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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
<神にされた障害者>
・仙台 四郎…知的障害‥商売繁盛の福の神。
ウィキペディア
仙台 四郎(せんだい しろう、グレゴリオ暦1855年頃 - 1902年頃)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて、現在の宮城県仙台市に実在した人物の「人神」としての名称。旧字体を用いて「仙臺四郎」とも書く。
本名は通説では芳賀 四郎であるが、親族によれば「芳賀 豊孝」。
概要
知的障害があり会話能力は低かったが、明治期に「四郎自身が選んで訪れる店は繁盛する」との迷信が南東北のマスメディアを巻き込んで流布し、売上増を企図する店舗等が四郎の気を引こうと厚遇した。
没後の大正期に入ると、仙台市内のある写真館が「四郎の写真を飾れば商売繁盛のご利益がある」と謳って写真販売を始めた。商売繁盛のご利益は、存命中においては四郎の意志に依拠したが、写真による偶像化以降、(死没した)四郎の意志とは無関係になり、グッズを購買すればご利益が得られると転換された。
すると1920年(大正9年)からの戦後恐慌以降、繰り返し発生する不景気において四郎のブームが度々発生し、商業神の稲荷神やえびす、あるいは、土着の松川だるまを凌駕して仙台で信仰され、さらには全国的に知られる福の神として定着した。
現状では民間信仰において神として崇められる一方、神であるか不明なキャラクター化も進んでおり、四郎が神と人との間で揺れ動く人神となっている。すなわち、神としてのグッズ展開がある一方で、仙台市都心部の密教系仏教寺院ではキリスト教におけるサンタクロース姿にさせて飾ったり、仙台初売りや一般企業の広告ではキャラクターとして使用されたり、四郎の風貌やエピソードを設定として用いて、芝居の興行をする俳優、コントをするお笑い芸人、芸能活動をするローカルタレントが現れたりしている。
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日本人は、弱い者に対して冷たく薄情である。
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日本神道の祈りは、弱者・困窮者・被災者に寄り添い、障害者を神として祀った。
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日本神道において神に最も近い存在は、女性・子供・老人そして障害者であって、男性ではなかった。
日本神道には、女性差別・女性蔑視などという男尊女卑はもちろん、子供・老人・障害者、ジェンダー、マイノリティー、人種・民族に対する偏見や差別、意地悪・イジメ・嫌がらせはない。
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中世キリスト教文化圏では、障害者は絶対神の真理を拒否し信仰の道から逸れた悪魔の申し子とされ嫌われ、差別され、迫害され、社会から排除され、町外れの谷底や洞窟の中に追いやられた。
呪われた障害者を救うのは、絶対神の「愛」による「赦し」だけとされた。
キリスト教会は、哀れな障害者達に障害はぜったい神への信仰を捨てた・忘れた罪であると説明し、障害を治すには絶対神の赦しを得るしかないと説き、その為にはイエスの導きに従って「隣人愛信仰」の道に立ち戻るべきであると説教し、その手始めとして他者に対する自己犠牲的奉仕を奨励した。
布教活動に熱心な宣教師は、善意として、隣人愛信仰を広める為に障害者を原罪の証明として利用した。
金儲けに長けた商人は、障害者を見世物として各地を周り、見せるだけでは飽きられるとして芸を仕込んだ。
障害者にとって、見世物として晒され、人前で曲芸や軽業などの芸をする事で金を稼ぎ生きる事ができた。
旅芸人として、障害を晒して軽蔑され、芸を見せて笑いを取る事が、障害者救済となっていた。
キリスト教会は、「隣人愛の信仰」として、障害者を差別せず虐待せず労働をさせず、安全な教会の敷地内で保護し救済し、全知全能の創り主の恩寵を賜るように祈り続けた。
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日本神道や日本仏教は、障害者は「穢れ」た「片輪(かたわ)者」と嫌悪したが、片輪でも人であるからには1つぐらい他人より秀でた才能があると考えた。
奈良・平安時代。目の見えない障害者(盲・めくら)は耳が良く記憶力が優れていると考え、貴重な口承文学の担い手になると考え、琵琶法師として「平家物語」「仏教説話」「民謡・民話」「神話・伝承」などの語りとして利用した。
日本仏教は、力のある者は作事場で、力のない者は踊り念仏で、利用した。
江戸幕府。目の見えない者は、検校(けんぎょう)として按摩か金貸しをして生活していた。
それができない障害者は、社会から排除され、乞食をしながら金を恵んで貰って橋の下などで生活するか、非人・えたなどの最下層の賤民身分に組み込まれて人が嫌う仕事を強要された。
日本の芸人の中には、障害者は少なかった。
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日本神道は、弱者や虐げられた民に寄り添うローカルな民族宗教である。
日本神道を篤く信奉したのは、エタ・非人などの賤民、河原乞食などの貧民、山の民・海の民・川の民などの部落民であった。
幕府は政治権力であり、仏教寺院は宗教権威であり、皇室は心・道徳の権威であった。
仏教寺院は、宗教権威として神社神道を支配していた。
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週刊ポスト「昼寝するお化け 曾野綾子
『小さな英雄』
相模原市の障害者施設で、入所者19人を殺害した植松聖という元職員は、その後の警察の調べに対して、重い障害を持つ人を社会から抹殺することの意義を、そのうちに世間も理解してくれると思う、と供述し始めたという。
……
今改めて、素人がわかる範囲の数字を追ってみると、正規に届けられた人工中絶数は、1949年から2005年までの間に、約3,630万人である。1949年といえば、終戦後4年目だ。日本は、あの凄まじい敗戦の貧困と混乱の中でも、戦後4年目からこれだけの統計を取り始められたのだから立派なものだ、と私は評価している。アフリカの多くの国々では、今でもこうした統計など全くないところが多い。従って政策も立てられないのである。
日本が中絶でもっとも多くの生命を絶ってきたのは1953年から1961年までの9年間で、その間は年間100万人を超え、合計で約998万9,000人。つまり約1,000万人の命が中絶されていたのである。ナチスが強制収容所で殺したユダヤ人の数が600万人だったというから、日本人は合法的中絶数はそれを上回ったことになる。
胎児は殺されても、『声もあげられず、反対のデモもしない』最も無力な存在であった。
私が勉強を始めた1979年頃に会った産婦人科医師の中の一人は、終戦直後と当時も続く無届けの『闇の堕胎』を入れると、その頃までに日本社会が命を絶ってきた胎児の数は、多分既に1億人近くに達しており、おおまかに言うと、日本国一国を抹殺できたほどの数になっている、と言っていた。中絶は戦後最大の『産業』だった、と言った医者さえいた。
私はカトリックだったので、この中絶の問題については、時々ジャーナリズムから質問を受けた。私は敬虔な信者でもなく、カトリックの教義を代表する立場にもないから、困ったと思うことも多かったが、それでも私の中には大体の考は固まっていた。ヴァチカンは、一切の避妊を認めず、ましてや中絶はもってのほか、という考え方だった。私はその頃までにアジアや南米の貧しい途上国を見ていたので、避妊を認めないのはあまりに女性の立場からみて気の毒ではないか、という気がしていた。ヴァチカンはオギノ式と呼ばれる、女性の自然の生理的周期を使った器具なしの避妊だけは認めていたが、それは貧しい途上国の男性上位の社会を見ると、全く無理な話だろうという気がした。家にカレンダー1つ、鉛筆1本持っていない貧しい家庭はいくらでもあったのだ。だから私は避妊用の器具をつける方法しか実際にはできないだろうと考えていたが、それも貧しい家庭では経済的にむりなことだった。ただで避妊具を配布すると言わなければ、恐らく現実問題として実行できなかったろう。
日本では認められていた妊娠24週以前の中絶も、私はやはり一種の殺人行為だと考えていた。卵子が精子と結合して着床した瞬間から、それは人の命なのだ。だから中絶はどんな早期でもいけない。というのが私の考え方だった。しかし、人は(私も)時には、どんなことでもする。防衛のためなら時には人殺しもするだろう。それが正しかったかどうかという事情は、神さましかご存じないのだから、私は推測で中絶する人を非難してはいけないと思っていた。
そのような事実とは別に、当時の日本では『女性の権利』と『人道的な言葉』が深く考えもせずに都合よく使われていた。新しい時代の女性たちは『産む産まないは女の権利よ』と言うかたわら、同時に『一人の人間の命は、地球より重い』と叫んでいた。いったいどちらなのだ。しかし後者の言葉も、よく考えてみると、必ずしも正しくなかった。一人の人間が犠牲になれば多くの人を救うことができる場合、強いられてではなく、自発的に我が身を犠牲にして多数の命を救った例は過去にいくらでもあったのだ、アウシュヴィッツにおいて、見知らぬ他人の一家の幸福を守るために、その人の身代わりになって死刑を受け入れることを申し出たマクシミリアノ・マリア・コルベ神父(ポーランド人)という人も、その典型だった。
私はこの作品の準備中に、かつて聞いたこともなかっったような知識を得た。トリソミーと呼ばれる遺伝子異常の子供には瞼裂(けんれつ)外上方傾斜、耳介変形、短頸、筋緊張低下、腹直筋離開、臍(さい)ヘルニア、第5指の短小および内彎、直腸と肛門が繋がっていない鎖肛(さこう)ほか、複数の異常が組み合わさって現れる。しかし多くのトリソミーの子供は、実に愛らしい心根に育ち、一家の中の天使と思われる例が多い。当時一人の医師が言った。
『こういう子供は、別に遺伝性の疾患を持ってきたわけではないんです。たとえば、うちくらいの規模の病院では、年間80例くらいのお産がありますけれどね。8年、9年と無事に健康な赤ちゃんが生まれ続けて、10年近くなると、僕はそろそろ不安になるんですね。
統計として800人に1人くらいは、どうしてもこういう異常を持った子供が生まれてくる。だからそろそろ覚悟しなけりゃいけないかなと思う。一番先に、生まれてきた赤ちゃんの顔を見るのは、僕たちだからね。しかし或る時から、こう考えるようになったな。こういう子は、その他の799人分の不幸を、一身に担って生まれてきてくれた英雄的な子なんだ。だから社会全体で、この子を大切に育てていかなきゃいけない、ってね』
私はこの言葉を爾来忘れることがない。不要な人間と思える人が、実はこうした運命を担ってくれていたのだと、植松聖にももっと早く聞かせてやりたかった」
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