💍3)─2─令和元年5月1日。新たな今上天皇の即位。~No.6No.7 

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 2019年 5月1日11:02 msnニュース 毎日新聞「皇居二重橋「新元号万歳!」の歓声
 © 毎日新聞 平成最後の日を迎え、皇居前広場を訪れた大勢の人たち=東京都千代田区で2019年4月30日午後4時24分、手塚耕一郎撮影
 「平成」から「令和」へ――。東京都千代田区の皇居正門(二重橋)付近や渋谷のスクランブル交差点には30日深夜、改元の瞬間や「新元号最初の朝」を迎えようと、大勢の人が集まった。
 二重橋付近では改元10秒前になると、群衆からカウントダウンを刻む声が自然にわき起こり、改元の瞬間には「新元号万歳!」との歓声も上がった。
 「せっかく時代が変わるなら、皇居で迎えたいと思って来た」。そう語った台東区の会社員、尾川怜(さとし)さん(34)は「平成は平和だったので、令和も平和であり続けてほしい」と望んだ。
 また、この日のために岡山県から家族4人で上京してきたという末藤永三郎さん(44)は「結婚をして家族ができたのが平成だった。令和は、家族で一緒にいる時間をたくさん持てるようにしたい」と語った。
 一夜明けた1日、雨が上がった「令和最初の朝」も、二重橋付近は訪れる人が絶えず、新元号を書いた紙を掲げて記念撮影する姿もみられた。
 大田区の会社員、高橋紫苑(しおん)さん(21)は「平成が終わったのは名残惜しいが、今日、新しい天皇が即位するということで、日本人らしく気を引き締めていきたい」と話した。
 また、アルゼンチンから旅行で訪れたというミゲル・ファブリティさん(33)は「母国のアルゼンチンには王様がおらず、日本の天皇のことはよく分からないが、歴史的な瞬間に立ち会えてうれしい。一生の思い出になると思う」と笑顔をみせた。【片平知宏、竹内麻子】
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 5月1日11:14 産経新聞「「即位後朝見の儀」始まる
 「即位後朝見の儀」でおことばを受け取られる天皇陛下=1日午前11時13分、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影)
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 第126代天皇に1日即位した天皇陛下が、皇居・宮殿「松の間」で国民の代表と即位後初めて面会される「即位後朝見の儀」が同日午前、始まった。天皇として初めてのお言葉を述べられる。
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 5月1日11:34 産経新聞「即位後朝見の儀における天皇陛下のお言葉全文
 「即位後朝見の儀」でおことばを述べられる天皇陛下=1日午前11時14分、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影)
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 日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。
 この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
 顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御(み)心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
 ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽(さん)に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。
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 5月1日16:28 産経新聞天皇陛下の即位報じる号外発行 「時代を実感できる」
 渋谷のハチ公前では天皇陛下即位の号外が配られた=1日午後1時19分、東京都渋谷区(佐藤徳昭撮影)
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 天皇陛下が即位の儀式に臨まれたのを受けて、新聞各紙は1日、繁華街などで号外を配布した。令和の新時代の幕開けを伝える歴史的な紙面とあり、人々は次々と手を伸ばした。
 産経新聞は同日、号外5600部を発行。銀座・有楽町や新橋など都内5カ所で配布した。このうち東京都港区のJR新橋駅前では午後1時ごろに配布が始まると、あっという間に人だかりができ、皇位継承儀式「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」や「即位後朝見の儀」の様子を伝える内容に見入っていた。
 号外を集めているという東京都世田谷区の鳥塚辰彦さん(59)は、「天皇陛下とは同い年で親近感を持てる。号外を手にした方が、時代の移ろいを実感できる」と笑顔。神奈川県横須賀市の蛯名優有子さん(51)は「テレビでも特集が続き、お祝いムード。号外は記念になるし、SNS(会員制交流サイト)にアップするつもり」と話した。
 新聞各紙は、元号が「令和」と発表された4月1日にも号外を発行。「歴史の証」を求めて高齢者から若者までが殺到し、IT全盛の時代の中、紙媒体の号外の価値が改めて評価された現象として話題となった。」
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 5月1日21:28 産経新聞「晴れの御代替わり 天皇陛下「自己研鑽」御決意
 「即位後朝見の儀」を終え、「松の間」を出られる天皇、皇后両陛下=1日午前11時18分、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影)
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 歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽(けんさん)に励む-。1日に即位の儀式に臨んだ天皇陛下の初めてのお言葉は、歴史学者らしい姿勢とともに、象徴への道のりが緒に就いたばかりであることを印象づけられた。譲位に伴う世代交代は華やかに、清新の気に満ちた中で進められた。
 即位の儀式「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」と「即位後朝見(ちょうけん)の儀」が行われたのは、4月30日の退位の儀式と同じ皇居・宮殿「松の間」。昭和天皇崩御の2日後で、国民、社会全体が悲しみの中にあった平成の即位の儀式とは対照的に、「晴れの儀式」として営まれた。
 「三種の神器」などを受け継ぐ剣璽等承継の儀に続き、国民の代表と対面されたのが即位後朝見の儀。中央の壇上に最高位の勲章「大勲位菊花章頸飾(けいしょく)」を首から下げた陛下が立たれ、ティアラ(宝冠)とネックレスを輝かせた皇后さまが寄り添われた。
 皇嗣(こうし)秋篠宮さまと常陸宮さまは勲章付きのえんび服という正装のお姿。秋篠宮紀子さまをはじめ女性の成年皇族10方が勲章、ティアラを着用したロングドレスという装束で、華美な雰囲気に花を添えられた。
 陛下は天皇として初めてのお言葉で、上皇さまの在り方を踏襲するように「国民」という表現を6回用い、「常に国民を思い、国民に寄り添いながら」象徴の責務を果たすことを誓われた。その一方で、歴代天皇の振る舞いに留意し、自己研鑽することへの決意も表明された。これは上皇さまのご即位時にはなかったフレーズだ。
 陛下は高校から継続的に歴代天皇の事蹟(じせき)を教わり、大学で歴史学を専攻された。ここ数年は、中世の天皇が飢饉(ききん)や疫病で苦しむ人々の安寧を祈り、各地に送った般若心経の写経を精力的に見て回られてきた。
 「粛然たる思い」。126代続いた皇位を継承する重責も吐露された。ただ、最後に「国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」と述べられた声色には、力強さがみなぎっていた。
 儀式を終え、壇から降りて退出する際、前日の上皇さまが上皇后さまに手を差し伸べられたのに対し、しっかりとした足取りで歩みを進められた陛下、皇后さまのお姿からは、新時代への希望があふれていた。
 皇太子時代から陛下を支えてきた小田野展丈(おだの・のぶたけ)侍従長は1日夜の就任会見で「お二方とも笑顔で最後まで務められてよかった」と胸をなで下ろしていた。」
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💎35)─1─平成31年4月30日。今上天皇の譲位、退位。〜No.169No.170No.171・ ㉚ 

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 今上天皇陛下は、歴史において、明仁天皇ではなく元号に伴い「平成天皇」と呼ばれる。

 もし元号がなければ、天皇は名前の「明仁」と呼び捨てにさ、歴史にも「明仁」とだけ書かれる事になる。

 日本国家と日本国民は、「明仁天皇」と呼ぶのか、「平成天皇」と呼ぶのか。

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 2019年4月30日17:18 産経新聞「「支えてくれた国民に、心から感謝」陛下、退位の礼で「最後」のお言葉
 「退位礼正殿の儀」でお言葉を述べられる天皇陛下=30日午後5時7分、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影)
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 天皇陛下は30日午後5時、皇居・宮殿「松の間」で「退位礼正殿の儀」(退位の礼)に臨み、「支えてくれた国民に、心から感謝します」と在位中、最後となるお言葉を述べられた。
 退位の礼では、側近が歴代天皇に伝わる三種の神器(じんぎ)のうち天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の複製品と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、公務で使われる天皇の印「御璽(ぎょじ)」、国の印章「国璽(こくじ)」を「案(あん)」と呼ばれる台の上に安置。安倍晋三首相は、自然災害などで困難に直面した国民に寄り添われてきた陛下に「国民に明日への勇気と希望を与えてくださいました」と感謝の意を伝えた。
 続いて、モーニングコート姿の陛下は、冒頭「今日(こんにち)をもち、天皇としての務めを終えることになりました」と、30日をもって譲位することを表現された。さらに「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します」と謝意を示したうえで「明日(あす)から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」とお言葉を締めくくられた。
 「退位の礼」には皇后さまが陪席されたほか、皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻をはじめ、女性を含む成年皇族方がご参列。安倍首相と閣僚のほか、衆参両院の正副議長、都道府県知事の代表ら約290人も出席した。
 今回の譲位は、平成29年6月に成立した、陛下一代限りで認める皇室典範特例法に基づいて行われた。
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 4月30日17:18 「支えてくれた国民に、心から感謝」陛下、退位の礼で「最後」のお言葉
 「退位礼正殿の儀」でお言葉を述べられる天皇陛下=30日午後5時7分、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影)
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 天皇陛下は30日午後5時、皇居・宮殿「松の間」で「退位礼正殿の儀」(退位の礼)に臨み、「支えてくれた国民に、心から感謝します」と在位中、最後となるお言葉を述べられた。
 退位の礼では、側近が歴代天皇に伝わる三種の神器(じんぎ)のうち天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の複製品と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、公務で使われる天皇の印「御璽(ぎょじ)」、国の印章「国璽(こくじ)」を「案(あん)」と呼ばれる台の上に安置。安倍晋三首相は、自然災害などで困難に直面した国民に寄り添われてきた陛下に「国民に明日への勇気と希望を与えてくださいました」と感謝の意を伝えた。
 続いて、モーニングコート姿の陛下は、冒頭「今日(こんにち)をもち、天皇としての務めを終えることになりました」と、30日をもって譲位することを表現された。さらに「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します」と謝意を示したうえで「明日(あす)から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」とお言葉を締めくくられた。
 「退位の礼」には皇后さまが陪席されたほか、皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻をはじめ、女性を含む成年皇族方がご参列。安倍首相と閣僚のほか、衆参両院の正副議長、都道府県知事の代表ら約290人も出席した。
 今回の譲位は、平成29年6月に成立した、陛下一代限りで認める皇室典範特例法に基づいて行われた。」
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 4月30日21:22 産経新聞「「勇気づけられた」東日本大震災の被災地や拉致被害者家族から感謝の声
 東日本大震災で被災した宮城県南三陸町を訪問、がれきが広がる町並みを見つめられる天皇、皇后両陛下=2011年4月27日
 あらゆる場面で国民に寄り添われてきた天皇、皇后両陛下。平成最後の日となった30日、東日本大震災の被災地や拉致被害者家族からは、ご夫妻に「勇気づけられた」と感謝の声が聞かれた。
被災地
 天皇、皇后両陛下は、何度も東日本大震災の被災地に足を運ばれた。「生きる勇気をもらった」。被災者からは、改めて感謝の声が相次いだ。
 ご夫妻は平成25年7月に東京電力福島第1原発事故の影響で当時、全村避難が続いていた福島県飯舘村をご訪問。菅野典雄村長は、「(地元の方言で『心を込めて』という意味の)『までい』という言葉に関心を示され、『までいの村を残してくださいね』と言ってくださった。大きくて深い思いを感じた」と振り返り、「国民に寄り添われたことに心から感謝を申し上げ、これからはゆっくりと歩んでいただけることをお祈りしています」と話した。
 ご夫妻が26年7月に宮城県を訪れた際、宿泊された「南三陸ホテル観洋」(同県南三陸町)の女将(おかみ)、阿部憲子さんは「当時はまだ復興には遠く、つらく重い雰囲気が漂っていた。励ましに来てくださったことが『もっと頑張ろう、力を出そう』というきっかけになった。(ご夫妻が)今後も元気で充実した日々を過ごされる姿が、われわれのお手本にもなると思う」と語った。
 28年には国体出席に合わせて岩手県を訪問し、津波で甚大な被害を受けた大槌町と山田町などに足を運ばれた。大槌商工会副会長の越田征男さん(74)は、「励ましの言葉をもらい、ありがたかった。建物は新しくなったが真の復興はまだまだ。しっかり進めていきたい」と、新しい令和への思いを新たにした。
拉致被害者家族
 天皇、皇后両陛下は折に触れ、北朝鮮による拉致事件解決への願いを示されてきた。横田めぐみさん(54)=拉致当時(13)=の母、早紀江さん(83)も、拉致被害者や家族に寄り添われる思いに支えられてきたという。「彼岸花咲ける間(あはひ)の道をゆく行き極(きは)まれば母に会ふらし」。早紀江さんは、平成9年の新年にあわせ発表された皇后さまの御歌(みうた)に励まされた。「『小道をたどれば優しい母が笑顔で待っている』という光景が思い浮かんだ。私もめぐみちゃんを笑顔で迎えたいと思った」
 14年10月に拉致被害者5人が帰国した後など、折に触れ拉致事件への思いを示されていた皇后さま。入院中の夫、滋さん(86)とともに30日夕、国民への感謝を述べられる天皇陛下の姿をテレビで見つめた早紀江さんは「お二人は国民に寄り添われてきた。おいたわり、お優しさに励まされた」と話した。」
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✨60)─1─東日本に初めて造られた天皇陵。多摩御陵。武蔵陵墓地。〜No.230 ㊾ 

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 皇道、天皇の御稜威・大御心とは、人道である。

 昭和天皇明治天皇は、差別・弾圧・迫害をしない人道貢献を望んだ。

 A級戦犯ら臣下は、歴史に残る幾つかの人道貢献を行った。

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 2019年4月29日 産経新聞「【日本再発見】東日本に初めて造られた天皇陵~武蔵陵墓地(東京都八王子市)
 天皇、皇后両陛下が23日に参拝され、譲位を報告された昭和天皇武蔵野陵。風格と高雅な趣を備える
 4月30日に天皇陛下が譲位され、翌5月1日に皇太子さまが天皇に即位される日が間近にせまり、元号にゆかりのある地が注目を集めている。そのひとつが、東日本に初めて造られた天皇陵である「武蔵陵墓地」(東京都八王子市)だ。年間を通じて参拝でき、時代の節目に連日参拝者があとをたたない。
 同墓地は、昭和2年に大正天皇墓所と将来の陵墓造営のために御料地に周辺の民有地を買い上げて整備された。約46万平方メートルの広大な敷地には、大正天皇が眠る多摩陵(たまのみささぎ)と貞明皇后多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)、昭和天皇武蔵野陵(むさしののみささぎ)、香淳皇后武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)があり、昭和天皇陵造営後も総称して「多摩御陵」の名で親しまれている。
 JR中央線、京王線高尾駅から徒歩約15分。正門から続く参道は高さ20メートルを超える北山杉などの木々に覆われ、玉砂利を踏む音と鳥のさえずりしか聞こえないほど静寂だ。その参道を進むと、丘の形をした陵にたどり着く。形状は上部が丸く、下部が四角い「上円下方墳」で天皇陵と皇后陵を合わせて約4300平方メートルに及ぶ。陵を守るように木々が囲み、荘厳な雰囲気を醸し出している。
 川崎市内から訪れたという30代の男性会社員は「ちょうどいい機会だと思い、初めて来ました。お墓を前に神聖な気持ちになりました」と背筋を伸ばした。
 まもなく平成から令和へ-。歴史を刻む地は、新時代への思いを深めてくれそうだ。
 ▽6月15、28日発のバスツアー「武蔵野陵多摩陵巡拝の旅」の資料請求は阪急交通社まで(03・6745・7379、土日祝休み、この番号では旅行の申し込みは承っていません)。
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 全ての天皇に戦争責任も戦争犯罪もない。
 天皇には、何らの罪はない。

 昭和天皇明治天皇も、戦争を嫌い、平和を望み、戦争を避ける為の話し合いを切望していた。
 大正天皇は、軍事を嫌い、文化・教養を愛した。
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 昭和天皇は、韓国やユダヤ人が口汚く罵るような戦争犯罪者ではない。
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 近代的天皇制度と伝統的天皇とは、無関係である。
 近代的天皇制度は、天皇制度を廃絶しようと悪巧みを企むマルクス主義者(共産主義者)の悪意である。

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 日本民族日本人と伝統的天皇とは、一体である。
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 近代的天皇制度を消滅させても構わないが、伝統的天皇制度は絶対に守らなければならない。

 2000年以上、日本民族日本人の祖先すべてが伝統的天皇制度を守っていた。

 現代日本人は、伝統的天皇制度を滅ぼし消し去り、人民による共和制を目指している。

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 昭和天皇は、韓国、ユダヤ人、それ以外の外国人、中には日本人も加わり、よって集って口汚く罵る、罵声を浴びせるような、戦争犯罪を犯した罪人ではない。
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 武蔵陵墓地(むさしりょうぼち)は、東京都八王子市長房町にある皇室墓地。大正天皇陵・貞明皇后陵・昭和天皇陵・香淳皇后陵の4陵が造営されている。
昭和天皇陵が造営される以前は多摩御陵(たまごりょう)と称しており、現在でも通称として使われている。八王子八十八景のひとつ。宮内庁書陵部多摩陵墓監区事務所がある。

 大正天皇陵「多摩陵
 多摩陵(たまのみささぎ)は大正天皇の陵。1926年(大正15年)12月25日に崩御した大正天皇は、翌1927年(昭和2年)2月7日に新宿御苑において斂葬の儀(葬場殿の儀、大葬)が行なわれ、翌8日に陵所に埋葬された。陵墓は、前年10月に公布された皇室陵墓令に基づいて当時の東京府南多摩郡横山村から浅川村、元八王子村の御料地内に造営され、1月3日に日枝神社宮司による陵所地鎮祭が行われた。
 横山村の地が選ばれた理由は、地震を考慮して地盤が強いこと、万葉集に「多麻の横山」と詠まれたことなどによる。また墳丘の型式などは明治天皇伏見桃山陵が参考にされた。敷地内には数戸の農家や東照寺や長泉寺などの寺社、民間墓所などがあり、交渉をして移転が行われた。こうして武蔵陵墓地および多摩陵が始まった。
 陵域の面積は2,500平方メートルあり、陵の形態は上部2段・下部3段の上円下方墳で南面している。上円は直径15メートルで高さは10.5メートルあり、一番下部の段は一辺27メートルの正方形で多摩川の石が葺き石として用いられており、南面は前方部の形をとっているので前方後円墳のような形をしている。これは奈良県桜井市の伝舒明陵古墳の形状に酷似している。
 鳥居を隔てて、陵の正面に皇族拝所がある。階段を下ったところに特別拝所があり、さらに下ったところに一般拝所がある。皇族拝所と一般拝所には鳥居が設けられている。
また、墓地正門から陵に至るまでの間、京都より取り寄せた北山杉を120本植えた並木道が形成されている。北山杉の高さは、植林当初は人の背丈の2倍ほどであったが、現在は20mを超すまでに成長している。
 毎年12月25日には陵および皇居宮中三殿大正天皇例祭が行なわれている。当日には陵所に幔幕が巡らされ、皇族拝所に仮屋が設置されて祭祀が行なわれる。

 貞明皇后陵「多摩東陵
 1951年(昭和26年)5月17日に崩御した貞明皇后は、6月22日に斂葬の儀が行われ、陵所に埋葬された。
 陵は大正天皇陵のほぼ東に位置し、そのため「多摩東陵」と命名されている。陵の構成は一般拝所に段がないことを除けば、大正天皇陵とほぼ同じである。
毎年5月17日には陵および皇居宮中三殿貞明皇后例祭が行われている。当日には陵所に幔幕が巡らされ、皇族拝所に仮屋が設置されて祭祀が行なわれる。

 昭和天皇陵「武藏野陵」
 昭和天皇は1989年(昭和64年)1月7日に崩御した。平成元年1月17日には陵所地鎮祭が行なわれ、造営が始まった。同年2月24日に斂葬の儀大喪の礼)が行なわれ、造営中の陵所に埋葬された。同月27日に「武蔵野陵」と命名された。なお、陵の命名に先立ち、昭和天皇の柩に添えられた陵誌(墓碑)には、礼宮文仁親王(後の秋篠宮文仁親王)の揮毫により「昭和天皇 武蔵野陵 昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬」と刻まれている。また、この昭和天皇陵の造営により、墓地の名称が「武蔵陵墓地」と改称された。
 大正天皇陵の北東に位置し、ほぼ南面している。陵の形態は大正天皇陵などと同じく、上部2段・下部3段の上円下方墳である。陵の形や拝所の構成などは一般拝所に段がないことを除けば大正天皇陵とほぼ同じだが、大正天皇陵より上円部の丸みがなだらかになり、また一般拝所から墳丘がある段までの高さが低くなっており、威圧感を減らす試みがなされている。
 毎年1月7日に陵および皇居宮中三殿昭和天皇祭が行われている。当日には陵所に幔幕が巡らされ、皇族拝所に仮屋が設置されて祭祀が行なわれる。
 
 香淳皇后陵「武藏野東陵」
 香淳皇后は2000年(平成12年)6月16日に崩御し、7月25日に斂葬の儀が行われ、埋葬された。
 昭和天皇陵の南東に接して位置しておりほぼ南面している。おおよそ東方にあることから「武蔵野東陵」と名付けられた。拝所などの構成は他の陵と同様である。
 毎年6月16日に陵および皇居宮中三殿香淳皇后例祭が行われている。当日には陵所に幔幕が巡らされ、皇族拝所に仮屋が設置されて祭祀が行なわれる。
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⚔45)─3─中世キリスト教会と白人キリスト教徒は日本民族日本人の武勇を恐れた。〜No.188No.189No.190 ⑮ 

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 日本民族日本人は、義の為、名誉の為、誇りの為に、守るべき何かの為に、命を捨て武器を持って戦った。

 命を捨てて戦うのが、日本民族日本人であった。

 下級武士、貧しい庶民、賤民(非人・穢多ら)、部落民(山の民・川の民・海の民)は、天皇主義者・勤皇派・尊皇派として、天皇と皇室を守る為に命を捨てて戦った。

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 南蛮人も驚愕した「武勇の民」日本人奴隷
 キリスト教宣教師とともに来日したポルトガル商人は、多くの日本人を奴隷として連れ去った。女は性奴隷として、男は軍役に駆り出し、やりたい放題だったという。ただ、武勇の民が持つ戦闘能力は極めて高く、南蛮諸国の植民地拡大にも利用された。南蛮人も舌を巻いた日本人奴隷の評価はいかほどだったか。
 南蛮人が大いに利用した「武勇の民」日本人奴隷の戦闘力
 『渡邊大門』 2019/04/27
 渡邊大門(歴史学者
 前回述べたように、多くの日本人は多くが東南アジア各地またはポルトガルに送り込まれ、さまざまな形で労働を強いられた。天正遣欧少年使節の面々は、ヨーロッパの人々が親切であるとか、日本人奴隷がキリスト教の教えを受けることをもって、自らを納得させていた感がある。
 ところで、日本人奴隷たちの実態は、どのようなものだったのだろうか。以下、歴史学者、岡本良知氏の研究によって、確認することにしよう。1551年11月、ポルトガル人司教のカルネイロは、マカオから書状を送った。次に、岡本氏の『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』からその内容を掲出する。

 当地方(マカオ方面)に来るポルトガル人は、皆真理を忘却している。その理由の一つは、商売の欲望である。もう一つは、日本から来たポルトガル人が女奴隷のために罪に陥っていることだ

 キリスト教布教と相まって、ポルトガル商人が日本にやって来たのであるが、あまりに金もうけに熱中していることは非難されてしかるべきだったといえる。彼らは、完全にキリスト教の真理から逸脱していた。問題は、二つ目の理由である。
 少し婉曲的な表現をしているが、これはポルトガル人が奴隷となった日本人女性と性的な関係を結んでいたと見て間違いない。これまで豊臣秀吉の時代の天正年間を中心に見てきたが、それより約三十数年前にポルトガル人が日本人奴隷を買っていたのは事実であろう。しかも、それは彼らが性的な欲求を満たすため、女性の日本人奴隷を買っていたとみてよい。
 このようにポルトガル人がキリスト教の信仰を忘れ、女性との性的な快楽に溺れることは、決して許されることではなかった。岡本氏の指摘によると、こうした事象は散見されるとのことである。
 1583年、マカオを出発しインドへ向ったポルトガル船は、マラッカに近いジョホール沖で座礁するに至った。それは、日本や中国で活動していたポルトガル商人の放逸な行為(性にまつわる逸脱行為)に原因があるとし、それゆえに神罰が下ったとされている。すっかり女性の虜(とりこ)になっていたのだ。
 その事実は、次のように詳しく記述されている。

 神はポルトガル商人らが神を恐れることなく、色白く美しき捕らわれの少女らを伴い、多年その妻のように船室で妾として同棲した破廉恥な行為を罰したのである。この明らかな大罪は、神からも明白に大罰を加えられたのであった。それゆえ、彼らに神の厳しい力を恐れさせるため、中国・日本の航海中に多数の物資を積載した船を失わせ、もってこれを知らしめようとしたのだ。また、中国・日本方面では、ほかの国々よりもポルトガル人の淫靡な行為がはるかに多いので、神はそこに数度の台風によりそれらの者を威嚇・懲罰し、その恐ろしい悪天候により怒りを十分に示そうとしたことは疑いない。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』より

 この記述を見ると、日本だけでなく中国からの女奴隷も餌食(えじき)になったようである。宣教師たちは、苦々しい思いで彼らの姿を見ていた。こうした原因の一つには、ポルトガル商人の多くが独身者であったという指摘がある。独身であるがゆえに女性を求め、それゆえに性的に乱れた生活をしていたのである。
 同趣旨のことは後年に至っても問題視され、ポルトガル人が購入した奴隷の少女と破廉恥(はれんち)な行為をし、また渡航中に彼女らを船室に連れ込むことは、決して止むことがなかったと言われている。
 これまでは特に触れなかったが、実はこうした性的な不品行が豊臣秀吉の逆鱗に触れたようである。コエリョは、次のように報告している。

 秀吉の家臣が用務を帯びて長崎に来ると、ポルトガル商人の放縦な生活を目の当たりにした。秀吉が言うには、宣教師は聖教を布教するとはいえ、その教えをあからさまに実行するのは彼ら商人ではないか、と。商人は若い人妻を奪って妾とし…(以下略)。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』より

 宣教師は口でこそキリスト教の崇高な教えを説いているが、実態は大きく乖離していた。ポルトガル商人が囲っていた若い人妻とは、奴隷身分だったのだろうか。いずれにしても、キリスト教の教義に沿わない行為である。とにかく秀吉ら日本人は、ポルトガル商人の奔放な行動に手を焼いていたようである。
 このように日本人奴隷でも特に女性は、通常の労働(農作業、家事労働など)にも駆り出されたが、ときに性的な対象として悲惨な処遇を受けることがあった。多くの日本人の女性奴隷は、性的な関係を望まなかったのではないだろうか。ただし、中には生活のためにやむを得ず、そうした道を選ばざるを得なかった女性がいたのかもしれない。女性が悲劇的な一面をもって奴隷となったことを見たが、奴隷となった男性はいかなる運命をたどったのだろうか。
 1603年、ゴア市民からポルトガル国王に陳情書が提出された。次に示す通り、そこには興味深いことが記されている。少し長いが、引用しておこう。

 日本人奴隷は近隣のイスラム教国へと公然と売られ、毎年船に積まれて、ついに彼らはイスラム教を信仰する。われら(=ゴア)のところに来るものは、すべてキリスト教徒になる。それは同時に、陛下(=ポルトガル国王)の臣民が増加する理由です。しかもパードレたちは、二年間のキリスト教の教化を彼らに行ってから解放しています。もし、都合が悪いようなら、彼らを甘んじてイスラム教徒たらしめるため、他国人に買わせることです。インドには日本人奴隷が数多くいて、その主を守護する任務に充てている。その理由は、ポルトガル人の数は最小の城を守る数にも足りず、有事の際にポルトガル人一人が鉄砲を携え、奴隷五・六人を率いれば、日本人は甚だ好戦的なので、その値打ちは少なからずある。それゆえ奴隷を解放したのち、我ら(=ポルトガル人)の敵と通謀して、反乱を起こす可能性もある。また、われらより数が多ければ、われらを殺戮する疑いも否定できない。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』より

 前半部分は奴隷解放に関わるもので、日本人奴隷を解放して、みすみすイスラム教徒に改宗させてはならないという見解である。当時、異教徒間では争いが絶えなかったので、理屈として持ち出したのだろう。この記述から分かるように、インドのゴアにはかなり多くの日本人奴隷が連行されていた。
 インドのゴアの近隣にはイスラム諸国があり、彼らは異教徒と認識されていた。臣民とある彼ら奴隷は、労務年限が来ると奴隷身分から解放され、ポルトガル国民として数えられたのである。彼らは順次、キリスト教に改宗すべく教えを受けた。奴隷を獲得することは、彼らを異教徒から守る側面があった。
 問題は、日本人奴隷の職務である。彼らの職務は、主人を守ることであった。そして、万が一の時には主人に従って、敵と戦うこともあった。日本人は好戦的であったため、甚だ戦いでは活躍した様子がうかがえる。
 それだけではなく、もし日本人を解放したならば、日本人が敵と通じて叛旗を翻す恐れがあるという。それほど日本人奴隷の戦闘能力は高かったようである。日本人が主力部隊を任されていたとは、大変意外な話である。
 なぜ、日本人奴隷が必要なのか。それは、日本人の戦闘能力であって、ポルトガル人はそれを利用して植民地における兵力の不足を補おうとした。本国から兵を呼び寄せるよりも、安価で供給が可能という事情もあったであろう。
 当時、ポルトガルはオランダと植民地支配をめぐって、戦いを繰り広げていた。その戦いに勝利を得るには、どうしても日本人の力が必要だったのである。この事実を裏付けるかのごとく、1604年にゴア市民からポルトガル国王に意見書が呈上されている。

 日本人奴隷は労務年限が来ると、解放されて陛下(=ポルトガル国王)の臣民となる。彼らは、ゴアに多数存在する。武勇の民で、戦争で貢献した。最近、オランダとの戦いで見られたように、包囲戦や戦況が緊迫した状態になると、ポルトガル人一人が若者(日本人奴隷)七・八人を率い、鉄砲と槍を持ってあらわれる。インドにおいては、この日本の若者のみが軍役に耐えうる奴隷である。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』より

 この史料を読むと、日本人奴隷には年季(雇用される期間)があり、一定の期間が過ぎると奴隷身分から解放されたようである。奴隷身分から解放されると、彼らはポルトガルの国民になった。ただ、日本に帰るのが困難だった理由もあってか、インドのゴアの地に止まらざるを得なかった。
 オランダとポルトガルの戦いで、日本人が参戦したのは衝撃の事実である。しかも、その戦闘能力は非常に高く評価された。おそらくゴアには、中国、朝鮮そのほかの国々から奴隷が調達されたのだろう。ところが、軍役に耐えられるのは、好戦的と言われた日本人だけであった。
 本来ならば、ポルトガル本国で若者に兵役を課し、連れて来るのがベストであったに違いない。ただ、それでは費用や時間があまりにかかりすぎる。そうなると、手っ取り早く質の高い兵卒を確保するには、日本人奴隷が最適であった。
 実は、この意見書には「日本人奴隷の禁止をする前に、戦争における日本人奴隷の活躍という実態をお忘れにならないように」と締めくくられている。ポルトガルにとって、日本人奴隷は大きな魅力だったのだ。
 近年、報告されているように、16、17世紀のヨーロッパや南米には日本人が数多く存在したようである。むろん、東南アジアもである。
 そのなかでもっとも有名なのが、山田長政であろう。長政は駿河国に誕生し(生年不詳)、もともと沼津城主の駕籠(かご)かきを務めていたという。一大決心した長政は、慶長17(1612)年ごろ、朱印船に乗ってシャムに渡航した。
 やがて、長政は頭角をあらわすと、日本人町の頭領となり、国王ソンタムの信任を得た。しかし、ソンタム没後、王位を狙うオーヤ・カラホムによって毒殺されたという。亡くなったのは、寛永7(1630)年ごろとされている。
 また、最近の研究により、17世紀初頭の東アジアにおいて、日本人の多くが傭兵(ようへい)としてオランダなどで雇用されていたと指摘されている。先にも述べたが、日本人は好戦的な民族であり、戦いの能力に長けていた。
 ヨーロッパの本国から兵士を呼び寄せるよりも、はるかに人件費などが安上がりである。実際、オランダでは日本人が良く訓練されており、しかも給与や食費が安く済む、と認識されていた。何よりも驚くのは、オランダが徳川家康と傭兵の供給について、合意に達していたことである。
 同時に重要なのは、日本国内で製造された武器が、オランダなどに供給されていた事実である。つまり、日本は傭兵や武器を供給することにより、東アジアで展開されるヨーロッパ列強の戦争に関わっていたことになろう。
 相当な数の日本人が、東南アジアにおけるヨーロッパ列強の戦争に駆り出されたが、やがてそれも認められなくなる。元和6(1620)年以降、江戸幕府は人身売買、武器輸出、海賊をついに停止した。これは、いわゆる鎖国(海禁)と連動した政策だったといえよう。
 ここでは人身売買と記しているが、実際には雇用(=傭兵)も禁止されていた。これまで安く日本人の傭兵を雇用していたオランダなどは、大きな衝撃を受ける。傭兵ならずとも、武器を購入できないことも問題となった。彼は日本が傭兵などを禁止したため、新たな対応を迫られることになった。
 その後も日本からの奴隷の輸出は問題視されるが、幕府による海禁によって、その数は減少の一途をたどった。それでも、日本人が海外に存在したことは、その後も確認できる。「ジャガタラお春」もその一人だ。
 お春は、イタリア人航海士のニコラス・マリンと母マリアの間に生まれた女性である。お春は、混血児であるがゆえに、ジャカルタインドネシア)に追放された。ジャガタラとは、ジャカルタのことである。キリシタンであるお春は、やがてオランダ人のシモン・シモンセンと結婚し、貿易業を営んだ夫と裕福な生活を送ったという。
 それにしても、東南アジア、ヨーロッパあるいは南米へと渡った日本人は、いかなる気持ちだったのだろうか。現在は情報手段(テレビ、ラジオ、インターネットなど)が多岐にわたっているので、海外の情報は比較的得やすい。ところが、彼らはまったく何の予備知識もなく、突然異国の地に放り込まれたのである。
 今回は、奴隷などとして海外に渡った日本人の実態について触れたが、次回は文禄・慶長の役における拉致、人身売買、奴隷の問題を取り上げることにしよう。
  主要参考文献
  渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房
   ・   ・   ・   

 

💎27)─1─令和時代にも、日本に存在する反天皇反日テロリズム。悠仁親王に忍び寄るテロ。〜No.129No.130No.131 ㉒ 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博 ・    

 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、昭和天皇や皇族を殺すべく狙っていた。

   ・   ・   ・   

 天皇家・皇室は、日本人によって絶滅させられていた日本種トキに似ている。

 日本の在来種トキ床を殺し尽くした日本人は、日本種トキを復活させる為に中国共産党の協力を得て大陸産朱鷺を借り受け繁殖を試みている。

 大陸産朱鷺と日本産トキとは、血がつながっていない。

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 2019年4月27日 12:12 産経新聞悠仁さまの席に刃物 防犯カメラに不審な男 東京・文京区のお茶の水女子大付属中
 お茶の水女子大付属中の机に刃物
 悠仁さまが通われる付属中があるお茶の水女子大の正門=27日午後、東京都文京区(宮崎瑞穂撮影)
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 秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまが通われるお茶の水女子大付属中学校(東京都文京区)で、悠仁さまの席に刃物が置かれていたことが27日、捜査関係者への取材で分かった。校内の防犯カメラに26日昼ごろ、ヘルメットをかぶった作業員風の不審な男の姿が写っており、警視庁捜査1課は、建造物侵入などの容疑で男の行方を追っている。
 捜査関係者によると、刃物は2本あり、棒に粘着テープで固定された状態で、悠仁さまの席と隣の席にまたがるような形で置かれていた。
 男は工事業者などを装って受付を通らずに校内に侵入し、悠仁さまのクラスが授業で教室を外している間に、刃物を置いたとみられる。警視庁は防犯カメラの解析を進めている。
 悠仁さまは4月にお茶の水女子大付属小学校から中学校に内部進学された。8日の入学式では新入生代表としてあいさつ。秋篠宮ご夫妻も保護者席から見守られた。入学式前に報道陣から中学進学の感想を問われた悠仁さまは、「これから充実した中学校生活を送りたいと思います」と話された。
 皇太子さまが5月に天皇に即位されると、悠仁さまの皇位継承順は父で皇嗣となる秋篠宮さまに次ぐ2位となる。」
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4月27日18:12 産経新聞悠仁さま机にピンクに塗った刃物 作業員風の男、正門通過 お茶の水女子大付属中
 悠仁さまが通われる付属中があるお茶の水女子大の正門=27日午後、東京都文京区(宮崎瑞穂撮影)
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 秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまが通われるお茶の水女子大付属中学校(東京都文京区)で、悠仁さまの机の上に刃物が置かれていたことが27日、捜査関係者への取材で分かった。学校の防犯カメラにヘルメットをかぶった作業員風の不審な男の姿が写っており、警視庁捜査1課は建造物侵入などの容疑で男の行方を追っている。
 捜査関係者によると、26日正午ごろ、刃の部分がピンク色に塗られた果物ナイフのような2本の刃物が、アルミ製の棒に粘着テープで固定された状態で、悠仁さまの机と隣の机にまたがるような形で置かれているのが見つかった。教員が発見し、同日夕に「不審な物を拾った」と警視庁大塚署に届け出た。
 悠仁さまのクラスは当時、授業で教室を外しており、悠仁さまやほかの生徒にけがはなかった。教室内の机には生徒の名前を書いたテープが貼られており、生徒の席が分かるようになっていた。
 同大の広報担当によると、中学校は大学のキャンパス内にあり、キャンパスの入り口は正門と南門の2カ所。いずれの門でも、来訪者には記帳と身分証の提示を求めている。
 捜査関係者によると、大学の正門付近の防犯カメラに同日昼前、ヘルメットをかぶり、上下青色っぽい作業着風の服を着た男が、正門前を通過する様子が写っていた。また、この男とみられる人物が同じ時間帯に、学校職員につながるインターホン越しに「工事の者です」などと名乗り、中学校の出入り口を解錠させて校舎内に侵入したとの情報がある。
 同大は「当時、工事が行われていたかどうかは把握していない」としている。捜査1課は、防犯カメラの画像を解析するなどして侵入経路の特定を進めている。
 悠仁さまは4月、お茶の水女子大付属小学校から中学校に内部進学された。警視庁は今後、学校側と協議して警備態勢を強化する方針。」
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 4月27日19:24 産経新聞悠仁さま安全は…改元前の異様な犯行 問われる管理体制
 平成から令和への改元を間近に控える中、皇位継承順位3位の悠仁さまが通われている中学校で、机に刃物が置かれるという異様な事件が起きた。学校に不審者が侵入する事件はこれまでも発生しており、管理体制の不備が問われそうだ。
 「代替わりを前に思想的な背景があるのかどうかは分からないが、刃物に細工するなど意図や目的が分からず不気味だ」。警察幹部はこう話す。
 学校の安全が見直される契機となったのが、平成13年に発生し児童8人が死亡、教員を含む15人が重軽傷を負った大阪教育大付属池田小(大阪府池田市)の事件。刃物を持った男が無施錠だった門から侵入し、児童や教員らを教室内や中庭で次々と襲った。
 文部科学省は翌14年、学校に不審者が侵入した際に取るべき行動をまとめた「危機管理マニュアル」を作成。動きを封じる「さすまた」の配備や登下校時以外の校門の施錠、来訪者にリボンを着けてもらうなどの対策をとるよう全国の学校に促してきた。
 今回、事件があったお茶の水女子大付属中学校は、お茶の水大のキャンパス内にあり、幼稚園から大学まで同じ敷地内に立地している。校舎が独立している他の学校に比べて、外来者も増える傾向にある。
 立正大の小宮信夫教授(犯罪学)は、「キャンパスに入るときだけでなく、中学校に入る際にも不審者かどうかをチェックする多層防御体制が十分でなかった可能性がある。防犯カメラも、ただ設置するだけでなく、不審者の姿が長く写るような場所に取り付けるなど工夫が必要だ」と指摘する。
 教育関係者らでつくる「学校安全教育研究所」(千葉県松戸市)の岩切玲子副代表も、「新年度が始まって間もない時期は多くの業者が学校に出入りする。教職員も多忙になりがちだが、危機管理意識を持って不審者には積極的に声をかけるなどの対応が必要だ」と訴えている。」
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 4月28日18:21 産経新聞「msnニュース KYODO 共同通信社天皇陛下30日退位、平成終幕へ 最後の「お言葉」注目
 © KYODONEWS 天皇陛下、皇后さま
 天皇陛下が退位されるまで、29日で残り2日となる。明治期に定められた天皇の終身在位制が戦後も引き継がれたため、退位は江戸時代の光格天皇以来202年ぶりとなる。30日には皇居・宮殿で代替わりの重要儀式「退位礼正殿の儀」が国事行為として催され、陛下が国民に向け、最後の「お言葉」を述べる。30日限りで「平成」が終幕し、5月1日に皇太子さまが新天皇に即位し「令和」に改元される。
 29日は昭和天皇の誕生日。陛下は皇后さまと住まいの皇居・御所で静かに過ごす予定だ。
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 4月28日18:22 msnニュース FNN「 両陛下に宮内庁長官説明 悠仁さまの机に“刃物”事件
 FNN.jpプライムオンライン
 © FNN.jpプライムオンライン
お茶の水女子大学付属中学校で、秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまの机の上に刃物が置かれていた事件について、天皇皇后両陛下は28日午前、宮内庁長官らから説明を受けられた。
 両陛下は、こうした事件が起きたことに、心を痛められているという。」
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  5月1日20:26 産経新聞悠仁さま机に刃物の男 関係先捜索で住人ら驚き
 秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまが通われるお茶の水女子大付属中学校(東京都文京区)で、悠仁さまの机の上に刃物が置かれた事件で、警視庁は1日、建造物侵入容疑で逮捕された住居・職業不詳、長谷川薫容疑者(56)の関係先として、京都市西京区の集合住宅を家宅捜索。団地の住人らからは驚きや怒りの声が聞かれた。
 「逮捕の報道はもちろん知っていたが、まさかこの地域に関係がある人物だとは思っていなかった」。10年ほど前からこの集合住宅に住んでいるという無職の女性(72)は驚くとともに「この改元の時期に何てことをしてくれたのだと怒りを感じる」と語気を強めた。
 70代の男性は「ここらは比較的穏やかな地域なので、そのような犯行をたくらんだ人物がいたとは信じられない。なぜあんなことをしようと思ったのか、背景に何があったのか知りたい」と話した。
 家宅捜索先は、長谷川容疑者が契約書類などに自宅の住所として記し、親族が住んでいたという。住人女性は「女性と50代くらいの息子が住んでいたようだが、詳しいことは分からない」。別の近隣の住民は、出入りしていた長谷川容疑者とみられる男性について「おとなしく優しそうな感じだが、エレベーターで一緒になったときにあいさつするくらい。最近は1~2カ月前にすれ違った」と話した。」
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 5月2日10:00 産経新聞「皇族の方々 皇位の安定的継承 課題
 代替わりに伴い、皇室の18方のうち、皇位継承資格のある男性皇族は皇嗣(こうし)秋篠宮さま、長男の悠仁さま、常陸宮さまの三方となられた。天皇陛下の次の世代としては悠仁さま一方となっており、皇位の安定的継承をめぐる議論が喫緊の課題となっている。
 秋篠宮さまは、実兄の陛下と6歳違いの53歳になられている。悠仁さまは中学に進学されたばかりの12歳。上皇さまの実弟であられる常陸宮さまは83歳で、近年は車いすで生活をされている。
 上皇さまの譲位を可能とした皇室典範特例法の付帯決議では、皇位の安定的継承が「先延ばしすることはできない重要な課題」として速やかな議論を要請。菅義偉(よしひで)官房長官は3月18日の参院予算委員会で、「女性宮家」創設などの検討について、代替わり後速やかに始める考えを示している。」
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 5月2日11:07 産経新聞「「天皇制に不満」と供述 皇位継承への批判意図か 悠仁さまの机に刃物男
 秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまが通われるお茶の水女子大付属中学校(東京都文京区)で、悠仁さまの机の上に刃物が置かれた事件で、建造物侵入容疑で逮捕された住居・職業不詳、長谷川薫容疑者(56)が、「天皇制や皇位継承のあり方に不満があった」という趣旨の供述をしていることが2日、捜査関係者への取材で分かった。警視庁捜査1課は皇室批判を誇示する意図があったとみて、詳しい動機を調べている。
 捜査関係者によると、長谷川容疑者は悠仁さまの机の上に果物ナイフを置いたことを認めている。事件数日前から東京都内のホテルに滞在してナイフなどを購入しており、1日の代替わり直前のタイミングを狙って犯行を計画していたとみられる。これまでに特定の思想的背景を持つ団体などへの所属歴は確認されていないという。
 長谷川容疑者は4月26日午前10時50分ごろ、事前に購入したヘルメットなどで工事業者に変装し、中学校の校舎内に侵入。悠仁さまのクラスが無人の間に、悠仁さまの机の上に粘着テープでアルミ棒に巻き付けた果物ナイフ2本を置き、約20分後に大学の正門から逃走していた。
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🏞110)─1─江戸時代・明治初期。お大尽さんと貧乏人との切っても切れない深い関係。〜No.427No.428No.429 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博 ・   

 日本では、暴力的共産主義人民革命は起きないし、人民主導の社会主義体制国家にはならないし、反宗教無神論マルクス主義は支持されず受け入れられず拒否される。

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 江戸時代の日本社会は、他者依存や甘え意識が否定された、自己責任・自力救済・自助努力の原則が支配する、貧困や困窮が蔓延し、格差や差別が激しい、救い難いブラック社会であった。
   ・   ・   ・   
 現代日本の富裕層・資産家と江戸時代や明治中期までのお大尽さん・金持ちとは違う。
 日本の名士とは、昔の豪農や豪商のお大尽さん・金持ちの事を言うのであって、現代の富裕層・資産家を言うのではない。
 現代の日本には、褒められるような本当の名士はいない。
   ・   ・   ・   
 2019年5月2日・9日ゴールディンウィーク特大号 週刊新潮「生き抜くヒント!  五木寛之
 昭和残影あれこれ
 格差ということがしきりに問題になっている。
 たしかに最近の世の中は、格差が目立つようになった。
 しかし、目に見える格差は、昔のほうが、はるかにはなはだしかったように思う。たとえば戦後の一時期まで、物乞いというのが一種の職業のようになっていた。それが仕事として成り立ったのは、一方で贈与というか、喜捨というか、ほどこしをする習慣が広くあったからだろう。
 またそれを受ける側にも、一種の作法というものがあって、微妙な均衡をたもっていたような気がする。
 福沢諭吉の母親は、物乞いの人が訪れると手厚く迎えたと聞いたことがある。衣服のシラミをとってやり、必ずなにがしかの金品をあたえて見送ったのだそうだ。
 『そんなことしたら、きりがないでしょうに。家の前に行列ができるんじゃないですか』
 と、その話をしたら若い女性に不思議がられた。しかし、昔は地方の富裕な家には周期的に訪れてくる物乞いの人びとがいたらしいが、門前市を成すということはなかったようである。
 『今年もよう来なさったねえ』
 と、ねぎらう家もあったときく。
 いまの時代に格差が問題になるのは、その辺の習慣がすたれたまま、格差があらわになっているからかもしれない」
   ・   ・   ・   
 日本の豪農や豪商などのお大尽は、儒教価値観が支配する中華世界の資産家、キリスト教価値観が支配する西洋の金持ち、共産主義が根絶した特権階級などとは違うのである。
   ・   ・   ・   
 世界では、虐げられる人・貧困者・病人など社会の弱者を救済するのはキリスト教会の役目でであって、国家・政府は直接には関与しなかった。
 その為、救済を求める人々がキリスト教会に押しかけ、建物や敷地の中に人々が溢れ、入れなかった人々が助けを求めて十重二十重とキリスト教会を囲んだ。
 自分だけでも救済して貰いたいと思う人々は、もみ合い、押し合い、騒動・暴動を起こし、傷害事件を頻発させた。

 キリスト教は個人宗教として、個人が絶対神の福音を受け入れ隣人愛の信仰で契約する宗教である。
   ・   ・   ・   
 国家・政府の責務は、周辺諸国の侵略に対して武力を持って粉砕して国土と主権を守る事であった。
 つまり、国家・政府は戦争をする事が世界常識であった。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の金持ち・お大尽さんは、自分の為に、自己満足の為に金を使わなかった。
 情けは人の為ならず。
 金は天下の回り物。
 起きて半畳寝て一畳、天下を取っても二合半。
   ・   ・   ・   
 日本人の生き方を定めたのは、犬公方こと第5代将軍徳川綱吉である。
   ・   ・   ・   

 

💎20)─2─日本政府・政権与党は、中国共産党に媚びるように天皇を政治利用した。2009年。〜No.89No.90No.91 ⑮ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博・   
 平成21年9月16日(~平成22年6月8日) 自民党は大敗し、民主党が第一党とになった。
 民主党は、鳩山由紀夫内閣を成立さ、コンクリートから人への政策を進めた。
 鳩山由紀夫「日本列島は、日本人だけの日本ではない」
 日本政府の統治能力の欠如により、日本は混乱に陥り、日米同盟も弱体化した。
 日本は、東アジア共同体の一員として、アメリカへの依存を減らして中国との関係を深めるべきである。

 沖縄の辺野古移設問題は解決しかけたが、反対派の機嫌を取ろうとした鳩山由紀夫首相の決断で暗礁に乗り上げた。

 日本は、多方面で混乱し、解決不能の悲惨な状況に陥っていた。

 民主党議員は、プロの政治家でもなければ、海千山千の政治屋でもなく、大学などの政治サークルで現実化不可能な理想論を議論し合う素人政治集団でしかなかった。
   ・   ・   ・   
 2019年5月3日10日号 週刊朝日「原理原則を破った習近平との特例会見真相を語る  羽毛田信吾
 2009年12月。当時の民主党政権は、天皇陛下と中国の習近平国家副主席との特例の会見を実現させました。私は報道陣への説明で『二度とあってほしくない』と話し、特例会見について事実関係を説明しました。
 天皇陛下と外国要人との会見は、1ヵ月前までに宮内庁に要請するというルールがあります。『いつでも誰でも』ではスケジュールが立たず。陛下のお体が持たない。何より政治や外交に影響を及ぼすことを避けるという意味もあります。
 ルールを守ってくだされば、陛下は公平にお会いになる。これは陛下のご姿勢でもあります。この原理原則を破ったのが特例会見でした。最初に外務省を通じて要請があったとき、すでに1ヵ月を切っていたため事務的に断りました。
 |鳩山内閣日中関係の重要性を理由に、羽羽田氏に再び強く求めた。
 政府は『ルールはよくわかるが、中国はいま日本にとって政治的に大事である。原則を曲げて、あってほしい』とねばってきた。しかし、政治的に重要である、という理由だとなればなおさら『政治的、経済的にも公平中立である』という陛下のご姿勢に反します。憲法上の象徴天皇の在り方としても問題が出てくる。
 官邸側にも『それはちょっと、まずいのではないでしょうか』と申し上げた。最後は『これは政府・官邸のお願い、命令だ』となった。このようなことが当たり前のようにあってはならない。『宮内庁が危惧を抱いていることは公表します』と官房長官にもおことわりして、記者への説明に至ったわけです。
 ただ、本来はそうなる前に官邸と調整しておくべきで、宮内庁長官が公の場で発言することではなかったと思いはあります。
 |記者会見した羽毛田氏を小沢一郎幹事長は『一役人が内閣の方針にどうだこうだ言うのは、憲法の精神を理解していない』『天皇陛下のお仕事にも重要なものとそうでないものがある』などと批判した。
 天皇陛下には、習氏との会見が行われることになった件について『申しわけありませんが・・・』と忸怩(じくじ)たる思いで申し上げた。
 13年、陛下は傘寿を迎えた会見で『天皇は、国政に関する権能を有しない』と規定された日本国憲法について述べ、『これからも憲法を順守する』とおっしゃった。
 多くの政治家の方々は、政治と皇室の距離感を理解され、自制を持って活動しておられる。そうであれば、象徴天皇を政治に巻き込むような場面は、二度と繰り返さないと思っています」
   ・   ・   ・   
 日本人が最優先として守るべきは、自分の命・財産・権利・生活か、政府か、国家か、政治家か、官僚か、国民か、民族か、あるいは天皇・皇族・皇室か。
 民族主義日本民族日本人は、天皇・皇族・皇室を守る為に全てを犠牲にした。
 日本民族日本人の中でも、下級武士、身分低き庶民、賤民(非人・穢多など)や部落民(山の民・川の民・海の民)などは勤皇派・尊皇派であった。
 貧困と差別と格差で苦しめられた底辺の民や下層の民ほど、反権力反権威の民族主義者となり、死を恐れない狂信的な勤皇派・尊皇派になった。
 昔の賤民・部落民は親天皇・親皇室であったが、現代の賤民・部落民は反天皇・反皇室である。
   ・   ・   ・  
 畏敬、崇敬、敬愛と護持、守護、保護とは、別次元の事である。
 現代日本人には、前者はあっても後者はない。
   ・   ・   ・  
 日本の国鳥は「キジ(雉)」ではあるが、皇室を象徴するのは「トキ」である。
   ・   ・   ・  
 雉も鳴かずば打たれまい。
 キジ鍋。
   ・   ・   ・   
 ジャポニカ・ジャポンと呼ばれていた在来種の日本産トキは、乱獲、農業の近代化にともなった農薬、急速な都市化による自然破壊などで絶滅した。
 日本は、絶滅した日本産トキを再生する為に、中国共産党の協力をえ中国の朱鷺を賜って繁殖を行っている。
 将来、外来種である中国産朱鷺が日本産朱鷺として、空の空を飛び、里山に住みついて子孫を増やしていく。
 生物学の鳥類分類上では、在来種日本産トキであろうと外来種中国産朱鷺であろうとも日本に棲息していれば日本の朱鷺にかわりはない。
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 鳩山由紀夫首相・菅直人総理の民主党政権時代、静かに共産主義革命が起き、静かに伝統否定・天皇制廃絶の人民革新が進められていた。
 総選挙で、そうした民主党政権を作ったのは選挙民である日本国民であった。
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 戦後高学歴出身知的エリートの本心は、徹底して教えらるれた天皇の戦争責任・戦争犯罪という平和教育から天皇・皇族・皇室軽視である。
 政府、政治家・官僚は、天皇・皇族・皇室を下僕のように扱い政治利用している。
 メディアや学者は、利益や金儲けを目的として天皇・皇族・皇室を欲得利用している。
 右翼・右派・ネットウヨクは、自己主張・自己満足の為に天皇・皇族・皇室を悪用している。
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