🎃6)─1─中国人の靖国神社に対する宗教テロ。~No.12No.14   


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 中国は、助けがいも援助のしがいもなく、配慮し融通し便宜を図っても無駄で徒労に終わり、残るのは幻滅のみである。
 中国とは、そうしたところである。
 道義も、信義も、存在しない。
 中国の儒教とは、その程度の事に過ぎない。
 特に、中国共産党は信用・信頼できない最たる者である。
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 中国国民党政府は、日中戦争での戦争犠牲者は約320万人であると公式に発表した。
 中国国民党は、ファシスト党である。
 蒋介石は、国民の選挙で民主的に選ばれた指導者ではなく、軍事力で暴力的に政権を奪い、敵対する軍閥中国共産党、反蒋介石派、一般市民そして日本人居留民らの虐殺に関与していた。
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 中国戦線。1937年の盧溝橋事件・満州事変から1945年の敗戦までの8年間で、日本軍兵士の戦死・病死は約46万人であった。
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 2017年7月21日号 週刊朝日「昭和からの遺言
 悲惨な引き揚げ体験を胸の内にしまい
 強者に立ち向かう心意気を描いていた
 ちばてつや
 毎晩の暴動に家族息を潜めた
 私は玉音放送を聴いていないですけど、親たちは工場長の家に集って聴いたんですね。大人たちがしょんぼりとした顔で出てきたのを見たんです。塀の外では、真夏だというのに爆竹が鳴らされて、キャアキャアいう笑い声が弾けていました。
 その日の晩からです。塀を乗り越えて中国人たちがわーっと入ってきて──。
 ガッチャンガッチャンと、社宅のガラス窓が割られる音や、引きずり出されて殴られた日本人の悲鳴や、『やめてください!』という叫び声が聞こえてきた記憶があります。
 ……
 大陸は9月に入ると急速に冷え込んでね。子ども4人が寄り添っていると温かいんで、私たちは大丈夫だったけど、この秋から冬にかけて、飢えと寒さで20万人前後の日本人が亡くなったんですね。同じ奉天から引き揚げた森田(拳次)さんは、日本の兵隊が小学校の校庭で、拍手の中で公開処刑されるのを見たと言ってます。私も移動中に、身ぐるみ剝がされた裸の死体を何体も見ました。自殺した人、中国人に売られたり置き去りにされたりした子ども、やむなく嫁いだ女性、行方不明者・・・私たちは運よく中国人の友だちに救われて、無事に帰国できたけれど、残酷な運命を引き受けなければならなかった方々のなんと多かったことか」
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 数少ないが良い中国人もいたが、大半は悪い中国人であった。
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 靖国神社問題。
 A級戦犯達とは、靖国神社に祀られている。
 中国、韓国・北朝鮮アメリカなどの諸外国は、A級戦犯達を祀る靖国神社を否定し、靖国神社を廃絶するように求めている。
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 中国は、拝金至上主義として、自分に利益とならない恩は仇として返す忘恩の民族である。
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 日本軍は、餓死寸前にある約500万人の中国人飢餓民を救うべく、ファシスト中国軍を撃退し、抗日派ゲリラを排除して、食糧や医薬品を河南省に運び込んだ。
 河南省の人民は、日本軍兵士から食糧を貰い、日本軍医や日本赤十字社に病人や怪我人を治療して貰う為に運び込んだ。
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 東條英機首相と重光葵外相らA級戦犯達は、河南省の飢餓民約500万人を救済する為に延安の中国共産党政権と極秘に接触し、鉄道や道路などの輸送網としての「点と線」を確保し、地域としての「面」を解放区とする事を認めた。
 日本陸軍の軍医部は、被災地で蔓延しているペストや赤痢などの治療に当たっていた。
 731部隊は、被災地の飲料水を確保する為に最新の濾過器を持ち込み、命の綱である安全な水を被災民に給水した。
 陸軍に於いて濾過機の専門家は、軍医の石井四郎であった。
 昭和天皇は、天皇の御稜威・大御心として、軍部における河南省救済軍事行動を黙認した。
 南京政権の汪兆銘は、中国共産党と密約を交わした日本軍の裏切り行為に激怒して、東條英機首相に激しく抗議した。
 重慶政権の蒋介石は、飢餓を拡大させるべく、食糧や医薬品などの救援物資を河南省の飢餓地帯に運ぶ日本軍の補給部隊を攻撃した。
 中国共産党軍は、さらに陰険な戦法を使い、日本軍の補給部隊を攻撃していた。
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 日本陸軍は、侵略して占領した地域で、連合国軍や抗日中国軍の攻撃を排除しながら河南省の飢餓民を助け、さらなる餓死者を出す事がなかった。
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 日本軍の軍事行動は、純然たる飢餓民救済の為の人道的理由ではなく、日本軍占領地と傀儡政権支配地を守る為の侵略政策の一環であった。
 日本軍は、大量の餓死者を出している飢餓地帯を侵略して軍事占領した。
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 日本軍は、河南省の飢餓民を救う為に、ファシスト中国軍を攻撃し、ファシスト中国軍兵士を虐殺した。
 戦死した日本軍兵士は、靖国神社に神として祀られた。
 中国人は、靖国神社を最も憎んでいる。
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 日本軍の軍事行動は、戦争犯罪である三光作戦とされた。
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 東京裁判は、中国大陸における全ての日本軍の軍事行動を戦争犯罪と断罪し、東條英機A級戦犯達をナチス・ドイツと同罪の有罪と判決を下した。
 A級戦犯達は、リンチ的縛り首で処刑され、人間性を完全に否定され、霊魂の慰霊も許されずゴミのように捨て去る事を求められている。
 それが、靖国神社問題である。
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 戦後。中国共産党政府は、昭和天皇の戦争責任を糾弾して死刑を望み、東條英機A級戦犯達の人権はおろか霊魂の尊厳さえ完全に否定した。
 日本国内でも、河南省飢餓民を救済した日本軍の侵略行為を十分に理解する反天皇反日日本人は、中国側の告発に賛同している。
 それが、昭和天皇の戦争責任問題であり、A級戦犯達を合祀する靖国神社問題である。
 全てに反対する日本人は、歴史の全てを知っている。
 国際世論も、同じ見解で、昭和天皇には戦争犯罪があったとして有罪とし、A級戦犯・條英機らのリンチ的縛り首は合法であるとしている。
 東京裁判の判決を否定する法律家はいても、国家や国際機関は存在しない。
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 儒教は絶対不寛容として、罪を犯して処刑された者は処刑されても罪を償った事にはならず、死んでも1000年先まで罪人には変わらず、罪人は死んでも罪人のままで絶対に許さなかった。
 中国と韓国・北朝鮮は、日本が幾ら歴史的事実を持って懇切丁寧に説明しても絶対に許さない。
 それが、歴史認識問題であり、靖国神社問題である。
 日本は、未来永劫、時効無き戦争犯罪国家とされている。
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 中国共産党政府は、日本の戦争犯罪を後世に伝える為に、数多くの反日施設を中国各地に建設した。
・北京…中国人民抗日戦争記念彫刻園。
 「日本侵略軍の軍用機が狂気じみて無差別爆撃を行い、罪なき庶民が次々と殺された」
・河北省保定…博物館・鬼子砲楼。
 東條英機A級戦犯達の銅像10体がうな垂れた姿で並べられ、その胸に的の円盤が付けられ射撃ゲームの標的とされていた。
山東省海陽…地雷戦旅行エリア。
 八路軍兵士が悪役の日本軍将兵を殺害する、喜劇的な抗日戦ドラマが上演されている。
 日本軍兵士を大量に殺害するゲームが、子供の間で大人気となっている。
浙江省東陽…横店影視城。
 中国のハリウッドと呼ばれる映画村で、年間150本の映画が撮影され、抗日戦などの反日映画が約50本制作され、国内外で上映している。
 中国当局反日の映画やテレビドラマを規制しないどころか大いに奨励している為に、粗製濫造的に日本人を虐殺する場面の多い作品を競って製作している。
 そこには、日本との友好は存在しない。
 共産主義体制は、ナチス・ドイツ同様に映画を有力な宣伝に使っていた。
 中央戯劇学院関係者「無名でギャラの安い俳優を使っても、抗日モノは高視聴率が期待できる。有名俳優をキャスティングする必要はないので、少ない投資でハイ・リターンが見込めるというわけです。そのうえ、抗日がテーマなら、かなり暴力的な内容であっても、中央政府の検閲機関である国家新聞出版広電総局のチェックに引っ掛かる事はまずありません」
 中国は、日本以上に勧善懲悪で、日本人を悪人として殺す事が鉄則となっている。
 中国では、日本人を大量に殺す見世物は大金を稼げた。
 反日ビジネスは、公認された儲かる商売であった。
湖南省長沙…長沙烈士公園。
 抗日戦で戦死した戦死者を祀る記念碑の前で、東條英機の石像が土下座して謝罪する様に設置されている。
 東條英機の石像は、中国人民に辱めを受けて破損が酷い。
 唾を吐き、小便かけ、棒で殴り、足蹴りし、石を投げ、泥をこすりつけて汚した。
 他人の死に対して敬意を払わなければ、他人の霊魂への恐れも持たない。
 中国人は、宗教的な死後の世界を持たないだけに、死に対する恐れもない。
広東省深圳…国務院直轄の深圳歓楽谷。
 観客参加型として、入場者に劇中で日本人兵士を殺害する寸劇に参加させている。
 観客は、日本人が殺されていくのを見て拍手喝采を送っている。
 国を挙げて、日本人を憎み様な反日教育が熱心に行われている。
・南京大屠殺記念館。
 日本の左翼的学校は、反戦平和教育の一環として修学旅行で見学し、生徒達に中国人に土下座して謝罪させ、帰国後に反天皇反日的感想文を書かせている。
 日教組の教諭は、反天皇反日的感想文を書かない学生に対して、右翼的な考えとして反省を強要し、単位を減らして卒業時の成績を低くした。
 中国共産党政府は、そうした行為を良心的な行為として賞讃した。
・平房戦争博物館
 細菌兵器研究と人体実験を行った731部隊の犯罪行為を後世に伝える施設で、A級戦犯達の写真が展示されている。
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 中国共産党政府は、愛国心を植え付ける為に学校での反日歴史教育を徹底し、各地に抗日戦記念館や戦争博物館を300ヶ所近くを建設し半強制的に見学させた。
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 2006年 香港出身中国系在米ジャーナリスト廖建明「中国共産党の真の狙いは日本の服従
 「中国政府が提起する靖国問題というのは基本的に加工された問題である。
 では、小泉首相が対中関係を良好にするという目的で……中国側の要求に従って、以下の言動を取った場合を想定してみよう。まず第一は首相が靖国にもう決して参拝しないと言明する事だ。第二に首相が日中間で摩擦が起きる度に過去の戦争での侵略を謝罪する。第三は中国が不快だとする歴史教科書は全て禁止する事である。
 され日本が中国にこうした土下座同様の行動を取れば、中国は過去を全て水に流し、日本を決定的に許すだろうか。答えはノーである。中国は間違いなく『日本は十分に悔いてはいない』と主張するだろう」
 日本国内には、そうした中国側の思惑を承知で、中国が許してくれるまで恥も外聞もかなぐり捨てて土下座をして謝罪すべきであると主張する日本人がいる。
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 2014年1月21日 イスラエル英字新聞「イェルサレム・ポスト」郄燕平駐在中国大使寄稿文「人類史において最も非情かつ暗黒だった時代の一つである第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツホロコーストに手を染め、ヨーロッパの─150万の子供を含めた─600万人以上のユダヤ人を殺した。
 私は最近、王毅中国外相に随行してヤド・ヴァシェムを訪ね、追悼館で祈念セレモニーで花輪を捧げた。ヤド・ヴァシェムでの展示に見るナチス・ドイツの迫害およびユダヤホロコーストの厳粛な根拠は、訪問する人々すべてに深い驚愕と苦痛を味合わせる。高潔と善意を備えた人々は、歴史が決して繰り返されてはならないと誓う!
……
 しかし、東京裁判で有罪となったA級戦犯達は日本の靖国神社─この国での国家的尊崇の為の最重要施設─で公然と栄誉を称えられた。これらの戦争犯罪人中に含まれているのは次の人々である。
 第二次世界大戦中に太平洋戦争を始めた日本の首相であり、『アジアのヒトラー』である東條英機松井石根司令官。日本の侵略軍に南京虐殺を命じた人物だ。米国の真珠湾に対する攻撃を命じた日本の海軍提督、永野修身ヤンゴン虐殺をやってのけた『ビルマの屠殺者』、木村兵太郎。そしてマニラ虐殺を手がけた武藤章
 これらアジアの戦争犯罪人の全員が、この神社で一般の日本人の尊崇を受けてきただけではない。日本の国会議員、政府閣僚、さらには首相達からの尊敬を享受してきた。だからこそ、日本の安倍晋三首相が靖国を参拝すると、中国と韓国だけではなく国連事務総長、米国、EU、ロシア及び幾つかの東南アジア政府が彼の行為を非難したのである」
 東條英機松岡洋右A級戦犯達が、ユダヤ人難民達を助けてから約70年。
 世代は変わり、ウクライナ系やロシア系のユダヤ人移民が増えて、A級戦犯達と関わり合ったポーランド系その他のユダヤ人はもう生存していない。
 イスラエルユダヤ人の多くは、軍国日本と同盟を組んだナチス・ドイツと戦った国・地域出身者である。
 彼らは、ユダヤ人としての正統性を主張する為に、ヒトラーの仲間である昭和天皇A級戦犯達をホロコーストに加担した犯罪者として糾弾している。
 現代のユダヤ人は、ユダヤ人難民を助けた昭和天皇A級戦犯達への恩義は持ってはいない。
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 2月27日 msn産経ニュース「靖国神社の「A級戦犯」を射撃対象に 中国機関紙のゲームで[中国]
 中国共産党機関紙、人民日報の短文投稿サイト「微博」は27日、靖国神社に合祀されているA級戦犯を射撃対象にした靖国をネット上に載せた。
 人民日報社の公式ウェブサイトから無料でダウンロード可能。安倍晋三首相の靖国参拝を受け、中国のネット利用者の間で反日感情を浸透、増幅させる狙いとみられる。
 ゲームには、日本人の蔑称である「鬼子」をたたくという意味のタイトルが付けられている。東条英機元首相ら14人のA級戦犯の似顔絵を射撃の的にしており、射撃の正確さやスピードで点数を稼ぐ方式だ。(共同)」
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 7月15日 msn産経ニュース「米に「抗日記念館」計画 中国系が来秋開設 サンフランシスコ、新たな反日拠点に[中国]
 【ロサンゼルス=中村将、北京=矢板明夫】日中戦争での対日抗戦を顕彰する「海外抗日戦争記念館」が、華僑系住民の多い米サンフランシスコ市内で、戦後70年となる来年9月に開設される計画が明らかになった。在米の著名な中国系女性実業家が準備を進めている。旧日本軍の残虐行為を印象づけることで、米国での新たな反日宣伝の拠点になることが懸念される。
 中国メディアによると、中国国外で、日中戦争に特化した施設が本格的に設置されるのは初めて。
 記念館の設置計画は、今月7日の記者会見で、カリフォルニア州在住の実業家、ローレンス・ファン(中国名・方李邦琴)氏が発表した。全米最大の規模を持つサンフランシスコ市のチャイナタウンで、低層ビルを改装し、公開される。
 施設の設置目的について、ファン氏は「記念館では戦時中の日本軍の残虐行為を示す歴史的な写真と記録などを展示する」と説明した。
 記念館の英文名称には「パシフィックウオー・メモリアルホール(太平洋戦争記念館)」との表記が盛り込まれた。
 ファン氏は「(中国が)米国の友人とともに戦った」として、日米開戦後の歴史を重ねることで、米国社会へ中国の歴史認識の浸透を図る意向を示した。
 華僑を含む世界の中国人に「1人1ドル(約101円)」の寄付が呼びかけられており、寄付のためのホームページでは、14日正午現在、約6万5千ドルが集まっている。設置予算は約200万ドルという。
 ファン氏は中国本土の出身。国共内戦により台湾に逃れた外省人であり、1960年に米国に移住した。老舗地元紙「サンフランシスコ・エグザミナー」の買収で有名となる一方、米中の有名大学への多額の寄付でも知られている。
 記者会見は、日中が全面戦争に陥った盧溝橋事件(37年7月7日)の77年目に合わせて行われた。会見に同席した中国の袁南生・駐サンフランシスコ総領事は、「世界のファシストとの戦争で被害国人民が受けた災難を銘記すべきだ」とあいさつした。
 会見には、カリフォルニア州を拠点に反日宣伝を行う華僑系団体「世界抗日戦争史実維護連合会」のリーダー、イグナシアス・ディン(丁元)氏や、戦時下の中国で活動した米航空隊「フライング・タイガー」の関係者も出席した。
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 【用語解説】抗日記念館
 戦後40年の1985年に南京大虐殺記念館(南京)が建てられたのを皮切りに、中国各地で抗日記念館がつくられるようになった。中国人民抗日戦争記念館(87年、北京)や、九一八記念館(91年、瀋陽)などが有名。江沢民政権が展開した反日教育の一環といわれている。報道によると、抗日戦争記念館、博物館は中国全土で約130カ所。新たな大型施設も建設中という。」
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 2014年8月15日 産経ニュース「【靖国参拝】中国外務省報道官、安倍首相の玉串料奉納を批判 閣僚の参拝も安倍首相に矛先 中国メディア[中国]
 【北京=川越一】中国外務省の華春瑩報道官は15日、安倍晋三首相が靖国神社玉串料を奉納し、閣僚が参拝したことについて、「日本政府の歴史問題に対する誤った態度を反映しており、断固として反対する」と非難する談話を発表した。
 華報道官は安倍首相が参拝を見送ったことは評価せず、「日本が過去の侵略史を正視、反省し、軍国主義と決別してこそ、中日関係の発展が実現できる」と日本批判を展開した。
 中国国営新華社通信も、首相の玉串料奉納に「“妥協と誠実”のショーは受け入れられない」と反発。首相が全国戦没者追悼式の式辞で「不戦」に言及しなかったことを問題視した。
 閣僚の参拝についても中国の華僑向け通信社、中国新聞社は「閣僚の参拝放任は、侵略史の美化、右傾の激化という企(たくら)みを反映している」と安倍首相に矛先を向けた。」
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 2015年9月3日 産経ニュース【抗日70年行事】
 「日本の戦犯を食べよう」 上海に「戦犯アイス」が登場、東条英機の顔を3Dで刻印
 海の食品大手が展開するチェーン店「愛茜茜里(アイシーズン)」が一定額以上の商品を購入した顧客に進呈するという東条英機の顔を3Dプリンターで刻んだ棒付きアイスの店内PR看板。9月3日の「抗日戦争勝利70周年記念日」に合わせて行ったキャンペーンで東条英機を「戦犯トップ」と位置づけ、「9月3日にみんなで日本の戦犯を食べよう」と呼びかけている。この看板には50元(約950円)以上買った顧客に1本を進呈するとある。30元以上で1本くれる別の店舗もあった(上海支局撮影)」 
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 12月13日 産経ニュース「【南京で国家追悼式典】ユネスコ世界記憶遺産への登録は「世界の人々への警鐘」、「石碑」は公開せず
 13日、中国江蘇省南京市内の「南京虐殺記念館」で行われた「南京事件」の追悼式典。昨年から「国家級」式典に格上げされ、昨年は習近平国家主席が出席したが、今年は全国人民大会(全人代=国会)常務委員会副委員長の李建国氏が演説を行った(河崎真澄撮影)
 【南京=河崎真澄】日中戦争時の1937年に旧日本軍による南京占領で起きたとされる「南京事件」から78年となった13日、江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」で、地元政府レベルから国家レベルに主催者が格上げされて2回目となる追悼式典が開催された。
 10月に国連教育科学文化機関(ユネスコ)が「南京大虐殺資料」を世界記憶遺産に登録してからは初の開催。式典で演説した全国人民代表大会全人代)の李建国・常務委員会副委員長は、「(記憶遺産に登録されたことで南京事件が)歴史の“教科書(教訓)”となり、世界の人々に警鐘を鳴らした」と強調した。
 李氏はまた、「旧日本軍による殺戮(さつりく)で30万人が命を奪われて国が憤り、世界が驚いた。時間が経過しても歴史がこの日を忘れることはなく、どの国であっても事実を否定することはできない。戦争を美化する国と人は許さない」と警戒感を示し、南京事件をめぐる歴史認識で強く牽制(けんせい)した。
 南京の地元中高生や事件の生存者とされる住民など約6千人が式典に参加。中高生78人が「中国人民の勝利」をテーマとした重厚な詩を朗読した。一方、ユネスコ世界記憶遺産登録を記念した「石碑」などはこの日、公開されなかった。
 昨年は式典に出席した習近平国家主席は姿を見せなかった。一方、習指導部は今年を、「抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利70周年」と位置付け、さまざまな反日行事を展開。「南京大虐殺記念館」では新館も建設され、14日からは一般入場者にも開放される。」
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 12月19日 産経ニュース「靖国神社の池に中国国旗 いたずらか、地面に刺さる
 19日午前11時45分ごろ、東京都千代田区にある靖国神社の池の縁に、中国国旗が刺さっているのを神社の職員が発見した。犯行声明などはなく、いたずらとみられる。
 警視庁麹町署によると、国旗が見つかったのは本殿の裏にある「神池庭園」の池。縦約15センチ、横約20センチの布製で、地面に刺さった長さ約30センチの棒に付けられていた。
 職員が午前9時半ごろに見回りしたときには旗はなかった。」
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 2018年12月12日 時事通信社「燃えた紙に東条元首相の名=靖国神社ぼや、横断幕も−警視庁    
 東京都千代田区靖国神社でぼやがあり、中国(香港)籍の男が建造物侵入容疑で逮捕された事件で、男が火を付けたのは東条英機元首相の名前が書かれた紙のようなものだったことが12日、警視庁公安部などへの取材で分かった。
 公安部などによると、逮捕された郭紹傑容疑者(55)は同日朝、境内の参道に東条元首相の名前が書かれた筒状の紙のようなものを立てて火を付けた。その上で「南京大虐殺を忘れるな」と中国語で書かれた横断幕を手に持って近くに立ち、「打倒軍国主義」「日本は謝罪しろ」などと連呼したという。
 旧日本軍による1937年12月の南京事件に抗議する行動だったとみられ、公安部は一緒にいた女からも事情を聴いている。
 公安部によると、郭容疑者は正当な理由がないのに靖国神社の敷地内に侵入した疑いが持たれており、容疑を認めている。現場は第二鳥居と神門の間の石畳で、火はすぐに消し止められた。建物などに被害はなく、けが人もいなかった。」 
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🕯138)─1─今様は庶民歌謡であった。鎌倉仏教(念仏派)は、庶民の地獄へ落ちる恐怖から救う仏教であった。~No.295 @

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 無宗教現代日本人や西洋価値観を持つ日本人には、鎌倉時代の「悪人」を理解できない。
 ローカルな日本が考える「悪人」は、グローバルな西洋・中華、キリスト教儒教、反宗教無神論マルクス主義共産主義)が滅ぼそうとしてきた「悪人」と全く違う。
   ・   ・   ・   
 2019年2月10日号 サンデー毎日五木寛之のボケない名言
 万(よろず)の仏に疎(うと)まれて
   後生(ごしょう)我が身をいかにせん (今様)
 海山(うみやま)稼ぐ者たちの嘆き
 今様(いまよう)は平安後期から鎌倉初期にかけて、熱病のように流行した大衆歌謡である。
 『道をゆく者、首を振り振り今様をくちずさみつつ歩かぬ者なし』とまで言われるほど一世を風靡した巷(ちまた)の歌だった。
 〽遊びをせむとや生まれん
 とか、
 〽仏は常にいませど
 などという秀歌もあり、
 〽近ごろ都に流行(はや)るもの
 といったラップ調のヒット曲もあった。
 しかし、私が忘れることのできない歌の一つは、
 〽はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに 万の仏に疎まれて 後生我が身をいかにせん
 という庶民大衆の嘆きの歌である。
 『海山稼ぐ』とは、生きるために殺生や、その他の悪を重ねてきた私たち、という意味だろう。人を欺(だま)し、嘘をつき、生きものを殺して生きてきた自分たち、それが『海山稼ぐ者』である。当時はすべての民衆がそうだった。
 それらの人びとが、死んだあと地獄に落ちたくない、救ってほしいと神や仏に頼っても、神仏は無情にその手を振りはらって去っていく。神や仏にも嫌われた、という絶望は、どれほど深いものだったのだろうか。鎌倉仏教といわれる革命的な思想が、そこに登場する。その下地は『海山稼ぐ者』としての自覚にあったのではあるまいか。」
   ・   ・   ・   
 日本の庶民は、和歌や今様を詩作し口遊む口承文化を持っていた。
 それが、日本民族日本人の見えない教養であった。
 口承文化とは、「言霊」信仰である。
   ・   ・   ・   
 日本の死後の世界は、死者が行く黄泉の国と亡者が落ちる地獄があったが、祝福され昇天する神の国や天国はなかった。
 黄泉の国とは、この世に生まれ変わり、血縁者の中に甦る為に、魂・霊魂が一時的に立ち寄る死後の世界である。
 日本民族日本人は、神道価値観から、仏教の輪廻転生を否定的ではなく好意的に受け入れていた。
 日本仏教は、高麗仏教(朝鮮仏教)や中国仏教とは違う。
   ・   ・   ・   
 日本仏教、特に鎌倉仏教は、下級武士、非人・えたなどの賤民、山の民・海の民・川の民などの部落民など下層民達が信仰した庶民宗教であった。
 仏教と深く結びついたのは天皇家・皇室であった。
 それ故に、天皇・皇族、天皇家・皇室を護ったのが、下級武士・賤民・部落民達であった。
   ・   ・   ・   
 中華仏教は革命宗教として、当時の中華諸王朝を滅亡させていた。
 儒教は、仏教を革命宗教として弾圧した。
 それが、廃仏毀釈である。
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🎃5)─1─中国人による宗教テロ。日本の神社仏閣に対する悪意か?悪ふざけか?出来心か?~No.10No.11 * 


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 関連ブログを6つ立ち上げる。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 反宗教無神論マルクス主義者の中の過激派共産主義者が、最も怖い存在である。
   ・   ・   ・   
 2017年4月6日 産経ニュース「全国の寺社で液体被害 増上寺でも 宗教施設標的? 反日思想? 警察当局が捜査
 柱に液体のような染み(左下)がついた増上寺の三解脱門=5日午後、東京都港区
 東京都港区の増上寺で5日、国指定重要文化財の「三解脱門(さんげだつもん)」などに油のような液体がかけられているのが見つかり、警視庁が建造物損壊や文化財保護法違反などの容疑で調べている。今月に入って同様の被害は確認されているだけで全国で6件発生。警察当局は宗教施設を標的にした犯行の可能性のほか、反日的な思想が背景にある疑いもあるとみて、液体の成分の分析などを進めている。
 警視庁愛宕署によると、5日午前8時半ごろ、増上寺職員から「門に油のようなものがかけられている」と通報があった。
 染みが見つかったのは門の柱や扉のほか、境内の石像や鐘など少なくとも十数カ所。4日午後5時半ごろに帰宅しようとした職員が門の染みに気がつき、5日朝になっても消えないことから通報した。門は夜間も開放され、境内には自由に出入りできるという。
 都内では4日、渋谷区の明治神宮でも鳥居や門の柱などで液体がかけられたような染みが見つかった。同様の被害は1日以降、京都市下鴨神社奈良県吉野町金峯山寺那覇市首里城と旧崇元寺第一門でも確認されている。
 文化庁宮田亮平長官は5日、増上寺を訪れて状況を確認。関係省庁と対応策を検討する考えを示した。
 ■油で「お清め」
 寺社などに液体がまかれる被害は約2年前に相次いだ。平成27年3月下旬ごろから、奈良市世界遺産東大寺の大仏殿(国宝)や、千葉県成田市成田山新勝寺の三重塔(国指定重要文化財)などで油のような液体が次々まかれた。
 複数の現場の防犯カメラの画像などから、千葉県警は同年6月、香取神宮(千葉県香取市)に液体をまいたとして、建造物損壊容疑で、日本国籍で米国在住の50代の医師の男の逮捕状を取り、行方を追っている。男は同年4月以降、日本から出国したとみられる。
 男は医師業の傍ら、韓国系牧師が創立した教会でキリスト教に出合い、各地で集会を開催していたという。ネット上に公開された集会の動画で男は「呪われた寺社などを油を注いで清めた」などと話しており、「お清め」と称して全国の寺社をめぐり、液体をかけた疑いが持たれている。
 ■犯人捕まらず
 警察当局は今月1日以降の被害について、男の布教活動の影響や、反日的な思想を持つ人物の犯行の可能性を視野に捜査を進める。
 また、昨年11月にも奈良市興福寺東大寺などで文化財に液体がかけられる被害が確認されており、関連を調べる。
 新潟青陵大大学院の碓井真史教授(社会心理学)は「首里城など宗教と直接関係のない施設でも被害が見つかっており、現時点でははっきりとした動機は見えない」と指摘。液体をかける行為について、「有名な場所を標的にすれば注目が集まり、模倣犯を生み出しやすい。過去の事件で犯人がまだ捕まっていないことも、同種の犯行が繰り返される要因になっているのではないか」と分析する。」
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 4月13日18:36 産経ニュース「【寺社液体事件】明治神宮の液体で逮捕状 中国人49歳女2人 すでに出国
 鳥居にかけられた液体を調べる警視庁の鑑識課員=4日午後、東京都渋谷区の明治神宮(宝田将志撮影)
 明治神宮(東京都渋谷区)の鳥居や門の柱などで液体のような染みが確認された事件で、警視庁捜査1課は13日、建造物損壊と器物損壊容疑で、ともに中国籍で住所、職業不詳の朴今玉容疑者(49)と、朴善愛容疑者(49)の逮捕状を取った。ともに既に出国しているが、捜査1課は再来日する可能性もあるとみて全国に指名手配。国際手配も検討する。
 逮捕状の容疑は、3日午前9時半ごろ?11時ごろ、明治神宮の鳥居や門など4地点15カ所に油のような液体を散布し、損壊したとしている。鳥居の防犯カメラに2人がスプレーで油のようなものを掛けているのが写っていたという。
 捜査1課によると、2人は中国・吉林省出身。3月27日に中国・上海から那覇空港に入国し、30日に那覇空港から空路で伊丹空港に移動。4月1日には新幹線で東京に入り、4日午前1時半に羽田空港から上海に帰国したという。
 今月に入って寺社で液体をまかれる被害は増上寺(東京都港区)、下鴨神社京都市左京区)、首里城那覇市)など全国で6件確認。いずれも2人の立ち回り先に近いことから、警察当局は関連を調べる。」
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 4月13日20:20 産経ニュース「【寺社液体事件】「政治的な嫌悪なのか」 中国人に逮捕状、観光客らに怒り
 液体の跡が見つかった南神門を調べる捜査員ら=4日午後、東京都渋谷区(桐原正道撮影)
 明治神宮(東京都渋谷区)で鳥居などに液体がまかれた事件で、警視庁が中国人の女2人の逮捕状を取ったことを受け、周辺の商店関係者や利用客には安堵が広がる一方、怒りの声も多数あがった。
 「犯行が繰り返されるのではないか心配していた。指名手配ではなく、中国まで逮捕に出向いてもらいたいが、容疑者が特定されただけ安心した。東京を代表する神社なので大切にしてほしい」
 渋谷区で美容室を経営する、森孝史さん(38)はほっとした表情で語った。そのうえで、「模倣犯や愉快犯が出ないように、神社、警察、地元などそれぞれの立場で注意を払っていきたい」とした。
 新宿区の大学生、山本晶さん(22)は「神社仏閣めぐりが好きなので、とても許せる行為でない。先人が残した貴重なもの。他国の文化や歴史を尊重できないならば、その国を訪れないでもらいたい」と怒りをあらわにした。
 観光に来ていた山口県防府市の会社員、白石雅敬さん(53)は、容疑者が中国籍だったことについて「やっぱりか、という残念な思い。政治的に日本を嫌悪するのだとしても、その思いで文化財を汚さないでもらいたい」と語った。」
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 4月14日 産経WEST「【寺社液体事件】明治神宮で確認「十字の染み」下鴨神社にも 中国人女2人の関連捜査
 下鴨神社の境内で見つかった染み=4月1日、京都市左京区
 国内各地の寺社の門などに油のような液体が掛けられた事件で、東京の明治神宮増上寺で確認された十字のような染みが、京都にある世界遺産下鴨神社や沖縄の国指定重要文化財の旧崇元寺(そうげんじ)でも見つかったことが14日、捜査関係者への取材で分かった。
 警視庁は、3日午前に明治神宮の鳥居や門に油のような液体を掛けたとして、建造物損壊の疑いなどで、ともに中国籍の朴今玉容疑者(49)と朴善愛容疑者(49)の逮捕状を取り、全国に指名手配。2人は来日時に沖縄や関西に立ち寄っており、警察当局が関連を調べている。
 捜査関係者などによると、下鴨神社では1日、十字のような染みが門で見つかった。旧崇元寺でも3日、石門の木製扉で複数の染みを確認した。
 2人は3月27日に中国の上海から那覇空港に着き、30日に大阪空港へ移動。4月1日に新幹線で上京し、明治神宮の事件後の4日に羽田空港から帰国した。」
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🏯2)─2─徳川時代の近世日本は世界7大帝国の1つの強国であった。~No.3 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   

 現代日本には、昔の片鱗は一切、何処にも存在しない。
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 国家の自主独立は軍事力で守られ、軍事力を持たない外交は無意味である。
   ・   ・   ・   
 世界7大帝国とは、
 神聖ローマ帝国(ドイツ)。
 ロシア帝国
 オスマン帝国(トルコ)。
 イラン帝国(ペルシア)。
 ムガール帝国(インド)。
 清国(中国)。
 日本(欧州では、天皇=天子ではなく大君=征夷大将軍を皇帝と見られていた)。
   ・   ・   ・   
 西洋世界の脅威は、陸のモンゴルと海の日本であった。
   ・   ・   ・   
 2019年2月14日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講義
 出兵前夜の日朝関係
 ……
 当時の日本の米の生産力は2,000万石といわれています。また1万石で兵隊を250人ぐらいは出せると考えられています。この数字で計算すると、当時の日本は50万人の兵力を動員できることになります。
 当時の世界で、50万人規模で軍隊を動員できるのは、中国と日本ぐらいしかありませんでした。後で満州女真族が明を倒し、清を建国(1636年)しますが、そのときの満州族は30万人ぐらいです。
 また当時の日本は戦国時代でしたから、実践になれていました。銀の生産量も世界の3分の1を占め、お金は山ほどあるました。
 単純に数字の上でいえば、明と戦うのは決して秀吉の妄想だけではなかった。日本の軍事力が歴史上ピークをつけた時代でした。
 1592年(天正20年)4月、日本の16万人の大軍が釜山に上陸します」
   ・   ・   ・   
 大航海時代であったも、10万人以上の大軍を乗せた大艦隊を編成し、海を越えて他国を攻撃する帝国は存在しなかった。
 それを可能にしたのは日本だけであった。
 世界は、日本の軍事力に恐怖し、大艦隊に脅威を抱いた。
   ・   ・   ・   
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、豊臣秀吉が示した帝国の軍事力に恐怖して日本人奴隷交易は止めたのであって、神の福音や隣人愛信仰や博愛精神から止めたのではない。
 軍事力や武装を否定する現代日本人は、日本人奴隷交易を容認する心が穢れた醜悪な日本人である。
   ・   ・   ・   
 日本の皇帝は、日本天皇である。
 日本は、中華帝国(中国)の忠実な僕・家臣・家来・臣下・部下であった、惨めな「礼法の国」朝鮮とは違うのである。
   ・   ・   ・   
 日本天皇は、日本国憲法が定める所の「国内的」に国家と国民の統合の象徴であるとともに、歴史・伝統・文化・宗教が押し上げる「国外的」に国と民族の自主独立の象徴でもある。
 国内外における日本国の独立と日本民族日本人の自立は、日本天皇に由来する。
 それ故に、反天皇反日的日本人は天皇制度を廃絶させようと画策している。
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日本、特に日本民族日本人には、世界に対する復讐権や報復権がある。
 世界は、「目には目を歯には歯を」という同罪報復を法の鉄則とするが故に、日本民族日本人が持っている復讐権や報復権を恐れている。
 何故、世界中に国際的反天皇反日派勢力が存在し、日本への非難、批判、攻撃が絶える事がない。
 大国は、小国が自国民一人を殺したら、小国の国民10人から100人を報復として、見せしめに公開で処刑した。
 場合によっては、1つの村、1つの町、1つの都市を皆殺しにした。
 アメリカは、真珠湾奇襲攻撃の報復としてヒロシマナガサキに原爆を投下して日本人を生きたまま焼き殺す、という虐殺を行った。
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 アフリカ人やインディオやインディアンには、日本民族日本人が持っているような西洋世界に対する復讐権や報復権は存在しない。
 何故なら、アフリカや南北アメリカ大陸には「確固たる主体」がないからである。
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 「日本は海を自然の防壁として守られていた」という日本人がいたら、そうした日本人を信用してはならない。
 信頼するに値しない日本人だからである。
   ・   ・   ・   
 日本の幸せは、中国や朝鮮と国交を開かず、友好関係・善隣関係を拒絶する事でもたらされた。
 江戸幕府は、指定した少数の御用商人による対中・対朝鮮交易を許可したが、それ以外での人の交流を禁止した。
 日本には、中国・朝鮮との民間交流は存在しなかった。
 江戸時代の日本人は、中国や朝鮮を無視する事で平和で幸せに生きられた。
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 日本の正統性は、最高神である女性神天照大神の唯一直系子孫という血統と初代天皇神武天皇の唯一直系子孫という皇統である、という日本中心神話・天孫降臨神話である。
 血統と皇統を受け継ぐ家系が、現天皇家・皇室である。
 日本民族日本人は、この日本中心神話・天孫降臨神話つまり日本書紀古事記を唯一の深層の古層としてまとまってきた人間である。
 そこのは、中国人も朝鮮人もましてやユダヤ人など存在しない。
 また、血統と皇統を正統としない日本人は天皇にはなれれない。
 故に、日本民族日本人はローカル神話に生きる神話民族である。
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 世界が日本を警戒しているのは、歴史的事実として、日本民族日本人が潜在的に秘めている軍事力である。
 白人キリスト教文明圏が日本を攻撃し破壊し崩壊させたかったのは、かって、日本民族日本人をアフリカ人同様に奴隷として荒稼ぎしていたという「後ろめたい」非人道行為があったからである。
 何故、世界が人口激減の日本に外国人移民・難民受け入れを、親切そうに、執拗に、恫喝まじりで進めるのかも、意図するところは奴隷とした日本民族日本人を消滅させる為である。
   ・   ・   ・   
 外国人移民・難民が多数派となり日本民族日本人が少数派となれば、人類の汚点である日本人奴隷交易は歴史から消える。
 アフリカにはアフリカ人が生存する限り、アフリカ人奴隷交易は歴史に残っている。
 南北アメリカ大陸のインディオやインディアンが少数民族として山野に追放された為に、インディオやインディアンの悲惨な歴史は過去の物語として語られ、そして忘れ去られていく。
 日本民族日本人が生存する限り、日本人奴隷交易は歴史に残る。
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 日本は、海や激しい海流のお陰で、中国・朝鮮・ロシア(ソ連)などの侵略から守られていたわけではない。
 日本を守っていたのは、世界7大帝国の強国としての軍事力である。
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 日本の軍事力は、防衛の為であって侵略の為ではなかった。
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 滅亡した、インカ帝国アステカ王国そしてムガル帝国ハワイ王国は内部から、敵に味方する内通者・裏切り者・売国奴によって滅ぼされた。
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 日本を内部から崩壊させる為に行われたのが、キリスト教布教であった。
 中世キリスト教会とイエズス会などの修道会が広めたキリスト教は、愛の信仰でもなく、平和と人道の福音でもなかった。
 ただ、日本を滅ぼす為の侵略目的宗教であった。
 その証拠が、日本人奴隷交易である。
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 ロシア人共産主義者は、国と国の日ソ中立条約を破り、武器を持たず逃げ惑う日本人避難民(女性や子供)を大虐殺し、北方領土四島を暴力を用いて不法占拠した。
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 中国共産党と中国人・朝鮮人の暴徒は、平時にも関わらず、武器を持たない日本人居留民を襲い、女性や子供を陰惨な猟奇的方法で大虐殺し、身包みを剥ぎ、全ての資産を強奪した。
 第一回南京事件。済南大虐殺事件。通州大虐殺事件。その他、数多くの殺人事件。
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 キリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を殺害するべく機会を窺っていた。
 桜田門事件。台中事件。上海天長節式典所事件。
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 アメリカは、無差別爆撃や原爆で日本人一般市民(女性や子供)を生きたまま焼き殺し、占領後は日本で犯罪行為を繰り返した。
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 在日朝鮮人は、敗戦後の日本で傍若無人に振るまい全国で凶悪犯罪を行い、日本人を殺害し持ち物を奪った。
 直江津集団暴行殺人事件。その他、数多く。
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 日本海という名称は、世界帝国日本に由来する歴史的名称である。
 世界帝国日本を歴史から抹消したい世界勢力は、日本海という歴史的由緒ある名称を韓国が主張する「東海」に改称しようとしている。
 国際的反天皇反日勢力は、反日派敵日派の朝鮮・韓国や中国共産党に味方して、地球上、地図上から日本という名称を全て消去しようとしている。
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 日本には、日本民族日本人以外で、助けてくれる、味方はいない、友人もいない、戦友もいなかった。
 日本民族日本人は、一人、孤独であった。
 日本民族日本人の心の拠り所は、儒教の中華(中国・朝鮮)でもなく、キリスト教の西洋でもなく、仏教を生んだインド・天竺、チベットガンダーラ中央アジアそして来訪神の住む南方・東方の海であった。
 日本民族日本人にとってなじみ深いのは、釈迦の仏教であって孔子儒教ではない。
 国・政治の制度は唐の儒教を採用したが、人間としての生き方は仏教に求めた。
 日本は、仏教国であって儒教国ではない。
 江戸時代の日本人は、儒教を「敬して遠ざける」事で自由にそして穏やかに生きた。
 日本は、儒教に傾きすぎると不幸になる。
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 思索力と理解力の乏しい愚かな日本人は儒教を好む、なぜなら儒教とは臣下の嗜みとして隷属する事を美徳とする洗脳の教えであるからである。
 故に、自立心の旺盛な思索力と理解力の優れた賢い日本人は、儒教より仏教を好んだ。
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 儒教国家は、例外なく悲劇に見舞われる、官吏・役人の腐敗と不正が蔓延する自堕落な国となった。
 儒教は、国を弱体化させ、国民を不幸にする。
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⚔15)─1─日本民族日本人のキリスト教に対する怒りは大罪か。渡邊大門。~No.54No.55No.56 

人身売買・奴隷・拉致の日本史

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 現代日本人は、歴史的事実を知りながら完全に無視をしている。

 そうした現代日本人は、数万年の日本民族の歴史においていまがかって聞いた事もないような、薄情で、冷淡で、冷血で、血も涙もないおぞましい日本人である。

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 人命や人権の尊重を説くリベラル派や革新派は、背筋が寒くなるほど、心の冷たい嫌らしい日本人はいない。

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 現代日本人と昔の日本人は違う。

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 如何なる外敵に対しても武器を取って戦わない日本人は、日本民族日本人ではない。

 死を覚悟して戦わない日本人は、日本人奴隷交易賛成派であり容認派である。

 日本民族日本人は、武器を持って、日本奴隷交易に反対し抵抗した。

 日本民族日本人の戦争は、正しい戦争であり、正義の戦争であり、自衛の戦いであった。

 世界の正義は、それを「悪」とし、「戦争犯罪」であると断罪し、日本人はアフリカ人と同様に奴隷身分に甘んじるべきであったとしている。

   ・   ・   ・   

 日本の歴史と世界の歴史は、別の歴史である。

 当然、日本の歴史と中華の歴史(中国・朝鮮)も別物である。

 日本の歴史は、日本民族日本人を中心とした独立した歴史である。

   ・   ・   ・   

 日本民族日本人は、天皇を現人神と祭り上げて世界と戦争をした。

 世界は、日本民族日本人を奴隷にする為に日本を侵略した。

 リベラル派・革新派・エセ保守派そして一部の保守派は、子供達に、天皇を現人神として戦争した事は人類に対する重犯罪行為であったと教え、日本人が奴隷として売られた事を教えない。

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 日本人奴隷交易の50歩100歩。

 日本人は、日本人を奴隷として国内で売って金儲けをした。

 外国人は、日本人を奴隷として世界中に売り飛ばして大金を稼いでいた。 

 人は金になる、世界商品であった。

 命は、金で買えた。

  ・   ・   ・    
 産経新聞
 iRONNA編集部

 渡邊大門(歴史学者
 渡邊大門の戦国ミステリー

 なぜイエズス会は秀吉の逆鱗に触れたのか
 戦国期に日本にもたらされたキリスト教は、南蛮貿易と合わせ有益な一面があった。ただ、フランシスコ・ザビエルらで知られるイエズス会の布教は、ポルトガル商人による日本人の「奴隷貿易」も誘引した。後に禁教令を出したが、秀吉の逆鱗に触れたイエズス会の所業とはいかなるものだったのか。
 渡邊大門の戦国ミステリー
 身売買」の戦国史、乱世の常識覆した秀吉の禁止令
 『渡邊大門』 2019/01/27
 渡邊大門(歴史学者

 前回、戦国時代における人身売買の実態について、武田氏などの例を見てきた。今回は、豊臣秀吉織田信長に代わって天下取りに名乗りを上げて以降、人身売買にどのような対策を講じたのかを確認することにしよう。
 秀吉の天下取りは、戦いの連続であった。信長が本能寺の変で横死した天正10(1582)年6月以降の主な戦いに限って列挙すると、次のようになる。

 ①天正10年――明智光秀を滅亡に追い込む(山崎の戦い)。
 ②天正11年――柴田勝家を滅亡に追い込む。
 ③天正12年――徳川家康との戦い(小牧・長久手の戦い)。
 ④天正13年――土佐の長宗我部氏を降伏に追い込む(四国征伐)。
 ⑤天正14年――薩摩の島津氏を降伏に追い込む(九州征伐)。
 ⑥天正18年――小田原北条氏を滅亡に追い込む。

 この間にも小さな戦いはたくさんあり、秀吉は全国平定に向けて、着々と足元を固めていった。戦いでは雑兵による略奪行為の「乱取り」が行われ、それが人身売買の温床になったことは言うまでもない。秀吉は人身売買を禁止すべく熱心に対策を講じており、九州征伐小田原征伐において関係史料を確認することができる。
 天正14年の九州征伐の直前、薩摩の戦国大名・島津氏に対抗すべく、秀吉に助けを求めたのは豊後の戦国大名大友宗麟である。かつて大友氏は九州北部を統一する勢いだったが、この頃には島津氏を相手に苦戦を強いられていた。
 宗麟は日の出の勢いの秀吉に助力を求めたが、島津氏は秀吉の実力を侮っていた。そして、大友氏を血祭りに上げるべく、豊後に攻め込んだのである。戦乱の中で、乱取りや人身売買に苦しめられたのが、豊後に住む普通の人々であった。ポルトガル人宣教師のフロイスは著作『日本史』で、乱取りや人身売買の惨状を次のように記している。

 薩摩の兵が豊後で捕らえた人々の一部は、肥後へ売られていった。ところが、その年の肥後の住民は飢饉に苦しめられ、生活すらままならなかった。したがって、豊後の人々を買って養うことは、もちろん不可能であった。それゆえ買った豊後の人々を羊や牛のごとく、高来(長崎県諫早市)に運んで売った。このように三会・島原(以上、長崎県島原市)では、四十人くらいがまとめて売られることもあった。豊後の女・子供は、二束三文で売られ、しかもその数は実に多かった。

 実に生々しい光景である。島津氏配下の雑兵は捕らえた豊後の人々を肥後で売ろうとしたが、飢饉により売買が困難と知るや、今度は現在の長崎県諫早市へ行って売買した。売られた人々は、かなりの数であったことが判明する。
 いくら奴隷が安価な労働力とはいえ、二束三文とはあまりに安すぎる。この話が事実であったことは、島津氏の家臣、上井覚兼(うわい・かくけん)の日記『上井覚兼日記』天正14年7月12日条に次の通り記されている。

 路次すがら、疵(きず)を負った人に会った。そのほか濫妨人(らんぼうにん、乱暴狼藉を働く人)などが女・子供を数十人引き連れ帰ってくるので、道も混雑していた。
 島津領内には、戦いで負傷した兵卒たちも帰還したが、濫妨人は戦利品として豊後から女や子供をたくさん引き連れ、道が混雑していたというのである。戦利品として人を略奪するのは、すでに当たり前になっていた。
 この惨劇を目の当たりにしたであろう秀吉は、いかなる対応をしたのであろうか。以下、確認しておこう。

 先に掲出したフロイスや上井覚兼の記述は事実であり、秀吉はすぐに人身売買の対策を行った。天正16年8月になって、秀吉は人身売買の無効を宣言する朱印状を発給している(「下川文書」)。次に示しておく。
豊後の百姓やそのほか上下の身分に限らず、男女・子供が近年売買され肥後にいるという。申し付けて、早く豊後に連れ戻すこと。とりわけ去年から買いとられた人は、買い損であることを申し伝えなさい。拒否することは、問題であることを申し触れること。
 この文書は、加藤清正小西行長に宛てられたものである。2人が肥後国に配置されたのは、天正16年閏5月15日のことである。したがって、2人の肥後入部直後には、秀吉から指示があったと考えられる。

 この場合、人を買った者には、秀吉からの金銭的な補償はなく、「買い損」ということになっている。では、どのような理由があって、秀吉は買われた人々を豊後へ連れ戻す措置を指示したのだろうか。

 戦場で雑兵が戦利品として人々を連れ去り、売買することは前回も述べた。しかし、戦争で田畑が荒れ果てたうえ、肝心の農民たちが他国に売買されたとなると、農村の復興が進まなくなる。それでは農作物の収穫がなくなるので、大名領国化の経済を揺るがす、非常に大きな問題だった。

 逃散(ちょうさん)などによって農地が放棄されるがごとく、人身売買によって肝心の耕作者がいなくなってしまうことは、秀吉の本意ではなかった。秀吉はこれまでも、戦争後に還住令(逃げた農民が元の土地に戻るよう勧める法令)を発布するなどし、戦災後の復興に力を入れていた。そうでなければ、土地を奪い取った意味がなくなるからである。

 同じような朱印状は、筑後の大名である立花宗茂毛利秀包(ひでかね)にも発給された。やはり、対象となったのは、豊後から筑後へ売買された人々の扱いであった。大友氏の領国である豊後は戦場になったのであるが、年貢を納入する主体の農民が数多く連れ去られ、農村の荒廃が進んでいたのは疑いないところである。
 秀吉の人身売買禁止という強い姿勢は、降伏に追い込んだ島津氏にも向けられた。次に、史料を掲出しておこう(「島津家文書」)。

 先年、豊後から連れ去った男女のことは、薩摩の領内を捜し出し、見付け次第に帰国させることを申し付ける。隠し置いた場合は、落ち度である。人の売買は一切禁止することは、先年定めたとはいえ、重ねて言うところである。
 本文書の発給された年次は不詳であるが、天正16年ごろと見るのが妥当ではないだろうか。和睦したとはいえ、薩摩・島津氏は大身の大名である。それでも容赦せずに、薩摩領内にいる豊後の人々を帰還させるように命じた。2行目の後半部分にあるように、人身売買禁止はすでに決まっており、重ねての通知だったようだ。
 ところが、人身売買の禁止令は、戦場となった豊後だけが対象ではなかった。次に、秀吉が寺沢広高に宛てた朱印状を挙げておこう(「島津家文書」)。

 薩摩出水、肥後水俣の侍・百姓、男女に限らず、薩摩・大隅・日向そのほか隣国へ彼らが買い取られたことを聞いた。法度の旨に任せて、早々に召し返して帰還させるように申し付ける。もし違反する者があったら、すぐに報告すること。右の趣旨を堅く申し触れ、彼らを帰還させること。

 薩摩出水(鹿児島県出水市)、肥後水俣熊本県水俣市)では侍・百姓や男女を問わず、島津氏領国の薩摩・大隅・日向やその隣国で売買されていた。秀吉は、それらの人々を早急に帰還させよというのである。こちらも本文に記されているように、人身売買は違法行為であることが強調されている。

 実は、薩摩出水、肥後水俣を治めていた島津忠辰(ただとき)は、秀吉にその領土を没収されていた。その後の措置にあたったのが肥前唐津佐賀県唐津市)の寺沢広高であったが、混乱の中で領内の多くの人々は売り払われたのであろう。これでは、戦後の復興はままならない。秀吉は人身売買禁止という方針をもとに、その対策を広高に命じたのであった。

 かつて、戦場における人の略奪は、当然の行為として認識されてきた印象がある。しかし、秀吉は人の略奪や人身売買禁止という政策を採った。その方針は、国内の大戦争である小田原北条氏との戦いでも受け継がれた。

 天下取りを目指す豊臣秀吉にとって、最後の強敵は小田原北条氏を残すのみとなった。北条氏は関東一円を支配下に収め、その実力は侮れないものがあった。

 天正17年11月の名胡桃(なぐるみ)城事件が秀吉の惣無事(私戦の禁止)の基調に違反したため、同年末に秀吉は北条氏に宣戦布告し、両者の戦いが始まった。名胡桃城事件とは、沼田城代の北条氏の家臣である猪俣邦憲(いのまた・くにのり)が、謀略によって真田昌幸の名胡桃城を占拠した事件である。戦いは関東各地で繰り広げられたが、北条氏は徐々に劣勢に追い込まれ、ついに天正18年6月に小田原開城となった。
 この間、秀吉は諸大名に対して、人身売買を禁じる旨を申し伝えている。天正18年4月27日、秀吉は上杉景勝に宛てて朱印状を発給した。次に、内容を確認しておこう(「上杉家文書」)。

 国々の地下人・百姓などは、小田原町中の外で、ことごとく還住させることを申し付ける。そのような中で、人身売買を行う者があるという。言語道断で許しがたいことである。人を売る者も買う者も、ともに罪科は軽いものではない。人を買った者は、早々に彼らをもといた場所に返すこと。以後、人の売買は堅く禁止するので、下々まで厳重に申し付けること。
 小田原城が戦場になったものの、戦いは関東各地で繰り広げられたので、人々は戦火を避けてあっちこっちに避難したのであろう。豊臣方は戦いを優勢に進める中で、未だに戦場である小田原町を除き、そのほかの場所については、百姓らを帰還させるように手配した。秀吉は戦争が終結した地域から順に、復興を進めたのである。
 一連の措置には、人々が元にいた場所に帰還させることによって、できるだけ早く戦後復興を円滑に進めるという目的があった。しかし、戦争というどさくさの状況で、人身売買が横行したこともあり、秀吉はその禁止を命じた。それは人を買う者であっても、売る者であっても罪は等しく重かったのである。

 上杉景勝が主戦場としていたのは、松井田城(群馬県安中市)であり、同年4月22日に城主である大道寺政繁(だいどうじ・まさしげ)は降伏していた。人身売買の禁止は、それから5日後の措置である。実は、ほぼ同内容の書状は、同年4月29日に秀吉から真田昌幸に送られている(「真田家文書」)。

 つまり、戦いが終わった場所では、速やかに人を帰還させるように昌幸に命じ、その間の人身売買を無効としたうえで、人を売買する者の摘発を命じている。やはり小田原を除いているのは、まだ同地では戦争が継続していたからである。

 秀吉の人身売買禁止令は、小田原北条氏の滅亡後も徹底していた。天正18年8月、秀吉は下野の宇都宮国綱に対して掟書の条々を送った。そのポイントは、次の2つになろう(「宇都宮家蔵文書」)。

 ・百姓などを土地に縛りつけ、他領に出ている者は召し返すこと。
 ・人身売買は、一切禁止すること。

 重要なことは、百姓などが勝手に移住し、耕作地が荒れることを防ぐということになろう。同時に人身売買によって、貴重な労働力が移動することも危惧された。つまり、人身売買の禁止というのは、さまざまな目的があるものの、倫理的、人道的な問題というよりも、むしろ労働力の問題として重視されたと考えられる。

 天正18年以降に秀吉が発給したと考えられる文書には、次のような規定がなされている(「紀伊風土記」所収文書)。
人の売買については、一切禁止する。天正十六年以降、人が売買された件は無効とする。今後、人を売る者はもちろんのこと、買う者についても罪とするので、噂を聞きつけて報告した者には褒美を遣わす。
 このように見る限り、天正16年という年を一つの基点にしていることがわかる。また、これまで人を買った者は、未だに罪として認識していなかったようである。売る方は積極的であったが、買う方は受動的であったので罪が軽かったのだろうか。いずれにしても、人身売買は売るのも買うのも、罪は等しくされたのである。
 そもそも人を略奪して人身売買をすることは、出陣した兵の給与の一部のようなものだった。しかし、戦後復興を考えたとき、人身売買によって人がいなくなり、耕作地が荒れると収穫が減るので大問題だった。それゆえ秀吉は倫理的、人道的というよりも、労働力の問題として、人身売買を禁止したのである。こうして経済基盤の安定化を図ったのである。

 ところで、人身売買の問題を考えるには、キリスト教南蛮貿易のこと、また、ポルトガル商人を通して日本人奴隷が海外に売りさばかれた例を検討する必要がある。秀吉は日本人奴隷が海外に輸出されることを懸念していた。この点に関しては、次回に取り上げることにしよう。
 そもそも人を略奪して人身売買をすることは、出陣した兵の給与の一部のようなものだった。しかし、戦後復興を考えたとき、人身売買によって人がいなくなり、耕作地が荒れると収穫が減るので大問題だった。それゆえ秀吉は倫理的、人道的というよりも、労働力の問題として、人身売買を禁止したのである。こうして経済基盤の安定化を図ったのである。

 ところで、人身売買の問題を考えるには、キリスト教南蛮貿易のこと、また、ポルトガル商人を通して日本人奴隷が海外に売りさばかれた例を検討する必要がある。秀吉は日本人奴隷が海外に輸出されることを懸念していた。この点に関しては、次回に取り上げることにしよう。
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 「日本人奴隷は神の恩寵」秀吉の逆鱗に触れたイエズス会の解釈
 『渡邊大門』 2019/02/09
 渡邊大門(歴史学者

 前回、豊臣秀吉がいかにして、人身売買の対策を講じたのかを確認した。今回は、世界的な規模に達した奴隷貿易と日本との関係について触れておこう。

 最初に、キリスト教の布教について説明しておく。船による長距離の移動が可能になり、ヨーロッパの人々がアジアに行き来することも可能になった。これが大航海時代である。商人たちが貿易のために各国を訪れ、同時にキリスト教の海外での布教も積極的に行われた。その中心的な役割を果たしたのが、イエズス会である。

 1534年、スペインの修道士、イグナティウス・デ・ロヨラら6人は、パリのモンマルトルで宗教改革に対抗しイエズス会を結成した。彼らは清貧・貞潔服従を誓約し、イエズス会がイエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団となることを目標とした。

 その中には、後に日本でキリスト教布教の中心的な役割を果たした、フランシスコ・ザビエルも含まれている。イエズス会は、1540年にローマ教皇の認可を受けた。以降、イエズス会の面々は、アジアや新大陸で熱心に布教活動を行った。

 ザビエルとは、いかなる人物なのだろうか。ザビエルが誕生したのは1506年のことで、日本ではちょうど戦国時代が始まったころである。ザビエルは、ナバラ王国ピレネー山脈西南部)出身のバスク人であった。

 ザビエルは19歳でパリ大学の聖バルバラ学院で神学を学び、イエズス会の創設に加わった。1542年にはインドのゴアに派遣され、布教活動に従事した。その後、ザビエルはマラッカで布教中に、「アンジロー」という薩摩出身の日本人と会う。これが日本へ赴くきっかけとなった。

 1549年4月、ゴアを出発したザビエルは、8月に薩摩に上陸した。ザビエルは島津貴久に面会を求めるなど精力的に活動し、周防の大内義隆や豊後の大友宗麟に布教への理解を求めた。ザビエルは2年余り伝道を行い、いったんインドに帰国し、さらに中国へと向かうが、1552年に中国の広東で病没した。ザビエルの布教活動により、キリスト教に理解を示した人々もいたので、大きな功績と言えるであろう。

 ザビエルの後を受け継ぐかのごとく、登場したのがルイス・フロイスである。1532年、フロイスポルトガルリスボンに誕生した。16歳でイエズス会に入り、その後はインドに渡海した。フロイスが日本への渡海を果たしたのは、永禄6(1563)年のことである。

 肥前横瀬浦(長崎県西海市)に上陸したフロイスは、スペイン出身の宣教師、フェルナンデスから日本語と日本の習俗について教えを受けた。その後、織田信長豊臣秀吉に接近し、円滑に布教活動を行うべく奮闘した。これまでもたびたび引用した、フロイスの『日本史』は当時の日本を知る上で、貴重な史料である。

 キリスト教の布教と同時に盛んになったのが、南蛮貿易である。天文12(1543)年にポルトガル商人から種子島へ火縄銃がもたらされて以降(年代は諸説あり)、日本はポルトガルやスペインとの貿易を行った。
 ポルトガルから日本へは、火縄銃をはじめ、生糸など多くの物資がもたらされた。逆に、日本からは、銀を中心に輸出を行った。こうして日本は、キリスト教や貿易を通して海外の物資や文物を知ることになる。

 これより以前、ヨーロッパでは奴隷制度が影を潜めていたが、15世紀半ばを境にして、奴隷を海外から調達するようになった。そのきっかけになったのが、1442年にポルトガル人がアフリカの大西洋岸を探検し、ムーア人を捕らえたことであった。

 ムーア人とは現在のモロッコモーリタニアに居住するイスラム教徒のことである。キリシタンからすれば、異教徒だった。その後、ムーア人は現地に送還されたが、その際に砂金と黒人奴隷10人を受け取ったという。
 このことをきっかけにして、ポルトガルは積極的にアフリカに侵攻し、黒人を捕らえて奴隷とした。同時に砂金をも略奪した。これまで法律上などから鳴りを潜めていた奴隷制度であったが、海外(主にアフリカ)から奴隷を調達することにより、復活を遂げたのである。では、奴隷制度は宗教的に問題はなかったのだろうか。

 1454年、アフリカから奴隷を強制連行していたポルトガルは、ローマ教皇のニコラス五世からこの問題に関する勅書を得た。その内容は、次の通りである(牧英正『日本法史における人身売買の研究』引用史料より)。

 神の恩寵により、もしこの状態が続くならば、その国民はカトリックの信仰に入るであろうし、いずれにしても彼らの中の多くの塊はキリストの利益になるであろう。
 文中の「その国民」と「彼らは」とは、アフリカから連行された奴隷たちを意味している。奴隷の多くは、イスラム教徒であった。つまり、彼らアフリカ人がポルトガルに連行されたのは「神の恩寵」であるとし、ポルトガルに長くいればキリスト教に改宗するであろうとしている。

 そして、彼らの魂はキリストの利益になると強引に解釈し、アフリカ人を連行し奴隷とすることを正当化したのである。キリスト教徒にとって、イスラム教徒などの異教徒を改宗させることは、至上の命題だったのだろう。それゆえに正当化されたのである。
 当初、アフリカがヨーロッパに近かったため、かなり遠い日本人は奴隷になるという被害を免れていた。しかし、海外との交易が盛んになり、その魔の手は着々と伸びていたのである。この問題に関しては、岡本良知『十六世紀日欧交通史の研究』(六甲書房)に詳しいので以下、同書を参照して考えてみたい。
 日本でイエズス会が布教を始めて以後、すでにポルトガル商人による日本人奴隷の売買が問題となっていた。1570年3月12日、イエズス会の要請を受けたポルトガル国王は、日本人奴隷の取引禁止令を発布した。その骨子は、次の通りである。

 ①ポルトガル人は日本人を捕らえたり、買ったりしてはならない。
 ②買い取った日本人奴隷を解放すること。
 ③禁止令に違反した場合は、全財産を没収する。

 当時、ポルトガルは、マラッカやインドのゴアなどに多くの植民地を有していた。まさしく大航海時代の賜物であった。彼らが安価な労働力を海外に求めたのは、先にアフリカの例で見た通りである。ところが、この命令はことごとく無視された。その理由は、おおむね二つに集約することができよう。

 一つは、日本人奴隷のほとんどが、ポルトガルではなくアジア諸国ポルトガル植民地で使役させられていたという事実である。植民地では手足となる、労働に従事する奴隷が必要であり、それを日本から調達していたのである。理由は、安価だからであった。植民地に住むポルトガルの人々は、人界の法則、正義、神の掟にも違反しないと主張し、王の命令を無視したのである。
 もう一つの問題は、イエズス会ポルトガル商人にかかわるものであるが、こちらは後述することにしたい。

 では、秀吉は日本人奴隷の問題にどう対処したのだろうか。天正14年から翌年にかけて九州征伐が行われ、秀吉の勝利に終わった。前回触れたが、戦場となった豊後では百姓らが捕らえられ、それぞれの大名の領国へと連れ去られた。

 奴隷商人が関与していたのは疑いなく、秀吉によって人身売買は固く禁止された。実は、人身売買に関与していたのは、日本人の奴隷商人だけでなく、ポルトガル商人の姿もあったのである。

 そのような事情を受けて、秀吉は強い決意をもって、人身売買の問題に取り組んだ。天正15年4月、島津氏を降伏に追い込んだ秀吉は、意気揚々と博多に凱旋した。そこで、ついに問題が発生する。

 翌天正16年6月、秀吉とイエズス会の日本支部準管区長を務めるガスパール・コエリョは、日本人奴隷の売買をめぐって口論になったのである(『イエズス会日本年報』下)。次に、お互いの主張を挙げておこう。

 秀吉「ポルトガル人が多数の日本人を買い、その国(ポルトガル)に連れて行くのは何故であるか」

 コエリョポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が売るからであって、パードレ(司祭職にある者)たちはこれを大いに悲しみ、防止するためにできるだけ尽力したが、力が及ばなかった。各地の領主その他の異教徒がこれを売るので、殿下(秀吉)が望まれるならば、領主に日本人を売ることを止めるように命じ、これに背く者を重刑に処すならば容易に停止することができるであろう」
 秀吉が見たのは、日本人が奴隷としてポルトガル商人に買われ、次々と船に載せられる光景であった。驚いた秀吉は、早速コエリョを詰問したのである。コエリョが実際にどう思ったのかは分からないが、答えは苦し紛れのものであった。
 しかも、奴隷売買の原因を異教徒の日本人に求めており、自分たちは悪くないとした上で、あくまで売る者が悪いと主張しているのである。もちろんキリスト教を信仰する日本人は、奴隷売買に関与しなかったということになろう。

 日本人が売られる様子を生々しく記しているのが、秀吉の右筆、大村由己の手になる『九州御動座記』の次の記述である。

 日本人数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖を付けて船底に追い入れた。地獄の呵責よりもひどい。そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼前に広がっている。近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまうことを心配する。
 この前段において、秀吉はキリスト教が広まっていく様子や南蛮貿易の隆盛について感想を述べている。そして、人身売買の様相に危惧しているのである。秀吉は日本人が奴隷としてポルトガル商人により売買され、家畜のように扱われていることに激怒した。奴隷たちは、まったく人間扱いされていなかったのである。
 それどころか、近くの日本人はその様子を学んで、子、親、妻女すらも売りに来るありさまである。秀吉は、その大きな要因をキリスト教の布教に求めた。キリスト教自体が悪いというよりも、付随したポルトガル商人や西洋の習慣が問題だったということになろう。イエズス会関係者は、その対応に苦慮したのである。

 理由がいかなるところにあれ、秀吉にとって日本人が奴隷として海外に輸出されることは、決して許されることではなかった。また、イエズス会にとっては、片方でキリスト教を布教しながら、一方で奴隷売買を黙認することは、伝道する上で大きな障壁となった。イエズス会は、苦境に立たされたと言えよう。そうした観点から、彼らはポルトガル国王に奴隷売買の禁止を要請していたのである。

 しかし、日本に合法的な奴隷が存在すれば、話は別である。率直に言えば、当時の奴隷は家畜のように売買される存在であった。モノを売るのであれば、それはまったく問題ないと解釈することが可能である。

 幸か不幸か、少なくとも奴隷売買商人は、日本には法律で認められた奴隷が存在すると考えていた。次の史料は、牧英正『日本法史における人身売買の研究』(有斐閣)に紹介された史料である。

 日本には奴隷が存在するか否か、また何ゆえに奴隷となるのか。また子供は、奴隷である父もしくは母の状態を継続するのか否か。彼ら(=奴隷売買商人)が答えて言うには、奴隷は存在する、と。奴隷は戦争中に発生する。また、貧しい親は自分の子供を売って、奴隷とする場合もある。(以下、二つ目の質問に関する回答)子供は次の方法によって、親の状態を受け継ぐ。つまり、父が奴隷で母が自由民の場合は、誕生した男子は奴隷で、女性は自由人である。父が自由人で母が奴隷の場合は、誕生した男子は自由人で、女性は奴隷である。両親とも奴隷の場合は、誕生した男女はともに奴隷である。
 この問答の様子は、イエズス会が奴隷売買業者を破門にするか否かの尋問を記録したものである。牧氏が指摘するように、この回答は的を射たものである。たとえば、奴隷が戦争中に発生するというのも、これまで戦場での略奪行為「乱取り」で見てきた通りである。親が子を売る例も、たびたび見られた。

 加えて、親の奴隷身分(あるいは自由民の身分)がどのような形で引き継がれるかも、日本の慣習に符合したものであった。当時における日本の情勢と比較して、彼らの言葉に特段の矛盾点は見られないようである。

 このような解釈が存在したため、イエズス会では奴隷売買の商人による日本人奴隷の売買を黙認していた節がある。とはいうものの、こうしたデリケートな問題は、徐々にキリスト教の布教をやりにくくしていった。
 大きな問題だったのは、一部の宣教師たちが奴隷商人と結託して、日本人奴隷の売買に関与していたということである。そのような状況の中で出されたのが、先述したポルトガル国王の奴隷売買禁止の命令なのである。

 ここで触れた、ポルトガル商人による奴隷売買については、次回も続けて取り上げることにしよう。

主要参考文献
渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房

   ・   ・   ・   

 産経新聞iRONNA「「奴隷を売る日本人が悪い」天正遣欧使節千々石ミゲルのモヤモヤ
『渡邊大門』 2019/03/02
渡邊大門(歴史学者

 前回、日本人奴隷の扱いについて、その経緯やイエズス会の対応を確認した。では、日本人のキリシタンは、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買について、どのような感想を持っていたのであろうか。今回は一例として、天正遣欧少年使節の発言を素材にして考えてみよう。
 キリスト教の布教と相俟(ま)って、日本からローマ教皇イスパニア国王に使節を派遣することになった。イエズス会巡察使のヴァリニャーニョは、大友宗麟有馬晴信大村純忠キリシタン大名使節の派遣について提案を行った。これが、有名な天正遣欧少年使節である。こうして天正10(1582)年、伊東マンショと千々石(ちぢわ)ミゲルが正使に任じられ、原マルチノ中浦ジュリアンを副使として、同2月に長崎から出航したのである。
 少年使節は長崎を出発すると、途中でゴア、リスボンマドリードへと立ち寄った。天正12年11月、少年使節イスパニア国王のフェリペ二世に謁見を果たした。この間、3年近くの時間がかかっている。今では考えられないほど時間を要した。
 その翌年の天正13年3月になって、ようやく少年使節は念願であるローマ教皇、グレゴリウス十三世との面会を果たしたのである。ここまでの様子は、天正遣欧少年使節に関する多くの書籍で取り上げられている。
 ところで、少年使節たちは旅の途中でさまざまな場所に寄港すると、日本人奴隷と遭遇することが度々あったという。こうした事態に接した彼らの心境は、いささか複雑なものだったようである。
 日本人としてのアイデンティティーとキリスト教信仰との間で、随分と少年使節の心が揺れ動いた。その様子を少年使節の会話の中から確認しておこう(エドウアルド・サンデ『日本使節羅馬教皇廷派遣及欧羅巴及前歴程見聞対話録』より)。
 まず、問題になったのは、ヨーロッパの国家の間で戦争に至って捕虜になるか、降参した場合、それらの人々はいかなる扱いを受けるのかという疑問である。海外の日本人奴隷を思ってのことであろう。以下、少年使節の中での議論である。
 少年使節は捕らえられた人が、死刑もしくは苦役に従事させられるのかを問うている。日本では、その扱いはさまざまだった。この疑問に答えたのは千々石ミゲルであり、その答えは次のように要約できる。
 ①捕虜、降参人とも死刑や苦役に従事させられることはない。
 ②捕虜は釈放、捕虜同士の交換または金銭の授受によって解放される。
 この回答には理由があった。つまり、ヨーロッパでは古い慣習が法律的な効力を持つようになり、キリスト教徒が戦争で捕虜になっても、賤役(奴隷としての仕事)には就かないことになっているとのことであった。
 ただし、キリスト教の敵である「野蛮人」の異教徒については別で、彼らは賤役に従わなければならなかった。これが法的な効力を持つようになったのである。この回答に対して、少年使節は改めてキリスト教徒が戦争中(対キリスト教国家)に捕虜になった場合、本当に賤役に従事させられないのか確認した。
 これに対するミゲルの回答は、「イエス」である。一同はキリスト教徒が奴隷にならないと聞いて、「ほっ」としたかもしれない。しかし、その回答の後に続けて、ミゲルは日本人奴隷について次のように感想を述べている。

 日本人は欲と金銭への執着が甚だしく、互いに身を売って日本の名に汚名を着せている。ポルトガル人やヨーロッパ人は、そのことを不思議に思っている。そのうえ、われわれが旅行先で奴隷に身を落とした日本人を見ると、道義を一切忘れて、血と言語を同じくする日本人を家畜や駄獣のように安い値で手放している。わが民族に激しい怒りを覚えざるを得なかった。

 ミゲルにとっては、日本人の「守銭奴」ぶり、そして金のために日本人奴隷を売買する同胞が許せなかった。その強い憤りが伝わってくる。そのミゲルの言葉に同意したのが、伊東マンショである。
 マンショはヨーロッパの人々が文明と人道を重んじるが、日本人には人道や高尚な文明について顧みないと指摘している。マンショが言うところの文明と人道とは、あくまでヨーロッパ諸国やキリスト教を基準としたものであろう。
 マルチノもミゲルの言葉に同意しつつも、次のような興味深い指摘を行っている。

 ただ日本人がポルトガル人に売られるだけではない。それだけならまだしも我慢できる。というのも、ポルトガル人は奴隷に対して慈悲深く親切であり、彼ら(=奴隷となった日本人)にキリスト教の戒律を教え込んでくれるからだ。しかし、日本人奴隷が偽の宗教を信奉する劣等な民族が住む国で、野蛮な色の黒い人間の間で奴隷の務めをするのはもとより、虚偽の迷妄を吹き込まれるのは忍びがたいものがある。

 マルチノは、日本人がポルトガルに売られるだけなら我慢できるという。その理由とは、仮に日本人奴隷がポルトガル人のもとにいたならば、キリスト教の崇高な理念を教えてくれるからである。少年使節の考えは、あくまでキリスト教がすべてであった。
 そして、現実には東南アジアで多くの日本人が奴隷として使役されており、そこで異教(キリスト教以外の宗教)を吹き込まれることが我慢ならないとする。同じ日本人奴隷であっても、キリスト教さえ信仰してくれたらよいという考えである。
 つまり、日本人が奴隷として売られても、キリスト教を信じることになれば、最低限は許せるということになろう。この考え方は、ポルトガル商人がアフリカから奴隷を連行することを正当化する論理と同じである。
 この言葉には、少年使節の賛意が示されている。そして、まだまだ議論は続く。マルチノは、もともと日本では人身売買が不徳とされていたにもかかわらず、その罪をパードレ(司祭職にある者)やポルトガル商人になすりつけ、欲張りなポルトガル商人が日本人奴隷を買い、パードレはこれを止めようともしないと指摘した。
 この指摘に反応したのがミゲルである。ミゲルは、次のような見解を示している。

 ポルトガル人には、いささかの罪もない。彼は何と言っても商人である。利益を見込んで日本人奴隷を購入し、その後、インドやそのほかの国々で彼ら日本人奴隷を売って金儲けをするからといって、彼らを責めるのは当たらない。とすれば、罪は日本人の方にあるのであって、普通なら大事に育てなければならない子供が、わずかな対価で母の懐からひき離されていくのを、あれほどことなげに見ることができる人々なのだ。

 ミゲルの見解は、ポルトガル人が悪いのではなく、売る方の日本人が悪いというものであった。当時の日本人は、ミゲルが指摘するように、わが子を売り飛ばすことにいささかの躊躇(ちゅうちょ)もなかったようである。
 要するに、キリスト教国であるヨーロッパ諸国と比較すると、日本は人道的にも倫理的にもはるかに劣っていたということになろう。ミゲルの「奴隷を売る日本人が悪い」という考え方は、ポルトガル側の常套句に通じるところがある。ちなみに、彼らは当時、10代半ばの少年であった。
 以上の会話のやりとりをまとめれば、次のように要約されよう。

 ①日本人が奴隷として売られても、ポルトガルキリスト教の正しい教えを受け、導かれるのならばそれでよい。しかし、日本人奴隷が異教徒の国で邪教を吹き込まれることは我慢ならない。
 ②日本人が奴隷になるのは、人道的、倫理的に劣る日本人が悪い。ポルトガル商人は商売として人身売買に携わっているので、何ら非難されることはない。

 天正遣欧少年使節の面々は日本人であったが、むしろ不道徳な日本人の考え方を嫌い、キリスト教の教えに即した、ポルトガル商人やイエズス会寄りの発言をしていることに気付くであろう。
 余談ながら、天正遣欧少年使節の面々は、その後どうなったのだろうか。伊東マンショ原マルチノ中浦ジュリアンは、その後もキリスト教の勉強を続け、司祭の地位に就いた。しかし、キリスト教が禁止されると、厳しい立場に追い込まれ、マンショは慶長17(1612)年に逃亡先の長崎で病死した。
 マルチノは海外に活路を見いだし、マカオへ向かった。そして、寛永6(1629)年に同地で死去している。ジュリアンは国外に逃亡せず、長崎で潜伏生活を送った。しかし、寛永9年に小倉で捕らえられ、翌年に激しい拷問を受けて亡くなった。ミゲルはただ1人棄教の道を選択し、後に大村藩の藩主に仕えた。
 キリシタンである天正遣欧少年使節の面々は、ポルトガル人(あるいはヨーロッパの人々)やキリスト教に理解を示していたが、豊臣秀吉については決してそういう考えではなかったかもしれない。
 率直に言えば、秀吉はキリスト教の教義などに関心は持っていなかったが、自らの政治的な野心を満たすために認めていたに過ぎない。天正16年6月に秀吉はパードレたちに使者を送り、次の4カ条について質問を行っている。次に、要約しておこう。

 ①なぜ日本人にキリスト教を熱心に勧めるのか(あるいは強制するのか)。
 ②なぜ神仏を破壊したり、僧侶を迫害したりして融和しないのか。
 ③牛馬は人間に仕える有益な動物なのに、なぜ食べるという道理に背く行為をするのか。
 ④なぜポルトガル人が日本人を買い、奴隷として連れて行くのか。

 キリスト教の伝来とともに、多くの文物が日本へもたらされた。秀吉は九州征伐直後、中国大陸への侵攻を構想していたという(最近は否定的な見解もある)。そのとき頼りになるのが、西欧からもたらされる強力な武器の数々である。
 やや極論かもしれないが、西洋の文物や武器が入手できれば、キリスト教などどうでもよかったと考えられる。しかし、それも度が過ぎると、承服できない点があったに違いない。その代表的なものの一つが、人身売買であった。
 もっとも、肝心なのは先の4カ条目の質問である。この点については前回も触れた通り、ポルトガル出身のイエズス会宣教師、コエリョは次のように述べている。

 ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が売るからであって、パードレたちはこれを大いに悲しみ、防止するためにできるだけ尽力したが、力が及ばなかった。各地の領主その他の異教徒がこれを売るので、殿下(秀吉)が望まれるならば、領主に日本人を売ることをやめるように命じ、これに背く者を重刑に処すならば容易に停止することができるであろう。

 コエリョの回答は天正遣欧少年使節と同じく、「売る方が悪い」という理屈である。このやり取りについては、ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』にも詳しく記載されている。次に、紹介しておこう。

 私(=秀吉)は日本へ貿易のためにやってくるポルトガル人らが日本人を多数購入し、奴隷としてそれぞれの本国に連行すると聞いた。私にとっては、実に忍びがたいことである。そのようなことなので、パードレはこれまでインドそのほかの国々へ売られたすべての日本人を日本に連れ戻すようにせよ。もし遠い国々で距離的に不可能な場合は、少なくても現在ポルトガル人の購入した日本人奴隷を放免せよ。私(=秀吉)は、ポルトガル人が購入に要した費用をすべて負担する。

 宣教師たちからすれば、日本人が売ってくるから奴隷として買うのだ、という論理であった。しかし、秀吉にとって同胞の日本人が二束三文で叩き売られることは、実に耐え難いことであった。購入にかかった費用を負担してまで買い戻すというのであるから、凄まじい執念といえよう。これに対する回答は、次の通りである。

 この件は、殿下(=秀吉)に厳罰をもって禁止することを乞い、パードレが覚書に示した主要な事項の一つです。日本国内はもちろんのこと、海外諸国へ日本人が売られることは、日本人のように卓越し、自尊心の高い民にとって不名誉であり、価値を引き下げることです。この災難は九州のみで行われ、畿内や関東にまで広がっていません。われらパードレは、人身売買と彼らを奴隷にすることを妨害するため、少なからずつらい思いをしています。いずれにしても、それらを禁止する根本的な手段は、殿下(=秀吉)が外国船が寄港する港の領主に禁止を勧告することになりましょう。

 この主張を信じるならば、当時、日本人奴隷の売買はポルトガル商人の寄港地である九州を中心にして行われていたことが分かる。いずれにしても宣教師たちの努力では奴隷売買をやめさせるのは難しいようで、秀吉自らが禁止命令を出すべきであるとする。常々、彼らは奴隷として売る日本人が悪いと言っているのであるから、取り締まるのなら日本の方で責任をもってやって欲しいということになろう。
 ところで、先行研究の指摘があるように、イエズス会は陰で日本人のキリシタンに寺社の破壊を命じたり、奴隷売買にもかかわっていた(高瀬弘一郎『キリシタンの世紀』)。それを隠蔽し、言い逃れをしていたのである。ところが、こうしたイエズス会の曖昧な態度は、秀吉に強い対応策を取らせることになった。
 次回はもう少し奴隷売買に対する、秀吉の対応を考えてみよう。
 主要参考文献
 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房
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 関連テーマ
 バテレン追放、秀吉を動かした日本人の尊厳
 ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を禁じるため、秀吉は「バテレン追放令」を発布した。同胞が家畜同然に海外へ売り渡される現実に危機感を覚えたからだ。秀吉にしてみれば、いわば日本人の尊厳をかけたキリスト教との闘いでもあった。秀吉の逆鱗に触れた「耐え難き屈辱」の真実とは。
 「日本人奴隷は家畜同然」バテレン追放令に秘めた秀吉の執念
 『渡邊大門』 2019/04/04
 渡邊大門(歴史学者
 前回、天正遣欧少年使節が感じた奴隷貿易などについて述べた。日本人奴隷の売買については、宣教師たちからすれば、「日本人が売ってくるから奴隷として買う」という論理だった。しかし、豊臣秀吉にとって同胞の日本人が二束三文で叩き売られることは、実に耐え難いことであった。そこで、秀吉は対策を講じたのである。
 前回触れた通り、秀吉がポルトガル出身のイエズス会宣教師、コエリョに厳しく問い質した後、天正15(1587)年6月18日に有名な「バテレン追放令」を制定している(神宮文庫蔵『御朱印師職古格』)。本稿では、その中の人身売買禁止の部分に絞って、話を進めることにしたい。バテレン追放令の第10条には、次の通り記されている。

 一、大唐・南蛮・高麗(こうらい)へ日本人を売り遣わし候こと、曲事(くせごと)たるべきこと。付けたり、日本において人の売り買い停止のこと。

 この部分を現代語に直せば、「大唐・南蛮・高麗へ日本人を売り渡すことは違法行為であること。加えて、日本で人身売買は禁止すること」という意味になろう。実は、この「バテレン追放令」は原本が残っておらず、多くの写しがあるに過ぎない。
 写しの間には文言の異同があり、これまでいくつかの解釈がなされてきた。例えば、提示した史料の「曲事たるべきこと」の箇所は、先に提示した史料の原文には「可為曲事事」とあるが、別の史料では単に「曲事」となっているものもある。それゆえ、読み方についても、研究者によって諸説ある。
 立教大名誉教授の藤木久志氏は、本文の異同に注目して次のように読んだ(『新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』)。

 一、大唐・南蛮・高麗へ日本人を売り遣わし候こと曲事に付き、日本において人の売り買い停止のこと。

 藤木氏はこのように、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買は大前提であり、国内における人身売買こそが主文であると解釈する。
 また、歴史学者の峯岸賢太郎氏は「付けたり」以降の文言が主文であると解釈した。つまり、秀吉がポルトガル人による日本人奴隷の売買という「民族問題」を契機にして、国内の人民支配を強化しようとした人身売買禁止令であると解釈している(「近世国家の人身売買禁令」)。藤木氏も峯岸氏も共通するのは、このバテレン追放令が国内に発布されたということになろう。
 この見解に対しては、日本史学者の下重清氏の反論がある(『<身売り>の日本史―人身売買から年季奉公へ』)。下重氏は、18日付のバテレン追放令がコエリョポルトガル人に通告したものであり、国内に発布されたものではないとする。
 つまり、主文はポルトガル人による日本人奴隷の売買禁止であり、「付けたり」以下は禁則の法的根拠と解釈する。もともと日本では国内における人身売買を禁止していたことを根拠として、ポルトガル人の行為を禁止したことになろう。
 確かに、日本では原則として人身売買は禁止されていたが、これまで見てきたようになし崩し的、あるいはしかるべき手続きにより、容認されていたという事実がある。これを改めて法的に確認したことになると考えられる。
 いずれにしても、秀吉はポルトガル商人による日本人奴隷の売買を禁止した。同時に、国内における人身売買も禁止したのである。
 秀吉の日本人奴隷売買禁止の執念は、9年後の慶長元(1596)年にようやく結実することになった。同年、イエズス会は奴隷売買をする者に対して、破門することを決議したのである。次に、その概要を示すことにしよう。

 セルケイラの前任司教ペドロは、当初こそ長い年月の慣習により、ポルトガル商人が少年少女を購入し日本国外へ輸出する際、労務の契約に署名するなどして認可を与えた。しかし、日本の事情に精通すると、奴隷とその労務年限から生じる弊害を看取し、インドへ出発する前に破門令を定めた。その破門令は、長崎で公表された。当該法令は、その権を司教一人が保留し、その行為自体により受ける破門の罰をもって、およそポルトガル人が日本から少年少女を購入して舶載することを厳禁した。そして、その罰に加えて、買われた者の損害(購入代金は返金されない)以外に、各少年少女一人ごとに十クルザードの罰金を科した。 岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料

 こう記された後、「いかなる人物であれ、ただの一人でも奴隷購買に許可を与えないという宣告である」と明記されている。まさしく不退転の決意であった。
 しかも、破門を命じる権限は、司祭がただ一人有するものである。解放された少年少女には、当座の生活資金として10クルザードが与えられた。
 歴史学者の岡本良知氏らが指摘するように、秀吉の九州征伐に至るまで、イエズス会は日本人奴隷の売買や海外への輸出をやむを得ず容認する立場であった。しかし、秀吉からの強い禁止の要望により、これまでの方針を転換せざるを得なくなった。
 日本人奴隷の売買禁止は、司祭の交代が良いタイミングになったのであろう。何よりも人身売買を継続することで、キリスト教の布教が困難になることが恐れられた。岡本氏が指摘するところの「自衛手段」である。
 ところで、キリスト教における破門というのは、いかなる意味を持っていたのであろうか。なかなかキリシタン以外には分かりにくいかもしれない。
 破門を命じることができるのは、教会の聖職者に限定されていた。破門の具体的な内容とは、キリスト教信者が持つ教会内における宗教的な権利を剥奪することである。加えて、破門された者は、キリスト教信者との交流を断たれた。
 さらに、破門された者は世俗的な教会からの保護も受けられなくなり、教会の墓地への埋葬も許されなかった。欧州では、キリスト教信者が大半を占めるので、破門宣告は「死の宣告」と同義であったと言えよう。そうなると、宣教師の側も並大抵の覚悟ではなかったといえるかもしれない。
 翌年の慶長2年、先の司教らの意向を受けて、インド副王がポルトガル国王の名において、次の通り勅令を発布した。それは、マカオ住民の安寧と同地で行われる紊乱(びんらん)非行を避けるなどの目的があった。

 朕(=ポルトガル国王)は本勅令により、本勅令交付以後、いずれの地位にある日本人といえども、それをマカオに居住せしめたり連行されることなく、また他のいずれの国民であっても拘束・不拘束にかかわらず、奴隷として連れて来ることを禁止する。
岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料
 日本人だけではなく、その他の国の人々も対象となった。この後に続けて、刀を輸入することを禁止し、これを発見した場合には厳しい処罰が科された。

 その罰とは、ガレー船に拘禁させられるというものであった。ガレー船とは軍船の一種で、映画『ベン・ハー』で奴隷に落ちぶれた主人公のベン・ハー役を演じた、チャールトン・へストンが漕いでいた船のことである。実に厳しい重労働であった。
 ここには、特に人身売買に関する処罰が記されていない。しかし、先に見た通り、禁を犯したものは破門されるわけだから、それが最も重い罰といえよう。
 ところが、この問題は一向に解決しなかったようである。秀吉が病没した翌年の慶長3年には、奴隷輸出をストップするための努力がさらに求められた。
 そこで問題視されたのは、貪欲の虜(とりこ)になったポルトガル商人が日本人や朝鮮人をタダ同然で購入し、毎年のように輸出することが、キリスト教の悪評を高めることになっていたことである。この場合の「朝鮮人」とは、文禄・慶長の役で日本軍が朝鮮半島で拉致した朝鮮被虜人を意味している。
 キリスト教からの破門という究極の罰をちらつかせながらも、奴隷の売買や輸出は止むことがなかったようである。
 以上のような過程を経て、秀吉は人身売買を禁止した。では、なぜ日本人奴隷たちは、その身を落としたのであろうか。彼らが奴隷になった理由はさまざまであり、年端も行かない少年少女は、半ば騙されるようにしてポルトガル商人に買われたこともあったという。その際、仲介者である日本人には、謝礼が払われていた。
 ポルトガル人が考えた、日本人が奴隷となりポルトガル商人に売られた理由は四つに大別されよう。

 第一に挙げなくてならないのは、戦争を要因とするものである。大友氏領国の豊後(大分県)が戦場になった際、多くの百姓などが他の各国に連行された。連行された人々は、農作業などに使役されることもあったが、肥後(熊本県)では飢饉(ききん)という事情もあって、豊後から連れてきた人々を養うことができなかった。

 そこで、彼らを連行した人は困り果て、暗躍するポルトガル商人に売ったのである。しかも、値切られたのか不明であるが、最終的には二束三文という値段にまでディスカウントされたという。

 第二の理由は、日本の慣習によるものであった。日本人が奴隷に身を落とす例は、次のように分類されている。

 ① 夫が犯罪により死刑になった際、その妻子は強制的に奴隷になる。
 ② 夫と同居することを拒む妻、父を見捨てた子、主人を顧みない下僕らは、領主の家に逃れて奴隷となる。
 ③ 債権者が債務者の子を担保として金銭を借り、支払いが滞った場合は、子は質流れとなり奴隷となる。

 おおむね理由は、①が「犯罪絡み」、②が「家族関係の破綻」、③が「借金」の三つに分類される。ポルトガル商人は、こうして奴隷に身を落とした人々を仲介者から購入したようである。

 第三の理由は、親が経済的に困窮したため、やむなくわが子を売るというものである。当時、貧しい百姓は領主から過大な年貢を要求され、自らの生活が成り立たないほどであったと宣教師は述べている。
 貧しき百姓は、1年を通して野生の根葉により、何とか食いつないだ。それすらも困難になると、ポルトガル商人に子を売ることになる。

 そしてポルトガル商人は、特段疑うことなく奴隷として購入した。宣教師は「彼らを救済する方法を調査しているのか」と疑問を投げ掛けるが、ポルトガル商人は考えもしなかったであろう。単に商売を目的として、彼らを買っただけである。
最後の理由は、これまでの貧困とは異なっており、自ら志願して「自分を売る」というスタイルであった。岡本氏が言うところでは、海外に雄飛すべく覇気に満ちた日本人といえよう。
 しかし、「自分を売る」人々は、あまり歓迎されなかった。その理由は、おおむね次のようになる。

 それらの者(=自分を売った者)の大半は承諾した奴隷の境遇に十分な覚悟を持っておらず、マカオから脱出して中国大陸に逃走し、そこで邪教徒になる意志を持っており、単にお金が目当てで自分を売っているに過ぎない。他の者の中には価格に関係なく、その代価を横領する第三者に威嚇されて売られた者もあった。また、ある者はマカオ渡航しようと欲したが、ポルトガル人の旅客として乗船を許可されないことを懸念し、ポルトガル商人の教唆により「自分を売る」者があった。しかし、実際にポルトガル商人は彼ら(=自分を売った者)の大部分が脱走することを恐れ、「自分を売る」という者には最小の対価しか払わなかった。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料
 
 意外なことではあるが、戦国時代には名もなき民が海外への雄飛を期して、自ら奴隷となる者がいたのである。それは、シャム(タイ)で活躍した山田長政の先駆け的な存在であった。
 しかし、「自分を売る」という手段で奴隷になった者は、最初から奴隷の仕事に従事する気はなく、もらった金を懐にして、たちまち脱走するパターンが多かったようである。したがって、こうした人々は商品にならないので、ポルトガル商人から敬遠されたようである。
 ただ、以上の見方は、ポルトガル商人側から見た一つの側面に過ぎない。一貫しているのは、「日本人が奴隷を売ってくるから」ということになろう。彼らは奴隷を売買して、儲けることができればいいのである。
 宣教師たちには布教という最大の目的があり、同時に日本と関わりを持ったポルトガル商人たちは「金儲け」という目的があった。それぞれの目的が異なったために利害が対立したのは、これまで述べた通りである。したがって、宣教師の残した記録には、やや弁解じみているように感じてならない。
 余談ではあるが、当然ながら日本から連行された奴隷たちは、単なる一商品にしか過ぎなかった。その待遇は劣悪そのものであり、人間性を伴った配慮はなかった。奴隷は家畜と同等と言われているが、まさしくその通りなのである。
 日本人奴隷は航海中に死ぬことも珍しくなかった。病気になっても世話をされることもなく、そのまま死に至ったという。船底は太陽の光すら当たらず、仮に伝染病にでもなれば、もはや死を覚悟するほかはなかったであろう。
 次回は、海外に雄飛した日本人を取り上げることにしよう。
 主要参考文献
 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』柏書房(2014)
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性と愛の戦国史 (光文社知恵の森文庫)

人身売買・奴隷・拉致の日本史

🎑104)─1─日本のゲームを奪う中国企業。~No.220No.221 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
2019年2月2日 産経新聞「中国、マリオ動画を削除 無断使用の指摘後に
 中国の短文サイト「微博」の共産党中央政法委員会公式アカウントに投稿された、原作とそっくりな「スーパーマリオ」のキャラクターを使った動画(共同)
 中国の治安・司法部門を統括する共産党中央政法委員会の短文投稿サイトに掲載されていた任天堂の人気ゲーム「スーパーマリオ」シリーズのキャラクターを使った動画が、2日までに削除された。動画は法執行の取り組みをアピールする内容だったが、著作権者に無断で使用した可能性が指摘されていた。
 動画は同委員会の短文投稿サイト「微博」の公式アカウントに1月30日に投稿された。
 動画の冒頭には英語で「スーパーマリオ」と書かれたタイトルが登場し、原作と酷似したキャラクターや音楽が使われていた。
「マリオ」が腐敗官僚や知的財産権侵害を取り締まる場面が描かれ、法治の徹底をアピールしていたが、動画そのものに著作権侵害の疑いが指摘されていた。(共同)」


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🌏41)─1─明治維新の近代化とは、ロシアと戦争する国民国家と日本国民を急いで作る事であった。~No.126No.127No.128 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 明治維新による近代化とは、外国と友情を持って平和に交流する事ではなく、強力な武器で武装して外国と戦う軍事国家を作る事であった。
 日本を侵略してくる敵国とは、西の中華帝国(清国=中国)と北のロシア、そして反天皇反日本の共産主義勢力である。
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 江戸時代は過酷で非情なブラック社会であった。
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 西洋のマルクス主義共産主義階級闘争史観では、日本の歴史は説明できない。
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 江戸時代には、日本人・国民はいなかったし国家もなかった。
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 信じられている江戸時代は嘘とは言わないが、多くは大正時代から面白おかしく作られた物語である。
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 百姓や町人は、反日派敵日派外国勢力が侵略してきても日本を守る事なく逃げ出した。
 武士は、忠誠を誓った大名・主君のために領地に攻めて来た侵略軍と戦ったが、他藩に攻め込んでいる侵略軍を攻撃し救援には行かない。
 サムライも、金にならない戦争には参加しなかった。
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 落語などで語られる人情話・長屋話・廓話には、庶民の隠された実生活がある。
   ・   ・   ・  
 2018年5月号 新潮45「ニッポン全史
 第五回 『国民国家』の作り方
 明治政府は『国民国家』プロジェクト結果、『日本人』が誕生した。
 今年2018年は、ちょうど明治150周年にあたる。官邸のウェブサイトでは『明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要』と述べられ、様々な明治150年関連施策の実施が宣言されている。
 たとえば、毎年開かれている国民体育大会に無理に『明治150年記念』と冠したり、明治期に温泉地が発展したことを根拠に温泉PRをしたり、国がかなり無理して『明治150年』を盛り上げようとしていることがわかる。
 残念ながら、それほど持ち上がっているようには思えないが、日本政府が国を挙げて明治150年を祝おうとしていることは重要だ。なぜなら、2018年の日本国が、公式に1868年成立した大日本帝国と地続きにあると宣言しているようなものだからである。
 たとえば2010年には平安遷都1300年、2003年には江戸幕府開府400年のイベントがあったが、いずれも音頭を取ったのは中央政府ではなく地方自治体や民間企業だった。この数十年、自民党政権では伝統の重要政策とされてきたが、明治よりも古いはずの平安時代や江戸時代にはそこあでの関心はないあしい。それほどに明治維新は別格なのか。
 江戸後期はほぼ近代
 前号ではお伊勢参りを例に挙げたが、江戸時代の半ばともなれば、この国の庶民生活は相当程度の成熟を見せていた。
 わかりやすい例が、教育機関の増加だ。各藩が設置した藩校と呼ばれる公的教育機関に加えて、大衆教育施設である寺子屋が全国に普及した。文字通り寺院が開設することもあれば、地方の名家が経営することもあった。城下町には数百人規模の大型寺子屋も珍しくなかったという。
 戦争のない世では経済が発展する。経済活動が活性化すると、村や家も市場に組み込まれる。商品の出荷、田畑の売買や、金銭の貸借にも証文など書類が幅を利かせる。つまり、読み書きや計算ができないと大変な不利益を被ることになる。
 古代から、『文字の時代』は始まっていたが、それは一部のエリート層だけの話。多くの庶民は、文字を学ぶ必要性など感じなかっただろう。しかし、文字を知らないと損をするとなれば話は別だ。
 19世紀になるといよいよ教育熱は高まった。国の認可などは必要なかったため、寺子屋の正確な数はわからない。明治16年に文部省が実施した調査では1万1,237ということになっているが、調査漏れも多く、実態はこの数倍に及ぶと推定されている。とにかく、列島中に膨大な数の教育施設が生まれたのだ。
 人口100万人を超える巨大都市・江戸では、木版刷りの『私塾・寺子屋番付』が発行される有様だった。あまりにも多くの寺子屋が誕生したため、子どもをどこの寺子屋に入れるべきかというガイドが必要だったのだ。
 教育を受ける人が増えると、識字率が上がる。結果、読書という習慣も民衆に広がった。
 1696年発行の『増益書籍目録大全』という目録がある。当時、書籍市場に出回っていた本のカタログだが、そこには合計8,000点近いタイトルが収録されていた。それぞれの本の発行部数を500部としても、全国で400万部ほどの本が流通していた計算である。しかも発行部数が1万部を超えるベストセラーも現れ、江戸の『情報洪水』に対して書評本までが人気を博した。
 江戸幕府は、積極的に識字率を上げようとはしていなかったが、それを妨害しようともしなかった。18世紀のイギリスのエリートは、貧民が読み書きを学んだら、自分の境遇に不満を持ったり、治安を乱すのではないかと心配していたようだが、日本にはそれは当てはまらない。
 社会の成熟度を測るには、暴力に注目してみる方法もある。一般的に『暴力が少ない社会、死ぬ確率が少ない社会は、成熟した社会である』と言えるだろう。
 その意味で、江戸時代に一揆のスタイルがだいぶ洗練されたことは注目に値する。『一揆』というと、農民たちが武装蜂起し、権力者階級を攻撃するイメージが一般的だと思う。中世ならあり得ただろうが、江戸時代の百姓一揆はもっと平和的だ。
 {注、もちろん、一揆の例だけで江戸が暴力とは無縁の時代とはとても言えない。たとえば現代に比べると当然ながら治安は悪く、また刑罰も厳しかった。数え年で15歳未満の少年が追い剥ぎをしただけで、死罪になった例などもあった。詳しくは氏家幹人『子文書に見る江戸犯罪考』(祥伝社新書、2016年)}
 百姓一揆の目的は、年貢の軽減や悪徳代官の罷免などだが、いきなり一揆を起こすのではなく、まず訴状を作成し、合法的なロビーイングを繰り返した。
 それでもダメだった場合、彼らは違法行為である一揆に訴えたわけだが、それも多くの場合、暴力には頼らなかった。蓑笠、野良着に農具という『百姓ルック』に身を包み、領主の門前などへ集団で押しかけるだけで、基本的に武器は持たない。その意味で、現在でいうデモ行進に近かったのだろう。
 実際、江戸時代に起こった1,430件の百姓一揆を調査したところ、武器の使用や家屋への放火を伴ったものは、わずか1%程度だったという。
 食糧自給率100%の恐怖
 教育水準は上がり、読書人口が増え、一揆まで平和的になった江戸時代。中には『江戸時代、人々は〝和〟という連帯意識のなかで泰平の世を謳歌していた』とか『江戸時代はまったくの日本人の知恵と経験、感性で作り上げたもので、結果として日本の歴史の中で最も長く豊かで平和な社会を作り出した』という評価もある。
 ただし江戸時代が現代よりも素晴らしい時代だったかちうと、それも違う。
 確かに自由で血なまぐさい中世に比べれば、江戸が平和で安定した時代だったことは事実だろう。しかし『素晴らしい時代』の定義にもよるが、少なくとも江戸時代には幾度かの大飢饉が発生している。
 特に18世紀に起きた大飢饉では、全国に大量の餓死者が出ている。{注、『気候で読み解く日本の歴史』日本経済新聞出版社、2013年。1782年から1783年のエルニーニョ現象による冷夏に、1783年の浅間山噴火による日傘現象が重なり、全国で凶作が相次いだ。特に東北地方での米の収穫量は例年の1割から2割程度だったという}。1783年秋から翌年春までに、弘前藩だけで10万人以上、八戸藩でも約3万人が飢饉の影響で命を落としたという。
 当時の資料には、ひもじさゆえに自分の指を食べる幼児、墓地を掘り起こして死骸を食べた人、子どもを殺して食用にした母の話などが残されている。全国的にも100万人以上の人口減少を招いたと推測されていて、江戸時代最大の飢饉だった。
 もし現代で同じ気候条件が再現されても、大飢饉が発生することはないだろう。なぜなら、現代日本が食糧自給率の低い、食べ物を貿易に依存する国になっているからだ。
 戦争に備えて食糧自給率を上げようと主張する人がいる。しかし食糧自給率がほぼ100%の江戸時代は、天候不順に極めて脆弱な社会だった。同じ年、世界のどこかが豊作で、作物が余っていたとしても、それを輸入する手立てがなかったからだ。
 『食糧自給率100%』というと、非常にいいことのように期超えるが、実際は相互に依存し合った世界のほうが、よっぽどピンチに強いのである。{注、それは日本に限ったことではない。17世紀のフランスでは、不作が2年間続くと、人口の15%が死ぬ可能性があったという(スティーブン・ピンカー『人類は絶滅を逃れられるのか』ダイヤモンド社、2016年)。一方、江戸時代の飢饉は東北の凶作が大坂の米相場の高騰を招いており、その意味で市場の失敗の事例とも言える}。
 また、江戸時代がどれだけ持続可能性のある『エコな社会』だったのかも怪しい。列島では17世紀に新田開発が劇的に進行し、耕地面積が倍増し、人口も増加した。しかし18世紀になると、新たに開墾できる土地も減った上に、既存の耕地の存続すら危うくなってしまったのだ。
 それまでは土地が枯れたら、とりあえず別の場所で農業をして、1年か2年、土地を休ませておくということができた。しかし、土地不足となるとそうもいかない。さらに、肥料となる草を得るため、野山を改造した結果、土砂が流出して、田畑を荒廃させるというような事件も起こっていた。いまでいう『自然破壊』である。
 18世紀の日本は、明らかに『成長の限界』を迎えていた。事実、その100年間で列島の人口はほとんど増えていない。1721年に3,128万人だった人口は、1822年になっても3,191万人だった。ほぼ横ばいだ。
 {注、1600年の人口は1,227万人と推定されている。詳しくは鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫、2000年)}
 どのように人口増加はストップしたのか。歴史人口学者の鬼頭宏は、都市が『人口調整装置』の『蟻地獄』であった説明する。
 要は、土地を増やせないので、農村では長男にしか家を継がせない。次男以下は、都市へ働きに出ることになる。しかし当時の都市は非常に危険な場所だった。治安という意味でもそうだし、コレラやインフルエンザなどの感染症も定期的に大流行した。健康保険も失業保険もないから、身体を壊して命を落とすというケースも多かっただろう。都市へ奉公に出た若者のうち、実に4割が奉公の終わる前に死んでいたというデータもある。
 農村で増えすぎた人口が、都市という『蟻地獄』に吸収された結果、日本の人口は均衡状態を保っていたのだ。中々そのような時代に生まれたいとは思わない。
 江戸時代に『日本人』はいなかった
 さて、いよいよ明治維新である。この連載、時代的にはついに『西郷どん』まで追いついてしまった。
 なぜ江戸幕府が終わって、明治時代がはじまったのか?『ペリーが開国を迫ったから』『江戸幕府の耐用年数が切れたから』『幕府に対する下層エリートの不満が爆発したから』といってように、様々な答えがあり得るだろう。
 しかしこの問いは本質的ではない。
 重要なのは日本が、西洋で生まれた『国民国家』というシステムを採用したことにある。言い換えれば、仮に江戸幕府が現代まで存続していたとしても、どこかで『国民国家』に近い仕組みを採用していけば、2018年現在、この国の姿や、人々の日常生活はそれほど変わりがなかったかと思う。
 もちろん、『国民国家』を採用する以外の近代化の方法もあったはずだが、その場合、日本の発展はより緩やかだっただろう。
 その『国民国家』とは何なのか。日本の研究書でよく参照される定義を見てみよう。
 『国民国家とは、国境線に区切られた一定の領域から成る、主権を備えた国家で、その中に住む人々(国民)が、国民一体性の意識(国民的アイデンティティ)を共有している国家のことをいう』(注、木畑洋一『世界史の構造と国民国家歴史学研究会編『国民国家を問う』青木書店、1994年……)
 持って回った言い回しだが、現代日本や、多くの先進国は程度差こそあれ、この『国民国家』に当てはまる。逆に『国民国家』という概念がわかりにくいとすれば、それが僕たちにとって、あまりにも当たり前のものになってしまったからだ。
 たとえば、次のような考え方をする『国民』によって成立するのが『国民国家』だ。
 『日本で、日本人の親から生まれたら、日本人。日本人は日本語を話し、オリンピックではもちろん日本人選手を応援する。海外から成田空港や羽田空港に着くと日本に帰ってきたと感じる、万が一戦争が起こったら、日本に味方する』
 何て当たり前の発想なのだと思われるかもしれない。しかし、この考え方は江代時代には極めて特殊だった。
 明治になるまでの日本は、普通『国民国家』とは呼ばれない。なぜなら、江戸時代には『国民』、つまり『日本人』はいなかったからだ。
 もちろん列島に3,000万人以上の人間は住んでいた。エリート層はもちろん、庶民も何となく自分たちが住む列島の形を想像し、それが『日本』という名前だということくらいは知っていただろう。また読書という習慣が普及していたということは、少なくとも書き言葉の上では、日本語共同体が存在したことを意味する。
 だが彼らは現代の『日本人』とは少し違う意識を持っていたはずだ。
 江戸時代、庶民は『村』か『町』に所属し、その藩主の支配を受けていた。
 {注、江戸時代の基本的な構成単位は村と町である。村と町は、石高1万石以上の所領を持つ大名、それ以下の所領を持つ旗本、幕府など領主の支配下にあった。しかし現代の都道府県制のように、機械的な境界線で帰属する『県』が決まるのではない。領主が急に変更さえることもあり、1人の領主がモザイク状に複数の村や町を支配することも当たり前だった。(松沢裕作『町村合併から生まれた日本近代』講談社選書メチエ、2013年)}
 自分たちの納税先という点で『藩』の名前は知っていたはずだし、その『藩』に愛着を持つ人もいただろう。しかし彼らが『日本人』というアイデンティティをどこまで持っていたかは怪しい。
 たとえば、幕末に欧米連合艦隊長州藩の間で起こった下関戦争では、農民や町人が戦争に協力することはなかったという。彼らは協力どころか、『非常に迷惑をしました』と『被害者』として文句まで言っている。戦争はあくまでも『自分たちのもの』ではなかった。
 対外戦争ではなかったが、戊辰戦争では会津城下の商人、職人など各地の民衆がさっと戦場から逃げ出したという。どうやら日本という国どころか、『藩』に対してもそれほどの愛着を持っていない人も多かったようだ。
 20世紀半ばに起こったアジア太平洋戦争で、多くの若者たちが『日本のため』という遺書を残して死んでいったことと比べると、あまりにも対照的だ。下関戦争からアジア太平洋戦争までの間には1世紀もない。この秘密を解く鍵が『国民国家』なのだ。
 『国民国家』という人類の大発見
 現代日本に住む日本国籍保有者の多くは、自分が『日本人』であることを疑わない。そして実際、ある程度は共通の能力や思考を持っている傾向にある。おそらく『日本人』は、日本以外に住む人々と比べて、日本語が上手に話せ、衛生観念が高く、……といった人物に対する造詣が深い。
 国境内に住む人間を、ある一定のスペックに育成しようとしてきたのが、『国民国家』というプロジェクトの要である。
 寺子屋の話をしたが、教育に例に出すのがわかりやすいだろう。いくら日本中に寺子屋があったとはいえ、共通カリキュラムはなかった。また義務教育ではないから、地域や身分によって教育レベルは大きく違った。
 明治時代に実施された調査では、地域、身分、性別によって識字率に大きな差があったことがわかっている。たとえば1884年の鹿児島県では自分の名前を書けない人が約8割にものぼったが同じ年に滋賀県でその割合は3割を切っている。特に女性の識字率は低く、鹿児島県では96%の女性が自分の名前を書けなかった。
 6歳以上の男女に対する義務教育が開始されたのは1872年だが、それから10年以上が立っても、全く読み書きのできない人が多く存在したことを意味する。江戸時代の非識字率はより高かったはずだ。識字率は、2割程度だったいと推計もある。
 そこで明治政府は『日本人』を生み出すために、全国一斉義務教育を開始した。もちろん善意でそうしたわけではない。『日本人』を生み出す切迫した事情があったのだ。いわゆる富国強兵である。
 馬より早い乗り物がなかった時代
 明治日本の最大のミッションは、経済力をつけ、戦争に強い国家を作ることにあった。当時の世界情勢は中々緊迫したものだったからだ。少なくとも明治政府の言い分はそうだった。東アジアに限っても、清国(中国)がイギリスとのアヘン戦争に負け、不平等条約を結ばされている。列島の北に目を向ければロシアが南下政策を進めていた。実際、欧米の列強に、アジアやアフリカが続々と支配されつつあった。
 明治政府は、国力を増強しないと、日本が植民地化されるという恐怖を煽った。
 もっとも、本当に当時の日本に他国から侵略される危険性があったかは専門家の間でも評価がわかれている。清国もアヘン戦争に負けたが、それで王朝がつぶれたわけではない。
 しかし江戸幕府が継続していたとしても、結果的に社会は大きな変化を迫られていたと思う。なぜなら19世紀は、技術革新という意味で、世界が劇的に変化した時代だったからだ。
 たとえば19世紀初頭、世界には馬よりも早く地上を走る乗り物は存在しなかった。人間も、工業製品も、手紙や情報でさえも、馬より早く移動することができなかった。{注、地上に限らなければ、伝書鳩や旗振り通信。腕木式通信による情報伝達は存在した。日本で旗振り通信が開始されたのは1743年。大阪から広島まで27分で通信されたという}。
 しかし1837年に電信技術が発明され、情報のやり取りが瞬時に行えるようになる。1858年には大西洋横断海底ケーブルが敷設され、アメリカとヨーロッパの間でメッセージが送られるまでになった。海底ケーブルの設置は進み、世界は『19世紀版インターネット』によって一つになりつつあった。
 同時期には、蒸気船の輸送量が増大し、鉄道網も整備されていった。かつてないほど世界が小さくなったのだ。そんな時代にいつまでも『鎖国』を続けることは現実的ではない。どうしても海外の情報や、プロダクトが国内に入ってきてしまうからだ。
 もっとも江戸時代にあっても、西洋文化は着々と流入していた。1788年発行の『女郎買之糠味噌汁』という洒落本では、深川の遊郭で遊ぶ客同士のこんな会話が出てくる。

 『わっちゃあフロウよりウエインがいい』
 『わっちゃあロード・ゲシクトになりやしたらうね。ゴロウトにせつなうござんす。もうウエインは止めにして、ちっとヒスクでも荒らしゃそう』

 『フロウ』は『女』、『ウエイン』は『ワイン』、『ロード・ゲシクト』は『顔が赤い』、『ゴロウト』は『大いに』、『ヒスク』は『魚』という意味で、全てオランダ語だ。洒落本だから誇張はあるとしても、ルー大柴もびっくりなレベルで外国語を使っていた江戸人がいたとしても不思議ではない。
 だから、明治になって一気に日本が『開国』したというよりも、19世紀に発生した技術革新の波に日本も取り込まれたという表現のほうが正しいのだろう。
 戦争に強い国を作ろう
 実は、日本が戦争に強い国を作ろうとしたのはこれが初めてではない。
 まだ『日本』という国号さえ存在しなかった7世紀、白村江の戦いで手痛い敗戦を経験した大和朝廷は、軍事大国を作ろうとした。そのために戸籍や徴兵制を導入したり、明治日本と類似した政策を試みている。
 しかもどちらも、日本が現実的に侵略される脅威に加えて、その脅威を権力者が利用したことまで含めてそっくりだ。現代でも政治家が『北朝鮮の脅威』をことさら語りたがるのは、それが国をまとめる方法として効果的だからだろう。
 だが古代日本は、理想半ばで崩壊してしまった。やはり電気も鉄道もない時代に、中央集権国家w維持するのは困難だったのだろう。
 一方の明治日本には西洋の最新技術という強力な武器があった。電話や電信を使えば列島中に瞬時に情報を伝達することができたし、鉄道や車のおかげで列島の体感的面積は非常に小さくなった。
 こうして日本を戦争に強い『国民国家』にするためのプロジェクトが始まったのである。最大の障害は、身分差と地域差だった。当時、福澤諭吉は『学問のススメ』の中でこんな主張を残している。
 人口100万人の国があり、知者が1,000人だけで、残りが無知の小民だった場合、国内の支配だけ考えればそれでもいいだろう。しかし、いざ戦争となったら、小民は逃げ出してしまうだろう。名目上は100万人の国でも、1,000人しか戦わない国では独立もままならない。
 この日本『国民国家』化計画は果たして成功したのか。ある意味で大成功し、ある意味で大失敗した。」
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 江戸時代。大飢饉が発生しておびただしい餓死者や病死者が出ても、誰も助けてくれない自己責任・自力救済であった。
 つまり、誰も助けてはくれない、それどころか油断すると食べ物や衣服まで盗まれてしまう、血も涙もない酷い社会である。
 それ故に、百姓・町人は留まっていると死ぬかも知れないと思ったら、自由に家や田畑を捨てて食べ物があって助かりそうな町や地域へと逃げ出した
 離散は珍しい話ではなく、何時の時代でも、如何なる地域でも起きていた。
 百姓・町人は、一生懸命であって一所懸命ではなく、土地や田畑には愛着はなかった。
 災害被災者は、非人・エタ・河原乞食・無宿者=浮浪者などが住む町の部落・貧民窟に流れ込んだ。
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 日本には、西洋のような困窮者・被災者・難民・弱者を進んで救済するキリスト教の教会・修道院・病院がなかった。
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 百姓・町人が剣術を習ったのは、武士・サムライに憧れたのではなく、いつ何時襲われるか分からない物騒な社会であるがゆえに自分の身や家族や財産を守る為であった。
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 土地にしがみついて一所懸命であったのは武士であった。
 武士は、主君の許可なく他藩へ逃げると脱藩として処刑された。
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 百姓・町人は、合戦が起きれば領主を見捨て家や田畑を捨てて逃げ出し、合戦が終わればハイエナやハゲタカのように戦場に転がっている死体の身包みを剥ぎ取り落ち武者を襲撃し褒美を貰い、新しく領主となった大名に媚びへつらった。
 大名にとって、百姓・町人など領民は信用ならない存在であった。
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 百姓・町人にとって、領主が誰であれ関係なかった。
 真っ当な日本人は、我が身大事として、命を危うくする愛国心はもちろん郷土愛も祖国愛も、さらにはムラ意識すら持ってはいなかった。
 その好例が、戦後のGHQやマッカーサーの支配に対する抵抗運動が起きなかった事である。
 百姓・町人にとって、自分を支配する領主が日本人でなくても構わないのである。
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 日本人にとって、国民や民族といった団結や一丸となる共通認識は上っ面だけの事で内実は希薄である。
 いざとなったら、「我が身可愛さ」から他人など助けず自分一人で逃げ出した。
 その傾向が強いのが、現代日本共産主義者マルクス主義者)や反天皇反日的日本人である。
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 相互扶助の日本人の美徳とは、生まれ持った特性ではなく意図的恣意的に作られたものである。
 日本人の特性は、弱者を見ても「見て見ぬふりして、我関せず」を決め込む薄情さである。
 それ故に、西洋的なボランティアは日本にはない。
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 大名は自分の領地の民百姓は助けても、同じように苦しんでいる隣の大名の領民は助けず見捨てた。
 江戸時代は、中央集権国家ではなく、諸藩連合国家であった。
 自藩は自藩、他藩は他藩で、自藩がよければ他藩などうなっても構わなかった。
 江戸時代とは、恐ろしい時代であった。
 もし、ロシアが南下して日本を侵略した時、諸藩が幕府の命令で一丸となって戦ったかは甚だ疑問である。
 ムガル帝国の滅亡とマハーラージャ(藩王国)の存続が、好例である。
 そして、ビルマ王国も滅亡した。
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 百姓・町人は、ロシアや清国(中国)が侵略してきても戦わず逃げだし、アメリカ人やイギリス人さらには朝鮮人が新たな領主となっても受け入れた。
 それが、日本人の本性である。
 戦後教育は、明治の国民教育を臣民教育と否定し、江戸時代までの「戦って守らずに逃げ出す百姓・町人」に日本人を先祖返りさせる事である。
 その象徴が、第九条の日本国憲法精神である。
 外国軍が侵略してきても武器を取って抵抗せず、友人として歓迎し一緒に酒を飲んで談笑し、外国人を新たな支配者として受け入れ一緒に生活する、という絶対平和主義である。
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 日本は、中華儒教科挙制度でなかった為に、庶民が大金を出して勉強しても官吏に登用される事もなければ出世・昇給に役立たなかった。
 江戸時代に人材として重視されたのは、儒教の教養や学識ではなく武士としての家柄・身分であった。
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 武士は、主君(将軍や大名)の命令に背いて失態を演じたり不覚を取るなどで体面を汚すと、言い訳無用で処断され、運が良ければ家禄没収の上で追放、運が悪いと切腹を命じられ家族は領外に追放された。
 武士は、隠居(引退)するまで何時如何なる時でも「死」を覚悟して生きていた。
 現役で働き続ける限り切腹を覚悟しなければならないという発狂したいほどの重圧から、武士の生活は自堕落で荒れていた。
 同じ支配階級といっても、日本の武士は、中国の士大夫・読書人や朝鮮の官吏・両班さらには西洋の王侯貴族・騎士とは違っていた。
 上流階級の使命といっても、武士が持っている使命と士大夫・両班・騎士などが持っている使命とは根本的に違うのである。
 命を大事にする真面な感情や常識的な思考があれば、何時理不尽な上意(主君の命)で切腹させられ家族を路頭に惑わせるような武士になりたいとは思わなかった。
 つまり、生きたければ武士にならない事であった。
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 藩財政が赤字となっり財政再建の為に質素倹約令が出されるや、1600年代に定められた家禄・俸禄が強制的に削減された。
 ただでさえ貧困生活を強いられていた下級武士は、身分が低い百姓や町人に頭を下げて仕事を分けて貰い、家族総出で内職・副業で僅かな金を稼いで糊口のしのいでいた。
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 武士が何故人気があるのか、確実に死ななければならないという定めに甘美な魅惑に取り憑かれた日本的な「滅びの美学」があるからである。
 故に、武士は総人口の5%前後で増える事はなかった。
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 日本で、西洋や中華(中国・朝鮮)のようにキリスト教や反宗教無神論マルクス主義共産主義)が支持され広がらなかったのは、この為である。
 西洋のキリスト教価値観及びマルクス主義価値観や中華の儒教価値観などの世界的常識では、日本は理解できない。
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 西洋には、日本を植民地にし、日本人を奴隷にする意思はなかった。
 西洋の「大いなる使命」は、汚れた日本の大地を絶対神の恩寵で祝福し清め、日本国に絶対神の福音・絶対神のみ言葉で神の王国を築き、日本人を絶対神の隣人愛でキリスト教徒に改宗させ、日本列島に絶対神に捧げる事であった。
 それは善意であって侵略ではなかった。
 西洋は、日本に行った行為すべてにおいて「善意であった。日本人のためだった」と確信し「悪事を働いた。日本人に悪い事をした」と思ってはいない。
 それが、「西洋の正義」の源泉である。
 西洋のお節介が、日本に良い面をもたらし日本を発展・進歩させた事は事実である。
 進歩・進化史観において、古い時代・古い文明・古い文化を破壊し新しい時代・新しい文明・新しい文化を創造し発展させ定着させる為には、「必要な犠牲」が伴うたれている。
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 日本には、西洋・世界の支配階級・上流階級・富裕層が持っている「ノブレス・オブリージュ(富裕層の義務)」は無い、というより無縁であった。


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国民国家と憲法

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