⚔33)─1─豊臣秀吉による倹約と散財のマネー術がメイド・イン・ジャパンの種を生み出した。~No.140No.141・ @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 人口増加の再始動そして経済成長。
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 日本一国のヒト・モノ・カネの物流と金融は、欧州全体に匹敵する規模を持っていた。
 ビジネスモデルにおいて、日本モデルは閉鎖性が強く異文化経済圏と直接的積極的な取り引きを遮断していたがゆえに安定していたが、欧州モデルは繋がりが濃厚であった為に耐えず影響を受けて不安定であった。
 日本モデルの成功は、中国・朝鮮などの中華文化経済圏との繋がりを最小限に限定し、西洋文化経済圏との繋がりをオランダ一本に決めた事である。
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 歴代天皇と日本の総人口及び総石高。
 1585(天正13)年 第106代正親町天皇。凡そ1,300万人。
 1598(慶長3)年 第107代後陽成天皇。1,864万石。
 1600年頃 1,200万〜1,800万人。
 17世紀の、全国土での大開墾によって米の収穫量が増加して人口も増えた。
 1721(享保6)年 第114代中御門天皇。2,606万人。日本史上初めての全国規模の人口調査。
 1732(享保17)年 2,692万人。
 1792(寛政4)年  第119代光格天皇。2,489万人。
 1828(文政11)年 第120代仁孝天皇。2,720万人。
 1846(弘化3)年  第121代孝明天皇。2,690万人。
 1872(明治5)年  第122代明治天皇。3,295万人。
 1873(明治6)年  3,213万人。
 2000(平成12)年 第125代平成天皇。1億3,000万人。
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 2016年10月号 ウェッジ「船場日月の 戦国武将のマネー術
 信長の仇討ちに臨時ボーナス6ヶ月分を出した秀吉
 バブル時代やITバブル時代によく臨時ボーナスという言葉を聞いた。業績が良い会社で大パーティを開催し、そこで『社員みんなに利益を還元する!』と宣言して100万円などの金額の一律支給を発表、会場は『ウオーッ!』と興奮のるつぼと化す、といった場面もあった、らしい。残念ながら筆者にそういう経験は無いが。いや実際そんな所に勤めていた社員さんたちは、さぞモチベーションが上がっただろう。
 戦国時代、それをすでにやった人物がいる。その人物の名は、史上有数の成り上がり者・豊臣秀吉
 天正10年(1582年)5月から始まった備中国(現在の岡山県高松城攻めで、秀吉は半月足らずで長さ4キロメートル、高さ8メートルの巨大堤防を築き、高松城は水没した。
 堤防に使う土俵1個につき銭100文と米1升を支払うという触れを近在にまわし、結果、この堤には63万5,000貫あまりと米6万3,500石あまりが投じられと『武将感状記』(江戸時代中期に編まれた逸話集)にある。この年の米の値段をもとに1貫を現在価値になおして9万円とすると、およそ600億円ほどとなる。少し金額が大きすぎるが、話半分以下としても巨額の投資だったことは間違いない。
 ……
 高松城陥落前に本能寺の変が勃発
 ところが。6月2日早朝、京・本能寺に宿泊した信長が、重臣明智光秀に急襲され命を落とすという一大事が勃発する。『本能寺の変』だ。その知らせを受けた秀吉は、ただちに毛利軍と講和して軍勢を東に反転させた。『中国大返し』と呼ばれる強行軍で、6日(諸説あり)に高松城から兵をひきいた秀吉軍2万人は、岡山城の東の沼城で1泊し、翌日70キロメートルを1日で走破して姫路城に帰り着いた。
 ここで秀吉は兵たちを帰宅させて休息させようとしたが、軍師の黒田官兵衛孝高が待ったをかける。
 『家に帰すのは時間の無駄です。家族の顔を見てしまえば出撃するのをためらう者も出て参りましょう』
 これを聞いた秀吉、もっともと思い官兵衛の手配通り軍勢を姫路城下の河原に野営させた。といっても、駆り出した町人たちが炊き出しをおこない、充分に食事を与えられた兵たちはみるみる体力を回復していく。大移動をおこなった兵たちに福利厚生面で報いた訳だ。
 それだけではない。次に秀吉が放った『第二の矢』に兵たちは狂喜し、河原は大歓声に包まれる事になる。それが『臨時ボーナス』だった。彼は姫路城の蔵に蓄えてあった米と金銀を全て兵士たち分配してしまったのだ。金銀の額は金子(きんす)800枚余りと銀750貫で、米の量は8万5,000石ほどだったという(『三角太閤記』)。
 金子とは小判10枚にあたると考えれば良い。銀は重さで取り引きしたり枚数で取り引きしたりと、史料の記録がまちまちなのでややこしいのだが、銀子(ぎんす)1枚=重さ約161グラムの銀、と考えれば良い。これは現行の500円硬貨23枚分でずっしりと重い。一貫は1,000匁(もんめ。3,750グラム)にあたり、750貫の銀は銀子1万7,469枚ほどに換算できる。
 この年は金子1枚に対し米は42石が変え、銀子1枚で5.2石が買えた。1石は150キログラムで、現代の米価を10キログラム当たり3,000円として当てはめると、金子800枚余りは15億1,200万円、銀750貫は40億8,774万円、合計すると約56億円になる!
 米もすごい量だ。米8万5,000石は12,750トン。さきほどの米価を当てはめると米だけでも38億2,500万円となる。金銀と米を秀吉の軍勢2万人で平等に分けても、一人当たり47万円だ。米について秀吉は、家来それぞれの給与の6倍程度になるように配分したという。臨時ボーナスで給与6ヶ月分がドカンと渡されて興奮しない人間はいない。
 『これから信長様の仇を討つ大戦(いくさ)に向かう!』と宣言している秀吉だが、それとともに周囲には『大博打』と漏らしていた。
 大博打とは、言うまでもなく天下取りの事だ。いちはやく信長の仇・明智光秀を討ち取り、秀吉が天下を取れば、家来たちも、兵は将に、将は大名に成り上がるのも夢ではない。大金とともに大きな夢をも共有した秀吉軍は、熱狂とともに上洛し、6月13日京の南で明智軍と激突し光秀を敗死させる。秀吉の大盤振る舞いが生んだ勢いが、光秀を圧倒したのだった。
 ……四国征伐九州征伐小田原征伐、奥州平定と順調に勝利をかさねて、天正18年(1590年)、ついに天下統一を達成する。
 前回紹介した『金銀山野に涌き出で』という日本各地のゴールドラッシュは、この頃ピークを迎えた。
 秀吉が天下を取った事によって日本全国の金山・銀山で採鉱された金銀も税として大阪城へと運ばれて行く。それがどれほどの量だったのか、『慶長3年蔵納(くらおさめ)目録』という史料が残っているので見てみよう。
 全国の金山から3,391枚の金子、そして銀山から74貫2,020匁が、慶長3年(1598年)1年分として豊臣家の金庫に納まっている。先にも述べたように金子1枚は小判10枚だから、こうしれ秀吉のもとには江戸時代の千両箱で34箱分の金が毎年入って来たのだ。
 そのうえ、秀吉は自然に転がり込んで来る金銀だけで満足してはいない。彼は全国各所の直轄領を管理する代官に指示して、その地域の産物が相場より安ければ秀吉の権威で独占的に買い上げ、相場が高い地域の直轄領に運ばせたうえで、そこでも独占的に売りさばいた。言うなれば絶対失敗しようもない商売。
 秀吉はとにかく一般の『陽気で豪放』というイメージと違い、なんでも事こまかく把握して自分で指示しなければ気が済まない男だ。今年の春に初めて公開された書状でも、伊賀で材木調達をしていた家臣の脇坂安治に対して9回も『材木送れ』『材木運送がはかばかしくないのはけしからん』と書き送るなど容赦なく微に入り細をうがって命令している。そんな男が、絶対成功するビジネスモデルを運営するのだから、儲かってしょうがない。利益がドンドン秀吉の懐に入って来る。
 こうして豊臣家のものとなった金銀は、秀吉の道楽にも使われた。道楽というのは聚楽第伏見城方広寺などのハコモノ事業を指すのだが、秀吉と全国の大名が消費した金銀は天文学的な額にのぼるだろう。
 その結果、空前の規模の金銀が世間に流通する事になった。全国規模で物資の独占買い付け・独占販売がおこなわれて価格を操作され、金銀の流通量が爆発的に増える。この2条件が揃うとどうなるか。起きるのはインフレだ。
 『太閤検地』を実施した意図
 この時代の銭は輸入されたものが使われていたが、公式な貿易の途絶や倭寇鎮圧で新たな銭貨は常に不足気味だった。混乱の第一歩は銭の価値が上がったことから始まる。銭が上がって相対的に銀が下がったことで銀決済メインの体制だった当時の経済に大混乱が生じた。
 こうなると上がったはずの銭の価値までが混乱に巻き込まれて下落し、天正2年(1574年)から天正18年(1590年)の17年の間に、銭1貫で買える米の量は4分の1近くに減ってしまった。ただでさえインフレによって金銀の価値が下がった上、上がるはずの銭までインフレの波に飲みこまれていく。経済の仕組みが壊れていく様子が目に見えるようではないか。
 秀吉が『太閤検地』を実施して全国の田の生産量を貫高(土地の生産力を銭で表す)から石高(土地の生産力を米の量そのもので表す)に大転換したのも、豊臣ビジネスモデルを適応するため、他国と統一の基準を設けて、他国へ米を廻送販売できるようにシフトするとともに、銭に頼らないシステムが必要になったためだと言えるだろう。
 秀吉の文禄の役慶長の役を起こしたのは、朝鮮半島を経由して中国を征服するためではなく、その本当の目的は外征によって日本経済の混乱を建て直そうとしたからではないかと考えられるのだ。結果的にこの朝鮮出兵の失敗が、関ヶ原の戦いに結びついて豊臣家の滅亡のきっかけとなったのだから、秀吉のインフレ政策は自分の首を締めてしまった」



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