⚔4)─2─戦国武将も黙認した金銭目的の乱取り。日本の英雄豪傑小説に欺されてはいけない。〜No.11  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   

 日本には、奴隷制度はなかったが奴隷はいた。

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 日本人の本性は、冷血、非情、薄情、冷酷、残酷であった。

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 乱取りとは。合戦に勝った武将が、配下の下級武士や百姓の雑兵達に勝ち戦の褒美として敵地での好き勝手を許した事である。
 下級武士や雑兵達は、敵から兵糧や武具を奪い、占領地で女を強姦した。
 中には、捕らえた女や男を奴隷として南蛮人商人や日本人人身売買商人に奴隷として高値で売った。
 日本国内に、日本人商人が取り仕切る日本人を奴隷として売買する市場があった。
 大人の奴隷は、2貫〜10貫目(現代の金額で20万円〜100万円)で取引された。
 子供の奴隷は、2〜3文、現代貨幣価値で約20〜30円で売買されていた。
 日本人には、同胞を家畜の様に扱う非常さがあった。
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 日本全国で乱取りが行われ、義を重んじる上杉謙信でさえ許していた。
 貧しい百姓は、合戦で乱取りと合戦後の落ち武者狩りで金目のお宝が奪える為に、合戦を望んだ。
 百姓の次男や三男は、田畑の相続を得られない為に、雑兵として戦傷に出て敵大将首を取って手柄を立て侍になる事を夢見た。
 福原圭一「当時、謙信は商人による塩の流通をコントロールできていなかった。そもそも〝義に生きた〟というイメージも見直されるべきで、謙信の軍隊が、戦地で人身売買をしていたという史料も存在しています。これは全国の戦場で行なわれていたことです。謙信も戦国時代の価値観やルールにのっとっていたのです」
 謙信が、武田信玄を助ける為に「敵に塩を送る」逸話は後世の人が創った架空の話であったという。
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 豊臣秀吉が天下を統一する以前。
 人口減少に苦しんでいた高麗及び李氏朝鮮は、日本近海を荒らし回り、日本人を拉致して自分たちの奴隷とするか、中国に奴隷として売って金を稼いでいた。
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 戦場とされた農地の百姓達は、武器を隠し持ち、負けて逃げる落ち武者を狩り、合戦を悪用して稲など盗む「刈り働き」や放火略奪などの「焼き働き」を行った。
 百姓は、侍に虐げられた弱い存在ではなく、乱世で生き抜く為に侍をしたたかに利用していた。
 日本の歴史とは、「したたか」と「狡賢さ」と「図太さ」を持った生き抜いてきた百姓の物語である。
 日本の百姓は、大陸で奴隷の如く虐げられ搾取されるだけの農夫ではなかった。
 合戦後。百姓は、村の入り口に関所を設けて落ち武者刈りを行ったが、それには三つの目的があった。
 一つ目は、落ち武者を殺して刀や槍や武具などの金目の物を奪う為。
 二つ目は、武者刈りをせずに見逃した事で、勝者から敵に味方したと咎められない為。
 三つ目は、落ち武者が盗賊となって暴れないようにする為。
 日本の百姓は、大陸の農夫や下層民とは違って決して泣き寝入りはしなかった。
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 産経新聞 iRONNA
 戦国時代の乱取り
 川中島の戦いは略奪が目的だった? 信玄も黙認した「乱取り」の真実
 『渡邊大門』 2019/01/05
 渡邊大門(歴史学者
 前回の倭寇による人の略奪を踏まえて、日本国内に目を向けてみよう。戦国時代は、人身売買も含めて、人の略奪が盛んに行われた時代だった。それは、まさしく「生きるため」だったといっても過言ではない。それは、天候不順による食糧不足とも連動していたと言える。
 現代は便利な時代であり、暑いと言えば冷房をつければよいし、寒いと言えば暖房をつければよい。食料もビニールハウスどころか、今や工場で作るありさまである。最近の自然災害はひどい状況だが、鉄筋コンクリートの建物は、昔の木造建築に比べると非常に頑強である。むろん戦国時代の家は、粗末な木造だった。
 また、今は道を歩いていれば、スーパーやコンビニがあるので、お金さえあれば食料を手に入れることができる。病気になっても、病院に駆け込めば何とかなることも多い。すべてが便利であるし、さまざまな点で不便な戦国時代とは比較にならない。
 戦国時代に目を転じると、主力となる農業や漁業は自然が相手の仕事であり、ひとたび自然災害に見舞われると、農業用の機械があるわけでもないので、農地の復旧には多大な時間を要した。おまけに天候不順に陥ると、たちまち作物の収穫量はガタ落ちし、人々は飢えに苦しむありさまである。
 保存食があるとはいえ、今のように冷凍食品があったわけではない。ひどい状況が続けば、やがて人々の体力を奪い、病気になることもあった。病気になると特効薬があったわけでもないので、疫病の蔓延(まんえん)は深刻な事態を招いた。
 寛喜2(1230)年から翌年まで人々を苦しめた寛喜の大飢饉(ききん)では、食糧難が深刻になったので、子供を売ってでも生活の費用を捻出する必要が生じた。とにかく、戦国時代の人々は生きるために必死だったのである。
 村で生活する人々はときに戦争に参加し、戦場で相手から略奪した金目のものや食料などを自分のものにした。戦場で人を捕らえた場合も、自分のものになり、捕らえた人を売ることもあった。つまり、戦争に行くこと自体が、自らの生死をかけた戦いであり、略奪が生きるために必要だったのである。
 こうした戦場における人の略奪は、必然的に人身売買の温床となった。以下、戦場における人の略奪を中心にして、さまざまな事例を取り上げることにしたい。最初は、武田氏の事例である。
 甲斐国の武田氏や小山田氏をはじめ、当時の生活や世相を記録した史料として、『妙法寺記』(『勝山記』とも)という史料がある。そこには、数多くの人の略奪の記録が残されている。
 天文5(1536)年、相模国青根郷(相模原区緑区青根)に武田氏の軍勢が攻め込み、「足弱」を100人ばかり獲っていったという。この前年、武田信虎今川氏輝北条氏綱の連合軍と甲斐・駿河の国境付近で戦い(万沢口合戦)、敗北を喫していた。武田氏は両者に対して、大きな恨みを抱いていたといえる。
 史料中の「足弱」とは、「足が弱い人」「歩行能力が弱い人」という意味がある。転じて、女性、老人、子供を意味するようになった(足軽を意味することもある)。つまり、武田氏の軍勢は戦争のどさくさに紛れ、戦利品として「足弱」を強奪して国へ戻ったということになろう。時代を問わず、女性、老人、子供は常に「弱者」であった。
 そして、天文15(1546)年には甲斐国で飢饉があり、餓死する者が続出したという。そうした状況下、武田氏の軍勢は男女を生け捕りにして、ことごとく甲斐国へと連れ去った。生け捕られた人々は、親類が買い取りに応じることがあれば、2貫、3貫、5貫、10貫で買い戻されていった。
 現在の貨幣価値に換算すると、一貫=約10万円になる。生け捕られた人々は約20万~100万円で買い戻された。身分あるいは性別や年齢で値段が決まったのであろうか。

 『妙法寺記』を一覧すると、武田氏の軍勢が行くところでは、多くの敵方の首が取られたことが記述されており、同時に多くの「足弱」が生け捕りにされたことも記されている。「足弱」は売買されるとともに、農業などの貴重な労働力になったのであろう。
 このように、戦場で人あるいは物資を強奪することを「乱取り」という。戦場で分捕ったものは当然、自分のものなった。ある意味で戦争に参加するのは、乱取りが目的とも思えるほどである。その姿は、『甲陽軍鑑』にも生き生きと描かれている。
 『甲陽軍鑑』とは、江戸時代初期に集成された軍書であり、武田氏を研究する上で重要な史料の一つである。武田信玄・勝頼父子の治績、合戦、戦術、刑法などが記述され、20巻59品から構成されている。その成立過程は、武田氏の家臣、高坂昌信の遺記をベースにして、春日惣二郎、小幡下野らが書き継ぎ、最終的に小幡景憲が集大成したとされている。
 『甲陽軍鑑』は、まさしく乱取りの事例の宝庫であるといえる。以下、いくつかの例を挙げることにしよう。
 武田信玄の戦いで最もよく知られているのは、越後の上杉謙信と死闘を演じた川中島長野市)の戦いであろう。天文22(1553)年、初めて2人が刃を交えて以来、計5回にわたって雌雄を決している(4回説もあり)。ここでは2人の名勝負ではなく「乱取り」だけを見ることにする。
 川中島の戦いに際して、甲斐国から信濃国へ侵攻した武田軍は、そのままの勢いで越後国関山(新潟県妙高市)に火を放つと、人々は散り散りに逃げ出した。そして、謙信の居城である春日山城新潟県上越市)へ迫ったのである。武田軍は越後に入ると、次々と人々を乱取りし、自分の奴隷として召抱えたという。その大半は、女や子供であった。
 『甲陽軍鑑』には、兵卒が男女や子供のほか、馬や刀・脇差(わきざし)を戦場で得ることによって、経済的に豊かになったと記されている。女性に限って言えば、家事労働に従事させたり、あるいは性的な対象として扱われたりしたのであろう。場合によっては、売却して金銭に替えることも可能であったと推測される。戦争に行くことはまさしく生活がかかっており、さらに運がよければ「うまみ」があったといえよう。
 こうなると、戦争に行った者たちの関心は、極端に言えば戦いの勝敗よりも、乱取りでどれだけ略奪できたかに移っていたようである。『甲陽軍鑑』の一節には次のように記されている個所がある(現代語訳)。

 乱取りばかりに気持ちが動いて、敵の勝利にも気付かなかった。
 乱取りばかりにふけっており、人を討つという気持ちがまったくない。

 乱取りに熱中する人々は、「後さき踏まえぬ意地汚き人々」と評価されるところとなった。要するに「何も考えていない意地汚い連中」ということになろう。こうなると、彼らが戦争に来たのか、乱取りに来たのか目的すら判然としなくなる。
 たとえば、武田軍が信濃国に侵攻した際、大門峠(長野県茅野市)を越えた付近で、兵たちに7日間の休暇が与えられた。しかし、兵たちは休むことなく、鬨(とき)の声を上げて付近の民家を襲撃した。目的は略奪行為であり、田畠の作物すら奪い取った。わずか3日間で村々から略奪を終えると、まだ余力が残っていたのか、翌日からはさらに遠方の村々まで出張って行って、略奪を繰り返すありさまだったのである。
 それだけではなく、戦争が終結し、敵の城を落しても乱取りだけは続けられた。それが、兵たちの「褒美」になった。永禄9(1566)年、小幡業盛の籠る上野国箕輪城群馬県高崎市)が信玄により落されると、雑兵は箕輪城を本拠として、敵兵を次々と捕らえ、乱取りを行ったのである。彼らにとっては、戦いよりも乱取りが本番であったと言えるかもしれない。
 現代では、国家からの強制的な動員、あるいはほとばしるような愛国心に突き動かされ、人々は戦争に行くのであろう。しかし、戦国時代の戦争は収入を得る手段の一つであり、言うなれば「出稼ぎ」のようなものだったのかもしれない。動員する戦国大名にとっても、彼らを従軍させる理由やモチベーションが必要である。それが乱取りであり、彼らの貴重な収入源となった。まさしく生きるための戦争だったのである。
 こうして人や物資を略奪すると、雑兵たちの生活は豊かになった。『甲陽軍鑑』には、その姿が次のように描かれている(現代語訳)。

 分捕った刀・脇差・目貫・こうがい・はばきを外して(売って)、豊かになった。馬・女を奪い取り、これで豊かになったので、国々の民百姓までみんな富貴になり安泰になったので、国で騒ぎが起こることがなかった。

 われわれの常識では、戦国大名が産業や農業振興に腐心し、それにより国が豊かになると考えていた節がある。むろん、それも事実として正しいのであるが、実際には他国へ侵攻して戦争を仕掛け、それにより国が富むという現実を認識すべきだろう。戦争に行く人々には、愛国心や忠誠心はほとんどなかったのかもしれない。
 こうした乱取りという現象は、何も武田氏の専売特許ではない。次に、肥後国の大名・相良氏の事例を取り上げてみよう。相良氏は遠江国佐野郡相良荘の出身であるが、鎌倉時代肥後国人吉荘に本拠を移し、以後大名化を遂げた。
 乱取りの様子は『八代日記』に描かれている(天文~永禄年間)。その記述によると、戦場においては、牛馬とともに人々も略奪の対象となった。ときに夜襲を仕掛けて、人を奪い去った様子がうかがえる。また、数千人が生け捕りにされており、その規模の大きさには、目を見張るものがある。
 同じことは、伊達政宗が南奥羽で展開した戦いにおいても確認することができる。その状況を伝えているのが、『天正日記』である(天正16・17年)。
 『天正日記』によると、戦場において数多くの人々が生け捕りにされ、敵兵の首や鼻を切り取ったという。敵兵を倒した場合、その証として首を切り取った。首の数によって、与えられる恩賞が決まったからである。
 鼻が切り取られた理由は、首を腰まわりにぶら下げていると、重いうえに身動きが取りにくい。そこで、代わりに鼻を削(そ)ぎ落として、敵を討ち果たした証拠にしたのである。鼻から上唇まで切り取ると、髭(ひげ)によって男であると分かる。
 人が略奪された例は、薩摩・島津氏の関係者の日記でも確認できる(『北郷忠相日記』など)。『北郷時久日記』によると、人が3人誘拐されたと記されている。強引に連れ去るだけでなく、騙して連れ去ることもあったようである。
 永禄9(1566)年2月、長尾景虎上杉謙信)の攻撃によって、小田氏治の籠(こも)る常陸・小田城(茨城県つくば市)が落城した。落城の直後、城下はたちまち人身売買の市場になったという。その様子は、『別本和光院和漢合運』に次のように記されている。

 小田城が開城すると、景虎の意向によって、春の間、人が二十銭・三十銭で売買されることになった。

 この一文を読む限り、人身売買は景虎の公認だったのかもしれない。20銭といえば、現在の貨幣価値に換算して、約2千円ということになる。おそらく、雑兵たちはかなりの数の女や子供を生け捕りにし、これを売ることにより、生活の糧にしていたと考えられる。まさしく戦争に出陣する「うまみ」であった。
 数が多いので、薄利多売になったのであろうか。売られた者は、家事労働などに使役されるか、あるいはさらに転売されたことがあったかもしれない。
 連れ去られた人々は、買い戻されることもあった。その際、金銭が必要なのは言うまでもないが、仲介役として商人や海賊が関与していたと指摘されている。むろん無料で引き受けるのではなく、仲介料を取っていた。つまり、戦場における人の連れ去りは、大げさに言えば、一種の商行為として彼ら商人の懐を潤わせていたのである。
 人身売買の厳しい実態は、後になっても確認できる。
 『信長公記』によると、天正3(1575)年に織田信長越前国一向一揆を討伐した際、殺された人間と生け捕りにされた人間の数が、3~4万人に及んだと伝えている。これには、兵はもちろんのこと民や百姓も含まれていた。殺された数も多かったようであるが、生け捕り分(民と百姓)は、戦利品として扱われたと推測される。
 同様の事例は、大坂の陣でも確認できる。『義演准后日記』によると、大坂の陣で勝利を得た徳川軍の兵は、女や子供を次々と捕らえて、凱旋(がいせん)したことを伝えている。徳川方の蜂須賀軍は、約170人の男女を捕らえたと言われているが、そのうち女が68人、子供が64人とその多くを女や子供が占めている。弱者である女や子供が生け捕りにされるのは、共通した普遍性であった。
 大坂の陣を描いた「大坂夏の陣屏風」には、逃げ惑う戦争難民の姿が活写されているが、とりわけ兵に捕まった女性たちの姿が目を引く。兵たちは戦争そっちのけで強奪に熱中しており、それがある意味で彼らの稼ぎとなっていたようなのである。そして、女性たちは売り飛ばされたと考えられる。
 人身売買や人の略奪という地獄絵図は、戦国時代を経て織豊政権期に至っても続き、さらに最後の大戦争となった大坂の陣まで脈々と続けられたのである。
 主要参考文献
 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房
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