奉還(1867)、相楽総三の赤報隊事件(1868)などを経て、『御一新』から文明開化に至るまでの青山半蔵の失意の生涯が良質の資料を用いて仔細に語られている。
本居宣長や平田篤胤の国学に心酔する半蔵は、『上つ代(かみつよ)』に帰ることを自然(おのずから)に帰ることであり、新しい古(いにしえ)を発見することだと夢想する。だがその期待も裏切られ、山林を住民に開放するための抗議運動に決死の覚悟で身を投じるものの、当局から戸長の職を解任されて挫折。学んだ国学を生かそうと決意して東京で平田派神道の影響下にある教部省の御雇になる。しかし、日本社会が政府の急激な洋化政策によって変貌する中、教部省も『祭政一致』から『政教分離』へと宗教政策を転換する。国学にも次第に冷ややかになってゆく教部省を半年で辞職。天皇御通輦(ごつうれん)を目の当たりにして、憂国の和歌を書き留めた扇子を馬車に投げつけるという行為に及び、故郷馬籠に連れ戻される。
世を恨みつつ馬籠に戻った半蔵は、尾州藩出身の文部官僚・田中不二麿の斡旋で飛騨水無(みなし)神社の宮司の職に就く。ただ飛騨高山は寺院の多いところで、神仏混淆の旧習は容易に脱けがたく、神社はまだ事実に於いて仏教の付属物のような有り様で、少し前までは神官と婚姻を結ぶなら地獄に墜ちるなどと言われるような土地柄であった。その飛騨での宮司職も長く続かず再び帰郷。精神を病み、幻覚を見、先祖代々守りたててきた菩提寺の万福寺の本堂正面の障子に火を放ち、遂に座敷牢に監禁され、悲運の最期を遂げるのである。
半蔵は、幾世紀もかけて積み上げてきた自国にあるものすべてが『価値なき物』とされるような時代を受け入れることができない。糊口の道を失った琴の師匠は大道で琴を弾き、一流の家元と言われた能役者が都落ちして旅芸人の中に交じるという時代だ。この国にすぐれたものがあることを外国人から教えられるような有り様なのだ(第二部第14章2)。
主人公青山半蔵は藤村の実父・島崎重𥶡(維新後、正樹に改名)がモデルとなっている。いや単にモデルというよりも、村民のために働く庄屋として、街道の公的交通運輸事業に携わる本陣、問屋としての島崎正樹の伝記そのみのだ。しかし通常の伝記にとどまるものではない。半蔵の生涯、彼が生きた幕末から明治初年の歴史、さらに信濃・美濃の国境、恵那山一帯の自然を巧みに重ね合わせて描き切った『歴史文学』なのだ。人間と自然、そして経済が織りなす街道筋の人々の綿密な記述には、単なる歴史小説を超えた迫力がある。文芸評論家・篠田一士が指摘したように、同書の中では『自然』がその霊性を暗示しており(『20世紀の10大小説』)、主人公の中心的な思想と考えられる本居宣長・平田篤胤の国学の『自然(おのずから)』の思想がこの文学の底流をなしている。
もう一つの特質は、江戸や京都・大坂、あるいは西南雄藩を舞台に据(す)えるのではなく、あくまでも信濃・美濃の国境の自然の中の宿場、馬籠を中心に話が展開している点であろう。街道筋の本陣、庄屋、問屋に届く、江戸や京都からの政治情報を読み取るという手法が記述の中心となっている。作中、藤村がいみじくも語っているように、
『交通の持ち来(きた)す変革は水のように、あらゆる変革の中の最も弱く柔らかなもので、しかももっとも根深く強いものと感ぜらるることだ。その力は貴賤貧富を貫く。人間社会の盛衰を左右する。歴史を織り、地図をも変える。そこには勢い一切のものの交換ということが起きる』(第二部第12章五)。
東海道、中山道は参勤交代の主要ルートであった。日本国全体の政治の動きを知る上でも街道筋は格好の情報の結節点である。江戸末期には、和宮内親王の降嫁(1861)や将軍家茂の三度の上洛(1863、64、65)など、京都と江戸の間の公的な『御通行』が頻繁になっていた。諸大名、幕府役人、公家たちも往来する。3,000人を率いたと言われる家茂の最初の上洛は、三代将軍家光が寛永11(1634)年に『入朝の儀式』を行って以来、実に230年ぶりのことであった。皇室に対する過去の非礼を陳謝し、公武合体に意を致すため、そして一切の政務を従来通り幕府に委任するとの沙汰を拝することが目的であった。
こうした『御通行』は宿場、本陣はもとより、後に触れる『助郷(すけごう)制度』による役務の挑発で、周辺農民にも過重な経済的負担を強いることになる。一方、文久2(1862)年に参勤交代制度が緩和されると幕府の統制力はさらに弱まり、長州藩の攘夷派志士たちの京都入りが目立つようになる。政治の重心は確実に江戸から朝廷のある京都へとシフトするのだ。
Ⅲ 経済描写の入念さと確かさ
本格的な歴史小説の面白さは人物造形の新しさにとどまるものではない。資料そのもののもつ迫力にも依存する。『夜明け前』の第一部は、主に、脇本陣、年寄役(酒造業、金融業の『大黒屋』大脇兵右衛門信興)が死の直前の明治3(1870)年 まで40年以上にわたって書き続けた『大黒屋日記』(年内諸事日記帳)を用いながら、幕末期の人々の経済生活と日本の社会状況を再現している。細部にわたる具体的な描写からいくつもの興味深い歴史的事実に出会うことができる。もちろん北大路健、鈴木昭一らの綿密な研究が示すように、こうした資料をベースにしつつ、巧みな修正を加えながらドラマ性を強める工夫がなされていることは言うまでもない。
随所で、平田派門人の動静、天狗党や赤報隊の悲劇、江戸末期の幕府・諸藩の財政破綻とインフレーション、そして何よりも農民たちの生活と公役負担の実情などが、どの歴史書よりも具体的に生々しく記述されている。現代を多少とも意識しながら、この『歴史文学』のいくつかの経済的背景を整理しておこう。
①人口増加地域と平田国学
人口は経済と国力の基本である。江戸後期の日本社会の経済状況を知るためには、人口動態に関する一つの重要な事実に注目する必要がある。関山直太郎氏の研究によると、江戸時代の日本は、1720年頃までの人口の増加率は高かったが、それ以後、幕末維新期までの125年間(享保6年から弘化3年まで)は、総人口3,100万人前後のままの『人口停滞社会』であったことがわかる。日本の人口が急速に増加し始めるのは明治維新以降なのだ。
関山がすでに指摘したことであるが、総人口の停滞はあったが、人口の増減には大きな地域差が存在した。近畿・関東・東北の三地方は大きな減少を見ているのに対し、山陰・山陽・四国・九州では増加が著しい。京・大坂はもちろん、江戸(武士50万人、商工業者50万人の世界有数の大都市)では文化も爛熟し、自然増加力が減耗したことは推測がつく。実際、関山は『無籍のための調査洩れとなる者の数の増加』を認めつつ、当時の文献に依り『独身者増加 晩婚 出生児の減少』(現代の日本!)をその原因の一つとして指摘している。
凶作・天災・飢饉、間引きや堕胎が広く行われた東北をはじめ、目立った人口減少を見た藩は東日本に多かった。逆に西日本、特に薩摩、周防(すおう)、土佐など、維新期に多くの志士が輩出した西南雄藩は著しい人口増を見ている。その因果関係を同定することは難しいが、教育や軍事技術の導入に熱心であった諸藩が、東日本に比べて経済的に豊かであったことは十分考えられる。
現代のような高度の生産技術を誇る産業社会では、人口の増減と経済成長が直接結びつくわけではない。しかし農業人口が全人口の9割近くを占めていた近世社会においては、マルサスの論を俟(ま)つまでもなく、人口と経済力(すなわち食糧)の関係はかなり直接的であった。現代では子供を持つことは教育のコスト面でも大きな負担がかかるため、出生数はマルサスの法則と異なり、経済成長とは逆方向の抑制力が働く。しかし江戸後期の東日本に関しては、人口停滞を経済的な停滞と結びつけることは十分可能であろう。
『夜明け前』では、江戸後期に人口増を経験したこうした地方に、平田派の国学が武士階級にもかなり浸透していたことが指摘されている。平田の門人は医者、本陣、問屋から、さもなければ百姓・町人などの『縁の下の力持ち』の社会層であって、士分は少ないと指摘しつつ、それでもいくつかの藩の武士の中に門人はいたという。この点について、半蔵の同志である勤皇の志士・暮田正香は次のように語っている。
『見給え、こないだわたしは鉄胤先生のところで、天保時代の古い門人帳を見せて貰ったが、あの自分の篤胤直門(じきもん)は549人ぐらいで、その中で73人が士分のものさ。全国で17藩ぐらいから、そういう人達を出してるよ。最も多い藩が14人、最も少ない藩が1人という風にね。鹿児島、津和野、高知、名古屋(後略)』(第二部第2章5)
西南雄藩の下級武士の改革へのエネルギーは、経済が相対的に豊かであったために生まれたという面、そして平田派国学の尊王思想の浸透によるという面の双方があったのだろうか。前者はいわゆる『下部構造』からの説明、後者は『上部構造』による説明ということになろう。こうした問いは実証できる性質のものではないが、一考に値する。
②衰弱する幕府権力と藩の経済
幕府と藩の財政はどれほど危機に瀕していたのか。治安、国防といった国家権力の基盤は、詰まるところ財政力とその前提となる徴税力にある。その点で幕府も諸藩も著しい窮乏状態に陥っていた。
国内の治安の悪化は、皇女和宮御通行の通路の選択にも表れている。本来なら東海道経由であってしかるべきところ、中山道が選ばれた。東海道筋は御通行を妨害しようとする志士浪人が少なくなく、すこぶる物騒だとの理由から変更されたという。また『諸国に頻発する暴動沙汰が幕府を驚かしてか、宿村の取締りも厳重を極めるようになった』。街道筋の村民は『強盗や乱暴者の横行を防ぐために各自自衛の道を講』じなければならないほどである(第一部第9章1)。
黒船への警戒態勢をはじめ、外国の脅威も等閑(なおざり)にできなかった。幕府は開港場の整備や砲台の建設、陸軍の創設、軍艦・商船の購入などの多額な出費を余儀なくされ、二度にわたる長州征伐の戦費も大きな負担となっていた。一方、収入のほうは、海防警備の費用負担に喘ぐ諸藩からの上納金を当てにすることもできないため、旧貨を回収して品位の劣る新貨に改鋳してその差益を収入とする弥縫策(びほうさく)に終始せざるを得なかった。さらに江戸や大坂の豪商に御用金を賦課するという始末である。大口勇次觔の研究によると、改鋳益金の幕府財政収入に占める割合は文久3(1863)年には68%に至っている。
幕府は生麦事件などの賠償金44万ドルを英国に、薩摩藩も英公使に10万ドルを交付している。翌文久4年には再び将軍家茂が上洛する。この経費も大きい。二度の長州征伐(1864、1866)も、結局多額(437万両)の臨時支出を必要とした。慶応年間には農工商への御用金の賦課に一層頼らざるをえなくなったのである。
こうした財政の窮乏と通貨改鋳が開国以後のインフレーションを招いたことは言うまでもない。1860年代初頭、60年代中葉、そして維新直後の69年の3度のインフレは貨幣改悪によるところが大きい。諸藩は諸藩で藩札を乱発し、商人からの『借り入れ』を繰り返し、武士への信用を著しく傷つけていく。
実際、幕府や藩への献金者は豪商にとどまらなかった。『夜明け前』でも、半蔵は木曽福山の地方(じかた)御役所から長州征伐のための『献金』の件で呼び出しを受け、結局、木曽谷全体で都合614両余を献金している。
半蔵の父・吉左衛門もかつて脇本陣の伏見屋金兵衛に、『ああ。世の中はどう成っていくのかと思うようだ。あの御勘定所の御役人なぞが御殿様からの御言葉だなんて、献金の世話を頼みに出張して来て、吾家の床柱の前にでも座り込まれると、わたしは又かと思う』(第一部第1章1)と嘆いている。国恩金は『百姓はもとより、豆腐屋、按摩まで上納するような話ですで、俺たちも見ていられすか。18人で2両2分とか、56人で3両2分とか、村でも思い思いに納めるようだが、俺たちは7人で、1人が1朱ずつと話をまとめましたわい』(第一部第1章3)と百姓にも及んでいた。こうした『献金』は『国防献金』と称されたが、公儀の御金庫がすでに空っぽになっているという内々の取沙汰が流布するのは避けられなかったのである。
貧しい武家や公卿のなかでタチの悪いものになると、江戸─京都間を一往復して、少なくとも1,000両くらいの金を強請(ごうせい)し、それによって2、3年は寝喰いができるような連中もいたという。この時期、『実懇(じっこん)』、つまり こころやすくなるという言葉も特別の意味を持った。『実懇になろう』と武士から言葉を掛けられた旅館の亭主は、必ず肴代とか祝儀の献上金をねだられるのが常であったからだ(第一部第8章4)。
1859年の開港後、相当な勢いで物価が上昇したことは宮本又郎氏らの研究の示す通りである。1854年から56年までの物価上昇を年率で見ると、8.5%の高率である。すでに1820年頃から物価の上昇は観測されているが、この幕末維新期の物価上昇はそのペースをはるかに上回るものであった。この高率インフレは、開港後に日本の金銀比価(金安銀高)を国際比価に合わせるための貨幣改鋳の結果でもあった。日本からの大量の金流出は、劣悪な銀の流入と裏表の関係にあった。純粋な小判(金)はどしどし海外へ出て行き、その代わりに輸入されるものは多少の米弗(ドル)銀貨はあるとしても、多くは悪質な洋銀であった。
半蔵の学友、中津川の蜂谷香蔵は言う。『今までに君、90万両ぐらい(この数字には諸説あり──引用者註)の小判は外国へ流れ出したと言いますよ。(中略)その結果はと言うと非常な物価高騰です。そりゃ一部の人たちは横浜開港で儲けたかもしれませんが、一般の人民はこんなに生活に苦しむようになってきましたぜ』(第一部第5章2)。横浜開港1周年の記念日、6月2日は、記念日というよりむしろ『屈辱の日』であるとするほど排外熱が全国的に盛んになってきたのである。
諸藩士の家禄は削減され、贋造の貨幣まで現れるほどになった。『社会の基盤を転覆させるうえで、貨幣を堕落させる以上に巧妙かつ確実な方法はない』(ケインズ『平和の経済的帰結』におけるレーニンの引用)という言葉はまことに鋭い洞察であったと言わざるを得ない。
③本陣・脇本陣の負担、助郷制度という農民への負担
街道筋の宿駅では常置の御伝馬以外に、付近の郷村の百姓は石高に応じて人馬を補充するために継立てを応援しなければならない制度ができていた。これが宿駅周辺に重い負担を課した助郷制度である。
例えば天保10(1839)年、常住していた江戸藩邸で亡くなった尾張藩主徳川斉温の遺骸が通過する大通行に当たっては、一行約1,970人が馬籠の宿に溢れた。木曽福島の代官・山村氏からの指図で、木曽谷から集められた人足730人だけでは足りず、1,000人余りの伊那の助郷の助けを借り、馬も220匹必要とした。本陣の青山家はもとより、脇本陣の金兵衛の住居でさえ、2人の用人の外に合わせて80人を泊めたという(第一部序の章2)。
また、黒船が来てからのち、尾張藩主が出府した折りには、木曽寄せの人足730人、伊那の助郷1,770人ほどを動かす大通行が馬籠の宿を経て江戸表に出た。宿場の馬180匹、馬方180人。
こうした制度は本陣・脇本陣だけでなく、周辺農民にも大きな負担となった。大通行の荷物は宿場ごとに付け替えられ運送され、宿駅に備え付けられた人馬の使用は大通行のような公用が優先された。幕府設定の料金(御定賃銭{おさだめのちんせん})はあったものの、幕府の許可を得れば、宿場の人馬は無料で使用できた。
こうした無理な徴発が長続きするはずはない。幕末期になると割のいい民間の仕事が増えて、多くの『助郷不参』の村々が出てくる。徳川様の御意向というだけでは、百姓も言うことを聞かなくなってきたのである(第一部6章1)。そして遂には、明治に入ると伝馬所(旧問屋)は廃止され、宿駅制度も解体するのである。それは助郷農民の解放を意味した。
参勤交代制度は文久2年に『3年1回出府』と緩和されてはいたが、幕府は旧制度の復活を望んだ。人馬徴発の激増は、庄屋、本陣、そして助郷制度下にある農民への負担を過重にせざるを得ない。だが、幕府は元治(1864)元年、参勤交代の制度を旧に復することに決定。目的は言うまでもない。徳川幕府の頽勢(たいせい)の挽回と急激に多くなる消費者を失った江戸経済へのテコ入れである。しかしこの期待は裏切られ、諸藩の人心は幕府から完全に離れていく。ここに各藩の頸木(くびき)を離れ、独自の道を歩む方向へと舵を切る。海運、造船、物産振興、兵制、留学生の派遣などについて、藩独自の産業政策と教育方針を練り始めるのである。
Ⅳ 『近代人』の自家撞着──寛斎・正香・松雲
『夜明け前』には近代化が孕(はら)むいくつかの重要問題を明らかにするために、幾人かの興味深い人物を脇役として配置されている。いずれも近代社会の中で『ドグマと処世』のジレンマを乗り越えようとしている点に共通性がある。そのジレンマとは、近代化とともに進む現世主義、経済主義、合理主義と、人間が求める霊的なものとを、自己の中でいかに調和・解決するかという難問から生まれる。
こうした自家撞着を抱える人物として、医師・宮川寛斎、攘夷派の志士・暮田正香、そして曹洞宗万福寺の和尚・松雲を取り上げてその意識の内実を探ってみたい。
①宮川寛斎──ビジネスと宗教の間
宮川寛斎は中津川の医師で、半蔵と同門の蜂谷香蔵の姉の夫にあたる。漢学・国学に通じた半蔵たちの『師匠』とも呼びうる知識人で、馬島靖庵がモデルになっている。
寛斎は『安政の大獄』があった安政6(1859)年10月、中津川の商人・万屋安兵衛の書役(かきやく)として、異国の商人を相手に生糸売り込みの出稼ぎに神奈川まで100里に近い道を馬の背で生糸の材料を運ぶ。商売がうまくいけば、利得を安兵衛から分けてもらうという約束のもとにリスクを含んでだビジネスに入る。60歳近い寛斎にとって、老後に伊那の地で隠棲するための経済的な基盤を得ることは死活問題だったであろう。神奈川条約はすでに結ばれているから、別段これは違法行為ではない。しかし寛斎は、半蔵ら弟子たちにこの横浜行きの目的は知らせていない。(第一部第4章、第5章)
香蔵はこれを知って『現世の利得』に突き動かされる寛斎の行動を批判して、半蔵に次のように言う。『国学者には君、国学者の立場もあろうじゃありませんか、それを捨てて、ただ儲けさえすれば好いというものでもないでしょう』(第一部第5章2)。
こうした批判を予想してか、寛斎は商売がうまくいったことを喜びつつ、次のように呟くのである。『金銀欲しからずというは、例の漢(から)ようの虚偽(いつわり)にぞありける』と。
この本居宣長『玉かつま』の言葉は、寛斎にとって何より有力な味方であった。『誰だって金の欲しくないものはない』。そこから寛斎のように中津川の商人に付き従って横浜への出稼ぎということも起こった。『本居大人(うし)のような人には虚心坦懐というものがある。その人の前には何でも許される。しかし、血気壮(さか)んで、単純なものは、あの寛大な先達のように貧しい老人を許しそうもない』(第一部第4章2)。
宣長は中国の道徳観に深く染み込んでいた『金は要らない』という偽善を批判するのであるが、この『玉かつま』の文章は、金銀を『はばかることなくむさぼる世のならひにくらぶれば偽(り)ながらも、さるたぐひは、なほはるかにまさりてぞ有べき』と続く。つまり度を越した金銭欲を批判しているのであって、『金、金』と浅ましいことを言うのに比べたら、『金など要らぬ』というほうがまだましだが、という言葉も付け加えているのだ。
ちなみに、寛斎が生糸取引に没頭している折、馬籠の伏見屋金兵衛から一通の手紙が届き、金兵衛の最愛の一人息子、鶴松が病で亡くなったことを知るくだりがある。寛斎の長い不在によって一人の患者の命が失われたかのように事実が暗示されるのである。
北小路健『木曽路 文献の旅 〈続〉──『夜明け前』探求』は、この間の経緯を『大黒屋日記』を照合しつつ検討し、寛斎の横浜滞在の異様な長さと鶴松の死のタイミングは藤村の虚構であると指摘している。この辺りは、藤村が原資料をどのようにドラマに仕立て上げ、その事実の意味づけを行っているかを知る興味深い例であろう。
寛斎は結局、横浜で何を知り何を経験したのか。身近に見た西洋の商人は、髪の毛色や瞳の色こそ違え、『黒船』が連想させるような恐ろしいものでも幽霊や化け物でもない。やはり血の通っている同じ人間の仲間だ、ということであった。この単純な認識こそ、国学に通じ攘夷論を唱えていた宮川寛斎をして、安政の大獄に無関心ではいられないものの、『しかに、俺には、あきらめというものが出来た』(第一部第4章2)と確信させるのである。
寛斎はその後伊那谷へと居を移すが、妻を亡くし独り身となる。横浜貿易のことが祟ったのか、どこへ行っても評判が悪い。伊那谷で平田門人たちの行う篤胤『古史伝』の上木(じょうぼく)事業を手伝ったりしたが門人たちと折りが合わず、結局3年の後、再度中津川に戻る。その途上、馬籠で半蔵と久闊(きゅうかつ)を叙しつつ、無尽(頼母子講)加入を誘うのだ(第一部第7章2)。
こうした寛斎の思想と行動をどのように理解するか。一つ確かなことは、平田派の国学者の中には様々な思想的な立場がありえたということである。『皇室中心的開国論』『攘夷的通商主義』などである。寛斎から見れば、半蔵や香蔵たちの学問はますます『実行的な方向』へと動いていることになる。古い師匠と弟子の間にはすでに隔たりが生じている。古代の日本人に見るような『雄心(ゆうしん、おごころ)』を奮い起こさないと、この国始まって以来の一大危機を乗り越えることはできないという弟子の心持はわかるが、寛斎は『あきらめ』という心境に達している。
篠田一士は、この宮川寛斎の悲喜劇は、『明治の日本に襲いかかった。新旧両文明の衝撃がもたらした数多くのドラマのささやかな先駆と呼んでも差し支えないもので、寛斎の運命は、また、漱石の小説の主人公たちのそれらに容易に変形しうるのである』と鋭く指摘している。おそらく寛斎の偽善的ともみなしうる姿勢は、『意識せる自家撞着』とでも呼ぶのが適当かもしれない。
②暮田正香過激派の転身
もう一人重要な脇役、暮田正香は、寛斎のような自家撞着を意識していない。暮田正香は半蔵と同国人、かつて江戸に出て水戸藩士藤田東湖の塾に学んでいる。
藤村は勤王思想には二つの流れがあるとし、一つは激烈な攘夷論者・藤田東湖の流れ、もう一つは本居・平田の流れと見る。前者は弘道館の碑文にあるように『神州の道を敬い同時に儒者の教えをも崇める』漢ごころの混じった武家の学問である。後者は『古代』の復興に着目し、『近(ちか)つ代(よ)』ではなく『上つ代』を『一切は神の心であろうでござる』(篤胤の遺書『静(しず)の岩屋』)として強調する立場である。東湖の没後、正香は水戸の学問から離れて平田派の古学に開眼したとある。
『伊那尊王思想史』を検討した鈴木昭一『「夜明け前」研究』によると、正香は実在の人物、角田忠行をモデルとしているという。『伊那尊王思想史』に示されている角田の経歴は、『夜明け前』に記された暮田正香のそれと全く同じである。正香は文久3(1863)年2月、京都等持院に安置されていた足利尊氏以下2将軍の木像の首を抜き取って、三条河原にさらすという事件を起こしている。同志9人、その多くは平田門人であった。『夜明け前』では、この事件で幕吏に追われて逃亡中の正香を青山半蔵は馬籠で一夜かくまっている。
その後、平田派国学が盛んであった伊那谷に潜伏するが、慶応末年、大赦によって流浪の生涯から脱して変名で表の世界に現れ、王政復古後、皇学所監察、学制取調御用掛、大学出仕へと昇進し、(その出世の速さを妬まれて讒言{ざんげん}され)一時山口藩・和歌山藩にお預けの身となっている。明治6(1873)年8月、暮田正香は賀茂神社少宮司に任命されて、木曽馬籠宿の青山家に一泊する。その夜、酒を飲みつつ、杜甫の詩『奉贈韋左丞二十二韻(いさじょうにおくりたてまつるにじゅうにいん)』を吟じ、『此意竟に蕭条(しょうじょう)(この考えも畢竟{ひっきょう}成し遂げられず)』のところを何度も半蔵に読み聞かせて、絶句し涙を流している(第二部第9章4)。それは新政府の現状に失望し、平田一門が志を得ず、いかに政府の中心から外れていくのかを嘆く涙なのだ。
『御一新』後の新政府では神祇官(じんぎかん)を平田派が占め、慶応4年1月17日の太政官布告は神道国教・祭祀一致を国是とした。その後明治2年7月の官制改革では、それまで太政官の下にあった神祇官ひきあげて太政官と併立させたほどだ。『ご一新』の時期の平田派のこの権勢を考えると、今は何という有り様だというわけだ。
この暮田正香の言行には過激な行動に走った人物特有の自家撞着が読み取れないだろうか。足利木像事件のような行動に出ながら、『御一新』後は、伊勢神宮に次ぐ高い格式にある賀茂神社の少宮司になるなど近代的な立身出世を意識している。その点では、杜甫の詩にある、傑出した人物が身の振り方を誤ったがために『隠遁者でもないのに歩きながら歌をうたっているありさま』ではない。正香においては、近代化における自己撞着は自分自身の問題として意識されてはいないのだ。
実際、平田篤胤の思想は決して極端な排外主義ではなかった(第二部第13章6)。暮田正香の篤胤理解は一つの極端なケースではなかった。現実の平田篤胤は当時の科学技術にもきわめて明るく、キリスト教に関する知識も中途半端なものではなかったことが近年指摘されるようになった。つまり、篤胤は外国の思想や文物を、すべて排除するというような、狭量で非合理な思想の持ち主ではなかったのである。
『夜明け前』で、半蔵の義弟・寿平次は、そもそも、外国を夷狄(いてき)の国と考えてむやみに排斥することこそ唐土から教わったことであり、攘夷などというのは『漢(から)ごころ』なのだと鋭く指摘している。攘夷思想が平田篤胤の思考の中核であったのかどうか。思想そのものと、解釈された思想とは別物である。本居宣長を篤胤がどう理解したか、その篤胤を門人たちがどう要約したのか。思想の伝播には『伝言ゲーム』のような不正確さが常に付き纏(まと)っている。
③松雲和尚──近代の神仏同体説
明治新政府によって神仏分離と廃仏毀釈が断行され、仏教寺院は受難の時代に入る。半蔵は、『今日ほど宗教が濁ってしまった時代もめずらしい』『まあ、諸国の神宮寺などを覗いてごらんなさい。本地垂迹(ほんじすいじゃく)なぞということが唱えられてから、この国の神は大日如来や阿弥陀仏の化身だとされていますよ。神仏はこんなに混淆(こんこう)されてしまった』『これが末世の証拠だと思うんです。金胎両部なぞの教えになると、実際ひどい。仏の力にすがることによって、はじめてこの国の神も救われると説くじゃありませんか。あれは実に神の冒?というものです』といい、黒船は嘉永6年が初めてなのではない、『伝教でも、空海でも──みんな、黒船ですよ』と言い募っている(第一部第6章2)。彼は漢学(からまな)びの深い影響を受けない古代の人の心に立ち帰って、もう一度心寛(ゆた)かにこの世を見直せというのだ。
こうした激しい宗教界の動きを背景として登場する曹洞宗万福寺の松雲和尚は、まことに静謐(せいひつ)な雰囲気を備えた人物として描かれている。松雲のモデルは明治17年頃、藤村の父・正樹が馬籠の人々と写した写真にも現れる。永昌寺の桃林和尚のようだ。もともと万福寺は青山半蔵の祖先の青山道斎が建立した寺である。遠い祖先代々の位牌、青山家の古い墓地、それらのものを預けてある馬籠の寺であることからも、半蔵が松雲和尚を意識するのは当然であろう。
松雲和尚が最初に登場するのは、京都本山の許しを得て智現の名を松雲と改めて、馬籠万福寺の跡を継ぐ新住職として帰国するのを、組頭笹屋の庄兵衛はじめ、五人組仲間その他のものが新茶屋まで出迎えに行く場面である(第一部第2章1)。松雲和尚を待ち受けながら、自分が『物学びするともがら』の道を追い求めていけば、自ずと松雲和尚の信仰に『行く行く反対を見出すかもしれない』ことを半蔵は予感する。
だが、この禅僧の所作言葉を目の当たりにして、『ものの小半時も半蔵が一緒にいるうちに、とてもこの人を憎むことができないような善良な感じのする心の持ち主』であることを感じ取る。確かに松雲は尾張藩主の出府で街道筋が騒々しくなっている折も、唯一人黙然として、古い壁にかかる達磨の画像前に座りつづけるような人なのである。
松雲和尚のこだわりのない自然な姿は、半蔵に何が虚偽で何が自然(おのずから)なのかについて改めて問いかけたはずだ。復古の精神は、もともとは『虚偽を捨てて自然に帰れ』との教えから出たことであったのだから。
だが現実には、葬儀を仏式ではなく神式の形式、すなわち『神葬祭』で行うか否か、という具体的な問題である。信仰と風俗習慣とに密接な関係のある神葬のことを仏教寺院から取り戻して、それを白紙に改めようということになるのか。義弟の寿平次は、『これは水戸の廃仏毀釈に一歩を進めたもので、いわば一種の宗教改革である。古代復帰を夢みる国学者仲間がこれほどの熱情を抱いて来たことすら、彼には実に不思議』なのだから『神葬祭などは疑問だ』と考えざるを得ない(第一部第6章2)。皮肉なことは、国学隆盛の時代を招いたのは廃仏運動のためであったかもしれないが、廃仏が国学の全部と考えられるようになって、かえって国学は衰えたとも言える点だ。
しかし、半蔵にとって神葬改典は軽視できない問題であった。彼は父祖の位牌も多く持つ帰る。青山の祖先道斎が建立した菩提寺も青山家から遠くなってしまった。にもかかわず、松雲和尚は半蔵を十五夜の月見の客の一人として招待する。松雲は客に親疎(しんそ)を問わず、好悪を選ばずという人なのである。
その松雲の寺に半蔵は火を放つ。だが松雲は放火を企てた半蔵に対して、全く狂気の沙汰とも思わないと考える。『もともと心ある仏徒が今日眼をさますようになったというのも、平田諸門人が復古運動の刺戟によることであって、もしあの強い衝動を受けることがなかったなら、おそらく多くの仏徒は徳川時代の末と同じような頽廃(たいはい)と堕落とのどん底に沈んでいたであろう』と言うのである。和尚は半蔵が焼こうとした寺にも決して何らの執着を持たないことを明らかにして、それをもって故人への回向に替えようとするのである(第二部終の章6)。
松雲和尚はこの神仏の対立関係を、聖徳太子の遺した言葉を引用し、『神道はわが国の根本である。儒仏はその枝葉である、根本昌(さかん)なる時は枝葉も従って繁茂(はんも)する、故に根本をゆるがせにしてはならないぞよとある。これだ。この根本に帰入するのが、いくらかでも仏法の守られる秘訣だ』として神仏の対立関係を昇華しようとするのだ(第二部第10章2)
Ⅴ 『御一新』への失望と落胆
『御一新』への半蔵の失望は、単に『文明開化』がもたらした日本社会に対する失望という漠然たる反発感情ではなかった。彼の怒りはより具体的で身近な問題から発している。それは王政復古後に起こった木曽谷の百姓一揆、いわゆる『農兵問題』と、この小説の白眉とも言われる『山林事件』である。
慶応4(1868)年、戊辰戦争が北陸・東北へと展開する中で、官軍側の尾張名古屋藩では兵力不足のため、官軍の支配下の村々から農民を兵士として徴発しようとする。同年3月に江戸城無血開城はあったものの、まだ旧幕府軍の戦いは各地で続いていた。恩師・宮川寛斎が伊勢の地で客死したとの知らせを受け、半蔵がその墓参のために郷里を留守にしている間に起こった騒動が『農兵問題』であった。百姓仲間1,500人余り、主に東美濃の村民であるが、木曽地方の馬籠、妻籠などの百姓もこの一揆に加わったことが判明する。小野三郎兵衛が収拾に出向き、『平田の門人なら嘘はつくまい』ということで何とか収まった。小野三郎兵衛が尾州藩に出した嘆願趣意書には、新紙幣の下落(すなわちインフレ)、人馬雇銭の割り増しなど、百姓たちの経済的な困窮がきされていたという。
半蔵は留守中に起こった騒動の実情を出入りの百姓から聞き出そうとして、村中の百姓がこのことについては一切口外しないと申し合わせたことを知る。半蔵が自らその保護者であり代弁者だと思い込んでいた百姓から『誰もお前様に本当のことを言うものがあらすか』と呟かれて『そんなに俺は百姓を知らないかなあ』と嘆くほどに、自分の考えが百姓から遊離していたことを思い知らされるのである。『農兵問題』は単に新政府の信用が未確立であることを示すだけでなく、百姓の半蔵に対する信用も厚くなかったことを示す事件だったのだ。
一方、さらに『山林事件』が半蔵に追い打ちをかける。明治元年、官軍の先鋒隊として、『御一新』と『年貢半減』を掲げた相楽総三率いる『赤報隊』が偽官軍として処刑される。その偽官軍に資金援助したために、木曽福島の代官から厳しいお咎めを受けた半蔵にとって、『御一新』が大いなる失望であったことを決定付けたのがこの『山林事件』であった。
木曽谷33ヵ村の総代となって山林問題の再嘆願をするこの事件を扱った第二部(下)第八章は、歴史家・服部之総をして『この小説の圧巻章』と言わしめた迫力に満ちた部分である。
維新前は、巣山、留山、明山(あけやま)の木曽山一帯は尾張藩によって管理され、唯一自由林であった明山でも、許可なしに村民が5木(檜木{ひのき}、椹{さわら}、明檜{あすひ}、高野槇{こうやまき}、ねずこ)を伐採することは禁じられていた。しかし全体としては自由林が大部分を占めていた。ところが維新後、全山の面積およそ38万町歩あまりのうち、その9割にわたるほどの大部分が官有地に編入され、民有地としての耕地、宅地、山林、それに原野は、併せてわずか1割にすぎなくなった。『御一新』であるから、自由林は村民の手に戻るものと期待していた半蔵は、明治2年3月から山林解放運動に挺身する。その結果、維新後に就いた『戸長』の職を解任される。問屋制は廃止され、参勤交代もなくなったため、青山家は本陣の宿泊所としての業務も奪われるのである。
『御一新』で、『上つ代』を回復するという平田国学に心酔した半蔵が東京で見たのは、文明開花一色に変貌した社会であった。『これでも復古と言えるのか』。しの失望感は計り知れない。同じ頃に福澤諭吉が書き留めた次の文章は、多くの日本人の当時の精神状況を大局観をもって要約している点で迫力がある。
『概して云えば、今の時節は、上下貴賤皆得意の色を為すべくして、貧乏の一事を除くの外は、更に心身を窘(くるしむ)るものなし。討死も損なり、敵討も空なり、師(いくさ)に出(いず)れば危し、腹を切れば痛し。学問も仕官も唯銭のためのみ、銭さえあれば何事を勉(つと)めざるも可なり、銭の向う所は天下に敵なしとて、人の品行は銭を以て相場を立てるものの如し。この有様を以て昔の窮屈な時代に比すれば、豈(あに)これを気楽なりと云わざるべけんや。故に云く、今の人民は重荷を卸して正に休息する者なり』(『文明論之概略』巻之六、第10章)。
主人公半蔵は『近つ代』のもたらしたものを目の当たりにして破壊する。先に取り上げた3人の脇役は、それぞれ意識の強弱はあれ、近代社会が突きつける現世主義と霊性の相克をそれなりの仕方で解決した。より正確には、彼らにとって『ドグマと処世』の自家撞着は、解決されたわけではないものの、とにもかくにも回避されたものである。
Ⅵ 情念の書としての『夜明け前』──結びにかえて
『夜明け前』成立の経緯と資料に関する研究は極めて豊かだ。それでも、この傑作を歴史書として、あるいは文学としていかに位置付けるかという問題は残る。確かに歴史と文学の関係は人文学の一大テーマとなりうる難問であろう。だが、無理な分類は、ときに問題の核心を見る目を曇らせる。服部之総が同書を『文学的なだけでなく文献的な価値さえもつと思われる』(『志士と経済』)と述べたことは、こうした分類・評価の難しさを端的に物語っているのではないか。
用いられた資料の持つ迫力は否定しがたいものの、読者の心を打つのはすした実証性を超えたところにある。近代における思想の運命を見つめ、あるいは近代人の自家撞着の問題と正面から向き合っているからだ。主人公・青山半蔵の生涯は悲劇として幕を閉じた。宮川寛斎、暮田正香、松雲和尚という重要な脇役は、近代社会が突き付けた問題にどのような情念で対応し、近代化の困難を生き抜くことができたのかを藤村は見事に描き分けてた。
情念は人間にとって原初的な心の動きであり、理性と必ずしも矛盾するものではない。ともすればわれわれは、理性は永遠不変で、情念は不確かで欺瞞性に富むと考えがちだ。しかし理性のみでは意志は生まれない。行動を起こすこともない。その点で『理性は情念の奴隷』(ヒューム)なのだ。理性は意志を妨げることもできず、情念に優先することもない。松雲和尚の情念の働きは確かに静謐(せいひつ)であった。しかしその静謐さゆえにそれを理性の働きととらえてはならない。
正香の情念は、意志の発生を強く促すような過激なものであった。寛斎においては情念が生み出す判断が道理に合わないという自家撞着を生み出した。
青山半蔵の情念は『中世否定の運動』と『復古の精神』から生まれている。懐古ではなく復古、『再び生きる』という激しい情念である。半蔵が、自ら命を絶とうとした娘の粂(くめ)の復活を願って励ましたのも、『再び生きる』とうい言葉であった(第二部第10章3)。『再び生きる』ための力が過少であれば、生に意味を与えることはできない。過剰にあれば破滅を招く。こうした二方向の情念のバランスを失ったところに半蔵の悲劇があると言えないか。
思想によって生きる人もいれば、思想に殉じる人もいる。その思想とは原始的な情念と行動を結びつける『判断』の形であり、理論や経験から推論する『理性』から生まれるものではない。実際、人は自らの原初的な存在を意識するとき、『国』という器を抜きにしては自己の精神に形を与えることができない。『国』という器は絶対的なものではないものの、一つの基準座標であることは否定できない。座標そのものを絶対視することは本末転倒だとしても、座標を失えば人は浮草のような存在になりかねない。ナショナリズムが人間にとって一つの『宿痾(しゅくあ)』となりうるのは、それが人間に埋め込まれた原初的な情念と考えられるからだ。『夜明け前』の中で、幕末の金銀比価の国際的な乖離ゆえに日本が金の流失と劣悪な洋銀の流入に悩んでいる状況を、『自分等の持つ古い金貨が流れ出して行き、そのかわりに入って来る新しい文明開化が案外な洋銀のようなものであるとしたら、それこそ大変な話だと思われて来た』(第二部第11章5)と譬えたのも、藤村のナショナリズムなのだ。
『夜明け前』の連載が『中央公論』誌上で始まったのは1929(昭和4)年4月であった。『御一新』からすでに60年が経過している。『夜明け前』で『和助』の名で登場する藤村自身がうまれたのは明治新政府成立の5年後のことである。その意味で同書は、60年前に始まる日本の『文明開化』が含み持つ問題を浮き彫りにしながら近代を再構築した、ナショナリズムという『情念』の書と言い得るであろう。
その後に書かれた未完の遺作『東方の門』は、藤村の抱く近代への危機感が露骨に肉付けあれた作品となった。話は万福寺の松雲和尚を中心に展開するが、もはや文学として香りはない。歴史記述の迫力にも欠ける、きわめて思弁的な書きぶりだ。『中央公論』1943年1月号からの連載というタイミングと当時の時局を考えても、引き込まれるよう読み続けられる作品ではないと思うのは筆者だけではあるまい。『中世の門を開くことなしには古代の門に達し難し、随ってまた近代の意味を知る能(あた)わず』(執筆ノート)と近代の意味を再び厳しく問うているにもかかわず、この遺作には『夜明け前』の重厚さはもはや失われている。それは藤村自身のナショナリズムという情念の運命であったということができよう」
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