⛩50)─1─日本民族と怨霊神社。~No.117No.118 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本民族は、人を呪い殺した怨霊を御霊にすり替えて崇拝していた。
 日本神道においては、災いや不幸をもたらす疫病神、貧乏神さらには死神さえも敬うべき神様であった。
   ・   ・   ・   
 2024年4月8日 YAHOO!JAPANニュース mi-mollet(ミモレ)「この春、絶対に「縁切り」したい人必見! 日本三大怨霊の「崇徳天皇」への参拝をすすめる理由
 良縁祈願だけでなく、なんとか「悪縁」を断ち切りたい、と願う人も少なくないのではないでしょうか。わずわらしい人間関係、直したい自分の悪い習慣など……断ち切りたい「ご縁」は様々かもしれません。
そうした、人にはなかなか打ち明けづらい「縁切り」の願いを叶えてくれる神様を教えてくれるのが、社会心理学者にして神社参拝のスペシャリストでもある八木龍平さんです。著書『愛される人はなぜ神社に行くのか?』では、絶対に縁切りしたいときにおすすめの神様と神社を紹介! 知っておきたい参拝の基本とあわせて、本書から特別に紹介します。
 「絶対に縁切りしたい!」なら崇徳天皇
  ひとり思い詰めた顔をして参拝する人をよく見かける神社があります。
 「縁切り」で知られた神社です。
 人のご縁は結ぶだけでなく、切ることを迫られるときもあります。深刻なケースもあり、大っぴらに話せないことも多いですが、縁切りを願う人は少なからずいます。
 「人の縁を切るって、一体どんな神様が担当されているのだろう?」
 京都市内に縁切り神社の代名詞・安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)があります。ご祭神を見て、納得しました。日本三大怨霊のおひとり崇徳(すとく)天皇です。父の鳥羽天皇に嫌われた不遇の天皇として知られ、鳥羽天皇法皇となって最高権力者の時は意地悪をされ続け、鳥羽法皇崩御した直後、鳥羽法皇に優遇された後白河天皇に戦争をしかけられて負け、讃岐国(今の香川県)へ流罪になります。天皇上皇の配流は、およそ四百年ぶりの出来事で、二度と京の地に戻ることなく、崩御されました。そりゃ恨みますよね。
 安井金比羅宮の起源は、崇徳天皇上皇になってよく訪れていた藤寺(ふじでら)です。上皇は藤寺に寵愛していた女官を住まわせ、たびたび訪れていたのです。上皇讃岐国崩御すると、悲嘆にくれた女官は出家して尼になり、上皇自筆の尊影を藤寺の観音堂に奉納し、墓を築いて遺髪を埋め日夜ひたすらお経を読んだとか。その後、ある僧が参拝すると上皇の霊があらわれたことから、崇徳上皇流罪にした後白河法皇の命で崇徳上皇を祀る寺が建立され、明治時代より安井神社になりました。
 怨霊は、災難を避ける厄除けや縁切りの神様に
 怨霊を祀る神社は、かつてひどいことをした相手を神様に祭り上げて、「どうか祟らないでください」と、怒りの心を鎮めていただくようお祈りする場所です。崇徳天皇は生前、悪意ある意地悪をされ続けました。神様になると、生前の挫折や苦しみが逆転してご利益になります。怨霊なら災難を避ける厄除けや縁切りの神様として人々に頼られます。崇徳天皇は三大怨霊ですから、最強の厄除け・縁切り神でしょう。
 崇徳上皇讃岐国に配流された時に金毘羅権現(通称こんぴらさん)を信仰したことで、こんぴらさん総本宮金刀比羅宮(ことひらぐう)や前述の安井金比羅宮で、崇徳天皇こんぴらさんと一緒に祀られています。
 「怨霊の神社に参拝するなんて、ちょっと怖い……」
 ご安心ください。崇徳天皇が恨んでいらっしゃるのは、鳥羽天皇後白河天皇およびその一派なので、あなたを恨んではいません。
 「崇徳天皇って普通の人間だよね。なのに神様っておかしくない?」
 神道の神様は2タイプいて、自然神とご先祖さまです。自然神は太陽や月、風、土、海、山、水など自然物です。一方、ご先祖さまは普通の人間です。同じ人間の大先輩だからこそ、我々の悩みや苦しみに共感し、希望を理解してくれます。また我々の方が神様に共感し、「崇徳天皇は私みたいだ!」と神様に自分を投影したりもします。
 「崇徳天皇」をお祀りする神社は?
 人からの嫌がらせや人間関係のトラブルを断ち切るのに、崇徳天皇の冷気のようなエネルギーがサポートします。あなたの悪縁や大事な人が困っている悪縁を、こっそり断ち切りましょう。
 悪縁を断つと、金運など運気全般上昇しますので、何もなくとも定期的に縁切りするのが良さそうです。
 <崇徳天皇をお祀りする神社>
虎ノ門 金刀比羅宮(東京都港区虎ノ門1丁目2‐7)
安井金比羅宮京都府京都市東山区下弁天町70)
白峯神宮京都府京都市上京区飛鳥井町261)
金刀比羅宮香川県仲多度郡琴平町892‐1)
崇徳天皇宮(香川県香川郡直島町618)
 難しい決まりや作法は何もない――参拝の基本
 ひとり神社仏閣参拝なんかもおすすめですね。
 そこで参拝の基本についてお伝えします。
 私はお寺よりも神社の方がくわしいですが、まず特に決まりやルールはありません。神社もお寺も、かつては字の読めない人たちが沢山参拝していましたから、難しい決まりや作法は何もないのです。
 手を合わせて、頭を下げる。これが神仏への祈りの基本です。
 浄土宗・浄土真宗なら、手を合わせて「南無阿弥陀仏」と(心の中で)唱えればそれで十分です。ただ一心に「南無阿弥陀仏」と唱えれば、極楽往生すると浄土宗の開祖・法然は主張しました。他のことはしなくとも、ただひたすら南無阿弥陀仏を唱えればいいというわけですね。
   ・   ・   ・   

⛩104)─1─神社本庁の内紛。日本宗教界の危機。~No.233No.234No.235 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2023年4月10日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「ついに「公家家格の頂点」「神社界のボス」も超激怒...ヤバすぎる横暴を続ける現在の「神社本庁」につきつけた「ノー」
 日本全国の神社のうち約95%が加盟している宗教法人「神社本庁」で内紛が勃発。トップの座を巡り裁判にまで発展している。知っているようで知らない神社の仕組みとともに、その内幕をルポする―。
 【写真】誕生日を迎える佳子さまの最新動画で「不敬」な反応が続出…
 前編記事『まさかの「神社本庁・崩壊」の危機...総長の「不正土地取引」に「超有名神社の離脱」と「2000人関係者が猛激怒」が相次いで勃発』より続く。
 総長職への異常な執着
 さて、神社本庁の田中総長は京都府八幡市にある石清水八幡宮宮司を務めている。ところが、神社本庁関係者は「石清水八幡宮も構図は同じで、経営はラクではないはず」と明かす。
 「総長職の報酬は年間1000万円以上あるので、田中さんが総長の席にこだわっているのは、権力欲のほかに、金銭的側面もあるのでは、とも見られています」
 氏の総長職への執着は異常だ。前述の通り田中氏側の敗訴という判決が下された職員寮の不正土地取引疑惑を巡る裁判の後も、辞任を求める声を無視して総長の座を死守。通常は2期6年で交代となる総長の座を現在14年も続けているのだ。
 「'22年6月の役員会で田中総長は5期目に名乗りを上げました。驚くべきことに、この時の役員会で過半数の理事が田中氏続投に賛成票を投じたのです」(神社本庁関係者)
 職員寮売却の件でも背任が疑われたというのに、なぜ多くの理事が田中氏を支持したのか。神社本庁関係者が続けて解説する。
 「実は役員会は田中さんと、彼の側近で神道政治連盟の打田会長に近い役員らで固められていて、自浄作用が働かない。だから、何年も総長の座を維持し続けることができるのです」
 田中氏は三大八幡宮(宇佐、石清水、鶴岡)の社家(神社を世襲する家柄)出身の神職エリート。國學院大學神道学科を修了し、平安神宮権禰宜(宮司の補佐役)を経て石清水の宮司となった。若手神職の集まりである神道青年全国協議会の会長を務めたのち、神社本庁副総長となり、総長に昇格する。
 その田中氏を副総長時代から支えてきたのが打田氏だ。打田氏は國學院大學神道学科を修了後、'77年に寒川神社に奉職。'80年に神社本庁に転任し、本庁職員となる。渉外部長として対外人脈を広げつつ、神道政治連盟の事務局長に就任してからは日本会議や政界ともつながりを深めていった。
 長期政権が叶ったワケ
 「田中さんは'04年に副総長になったものの、事務方の本庁職員に人脈があるわけではなく、政界との縁もそれほど深くない。そんな田中さんを資金面、人脈面、政治面で支えたのが打田さんでした」(神社本庁関係者)
 打田氏は、'07年には神道政治連盟の幹事長に就任し、本庁人事にも口出しできる存在となった。
 「神社本庁を運営する理事たちは有力神社の宮司を務める地方の名士たち。神社本庁内部のことはズブの素人なので、打田さんがアドバイスをして、本庁全体の運営をさばいていた。
 さらに打田さんは驚くほど口が達者で、本庁役職員を取り込むのもうまい。自分に近しい職員にはいいポジションをあてがうなど、人事面で優遇する人心掌握にも長けていました」
 人事を掌握し、役員会をコントロールすることで、田中氏が総長になる'10年には、神社本庁全体を牛耳る「田中-打田体制」が完成していた。
 そして理事の多くを側近らで固めることで、田中氏は4期目、5期目という異例の長期政権を実現していったのだ。
 総長の座を巡って
 ところがあまりに横暴な行いを看過できず、これに「待った」をかけた人物がいる。神社本庁の象徴としてのトップ・鷹司尚武統理だ。
 「鷹司統理は、公家の家格の頂点である『五摂家』の一つ、鷹司家の現当主であり、昭和天皇の第3皇女の養子で、上皇陛下の義理の甥にあたる人物です。神社界の頂点ともいえる伊勢神宮の大宮司も務めたこともあり、まさに『神社界のボス』という存在です」(神社本庁関係者)
 田中氏の暴挙を許さなかった鷹司統理は、'22年の役員会で田中氏とは別の理事を指名した。しかし、前述のとおり役員会の結束は固く、田中派の賛成多数で、統理が指名した理事は総長の座を得られなかった。
 この総長の座を巡るイス取りゲームは、統理から指名された理事が、総長になれないのはおかしい、と訴え出たことで裁判にまで発展。'22年12月に下された一審では「鷹司統理が原告を次期総長に指名したとしても、役員会が議決により原告を次期総長に決定していない以上、原告は、総長に就任していない」として司法の場でも田中総長側に軍配が上がった。さらに、'23年6月の第二審でも一審が支持され控訴を棄却。田中氏は総長のイスに座り続けている―これが「神社本庁田中派支配」の実態だ。
 こうした状況に見切りをつけて、鶴岡八幡宮は「神社本庁離脱」を表明したわけだが、行動を起こしたのは鶴岡八幡宮だけではない。
 「裁判に前後する形で鷹司統理を支持する『花菖蒲ノ會』が結成されました。すでに全国2000人近くの神社関係者が賛同し、『反田中』を明確にしています」(同前)
 神社本庁が空中分解する日
 同会の呼びかけ人には、鶴岡八幡宮に加え、出雲大社、東京大神宮などが名を連ねる。彼らもまた本庁離脱も辞さない構えだ。前出の島田氏が言う。
 「以前から田中体制と険悪な関係にあった香川県金刀比羅宮は'20年にすでに離脱をしていますが、鶴岡八幡宮も離脱を決断したことで、ほかの神社が追随する可能性があります。神社界は田中総長派と鷹司統理派で二分されている。このままでは神社本庁が空中分解してしまいかねません」
 この分断こそが、神社本庁の危機の正体なのだ。
 神社本庁に、田中体制に批判が集まっていること、また鶴岡八幡宮が本庁を離脱した経緯について質問書を送ったが、期日までに回答がなかった。
 国立歴史民俗博物館名誉教授で社会学博士の新谷尚紀氏は、こうした内紛は「神様への感謝の気持ちが薄れている証拠」だと指摘する。
 「神社は、みんなが拝んでご利益をいただく場でもあります。そこにお仕えする人は、奉仕に徹しなくてはいけません。『神様が見ておられる』と思えば、自然とそうなるでしょう。現在の神社本庁はそうした神職の基本に立ち返るべきではないでしょうか」
 神社本庁の内紛が収まり、純粋な気持ちで参拝できる日が早く訪れることを願うばかりだ。
 「週刊現代」2024年4月6・13日合併号より
 ・・・・・
 【もっと読む】実はヤクルト・スワローズのおかげで明治神宮はなんとか維持、だから非難されても外苑再開発に突き進む
 週刊現代講談社
   ・   ・   ・   

💄71)72)─1─戦国時代の男色と現代の同性愛は別物である。〜No.143No.144No.145 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年4月9日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「「男色」が広まったのは戦場からではない?今日的な同性愛とは異なる、戦国時代の男色にありがちな誤解
 『豊臣勲功記』よち、本能寺で討ち死にする森蘭丸
 (歴史家:乃至政彦)
■ 男色に関する誤解
 戦国時代の男色(『日葡辞書』に「Nanxocu.ナンショク(男色) 悪い,口にすべからざる罪悪.」とあるように、「なんしょく」が正しい発音。「だんしょく」とは読まない)については、今も多くの誤解がまかり通っている。この時代の武士は、男色が当たり前だったというのは、ある意味では正しいが、ある意味では間違っている。
 男色を好きな武士はたくさんいたのは事実だが、有名な「カップリング」はごく一部を除いて、ほとんどどれも事実ではない。
 少なくとも、武田信玄春日虎綱高坂昌信)、上杉謙信樋口与六直江兼続)、織田信長森成利森蘭丸)の関係は、史料の誤読、または江戸時代や昭和の創作によって広まったものである。
 基本的に男色は一過性の「忍ぶ恋」であり、大っぴらにするものではなかった。だから、有名な関係にはなりにくい。
 このほか一般的な男色イメージと、事実との相違点を3点ほど述べていこう。
■ (1)男色は今日的な同性愛とは異なる
 北野武監督の映画作品『首』では、中年男性が中年男性の胸を舐めるようなシーンが印象的に描かれていて、「これでは『首』じゃなく『乳首』だ」という感想を漏らす友人もいた。これを見て戦国時代の男色をそのまま再現していると思った観客は少なくなさそうだ。
 しかし、当時の男色は、「未成年男性への性愛」であって、成人した「男同士の自由恋愛」ではなかった。だから、中年男性同士が性的に交わる例は史料に例が認められていない。少なくとも「あって当たり前」なものではなかったのである。 もちろん当時に今風の同性愛もあっただろうが、史料から探れる範囲では表立ってそのような関係は結ばれていない。タブーではなかったと思うが、他人に公表する理由がなく、社会的にも取り上げる必要がないと思われていたのか、そうした記録は残っていないのである。
 武士の男色に思いを馳せる場合、ここを前提としておく必要があるだろう。
■ (2)男色が広まったのは戦場からではない
 また、武士の間で少年愛が流行した理由について、「武士は完全なる男社会であり、特に戦場では女を禁忌としたからだ」と説明されることがある。だが、これは完全に間違いである。
 武士が男社会なのは事実だが、戦場に女性が排除されていたわけではない。なるべくなら安全のために立ち入らせなていなかったが、タブーだったわけではない。
 例えば、河越夜戦において大将の上杉憲政は、遊女を集めて遊んでいたところを北条氏康に奇襲攻撃されて、敗北したとされている。この遊女たちは氏康が派遣したクノイチとも言われている。
 これは事実ではなく創作話に過ぎないと思うが、それでも戦場に遊女を集めて遊ぶことが当時の景色として不自然ではない事実がなければ成り立たない逸話であろう。
 豊臣秀吉小田原城攻めでも、秀吉が本陣に武将たちの妻子を呼び寄せ、自身もまた遊女を集めてこれを敵方に見せつけた逸話が有名である。
 戦場に、女性が禁忌とされたというのは、事実ではないのだ。各地方の籠城戦では女性の活躍が多数認められ、夜戦地の首塚に女性の遺骨も発見されている。
 ではどこから男色が流行り始めたかというと、僧侶からである。足利時代に、僧侶たちが上級武士との接待や交流に稚児を使った。女装のような装束で着飾った美少年にチヤホヤされたら、武士たちが骨抜きになるのも当然であるだろう。ここから男色が広まっていったのである。
■ (3)男色は大歓迎されていたわけではない
 中世から近世にかけて、男色は無批判に受け入れられていたというイメージがあるが、これも眉に唾をつけておかなければならない。
 実際には、男色に嫌悪感を抱くものも少なからずいた。
 たとえば、近世初期に書かれた『田夫物語』には、百姓が武士の男色を徹底的にバカにして、「その方の非道、はやはや止めたまえ」と痛烈に非難するシーンがある。
 そして男色好きの武士は「お前たちは田舎者だから、そのよさがわからないのだ」と捨て台詞を残してさっさと退散する。
 実際、徳川幕府は、武士の男色を「無体」として、禁止する対策を取っていた。それから書かれた軍記では、バカなお殿様が無能者を取り立てる筋書きとして、「男色で出世した愚将」という基本構造による関係をたくさん捏造した。
 このほか男色については、たくさんの誤解がある。
 具体的な詳細は、4月12日ごろ発売の『戦国武将と男色 増補版』(ちくま文庫)に書いたので、興味のある方はぜひご一読願いたい。本書がメインで扱っているのは戦国時代だが、日本の男色そのものを理解するのにも有用となるだろう。
 【乃至政彦】ないしまさひこ。歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(ともにJBpress)、『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『平将門天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。現在、戦国時代から世界史まで、著者独自の視点で歴史を読み解くコンテンツ企画『歴史ノ部屋』配信中。
   ・   ・   ・   

🌈16)─2─日本が異性装を嫌悪し始めたのは近代化したからである。女装したバサラ、かぶき者、男伊達。~No.32 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本文化には、幾重にも装いを新たに変身・変化する多様性を秘めていた。
   ・   ・   ・   
 エセ保守とリベラル左派には、民族中心神話に根差している日本文化が理解できない。
 特に、LGBT理解増進法案を成立させた政治的エリートと賛成したメディアや教育の進歩的インテリにはそれが言える。
 その意味で、現代に喧伝されている日本文化は戦後に作られたエセ民族伝統文化、歴史・宗教・自然と切り離された紛い物である。
 政治的エリートや進歩的インテリは、武士・サムライでもなければ百姓でもない。
   ・   ・   ・    
 昔の日本には、同性愛があった。
   ・   ・   ・   

   ・   ・   ・   
 2024年4月8日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「日本が異性装を嫌悪する度合いを強めたのは、欧米にならったせい」古代の英雄・ヤマトタケルの“女装”はどう語り継がれてきたのか
 『ヤマトタケルの日本史 女になった英雄たち』(井上章一 著)中央公論新社
 著者の井上氏は日本建築史を本業としながら、女性論や関西論など幅広いテーマの著書をもつ。本書は日本古代の英雄ヤマトタケルが女装して九州熊襲(くまそ)の川上タケルを暗殺した事績が、後世どのように語り継がれてきたかをあつかう日本文化論。
 ヤマトタケルノミコト(『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と表記)は皇統譜第12代景行天皇の皇子。父の天皇に命じられて日本各地に巣くう敵対勢力討伐に東奔西走する。いまの静岡県内で火攻めをされ、刀で草を切って向かい火を起こし身を守ったエピソードが特に有名で、その刀は草薙剣(くさなぎのつるぎ)として熱田(あつた)神宮(いまの名古屋市内)に収められ、三種の神器の一つとなっている。
 本書の構成は、第1章「牛若か義経か」、第2章「ヤマトタケル」、第3章「変奏曲」、第4章「スサノオ」、第5章「熱田神は楊貴妃に」、第6章「大江戸美少年伝説」、第7章「大日本帝国の軍人たち」、終章「多様な性と異性装」となっている。
 博識の著者が古今の史料を縦横無尽に駆使しつつ、ヤマトタケルの暗殺行為がどのように描かれてきたかを、それぞれの時代の特性に絡めて論じ進める。
 ヤマトタケルは古くは草薙剣の使い手として語られた。ところが17世紀後半には女装の英雄として見られるようになる。18世紀後半の本居宣長は女装に宗教的な意味を読み込み、近代の学術研究に引き継がれた。この主線と並行して、源義経伝説についての諸相と変遷、唐の日本侵攻を防ぐために熱田神が楊貴妃となって玄宗皇帝を蕩かした話、旧日本軍のなかで行われていた女装による余興の実話などが盛り込まれていて、それぞれに興味をひく。
 著者は言う。「同性愛や異性装を嫌悪する。日本社会がその度合いを強めたのは、欧米にならったせいである。……同性愛をにくむ人たちは、その意味で、けっこう近代的であり西洋的なのである」と。
 著者は中国からの留学生が女装による騙し討ちに共感しないと紹介し、そこに日中両国の英雄観のちがいを見る。しかし中国思想研究者たる私の見解では、この留学生の感性も近代的・西洋的である。中国にも異性装の伝統がある(武田雅哉著『楊貴妃になりたかった男たち』講談社刊)。
 ところで、スサノオヤマタノオロチ成敗や源頼光(よりみつ)の酒呑童子退治は相手に酒を飲ませて酔いつぶれたところを襲っている。宮本武蔵はわざと定刻に遅れて佐々木小次郎をいらいらさせる心理戦をとった。わが国には正々堂々と敵に正面から立ち向かわない英雄が多い。
 これは有史以来ずっと西に超大国と接する地政環境において、絶対まともに戦ってはならないという民族の知恵かもしれない。ゆめゆめこの遺訓を忘れるなかれ。
 いのうえしょういち/1955年京都府生まれ。国際日本文化研究センター所長。専門の建築史・意匠論のほか、日本文化や美人論、関西文化論など、研究分野は多岐にわたる。『つくられた桂離宮神話』、『南蛮幻想』、『京都ぎらい』など著書多数。
 こじまつよし/1962年群馬県生まれ。東京大学文学部教授。著書に『中国思想と宗教の奔流』『義経の東アジア』などがある。
 小島 毅/週刊文春 2024年4月11日号
   ・   ・   ・   
 改訂新版 世界大百科事典 「かぶき者」の意味・わかりやすい解説
 かぶき者 (かぶきもの)
 江戸時代前期,江戸その他の都市を舞台に反体制的行動を展開した武士,奉公人などを指す。〈かぶき(傾き)〉という言葉はかたよった異様な風俗や行動をいう。歌舞伎の源流である〈かぶき踊〉と同じ時代相を背景として発生し,ともに異端的なものとして受け取られていた。初期のかぶき者には,没落した在地小領主や,名主(みようしゆ)の家父長制的経営から解放された小農民を主体とする中間(ちゆうげん),小者(こもの)などの武家奉公人が多かった。かぶき者の首領たちは大鳥居逸兵衛,大風嵐之介などの異名をもち,若者を集めて血判の起請文(きしようもん)をとり,もし仲間に災難が起きた時は身命を捨て,たとえ相手が君父であっても〈道理〉に反した場合は容赦せず復讐することを誓っていたというから,かぶき者の行動原理は戦国以来の反権力思想たる下剋上思想にほかならない。しかし幕藩制身分秩序が確立するにつれ,旗本奴(やつこ)と町奴との対立にみられるように,かぶき者の行動や行動原理もしだいに矮小化し風俗化していった。それは幕藩権力による弾圧強化が直接の理由だが,かぶき者が市井から姿を消したのは,5代将軍綱吉のころである。
執筆者:北島 正元
 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
   ・   ・   ・   

⛩20)─5・K─天然昆布は海水温の上昇で海が変わり消滅する。〜No.43 

   ・   ・   ・
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2024年3月18日 YAHOO!JAPANニュース 産経新聞「消滅する天然昆布、大阪だし文化の危機 10年前から97%減「海が変わってしまった」 昆布の未来は 産地の異変
 天然真昆布の入荷が乏しいと嘆く「こんぶ土居」店主、土居純一さん=大阪市中央区
 昆布に〝危機〟が迫っている-。昆布店や生産者の間でそんな認識が広がっている。大阪のだし文化を支えてきた北海道産の天然真昆布(まこんぶ)は漁獲量が激減し、ほとんど手に入らない。不足分をまかなう養殖昆布も将来が不安視される。食生活の変化もあいまった「昆布離れ」で、店をたたむ昆布店も相次いでいるという。昆布に何が起こっているのだろうか。
 【グラフでみる】過去10年の真昆布生産量の推移
■ほぼ流通せず
 「天然ものが欲しいといわれても十分用意できず、新規顧客の開拓もできる状態じゃない」
 大阪・空堀商店街の老舗昆布店「こんぶ土居」(大阪市中央区)の4代目、土居純一さん(49)は話す。江戸時代に北前船で運ばれて以降、大阪では真昆布の扱いが主流だ。
 だが、天然真昆布は10年ほど前から生産量が落ち始めた。主要産地の南かやべ漁業協同組合(北海道函館市)によると、令和4年は近年のピーク時(平成26年)の703トンから約97%減の19トン。ほぼ流通はないに等しい状況だ。
 1年養殖の促成品は流通が安定しているが、同店は買いためてきた天然ものと天然ものに品質が近い2年栽培の養殖品でやりくりし、店頭販売や得意先への数量は何とか確保している。伝統の味を伝えるため、引き続き天然ものにこだわるつもりだ。
 ただ最近は2年養殖も生産量が落ちている。昆布の減少と相まって、大阪昆布商工業協同組合の加盟業者はここ6年ほどで2割強減った。土居さんは「事態が好転することを信じて何とか持ちこたえたい」と話す。
■漁獲量は半減
 「海底に草(海藻)がまったくない。小さなウニが大量発生していた」
 南かやべ漁協が立地し、函館市の太平洋岸に広がる南茅部(かやべ)地域。昨年11月ごろ、水中眼鏡で海中をのぞいていた昆布漁師、吉村良一さん(68)は息をのんだ。海底は海藻が消失する「磯焼け」と呼ばれる状態。食害の要因となっているウニの姿が目立った。「7~8年前までは、昆布やいろんな海藻が順番に芽吹いていたんだけどな」
 天然昆布は7月に漁の解禁を迎えるが「今季も厳しい。海が変わってしまった」とため息をつく。
 真昆布、利尻昆布羅臼昆布など国内産昆布の生産量の約9割を占める北海道。道内全体の生産量も、この20年ほどでほぼ半減した。漁業者の高齢化や昆布の減少があげられ、中でも真昆布の減少は際立つ。原因は特定されていないが、海水温の上昇など海洋環境の変化や、ウニの食害などが指摘されている。
 昆布は冷たい海を好み、環境の変化に敏感だ。これまでも気候や水温によって増減を繰り返してきた。吉村さんは、昆布が繁殖する10月中旬ごろの水温の計測を続けている。ここ数年20度を上回っており、以前より3~4度高いという。
 昆布の生態について、北海道大・北方生物圏フィールド科学センターの四ツ倉典滋教授は「わずか1度の海水温の変化で成長が大きく変わり、少しの水流や水質の変化でも昆布の群落は姿を変えてしまう。それほど敏感」と解説する。
 海水温の上昇は、日本海から津軽海峡をへて太平洋などに流れ込む対馬暖流の勢力が強くなった影響とみる。水温が上がるとウニの食欲が増し、食害が進むという。
 気候変動に伴う将来予測も厳しい。北大の研究グループによると、北海道周辺に分布する11種の昆布のいくつかは、温暖化の影響で2090年代までに姿を消す可能性があるという。
■資源確保課題
 北海道の昆布漁業は、古くから天然漁獲で成り立ってきた。現在は養殖が主流になっているものの、天然資源の確保は課題だ。四ツ倉教授は「これからは陸上の農作物のように、耕して種をまき〝害虫駆除〟などをすることが必要」という。気候変動という厳しい状況下だが、取り組めることをやろうという考えだ。
 海底の岩についた雑海藻(雑草)を削り、昆布が着生するスペースを設けて胞子(種)をまく。種まきには、成熟した天然昆布を網に入れて海に沈める方法などがある。
 まいた種が海底に定着する確度をあげようと、四ツ倉教授らはさらに、胞子を高粘度のセルロースと混ぜ、昆布が根づきそうな岩を狙ってまく技術も開発。一部地域で実用化されている。ウニの駆除も必須だ。
 これらの作業で、わずかながら昆布が回復した例もあるという。根本的な解決策が見当たらないなか「地道にやりつづけることが大事」と話す。(北村博子)
 ◇ 
 北海道の昆布 北海道大の四ツ倉典滋教授によると、世界には昆布の仲間が19種あり、そのうち11種は北海道とその周辺にしかないという。
 だしを取る昆布は主に、真昆布▽利尻昆布羅臼昆布▽日高昆布-の4種類。中でも南茅部(白口浜)産真昆布は高級品とされ、松前藩が朝廷などに献じたことから「献上昆布」とも呼ばれていた。
   ・   ・   ・   
 3月21日 YAHOO!JAPANニュース オルタナ「「海水温の上昇」に「氷河の後退」、「気温だけではない」気候の非常事態が明らかに
 ①世界気象機関(WMO)が年次報告書「地球の気候の現状2023」を発表した②気温のほか、海水温、氷河や南極の海氷の減少などでも記録を更新した③WMO事務局長は現状を「レッドアラート(非常事態)」と警鐘を鳴らす
2023年は地表温度のほか、海水温の上昇や氷河の後退などでも記録を更新
 世界気象機関(WMO)は3月19日、年次報告書「地球の気候の現状2023」を発表した。2023年の平均気温は、産業革命前の水準を1.45℃上回り、174年の観測史上、過去最高を記録した。海洋の温暖化、氷河の後退、南極の海氷減少なども、これまでの記録を更新し、WMO事務局長は「レッドアラート(非常事態)」と警鐘を鳴らした。(オルタナ副編集長・北村佳代子)
 WMOの報告書によると、2023年は史上最も温暖な年であり、世界の平均地表温度は産業革命前の基準値を1.45℃(不確実性マージンは±0.12℃)、上回った。この10年間は記録的な暖かさとなった。
 また2023年は、温室効果ガスの濃度、地表温度、海洋熱、海面上昇、南極の海氷面積の減少、氷河の後退についての記録も更新した。
 WMOのセレステ・サウロ事務局長は、「WMOは世界に向けて、レッドアラート(非常警報)を鳴らす。2023年に目撃された事象の中でも、前例のないほどの海洋の温暖化、氷河の後退、南極の海氷の減少は、特に懸念すべき要素だ」とコメントした。
 アルゼンチン出身の気象学者で、2024年1月にWMO事務局長に就任したサウロ事務局長は、海洋の温暖化については「ほとんど不可逆的」だと述べ、「元に戻るには数千年かかる可能性がある」との懸念を表明した。「このトレンドは実に憂慮すべきものだ。水は、大気よりも長く熱を保つという特性があるからだ」。
■海面の水位上昇速度は加速
 2023年の海水温は過去65年間で最も高くなった。2023年には90%以上の海が熱波を経験した。
 海洋熱は北大西洋に集中し、2023年後半には平均気温が3℃上昇した。海水温の上昇は、デリケートな海洋生態系に影響を及ぼし、多くの魚種が、より低い海水温を求めて北上している。
 2月には南極の海氷面積(少なくとも15%の氷に覆われた総面積)が過去最低を記録した。前回の過去最低記録から100万平方キロメートル減少しており、その規模はエジプトの面積にほぼ等しい。
 氷河もまた、北米と欧州での極端な融解を背景に、1950年以降で最大の減少幅を記録した。ヨーロッパのアルプスの氷河は極端な融解に見舞われ、スイスの氷河は、過去2年間で残りの体積の約10%を失ったという。
 氷河や氷床の融解に加え、海水の膨張を引き起こす海洋熱の上昇が継続したことで、海面も、過去30年間で年平均3.34ミリメートル上昇した。
 海面は、1993年から2002年までに、年間2.13ミリメートル上昇したが、2014年から2023年までの10年間で見ると、年間4.77ミリメートルの上昇と、上昇幅は2倍超となった。
 *オルタナオンラインでは、温室効果ガスの濃度や、「深刻な食糧不足」に直面する人の増加、2024年の気候の見通しなどについても報じています。
   ・   ・   ・   

🌈85)─2─花見の桜は短命な日本固有種ソメイヨシノである。~No.149 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 国の天然記念物に指定されている「日本三大桜」。
山梨県の山高神代桜  約1800歳
岐阜県根尾谷淡墨桜 約1500歳
福島県三春滝桜   約1000歳
   ・   ・   ・   
 FAQ・桜の豆知識 | 公益財団法人日本花の会
 海外からきた桜の品種ってあるの?
 回答
 あります。
 解説
 海外、特にヨーロッパはサクラの育種が行われています。‘オカメ’や‘アーコレード’、‘ピンクパーフェクション’などはその代表品種です。‘アメリカ’からは‘ピンククラウド’という品種が導入されています。これからも増えることでしょう。
   ・   ・   ・   
 じゃらんニュース
 日本には現在、600種類以上の桜があるといわれています。分類方法の違いもあって、正確には数え切れないレベルです。
 そんなたくさんの桜も、元をたどれば11種の「基本野生種」から生まれています。自然交配で生まれたものだけで100種以上あり、古くから園芸品種の育成も盛んです。
 もとの基本野生種とは、
 ヤマザクラ(山桜)、オオヤマザクラ(大山桜)、カスミザクラ(霞桜)、オオシマザクラ(大島桜)、エドヒガン(江戸彼岸)、チョウジザクラ(丁字桜)、マメザクラ(豆桜)、タカネザクラ(高嶺桜)、ミヤマザクラ(深山桜)、クマノザクラ(熊野桜)、カンヒザクラ(寒緋桜)
の11種。
   ・   ・   ・   
 2021年3月16日 ウエザーニュース「そのソメイヨシノの樹齢は?
 見極めはつぼみの付き方
 日本の桜の代名詞と言ってもいい存在となったソメイヨシノ。なぜ、こんなにもソメイヨシノが日本中に植えられたのか。
 それは、成長スピードが早いことが要因の一つとなっています。
 ソメイヨシノの樹齢を知る意味
 他の桜に比べて成長スピードが早いソメイヨシノは、お花見の名所を作るのにうってつけの品種です。ただ、成長スピードが早いといえども、ある樹齢に達すると成長は鈍化します。
 植えられた場所の条件によって違いはありますが、おおよそ樹齢30年〜40年で枝や幹の成長がゆっくりになります。
 それでも生き続けますが、その様子は人にたとえると青年期から壮年期、老齢期へと変化していきます。
 ソメイヨシノは寿命が60年とも70年ともいわれますが、動物のようにおおよその寿命があるわけではありませんが、樹齢が50年を超えてくると老木の域に入り、花の咲く時期が若い頃に比べてわずかに早くなる傾向があります。
 その理由は、若い木は枝葉の成長にエネルギーを注ぐ割合が高く、花は二の次になるからです。
 そのため、桜の開花予想をする上では、木(ソメイヨシノ)の年齢を知ることも考慮しないといけません。
   ・   ・   ・   
 まいどなニュース
 ソメイヨシノは短命って本当?「いや、それは誤解です」 京都の植物園で古い桜が次々「再生中」 
 堤 冬樹
 多くの人でにぎわいを見せてい今年の桜のシーズン。京都府立植物園京都市左京区)では近年、老齢化したり、災害で倒れたりしたソメイヨシノの再生に力を入れている。同園の専門家は「ソメイヨシノの寿命は短いと思われがちだが、それは誤解です」と強調する。
 樹齢70年ほどとみられるソメイヨシノ。幹の大半は朽ちているが、幹から新たに出た不定根が根付き、枝を伸ばすほど成長している(3月6日、京都市左京区・府立植物園)
樹齢70年ほどとみられるソメイヨシノ。幹の大半は朽ちているが、幹から新たに出た不定根が根付き、枝を伸ばすほど成長している(3月6日、京都市左京区・府立植物園)
 同園によると、ソメイヨシノは成長が早く、一斉に華やかに咲くことなどから、戦後、京都市を含め各地で広く植えられた。
 一方で腐朽菌が入って腐りやすく、植栽から50~60年たつと古木化が進行。倒壊の危険性などもあり、伐採を余儀なくされる木は多い。
 だが同園では、幹が朽ちてぼろぼろになったり、空洞になったりしても切らず、再生を試みている。樹木医の中井貞さん(52)は「芽をふいたり、根を伸ばしたりする生命力の強さもソメイヨシノの特徴。幹や枝を更新しながら、同じ個体として長く生き続けられる」と指摘する。
 実際、どう再生させているのだろうか。例えば、冬場の施肥。そばに鴨川が流れる同園の土壌はもともと石が多く、水分や養分が抜けやすいという。その分、油かすや牛ふんをまぜた有機肥料をたっぷり与えている。
 木々の周囲に大量の落ち葉を敷き詰めているのもそう。園内で出た落ち葉で、やがて分解されて土壌の栄養になる。アスファルト舗装された市街地では難しく、広い園ならではの方法だ。植物を堆肥化した土もふんだんに活用している。
 さらに、根を傷めずに圧縮空気で土をほぐす「エアースコップ」による土壌改良を10年ほど前から定期的に続け、発根を促している。
 ソメイヨシノの朽ちた幹をよく見ると、「不定根」と呼ばれる細かな根がたくさん出ているのが分かる。腐った幹を養分にして伸び、細い竹筒や塩ビ管を使って人為的に地面まで誘導することも。しっかりと根付き、数年かけて新たな幹に育った姿も確認できる。
 こうして同園では、戦前からの古木を含めソメイヨシノ約20本が活力を取り戻している。2018年の台風21号で根元から倒れた木からも若々しい枝が伸び、今年も花を咲かせた。
 2018年の台風21号禍で根元から倒れたが、立て起こして、幹から新たな枝が伸びているソメイヨシノ。周囲には落ち葉が敷かれている(3月6日、京都市左京区・府立植物園)
 中井さんは「きちんと手を加えてあげれば、その分応えてくれるのでやりがいがある。ソメイヨシノ本来の生命力を後押しし、来園者に見てもらうことが、広い土地や技術がある植物園の役割と考えている」と話す。
 京都府立植物園で最も古いとされるソメイヨシノ。周辺の地面で土壌改良を施している(3月6日、京都市左京区・府立植物園)
 この春、桜の美しい花だけでなく、それを支える幹や根元にも注目してみてはどうだろう。
   ・   ・   ・   
 2022年4月5日 ニューズウィーク日本版「満開の桜が見られなくなる? 60年寿命説、地球温暖化──花見に迫る危機とは
 桜の花見
 桜の名所に見られる密集した'染井吉野'は傷みやすい? y-studio-iStock
 <平安時代から続いてきた桜を愛でる春の宴は、'染井吉野'の寿命の問題と気温上昇のために近い将来できなくなるかもしれない>
 コロナ禍の影響で花見の宴会ができなくなってから、3回目の桜の季節になりました。開花を伝える桜前線は3月末までに東京や金沢まで北上し、長野や新潟、東北、北海道を残すところになりました。
 今年の桜は、全国で平年よりも2~4日程度早い開花日(各地の標本木で5~6輪以上の花が開いた状態となった最初の日)でした。ちなみに満開日は、東京では開花のおよそ7日後で、標本木の約80%以上のつぼみが開いた最初の日を指します。
 東京の標本木は靖国神社にあり、2020年と21年は観測史上1、2位となる最も早い開花日でした。今年は昨年よりは6日遅いものの、平年より4日早い開花となりました。
 花見の起源は奈良時代、桜の観賞は平安時代から
花見は、四季の変化に富む日本で春の訪れを愛でる伝統的な行事です。
 起源は、奈良時代の貴族が中国から伝来した梅の花を観賞したことにあると言い伝えられます。かつては、日本に古来からある桜よりも、中国産の珍しい花である梅を愛でて宴を開くことが一般的でした。
 現在の元号「令和」の由来は、日本最古の歌集である『万葉集』であると知られています。巻五には約千三百年前に詠まれた「梅花の歌三十二首」が収められており、序文である「初春の令月にして気淑(よ)く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」から引用されました。この序文は、「梅花の宴」を開いた当時の大宰府長官、大伴旅人が認(したた)めたものです。
 万葉集には桜を詠んだ歌も収録されていますが、桜の花見が始まったのは平安時代と考えられています。『日本後紀』には、嵯峨天皇弘仁3年(812年)に京都の神泉苑で「花宴之節(かえんのせち)」を催したと書かれています。記録に残る最古の「桜の花見」です。
 平安時代中期には、桜の花見はさらに一般的になります。文学作品でも「源氏物語」には宮中で桜を愛でて宴を開く様子が描かれ、「古今和歌集」には桜の名所として吉野が登場します。三万本あると言われる吉野の桜は、ほとんどが日本固有種である野生のヤマザクラです。
 鎌倉時代になると、花見は武士や町人にも広まり、寺社などにも桜が植えられるようになりました。源頼朝室町時代足利将軍家も花見を行った記録がありますが、戦国時代や安土桃山時代になると大々的な花見の宴を開く武将が現れます。特に盛大だったのは、豊臣秀吉が文禄3年(1594年)2月27日(新暦4月17日)に開いた「吉野の花見」です。総勢5千人の参加者には徳川家康前田利家伊達政宗らの武将や茶人、連歌師らが含まれており、吉水院(吉水神社)を本陣として5日間開催されました。
いっぽう、庶民の間でも、桜は古くから特別な花でした。農民たちは桜の開花時期を農作業を始める目安にしたり、咲き方で豊作・凶作を占ったりするなど、生活に根差した樹木として大切に扱ってきました。
 江戸時代になると都市部の町民文化が発展し、花見は桜を愛でる風雅な行事というよりも酒盛りを楽しむ娯楽として広がります。植木職人によって桜の交配や改良も盛んに行われるようになり、江戸時代末期には、エドヒガンとオオシマザクラを掛け合わせた(種間雑種の)ソメイヨシノが誕生します。
 日本中の'染井吉野'がクローン
 ソメイヨシノは、花とともに赤色の葉をつけるヤマザクラとは異なり、花の時期には葉をつけません。花は大きく、成長スピードは速く、枝が横に大きく広がって見た目が華やかなため、明治時代以降に急速に広まります。現在は、本州の桜の名所に植えられている品種は、ほとんどがソメイヨシノかつ'染井吉野'です。カタカナのソメイヨシノオオシマザクラエドヒガンの種間雑種全体の名称で、漢字の'染井吉野'は日本全国に接ぎ木で広がった特定の栽培品種を指します。つまり、日本中の'染井吉野'は同じ遺伝子構成(クローン)です。
 近年は、「'染井吉野'60年説」などとともに「桜の名所の危機」も話題になることがあります。
 成長が速い'染井吉野'は年輪が疎になりがちで、樹木の強度が低いにもかかわらず横に広がります。風を受ける面積が大きいため台風などで折れやすく、折れたところから腐食してしまうことが多いです。
 さらに、桜の名所作りのために密集して植えられやすいので、樹木1本について本来必要な光、水、養分が得られる面積を与えられなかったり、多くの花見客に根元は踏みつけられて傷を負ったりしがちです。
 しかも、もともと病気に弱い品種にもかかわらず全てがクローンなので、カビが原因の「てんぐ巣病」などが起きると近くの'染井吉野'全体に病気が広がり、一気に枯死するおそれがあります。
 '染井吉野'は樹齢30-40年が樹勢のピークで、50年を超えると幹の内部が腐り、およそ60年で寿命を迎えるという説があります。
 かつては「桜切るバカ、梅切らぬバカ」という言い伝えがあり、枝の切り口からの腐食を防ぐために、桜は剪定しないことが常識でした。けれど、東北屈指の桜の名所である弘前城では、1960年頃から同じバラ科樹木であるリンゴの栽培技術を応用して、積極的に城内の桜を剪定しました。すると、300本以上の樹齢100年を超える'染井吉野'が今も古木が花を咲かせ、樹勢を保つことに成功しました。剪定だけでなく、土の入れ替えや肥料の与え方にも工夫した「弘前方式」は全国に伝わり、寿命を延ばした'染井吉野'も各地にあります。
 いっぽう、樹齢60年近くなった'染井吉野'から、病気に強い後継品種の桜への植え替えをする自治体もあります。
 東京都国立市のさくら通り(全長1.8キロ)には、1960年代に約180本の'染井吉野'が植えられましたが、2010年頃からてんぐ巣病などによって幹が空洞になったり、強風で倒木したりするものが目立ち始めました。市は2013年から、てんぐ巣病になりにくい桜の品種「ジンダイアケボノ」に植え替えを進めました。
 桜の名所づくりを進める公益財団法人「日本花の会」は、これまでに200万本以上の'染井吉野'の苗木を提供してきましたが、最近は病気に強いジンダイアケボノとコマツオトメへの植え替えを推奨しています。
 2100年には、九州から東北までいっせいに開花する?
 桜の名所の危機の原因は、樹木の寿命だけではありません。九州では、すでに地球温暖化による暖冬の影響で、開花が遅れたり満開まで時間がかかったりする年があります。
 桜の花芽(蕾)は前年の夏に作られ、冬の前に成長を止めて休眠状態になります。その後、冬に一定期間の低温(概ね3℃から10℃前後)にさらされると休眠から目覚め(休眠打破)、そこからは気温の上昇とともに成長します。休眠打破のために必要な低温期間が足りないと、開花はかえって遅れます。そのため、2020年以降、九州では3年連続で北部から南部に桜前線が進む逆転現象が起きています。
 さらに近年は、「満開までに時間がかかる」現象もみられるようになりました。満開の定義は標準木の80%の花が一斉に咲いている状態なので、休眠打破がうまく進まないと花芽の生長の個体差が顕著になって、なかなか80%に達しない状況に陥ると考えられています。
 九州大学名誉教授の伊藤久徳氏は、2009年の地球温暖化シナリオを使って2100年までの桜の開花についてシミュレートしました。その結果、日本周辺の平均気温を平均で2~3℃程度高く設定すると、東北地方で桜の開花が今より2〜3週間早まり、九州などでは1〜2週間遅くなる──すなわち、3月末に九州から東北まで、'染井吉野'がいっせいに開花するという計算になりました。
 さらに、種子島や鹿児島の一部では'染井吉野'は開花せず、九州南部や四国南西部、長崎、静岡などでは一本の木で開花がダラダラと続いて満開にならないという結果が出ました。
 2100年に日本人は花見をできるのでしょうか。地球温暖化を軽減し、あるいは桜の休眠打破をもコントロールできるようになって、平安時代から変わらぬ春の宴を開いていることを期待しましょう。
 【関連記事】
 ソメイヨシノ韓国起源説に終止符? 日本文化の起源巡る韓国世論に変化の兆しか
   ・   ・   ・   
 2013年1月8日 さくら雑学事典「その2・百花繚乱 桜の種類について
 世界の桜
 桜の自生種は主に東アジアに分布しています。植物学上の分類によれば、中華人民共和国には33種があります。一方、日本には、分類のしかたにもよりますが10種の桜があるに過ぎません。
 東アジアではこの他、ヒマラヤ周辺に3種類の野生種があります。
東アジア以外では、ヨーロッパから西シベリアにかけて3種、北米に2種あります。
 よく、桜の発祥は日本であるとか、ヒマラヤ桜の多いネパールであるといった説が出ますが、北半球に広く分布しているため、どこが発祥というのははっきり分かってはいません。
 一方、栽培品種がもっとも多いのは日本です。日本には、野生種と栽培品種とを含めて約350種類の桜があります。その数は、新しい種類が発見されたり、交配種が作り出されたりして年々増えています。(名前がきちんと付けられていないものはものすごくたくさんあるはずです。)
 世界でもっとも桜を愛しているのは日本人だと言われることがよくありますが、確かにその通りだと納得する種類の多さですね。
 さて、上記通り北半球に広く分布していますので、日本以外で桜が見られる場所はたくさんあります。
 日本で一番多い桜は?
 それは皆さんの予想通り染井吉野です。
 染井吉野。花付きのよさと、葉が出る前に花が咲くのが特徴。江戸時代後期に売り出され、あっという間に日本各地を覆いました。
 2004年5月8日に、北海道森町 青葉が丘公園で撮影。
 今では、全国の桜の名所のうち約8割が染井吉野を植えていると言われています。
 また、全国に100万本程度あると言われています。
 染井吉野は本州から北海道の南部(道南)まで広く植栽されています。ただし、沖縄と、北海道の広い地域では育ちません。
 染井吉野は、薄いピンク色をしたやや大き目の花が枝にびっしりつきます。花が咲くと他の桜よりも華麗に見えます。この染井吉野オオシマザクラエドヒガンの雑種です。
染井吉野は、江戸時代の末期に染井村(現在の東京都豊島区駒込)の植木屋が売り出したと伝えられています。染井吉野の誕生は謎とされています。
 私は、植木屋(4代目伊藤伊兵衛政武などの説あり)がかけ合わせで作り出したという説が有力なように思っています。(偶然発見したとすれば、オオシマザクラエドヒガンの植生が唯一重なる伊豆半島ということになりますが、江戸時代の伊豆は道が整備されていないため、たとえ染井吉野が誕生していても発見される可能性が低いそうです。)
 ところで、染井吉野奈良県吉野地方とは全く関係がなかったにも関わらず、その植木屋はこの桜を「吉野桜」と名づけて売り出しました。
 植木屋は、桜の名所にちなんだ名前をつけて、たくさん苗を売ろうとしたのかも知れません。言ってみれば、吉野という「ブランド」をちょっと借りたということでしょう。
明治に入って、「吉野桜」という名前のままだと本家吉野のヤマザクラとまぎらわしいということで、改めて「染井吉野」と命名されました。
 さて、染井吉野はなぜ今の日本にたくさん普及したのでしょうか。
 それは、染井吉野がいくつかの長所を持っていたからと考えられます。
 染井吉野は、先に花が咲き、後から葉が開きます。桜の種類によっては花と葉がほぼ同時に開くものもありますが、染井吉野のように花が先のほうが見ばえがするため評判がいいのです。
 また、染井吉野の花は少し大き目で、花付きもよく、見た目が豪華です。
更に、成長が早くて10年も経てば立派な木になり、他の桜に比較すると若いうちから花を付けます。
 これらの長所を持っていたため、染井吉野は明治に入ってから、全国の城跡や公園、学校、道路沿い(そして残念なことですが軍事施設にも)などに植えられ、急速に普及していったのです。
   ・   ・   ・   
 2022年4月14日 「桜って・・・知っていますか?
 桜前線が到来し、桜の花びらが満開になっております。
 昨年の春に入社し2度目の桜の季節、今までより少しばかり心に余裕があるようで、現場に出て周りを見渡すと、桜の美しさに目が奪われる今日この頃です。
 皆様はいかがお過ごしでしょうか。さいたま市見沼区の長谷川電気です。
 いつもブログを書くときは、業務的な事を書いてしまうので、心地よい春の日差しを受け、趣旨を変えて業務以外のことを書いてみようと思います。
 日本の花【桜】ですが、公園やお庭など今では身近で誰もが知っている花ですが、どんな花?と調べることは、なかなかないのではないでしょうか。
 サクラはヨーロッパ・西シベリア、日本、中国、米国・カナダなど、主に北半球の温帯に広範囲に自生しています。
 歴史的に日本文化に馴染みの深い植物で、その変異しやすい特質から特に日本で花見目的に多くの栽培品種が作出されてきました。
 このうち観賞用として最も多く植えられているのがソメイヨシノで、鑑賞用としてカンザンなど日本由来の多くの栽培品種が世界各国に寄贈されて各地に根付いていて、もともと英語では桜の花のことを「Cherry blossom」と呼ぶのが一般的ですが、日本文化の影響から「Sakura」と呼ばれることも多くなってきているそうです。
 そんな日本の花【桜】ですが、もともとは日本になく、中国から来た説があるんですよ。
 1975年に日本で出版された桜の専門書「桜大鑑」。その中に、「桜の原産地は中国で、日本の桜は中国のヒマラヤ山脈から伝来した。
 その時期は唐の時代だった」との記述があるそうです。
 しかし一番馴染みのあるソメイヨシノは、日本の園芸品種で、江戸時代後期に日本固有種のオオシマサクラとエドヒガンを改良した「吉野桜」が誕生したとされています。
 この吉野桜は、現在の東京都豊島区にあった「染井村」で、植木職人の手によって作られたといわれており、奈良県にある吉野の山桜と区別するため、のちに「ソメイヨシノ」と呼ばれるようになったのが、現在のソメイヨシノの始まりとされています。【諸説あり】
 染井村の植木職人「GoodJob」ですね。
 そういえば、「さくら」という名前の由来や語源については多くの説があり、どれも未だに「これが正しい説」という確証はないみたいです。
 ですので、その中から比較的認知度が高いものをいくつかご紹介します。
 ◎古事記日本書紀に登場する「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」が由来とする説。
 富士山の上空から桜の種を蒔いたという逸話があり、「さくや→さくら」に変化したと考えられています。
 ◎桜は「豊作をもたらす田んぼの神様が宿る木」と考えられていたとする説。
 「さ」は稲の精霊、「くら」は稲の精霊が降臨する場所を指す古語で、このふたつが組み合わさって「さくら」となったと言われています。
 ◎「咲く」という動詞に「彼ら・彼女ら」など複数を表す接尾語「ら」がついて 「咲く+ら=さくら」になったとする説。
 小さな花が一斉に花開く様子から出た説と言われています。
 ◎「咲麗(さきうら)」とは、読んで字のごとく「花が麗うららかに咲く様子」を表す言葉です。麗らかに咲く花の代表格と考えられていたのかもしれません。
 う~~ん、どれも素敵で捨てがたい由来ですね。
 鮮やかに咲き誇り可憐に散る姿が美しい、そんな姿に日本人は惹かれているのではと感じさせる【桜】、来年も穏やかな気持ちで見ることができる様に、仕事を頑張ろうと思うこの頃です。
 電気工事・高圧工事は埼玉県さいたま市の株式会社長谷川電気へ
 株式会社長谷川電気
 〒337-0026
 埼玉県さいたま市見沼区染谷1344-1
 TEL:090-1440-5910
   ・   ・   ・   
2023.08.25
 2023年8月25日 銘木総研 編集部「特集
 日本人と桜
 満開のソメイヨシノ 写真提供: PIXTA
 日本人の多くが愛して止まない樹木のひとつといえば、春の訪れを告げる「桜」でしょうか。ようやく本格的に楽しめるようになったお花見しかり、もちろん主に愛でられるのはその愛らしくも華やかで、儚い桜の「花」ですが、日本人が何故それほどまでに桜に惹かれるのか、日本人にとって「桜」とは何なのか。あらためて考察してみました。

 目次
 梅から桜へ ~日本人はいつから桜を好きになったのか お花見の始まり~
 桜と日本人~日本人はなぜ桜に惹かれるのか~
 桜と日本文化 ~アート・食、日本文化の中の桜~

 梅から桜へ ~日本人はいつから桜を好きになったのか お花見の始まり~
 梅から桜へ 愛でる花が代わる
 山梨県新倉山浅間公園より桜と富士を望む 写真提供: PIXTA
 平安時代まで、日本人にとって「特別な花」といえば、弥生時代(※)中国から渡来したと言われる『梅』でした。8世紀に中国との交易の中で、薬用の「烏梅(うばい)」(梅干の一種)が輸入された際、梅の種や苗も輸入され、その後日本で栽培され始めたようです。
 いずれにしても舶来ということで、当時はとても高価かつ有用な植物として必然的に都の中に植えて管理していました。山桜が野生であるのに対して、梅は人間の手によって栽培されたのです。 また、実用性だけでなく、春になると他の植物よりも早く花を咲かせる「百花の魁(さきがけ)」である梅は、鶯と組み合わせて春の訪れを告げる花として尊ばれていました。
 『万葉集』では「梅」が「桜」の3倍(119首)の数も歌に詠まれていたように、奈良時代の貴族は梅を好み、鑑賞しており、当時の花見と言えば梅の花が主流だったのです。しかしこれは、決して桜が好まれていなかったわけではなく、当時の日本人にとって桜が神聖な木として扱われていたためだとも考えられます。
 例えば、「桜=サクラ」の語源は、天つ神のニニギのミコトと木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の婚姻神話で、春に里にやってくる稲(サ)の神が憑依する座(クラ)を合わせて「サクラ」という説。さらに、富士山頂から花の種を蒔き花を咲かせたとされる、「木花之開耶姫(コノハナノサクヤビメ)」の「さくや」をとったという説など諸説あります。
 その後、894年の遣唐使廃止と、いわゆる「国風文化」の発展とともに、日本に自生していた『桜』を特に好むようになっていったのだと思われます。
 平安時代に編纂された『古今和歌集』で詠まれた花は、梅が約18首、桜が約70首。『万葉集』とはその数を逆転しました。
 主役交代のひとつのきっかけは、平安「三筆」の一人・嵯峨天皇(786~842年)が牛車で行幸の際、京都・東山の「地主神社」の満開の桜に心を奪われ、あまりの美しさに二度、三度と車を引き返しては見事に咲く花を眺めた(このことから「御車返しの桜」とも呼ばれる)とあります。そして御所の庭の「左近の梅」が桜に植え替えられ、雛飾りでお馴染みの、現在の「左近の桜」「右近の橘」の姿になったのだとか。
 桜と日本人~日本人はなぜ桜に惹かれるのか~
 お花見の始まりは嵯峨天皇から
 歌川広重「浪速名所図会・安井天神山花見」(国立国会図書館蔵)
 平安時代初期の史書日本後紀(にほんこうき)』には、嵯峨天皇弘仁3年2月12日(812年3月28日)に京都の寺院・神泉苑(しんせんえん)にて「花宴の節(かえんのせち)」を催したとあり、これが記録に残る最初の「桜の花見」と考えられています。
 その後、「桜の花見」は貴族の間で流行し、天長8(831)年からは宮中で天皇主催の春の恒例行事として取り入れられたそうです。その様子は平安時代中期の『源氏物語』第八帖、「花宴(はなのえん)」にも描かれています。
 そして、安土桃山時代になると、豊臣秀吉による大がかりな花見が世をにぎわせました。
 文禄3(1594)年の「吉野の花見」は、大坂から千本もの桜を移植した吉野の山に、徳川家康前田利家伊達政宗など有力武将ら五千人を招き、5日間も行ったというかつてない盛大なスケールだったことが記録されています。 花見の習慣が庶民にまで広まったのは、江戸時代のこと。8代将軍徳川吉宗は、浅草や飛鳥山に桜を植えさせ、庶民の行楽を奨励しました。
 さらに吉宗は、5代将軍綱吉の時代に「生類憐みの令」で禁止された「鷹狩」を復活させました。その際、農民たちの収益が上がるようにと、鷹狩の場所に桜を植えさせ、花見客が訪れるよう取り計らったのだとか。
 花見にお弁当やお酒がつきものとなったのもこの頃から。花見は千年以上の歴史を超えて現代に生きる日本文化といえます。
 日本人の精神性と深く結びついた「桜」
 花筏〜桜の花びらが川面いちめんに 写真提供: PIXTA
 世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
 これは平安時代初期に書かれた『伊勢物語』の主人公・在原業平が、桜によって心が乱されることを詠嘆した歌。
 ひさかたの ひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ
 これは『小倉百人一首』で紀友則が桜の花の盛りの短さを惜しんで詠んだ歌。
 花の色はうつりにけりな いたづらに わが身世にふるながめせしまに
 同じく『小倉百人一首』で、美貌で名高い小野小町が衰えゆく容色を桜に重ねて詠んだもの。
 ねがはくは 花のしたにて春死なん そのきさらぎのもちづきのころ
 これは桜の名所・吉野に通いつめ、桜へ想いを託す歌を数多く残した西行が、死ぬその時まで桜を愛でていたいと切望した歌。
 これほどまでに日本人が桜を好きな理由のひとつに、桜は春の訪れを象徴する花であること。
 四季がはっきりしている日本では、寒さが厳しい我慢の「冬」が終わり、様々な物事が「はじまり」を迎える「春」は待ち遠しく、うきうきと心躍る季節です。
 もうひとつの理由は、日本人特有の滅びの美学というか、「美しくも儚い花」であること。
 何ヶ月も前からずっと、桜の満開を心待ちにしていたにも関わらず、その爛漫と美しい桜は2週間程度で儚く散ってしまいます。
 特に一斉に咲いて一斉に散る「ソメイヨシノ」が主流になると、満開から花吹雪、花絨毯、花筏へと短い間にその姿は移り変わり、その無常さ、名残惜しさゆえに、より深く心惹かれるのでしょう。
 桜と日本文化 ~アート・食、日本文化の中の桜~
 日本人は芸術、食と「桜」を貪欲に楽しむ
 関東風桜餅 写真提供: PIXTA
 そんなに愛する桜ですから、日本人は、和歌はもちろん、浮世絵、日本画、洋画、工芸品、唱歌、流行歌から、和菓子やケーキなど食にまで「桜」を素材にした数々のものを生み出して楽しんでいます。
 大正生まれの日本画家、菊池芳文は、桜を消えゆくものの美しさと重ね合わせ、桜の儚い美しさに吉野という土地に刻まれた歴史をにじませた6曲1双の傑作屏風絵、「小雨ふる吉野」(東京国立近代美術館蔵)を描きました。
 海外の作家ですが、日本でも個展が開かれた現代アートの巨匠、イギリスのダミアン・ハーストは「桜とは美と生と死にまつわるものである」と語り、「生と死」、「過剰と脆弱性」という彼のテーマを桜に託した連作「桜=Cherry Blossoms」を発表しています。
 「桜を食べる」ことで言えば、関東風桜餅「長命寺」の元祖は、長命寺の門番・山本新六が、享保2(1717)年、門前に「山本屋」を創業して売り出したのが始まりで、もとは墓参の人をもてなした手製の菓子であったそうです。
 おはぎでお馴染みの道明寺粉で出来た関西風の桜餅「道明寺」は、関東風桜餅の人気にあやかり、大坂・北堀江の土佐屋が天保(1830〜1844)頃に作ったのではないかと言われます。
 本記事は、
 ~日本の名木と伝承を明日に紡ぐ~
 銘木総研の広報誌「木魂ッ子」vol.17
 にも掲載されています!
   ・   ・   ・   

🌈87)─1─桜の起源論論争。桜は「元々は中国のものだ!」。ニセ桜文化。~No.148No.149 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本のお花見に利用する桜は、日本固有種の染井吉野である。
   ・   ・   ・   
 日本の桜と中国・朝鮮の桜とは違うし、お花見も日本と中国・朝鮮とでは違う。
 お花見など日本文化を奪って自分の国が元祖・起源だとして日本の文化を否定する事は、「文化度が低い」と言うしかない。
 日本の文化は、世界中の文化を受け入れている。
   ・   ・   ・   
 FAQ・桜の豆知識 | 公益財団法人日本花の会
 日本以外にも桜は自生してるの?
 回答
 自生しています。 サクラ(サクラ亜属)は北半球に広く分布し、ヨーロッパから西シベリアにかけて3種が分布。また、東アジアに3種、中国には33種のサクラ亜属が分布してると報告されています。
 解説
 サクラはバラ科サクラ属サクラ亜属に属する落葉性の樹木です。
 この属はサクラの他にもウメ、モモ、アンズ、スモモなども含むかなり大きい属です。
 サクラと総称しているものはサクラ亜属に属するものをいいます。
 サクラ属は主として北半球の温帯に広く分布しており、ヒマラヤ地域が原産といわれています。
 日本以外にも桜は自生してるの?
   ・   ・   ・   
 2021年5月27日 ニコニコニュース「桜は「元々は中国のものだ!」、なぜ日本を代表する花になったのか=中国
 日本を代表するものには、富士山や寿司などたくさんあるが、「さくら」も間違いなくその1つだ。しかし、中国メディアの百家号は24日、「桜は中国のものだった」と主張し、「日本を代表する花になった理由」を分析する記事を掲載した。
 桜の起源に関しては、桜で有名な武漢市や中国櫻花産業協会なるものが2010年代になって「もともとは中国のもの」と主張を始めるようになったようだ。記事は、日本の桜は中国から100万年前に来たという説を紹介している。この桜の起源説は諸説あり、品種によっても原産地にはばらつきがあるのが現状だ。
 それはさておき、桜がこれほど日本人に愛され、全国に広まっていまや「日本の花」として認識されるまでになったのはなぜだろうか。記事は「嵯峨天皇が桜を気に入った」のがきっかけだったと紹介している。嵯峨天皇は、記録に残る最初の花見を開催した人物として知られている。
 また、桜は、日本の「武士道精神」にもぴったりだったと紹介している。美しくもはかなく散る様子がまるで武士のようで、「武士の象徴になった」という。これは、中国人にはない感情だとした。さらには、これだけ桜が日本全国に広まったのは、江戸時代以降日本人が桜を熱心に交配させてきた結果でもあると伝えている。
 記事は、「桜は中国由来なのに」と残念がっているが、由来はいずれにしろ、これほど桜を愛し国を代表する花にまでなっているのは、やはり日本をおいて他になさそうだ。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)
 桜は「元々は中国のものだ!」、なぜ日本を代表する花になったのか=中国
   ・   ・   ・   
 2015年4月16日 産経新聞「「桜の起源」論に中国も参戦 「中国発祥で広まったのは日本。韓国は何の関係もない…」
 【ウイークリーワールド】「桜の起源」論に中国も参戦 「中国発祥で広まったのは日本。韓国は何の関係もない…」
 近年、春を迎える度に、一部の韓国メディアによって「桜の起源は韓国」との主張が繰り返されている。今年は桜の原産地どころか、「花見」も韓国の文化という暴論が出現したようだが、案の定、日韓の論争に中国が「歴史」を掲げて割り込んできた。
 ◇ 
 広東省の地元紙、南方都市報(電子版)によると、中国桜花産業協会の何宗儒会長は3月末、広州市で開いた記者会見で「桜の真の発祥地は中国だ。日本の権威ある桜の専門書も、それを証明している」と述べ、桜の起源について「日韓両国とも資格がない」と主張した。
 何会長が中国起源説の根拠としているのは、1975年に日本で出版された桜の専門書「桜大鑑」。その中に、「桜の原産地は中国で、日本の桜は中国のヒマラヤ山脈から伝来した。その時期は唐の時代だった」との記述があるという。
 中国植物学会植物園分会の張佐双理事が同紙に語ったところでは、桜の野生種は世界中で約150種存在し、そのうち50種以上が中国で確認されている。サクラ属の野生祖先種約40種のうち、33種が中国原産だという。
 何会長は日韓の論争への参戦の理由について、「日韓と争いたいのではなく、事実を述べる必要がある。多くの歴史資料が、桜の起源が中国にあると示している。中国人として、この歴史をより多くの人々に知らせる責任がある」と述べている。
 ただ、歴史認識で韓国と対日共闘姿勢を取っている中国にあって、桜論争については様子が違う。韓国メディアは「ソメイヨシノの原産地は韓国済州島であり、花見も韓国の文化だ」とうそぶいているが、何会長は「簡単に言うと、桜は中国を起源とし、日本で大々的に広まった。韓国は何の関係もない」と韓国の主張を一蹴している。
 中国としては、ソフトパワーとしての日本の桜文化を、ある程度認めているようだ。在上海日本総領事館の統計によると、3月に中国人に発給した観光ビザは過去最多の14万6千件。買い物に加え、「花見」をするために日本を訪れているとみられている。
 中国にも桜の名所はある。たとえば北京市内の玉淵潭公園。北京市観光局によると、約140ヘクタールの敷地の一部に設けられた25ヘクタールの「桜園」には、ソメイヨシノや山桜、八重桜など約2千本の桜が植えられている。清明節の5日、同公園は散りゆく桜を愛でる市民でごった返していた。
 同公園の桜は「1973年の春、北海道の山のふもとに植えられてあった180の桜が日中友好の記念として中国に贈られた」のだという。近年の中国での桜人気は、いわば日本から逆輸入されたもの。ネット上に掲載された青森県弘前市の桜の写真に「絶対に一度は行ってみたい」との声が挙がるように、中国人観光客にとって日本の桜は憧れとなっている。
 中国のネット上では、東京・上野公園に「花見のマナー」に関する中国語の看板が設置されていると伝えられている。在日本中国大使館も、花見に日本を訪れる中国人観光客に「木に登ったり、枝を折ったりしないように」などと、マナー順守を求めたとされる。
 何会長は「(桜の)起源として、さらに多くの中国人に桜を理解し、桜を観賞してほしい」と望んでいる。ただ、いくら中国が起源とアピールしても、「桜=日本」という中国人観光客の印象を変えるのは難しそうだ。
 (北京 川越一、写真も)
   ・   ・   ・   
 2016年4月11日 産経新聞「関西の議論
 中国大使館が訪日花見客に異例の注意喚起「大声で騒ぐな」「枝を折るな」…一方で中韓は「桜の起源説」堂々主張
 だが、昨シーズンは「桜の枝を折る」「トイレで用を足さない」「ゴミをポイ捨てする」といった迷惑行為が指摘され、中国人観光客を迎えた地域や自治体がその対処に追われたケースも目立った。こうした事態を受け、中国大使館は今年の花見シーズンを前にした3月24日、「花見に関する注意事項」を日本を訪れる中国人向けに発表した。
 そこでは日本の花見文化を紹介したうえで、「旅行客は他人の『領地』に踏み入らないこと」「日本人のように楽しみたいなら、適切な場所にシートを敷き、大声で騒がないこと」など、マナー順守を強調。他にも「桜の枝を折ったり、樹を揺らして花びらを落とそうとしない」、「写真撮影は現地の法律に従い、私有地などに立ち入らないこと」、「ゴミは指定の場所に捨てるか、持ち帰ること」と、細部にわたって注意を呼びかけている。
 「日本人は中国の桜を羨ましがり、花見文化を持ち帰った」
 そんな中国で、最近喧伝(けんでん)されているのが「花見の起源は中国」説だ。中国桜花産業協会(広東省広州市)のサイトでは、「桜は中国のヒマラヤ山脈を原産とし、その後長江流域や台湾地区に伝わった」と、原産地であることを強調。さらに「唐代には諸国の使者が訪れる中、日本人は中国の桜植樹や観賞の文化を羨ましがり、茶道や剣道の文化とともに日本に花見の文化を持ち帰った」と記している。
 起源説でにぎやかなもう一つの国は、韓国だ。韓国メディアはソメイヨシノの原産地が韓国の済州島で、花見も韓国の文化だと主張。これが日韓のネットユーザー間で激論となっている。
 日本の花見は豊作祈願の行事や、奈良時代の貴族が中国から伝来した梅を観賞して歌を詠んだ「花見」が起源-との説がある。「日本後紀」には嵯峨天皇弘仁3(812)年に神泉苑で「花宴の節」を催したとあり、これが確認できる花見の最初の記録とみられ、その歴史は古い。また、ソメイヨシノは江戸時代に人工交配で作られたもので、韓国の「原産地論」には無理があると言わざるを得ない。
 中国では社会問題に
 その中国では、訪日旅行者に対し中国大使館がクギを刺したように、花見のトラブルが数年前から問題になっている。
 広大な中国大陸は、寒帯から熱帯まで気候分布も幅広く、大都市を中心に花見の名所は少なくない。上海一の桜の名所ともいわれる「顧村公園」では、「芝生の上でピクニックを楽しむ観光客も少なくない」と、日本に似た花見の様子が地元のニュースサイト「東方網」で報じられている。
 ただ、「食事後、ゴミ箱が近くにあるのにポイ捨てする」、「樹木を故意に揺らす」といった観光客の行為に、公園関係者が頭を抱えている-というニュースも、3年前から報じられていた。
 今春も香港紙「明報」が、桜の枝を揺らして花びらの雨を降らせたり、桜の木に登って写真撮影する観光客について報道。中国でも花見の迷惑行為は社会問題として指摘されてはいるが、不届き者は後を絶たない。
 ただ、中国での花見は日本のスタイルとは少し異なるものもあるようだ。奈良を訪れた河南省のリ・ユエンチーさん(27)は「私の故郷やその周辺では、花見で飲食する人はあまり見かけない。花見酒などは日本独自の文化では」と指摘。香港の教師、デン・インシャンさん(29)も「そもそも、香港には日本のようにたくさん桜がない。花見といえば、写真撮影を楽しむこと」と話した。
 「日本はトイレもゴミ箱も少ない」!?
 桜の季節の4月には、多くの観光客が訪れる奈良(26年は約415万人)。「ホテルフジタ奈良」(奈良市)では今春、「花見文化を外国人のお客さまに正しく伝えたい」と、英語と中国語で花見の文化やマナーを説明したリーフレットを配布している。
 リーフレットでは、花見を「日本の風物詩」とし、「飲酒禁止でないか確認すること。飲み過ぎ、騒ぎ過ぎに注意すること」「場所取りは必要最小限に」「写真撮影時は桜の枝を引っ張ったり、折ったりしない」「ゴミは持ち帰るか、分別して所定の場所に廃棄する」といったマナーを、イラスト付きで説明。トイレの問題についても、「トイレ以外の場所で用を足さない。トイレットペーパーは持ち帰らない」と明記している。
 リーフレットを見たフランス人のティム・ケリーさん(34)は「なぜその行為が禁止されているのか理由が明記され、イラストもあり分かりやすい」と評価。一方、内モンゴル出身で現在は日本に留学中の苑白露さん(26)は「日本は花見の名所に限らずゴミ箱が少ない。持ち帰らないといけないのは結構大変」と不満顔。「トイレも少なくて、いつも並んでいる」と話した。
 ただ、花見マナーが問題になるのは外国人だけではない。奈良公園室の担当者は「国によって習慣も違うだろうが、現地のルールに合わせてほしい。日本人も同様で、しっかりマナーを守ってほしい」と話す。実際、記者も枝垂れ桜の名所「氷室神社」(奈良市)で、桜の枝を引っ張って写真撮影する日本人カップルを見かけた。
 担当者は「『一観光客である自分の姿も見られている』という意識を持ち、お互い気持ちよく花見を楽しんでほしい」と話した。   (神田啓晴)
   ・   ・   ・