✨2)─2─自然災害における祭祀王の天皇の務め。〜No.6  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博
 天皇と皇室が安泰である限り、日本国と日本民族日本人も心配ない。
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 日本の天皇は、世界の如何なる王侯貴族や聖職者・宗教関係者とも違う。
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 2019年4月19日 朝日新聞「平成と天皇
 一人ひとりに思いを寄せ  川島裕
 東日本震災あった3月11日。揺れが始まった午後2時46分に黙禱(もくとう)を捧げるのには実は抵抗があるのです。あの時間、犠牲になった多くの方々はまだ生きていた。あの日、皇居・宮殿で、激しい揺れの直後から天皇陛下のおそばでテレビを見ていました。津波警報が表示され、次いで画面に、漁船が映し出されました。陛下は、1993年の北海道南西沖地震での知見から『沖合まで出られれば大丈夫』と祈るように述べておられた。あの十数分は一生忘れないと思います。
 実は震災に先立ち、陛下には心臓に異常が見つかっており、バイパス手術も検討されていました。それでも7週間連続で被災者の元を訪ねられた。その後も多くの災害の地に足を運ばれた。2014年の広島の土砂災害訪問の際、肉親を亡くし、硬い表情で待っていた人々が、両陛下と話し出した途端、すーっと表情が和らいだ。こうしたやりとりの膨大な積み重ねが、象徴の意味合いを形作っていくのだと実感しました。
 両陛下は、犠牲の大きさを『統計数字』とは見ておられない。一人ひとりの悲しみを、リアリティーを持って受け止めておられる。それは、戦没者についても同じでした。両陛下は戦後70年にあたる15年4月、激戦地となったパラオ共和国ペリリュー島に赴かれれた。それに先立ち、生還したかつての日本兵2人と御所で懇談された。陛下は風のため途中退出され、皇后さまが最後までお話を聞き、御所の長い廊下を帰って行く2人の背中をいつまでも見送られていた。一人ひとりに思いを寄せてこられたことの証しだと受け止めました。
 長い天皇の歴史の中で、国民との一体感がこれほど生まれた時代は初めてだろうと思いました。(聞き手 中田絢子)」
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 2019年3月11日 朝日新聞柳美里 そもそも『3・11を忘れない』という言葉に違和感がある。ここではみな、今も3・11の中で生きているという意識。忘れ、遠ざかることは決してなく、暮らしの一部なのです」
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 東日本震災は天災であったが、その後の混乱は政府や企業による人災であった。
 現代日本の政府・国家は、国民を助けない、守らない、打ち捨てるという、無責任さを露わにした。
 悪しき言霊で、対策は後手に回り、被害を拡大し、夥しい犠牲者を出した。
 日本のリベラル派・革新派・改革派・人権派・エセ保守派・一部の保守派は、その程度でしかない。
 彼らが、被災地に入って真顔で語りかけても、被災者は歓迎しないし信用はしない。
 哀れな菅直人総理らは、被災民から温かく迎えられた天皇皇后両陛下・皇太子同妃殿下ら皇族に比べて、逃げるように被災地を立ち去った。
 浅知恵だけは良く回る教養なき政治家の、被災地や被災民の心を踏みにじるような失言が絶えない。
 それを知っているがゆえに、反天皇反日的日本人は天皇制度廃止と皇室消滅の為に動いている。
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 現代日本は、日本民族日本人の歴史を学ばず、自然災害から教訓を導き出さず、同じような失敗を繰り返している。
 江戸時代の方が、近代化現代化した戦後の日本、1990年代以降、特に2010年以降の日本よりも幾分かはマシであった。
 それは、現代日本の左翼・左派・ネットサヨクも右翼・右派・ネットウヨクも同じである。
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 日本社会は、戦争に敗北して死体の山を築こうとも、自然災害で甚大な被害が出て夥しい犠牲者を出そうとも、反社会的革命も凶悪犯罪的暴動や略奪や強姦は起きなかった。
 日本は他国とは違って、反宗教無神論共産主義者マルクス主義者)が政権を奪い、日本を統治し、死と暴力による恐怖体制を打ち立てる事はできなかった。
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🏕23)24)─1─日本の星空は、如何なる宗教、哲学、思想、主義主張よりも優れている。〜No.42No.43No.44No.45 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本流は、世界では通用しない。
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 「日本の星空」を真に理解できるのは、ローカルに生きる日本民族日本人の民族主義者・ナショナリストだけであり、グローバルに生きようとする国際派日本人には不可能である。
 特に、反宗教無神論共産主義者マルクス主義者)には理解できない。 
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 日本列島は百花繚乱の島として、多種多様な花が自己主張せず、控えめに、大人しく、ひっそりと花を咲かせている。
 日本に咲く花は、日本国土で死んだ人々に対する供養花である。
 日本の祭りも同様に、日本国土で死んだ祖先の鎮魂である以上、笛太鼓で賑やか囃し立て、舞踊り笑って騒騒しく、楽しみながら執り行われる。
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 フランソワ・チェン「夜中にふと目覚めたときに心臓の鼓動を感じ、この肉の塊が生の唯一の原動力なのかと不安に思ったことはないですか?
 『生きようとする意志』のようなものがなければ、この器官はじきに止まってしまうのではないでしょうか?」(『魂について』)
 2019年5月号 「桑原聡 この本を見よ 
 ……
 著者によれば、魂とは『生きようとする意志』、言い換えるなら『存在することの欲望』であり、その人に根本的な統一性を保証し、同時に存在するものとしての威厳と価値を保証するのであるという。著者はこれを明確に区別し、魂と精神は補完的あるいは弁証法的な関係にあり、精神の役割は『中心的』であるが、魂のそれは『根本的』であるという。」

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 2019年4月26日号 週刊朝日「暖簾にひじ鉄  内館牧子
 あの日の星空
 3月11日の夜、NHK総合テレビで『あの日の星空』というドキメンタリーが放送された。
 2011年3月11日、東日本震災がが東北地方を襲った。マグニチュードは観測史上最大の9.0。最大震度7津波の最大遡上(そじょう)高40.5メートルとされる。さらに津波福島第一原子力発電所の大災害を招いた。
 その日の夜のことを、非常に多くの人たちが、
 『信じられないほど星がきれいだった』
 と言う。
 そう書かれた本や雑誌も数多く読んだが、東北在住の私の友人知人は、本当に一人残らずいっている。
 『悲しいくらい星がきれいだったのよ』
 『満天の星って、こういうことを言うんだなと、初めてわかった』
 さらに、岩手の友人知人も宮城の友人知人も、そして福島の友人知人も、異口同音に言った言葉がある。
 『どこの町も停電して真っ暗。目がなれてくると、どこもかしこも倒壊した家屋や水につかった田畑。肉親を捜して回る声、悲鳴も聞いた。地獄だった』
 なのに、それらの上には、満天の星が光っていた。
 『今まで見たこともないような、きれいなきれいな星空だった』
 誰もがこう言う。私は何かの報道で、家屋の下敷きになって動けない女性が、いつ来るとも知れぬ助けを待ちながら、倒壊した家屋のすきまから星を見ていたと話したことが忘れられない。彼女も言っている。
 『あんな星は、今まで見たことがない。きれいでした』
 3・11の星空については、『停電で空が真っ暗だったから』とする言葉や文章も多くあった。
 だが、東北の友人知人から、私は何度も聞いた。
 『亡くなった人がみんな星になって、天に昇って行ったのよ。だから、今までにないほどの星だったの』
 そう書かれた文章もたくさん読んだ。あの夜、亡くなった人たちはみんなで手を取りあって天に昇ったり、星になったのだ。
 岩手に住む友人で、日本のみならず世界各国を旅している人がいる。彼は仕事の関係もあって、電気も通っていないような地や、山奥の村に多く行く。その彼は私に言っていた。
 『俺も亡くなった人が天に昇ったと思うよ。俺は今までどれくらい日本や外国の奥地に行って、星を見たかわからないけれど、あの日の星空は全然違ったものな。科学で証明できないことって、あるんだよ』
 ここに一冊のエッセイ集がある。照井翠さんの『釜石の風』(コールサック社)。照井さんは加藤楸邨(しゅうそん)に師事した俳人で、その作品は多くの賞を受けている。現在は岩手県北上市在住だが、震災当時は大きな被害を受けた釜石市に住んでいた。
 その『釜石の風』の中にあの日の星空に触れた文章があった。句集『龍宮』のあとがきに書いたものだという。その部分を引用する。
 『それにしても今夜の星空は美しい。怖いくらい澄みきっている。何か大きな代償を払うことなしには仰ぐことが叶わないような満天の星。このまま吸い込まれていってしまいたい。オリオン座が躍りかかってくる。鋭利な三日月はまるで神だ。』
 そして、星々の下の世界がいかなる状況だったかについても書く。3・11から3日目の朝についての状況描写は壮絶というしかない。
 『てらてら光る津波泥や潮の腐敗臭。近所の知人の家の2階に車や舟が刺さっている。消防車が2台積み重なっている、泥塗れのグランドピアノが道を塞いでいる。赤ん坊の写真が泥に貼りついている。身長の3倍はある瓦礫の山をいくつか乗り越えるとそこが私のアパートだ。泥の中に玉葱がいくつか埋まっている。避難所にいる数百人のうな垂れた姿が頭をよぎる。避難所の今晩の汁に刻み入れよう。
 戦争よりひどいと呟きながら歩き回る老人。排水溝など様々な溝や穴から亡骸(なきがら)が引き上げられる。赤子を抱き胎児の形の母親、瓦礫から這い出ようともがく形の亡骸、木に刺さり折れ曲がった亡骸、泥人形のごとく運ばれていく亡骸、もはや人間の形を留めていない亡骸。これは夢なのか。この世に神はいないのか。』
 長く引用したのは、これほどの状況下にさらされ、これほどの『地獄』にありながらも、人間はふと見上げた空に星を見て、『きれいだな』『こんな星空、見たことないな』と思う。『あの日の星空』は停電のせいではなく、亡くなった人たちが天に昇ったからだと改めて確信する。
 NHKのドキメンタリーは、仙台市天文台の解説と共に、プラネタリウムで3・11の星空を再現していた。それはまさに『こんな星、プラネタリウムでしか見られないわ』と思うほどの満天の星だった。だが、実際にこうだったのだ。
 照井さんは次の一句を詠んでいる。
 『春の星こんなに人が死んだのか』
 あれから8年が過ぎた。そして今、よく聞くのが『3・11への関心が薄れている』という声だ。しかし、読売新聞の世論調査結果は非常に興味深いものだった(3月10日付)。
 『復興に関心ある』が84%に上がっている。一方、『関心が弱っている』が昨年は44%、今年は37%に下がった。同紙は西日本や北海道の自然災害が関心を高めたのではないかとしている。
 これら自然災害に我々が払った『大きな代償』を語り継がなければならない。二度と再び、満天の星にしてはならない。」
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 1986年5月 明仁皇太子「天皇と国民との関係は、天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的だと思います。天皇は政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽共にするという精神的立場に立っています。この事は疫病の流行や飢饉にあたって、民生の安定を祈念する嵯峨天皇以来の写経の精神や、また『朕、民の父母となりて徳覆うこと能わず、甚だ自ら痛む』という後奈良天皇の写経の奥義などによっても表れていると思います」
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 日本民族日本人の生きる支えとなっていたのは、自然崇拝、精霊崇拝、祖先神氏神崇拝であり、満天の星空と朝昇り来る太陽であった。
 日本民族日本人には、個人としての業や罪はあっても、人間としての原罪や宿罪はない。
 業や罪とは、生きているうちに犯すもか前世で犯したものである。
 生まれる以前のアダムとイブの原罪や宿罪は存在しないし、無関係である。
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 日本民族日本人の特性である「ものの憐れ」を心穏やかに冷静に受け入れた時、底力を発揮する。
 そして、楽しく嬉しいのは当然だが、それ以上に悲しく、苦しく、切なく、辛い時ほどよく笑う民族である。
 日本民族日本人の控えめの笑いは、中国人や朝鮮人・韓国人の騒騒しい馬鹿笑いとは違う。
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 1980年代以降、日本民族日本人でない日本人が急増している。
 特に、高学歴出身知的エリートにその数が増えている。
 政治家、官僚・役人、企業家・経営者、学者・教育者、知識人・教養人、そしてメディア関係者達。
 戦後教育の悪影響が、2010年以降に表面化している。
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 東日本震災の被災地に対する失言を繰り返す、政治家、官僚、学者などの高学歴出身知的エリート達。
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 東日本震災時。人気取りの為に被災地を訪れた菅直人総理などの政治家や、自己満足的に被災地で祈りを捧げていた聖職者や宗教家などの宗教関係者は、家族を失った被災者から罵詈雑言で追い返され。
 被災地で涙を流しながら心から受け入れられたのは、天皇皇后両陛下や皇太子同妃殿下ら皇族達だけである。
 日本を被災地には、如何なる宗教もどんな哲学・思想・主義主張も無力であり無用で邪魔であった。
 それは、昔の関東大震災の被災地でも同じ事であった。
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 関東大震災における朝鮮人惨殺事件は、100%ウソとは言わないが、それでも80%近くはウソである。
 日本の歴史、2000年を振り返っても、被災地に於ける惨殺事件や暴動・略奪事件は関東大震災しか存在しない。
 中国・韓国はもちろん世界中では必ずと言って良いほど、被災地における惨殺事件や暴動・強奪・強姦事件は必ず起きている。
 つまり、日本だけが世界の常識が通用しない、世界の非常識な国・民族であると言う事である。
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 酷たらしい惨状と言っても、自然災害の惨状と戦場の惨状とは違う。
 被災者と言っても、災害の被災者と戦場の被災者とは違う。
 犠牲者と言っても、災害の死亡者と戦争の死亡者とは違う。
 戦争被害より自然災害被害の方が、更にひどい。
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 日本の天皇家・皇室が、古今東西の如何なる王侯貴族と違って革命で打倒されず存続してきたのはこの為である。
 日本の民族宗教も、また同じである。
 反天皇反日的日本人は、そうした天皇・皇族、皇室の活動を否定し、天皇制度を廃絶しようとしている。
 だが、反天皇反日的日本人は災害地の被災民から最も嫌われている。
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 日本列島とは、世界の果て、大地の縁(へり)、地の極(きわ)、生死の境界であり、その先は太平洋という死の世界である。
 人間は、舟がなければ海では生きられない。
 人間は、イエス・キリストの奇跡のように水の上を歩くことができない。
 日本列島には、絶対神の恩寵や恵みもないし、救世主(メシア)の奇跡も起きない、見捨てられた絶望が支配する辺境の地である。
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 日本列島は、地球規模に匹敵する自然災害が多発する危険地帯であった。
 自然の四季と全ての大地や海には、何らかの自然災害が潜んでいる。
 日本列島に住む人を含むすべての生き物は、何時何処で、発生した自然災害で命が奪われるかわからない中を生きていた。
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 日本列島とは、自然を原因とする死が支配する恐ろしいところであり、命溢れる花鳥風月プラス虫の音や苔と菌が息づく孤島である。
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 日本列島を覆っているのは、α波、1/fの揺らぎ、マイナス・イオンによる空気・空気圧・同調圧力である。
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 甚大な被害を出し夥しい人々の命を奪う自然災害は男性神素戔嗚尊スサノオノミコト)である。
 亡くなった人々の魂・霊魂が家族を探して彷徨う夜・星空は男性神・月読尊(ツキヨミノミコト)である。
 命の甦り、生き変わり、生まれ変わりである朝焼けの太陽は女性神天照大神アマテラスオオミカミ)である。
 それが、古事記日本書紀万葉集である。
 そして、日本が「日出ずる国」と言われる由縁である。
 それを図案として見える化したのが日章旗旭日旗である。
 日本の甦り・生き変わり・生まれ変わりは、同じ命の再生ではない。
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 日本を自然は、日本中心神話・天孫降臨神話・天皇家神話における「天の岩屋戸(あまのいわやと)」である。
 日本の祭りの起源は、天の岩屋戸神話である。
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 祀りは、祭りとして、集まった人々が焚き火の廻りで車座になり、酒を酌み交わし、御馳走を食べ、語り合って笑い泣き、歌舞音曲で歌い踊り、そして和歌を詠む。
 車座には、身分や階級や階層も、上座も下座も、上位者も下位者も、支配者も被支配者も、富める者も貧しい者も、勝者も敗者も、強者も弱者も、健常者も障害者も、人を差別する全ての理がなかった。
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 日本民族日本人が生きられるのは、勢(いきよ)いと偶然と幸運の賜であり、神秘や奇跡や必然ではない。
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 日本と中国・朝鮮とは、水と油のように全く交わる事がないし、幾ら話し合っても理解し合う事など絶対にできない。
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 最高神である女性神天照大神伊勢神宮)は、天皇家・皇室の祖先神である。
 天皇に即位できるのは、天照大神の血を正統に受け継ぐ直系子孫だけである。
 それが、天皇家・皇室のみが持つ神聖不可侵の血筋・血統である。
 それ故に、日本民族日本人には天皇・皇室が必要なのである。
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 天照大神の血を正統に受け継がない人間が、全ての人が認める人気者、世界で称賛される人徳者や教養者、優れた能力のある実力者、武力で勝ち上がった勝利者、あるいは世界的な億万長者、であろうと天皇には即位できない。
 日本中心神話・天孫降臨神話が、そうした俗物的私欲的でおぞましくえげつない人間を天皇とは認めない。
 天皇の神性は身を慎む無欲無私の教養であって、権威を振り回す欲得の宗教ではないし、権力を行使する恐怖の政治・軍事・経済でもない。
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🏞78)─1─英国立公文書館で北方領土4島を日本領とする1811年版古地図が発見された。〜No.313 

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 2019年4月19日 12:14 産経新聞「【北方四島地図】「日露和親条約以前の国際的国境を示す資料」中西輝政京都大学名誉教授
ビクトリア女王付き地理学者ジェームズ・ワイルドが1840年作成の「日本、クリル(千島)列島」地図。得撫島までが北海道と同じ赤色で描かれ、北方四島と得撫島までが日本領とされている(英国立公文書館所蔵、岡部伸撮影)
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 中西輝政京都大学名誉教授の話 「1855年の日露和親条約以前に、択捉島の北方に日露間の国境があったことを同時代の国際的な文献が明示していたことを示す史料だ。とりわけ、当時の世界で覇権国として『世界標準』を設定していた大英帝国が作った、あるいは政府関係文書として扱っていた地図は信頼性が高い。同時に国際法的にも(領土に関する)法的な主張を支える根拠として正当性が高い」
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 4月19日 産経新聞日露和親条約以前から北方4島日本領 「大英帝国」作成地図で明示 
 英国の地理学者兼地図製作者、アーロン・アロースミスが1811年に作成した「日本、クリル(千島)列島」。択捉島以南の北方四島が北海道と同じ青色で日本領とされている(英国立公文書館所蔵、岡部伸撮影)
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 【ロンドン=岡部伸】19世紀前半に英国王付きの地理学者が北方四島(国後(くなしり)(くなしり)、択捉(えとろふ)(えとろふ)、歯舞(はぼまい)(はぼまい)、色丹(しこたん)(しこたん))を日本領として扱った地図が英国立公文書館で見つかった。地図は英外務省の公式文書として保管。覇権国として「世界標準」を設定していた大英帝国が、北方四島を日本領と定めた1855年の日露和親条約以前に日本領と認定していたと推定され、北方領土交渉をめぐる日本側の主張を裏付ける資料といえそうだ。
 今回確認されたのは、1811年にアーロン・アロースミスが作製した「日本、クリール(千島)列島」と、40年にジェームズ・ワイルドが作製した「日本、クリール(同)列島」の両地図。
 アロースミスの地図は、択捉以南の四島が北海道と同じ青色に塗られ、択捉島とウルップ島(得撫島)の間に国境線が引かれたと認識できる。ワイルドの地図では、ウルップ島までが北海道と同じ赤色に塗られている。
 いずれの地図にも、北方四島近くに「Providence」との表記があり、プロビデンス号で1796年に北海道に上陸し、翌年、北海道西岸を測量した英海軍士官、ウィリアム・ブロートンの探検結果を反映したとみられる。
 ブロートンは著作「北太平洋探検航海記」の中で、(択捉島に当たる)北緯45度25分までは「エゾ(日本領)」と記した。このためアロースミスらは、ウルップ島より南の択捉以下の四島は自然生態系上、北海道と同じと判断したとみられる。
 両地図は、ウルップ島より北の島々をクリール諸島と記し、四島を千島列島(クリール諸島)に含めていない。
 ただ両地図には、択捉島に「or Itrup of Russians(またはロシア人のエトロフ島)」、ウルップ島に「or Urup of Russians(またはロシア人のウルップ島)」と併記し、露側の主張に一定の配慮を示した形跡もある。
 アロースミスは1790年、メルカトル図法による大型世界地図を製作し、国王ジョージ4世付きの水路学者となった。同地図はキャプテン・クックの探検航海の成果で架空の南極大陸「メガラニカ」を消滅させるなど当時最新のものだった。ワイルドも、アヘン戦争における中国の地図に香港を初めて登場させるなど、ビクトリア女王付き地理学者として活躍した。
 幕末の日本では、江戸幕府の天文方(天文地理学者)だった高橋景保が1807(文化4)年に世界地図作製の幕命を受け、アロースミスの世界地図を原図として16(文化13)年に両半球世界図「新訂万国全図」を完成させた。
 アロースミスの地図を日本は04(文化元)年に長崎に来航した露通商使節レザノフから入手。当時のロシアも同地図を世界標準と認識していた可能性がある。
 公文書館ではアロースミスとワイルドの地図を日露間で領有について主張が対立するクリール(千島)関連の外務省公文書(FO925)として保管。当時の英国が少なくとも択捉島以北で日露間の国境を認定していたことをうかがわせる。
 2016年来日したプーチン露大統領は、日露和親条約で四島を日本に引き渡したとし、「ロシア人航海者によって開かれたため、それまで(条約以前)は、ロシアに帰属していると考えていた」と主張した。
 日本は、ロシアに先んじて四島を発見・調査し、遅くとも19世紀初めに実効支配を確立したとしている。」
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✨33}─1─1980年代以降の偏差値教育と自虐歴史教育はGHQのWGIPが原因。〜No.133 *  


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 GHQは、日本政府にウォー・ギルト・インフォメーション・プロジェクト(WGIP)を命じた。

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 1980年代以降の教育から活力・根気・意地を奪った偏差値教育と自虐歴史教育はGHQのWGIPが原因であった。
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 2017年12月号 Voice「意地を忘れた日本
 いまの日本は政治家や財界、そして国民の思いが一つになっていかい
 安藤忠雄
 ………
 ──安藤先生は大阪生まれの大阪育ちです。大阪の地域性が作品に与える影響も大きかったのではないでしょうか。
 安藤 幼いころ、中之島大阪市北区)にある大阪市中央公会堂や桜宮橋(さくらのみやばし:通称『銀橋』)、『ライオン橋』の愛称で知られる難波橋大阪府中之島図書館を眺めては、子供ながらに『大阪はすごい街だ』と感激していました。じつは大阪市中央公会堂をはじめ、大阪には個人の寄付によって建設された建物がいくつもあるのです。社会的に成功した人間が、地元に恩を返すかたちで貢献を行っている。篤志家のおかげで幼少期に立派な建築を間近で見られ、『やはり大阪はすごい』という誇りとともに、人生の財産となりました。だから、私も『生涯大阪発』で仕事をしたいと思っています。
 ──若き日の志と思いが、世界的建築家の基礎を形成した。安藤先生の目から見て、いまの若者はどう映っているのでしょう。
 安藤 いまの人たちに足りないのは『意地』だと思います。世間では『意地を張る』のはよくない、というイメージがあります。でも、私は意地を張らない人のほうが駄目だと思う。一度やると決めた仕事は何があっても貫徹し、若いときしかできないことを遠慮せずやったほうがいい。
 ……
 創造性を殺す日本社会の影響が建築家にも 
 ──国民の気持ちをくみ取りながら、国政の舵取りを行なう政治家がなぜ少なくなったのでしょうか。
 安藤 いちばんの原因は、1980年代から広まった偏差値教育だと思います。偏差値の高い子供が東京大学京都大学などの一流大学などの一流大学に入り、卒業後に官僚や大企業に入る。豊かな感性やユニークな発想をもった人材が世の中に輩出せず、金太郎飴のように似かよったエリートによって治められた社会が、はたして健全といえるのでしょうか。
 ──それに比べて先の大戦を経験した日本人には、既成概念に囚(とら)われない傑人(けつじん)が多かった気がします。
 安藤 科学の分野では中間子理論を提唱した湯川秀樹、それに続いて量子電磁力学の朝永振一郎が立て続けにノーベル物理賞を受賞(1949年,65年)し、スポーツ界では『フジヤマのトビウオ』と呼ばれた水泳選手・古橋廣之進が次々と世界新記録を更新しました。特攻隊に志願しながら生還した裏千家の千玄室(第15代)のように、戦後『和敬静寂』という茶道精神を基に世界各国を歴訪し、お茶を通じて日本人の心を広めた文化人もいます。
 経済界でいえば、松下幸之助本田宗一郎(ホンダ創業者)、塚本幸一(ワコール創業者)など個性的な経営者が日本経済を牽引してきました。強い覚悟をもって何かを成し遂げようとする個性が、日本の高度成長を支えていたのです。しかし彼らがいなくなったあとの後継者を考えてこなかったのが、いま日本では裏目に出ているように思います。それどころか創造性を殺し、個性を摘もうという社会に変わってしまったのが残念でなりません。
 ──日本社会全体が、個性を重んじなくなってしまった背景には何があるのでしょうか。
 安藤 日本が平和になったことでしょうね。同時に、国外の経済環境の変化も大きく関係しています。いまベトナムインドネシアなど、東南アジア諸国の発展は目を見張るものがあります。反対に、近年の日本企業は中国に進出し、現地の雇用や物価が上がると今度はベトナム、次はバングラデシュというかたちで生産拠点を移し続けてきました。これでは技術力や優秀な人材が流出するばかりで、国内産業が強化されるはずがない。国内人材の金太郎飴化は加速し、日本企業の将来を考えるうえで危機的な転換期にあると思います。
 ──個性的で型破りなタイプの企業人が減り、日本企業が衰退すれば、建築業のにも影響があるのでしょうね。
 安藤 もちろんそうです。すでに若手の建築家が、自分の感性を面白いといってくれる人を求めて海外に流れています。
 自然と共生してきた日本文化の強さ
 ……
 ──さらに安藤先生は子供の未来を見据えた建築にも力を入れており、子供向けの図書施設『こども本の森中之島(仮称)』の建設計画もその一つです(2019年完成予定)。
 安藤 いちばんの目的は、子供の『活字離れ』を食い止めることです。まだ構想段階ですが、鉄筋コンクリート造の三階建てで、吹き抜けを設け壁一面に本棚を設置し、世界的な児童文学や絵本などを多数所蔵することを考えています。これも、多感なうちに読書の発見や歓びを味わってほしい、という願いからです。
 ──大阪を代表する文化施設になりそうですね。
 安藤 もともと大阪が文化の発信地で、元禄時代(1688〜1704年)には、上方の町人層が新しい都市文化の担い手となりました。歌舞伎や落語、文楽人形浄瑠璃)といった上方文化が形成され、江戸に移入されていたのです。当時、最高の娯楽とされた歌舞伎の観賞代は農民のひと月の労働賃金に値する高額でした。それでも歌舞伎を見ようと連日、庶民が列をなしたのです。『奥の細道』の松尾芭蕉は旅の道中、村に立ち寄ると食事から宿まで手厚いもてなしを受けました。芭蕉は俳句を詠むだけなのに、です。
 それだけ当時の日本人には娯楽を嗜(たしな)む余裕があり、芸術の美を受けとめる感度が高かったということです。
 ──音楽や絵画が王侯貴族の特権だったヨーロッパと比べて、日本では庶民が浮世絵を気楽に購入していた。こうした芸術的素養はなぜ育まれたのでしょうか。
 安藤 私たちの文化が自然と共生していたことが大きいでしょうね。日本人は古来より破壊と再生を繰り返してきました。時には厳しい気候と対峙しながら、自然と寄り添ってきたので豊かな感性が育まれ、隔世遺伝のごとく受け継がれることで各分野でノーベル賞をもたらすような国になったように思います。アジア人初のノーベル賞を受賞したラビンドラナート・タガールは生前何度も日本を訪れ、日本の伝統美を称賛したそうです。
 文化というものは、経済にない力強さを秘めています。現代の日本企業はとにかく売り上げと利益を追い求め、内部留保を重ねていますが、企業の本来の目的は人間が豊かに暮らすための社会づくりです。経済活動を支えているのも、究極的には人間の感性と創造力にほかなりません。
 ──『こども本の森 中之島』の運営や書籍代については市民だけでなく、企業にも寄付を募るそうですね。
 安藤 そうです。次の時代を担う子供たちのための建設ですから、企業にも協力を呼び掛けています。企業経営者の役割はきわめて大切です」
   ・   ・   ・   
 日本の文化・教養・芸能・芸術は、御上・武士・支配階級ではなく町衆・町人など下々の身分低い庶民の中から生まれて洗練され成熟していったが、完成する事なく、今以て進化の途上にある。
 日本の伝統美は、完成している様で未完成・不完全である。
 世界の文化・教養・芸能・芸術は上流階級の独占所有であったが、日本は町人や百姓など庶民の楽しみ憩いであった。
 日本とは、百姓や町人などの庶民が生き生きした社会であった。
   ・   ・   ・   
 日本の時代は絶対に来ないし、世界は日本などに期待はしていない。
 血を流し命を犠牲にして責任を果たさない、口先だけで正論を垂れ流して逃げ惑う者は「卑怯者」として信用される事は絶対にない。
 日本の衰退あるいは崩壊は加速度的に進んでいく。
 もし、世界が望む日本というものがあるとするなら、それは現代の日本ではなく、現代日本が捨て去った古い日本の中にあった日本である。
 世界は、現代の日本などには期待していない。
   ・   ・   ・   
 2017年における、衆議院総選挙の大根役者の様などたばた、世界的日本企業の利益・金儲け優先の偽装・改竄・捏造・不正、マスコミ・メディアの自己満足的な偏向報道、学校の責任回避もしくは責任放棄的なイジメ自殺・不祥事の隠蔽などなどの日本の悍ましい変質は、1980年代以降の「他人よりも私・個を優先する学校教育」から始まった。
 他人の幸せより自分の幸せ。
 他人より自分。
 自分が良ければ他人なんてかまう必要はない。
 金持ちも貧乏人も自己責任の自己決定による自己努力・自力で勝ち取った当然の結果。
 国・地域・社会の公益・国益・義務より自分一人の個益・私益・権利。
 利益・金儲け為には合法的に利用できるものは全て利用する。
 それの何処が悪い。
 人は一人で生まれてきて一人で生きて一人で死んでいく。
 死んだら全てがなくなる、生きていたこと存在していたことすらもなくなる。
 しょせん、自分は一人なのである。
 あてにし頼れるのは自分一人だけで、他人でもなく、社会でもなく、国でもない。
 利用できるものは他人でも社会でも国でも利用し尽くして踏み倒す。
 21世紀は弱肉強食のグローバルでボーダーレス世界である。
 現代日本は、薄っぺらな上に中身がない虚無・空虚である。
   ・   ・   ・   
 現代日本が理想的人間性として求めたのは、個性ではなく「私」であった。


   ・   ・   ・   

「学力」の経済学

「学力」の経済学

  • 作者:中室 牧子
  • 発売日: 2015/06/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

偏差値崩壊

偏差値崩壊

  • 作者:牧野 剛
  • 発売日: 2009/01/20
  • メディア: 単行本

🌏41)─3─平和の為ならば北方領土4島をロシアに譲渡したいと願う日本人がいる。〜No.132 

   ・   ・    ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博
 2019年4月17日 産経新聞「北海道以北「領土外」教科書 岸田氏「間違ったメッセージ発する」
 自民党岸田文雄政調会長は17日の記者会見で、来年度から使用される小学校の教科書に北海道以北が日本でないかのような印象を与える江戸時代の地図が掲載されていることについて「間違った政治的なメッセージを発することになるのではないか。釈然としないものを感じる」と述べた。岸田氏は文部科学省から意見聴取したことを明らかにした上で、今後、党文科部会で議論し、対応を検討する考えを示した。
 問題になっているのは、江戸幕府鎖国令(1633~39年)を出す以前の東南アジアの日本町などを示した地図。日本列島を赤くしていたが、検定で意見が付き、北海道と北方領土を白くする修正が行われた。
 一方、内閣府北方領土問題を説明したホームページには「1635年、北海道を支配していた松前藩は北海道及び千島、樺太を含む蝦夷(えぞ)地方の調査を行った」との記述がある。
   ・   ・   ・   
 4月11日 産経新聞「ロシア、日本の抗議を批判 北方領土無人機配備で
 ロシア外務省のザハロワ情報局長は11日の定例会見で、北方領土択捉島国後島にロシア軍が無人飛行機ドローンを配備したとのロシア紙報道に日本外務省が抗議したことを「ロシアへの内政干渉で、受け入れられない」と批判した。
 ザハロワ氏は「ロシアは自国領土で国防力強化を含むいかなる行動も取ることができる」と主張。日本の抗議は「第2次大戦の結果を認めようとしない姿勢の裏付けだ」と述べた。
 ロシアは北方領土の軍備強化を進めており、日本が抗議する度にロシア側が反発するという悪循環が続いている。(共同)

  ・   ・   ・   
 4月17日 産経新聞「中国船が領海侵入 尖閣周辺、今年12日目
 17日午前10時ごろから、沖縄県尖閣諸島周辺の領海に中国海警局の船4隻が相次いで侵入した。中国当局の船が尖閣周辺で領海侵入したのは8日以来で、今年12日目。
 第11管区海上保安本部(那覇)によると、1隻は機関砲のようなものを搭載。領海から出るよう巡視船が警告した。
   ・   ・   ・   

 4月17日16:49 msnニュース 共同通信社「地上イージス、半数が配備反対 山口・阿武、町長に要請書提出
 © KYODONEWS ルーマニアに設置されたイージス・アショアの施設=2016年(ロイター=共同)
 地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」配備候補地の陸上自衛隊むつみ演習場がある山口県阿武町で、配備に反対の住民団体が17日、花田憲彦町長と面会。団体入会者数が町の有権者数の約半数になったとして、配備反対の要請書を提出した。花田町長は「しっかり受け止める」と応じ、岩屋毅防衛相に伝える意向を示した。
 要請書は、17日現在の入会者が1394人で、4月7日時点の有権者数2898人の48%になったと指摘。イージス・アショアのレーダーの電磁波が住民の健康に悪影響を与え、迎撃ミサイルの部品落下が懸念されるとして、民家の無い場所への配備を国に求めるよう訴えた。」
   ・   ・   ・   
 

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 4万年前 日本民族日本人の原始である南方系海洋民は、台湾から沖縄を経て九州に上陸して日本全国に住みついた。
 3万年前~2万前 日本列島に縄文人が出現した。
 2万8000年前~1万5000年前 最終氷期の最寒冷期に大規模な海面が低下し、対馬海峡間宮海峡宗谷海峡を経て人や動物が移動した。    
 北海道に住みついた縄文人は移動して、宗谷岬から樺太へ、北方領土から千島列島へと渡りカムチャツカ半島に向かった。
 縄文人とシベリヤの北方系草原民は樺太や千島列島・カムチャツカ半島などで出会い、雑居し、雑婚し、その中からアイヌ人が生まれた。
 アイヌ人らは、船を使って行き来しながら交わり、オホーツク海海域で独自の文化・経済圏を形成した。 
 アイヌ人は、荒っぽく大きく3つのグループに分けられる。
 今に残る蝦夷地・北方領土アイヌ。今はいない樺太アイヌと千島アイヌである。
   ・   ・   ・   
 人類の奇蹟。
 南方モンゴロイド(釣り針文化)は、丸木船を作り漕いで大海原を渡った。
 北方モンゴロイド(縫い針文化)は、防寒服を作り獣を追って極寒地を踏破した。
 草原のモンゴロイドは、獣を追って歩いて来た。
 海原モンゴロイドと極寒モンゴロイドと草原モンゴロイドは、自然災害多発地帯の日本列島に渡り、定住し、出合い、雑居・同居し、乱婚・雑婚して、混血児の島嶼モンゴロイドを生んだ。
 海の釣り針と極寒の縫い針は、混血モンゴロイド(土器文化)の新たな移動によって、更なる改良が加えられながら世界中の人類に広まっていった。
 それは、「原始糸の道」でもあった。
 大海原の糸は植物性であり、極寒地の糸は動物性であった。
 海原モンゴロイド島嶼モンゴロイドの子孫達は、木を切り倒し丸木船を作り、釣り糸と縫い針を持って、太平洋の大海原へと乗り出していった。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人の祖先は縄文人である。
 縄文人は、日本列島を中心として、北はカムチャツカ半島樺太、千島列島、北方領土4島、西は朝鮮半島南部、南は沖縄に住み、舟で移動していた。
 主な航路は、日本海であった。
 日本民族日本人、琉球人、アイヌ人は、祖先を同じくする同族である。
   ・   ・   ・   
 ソ連は、北方領土を日本の圧政から解放したと宣言していた。
   ・   ・   ・   
 ロシア人共産主義者は、日本人女性を強姦し殺し、逃げ惑う日本人の子供を戦車で轢き殺す事に快感を覚えていた。
 逃げ惑っていた数十万人の日本人の女性や子供そして老人達が、ロシア人共産主義者によって虐殺された。
 それは歴史的事実であり、世界史的な非人道的虐殺事件である。
 国際社会は、ロシア人共産主義者による日本人女性・子供・老人虐殺を非人道的犯罪とは認めていない。
 何故なら、ロシア人共産主義者は戦争勝利者であり、日本人は敗北者であるからである。
 人類史、世界史、大陸史において、勝者・勝利者には生殺与奪の権を含む全ての権利が認められ、弱者・敗北者には如何なる権利も剥奪されている。
 弱者・敗北者は、強姦されようが、殺されようが、理不尽に耐え、諦めて受け入れ、一切の抗議ををする事なく、泣き寝入りするしかない。
 それが、国連が廃棄しない敵国条項であり、日本を縛る日本国憲法である。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、江戸時代の人間とは違い、口先で北方領土奪還を騒ぎ立てるか本心はその気はない。
   ・   ・   ・   
 日本人は、遭難者・避難者・被災者などの弱者を自己犠牲で助け、ロシア人は自己欲望貫徹の為に襲って殺した。
 何故なら、日本人は海洋民性島国民族として「死を見詰めて生き」、ロシア人は草原民性大陸民族として「生を見詰めて生き」たからである。
   ・   ・   ・   
 日本人は、何度も、何度もロシア人を助けたが、ロシア人に一度も助けられた事はない。
 むしろ、ロシア人に裏切られ被害や損害を被っている。
 日本人は、助けたロシア人から感謝された事がない。
 ロシア人を助けてもくたびれるだけであった。
 日本人にとってロシア人とは、利害抜きの友人、苦楽を共にできる親友にはなれない。
 戦前の日本は、生きるか死ぬかの窮地で困っているロシア人を、子供を含めて数多く助けたが報われる事が1度もなかった。
   ・   ・   ・   
 欧米列強や中華(中国・朝鮮)は、東西南北から日本を目指して軍事侵略してきた。
 キリスト教会も、日本を精神支配するべく宗教侵略してきた。
 日本の敵は、世界であった。
 日本は孤独で、日本に味方する国は何処にもいなかった。
   ・   ・   ・   
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として世界中で売って大金を稼いでいた。
 白人にとって、日本人はアフリカ人同様に金儲けになる人間以下の野蛮な奴隷であった。
 ロシアの威圧に屈し譲歩する事は、日本人は「創造主である全知全能の神」が定めた白人の永遠の奴隷である事を認める事である。
 北方領土四島返還問題の底辺に、「日本人は家畜同様の奴隷」という人種差別・人種蔑視が存在する。
 ロシア人は、日本人を人間ではなく「黄色い猿」と軽蔑して吐き捨てる。
   ・   ・   ・   
 江戸時代、日本は世界7帝国の1つで、世界は日本の武士・サムライの戦闘能力・軍事力を恐れていた。
   ・   ・   ・   
 1741年7月15日 ロシア人は、アラスカを発見した。
   ・   ・   ・   
 1778年 ロシア皇帝の勅書を携えたイワン・アンチーピンが蝦夷地を訪れ、直接交易を求めた。
 1779年 松前藩は国法である鎖国令をもって拒否した。
   ・   ・   ・    
 1781年 仙台藩藩医工藤平助は、ロシア研究書『赤蝦夷風説考』を著述し、北方海防の重要性を訴えた。
 老中・田沼意次は、北方に関心を抱き、蝦夷地・樺太北方領土等への調査隊を派遣した。
 重商主義者・田沼意次の目的は、ロシアとの平和的な交易を開き、同時に北方領土4島・蝦夷地・樺太を日本領として守る事であった。
   ・   ・   ・   
 1783(天明3)年 船頭・大黒屋光太夫の船は、伊勢白子浦から江戸へ向かう航海の途上に漂流してアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着し、カムチャッカへ向かうまでの4年間をここで過ごした。
 1784年 アラスカの毛皮交易はイルクーツクの商人グリゴリー・シェリホフは仲間のゴリコフとともにアラスカ南部のコディアック島に進出して入植地を築いた。
 1790年 ロシアは、アラスカを植民地化する為に幾つかの毛皮会社(シェリホフ=ゴリコフ毛皮会社、後に露米会社)を設立した。
 1792(寛政4)年 寛政日露外交交渉。
 10月20日 遣日使節アダム・キリロヴィチ・ラクスマンは、大黒屋光太夫と磯吉の2人を引き渡し、通商交渉を求めた。
 老中・松平定信は、漂流民を受け取るが、イルクーツク総督イワン・ピールの通商要望の信書の受理は長崎以外では受理できない事を伝える事。もしどうしても通商交渉を望むならば長崎に廻航させる事を指示した。      
   ・   ・   ・   
 水戸藩は、勤皇思想から、幕府に対して、ロシアの侵略から神国日本を防衛する為に蝦夷地開拓の許可を求めた。
 幕府は、外交と国防は幕府の専管事項であるとして水戸藩蝦夷地開拓申請を脚下した。
 水戸学は、キリスト教と白人の侵略から日本を守る為に、明治国家の原型を思想から創作した。
 日本ナショナリズム。近代的天皇制度。庶民皆兵=国民徴兵制。遠征型軍事国家。廃仏毀釈国家神道
 明治維新は、ロシアの日本侵略に備える為に始まった。
 水戸学思想を明治維新の原動力に変えたのは吉田松陰であった。
 対ロシア防衛戦略から、日本・清国(中国)・朝鮮の3ヶ国攻守軍事同盟結成か、それがダメならば日本が清国(中国)と朝鮮を侵略して属国とする事を考えた。
 だが、清国(中国)と朝鮮は伝統的反日感情から、敵日でロシアと密かに手を組み、ロシアの日本侵略に協力した。
   ・   ・   ・   
 1795年 官僚・外交官でもあるニコライ・レザノフは、アラスカの毛皮会社を継いだ。
 ロシアは、先住民が生活するアラスカを無主の地と決めつけ、移民を送り込んで入植地を広げ植民地化した。
 移民とは、静から侵略であった。
 1799年 ロシアは、極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的とした、国策会社・勅許会社「露米会社」を設立した。
 ロシア皇帝パーヴェル1世は、レザノフに露米会社の経営を委任する勅許を与え、同時に日本を含むアジアの交渉を命じた。
 ロシアは、ロシア領アメリカとしてアラスカの領有を宣言し、アラスカ統治を露米会社に委託して北太平洋航路独占に乗り出した。
   ・   ・   ・   
 1803年5月18日~1815年11月20日 ナポレオン戦争
 イギリスのユダヤ人金融家ロスチャイルドは、戦争を利用して巨万の富を得て国際金融家に成長し、イギリスの金融経済を支配した。
 ユダヤ人が西洋経済に影響力を強める事に対する反発が反ユダヤ主義を生み、ユダヤ人に対する差別や偏見がヨーロッパに広がった。
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 1806(文化3)年 文化露寇。
 レザノフは、日ロ通商交渉が不調に終わった事に激怒し、皇帝アレクサンドル1世に対し、「日本は武力をもって開国させるしかない」と上奏し、日本への攻撃許可を求めた。
 そして、部下に蝦夷地・択捉島などでの海賊行為を命じて帰国した。
 ロシア軍艦は、択捉島蝦夷地を攻撃した。
 1807(文化4)年 シャナ事件。
 東北諸藩は、幕府からの蝦夷地・北方領土樺太の防衛出兵を命じられ、兵員の分担をして約3,000人を派遣した。
 ロシア軍も、臨戦態勢に入った。
 日ロ両軍は、択捉島などで局地戦闘を行った。
 1808年 アレクサンドル1世の元に、日本との戦いの情報がもたらされた。
 アレクサンドル1世は、日本との戦争を許可していないのに戦闘が行われいる事に不快感を示し、攻撃の中止を命じた。
 ロシア軍は、択捉島蝦夷周辺から撤退しました。
 ロシアは、ナポレオン戦争に集中する為に、対日戦略を攻勢から守勢にかえた。
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 会津藩の北方警備は、1807年(文化4年)から1809年(文化6年)にかけて、会津藩江戸幕府によって樺太への出兵を命じられ、総勢1,558名が宗谷岬利尻島樺太に駐留した出来事である。会津藩樺太出兵とも呼ばれる。
 東北諸藩への幕命
 江戸時代の鎖国政策の中で、ロシア通商使節のニコライ・レザノフが実力での通商を図ろうとロシア皇帝のエカチェリーナ2世とその跡を継いだパーヴェル1世の許しなく海軍が樺太や北海道の漁村で略奪を行った。そのため幕府は襲撃に備えるよう1807年(文化4年)、秋田藩弘前藩仙台藩などに蝦夷地への出兵と防備を命じた。
 当時会津藩家老の田中玄宰は錬兵と東北諸藩に会津藩の戦力を誇示するため、幕府に会津藩樺太出兵を内願した。1808年(文化5年)、内藤信周(内藤源助)隊長指揮の下、会津藩兵が若松城を出発、宗谷(稚内市)に本陣を置き、台場や見張り台を設置した。番頭梶原景保は利尻島本泊(もとどまり)に派遣され、さらに北原采女(北原光裕)指揮の下、樺太に上陸して本格的な警備陣営を設け、ロシア軍襲撃に備え訓練を重ねた。 
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 武士・サムライは、北方領土四島を武力を持ってロシアの侵略から死守していた。
 下層民に近い下級武士・庶民・賤民・部落民らは、尊皇攘夷派・勤皇派として、ロシアの侵略から天皇と日本を守る為に動き出した。
 日本は、上層民ではなく下層民で動く。
 天皇を守ろうとしたのは、下級武士・庶民・賤民・部落民達であった。
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 北海異談(ほっかいいだん)とは、文化5年(1808年)に講談師の南豊亭永助が著した前年に発生した文化露寇(フヴォストフ事件)にまつわる読本。その事件を機密扱いにしていた江戸幕府の怒りに触れ、永助は処刑されるなど関係者が処分を受けた。
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 1811(文化8)年 ゴローニン事件。千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニンらが、国後島松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。
高田屋嘉兵衛は、淡路国津名郡都志本村(現:兵庫県洲本市五色町都志)の百姓・弥吉の長男であったが、廻船業者になった。
 高田屋嘉兵衛は、ゴローニン解放に尽力した。
 平田篤胤は、ゴローニン事件を切っ掛けに憂国の士として国学に志した。
 高田屋嘉兵衛は、淡路島に戻り、港湾の整備や灌漑事業などに私財を投じています。
 徳島藩主蜂須賀治昭は、その努力を称賛し、300石の藩士並の待遇を与えた。
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 1822年 ロシアは、イギリスのロスチャイルドから600万ポンドの借款を受けた。
 ユダヤ系国際金融資本は、世界の各国の戦争に介入して大金を荒稼ぎし、アジアや日本にも戦争を起こすべく金を注ぎ込み始めていた。
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 1846年~1848年 アメリカは、米墨戦争の勝利でメキシコからカリフォルニアを強奪した。
 アメリカは、太平洋国家群に参入し、巨大市場である清(中国)との貿易開拓を国家目標とした。
 アメリカ人商人が取引した主要商品は、アヘンと中国人奴隷(苦役)そして武器であった。
 アメリカ西海岸から中国に至る最短航路(大圏コース)は、西海岸から北上し、アリューシャン列島・千島列島・北方領土4島沿いに南下、津軽海峡対馬海峡を通過して上海付近に至る北太平洋航路である。
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 1853年7月8日(嘉永6年6月3日) ペリー黒船艦隊の日本来航。
 代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、浦賀沖に午後5時に現れ、停泊した。
 10月16日~1856年3月30日 クリミア戦争
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 クリミア戦争
 太平洋での戦闘と日本への影響
 太平洋側のロシア極東にも戦争は波及した。フランス海軍とイギリス海軍の連合は1854年8月末、カムチャツカ半島のロシアの港湾・要塞であるペトロパブロフスク・カムチャツキー攻略を目論んだ(ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦)。英仏連合軍は盛んに砲撃を行い、同年9月に上陸したが、陸戦で大きな犠牲を出して撤退した。英仏連合は兵力を増援したが、再度攻撃をかけた時には、ロシア軍は撤退した後だった。ロシアの守備隊は1855年の初頭に雪の中を脱出した。
 この戦いと並行して、エフィム・プチャーチン海軍中将が日本との開国交渉にあたっていた。プチャーチンは、開戦前にロシア本国を出発し、1853年8月に長崎に到着。外交交渉に着手していたが、交渉が長引く中で英仏両国との開戦の情報に接し、東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフとも協議の上日本との交渉を続行。英仏の艦隊との遭遇・交戦の危険を控え、1854年12月には安政東海地震により乗艦ディアナ号を喪失するも、1855年1月に日露和親条約の締結に成功している。
 また、プチャーチンが長崎に入港中との情報を得、英国東インド・中国艦隊司令ジェームズ・スターリングは、それを捕捉すべく長崎に向かった。到着時にはすでにロシア艦隊は長崎にはいなかったが、英国とロシアが戦争中であること、ロシアがサハリンおよび千島列島への領土的野心があることを警告し、幕府に対して局外中立を求めた。スターリングは外交交渉を行う権利は有しておらず、かつ本国からの指示も受けていなかったが、長崎奉行水野忠徳は条約締結を提案し、1854年10月14日に日英和親条約が調印された。日本の北方でロシア海軍との交戦を行うためには、日本での補給を可能にすることには大きなメリットがあり、本国も追認した。
 新興国で大きな海軍も有していないアメリカが、この時期ペリー提督を派遣して日本に対して砲艦外交を展開できたのは、この戦争によって欧州列強の関心が日本を含めた東アジア地域にまで及ばなかったことも理由の一つである。
   ・   ・   ・   
 1855(安政2)年 ロシア軍艦ディアナ号は津波で破損したが、周辺の漁民は、日本人、ロシア人に関係なく、同じ海の男として、命の危険を顧みず、何ら得・利益にもならずむしろ損を承知で、500名のロシア人水兵を嵐の中で救助した。
 日露和親条約(日露通好条約。下田条約)で、北方領土択捉島と中千島列島・ウルップ島の間を公式に国境と定めた。
 ロシアは、北方領土四島を日本固有の領土と認めた。
   ・   ・   ・   
 1859(安政6)年 ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航し、樺太全土はロシア領であると軍事力で威嚇し領有を主張した。
 7月26日 江戸幕府は、虎ノ門天徳寺において樺太領有問題に関する日露交渉を行う。
 外国事務掛遠藤胤統と酒井忠毘は、ムラヴィヨフに対し樺太は日本領であるとしてロシアの主張を完全に退けた。
 江戸幕府は、母国を守るべく外圧に耐えていた。
   ・   ・   ・   
 1861年3月14日(文久元年2月3日) ロシア軍艦による対馬占拠事件。ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量、その後浅茅湾内に進航した。
 ロシア人は、宗教的白人至上主義者として、日本人を下等な野蛮人として侮蔑して暴虐の限りを尽くしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として世界に売って大金を稼いでいた。
 3月23日 ビリリョフ艦長は、対馬藩に対し芋崎の租借を求め。
 ロシア側の本当の狙いは、日本の領土内に租借地を強奪してアジア侵略の根拠地とし、南海航路の確保であった。
 イギリスは、ロシアの極東侵出を恐れ、軍艦を派遣して対馬からロシア軍艦を追いだした。
 各地の攘夷派は、幕府の弱腰に激怒した。
 特に長州藩過激派は、幕府が武力で対馬を守り切れない弱体ぶりに絶望し、ロシアの侵略から日本を守る為には天皇中心の国家をつくるしかなく、その為には役に立たない時代遅れの幕府を打倒するべきであるとして暴走し始めた。
   ・   ・   ・   
 1861年4月12日?1865年5月9日 南北戦争
 アメリカは、内戦の為に日本やアジアへの干渉を後退させた。
 ビスマルク南北戦争は、欧州の金融権力(ユダヤ人金融資本家)によって誘発された」
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 1862(文久2)年1月15日 坂下門外の変尊王攘夷派の水戸浪士は、和宮降嫁に対する反幕感情から老中・安藤信正陸奥磐城平藩の第5代藩主)を坂下門外で襲撃して、背中に負傷を負わせた。
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 1865年4月15日 リンカーン大統領暗殺事件。エイブラハム・リンカーン大統領死亡。
 ユダヤ人金融資本家による陰謀説がささやかれた。
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 1867年 ロシアは、クリミア戦争に敗れ財政的に困窮した上に、イギリスにアラスカを盗まれる事を恐れた。
 10月18日 ロシアは、アメリカに720万ドル(2005年現在の価値で9,000万ドル)で売却した。
 アメリカは、アラスカとアリューシャン列島を植民地として北太平洋航路競争に本格参入した。
 アリューシャン列島には、アレウト族またはアリュート族が先住民として住んでいた。
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 蝦夷地(北海道)や北方領土4島のアイヌ人は、アレウト族やイヌイットエスキモー)のように日本・ロシア・アメリカ三国の国民に組み込まれる運命で、少数民族として独立や中立はありえなかった。
 それは、南の琉球王国琉球人も同じであった。
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 1868年6月10日(慶応4年閏4月20日)?11月6日(明治元年9月22日) 会津戦争
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 蝦夷共和国とは、戊辰戦争末期に蝦夷地(北海道)を支配した江戸幕府軍勢力による「事実上の政権」である蝦夷島政府を指す俗称。箱館政権とも称される。慶応3年(1867年)に15代征夷大将軍徳川慶喜大政奉還を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄太郎の斡旋により新政府軍の大総督府参謀である西郷隆盛と徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談で江戸城無血開城が決定する。海軍副総裁榎本武揚は旧幕臣の保護と北辺防備を目的として慶応4年(1868年)8月19日に品川沖から開陽丸を旗艦に8隻の軍艦を率いて江戸を脱出し、蝦夷地に向かった。途中仙台で会津戦争で敗走した伝習隊、旧新選組彰義隊の残党を吸収し、北上、鷲ノ木に上陸し、各地を平定、五稜郭を攻略し、箱館府知事清水谷公考を敗走させ、蝦夷地全島を支配下に置いた。
 呼称
 榎本ら蝦夷島政府の関係者が「蝦夷共和国」と名乗ったことはなく、また独立主権国家たると宣言したわけでもない。また、主権的な独立や地方割拠を目論んだわけではないため、「政権」「共和国」などの呼称は適切ではない。
 「事実上の政権」の真相
 翌11月5日、現地の英仏領事と両艦の艦長が会同して打ち合わせを行ったが、英仏領事とも、この時点では榎本軍に対して高い評価を与えていた。やがて箱館港を管理する箱館奉行永井尚志に来てもらったが、榎本は松前に出張中であり、帰るまでしばらく待って欲しいと答えた。永井は外交経験も豊富であり、彼の態度は、英仏領事のみならず、英仏艦艦長にも好印象を与えた。その会同の最中、榎本艦隊旗艦開陽丸が、賓客の来訪を歓迎する21発の礼砲を撃った。これを見たアメリカ、ロシア帝国プロイセン(ドイツ)の領事は、英仏艦に行かずに開陽丸を表敬訪問した。
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 日本の敵はロシアであったが、ドイツとアメリカはロシアに協力する仮想敵国であった。
 日本にとって安心できる相手は、イギリスとフランスであった。
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 1868(明治元)年7月 会津藩庄内藩は、プロイセンに対し蝦夷地の土地売却の打診を行った。
 ビスマルクは、イギリスとフランスが関係している日本の内戦に巻き込まれる事を嫌って、蝦夷地売却提案を却下した。
 だが、ビスマルクは、北太平洋航路に参入を考えると好ましい提案であるとして、方針転換し、却下の3週間後に交渉を認可した。
 ビスマルク文書は、後にドイツ連邦軍事文書館で発見された。
 会津・庄内両藩は、プロイセンから資金を借り受ける為の担保として「蝦夷地の土地を99年間貸与」を申し出た。
 プロイセンの駐日公使ブラントは、ビスマルクに「会津藩庄内藩蝦夷地を売り渡す変わりに軍事援助を求めてきた」との手紙を送った。
 プロイセンは、会津藩にライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬を売る事に合意した。
 官軍は、会津への銃・弾薬を新潟港に陸揚げされた所を差し押さえ、押収した。
 会津軍は、官軍に敗北した。
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 ガルトネル開墾条約事件あるいはガルトネル事件は、日本の幕末から明治時代最初期にかけ、函館(当時、箱館)における開墾地租借契約をめぐりプロイセン貿易商との間で発生した外交事件である。
 概略
 プロイセンの貿易商ライノルト・ガルトネル(以下、R.ガルトネル)は、クニッフラー商会横浜支店から同商会箱館代理店店長兼駐箱館プロイセン副領事となった弟のコンラート・ガルトネルの助力により、箱館近郊の開墾を計画した。慶応3年(1867年)箱館に近い七重村に、箱館奉行杉浦勝誠から1,500坪の開拓許可を得て開墾に向けた準備を開始した。翌慶応4年(1868年)に江戸幕府が瓦解し、この計画はいったん白紙に戻された。箱館奉行所の業務は、明治新政府が4月に設けた箱館府(設置時は箱館裁判所と呼称)が引き継ぎ、公家出身の清水谷公考が府知事に就いた。箱館府民政方判事の井上石見はR.ガルトネルと面会し、蝦夷地の開拓推進のためにR.ガルトネルの計画に同意し、7月ごろより七重村御薬園地の周辺の開墾が始まった。
 そのさなかに箱館戦争がはじまり、榎本武揚が率いる蝦夷島政府が10月末に箱館を占領し、箱館府の役人は青森に退却した。R.ガルトネルは蝦夷島政府と交渉し、引き続き同様の開墾を行う同意を得、明治2年2月19日(グレゴリオ暦1869年3月31日)に「蝦夷地七重村開墾条約書」を締結した。その内容は、七重村およびその近傍の約300万坪を99年間借りることや、有志を選びヨーロッパ農法を教授すること、などであった。しかしながら事態は大きく変転し、5月11日には明治新政府軍が箱館を攻撃し、わずか1週間後の18日には榎本の降伏により蝦夷島政府は倒れた。その翌日である5月19日に再び箱館府が設置されると、R.ガルトネルはさっそく箱館府と交渉し、約1か月後の6月16日には「地所開拓之為蝦夷政府アル・ガルトネル氏の約定」および「蝦夷島開拓人員之掟則」を早々に締結した。なお、この約定には契約期限が示されていなかった。この約定により、七重村村民は自らの農地をガルトネルに横取りされるような形となってしまい、周辺住民との間には土地境界や契約を巡るトラブルが絶えず、箱館府への陳情もたびたび行われたが、混乱期でもあり省みられることがなかった。
 明治2年7月8日に明治新政府により蝦夷地及び樺太の開拓を掌る開拓使が設置された。9月には蝦夷地は「北海道」に、箱館は「函館」にそれぞれ改称され(ただし後者については、『函館市史』等において異論も主張されている)、旧箱館府は「開拓使出張所」と改称され本格業務も開始された。その中で、開拓使は本件を問題視し、東京の中央政府にもこの開墾条約の存在が知らされた。この契約が定められた居留地外の案件であることや、この土地を足掛かりに蝦夷地が植民地化されるおそれもあることから、外務省は11月に開拓使へガルトネル条約の契約を破棄するよう伝えた。その後、開拓長官となった東久世通禧(前述の清水谷公考と同様に公家出身者であり、実質的には開拓次官となった黒田清隆が中心となった)とガルトネルとの厳しい交渉がおこなわれた結果、明治3年(1870年)11月に62,500両の賠償金を支払うことで契約を解消した。取り戻した土地には同月に開拓使により七重開墾場が設けられたが、その本格的な活用[明治6年(1873年)以降のこととなる。
 遺された財産目録によると、開墾地にはアルファルファやクローバー等の牧草、リンゴやサクランボ、セイヨウナシなどの果樹や、牛や馬、豚などの家畜がヨーロッパより導入されている。このため、七飯町は自町を「西洋農業発祥の地」としている。また目録には、プラウなどの農具や、パン焼き竈、温室建造用のガラスなども記されている。R.ガルトネルが故国を懐かしんで植えたと言い伝えられているブナの林は現存し、樹齢100年を超えるブナの人工林は珍しいことから、「ガルトネル・ブナ保護林」として林野庁が管理している。
 なお、蝦夷地北辺を防備する諸藩に対しても、ガルトネルは土地を担保に武器を提供していたことを示す書簡がドイツで見つかっている。
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 1870年7月19日~1871年5月10日 普仏戦争
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 1874(明治7)年 明治新政府は、ロシアの侵略から日本を守り北海道の警備と開拓の為に屯田兵を配置した。1904(明治37)年に廃止された。
 屯田兵の多くは武士で、賊軍に関係ない各藩から送り込まれていた。
 日本政府は、アイヌ人の生活を脅かさない為に、屯田兵アイヌ人が住んでいない不毛の原生林に移住させた。
 屯田兵になった武士は、自分と旧藩主の名誉に賭けて、逃げ出さず原生林を切り開き開墾を行った。
 庶民(百姓や町人)からなる開拓団は、土地が手に入るとして北海道に入植したが、苦労して不毛の原生林を切り開くよりも手っ取り早く開墾地を手に入れるべくアイヌ人の土地を奪っい、奪ったという後ろめたさを誤魔化す為にアイヌ人を馬鹿にし差別した。
 日本人のアイヌ人差別は、国防を最優先とした日本政府や武士開拓団ではなく、土地欲しさに入植した庶民開拓団が広めた。
 庶民開拓団には、国益や国防や公益など興味も関心もなく、自分の土地を手に入れる事だけであった。
 そうしたアイヌ人を差別する庶民感情は、現代の北海道にも根強く存在する。
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 1875(明治8)年5月7日 樺太・千島交換条約締結により日本は樺太島の領有権を完全に放棄し、全島がロシア領となる。
 日本は、昔からの北方領土四島に加えて、ロシア領であった北千島と中千島を日本領に編入した。
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 1877(明治10)年11月19日 北海道瀬棚海岸沖にてロシア軍艦アレウト号が暴風に煽られ座礁し、地元の日本人が乗組員60人全員を救助した。
 1878年4月20日 迎えに来た軍艦エルマック号へアレウト号乗組員がボートで向かう途中高波によって転覆して、12人が犠牲になった。
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 日本はロシアとの戦争に備えて軍事強化を急いだ。
 日本陸軍プロイセン陸軍を手本とし、日本海軍はイギリス海軍の協力をえた。
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 ロシアとの戦争の為の囚人道路と八甲田遭難事件。
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 1892年(明治26年)に加藤正之助によって第五回帝国議会へ北海道土人保護法案が提出、アイヌ自身も代表を送り法案成立を目指して国会に陳情し、1898年(明治32年)に制定。
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 日露戦争は、ヨーロッパ諸国を巻き込んだ為に第ゼロ次世界大戦の様相を示し、最新近代兵器が投入された本格的な近代戦争であった。
 1904~05年 日露戦争時。金沢市民は、肉親を殺した憎きロシア人兵士捕虜であっても、「おもてなしの心」で人道的に温かく迎え、戦傷や病気を治療し、死亡すれば野田山墓地に敬意を持って葬った。
 ロシア人兵士捕虜の好待遇を望んだのは、天皇と皇后であった。
 敵軍兵士捕虜に対する捕虜収容所における厚遇は、日清戦争の中国人や第一次世界大戦のドイツ人でも同じであった。
 天皇がそれを望む以上、日本民族日本人は天皇の大御心・御稜威に従い実行した。
 つまり、日本民族日本人による敵兵士に対する捕虜虐待は天皇への不忠になる為に存在しない。
 天皇への忠誠心がない日本人が捕虜虐待を行った。
 性善説日本民族日本人、武士道に生きる武士・サムライは戦場から一歩でも離れれば敵味方関係なく友人と考えていた。
 スターリンは、日露戦争の復讐戦と報酬戦を悲願としていた。
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 1917(大正6)年 ロシア革命
 共産主義者は、組織の5%を洗脳し赤化して組織全体を自由に操っていた。
 1918~22年 シベリア出兵。 
 日本民族日本人は、共産主義の侵略から天皇と母国を守るべく戦っていた。
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 1918年5月 親を殺されたり親からはぐれたりしたロシア人上流階級の3~15才の子供達は、助け合い、庇い合いながらサンクトペテルブルグを出発し、内戦がまだ穏やかなウラル地方まで逃げてきた。
 共産主義陣営でも反革命陣営でも、人種差別主義のロシア人はユダヤ人10万人以上を、女子供に関係なく虐殺していた。
 共産主義者マルクス主義者)は、人種・民族に関係なく~イズムを大義とする血に飢えた虐殺魔であった。
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 1920年3月から5月 ニコライエフスク住民虐殺事件(尼港事件)。赤軍パルチザン部隊約4,300人(ロシア人3,000人、朝鮮人1,000人、中国人300人)は、反革命派ロシア人住民約8,000人と日本人民間人735人を虐殺した。
 朝鮮人テロリストは、裕仁皇太子や皇族を殺すべく狙っていた。
 日本民族日本人の全ての敵がそこにそろっていた。
 それは、ロシア、中国、朝鮮である。
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 1920年7月 勝田銀次郎と陽明丸。
 シベリア出兵時。日本人軍国主義者は、報酬がなかったが、シベリアの激戦からロシア人避難児童779人(男児・428人。女児・351人)と婦人・87人を救い出し、無事にヨーロッパ側のペトログラード(現サンクトペテルブルク)に送り届けた。
 世界は、日本人軍国主義者の人道貢献を絶賛した。
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 日本軍は、ポーランド人学童を赤軍の攻撃から戦死者を出しながら助け出し、祖国ポーランドに送り届けた。
 戦死した日本軍兵士は、靖国神社の軍神として祀られた。
 日本軍と日本人軍国主義者は、人道貢献としていい事もした。
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 日本は、天皇の御稜威から人道貢献として、武器を持たず戦う意思のない女性・子供・老人さらに怪我人・病人などを弱者を助けた。
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 1939(昭和14)年8月23日 スターリンヒトラーは、独ソ不可侵条約モロトフ・リッペントロップ条約)を結んで同盟を組み、ポーランドを分割する秘密議定書を取り交わした。
 9月1日 ドイツ軍は、ポーランドに侵攻した。
 イギリスとフランスは、ナチス・ドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発した。
 9月17日 ソ連軍は、英仏がポーランドを救う為の救援軍を派遣しない事を確認して、ポーランドに侵攻して東半分を占領した。
 12月12日 ソ連・ロシア人は、自国民が軍国日本に助けられても決して感謝しない。
 宗谷岬で、ソ連貨物船インディギルカ号が猛吹雪の中で座礁して遭難した。
 猿払(さるふつ)村の漁民や村人と稚内の警察や漁業協同組合の救助隊は、乗客1,500人の内400人程を救出したが残りは死亡した。
 乗客は、700人の漁業労働者とその家族、約800人の囚人であった。
 日本では死者一人一人に名前があり親兄弟や故郷があるが、ソ連の死者は無名で親兄弟も故郷もわからなかった。
 無名兵士の墓とは、敬意の対象ではなく単なる石の碑にすぎなかった。
 9月 ソ連ナチス・ドイツは密約を交わしてポーランドを侵略して第二次世界大戦が勃発した。
 ロシア人共産主義者は、人民の正義によって、ポーランド人の民族主義者、民主主義者、自由主義者、政治家、軍人、資本家、学者、宗教関係者などを反共産主義者反革命分子として虐殺した。
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 ソ連が、ナチス・ドイツとの大祖国戦争で勝利できたのは日本軍のお陰であった。
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 日中戦争も太平洋戦争も、ソ連の陰謀である。
 日本は戦争をしたくなかったが、ソ連の工作で戦争へと追い込まれていった。
 レーニンが企画し、スターリンが命じ、毛沢東ルーズベルトが実行した。
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 昭和天皇東条英機A級戦犯たちは、ヒトラーから逃げて来た数万人のポーランドユダヤ人難民を無償で助け、ナチス・ドイツからの圧力を無視し、彼らを安全地帯に逃がした。
 上海ゲットーホロコースト阻止事件。松岡洋右松井石根A級戦犯日本陸軍は、ゲシュタポ反ユダヤ主義者が上海ゲットーでホロコーストを行おうとしたのを阻止し、数万人のユダヤ人難民を助けた。
 アメリカ・イギリスなどの連合国、バチカン、国際赤十字は、ホロコースト情報を得ていても否定して、ユダヤ人達を見殺しにした。
 ワルシャワ蜂起。ソ連軍は、ワルシャワゲットーのユダヤ人を助けず見捨てた。
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 ロシア人共産主義者は、日本を共産化する為に、天皇制度を廃絶し、昭和天皇や皇族と天皇主義者を全員虐殺する為に暴力的共産主義革命=敗戦革命を起こそうとした。
 日本人共産主義者テロリストは、昭和天皇や皇族を殺そうとしていた。 
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 ロシア人共産主義者は、満州樺太で数十万人の逃げ惑う日本人の女性や子供を虐殺した。
 日本人女性は、ロシア人共産主義者によって強姦され、そして惨殺された。
 ソ連軍戦車は、日本人の女性や子供達を生きたまま轢き殺しながら日本に向かって侵略を続けた。
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 日本は戦争を止めるべくソ連に連合軍への停戦交渉の仲介を依頼したが、ソ連は日本の領土を強奪すべく陰険か手段を使って騙した。
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 ソ連(ロシア)は不法行為を承知で北方領土四島を武力で強奪した。
 ソ連(ロシア)は、強欲で、国際法を無視し、人としての信義も情理も踏みにじって日本の領土を暴力で奪った。
 ロシア人に、人権、人道、道理、分別、道義、信義、情義など、日本人が思いつく限りの人の道を話した所で無意味である。
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 ロシアは、戦争犯罪国家日本に対する全ての行為は合法で正当性があるり、戦勝国の当然の権利だと主張している。
 戦勝国には、敗戦国及び敗戦国の国民に対する生殺与奪の権利は国際法で認められていると。
 つまり、敗戦国は文句を言わず、戦勝国の言う事を無条件で聞き受け容れるべきであると。
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 北方領土四島返還を二島返還や面積2分の1分割案は、ロシア人共産主義者による日本人女性の強姦や殺害を不問に付す事である。
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 1988(昭和63)年1月29日 日本の外相は、国連にアイヌを日本の少数民族であると報告した。 
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 1992(平成4)年1月2日未明 島根県隠岐島沖の日本海でナホトカ号重油流出事故。
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 地球温暖化北極海航路が可能となれば、中国、韓国、北朝鮮北方領土4島問題に介入してくる事になる。
 日本の目の前に立ちはだかるは、ロシア、中国、朝鮮(韓国・北朝鮮)であった。
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 日本人は、お人好しのバカであった。
 しょせん、ロシア人は中国人や朝鮮人同様に信用できない。
 ロシア人を助けようとして戦死した靖国神社の英霊は、無駄死に、犬死に、バカな死に方をした愚か者である。
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⚔4)─2─戦国武将も黙認した金銭目的の乱取り。日本の英雄豪傑小説に欺されてはいけない。〜No.11  

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   

 日本には、奴隷制度はなかったが奴隷はいた。

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 日本人の本性は、冷血、非情、薄情、冷酷、残酷であった。

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 乱取りとは。合戦に勝った武将が、配下の下級武士や百姓の雑兵達に勝ち戦の褒美として敵地での好き勝手を許した事である。
 下級武士や雑兵達は、敵から兵糧や武具を奪い、占領地で女を強姦した。
 中には、捕らえた女や男を奴隷として南蛮人商人や日本人人身売買商人に奴隷として高値で売った。
 日本国内に、日本人商人が取り仕切る日本人を奴隷として売買する市場があった。
 大人の奴隷は、2貫〜10貫目(現代の金額で20万円〜100万円)で取引された。
 子供の奴隷は、2〜3文、現代貨幣価値で約20〜30円で売買されていた。
 日本人には、同胞を家畜の様に扱う非常さがあった。
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 日本全国で乱取りが行われ、義を重んじる上杉謙信でさえ許していた。
 貧しい百姓は、合戦で乱取りと合戦後の落ち武者狩りで金目のお宝が奪える為に、合戦を望んだ。
 百姓の次男や三男は、田畑の相続を得られない為に、雑兵として戦傷に出て敵大将首を取って手柄を立て侍になる事を夢見た。
 福原圭一「当時、謙信は商人による塩の流通をコントロールできていなかった。そもそも〝義に生きた〟というイメージも見直されるべきで、謙信の軍隊が、戦地で人身売買をしていたという史料も存在しています。これは全国の戦場で行なわれていたことです。謙信も戦国時代の価値観やルールにのっとっていたのです」
 謙信が、武田信玄を助ける為に「敵に塩を送る」逸話は後世の人が創った架空の話であったという。
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 豊臣秀吉が天下を統一する以前。
 人口減少に苦しんでいた高麗及び李氏朝鮮は、日本近海を荒らし回り、日本人を拉致して自分たちの奴隷とするか、中国に奴隷として売って金を稼いでいた。
   ・   ・   ・   
 戦場とされた農地の百姓達は、武器を隠し持ち、負けて逃げる落ち武者を狩り、合戦を悪用して稲など盗む「刈り働き」や放火略奪などの「焼き働き」を行った。
 百姓は、侍に虐げられた弱い存在ではなく、乱世で生き抜く為に侍をしたたかに利用していた。
 日本の歴史とは、「したたか」と「狡賢さ」と「図太さ」を持った生き抜いてきた百姓の物語である。
 日本の百姓は、大陸で奴隷の如く虐げられ搾取されるだけの農夫ではなかった。
 合戦後。百姓は、村の入り口に関所を設けて落ち武者刈りを行ったが、それには三つの目的があった。
 一つ目は、落ち武者を殺して刀や槍や武具などの金目の物を奪う為。
 二つ目は、武者刈りをせずに見逃した事で、勝者から敵に味方したと咎められない為。
 三つ目は、落ち武者が盗賊となって暴れないようにする為。
 日本の百姓は、大陸の農夫や下層民とは違って決して泣き寝入りはしなかった。
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 産経新聞 iRONNA
 戦国時代の乱取り
 川中島の戦いは略奪が目的だった? 信玄も黙認した「乱取り」の真実
 『渡邊大門』 2019/01/05
 渡邊大門(歴史学者
 前回の倭寇による人の略奪を踏まえて、日本国内に目を向けてみよう。戦国時代は、人身売買も含めて、人の略奪が盛んに行われた時代だった。それは、まさしく「生きるため」だったといっても過言ではない。それは、天候不順による食糧不足とも連動していたと言える。
 現代は便利な時代であり、暑いと言えば冷房をつければよいし、寒いと言えば暖房をつければよい。食料もビニールハウスどころか、今や工場で作るありさまである。最近の自然災害はひどい状況だが、鉄筋コンクリートの建物は、昔の木造建築に比べると非常に頑強である。むろん戦国時代の家は、粗末な木造だった。
 また、今は道を歩いていれば、スーパーやコンビニがあるので、お金さえあれば食料を手に入れることができる。病気になっても、病院に駆け込めば何とかなることも多い。すべてが便利であるし、さまざまな点で不便な戦国時代とは比較にならない。
 戦国時代に目を転じると、主力となる農業や漁業は自然が相手の仕事であり、ひとたび自然災害に見舞われると、農業用の機械があるわけでもないので、農地の復旧には多大な時間を要した。おまけに天候不順に陥ると、たちまち作物の収穫量はガタ落ちし、人々は飢えに苦しむありさまである。
 保存食があるとはいえ、今のように冷凍食品があったわけではない。ひどい状況が続けば、やがて人々の体力を奪い、病気になることもあった。病気になると特効薬があったわけでもないので、疫病の蔓延(まんえん)は深刻な事態を招いた。
 寛喜2(1230)年から翌年まで人々を苦しめた寛喜の大飢饉(ききん)では、食糧難が深刻になったので、子供を売ってでも生活の費用を捻出する必要が生じた。とにかく、戦国時代の人々は生きるために必死だったのである。
 村で生活する人々はときに戦争に参加し、戦場で相手から略奪した金目のものや食料などを自分のものにした。戦場で人を捕らえた場合も、自分のものになり、捕らえた人を売ることもあった。つまり、戦争に行くこと自体が、自らの生死をかけた戦いであり、略奪が生きるために必要だったのである。
 こうした戦場における人の略奪は、必然的に人身売買の温床となった。以下、戦場における人の略奪を中心にして、さまざまな事例を取り上げることにしたい。最初は、武田氏の事例である。
 甲斐国の武田氏や小山田氏をはじめ、当時の生活や世相を記録した史料として、『妙法寺記』(『勝山記』とも)という史料がある。そこには、数多くの人の略奪の記録が残されている。
 天文5(1536)年、相模国青根郷(相模原区緑区青根)に武田氏の軍勢が攻め込み、「足弱」を100人ばかり獲っていったという。この前年、武田信虎今川氏輝北条氏綱の連合軍と甲斐・駿河の国境付近で戦い(万沢口合戦)、敗北を喫していた。武田氏は両者に対して、大きな恨みを抱いていたといえる。
 史料中の「足弱」とは、「足が弱い人」「歩行能力が弱い人」という意味がある。転じて、女性、老人、子供を意味するようになった(足軽を意味することもある)。つまり、武田氏の軍勢は戦争のどさくさに紛れ、戦利品として「足弱」を強奪して国へ戻ったということになろう。時代を問わず、女性、老人、子供は常に「弱者」であった。
 そして、天文15(1546)年には甲斐国で飢饉があり、餓死する者が続出したという。そうした状況下、武田氏の軍勢は男女を生け捕りにして、ことごとく甲斐国へと連れ去った。生け捕られた人々は、親類が買い取りに応じることがあれば、2貫、3貫、5貫、10貫で買い戻されていった。
 現在の貨幣価値に換算すると、一貫=約10万円になる。生け捕られた人々は約20万~100万円で買い戻された。身分あるいは性別や年齢で値段が決まったのであろうか。

 『妙法寺記』を一覧すると、武田氏の軍勢が行くところでは、多くの敵方の首が取られたことが記述されており、同時に多くの「足弱」が生け捕りにされたことも記されている。「足弱」は売買されるとともに、農業などの貴重な労働力になったのであろう。
 このように、戦場で人あるいは物資を強奪することを「乱取り」という。戦場で分捕ったものは当然、自分のものなった。ある意味で戦争に参加するのは、乱取りが目的とも思えるほどである。その姿は、『甲陽軍鑑』にも生き生きと描かれている。
 『甲陽軍鑑』とは、江戸時代初期に集成された軍書であり、武田氏を研究する上で重要な史料の一つである。武田信玄・勝頼父子の治績、合戦、戦術、刑法などが記述され、20巻59品から構成されている。その成立過程は、武田氏の家臣、高坂昌信の遺記をベースにして、春日惣二郎、小幡下野らが書き継ぎ、最終的に小幡景憲が集大成したとされている。
 『甲陽軍鑑』は、まさしく乱取りの事例の宝庫であるといえる。以下、いくつかの例を挙げることにしよう。
 武田信玄の戦いで最もよく知られているのは、越後の上杉謙信と死闘を演じた川中島長野市)の戦いであろう。天文22(1553)年、初めて2人が刃を交えて以来、計5回にわたって雌雄を決している(4回説もあり)。ここでは2人の名勝負ではなく「乱取り」だけを見ることにする。
 川中島の戦いに際して、甲斐国から信濃国へ侵攻した武田軍は、そのままの勢いで越後国関山(新潟県妙高市)に火を放つと、人々は散り散りに逃げ出した。そして、謙信の居城である春日山城新潟県上越市)へ迫ったのである。武田軍は越後に入ると、次々と人々を乱取りし、自分の奴隷として召抱えたという。その大半は、女や子供であった。
 『甲陽軍鑑』には、兵卒が男女や子供のほか、馬や刀・脇差(わきざし)を戦場で得ることによって、経済的に豊かになったと記されている。女性に限って言えば、家事労働に従事させたり、あるいは性的な対象として扱われたりしたのであろう。場合によっては、売却して金銭に替えることも可能であったと推測される。戦争に行くことはまさしく生活がかかっており、さらに運がよければ「うまみ」があったといえよう。
 こうなると、戦争に行った者たちの関心は、極端に言えば戦いの勝敗よりも、乱取りでどれだけ略奪できたかに移っていたようである。『甲陽軍鑑』の一節には次のように記されている個所がある(現代語訳)。

 乱取りばかりに気持ちが動いて、敵の勝利にも気付かなかった。
 乱取りばかりにふけっており、人を討つという気持ちがまったくない。

 乱取りに熱中する人々は、「後さき踏まえぬ意地汚き人々」と評価されるところとなった。要するに「何も考えていない意地汚い連中」ということになろう。こうなると、彼らが戦争に来たのか、乱取りに来たのか目的すら判然としなくなる。
 たとえば、武田軍が信濃国に侵攻した際、大門峠(長野県茅野市)を越えた付近で、兵たちに7日間の休暇が与えられた。しかし、兵たちは休むことなく、鬨(とき)の声を上げて付近の民家を襲撃した。目的は略奪行為であり、田畠の作物すら奪い取った。わずか3日間で村々から略奪を終えると、まだ余力が残っていたのか、翌日からはさらに遠方の村々まで出張って行って、略奪を繰り返すありさまだったのである。
 それだけではなく、戦争が終結し、敵の城を落しても乱取りだけは続けられた。それが、兵たちの「褒美」になった。永禄9(1566)年、小幡業盛の籠る上野国箕輪城群馬県高崎市)が信玄により落されると、雑兵は箕輪城を本拠として、敵兵を次々と捕らえ、乱取りを行ったのである。彼らにとっては、戦いよりも乱取りが本番であったと言えるかもしれない。
 現代では、国家からの強制的な動員、あるいはほとばしるような愛国心に突き動かされ、人々は戦争に行くのであろう。しかし、戦国時代の戦争は収入を得る手段の一つであり、言うなれば「出稼ぎ」のようなものだったのかもしれない。動員する戦国大名にとっても、彼らを従軍させる理由やモチベーションが必要である。それが乱取りであり、彼らの貴重な収入源となった。まさしく生きるための戦争だったのである。
 こうして人や物資を略奪すると、雑兵たちの生活は豊かになった。『甲陽軍鑑』には、その姿が次のように描かれている(現代語訳)。

 分捕った刀・脇差・目貫・こうがい・はばきを外して(売って)、豊かになった。馬・女を奪い取り、これで豊かになったので、国々の民百姓までみんな富貴になり安泰になったので、国で騒ぎが起こることがなかった。

 われわれの常識では、戦国大名が産業や農業振興に腐心し、それにより国が豊かになると考えていた節がある。むろん、それも事実として正しいのであるが、実際には他国へ侵攻して戦争を仕掛け、それにより国が富むという現実を認識すべきだろう。戦争に行く人々には、愛国心や忠誠心はほとんどなかったのかもしれない。
 こうした乱取りという現象は、何も武田氏の専売特許ではない。次に、肥後国の大名・相良氏の事例を取り上げてみよう。相良氏は遠江国佐野郡相良荘の出身であるが、鎌倉時代肥後国人吉荘に本拠を移し、以後大名化を遂げた。
 乱取りの様子は『八代日記』に描かれている(天文~永禄年間)。その記述によると、戦場においては、牛馬とともに人々も略奪の対象となった。ときに夜襲を仕掛けて、人を奪い去った様子がうかがえる。また、数千人が生け捕りにされており、その規模の大きさには、目を見張るものがある。
 同じことは、伊達政宗が南奥羽で展開した戦いにおいても確認することができる。その状況を伝えているのが、『天正日記』である(天正16・17年)。
 『天正日記』によると、戦場において数多くの人々が生け捕りにされ、敵兵の首や鼻を切り取ったという。敵兵を倒した場合、その証として首を切り取った。首の数によって、与えられる恩賞が決まったからである。
 鼻が切り取られた理由は、首を腰まわりにぶら下げていると、重いうえに身動きが取りにくい。そこで、代わりに鼻を削(そ)ぎ落として、敵を討ち果たした証拠にしたのである。鼻から上唇まで切り取ると、髭(ひげ)によって男であると分かる。
 人が略奪された例は、薩摩・島津氏の関係者の日記でも確認できる(『北郷忠相日記』など)。『北郷時久日記』によると、人が3人誘拐されたと記されている。強引に連れ去るだけでなく、騙して連れ去ることもあったようである。
 永禄9(1566)年2月、長尾景虎上杉謙信)の攻撃によって、小田氏治の籠(こも)る常陸・小田城(茨城県つくば市)が落城した。落城の直後、城下はたちまち人身売買の市場になったという。その様子は、『別本和光院和漢合運』に次のように記されている。

 小田城が開城すると、景虎の意向によって、春の間、人が二十銭・三十銭で売買されることになった。

 この一文を読む限り、人身売買は景虎の公認だったのかもしれない。20銭といえば、現在の貨幣価値に換算して、約2千円ということになる。おそらく、雑兵たちはかなりの数の女や子供を生け捕りにし、これを売ることにより、生活の糧にしていたと考えられる。まさしく戦争に出陣する「うまみ」であった。
 数が多いので、薄利多売になったのであろうか。売られた者は、家事労働などに使役されるか、あるいはさらに転売されたことがあったかもしれない。
 連れ去られた人々は、買い戻されることもあった。その際、金銭が必要なのは言うまでもないが、仲介役として商人や海賊が関与していたと指摘されている。むろん無料で引き受けるのではなく、仲介料を取っていた。つまり、戦場における人の連れ去りは、大げさに言えば、一種の商行為として彼ら商人の懐を潤わせていたのである。
 人身売買の厳しい実態は、後になっても確認できる。
 『信長公記』によると、天正3(1575)年に織田信長越前国一向一揆を討伐した際、殺された人間と生け捕りにされた人間の数が、3~4万人に及んだと伝えている。これには、兵はもちろんのこと民や百姓も含まれていた。殺された数も多かったようであるが、生け捕り分(民と百姓)は、戦利品として扱われたと推測される。
 同様の事例は、大坂の陣でも確認できる。『義演准后日記』によると、大坂の陣で勝利を得た徳川軍の兵は、女や子供を次々と捕らえて、凱旋(がいせん)したことを伝えている。徳川方の蜂須賀軍は、約170人の男女を捕らえたと言われているが、そのうち女が68人、子供が64人とその多くを女や子供が占めている。弱者である女や子供が生け捕りにされるのは、共通した普遍性であった。
 大坂の陣を描いた「大坂夏の陣屏風」には、逃げ惑う戦争難民の姿が活写されているが、とりわけ兵に捕まった女性たちの姿が目を引く。兵たちは戦争そっちのけで強奪に熱中しており、それがある意味で彼らの稼ぎとなっていたようなのである。そして、女性たちは売り飛ばされたと考えられる。
 人身売買や人の略奪という地獄絵図は、戦国時代を経て織豊政権期に至っても続き、さらに最後の大戦争となった大坂の陣まで脈々と続けられたのである。
 主要参考文献
 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房
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✨15)─6─軍国日本の敗北は言霊を信じて第二案、次善の策・プランBを立案しなかったからである。~No.65No.66No.57No.68 ⑪ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。   
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博・   

 軍国日本・日本軍は、精神主義・根性に頼り、戦略計画、戦術作戦、補給輸送、情報謀略など近代戦、総力戦が理解できないほどの愚かであった為に負けるべくして負けた

 日本の失敗、敗北は、愚かさが招く必然であって偶然ではなかった。

 その傾向は、現代の日本にも受け継がれ、2011年3月11日の東日本大震災と第一福島原子力発電所事故で右往左往と醜態を晒し無能無策を露わにした事である。

 日本の高学歴出身知的エリートの限界である。

 答えのある所で答えを出し、答えのない所で答えを出さない。

 考えても何もないのなら考えない。

 あるものだけを考える。

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 2019年4月18日号 週刊文春池上彰のそこから!?
 〘言霊の幸せはふ国と・・・〙
 ……
 令和に決めた理由について安倍晋三首相は、こう説明しています。
 〈この『令和』には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております〉
 〈悠久の歴史と香り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい、との願いを込め、『令和』に決定しました。〉
 この説明を聞いて、私は『ああ、日本は言霊の国だなあ』と感を強くしました。
 言霊とは、言葉に宿る霊的な力。つまり言葉には不思議な力があるという考え方です。声に出した言葉は現実社会に影響を与えると古来より考えられてきました。この考え方が端的に出ている言葉が、令和の出典になった万葉集にあります。山上憶良遣唐使に贈った歌です。
 『神代より 言ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 倭国(やまとのくに)は 皇神(すめかみ)の厳(いつく)しき国 言霊の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり』
 これは、『神代から言い伝えてきたように、大和の国は天皇の祖先の神が威厳が揺るがぬ国であり、言霊の働きによって幸いをもたらされる国だ』という意味です。
 また、柿本人麻呂の歌には、次のものがあります。海路に出る人に贈った歌です。
 『磯城島(しきしま)の 大和の国は 言霊の助くる国ぞ ま幸くありこそ』
 これは、『大和の国は言霊が助けてくれる国です。(だから声に出して言うのです)無事でありますように』という意味です。
 良い意味の言葉を発すると、良いことがある。これが、日本が代々受け継いできた言霊信仰です。元号には言霊が宿っているのです。
 プランBを考えない国に
 言葉には不思議な力がある。確かに言葉によって励まされたり、言葉によって落ち込んだりします。なるべく良い言葉を使おう。ここからおめでたい席での忌み言葉が生まれます。たとえば結婚披露宴。『切れる』『わかれる』『壊れる』などという言葉を使うことは避けられる。
 宴が終わるときに『これで披露宴を終わります』などと言ってはいけませんね。二人の結婚が終わりを迎えるかのような不吉な言葉とされるからです。こういうときは、『これでお開きとします』と言います。『開く』なら末広がりのイメージがあるからです。
 水辺に生える葦(あし)は、悪(あ)しにつながるとして、葦(よし)と読み替えることもありました。
 ここまでは、日本の文化として誇るべきものでもありますが、日本人の発想を縛ってマイナスに働くことも起きています。
 たとえばみんなでプロジェクトに取り組んでいるとしましょう。誰かが『もし失敗したら・・・』などと懸念を示そうものなら、『不吉なことを言うな』と言われかねません。そして心配通りに失敗すると、『お前が変なことを言ったからだ』と非難されるのです。
 誰もそんな目にあいたくありませんから、失敗した場合を想定できなくなります。失敗してから『想定外』などと言い出すのでしょう。
 太平洋戦争中、日本軍の指揮官の中には不吉なことを考えないようにして、『念じれば実現する』などと神がかり的な発想にとらわれる人物がいたものです。
 たとえば当時のアメリカ軍は、東南アジアの島々にある日本軍基地を空爆する際、戦闘機や爆撃機が撃墜されることを想定し、海上に投げ出されたパイロットを救出するために事前に付近に潜水艦を配置していました。やがて第41代大統領になるジョージ・H・W・ブッシュ(パパブッシュ)は1944年9月、父島の爆撃に出撃。日本軍によって搭乗していた爆撃機が撃墜されましたが、海上を漂っているところを潜水艦によって救出されました。
 ブッシュが救出された後も、潜水艦はその海域に留まり、撃墜されたパイロットや搭乗員を救出していました。
 その点、日本軍は撃墜されたときのことを想定せず、多くのベテランパイロットを失ったのです。
 アメリカの政財界で新たな政策やプロジェクトを始めるとき、必ず聞かれる言葉は『プランBはあるか』というものです。現在推進している方針がうまくいかなかったらどうするのか。常にこれを考えなければならないのです。
 『もし失敗したら・・・』という言い方をすると非難されるのであれば、『プランBをつくっておこう』というポジティブな言い方なら通用するかも知れません」
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 日本は、世界の非常識として理解されず、中国や朝鮮などの中華の儒教的常識からも逸脱しているとして嫌われている。
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 日本民族日本人は、哲学、思想、主義主張を持たないだけに、大陸に普通にある論理的思考、観念主義、合理主義などが理解できなかった。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、一つの計画・プランAを実行し、成功して生き残るか、失敗して死ぬか、の二者択一の選択しかなかった。
 日本民族日本人は、潔さから諦めが早い。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は運命論者で、言霊の効力を信じていたが、同時に言霊の霊力は信じてはいない。
 表だけにこだわらず、裏、横、斜め上、斜め下もありうると考えていた。
   ・   ・   ・
 日本民族日本人は、小さな舟で海・川・湖を行き来していた南方系海洋民と揚子江沿岸民・大地を獲物を追って走り回っていた西方系草原民・山岳奥地で獲物を求めて登って下っていた北方系山岳民の三者が日本列島に渡って出会い、乱婚して生まれた雑種の混血民族であった。
 日本民族日本人とは、水の民と地の民と山の民の血が流れる雑種・混血であった。
 混血度が、濃いのが日本民族日本人で、中程度が琉球人で、薄いのがアイヌ人である。
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 縄文人は、日本列島を中心として、南は沖縄、奄美大島、西は朝鮮半島南部、北は北海道、北方領土4島、千島列島、樺太に広く住み、日本海を主要航路として行き来していた。

 生きる為に、小舟で沖縄から千島列島や樺太を行き来し、中には台湾から東南アジアへと舟を進ませていた。
 日本海は、日本から見た海であって朝鮮から見た東海ではない。
 縄文人は海洋民・山野の民・草原の民の混血児として日本民族日本人、琉球人、アイヌ人などの祖先であって、草原の民の子孫である朝鮮人や中国人とは関係ない。
   ・   ・   ・   
 日本列島とは、地の果て、大地の縁(へり)・端、大地と海の水際・岸辺・渚、生と死の境目・境界で、その先は死しかなかない太平洋であった。

 渡り鳥を追って舟を進める海洋民は、渡り鳥が飛んでいかない方向への海には陸地がないとして舟を進めなかった。

   ・   ・   ・   
 日本には、次の策や第二案、プランBやプランCがない為に、最初の計画やプランAが予定通に成功しないと全てが駄目になって失敗する。
 日本には後がない、のである。
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 日本民族日本人は、生きる為の逃げ場がない、生死の関頭に立ついた。
   ・   ・   ・   
 古代から、大陸や半島の敗北者や弱者は、勝者や強者に追われて、日本列島に逃げ込み太平洋を背にして、二度のチャンスはない絶望的最悪の状況下で命を守る為に武器を取って身構えていた。
 日本民族日本人が「好戦的な尚武の民」と言われるのは、この為である。
 戦う為に敗北者や弱者を一つにまとめていたのが、和を乱さない空気・空気圧・同調圧力であった。
 日本列島とは、地政学的に四面楚歌の地であり、戦略戦術的に背水の陣しかなかった。
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 日本民族日本人の生き方は、一回こっきりの一か八かの賭け勝負で、次善の策やプランBはない。
 日本民族日本人は、恐怖心が強く、ストレスに弱い為に、行動はビクビクしてゆとりや余裕がない。
 日本民族日本人のメンタル面が気弱、ひ弱で臆病な為に、失敗する事を思うと怖くてしかたがない為に、次善の策やプランBを考える事を嫌った。
 つまり、成功は考えるが失敗を考えない。
 それは、楽観的積極的というより悲観的消極的だからである。
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 明日の命・定めもわからに身であるがゆえに、今の一瞬を楽しむべく、花鳥風月+虫の音に心を寄せ和歌を詠んで寛いだ。
 言霊は、こうして生まれた。
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