🌏44)─2─世界史から見て明治維新は血の革命ではなく流血が少ない変革であった。~No.147No.148no.149 @ ⑩

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2018年4月号 中央公論「誤解だらけの明治維新
 世界史 
 鼎談 世界は明治維新をどう見ていたか
 アジアの異端児ニッポンの不思議な〝革命〟  君塚直隆×岡本隆司×飯田洋介
 18世紀の世界情勢を見る
 岡本 明治維新は19世紀の後半の話ですが、それを考えるためには、少し前の時代から見ていかなければいけないのではないか、と私は考えています。例えば、18世紀末から19世紀初めのヨーロッパではナポレオン戦争があって、ウィーン体制でその後の国際政治の枠組みが定まってきます。日本を含めた東アジアでも、18世紀までと19世紀とは大きく異なってきており、明治維新はその一連の動きの帰納という面があります。
 君塚 アメリカの軍事史のシミュレーションによれば、1570〜80年代の織田信長軍がそのままヨーロッパにワープしたら、数年でヨーロッパを制覇していたのではないかと言われているそうです。つまり1575年の長篠の戦いというのは当時としてはもすごく画期的だった。ヨーロッパであれに近い戦い方をするようになったのは、約60年後の30年戦争のグスタフ2世アドルフの時代ではないかと。
 それと並ぶように中国も強かった。17世紀になれば清も登場する。清、オスマン帝国ペルシャムガール帝国などの巨大なアジアの国ほうが、よほど文明的にも軍事的にも進んでいたけれど、これが逆転していくわけです。結局、俗に『長い18世紀』と呼ばれる。1688年のルイ14世の野望の戦争から1815年にナポレオン戦争が終わるまでの130年くらいの間、ヨーロッパは、同じような力のもの同士で戦う弱肉強食の世界でした。それに比べるとアジアは巨大な帝国ばかりで安定していたので、力の拮抗した相手と戦わなくなっていく。そうすると強かったチャンピオンもどんどん力が衰えていってしまうので。ヨーロッパで『長い18世紀』が終わったあとの幕末に、当時のヨーロッパに比べたら田舎国だったアメリカのペリーが黒船でやってきただけで、日本はびびってしまう。だいたい、あのとき来たのがイギリス海軍じゃなくてよかったですよ。イギリス海軍の軍艦がきたら植民地化される可能性もあったかもしれないと思います。
 飯田 いわゆる『長い18世紀』のドイツは、30年戦争によって神聖ローマ帝国の枠組みは残るものの、実質的な国家主権が認められた諸邦が数多く分立している状態でした。そしてルイ14世に端を発する一連の戦争、オーストリア継承戦争七年戦争に見られるように、常に戦争の連続でした。そのため、アジア進出では、個人レベルは別として英仏に比べてどうしても後れを取ってしまうのです。ちなみに、その中で台頭し、ヨーロッパの大国の仲間入りをしたのがプロイセンでした。
 転機となったのが、フランス革命ナポレオン戦争でした。革命の影響を受け、ナポレオンによる占領を経験して、中央ヨーロッパではナショナリズムが覚醒・高揚し、ドイツでは統一を求める機運が生じるのです。ナポレオン戦争後にウィーン体制が成立すると、ナショナリズム運動は弾圧されますが、ヨーロッパでは(約40年ほどでしたが)平和の時代がようやく到来したのです。
 民間と権力の一体化
 岡本 きみさんは『衰えたチャンピオン』とおっしゃっていましたが、アジアでは平和を保っている地域が大多数でした。インドも中東も、中国を始めとする東アジアも。小競り合いはありますが、安穏と暮らしているのが普通だったのです。日本も『鎖国』をしていましたし。
 ヨーロッパのように、内部でゴチャゴチャやって『進歩』ばっかりしているのがむしろおかしい。でもそのおかしい人たちが突出して強くなってしまったためにその方向に世界が変わっていきます。
 だから、アジア諸国からすれば、ヨーロッパはなんて変なやつらなんだ、我々のほうがむしろ正しい、と。
 それなのに、黒船がきたら上下あげてびっくりして『俺たちもこうならねば』と思った日本人は、もっとおかしい。明治維新は日本史、世界史的に言うと順当なコースですが、アジア史から見るとおかしい。そこに歴史認識のズレがあるのです。
 そもそも、民間と権力が一体化になる構造というのはアジア諸国にはないんですね。権力は上から降ってくるもので、民間はその権力からいかに身を守るか、という考え方。中国人って中国共産党の言うこと聴かないでしょう。あれが中国です。インドもそうですよね。
 君塚 インドは完全な分権です。1877年までインド帝国というまとまった国はなかった。ムガール帝国と560ぐらいのマハラジャ、ラージがいた。1857年からの大反乱のあとイギリスが20年かけて外交で交渉して一つの国家にしたのです。
 岡本 例えば、日本の場合、16世紀の鉄砲やキリスト教の伝来、19世紀の開国にしても、国全体で影響を受けている。しかし、中国の場合それはないですね。ごく一部の民間で貿易している、宮廷も外国のものを取り入れますが、でもそれはバラバラに行われていることで、中国全体でとか、清王朝全体でということには決してならない。例えばアヘン戦争も、日本の明治維新のように上下ひっくり返るぐらいびっくりすることはない。辺境で起こっている貿易のトラブルに過ぎない。
 君塚 アヘン戦争は、よくイギリスと清王朝の戦争だと言われますが、これは誤解です。イギリスにとってみれば、アヘン戦争はイギリスの東インド会社対清軍の戦いなんです。だから国はバックアップするけれど、正規の陸海軍ではありません。東インド会社は、今で言う三井物産とか三菱商事伊藤忠のような商社に軍隊と官僚のような人がいて、半分国家みたいな存在だった。その会社が、インド統治を政府から委任されていたわけです。統治は会社にやらせて、手に負えなくなったら政府が出てくる、と。インドの場合は、大反乱のあと20年かけてインド帝国を作る段階で、ようやくイギリス政府が表に出てきましたけれど。インドですらそうですから、さらに東の中国なんてイギリスから見たらもっと遠い。
 薩英戦争にしても、イギリスでは『鹿児島問題』という言い方をしていて、イギリス議会の議事録を見てもほんの数行で終わってしまう。
 飯田 国家同士の全面戦争じゃないですからね。
 君塚 そうです。藩の一つと戦っていただけですから。日本は、1853年から1868年の15年間に相当がんばって諸外国に追いつこうと新しい技術とか知識をすごい勢いで消化していきました。実は、日本にとってタイミングもよかった。まず、イギリス、フランス、ロシアによるクリミア戦争(1854〜56)がありました。少し説明すると、ロシアはずっと不凍港が欲しかった。だからオスマンが弱体化したこともあり、南下してバルカン半島に出てきた。これに困ったのが地中海に一大勢力を作ろうと出てきたナポレオン3世。それにインドへの道を阻止されたくないイギリスが乗っかった。
 飯田 プロイセンは、クリミア戦争では、どちらに味方するか意見がまとまらず、結局どっちつかずになってしまいました。
 君塚 それまで仲の良かったロシア、オーストリアプロイセンが仲間割れしてしまった契機の一つがクリミア戦争です。それを待っていたのがナポレオン3世で、その隙に東に進出していきます。
 また、この戦争ではイギリス軍の弱さが露呈しました。今までは『パックス・ブリタニカ』といって、イギリスがヨーロッパの平和を維持していると言われていたけれども、実はそうでもないと。ここから一挙に1859〜61年のイタリア統一戦争にはじまって、63年のポーランド反乱、64年のデンマーク戦争に繋がる。飯田さんのご専門のプロイセンは、66年に普墺戦争、70〜71年は普仏戦争。ヨーロッパがそういう状況だったため、日本にはかなり時間的余裕があったと思います。
 飯田 当時のドイツでは、確かにアジアに進出を求める声もありましたが、それ以上にこの時期においてはドイツを統一してネーションステートを作ることが最大の関心事でした。極東のことよりも、まず自分たちの国をまとめなければ、という気持ちのほうが強かったと思います。
 先ほど、イギリス東インド会社の話がありましたが、いくらそこに植民地経営を任せているといっても、何かあれば最後に出てくるのはイギリス本国です。フランスも同様。それに対してドイツは、まだ統一されていなかったこともあって、アジア進出や現地のドイツ人保護の問題で英仏のように動けませんでした。だからドイツ統一ドイツ帝国成立)後に今までの後れを取り戻そうと躍起になっていくのです。その歯車が世界政策の下でどんどんおかしな方向に行ってしまい、その行き着いた先が第一次世界大戦だったのです。
 日本は中国の〝ついで〟
 岡本 1850年代というと中国は内乱の時期。太平天国の乱が1851〜64年で、数千万人が死にましたからね。そういうものすごい反乱が起きていたときにクリミア戦争が終わってわっとヨーロッパ勢がやってきて、日本史で言うところの安政五ヵ国条約という通商条約を結ぶわけです。不平等条約という。しかし、この安政五ヵ国条約は、もともと中国に来た列強が、ちょっと日本にも足延ばしましょうか、と言って結んだ条約なんです。日本が結んだ条約だけを切り取って見るのはもってのほかです。
 飯田 プロイセンを始めドイツ諸邦にとっては対日と対中はワンセットでした。例えば1861年に日本と最初に通商条約を結び、その後に清朝中国やタイとも同様の条約を結びます。あれは一つのパッケージであり、日本、中国の順になったのはたまたまです。日本が特別ということではありません。そもそも、日本との提携にどのようなメリットがあつたのでしょうか。市場や資源を考慮すると、やはり狙いは中国ですよね。
 岡本 日本は〝ついで〟です。
 飯田 もし日本に重要性を見出すとしたら、地理的なものでしょうか。やってくる軍艦や商船が補給・修理できる港があるとか。
 岡本 ヨーロッパの国々は日本に圧倒的な武力を見せておいて、安政五ヵ国条約を結ばせた。それで60年代にヨーロッパが自分たちのことで忙しくなると、日本も中国もその間にヨーロッパとうまくつきあえる体勢──構えを整える。その構えを作るために、日本のほうは、本気でヨーロッパ化せんといかんというので、明治維新になってしまうのです。
 君塚 日本には外敵を退ける『攘夷』という考え方がありましたが、岡本さんは、中国には夷狄を撫でてあげる『撫夷(ぶい)』があると書いていらっしゃいますね。
 岡本 野蛮人というのは、禽獣と一緒ですからね。だから撫でてやったら喜ぶ。撫夷狄です。そうやって外夷をおとなしくさせるのです。
 君塚 中国は何千年も夷狄に対応してきましたからね。『撫夷』を知らない日本は攘夷が駄目だとわかったら開国にワーッと行ってしまった。
 岡本 中国の場合は、それだけ伸縮性があるというか、大きな社会なんです。日本のほうは余裕がないというか。たぶんそれは江戸時代からなんでしょうけど、非常にカチッとした制度。社会構成をいうものを作ってしまった。『鎖国』がひっくり返されて、外貨のレートがグチャグチャになって、ハイパーインフレーションが起こったのを見て、もう『幕府はお払い箱だ』となってしまう。
 その点、中国はみな好き勝手なことをやっていて、外国人とつき合っている人もいるし、つき合っていない人もいる。それで80年代までは問題なかった。ヨーロッパ各国から見て、本命の中国は動じなかったのに、ついでだった日本のほうが過剰反応した。それが明治維新の姿です。
 日本は、アジアが全然変わらないことに焦って台湾出兵とか琉球処分を起こし、中国と日本は戦うようになっていくわけです。つまり、ヨーロッパの規範を真似しているうちに本モノよりも厳格になってしまった・・・。エピゴーネルのほうが熱くなってしまうということはよくある。
 日本は強引に台湾出兵に行ったけれど、国際社会から見るとそれは突出していて、イギリス公使だったパークスも『台湾は中国のものだからゴチャゴチャ言うのはおかしい』と言っています。
 君塚 1870年代のグラッドストンとかグランヴィルの書簡などを見ていても、日本の中国や朝鮮に対する主張は行き過ぎじゃないかと書いていますね。
 岡本 日本はきちんとしたヨーロッパ化を達成したいので、隣国である朝鮮半島と大陸との関係も、きちんと国際法に沿って、ヨーロッパに見せても恥ずかしくないようなものにしたい。でも中国も朝鮮も寄ってこない。しかし、アジアでは彼らの方がスタンダードなんですよ。
 存在感を増したドイツの影響
 飯田 ドイツが明治維新におよぼした影響についてよく言われますけれど、あの時期、日本に影響を与えたのはドイツだけではありません。憲法にしてもそのまま取り入れたわけではありませんから、ドイツの影響だけを強調するのはどうかと思います。
 岡本 しかし、普仏戦争に勝利したことで、ドイツの存在がすごくクローズアップされてアジアに映ったのではないでしょうか。
 飯田 確かに、普仏戦争でフランスを破ってドイツ帝国を創建したのですから、大きな存在感を示したのは間違いないです。
 君塚 伊藤博文などの政治家たちは将来的にはイギリス流の立憲君主制政党政治を行いたいのだけれど、すぐには無理なので、とりあえず中間のプロイセン型がいいんじゃないかと考えていました。
 飯田 法制度もさることながら、ドイツの軍事技術には幕末から関心が高かったようです。幕府の留学生としてオランダに派遣されていた榎本武揚は、デンマーク戦争観戦後にドイツのクルップ社を訪問しています。
 岡本 中国も、役立つところはいいとこ取りしました。ドイツの軍需産業には注目していたようですね。
 飯田 清の軍艦『鎮遠』と『定遠』はドイツに発注したものですよね。当時、駐清ドイツ公使館に勤務していたシュテルンブルクという外交官の日清戦争に関する詳細な報告を読むと、この二隻をベタ褒めしています。こんなにいいものを追っているのになぜ負けたんだと。
 岡本 動かす人、ソフトの問題だと思います。
 飯田 確かに、ソフトを変えることが中国を改革する唯一の方法であると彼は述べていましたね。
 岡本 李鴻章はきちんと調べて当代一流のものを買っている。ただ、そういうものを動かすための教育とか制度の部分を変えていかないと。要するに中国には科挙の受験制度はあっても、教育システムはない。それで学校を遅ればせながら作るんですけど、間に合わなかった。
 勝海舟も書いていますが、中国は戦争をする国ではない。みんなで一丸となって戦うお国柄ではないと。システム的に。日本の明治維新はそこを目指し、成功するのですが、そもそもそれまでの日本のシステムが富国強兵に剥いていたんです。
 飯田 いっぽうで、日清・日露戦争を見て必要以上に恐れてしまったのがドイツです。黄色人種を警戒する『黄禍論』が登場します。
 岡本 中国で義和団の乱が起きてそこに火が付いてしまった。
  日英同盟前夜
 君塚 イギリスの日本への関心は、日英同盟までは薄いです。例えば日英同盟を結んだときのイギリスの首相はソールズベリー。そのハットフィールド・ハウスという屋敷に李鴻章が1896年に呼ばれて二人でたぶん長時間話し合っている。
 その翌年、1897年にヴィクトリア女王の在位60周年で、伊藤博文がイギリスに行く。慶賀なので世界中から代表団が来ているということもありますが、ソールズベリーが伊藤のために使った時間は3分です。ようやく伊藤がハットフィールドに呼ばれるのは、日英同盟を結ぶ直前なんです。
 岡本 イギリスにとってはロシアが重要なんですね。19世紀後半は、ロシアを止めてくれるのは中国だろうというのが常識でしたから、中国との関係のほうが重要だった。中国は日本に負けて馬脚を現しますけど、1880年代ぐらいまで、李鴻章たちががんばってロシアから少しだけ領土を取り返したりています。日清戦争で中国が負けたことでロシアが入ってきて三国干渉になってしまう。イギリスはそれを予想していたから、日清戦争も本当は止めさせたかったと思います。そのあたりからイギリスは、中国が頼りにならないから、と日本に関心が出てきたのではないでしょうか。
 飯田 イギリスが日本に本格的に目を向けるのは、ドイツがあてにならないと分かったからですよね。それまではロシアの動きを牽制する役割をドイツに期待していました。揚子江協定(1900年)まではそうでした。しかし、当時のドイツがどっちつかずの態度をとっていたために、見切りをつけられてしまいました。
 君塚 日露戦争が決定打ですね。日露戦争であれだけ善戦して。第二次日英同盟で、ようやく対等というか、ある程度対等ということになった。
 飯田 その時代になってくると、ドイツが中国市場にさらに乗り出そうとするのですが、この頃には、日本とイギリスとフランスとロシアが協商を結んで立ちはだかっていました。そのため、ドイツはアメリカ合衆国や中国に接近してそこに割り込もうとするのです。20世紀に入ると、そのような図式が東アジアに現れてきます。
 中国で採用された日本漢語
 岡本 中国は日清戦争でベールが剥がれて、実はバラバラだったのがモロ分かりになってしまう。国外から見たら中国分割というふうに捉えられますし、国内でも俺たちバラバラにされるという危機感が出てきますが、客観的に見たらそんなに変わっていなくて、そこが中国の分かりにくいところでもあるんですけど。
 ただ、日本が株を上げたのは中国人から見ても明らかなので、中国でも『日本モデル』というものができはじめ、それが中国革命に繋がっていきます。そもそも、中国人がヨーロッパの文物を取り入れるのは難しい。その点で、日本の実績と翻訳は中国にものすごく寄与しています。中国人にしてみるとイギリスの立憲制を英語で読んでも分からないけど、立憲制とか憲法の書籍を日本語の漢語で読めば分かる。大日本帝国憲法をそのまま写して憲法大綱を作りますからね。今でも中国の社会科学の用語の多くが日本漢字由来。そもそも『中華人民共和国』という国名のうち『共和国』『人民』が日本語ですからね。
 飯田 中国では、太平天国の乱がかなり長期化しますね。それが中国の相対的な力をダウンさせたのと同時に、諸外国にはいろいろなチャンスに見えたのではないかと思うのです。日本の場合、幕末の動乱や戊辰戦争は外国から見たときにそういうチャンスだったのではないでしょうか。しかし戊辰戦争は意外と早く終わってしまった。最新の研究によれば、当時日本に駐在していたブラントというプロイセンの外交官は、もっと戊辰戦争は長引くだろう、そうすれば会津・庄内両藩からの売却の申し出を受けて蝦夷地を植民地を植民拠点として確保できるだろうと(ビスマルクの思惑とは関係なく)見込んでいたようです。
 岡本 この鼎談は海外から明治維新がどう見ているかがテーマでしたが、その答えは、重要ではなく、ほとんど『吹けば飛ぶよな』ものだったということでしょうね。
 飯塚 明治維新を『革命』と呼ぶ人もいますが、果たしてそれでいいのでしょうか。定義が必要です。
 岡本 昔はMeiji Restorationと言っていましたね。王政復古ですから。
 飯田 今日はお話を伺っていて思ったのは、ヨーロッパにはヨーロッパの論理があって、中国には中国の論理があって、この二つがぶつかったとき、どちらがまかり通るのかということです。日本は両者をはかりにかけたときに、ヨーロッパのほうがインパクトが強かったからそちらに行こうとしたということになるのでしょう。
 岡本 結局、中国には中国の体制があり、論理があり、日本には日本の体制があり、論理がある。そして、その内法(うちのり)から両方とも外れていない。内法に合わせて日本は西洋化したけれど、内法にそって中国は西洋化しなかったという話だと思います」
   ・   ・   ・   
 日本の伝統的外交政策は、対等関係を求める「攘夷と開国」である。
 中華の儒教外交政策は、上下関係を明らかにする「撫夷(ぶい)」であるがゆえに、上から目線の微笑み外交となる。
   ・   ・   ・  
 日本が明治維新を行い近代化できたのは、政教分離を行い信仰の自由を認めた上で、天皇制度を岩盤とした中央集権国家を建設したからである。
   ・   ・   ・   
 何故、日本の近代化に協力したドイツ国防軍が、日本と戦う中国(清国、ファシスト中国)に軍事顧問団を派遣したのか?
 何故、ドイツの保守派や軍需産業死の商人)や金融資本が、日本と戦うファシスト中国軍に軍事力強化に積極的に協力したのか?
 何故、ヒットラーナチス党が親中国反日派となったのか?
 何故、欧米世界に親中国反日派が多いのか?
 何故、中国の利益の為に日本の不利益に行動する人々が多いのか?
 何故、国際世論が反日親中国になりやすいのか?
 ドイツは、ビスマルク亡き後のドイツ帝国ヒトラー率いるナチス・ドイツの頃から反日強硬派であった。
 日本が戦った外国勢力の背後には、ドイツ、ナチス・ドイツがいた。
 何故、欧米諸国が親中国反日派に成りやすいかというと、人口によって巨大市場に成長する可能性があるというより、西洋の価値観で中国は理解しやすいが日本は理解しづらい点にある。
 イギリスは、表面的に日本との友好関係を演じていたが、裏では日本と戦うファシスト中国に大量の武器弾薬を売って巨万の富を得ていた。
 反日強硬派のルーズベルトは、中立国を装いながら、巨額の軍事費をファシスト中国に提供し、戦闘機や爆撃機などの軍用機を売り、正規兵士を退役兵士と偽って日中戦争に参加させていた。
 西洋世界で、全ての時代を通じて、日本が中国に比べて嫌われるのはそのためである。
 「日本が世界で愛されている、信頼されている」とは、幻想である。
   ・   ・   ・   
 中国・中国共産党が、日本の優位性を否定し、日本を併呑して領土に組み込むか、それが出来なければせめて保護国・属国としたいという強い願望を抱くのは、日本製漢語が社会の隅々まで蔓延しているからである。
 神聖な漢字文化の唯一の保護者を自任する中国にとって、明るい未来を切り開く近代学実用語の多くが日本の造語・新語である事が癪に障ってならないのである。
 日本が地球上から消滅すれば、日本製漢語は晴れて中国語の一部となる。
 それを望む反天皇反日的日本人が存在する。
 韓国・北朝鮮は、日本製漢語を消し去る為に文字をハングルに統一して漢字の使用を止めた。

   ・   ・   ・   

立憲君主制の現在: 日本人は「象徴天皇」を維持できるか (新潮選書)

立憲君主制の現在: 日本人は「象徴天皇」を維持できるか (新潮選書)

  • 作者:君塚 直隆
  • 発売日: 2018/02/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

🌏11)─1─消された公議輿論派の明治維新。松平春嶽・横井小楠らの積極型開国論。~No.35 @ 

維新史再考―公議・王政から集権・脱身分化へ (NHKブックス No.1248)

維新史再考―公議・王政から集権・脱身分化へ (NHKブックス No.1248)

  • 作者:三谷 博
  • 発売日: 2017/12/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本を救ったのは、民族固有の伝統・文化・宗教の天皇制度であった。
   ・   ・   ・   
 歴史は繰り返されるのか?
   ・   ・   ・   
 勝者が歴史を書くのは、何時の時代でも、如何なる国においても、同じ事である。
 日本だけが例外ではない。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、民族宗教から死体と血を穢れとして嫌い、いがみ合って争う事嫌い、意味のない血を流す事を嫌った。
   ・   ・   ・   
 日本は、古代から、周辺諸国反日派敵日派で、親日派知日派は存在しなかった。
 中華(中国・朝鮮)世界との友好関係などはなかった。
 周辺諸国親日派知日派とは、中華帝国(中国)に滅ぼされた百済高句麗・古代新羅渤海などであった。
 日本にとって中華(中国・朝鮮)とは、敵もしくは仮想敵であった。
   ・   ・   ・   
 2018年4月号 中央公論「王政復古から150年 誤解だらけの明治維新
 政治
 対談 薩摩と長州だけが偉いのか 
 『佐幕』『勤王』の対立史観はもうやめよう  苅部直×三谷博
 ギャップの源はどこにあるのか
 三谷 昨秋、僕もメンバーの一人になっている高大連携歴史教育研究会が、日本史・世界史で大学入試に出す語彙を制限することを提案しました。そうしたら、『坂本龍馬が教科書から消える』と新聞報道されて大騒ぎになりました。
 苅部 歴史を冷静に眺めれば、龍馬なんて大きな政治運動の駒にすぎませんから、消して当然でしょう。みんな維新の志士が大好きですが、薩長土肥の志士が下から突き上げて王政復古お導いたという『維新』観がまず間違っている。
 三谷 その通りです。幕末に政治体制の改革を求めた最初のグループは下級武士などではなく、御三家の水戸や越前松平をはじめとする大大名たちです。幕府は老中から大大名を排除していたので、彼らは誇りと実力を持ちながら、発言権が与えられていなかった。
 苅部 一般に流布した歴史のイメージと、歴史学の常識とのあいだに大きなギャップがある。司馬遼太郎の小説に見えるような、俗流の『維新』史観が広く流布した始まりは、昭和初期の明治維新ブームでしょうね。昭和3(1928)年、明治維新60周年の年に、11月3日の明治天皇の誕生日が明治節として初めて大規模に祝われ、一週間後の昭和天皇の即位礼とあわせて、全国でイヴェントが続いている。高知の桂浜に坂本龍馬銅像が建ったのも同じ年です。
 三谷 子母沢寛の『新選組始末記』が刊行されたのも昭和3年ですね。維新の志士の敵役として新選組がクローズアップされました。その背景には、明治後期から政府による『維新史料』の編纂が進められていたことがあります。しかし、明治期は数多くの旧大名家にまだ発言権があって、正史を作れませんでした。ようやく正史『維新史』全5巻が刊行されたのは第二次世界大戦中のことですが、そのときですら、当時の執筆者たちは薩長の自慢話をいっぱい聞かされて辟易したらしい。この『維新史』を今、誰が参照しているか定かではありませんが、それでも僕たちの歴史観は影響を受けている。『維新史』に登場する藩の順は、水戸藩長州藩薩摩藩。でも、僕が『維新史再考』でも書いたように、幕末動乱の端緒といえば安政5年政変に長州は登場しません。それを吉田松陰の存在を理由に、薩摩より長州を先に持ってくる、この暴挙。こうして、現在の多くの人が信じ込んでいる枠組みができていったことがわかります。
 苅部 伊藤博文山県有朋は、昭和初期にはその功罪の記録がまだ生々しかったでしょうね。だじゃら早く死んでいる吉田松陰高杉晋作が持ち上げられた。
 三谷 吉田松陰なんて、幕府から見れば、田舎に怪しげな奴がいるから一応糾問しておくか、という程度の存在で、黙っていればいいのに、自分から間部詮勝暗殺計画を口にするから殺された。殺されてからすごい人ということになった。
 大きな誤解と言えば、時代を少し下りますが、慶応3(1867)年、幕末最後の年ですが、この頃の対抗関係が『佐幕』対『勤王』の二項対立で語られていて、これが大きな間違いです。実際には、大政奉還の後、王政復古を徳川中心で行こうという勢力と徳川排除で行こうという勢力の二つに分かれ、競争したのです。それに、『公武合体』とい言葉も誤解を招きやすくて、僕が昨年『維新史』全5巻を通読してわかったのは、尊王攘夷尊王倒幕グループ以外のあらゆる勢力を、すべて『公武合体』派と名づけていることです。構成の仕方が実にいい加減。
 苅部 徳川と朝廷との協力を否定する勢力などいませんからね。
 三谷 僕はこの時代の重要なスローガンがもう一つあるとしたら、『公武合体』ではなく、『公議輿論』『公議公論』だと思いますね。
 苅部 政治の政権中枢にいる少数の集団が専決するのではなく、より広い範囲の人々が加わり、議論して進めるべきだという考え方ですね。
 三谷 大大名の政権参加を求めるスローガンとして登場しますが、これはやがて明治の立憲君主制を経て、現在のリベラルデモクラシーにつながっていくのです。
 先駆者・橋本左内横井小楠
 苅部 先生は橋本左内の役割を以前から強調されていますね。
 三谷 僕が明治維新のイメージを作ったのは、岩波の日本思想体系で佐藤誠三郎先生が編纂された『幕末政治論集』です。佐藤先生のフレームワークから出発して、自分なりに史料を読んでいったのですが、同じ思想大系に『渡辺崋山 高野長英 佐久間象山 横井小楠 橋本左内』という5人で十把一絡げの巻がある。この巻の橋本左内のところに掲載されている安政4年11月の村田氏寿宛ての手紙を読んだときはショックでした。これからの日本をこうしたい、という未来像が具体的に示されていたのです。将軍の跡継ぎを決め、水戸藩徳川斉昭福井藩松平慶永(春嶽)、鹿児島藩島津斉彬を国内事務宰相、佐賀藩鍋島直正を外国事務宰相にして、その補佐に旗本だけでなく日本全国から藩士・庶民を登用するなど、大名領国制のまま、身分を問わず、優秀な人材を抜擢し、集中することによって、政府の機能を飛躍的にアップさせる、と書いている。これは明治新政府が最初に統治機構について定めた『政体』第三条そのままです。誰も橋本左内が最初に考えたとは知らないわけですが。
 苅部 吉田松陰などよりもずっと先見の明がある。
 三谷 政界の中枢で、西郷隆盛と組んで一橋慶喜の将軍継嗣擁立工作を展開し、そのために安政の大獄で処刑されてしまった。こんな偉い人をどうして無視するのか。
 苅部 横井小楠は熊本の出身ですが、嘉永4年に各地を遊歴するあいだに大坂で、適塾に学んでいた橋本左内と会っています。そして安政5年、松平春嶽のブレーンになる。その直後に安政の大獄で処刑された左内と入れ替わりのような形です。小楠はその3年前に開国論に転じ、『公論』に基づく政治という理念のもとで、西洋の議会政治を高く評価し、日本への導入を論じるようになっていました。村田氏寿は小楠もまた親しく交流した人物で、小楠と左内のあいだに文通もありましたから、二人の議論の中の中で、広い範囲の『公論』に基づく政治のの構想がしだいに肉づけされ、それ以外の政治勢力にも広がったのではないでしょうか。
 三谷 横井は、世襲制を否定しなければならない、と書いていますね。これは幕末史ではまことに稀有の発言です。僕は松浦玲先生の『横井小楠』を三十数年ぶりに読み返して、松浦先生がすでにこれを指摘されていたことに気づいたのですが、君主の世襲を否定するということは天皇制の否定につながりかねない。
 苅部 小楠の漢詩にある『ああ血統論、是(これ)れ豈(あ)に天理の順ならんや』ですね。たしかにこれは世襲制に対する批判を述べたものです、人間の道徳能力が本来は平等だと説く朱子学の理想をつきつめた、小楠のラディカルをよく示しています。ただ、皇室制度を否定したかどうかは微妙でしょう。やがて新政府に参与として加わり、明治天皇の資質を礼賛する言葉を書簡に残していますから、天皇自身が世襲制に安住せず、立派な君主になろうと努力することを求めるという姿勢だったと思われます。
 三谷 なるほど、僕がつくづく不思議に思うのは、明治維新というのは、身分にかかわず人材を『引き上げる』ことに眼目があって、上を『引きずり下ろせ』ではないことです。同じ革命でも、フランス革命のような王制打倒といった動きをとらない。
 明治維新の中で真に重要な改革と言えば、僕は身分制の解体に尽きると思うのです。生まれた家によってライフコースが違ってしまうことを面白くないと感じた人は、潜在的にせよ、たくさんいたはずです。ただ、歴史家として困るのは、幕府がなくなるまで、そういうことを公に語った人がいない、あるいはそういう史料が残っていないということです。明治になってからなら、福澤諭吉の『門閥制度は親の敵』もそうですし、渋澤栄一回顧録で、農民の身として領主の代官に辱められ、それを機に倒幕運動を企てたと明かしています。でも、先ほどの横井小楠のように当時の史料としてそれが残っているのは非常に稀で、実証主義の立場から言えば、史料がない以上、身分制への不満があったとは断言できない。でも、どう見ても不満はあったに違いないと思うのです。少しさかのぼると、中国の科挙制度に関心を持っている人が少数ながらいたことがわかっています。寛政年間に朝鮮通信使が来て、京都の大きなお坊さんと会談したときの筆談記録が残っていて、その中でお坊さんが『科挙とは何ですか』と聞いている。有能を自負しながら地位に恵まれないと思っている人は、中国の制度のほうがいいと思ったに違いありません。
 苅部 福澤諭吉の『文明論之概略』も、明治維新をどう理解するかを大きなテーマにしていますね。我々は王政復古から廃藩置県まで、予定されたコースをたどったように考えてしまいますが、福澤はこの二つを連続したものと捉えていません。言い換えれば、尊王攘夷論が一連の政治変革の原因だったと考えていない。社会の上から下まで、身分制に対する不満が爆発寸前の状態になったところに『開国』問題が飛び込んできて、幕府が失態をさらすことで、そこに火がついた。そういう理解です。
 三谷 当時の武士たちは、子どもの頃からお上に楯突いてはいけないと教育されていたから、言いたくても言えない、ではなくて、言いたいということすら意識できなかったのでしょう。それくらい抑圧されていたところに外圧が来て、幸いにも上ではなく、横に爆発した。尊王も攘夷もいくら言っても構わなかったけれど、心の中にあったのは身分制の打破だったのではないか、そんな気がします。尊王は現実化しますが、そうならなかった攘夷は、実際には道具にすぎなくて、本当はどうでもよかっらんだと思う。本当『に』どうでもよかったと考えると、そこがまた大問題ですが。
 攘夷と開国
 苅部 『維新史再考』で、攘夷派だった長州の周布政之助も、実はいったん西洋と戦争したあとに開国すべきだと考えていたことを指摘されていますね。尊王攘夷のスローガンは、具体的に何をするのかわからないことで、かえってエネルギーを得たのかもしれません。
 三谷 イデオロギーとしての攘夷論は、水戸藩が源ですが、これには最初から開国への道筋がついていました。藤田東湖に『常陸帯(ひたちおび)』という回想録があります。書かれたのは1844年頃ですから、ペリー来航の10年ほど前になります。東湖はちょうど藩主斉昭の失脚にともなって幽閉・蟄居中でした。この回想録の中で、斉昭と我が藩の幹部は3種類の対外論を議論した、と。3種類とは、攘夷論と消極型の開国論と積極的の開国論です。斉昭も持論は攘夷論だったが、この3種類の中で一番良くないのが消極型の開国論で、外国とトラブルを起こすまいと、少しずつ譲歩する。これは臆病者の言いぐさであり、武士の風上にも置けない。これに対して、積極型の開国論、つまり日本から外国に船を出し、交易するのは本当は良いことだ。しかし、今の日本にはそれだけの力がない、だからまずは攘夷論だ。国力が高まったら、堂々と外国に出て行こう。水戸の攘夷論頭目がそう言っているのです。水戸藩の思想は、日本の武勇が世界中に知れ渡ることなのです。東湖の先輩・会沢正志斎は、日本をとにかく『必死の地』、戦場にすべきだと書いています。太平の世、ぬくぬくと生きていては駄目だ。ショック療法として、いったんは西洋と戦争をしなければ、日本は強くならない、と。
 苅部 そして強くなったあとで開国に持っていくのです。
 三谷 攘夷から開国への道筋は、トップリーダーたちのあいだで、あらかじめ考えられていた。長州藩が二度にわたって決行した攘夷戦争も同じ発想です。面白いのは文久3(1863)年5月の攻撃とほぼ同時に、伊藤博文井上馨がイギリス留学に出発していることで、矛盾しているようだけれど、後に備えて準備を始めていたわけです。
 苅部さんが『「維新革命」への道』で書かれたように、当時の大名たちは我々が思っている以上に、世界をよく見ている。たぶんあの時代は、みんな退屈していて、何か面白いことがないかと探していた。そうしたら日本の外で、歴史が動いていた。
 苅部 ヨーロッパ諸国の情勢も、『オランダ風説書』などで知っていますからね。アヘン戦争で中国が負けると、ああなってはまずいと真剣に論じている。
 三谷 ペリーが来たときのことを、よく『巨大な蒸気軍艦を怖れて』云々というでしょう。あれは嘘で、あんなちっぽけな船が何隻か来たって、怖れるわけがない。
 苅部 『太平の眠りを覚ます蒸気船』という、当時流布したとされる狂歌が有名ですが、それを詠んだ庶民にとってはたしかに驚きだったかもしれません。しかし公議の当局者はペリーが日本に向かっていることをすでに知っていて、対応を協議していました。もちろん長期的には、ペリー来航によって政局が動くことにはなりますが。
 三谷 当時の知識人も幕府の役人たちも、だからこそ、下手な戦はできないとわかっていた。でも、ここで興味深いことが一つあります。安政5年に老中・堀田正睦が対米条約の勅許を求めて京都へ行きます。これは失敗に終わるわけですが、このとき、勅許に反対していた岩倉具?が天皇に捧げた長大な意見書に、ここで戦争になっても日本は負けない、とあるのです。もちろん戦争になれば、あちこちが痛む。外国軍が日本に上陸して荒らし回るかもしれない。たとえそうなっても、外国は日本全体を支配することはできない。なぜなら、日本は大名の連合国家だから、一つ大名が負けても、他の大名が抵抗を続けられる。一カ所潰されてもそれで終わりにならない。楠木正成千早城のように戦争が長引くと、攻めている側が仲違いして、そのうちに引き上げるだろと。こういう理屈です。後にフランスやアメリカが朝鮮と江華島で戦ったとき、両国ともに戦闘では勝利を得ながら、結局引き上げましたから、岩倉の推論は確かなものでした。岩倉の場合は、こういった見通しがあって、条約反対とか攘夷とかを唱えたのだと思います。それを僕みたいに戦後教育を受けた人間は、ペリーをマッカーサーと同じだと捉えさせられてね。たまさか立ち寄った軍艦7、8隻と実際のオールマィティじゃ、比べようもないのですが。
 苅部 戦争をやっても大丈夫という自信は、日本が『武国』だという、徳川時代によく見られた自国意識に基づくでしょう。実際、東アジアで唯一の軍人政権でしたから。岩倉のような公家もそう考えているのが面白いですね。
 三谷 当時の侍たちは、負ける戦争はやりたくない。幕府としても、できるだけ争乱を避けたいと思っている。
 苅部 横井小楠安政2年に、中国の世界地理書『海国図志』を読んで西洋の政治・社会制度について知り、それを高く評価して開国論に転じました。しかし今のお話のように、最初から攘夷と開国を組み合わせて議論されていたのなら、その転換は当人たちにとって、それほど大きなものではなかったかもしれません。
 復古と進歩
 三谷 攘夷というスローガンと似ているのが復古という主張です。一方の側に振っておいて、いざとなったら逆に切り返す。これは革命のときには結構起きることで、攘夷と言っておいて開国、復古と言っておいて進歩。いったんは復古と言わないと人々が納得しない時代だったのだと思うます。理想の過去がかつてあったのだから、そこに戻ろう、というところに説得力があった。たとえば文久2年に幕府が軍制改革を行って西洋式の軍隊を作りますが、このときの将軍家茂の改革宣言は、江戸時代の初めに戻ろうというものでした。
 苅部 『王政復古』の号令も『神武創業の始め』に戻るというかけ声で、実質上は国家を一からやり直すという意味ですね。その改革の手段は西洋化でもありうる。
 三谷 理想の世といっても、神話的な世界を考えているわけではない。日本社会を具体的に西洋からの圧力に耐えられように変えていくために身分制を解体し、努力次第で誰もが偉くなれる世の中を作ろうとした。そのための道具は西洋から輸入したって一向に構わない。まあ、国学者たちは怒るでしょうが。でも、この復古が文字通り古代の制度に戻ることだとしたら大変で、神武創業がどんなものだったか、誰もわからない。イスラム圏のハディースのように具体的な規律があったら身動きがとれなかったでしょう。
 苅部 未来への進歩というスローガンは、改革のかけ声としての効果を、実は及ぼしにくいのかもしれませんね。未来はどうなるかわからないという常識が邪魔をしてしまうから。マルクス=エンゲルの『ドイツ・イデオロギー』でも、来たるべき共産主義社会の姿は妙に牧歌的です。『神武創業』のように、かつてあった状態への復帰を掲げたほうが、改革を強く正当化できるのかもしれません。
 三谷 昭和天皇も昭和21年の元旦に発表した詔書で、『五箇条御誓文』を引用しました。公論はGHQの押しつけではない、明治の初めから我々が行ってきた伝統なのだと。
 苅部 それで戦後の民主化の改革を納得した人も、少なくなかったでしょうね。
 注目すべきはどこか
 苅部 2018年に明治維新150年を記念するのではなく、むしろ2021年に廃藩置県150年を大々的に祝うほうが、日本の近代を考える上で有意義なのではないでしょうか。明治維新の重要な成果である身分制の解体を決定的にしました、近代国家としての中央・地方政府の枠組みも、廃藩置県によってできあがった。
 三谷 そうですね。二百数十もの小さな国家がそれぞれいがみあう状態だったのを一つにまとめたのは相当の力業です。廃藩の後、再雇用された武士は3分の1にすぎませんから、3分の2が失業したことになります。仮に今の日本で公務員の3分の2が失業したとしたら・・・。
 苅部 大変なことですね。
 三谷 廃藩ができたこと自体、運が良かったと思うのですが、それにしても廃藩が」なぜ可能だったのか、僕はいまだに説明に困ります。戊辰内乱という戦争がずいぶん貢献しているのだろうとは思います。ほとんどすべての大名がこの戦争に動員されて、資金繰りに困ったようになった。統治責任を逃れられるとホッとした面もあったのかもしれません。
 苅部 一種の革命のあとの反動として、大した争乱が起きなかったのも特筆すべき点です。いちばん大きなものは西南戦争ですが、やはり人心を広く揺るがすには至らない。
 三谷 まさにその通りで、フランス革命の場合、後のナポレオンの登場を、革命の延長と見るか、反動と見るかでも変わってきますが、その後、王政復古と共和革命が繰り返され、政治的に安定したのは第三共和制が始まってしばらくしてからになります。革命の発端から数えると、100年が経っています。その点日本は、1858年の安政5年政変から、77年、明治10年の西南戦争までを明治維新期と考えても、ちょうど20年間ですから、非常にスムーズに新体制に移行し、元に戻ることはなかった。なぜかと考えるときに、僕は幕末から公論というものが当たり前になっていて、しかも薩長だけでは人材が足りないから、他の大名、他の藩の出身者の意見も聞かざるを得なかったという、きわめて多元的な国家がもともとあったことに依存していると思うのです。西南戦争後に巻き起こった自由民権運動を政府が結果的に受け入れることができたのも、そのせいだと思います。
 もう一つの特徴は、革命の犠牲者が圧倒的に少ないということです。維新全体で3万人程度ですから、フランス革命の200万人とは二桁違う。そこにはいろいろな事情が考えられますが、当時の政治家ができるだけ暴力を回避しようとしながら行動しているのは間違いありません。西郷隆盛だってもちろん、ただの戦好きではないのです。
 しかし、明治維新の海外での評価がどうしてこれほど低いのか。
 苅部 海外といっても、アメリカと韓国・中国の日本研究に限られるのではありませんか。革命をやって近代化しても、君主が残っているのが理解できない。ヨーロッパだと受け止め方は違うでしょう。
 三谷 天皇制を帝国主義の源泉と捉え、1945年の結果をベースに歴史をさかのぼって、明治維新を批判するパターンもある。ただ、こういう発想は外国人だけを批判できません。最初に話したように、日本人だって、昭和初期の枠組みで明治維新を見てしまっている。
 苅部 天皇制国家の出発点という、明治以降の政府が流布させてきた『維新』イメージを、左翼の歴史学者も、昭和初期から共有してきました。そこが今の教科書にも残り、維新の志士や新選組が大好きな善男善女の『維新』観を支えているんですね。これを前提にすると、維新から昭和の戦争までが一直線につながってしまいます。
 三谷 明治維新はもう150年も前のことなのだから、もっと突き放して、分析的に見た上で、いいところがあれば学べばいいし、問題点を取り出して反省の糧にしてもいい。
 苅部 さらに言えば、1868年の『維新』だけ限定して興味を持つのはおかしいと思うのです。むしろ、その年から150年に及ぶ近代史の全体を見わたした上で、何を批判し、何を次の世代に残すべきなのかを議論していったほうが実り多いように思えませね。
 三谷 僕は戦後改革とあわせて議論したいし、各国の革命とも比較研究を続けたい。年齢からいって時間との勝負ですが。」
   ・   ・   ・   
 現代日本で第九条の平和憲法を奉ずる知的エリートは、武士・侍失格の武士道なき臆病者、幕末の消極型開国論者に似ている。
 嫌中国嫌韓国嫌北朝鮮現代日本人は、乱暴に言えば、幕末の排他的攘夷論者と言うところかもしれない。
 消極型開国論や排他的攘夷論は、国を失い民族の生存を危うくする亡国の道である。
   ・   ・   ・   
 明治維新が、単なる開国による近代化であるならば、徳川将軍幕藩体制で十分対応できた。
 遠く離れたイギリスやアメリカの脅威に対する祖国防衛であれば、徳川将軍を中心とした新たな雄藩連合体制に改変すれば十分間に合った。
 問題は、北方領土蝦夷地(北海道)・樺太に迫ってきた隣国ロシアの脅威であった。
 ロシアの侵略から母国日本を守るには、国力を軍事に集中できる中央集権体制に急いで改革し、貧困と文弱で戦えなくなった1割弱の武士階級を諦め全ての国民を兵士に狩り出せる徴兵制を敷くしかなかった。
   ・   ・   ・   
 軍国日本の本土決戦思想は、幕末の京都で生まれた。
   ・   ・   ・   
 中国や朝鮮が採用した中華儒教科挙制度は、身分に関係なく国民全てに開かれた官僚登用試験ではなく、特定の身分、中国なら読書人階級、朝鮮であれば両班階級だけに与えられた権利であった。
 つまり、聖人君主になる素質のある家に与えられた権利であった。
 中華儒教では、家が属す身分や階級は超えられない絶対的な存在であった。
 日本の身分制度の崩壊に伴う下層民出身の政治家・高級官僚・上級軍人に対し、中国は理解を示して受け入れたが、朝鮮は生理的に拒否反応を起こして拒絶した。

   ・   ・   ・   

明治維新を考える (岩波現代文庫)

明治維新を考える (岩波現代文庫)

  • 作者:三谷 博
  • 発売日: 2012/11/17
  • メディア: 文庫
戊辰の内乱―再考・幕末維新史

戊辰の内乱―再考・幕末維新史

  • 作者:星 亮一
  • 発売日: 2006/07/01
  • メディア: 単行本

🌏41)─2─日本に対する白人国家の砲艦外交は、最初がロシアで次がアメリカであった。~No.129No.130No.131 @ 

明治維新の正体――徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ

明治維新の正体――徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ

  • 作者:鈴木 荘一
  • 発売日: 2017/03/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本に対して砲艦外交を仕掛けてきた白人国家は、アメリカ艦隊の前にロシア軍艦があった。
   ・   ・   ・   
 幕府は、ロシアの砲艦外交に対抗する為に、東北諸藩に北方領土防衛の派兵を命じた。
   ・   ・   ・  
 武士・サムライ達は、天下泰平で軟弱にはなっていなかったし、現代の日本人とは違って外圧に弱くはなかった。
   ・   ・   ・    
 軍事力の強化するには、地方分権的な諸大名連合政権=幕藩体制では不可能な為に、日本天皇の下に強力な中央主権体制を築く必要があった。
 その為に必要だったのが官軍=統一軍=皇軍による倒幕戦争であった。
   ・   ・   ・   
 天皇・民族・国の存亡の危機とは、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略であった。
   ・   ・  ・   
 下級武士と庶民が攘夷に立ち上がり、非人・エタなどの賤民や海の民・山の民・川の民などの下層民達が尊皇・勤皇となって天皇の下へ馳せ参じた。
 上級武士や中級武士は、我関せずとして動かなかったか、動いても消極的であった。
 それ故に、明治時代に権力を持った支配階級であった武士階層が消滅したのは当然の事であった。
   ・   ・   ・   
 2018年1月1日 読売新聞「明治は現代にとってどのような意味を持つのか。幕末・明治初期に外国人が見た日本を描いた『逝(ゆ)きし世の面影』などの著書がある、評論家の渡辺京三さん(87)に聞いた。

 江戸が育んだ『人間性』開花
 『明治』の持つ意味とは
 評論家・渡辺京三さん
 明治維新で、政府も啓蒙的思想家も、それ以前の日本を全否定する必要がありました。江戸時代は野蛮な時代、まさに『夜明け前』と言われて、それを戦後マルクス主義史学が受け継ぎました。
 ところが、幕末や明治初期に来日した外国人が記録にとどめた日本の姿を見てみると、全然違います。みんな『幸福感あふれた社会』と言っているんです。英国公使オールコックは、手工業の段階として日本は最高段階だと認め、農民の生活はヨーロッパよりずっと幸せだと言っています。
 16世紀末頃から日本は農業生産力も上がり、豊かになっていました。フォーチュンという英国の園芸家は日本の田畑を見て『フィールドでなくガーデンだ』と美しさに驚いています。
 8代将軍徳川吉宗の頃には本当に平和になりました。人々の生活は楽になり、楽しみも増えたのです。
 もちろん江戸時代にも不十分な点はありました。幕府、朝廷、藩がある二重、三重体制の国家でした。19世紀になると大塩平八郎の乱が起きるなど、いろいろな面で制度疲労もありました。だが、倒壊寸前といわけでもなかった。そういう時にペリーが来たんです。
 だから、明治維新とは何かと言えば、『緊急避難』です。ペリー艦隊は砲艦外交でした。維新の志士が求めたのは政治的統一であり、その前提となる蒸気船と大砲でした。荒々しい国際社会に羽織袴(はかま)で出て行くわけにいかず、武装のために近代産業が必要だったのです。何も、文明開化を求めたわけではなく、文明開化は後から来たんです。
 明治の知識人もそのことをわかっていました。夏目漱石は『日本の現代の開化は外発的である』と言いました。そうせざるを得なくて開化したために、日本の近代は、何か空虚で、根がないところがあります。西欧の帝国主義のただ中にあった、いわば『泥棒国家』のまねだったわけですから。
 ただ、そういうマイナス評価も、今だから言える後智恵なのでしょう。
 明治人が、産業、軍隊、学校制度、文芸、美術などを移植した活力は、今の人々を驚かせます。ヨーロッパの近代文明が、日本人にとって徳川時代を通じて求めてきたものと全く異質だったなら、受け入れたはずはありません。簡単に言えば、明治とは江戸時代を通じて育まれてきたヒューマニティーの目覚めでした。人間はこういうこともできる、こういう喜びもある、という文明的可能性の目覚めです。ヨーロッパの良きものに触れて疑問もない。そういう初々しいさが、うらやましくもあります。
 近代は自然を支配し、管理する道を歩み、大きな成果を得ました。ですが、今は自然との和解を目指す時代。西洋か否かはもう関係ない。先進国共通のテーマです」
   ・   ・   ・   
 1月3日 産経ニュース「【主張】明治150年 「独立自尊」を想起したい 国難乗り越えた先人に学ぼう
 明治の改元から今年は150年となる。日本が進むべき道を、先人の足跡に見いだしたい。
 異国の船が日本に押し寄せた幕末と現代は、よく似ている。
 開国を求めて横浜沖に船を泊めた米国のペリー艦隊は、母国の記念日に100発以上の祝砲を放った。砲艦外交にほかならない。攘夷(じょうい)の機運が高まり、薩摩藩と英国艦隊の薩英戦争などが起こって外国の砲弾が国土を撃った。
 現代、中国の公船が尖閣諸島周辺に押し寄せている。北朝鮮のミサイルがわが国の上空を飛び、あるいは日本海に落下している。
 ≪外圧にどう向き合った≫
 今年も北朝鮮と中国の脅威は増すことになろう。日本にかかる、あからさまな外圧には、幕末と現代に共通するところがある。国難に向き合い、明治人は何を目指したかを改めて学ぶべきだ。
 「今の日本国人を文明に進(すすむ)るは、この国の独立を保たんがためのみ」
 この時代の教育や言論の分野で指導的役割を果たした福沢諭吉が、明治8年の「文明論之概略」で記した。西洋文明も完全ではないが、遅れている日本は西洋に制されてしまう、という危機感をあらわにしている。
 追いつこう。がんばろう。小さい体で、額に汗を浮かべながら、明治人は刻苦勉励したのだろう。あらゆる分野で「西洋」をひたむきに学んだ。
 富国強兵策は、このような文脈で理解されるべきである。国の独立を保つために、ひた走った先人の姿を思い浮かべたい。
 国力は増し、日本は植民地にならずにすんだ。日清、日露という2つの戦争を明治人は戦った。2つとも、日本の国防にとって要衝の地となる朝鮮半島の安定化を目指すものだった。戦ってでも、日本の独立を守ろうとした。
 明治150年にちなむさまざまな展示会やイベントが、各地で持たれている。それらに足を運んでみるのもいい。明治人の書き残した言葉を読むのもよかろう。
 単なる回顧ではなく、先人の精神のなにがしかを学びたい。
 近代日本を独り立ちさせるために尽くす心根が、さまざまな事跡や文章から読み取れるだろう。
 明治がひとくくりに栄光の時代だったわけではない。急激な近代化により、伝統や環境の破壊が激しくなった時代でもある。
 急速な、ときには皮相な西洋化が進むなかで、明治の半ばには日本人のアイデンティティーを探そうとする人たちが現れた。
 ≪血潮は継承されている≫
 陸羯南(くが・かつなん)は、明治22年に新聞「日本」の発行を始めた。創刊の辞では、自らの根拠をなくし、西洋に帰化しようとしているかのような日本人を厳しく戒めている。
 「一個人と一国民とに論なくいやしくも自立の資を備うる者は、必ず毅然(きぜん)侵すべからざるの本領を保つを要す」
 陸のいう個人の自立と福沢のいう国家の独立は、同じものといってよい。福沢は「学問のすゝめ」で、「国中の人民に独立の気力なきときは一国独立の権義を伸ぶること能(あた)わず」といっている。
 明治人は個人と国家の独立自尊を求めた。先人が残した誇るべき財産である。ひるがえって現代はどうか。
 最高法規である憲法について考えてみたい。
 占領下、連合国軍総司令部のスタッフが大急ぎで草案を作った憲法は、国権の発動である戦争を放棄し、交戦権を認めていない。国家の権利の制限である。
 日本人は平和を誠実に希求しており、およそ戦争を求める日本人はいまい。だが、権利を制限される形で制定された憲法をいつまでも頂くことが、独立国といえるだろうか。
 国の守りについて、手足をしばっているのは専守防衛という考え方だ。抑止力の一環である敵基地攻撃能力の保有について、正面から継続的に語り合う姿を見ることはない。拉致被害者を自力で救出する手段はないのに、ならばどうするという議論は起きない。
 とうに改正されてしかるべき憲法だが、現政権の下でようやく議論は緒に就いた。これを加速させたい。
 国難に毅然として立ち向かった明治人の血潮は、現在の日本人にも流れている。現代の国難を乗り越えるため、明治人が見せた気概こそ必要ではないか。」
   ・   ・   ・   


   ・   ・   ・    
 平和的な文明開化・近代教育・殖産興業だけなら、徳川幕府による開国だけで十分であり、日本民族日本人同士が殺し合う攘夷や倒幕も必要なかった。
 血を流す西洋化・近代化は無用であった。
 「時代の夜明け」なども戯れ事で無意味であった。
 つまり、平和的な近代化は徳川幕府でも達成できた事である以上、明治維新も、明治新政府も、明治そのものが不要であった。
 日本が、植民地・奴隷状態にあったアジア・アフリカなど非白人社会の手本になる必要もなかった。
   ・   ・   ・   
 日本が、世界から猿真似と馬鹿にされ軽蔑され嘲笑されながらも必死に優れた西洋を取り込んだのは、一刻も早く軍事力を強化してロシアの侵略に備える為であった。
 日本が必要とした近代とは、軍事力を強化する為の論理的科学技術と合理的教育であって、人間は何でどう生きるべきかというキリスト教的西洋的思想哲学ではなかった。
   ・   ・   ・   
 日本は、キリスト教が秘めている不寛容と残酷さを警戒していた。
   ・   ・   ・   
 中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として売買して大金を稼いでいた。
 中世キリスト教会は、奴隷制を否定しなかし、非白人非キリスト教徒の差別・迫害・弾圧・虐殺・人身売買を禁止していなかった。
 中世キリスト教世界では、異教徒虐殺の十字軍や異端者への宗教裁判と魔女狩りが奨励された。
 日本が出会ったキリスト教とは、そうした中世キリスト教であった。
   ・   ・   ・   
 キリスト教を禁教とし、キリシタンを弾圧した豊臣秀吉徳川家康らは、中世キリスト教会の非人間性という偽らざる実態に恐怖したからである。
 キリスト教価値観による日本人罪悪史観は、明らかな冤罪、無実、無罪である。
 豊臣秀吉徳川家康徳川幕府キリスト教禁教及びキリシタン弾圧を非難する者は、日本人奴隷交易を正しい事・合法的取引だったと容認する者である。
 日本人の本性が薄情・冷淡・冷血・残酷・非情である事は、この事で証明できる。
 日本の歴史は、日本人奴隷交易という事実を書き残している。
 ヨーロッパにもその証拠が残っている。
 日本人が、キリスト教に親しんで近づいてもどこかよそよそしく、キリスト教絶対神を崇めても改宗して信仰しないのは、敬遠したくなる、釈然としない想いが心の奧底にあるからである。
   ・   ・   ・   
 同じキリスト教といっても、現代のキリスト教会と中世のキリスト教会は別物である。
 悪いのはキリスト教ではなく、キリスト教を隠れ蓑として悪事を働く敬虔なキリスト教徒である。
 それは、現代のイスラム教とイスラム原理主義者・イスラムテロリストにも言える事である。
 悪いのは、神様ではなく人間である。
   ・   ・   ・   
 日本の歴史は、明治期の薩長史観、大正期の西洋史観、1945年のアメリカの東京裁判史観及びソ連マルクス主義史観、そして1980年代の中国共産党・韓国の近隣諸国配慮・譲歩史観、1990年代のバブル経済崩壊後の日本最低・無能史観などによって、改竄・歪曲・捏造されてきた。
 それが、現代の学校歴史教育の根幹となっている自虐史観=日本人悪逆非道な極悪人史観である。
 特に最悪なのが、共産主義者が押し付けている天皇憎し日本憎しのマルクス主義史観である。
 日本の美しさは、1960年安保や70年安保で惨めに敗北した戦後ベビーブームと団塊の世代マルクス主義的怨念・憎悪で醜く改竄されて、現代に至っている。
   ・   ・   ・   
 敗北したマルクス主義者の怨念・憎悪が、次世代の反天皇反日的日本人を生み出した。
 そこに隠れているのが、反天皇反日派の中国共産党である。
 反天皇反日的日本人は、親中派として日本不利・中国共産党有利の為に活動している。
 中国共産党は、ソ連コミンテルンの指令に従って日本を滅ぼすべく1920年代から暗躍していた。
 ソ連コミンテルンの指令とは、日中全面戦争と日米全面戦争を誘発させる事であった。
   ・   ・   ・   
 マルクス主義における搾取・差別・迫害・弾圧の暗黒史観を捨てるべきである。
 マルクス主義を信奉する者、特に共産主義を盲信する者は日本に益するところはない。
 そうした知的エリートは日本には要らない。
   ・   ・   ・   
 日本には、古代から、マルクス主義が訴える支配者と被支配者、裕福層に虐げられた貧困層=人民という階級闘争は存在しない。
   ・   ・   ・   
 日本は、相対的価値観で二項共生・二項協和・二項共存であった。
 西洋や中華(中国・朝鮮)は、絶対的価値観で二項対立・二項断絶であった。
   ・   ・   ・  
 観光という漢字は、岩倉具視が新しく造った漢字、つまり和製漢字である。
 漢字圏で使われる近代的用語の70%が日本生まれの和製漢字である。
   ・   ・   ・   
 中国共産党結党当時の理論は、日本人が造語した和製漢字が使われていた。
   ・   ・   ・   
 日本と中国・朝鮮との自然や社会そして住環境は違う。
 同じ人間と言っても考え方や思いは違い、幾ら話し合ったとしても分かり合う事もできない。

   ・   ・   ・   

明治維新 司馬史観という過ち

明治維新 司馬史観という過ち

明治維新という幻想 (歴史新書y)

明治維新という幻想 (歴史新書y)

🌏42)─1─長崎、天草の「潜伏キリシタン」が世界文化遺産。~No.135 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本人は薄情で冷血で情が全くない。
   ・   ・   ・    
 世界は、江戸時代のキリシタン弾圧は日本を非人道的犯罪であったとして、日本を厳しくそして激しく非難している。
   ・   ・   ・   
 2018年6月30日13:24 産経ニュース「世界遺産の登録審査開始 潜伏キリシタンは30日か
 世界遺産の登録審査が始まったユネスコ世界遺産委員会=29日、バーレーン・マナマ(共同)
 中東バーレーンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)第42回世界遺産委員会は29日、各国が推薦した遺産候補の登録審査を始めた。諮問機関が先に文化遺産への登録を勧告した「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本)の審査は初日に行われず、30日に持ち越した。日本政府関係者によると、同日中に審査され、登録が決まる見込み。
 遺産候補は28日時点で28件あり、7月2日までの4日間で審査。潜伏キリシタン関連遺産は30日の審査で3番目の予定だが、他の審査状況次第では変更の可能性がある。
 潜伏キリシタン関連遺産は、国宝の大浦天主堂長崎市)や、信徒が暮らした集落など12資産で構成。江戸時代から明治初期のキリスト教禁制下で独自の信仰を保った歴史を伝え、事前審査した諮問機関から5月に登録勧告を受けた。
 世界遺産委は、世界遺産条約の締約国から選ばれた21カ国で構成。開催地のバーレーンが議長国を務めている。(共同)」
   ・   ・   ・   
 豊臣秀吉は、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人が日本人を奴隷として金儲けしている事に激怒して、奴隷交易に関与したバテレンの追放を命じたが、スペイン・ポルトガルとの南蛮貿易は許した。
   ・   ・   ・   
 徳川家康は、スペイン・ポルトガルキリスト教会の日本侵略を警戒したが、南蛮貿易を望んでいた。
 イギリスやオランダなどのプロテスタント諸国は、日本からカトリック教会やスペイン・ポルトガルを追放するように江戸幕府に助言した。
 江戸幕府は、日本をキリスト教会の宗教侵略から守る為に鎖国令とキリシタン禁止令を発布し、キリシタン狩りを行った。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易は廃止された。
   ・   ・   ・   
 中世キリスト教会と現代のキリスト教会は別である。
   ・   ・   ・
 悪いのは、キリスト教会やキリシタンではなく日本人である。
 日本人を奴隷としたのは日本人である。
 奴隷として売られていった日本人を見捨てたのは日本人である。
 日本人が犯罪者であり、日本人は積む深い。
 キリスト教会やキリシタンには罪がない。
   ・   ・   ・   
 1945年8月9日以降 日本人は自分が生きて帰国する為に、女性をロシア人共産主義者に人身御供として差し出し、強姦されて帰ってきた女性を「穢れた女」として軽蔑し爪弾きした。
 日本人ほど酷い人間はいない。
 特に戦後の現代日本人は酷い人間である。
   ・   ・   ・   
 6月30日17:54 産経ニュース「長崎、天草の「潜伏キリシタン」が世界文化遺産に決定 22件目
 国宝の大浦天主堂。開国後、潜伏キリシタンが神父に信仰を告白する「信徒発見」の舞台となった=長崎市長崎県提供)
 バーレーンのマナマで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は30日、約250年続いたキリスト教禁制と独自の信仰の歴史を示す「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎県熊本県)を世界文化遺産に登録することを決めた。
 事前審査を担うユネスコ諮問機関のイコモスから助言を受け、当初の推薦書を見直したことが奏功した。日本国内の世界遺産は昨年の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)に続き22件目。文化遺産が18件、自然遺産が4件となる。
 潜伏キリシタン遺産は、現存する国内最古のキリスト教会の国宝「大浦天主堂」(長崎市)や、禁教期に形成された集落など12の資産で構成。神社の氏子を装ったり、離島に開拓移住したりなど多様な潜伏のしかたを表している。
 政府は当初、キリスト教解禁後に建造された教会堂の建物を中心に、伝来から約400年の経過を示す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として、平成27年1月に推薦書を提出。28年夏の登録を目指した。だが、イコモスから禁教期に焦点を当てるべきだとの指摘を受けて見直した。新たな推薦書を29年2月に提出し、イコモスが今年5月、登録を勧告していた。
 構成資産の多くが人口減少と高齢化の著しい離島や半島にあり、遺産を保護する担い手の確保が課題となっている。
 政府は来年の文化遺産登録を目指し、国内最大の前方後円墳仁徳天皇陵古墳」(堺市)を含む「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)を推薦している。今年6月に推薦を取り下げた自然遺産候補「奄美大島、徳之島、沖縄北部および西表島」(鹿児島県、沖縄県)について、環境省は早ければ32年の再挑戦を目指す。」
   ・   ・   ・   
 6月30日19:42 産経WEST「守った信仰、先人の営みに価値 大阪の大司教世界遺産登録に感慨深く
 記者の質問に答える前田万葉大司教=6月30日、大阪市中央区(須谷友郁撮影)
 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の登録が決まった。禁教政策下に信仰が維持された集落など12の資産で構成する。潜伏キリシタンの子孫でカトリック大阪大司教区の前田万葉大司教(69)は、「建物よりも迫害に耐えて信仰を守ったことや、棄教も含めた人間の営みにこそ世界遺産の価値がある」と言う。自らのルーツに重ねた思いを聞いた。(坂本英彰)
 前田大司教は28日、ローマ・カトリック教会で法王に次ぐ高位の聖職者である枢機卿に就任した。
 島原の乱など江戸初期の禁教は有名だが、長崎・五島列島出身の前田氏にとって禁教は遠い歴史ではない。明治初期の弾圧は家族史の一部として、子供のころに聞いて育った。
 「五島列島久賀島(ひさかじま)にいた父方の曾祖父家族9人が捕まり、6坪の牢に200人も閉じ込める拷問を受けた。21歳だった曾祖父は8カ月の入獄を生き延びたのですが、3人の妹が命を落としたのです」
 「信徒発見」と迫害
 最後の大弾圧は皮肉にも江戸幕府が開国した後に起きた。在留外国人のための大浦天主堂(構成資産のひとつ)が長崎に建てられた翌1865年、潜伏していたキリシタンが訪れて神父に信仰を告白したのだ。
 〈ワタシノムネ、アナタトオナジ〉
 この出来事は「信徒発見」として西洋に衝撃を与えたが、信徒たちが次々と信仰を表明して禁教に抵抗し始めたため幕府には好ましくない事態となった。やがて厳しい取り調べや棄教の強制が始まり、それは1868年に明治となっても新政府に引き継がれた。
 「五島列島野崎島にいた母方の曾祖父は、平戸に連行された。曾祖父は拷問に耐えかねて転んだふりをして解放されたが、故郷に帰ってから罪の意識にさいなまれたと子供たちに話したそうです」
 同じように野崎島に帰った信者たちは罪滅ぼしの印に、生活を切り詰めて教会を建てた。同島の旧野首教会を含む「野崎島の集落跡」は、こうした人々の思いが詰まった構成資産だ。
 前田大司教は一方、弾圧を加えた側にも思いをはせる。
 「取り調べの役人も職務でしているだけであって、拷問したいわけではない。ウソでもいいから転んだと言ってほしいという気持ちだったでしょう」
 三尺牢の拷問
 浦上四番崩れと呼ばれる大規模摘発では、3000人以上の信徒が長崎から諸藩に流された。津和野藩(島根県)は改宗が困難とわかるや拷問に転じ、足腰も伸ばせない三尺牢に閉じ込めるなどして37人が亡くなったとされる。前田大司教は広島司教だった平成25年、殉教者を福者や聖人に認めてもらう運動を始めた。「信教の自由や人権の大切さを訴えることができると考えた」と言う。
 欧米諸国の抗議を受け禁教政策に事実上の終止符が打たれたのは明治6(1873)年。前田大司教は「先祖が命をかけて守ったものを受け継いでいるとの思いは強くあります」と話した。
   ◇   
 まえだ・まんよう 昭和24年3月、長崎県新上五島町生まれ。カトリック広島教区司教などを経て、平成26年から大阪大司教大司教。」


   ・   ・   ・   
[asin:B00L4XTKCQ:detail]

🌏3)─1─日本と中国・韓国・北朝鮮での歴史認識は正反対に近い程に違う。~No.4No.5No.6No.7 @ 

      ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本と中華(中国・朝鮮)との価値観では、「禍を転じて福となす」や「禍福は糾(あざな)える縄の如し」や「吉凶は糾へる縄の如し」の認識が正反対に近い程に違う。
 日本の価値観では、禍福・吉凶は交わり、最後には一本の清楚な美しい帯となる。
 中華の価値観では、100年、1000年、5000年経とうが一本に交わる事なく分かれたままで、福・吉は美しく煌びやかな紐(ひも)になり、禍・凶は毒黒くおぞましい紐のままである。
   ・   ・   ・   
 2018年1月6日 msnニュース モーニングスター株式会社「ペリーを「英雄」と考える日本人、「極悪の侵略者」とみなす中国人=中国メディア
 同じ東アジアに位置する日本と中国だが、習慣的な違いや、辿ってきた歴史の違いなどから、1つの事物に対して全く異なる見方をすることがしばしばある。中国メディア・今日頭条は3日、「どうして日…
 同じ東アジアに位置する日本と中国だが、習慣的な違いや、辿ってきた歴史の違いなどから、1つの事物に対して全く異なる見方をすることがしばしばある。中国メディア・今日頭条は3日、「どうして日本人はペリーを英雄扱いし、記念碑まで立てるのか」とする記事を掲載した。
 記事は、「ペリーは中学、高校の歴史を学んだ人であればみんな知っているだろう。われわれは中国人にとってペリーは極悪人であり、少なくとも彼に対して複雑な感情を抱いていがちだが、残念ながらそれは誤りである。ペリーは日本国内では、ほぼ英雄扱いなのだ」とした。
 そして、1853年にペリー率いる4隻の黒船が日本にやって来て武力を示しながら開国を迫り、不平等条約である「日米和親条約」を締結させたこと、その後、英国、ロシア、オランダなども米国に倣って日本と同様の条約を結んだことを説明。「日本は半植民地、半封建社会という局面に陥ったのである」と解説した。
 そのうえで、「われわれからすればこれは大いなる屈辱であり、記念碑を立てることはおろか、名前を見るだけで吐き気がすることだろう。なぜなら同時期の中国も同じ状況にあったからだ」とし、清朝が第1次アヘン戦争に巻き込まれるまでの過程を紹介。「われわれの頭のなかでは、ペリーはアヘン戦争勃発に関わった英国の外交官チャールズ・エリオットと同じ扱いの人物である」としている。
 一方で、「日本人は横須賀にペリー公園を建設した上で、伊藤博文直筆による記念碑まで作った。そして、毎年開国を記念するペリー祭りが現地で開かれる。これはなぜなのか」と疑問を提起。その理由として、ペリーの来航が日本人の目を覚まさせ、国の門戸を開いて欧米の文明や経験を取り入れる大改革へとつながり、さらには、欧米列強に肩を並べる大国に成長する流れを生んだという考え方が日本人にあるからだと論じた。
 記事は、日本人が「日本に、もしペリーがやって来なかったら、日本は中国のように列強に蹂躙されなかったとしても、さらに100年間は国を閉ざしたかも知れない」と考えているとも伝えた。(編集担当:今関忠馬)(イメージ写真提供:123RF)」


   ・   ・   ・   

🎑91)─1─浮世絵師の出身身分は様々。葛飾北斎。歌川広重。歌川国芳。河鍋暁斎。~No.194 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の身分は流動性があった。
 職業の自由や居住の自由もあった。
 キリスト教以外の信仰の自由もあった。
 日本は、不寛容にして排他的なキリスト教を徹底して排除した。
   ・   ・   ・  
 葛飾北斎の母親は、吉良上野介の家臣、小林平八郎の孫娘と言われている。
 ウィキペディア
 葛飾 北斎(宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉 - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)は、江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。
 宝暦10年9月23日(1760年10月31日) 武蔵国葛飾郡本所割下水(江戸・本所割下水。現・東京都墨田区の一角。「#北斎通り」も参照)にて、 貧しい百姓の子として生を受ける。姓は川村氏、幼名は時太郎(ときたろう)。のち、鉄蔵(てつぞう)と称す。通称は中島八右衛門。
 明和元年(1764年) 幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となったが、のち、実子に家督を譲り、家を出る。その後、貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟(とてい)となって労苦を重ね、実家へ戻る。この時、貸本の絵に関心を持ち、画道を志す。
 
 転居すること93回
 北斎は、93回に上るとされる転居の多さもまた有名である。一日に3回引っ越したこともあるという。75歳の時には既に56回に達していたらしい。当時の人名録『広益諸家人名録』の付録では天保7・13年版ともに「居所不定」と記されており、これは住所を欠いた一名を除くと473名中北斎ただ一人である。北斎が転居を繰り返したのは、彼自身と、離縁して父のもとに出戻った娘のお栄(葛飾応為)とが、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからである。また、北斎は生涯百回引っ越すことを目標とした百庵という人物に倣い、自分も百回引っ越してから死にたいと言ったという説もある。ただし、北斎の93回は極端にしても江戸の庶民は頻繁に引越したらしく、鏑木清方は『紫陽花舎随筆』において、自分の母を例に出し自分も30回以上引越したと、東京人の引越し好きを回想している。なお、明治の浮世絵師豊原国周は、北斎に対抗して生涯117回引越しをした。
 最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことである。
   ・   ・  
 歌川 広重(寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。

 広重は、江戸の八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。源右衛門は元々田中家の人間で、安藤家の養子に入って妻を迎えた。長女と次女、さらに長男広重、広重の下に三女がいた。広重は幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。文化6年(1809年)2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が火消同心職を継ぐ。
   ・   ・     
 歌川 国芳(寛政9年11月15日(1798年1月1日) - 文久元年3月5日(1861年4月14日))は、江戸時代末期の浮世絵師。

 寛政9年(1798年)、江戸日本橋本銀町一丁目(現在の東京都中央区日本橋本石町四丁目あたり)に生まれる。父は京紺屋(染物屋)を営む柳屋吉右衛門。幼名は井草芳三郎。後に孫三郎。風景版画で国際的に有名な歌川広重とは同年の生まれであり、同時代に活動した。壮年時には向島に住む。
   ・  ・   
 河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい、天保2年4月7日〈1831年5月18日〉 - 明治22年〈1889年〉4月26日)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、日本画家。号は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読む。それ以前の「狂斎」の号の「狂」を「暁」に改めたものである。明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、自らを「画鬼」と称した。その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されている。

 天保2年(1831年)、下総国古河石町(現茨城県古河市中央町2丁目)にて、河鍋記右衛門ときよの次男として生まれる。父は古河の米穀商亀屋の次男の生まれで、古河藩士・河鍋喜太夫信正の養嗣子で、母は浜田藩松平家藩士三田某の娘。天保3年(1832年)に江戸へ出て幕臣の定火消同心の株を買って本郷お茶の水の火消し屋敷(現本郷3丁目)に住み、甲斐姓を名乗る。同時に一家は揃って江戸に出ている。幼名は周三郎といい、河鍋氏を継いだ。兄に直次郎がいた。天保4年(1833年)、周三郎は母につれられ館林の親類、田口家へ赴いた。この時、初めて周三郎は蛙の写生をした。
   ・   ・   ・   

   ・   ・   ・   

   

🌏12)─1─五箇条の御誓文。文学と明治維新。島崎藤村『夜明け前』。~No.36 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 明治天皇の勅書「五箇条の御誓文」は、天地の神々への宗教的誓約であり、国内的には国民に新しく築く近代国家の政治理念であり、国外的には諸外国に日本が目指す民主主義的国家像を明らかにした。
 日本民族国家日本は、天皇・皇室と生死を共にして歩む覚悟を世界に表明した。
   ・   ・   ・   
 日本民族が、天皇と一心同体・不可分の関係にある以上、天皇の戦争責任や戦争犯罪を問う事は絶対にありえない。
   ・   ・   ・   
ウィキペディア
 五箇条の御誓文は、慶応4年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇が天地神明に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針である。正式名称は御誓文であり、以下においては御誓文と表記する。
 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ[編集]
 (現代表記)広く会議を興し、万機公論に決すべし。
 (由利案第五条)万機公論に決し私に論ずるなかれ
 (福岡案第一条)列侯会議を興し万機公論に決すべし
 一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フべシ[編集]
 (現代表記)上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
 (由利案第二条)士民心を一にし盛に経綸を行ふを要す
 (福岡案第三条)上下心を一にし盛に経綸を行ふべし
 一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス[編集]
 (現代表記)官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
 (由利案第一条)庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す
 (福岡案第二条)官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしむるを要す
 一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ[編集]
 (現代表記)旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
 (木戸当初案)旧来の陋習を破り宇内の通義に従ふへし
 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ[編集]
 (現代表記)智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
 (由利案第三条)智識を世界に求め広く皇基を振起すへし
 (福岡案第四条)智識を世界に求め大に皇基を振起すべし

 勅語
 勅語と奉答書(太政官日誌掲載)
 (現代表記)我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの旨趣に基き協心努力せよ。年号月日 御諱
 (意味)我が国は未曾有の変革を為そうとし、わたくし(天皇)が自ら臣民に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てようとする。臣民もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。
奉答書[編集]
 (現代表記)勅意宏遠、誠に以て感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出べからず。臣等謹んで叡旨を奉戴し死を誓い、黽勉従事、冀くは以て宸襟を安じ奉らん。慶応四年戊辰三月 総裁名印 公卿諸侯各名印
 (意味)天皇のご意志は遠大であり、誠に感銘に堪えません。今日の急務と永世の基礎は、これに他なりません。我ら臣下は謹んで天皇の御意向を承り、死を誓い、勤勉に従事し、願わくは天皇を御安心させ申し上げます。


   ・   ・   ・     
 明治維新、開国・近代化・文明開化がもたらした失望と落胆そして怒りと絶望。
   ・   ・   ・   
 尊皇攘夷思想における二大流派は、神道系本居・平田の国学儒教藤田東湖の水戸学であった。
   ・   ・   ・   
 明治維新の発端は、北方領土蝦夷地がロシアに侵略される危機感から始まった。
   ・   ・   ・   
 日本人は、歴史的事実の歴史小説より架空の時代劇や時代小説が好きである。
 「日本人は歴史が好きである」は嘘である。
   ・   ・   ・   
 明治時代とは、儒教国学・日本神道を表舞台から排除した、官主民従・上意下達の官吏支配体制社会である。
 その証拠が、国民に対する教育勅語と軍隊に対する軍人勅諭である。
   ・   ・   ・   
 武士・侍はもちろん庶民(百姓・町人)の大半は、開国による文明開化を望んでいなかった。
 ロシアなどの侵略から母国・日本を守る為の手段である、近代教育も殖産興業も富国強兵さえも必要としなかった。
 自分の生活が維持できるのなら、外国軍隊に占領され植民地化され、外国人に支配され奴隷となっても気にはしなかった。
 武士・侍はもちろん庶民(百姓・町人)の大半は、近代化などには関心もなければ興味もなかった。
   ・   ・   ・   
 明治以降の日本は、柔軟な日本儒教社会から硬直した中華儒教社会に変貌した。
   ・   ・   ・   
 多種・多様・多元が濃いのは、三元論・二項割合・二項比率・二項並立を内包する相対的価値観の日本神道・日本国学・日本儒教である。
 中華儒教は、キリスト教マルクス主義同様に二元論・二項対立の絶対的価値観で成り立っている。
   ・   ・   ・   
 日本の伝統的精神風土では、大陸とは違って宗教や思想・主義による狂信的偏狂的排他的原理主義は生まれない。
   ・   ・   ・   
 明治期の薩長史観・官軍朝敵史観が、江戸時代を歪めた。
 大正期の勧善懲悪に基づく大衆時代小説が、江戸時代を暗く描いた。
 日本の勧善懲悪は、男尊女卑同様に中華儒教の絶対的価値観に基づく。
 昭和戦後の西洋がもたらした東京裁判史観、キリスト教史観、マルクス主義共産主義史観)が、江戸時代をキリシタン弾圧及び人民への差別・搾取・弾圧の暗黒時代とした。
 1980年代頃の近隣諸国条項に基づく中華(中国・韓国・北朝鮮)から見た日本人極悪非道な重犯罪人史観が、中世の江戸時代や近代の明治時代の印象をさらに悪くした。
   ・   ・   ・   
 現代日本は、幕末・明治維新時代に似ている。
 現代日本人、特に高学歴出身知的エリートは、当時の武士・侍はおろか庶民(百姓・町人)とにてもいない、それどころか比べものにならないほどに退化し劣化している。
 故に、現代日本人が、幕末・明治維新時代を駆け抜けた武士・侍や庶民(百姓・町人)に憧れても、足下にも及ばない。
 外国語を話し国際知識が豊富な現代日本人が幕末・明治維新に行っても役に立たず、外国に侵略され、日本国は滅亡し、天皇制度は廃絶され、日本人は奴隷にされていた。
 それほど、現代日本人は退化し劣化している。
 それは、敵が強大で勝てないかもしれない事を自覚しも、天皇と国と民族そして故郷と家族を守るべく、死を覚悟して武器を取り戦うかどうかである。
 「死」というリスクを取る勇気があるかどうかである。
 残念ながら、現代日本人には「リスクを取る」勇気がない。
   ・  ・   ・   
 2018年4月号 中央公論「誤解だらけの明治維新
 藤村『夜明け前』にみる近代人の理念と情念 猪木武徳
 Ⅰ 御一新から明治維新
 明治維新は封建的な諸規制が廃止される根本的な政治改革であった。士農工商の身分は華族・士族・平民という族籍区分に取って代わった。関所は廃止され、移転・職業の自由も保障された。版(土地)籍(人民)は藩主の所有から天皇へと返上され、続く廃藩置県の断行によって領主の人民支配権は失われた。株仲間解散、米・麦の輸出禁止も解除、営業も自由となった。原則、経済活動における契約の自由が保障され、人身売買は禁止、雇用関係も『身分』ではなく『契約』関係へと移行した。
 しかし、封建制国家から近代国家への転換が激しい混乱もなく実現した明治維新には、西洋史学における権力の移行原理がそのまま当てはまらないような固有の特徴があった。したがって、『証拠より論』や『理論に合わない現実は切り捨てる』という類の歴史解釈は、理解の妨げになる。
 黒船で日本に開国を迫った人たちが、この国の主権の所在が幕府なのか天皇なのかの判断に苦しみ、英仏の公使が激論を交わしたことはよく知られている。貴族とブルジョワという西洋史学の概念上の区別もそのままの形で適用できない。政権交代を推進した主体が西南雄藩の下級武士であり、岩倉具視三条実美らの公卿も相当な政治力を発揮している。彼らが維新後も政権の座に残ったこともこの権力移行の特徴である。一方、農民が維新後も『代表なくして課税』され、相当の地租を負担し続けた点も、西欧の『ブルジョワ革命』とは異なる点である。
 明治新政府の成立という政治体制の大変化は、当初世間では、慶応3(1967)年12月に発せられた『王政復古の大令』の中にある『御一新』という言葉で、一切が新しくなるという期待を込めて語られた。他方、『維新』という言葉が広く流通するようになったのは、明治初年も過ぎ『王政復古』が『御一新』と呼ばれるような大変化をもたらすものではないという認識が社会に広がってからだろう。本稿で取り上げる島崎藤村の大作『夜明け前』に仔細に描かれている『復古の精神』の衰退が明らかになるのも、明治初年以降、文明開化が広く人々の精神に浸透してからのことなのである。
 明治維新がレジームとしての『封建制』の崩壊である限り、そこに断絶を見て取るのは当然であるものの、実は断絶は制度という表層の変化であり、その内実にはかなりの程度の連続性が認められるという点は無視できない。また、封建制自体が近代を準備していたという認識も重要であろう。言い換えれば、封建制がなければブルジョワジーの勃興はなく、近代経済社会の成立はさらなる困難を強いられたという推量も軽視できない。
 経済面でも連続性は十分に読み取れる。実際、日本経済史では、封建制の崩壊前の1820年代に農村工業の生産が拡大し、経済の持続的成長が始まっていることが指摘されている。農業技術にも進歩が見られ、養蚕(ようさん)の改良も進んだ。
 それとは対照的に、幕府と諸藩の政治権力と財政力が著しく衰弱するという内的な変化が生まれていた。国内治安の悪化、国防力の脆弱さが誰の目にも明らかになったのである。
 こうした近代経済成長の胎動と国家の統治力の弱まりに、決定的な衝動を与えたのが、黒船に象徴される外国からの開港への圧力だった。
 Ⅱ 想像の素材としての『夜明け前』
 さまざまな矛盾を孕み、文字通り錯綜をきわめた維新前後の政治と社会の変化をいくつの側面から推論するために、『夜明け前』を素材としながら、木曽路・馬籠宿の本陣、問屋、庄屋を務めた主人公青山半蔵と脇役たちの思想や行動を考えてみたい。それは近代化の過程における思想と行動の関係を問うことであり、思想を推し量ることでもある。
 『夜明け前』では、黒船来航(1853)によって攘夷思想が強まる中、安政の大獄(1858〜59)、生麦事件(1862)、天狗党争乱(1864)、将軍徳川慶喜による大政奉還(1867)、相楽総三赤報隊事件(1868)などを経て、『御一新』から文明開化に至るまでの青山半蔵の失意の生涯が良質の資料を用いて仔細に語られている。
 本居宣長平田篤胤国学に心酔する半蔵は、『上つ代(かみつよ)』に帰ることを自然(おのずから)に帰ることであり、新しい古(いにしえ)を発見することだと夢想する。だがその期待も裏切られ、山林を住民に開放するための抗議運動に決死の覚悟で身を投じるものの、当局から戸長の職を解任されて挫折。学んだ国学を生かそうと決意して東京で平田派神道の影響下にある教部省の御雇になる。しかし、日本社会が政府の急激な洋化政策によって変貌する中、教部省も『祭政一致』から『政教分離』へと宗教政策を転換する。国学にも次第に冷ややかになってゆく教部省を半年で辞職。天皇御通輦(ごつうれん)を目の当たりにして、憂国の和歌を書き留めた扇子を馬車に投げつけるという行為に及び、故郷馬籠に連れ戻される。
 世を恨みつつ馬籠に戻った半蔵は、尾州藩出身の文部官僚・田中不二麿の斡旋で飛騨水無(みなし)神社の宮司の職に就く。ただ飛騨高山は寺院の多いところで、神仏混淆の旧習は容易に脱けがたく、神社はまだ事実に於いて仏教の付属物のような有り様で、少し前までは神官と婚姻を結ぶなら地獄に墜ちるなどと言われるような土地柄であった。その飛騨での宮司職も長く続かず再び帰郷。精神を病み、幻覚を見、先祖代々守りたててきた菩提寺の万福寺の本堂正面の障子に火を放ち、遂に座敷牢に監禁され、悲運の最期を遂げるのである。
 半蔵は、幾世紀もかけて積み上げてきた自国にあるものすべてが『価値なき物』とされるような時代を受け入れることができない。糊口の道を失った琴の師匠は大道で琴を弾き、一流の家元と言われた能役者が都落ちして旅芸人の中に交じるという時代だ。この国にすぐれたものがあることを外国人から教えられるような有り様なのだ(第二部第14章2)。
 主人公青山半蔵は藤村の実父・島崎重𥶡(維新後、正樹に改名)がモデルとなっている。いや単にモデルというよりも、村民のために働く庄屋として、街道の公的交通運輸事業に携わる本陣、問屋としての島崎正樹の伝記そのみのだ。しかし通常の伝記にとどまるものではない。半蔵の生涯、彼が生きた幕末から明治初年の歴史、さらに信濃・美濃の国境、恵那山一帯の自然を巧みに重ね合わせて描き切った『歴史文学』なのだ。人間と自然、そして経済が織りなす街道筋の人々の綿密な記述には、単なる歴史小説を超えた迫力がある。文芸評論家・篠田一士が指摘したように、同書の中では『自然』がその霊性を暗示しており(『20世紀の10大小説』)、主人公の中心的な思想と考えられる本居宣長平田篤胤国学の『自然(おのずから)』の思想がこの文学の底流をなしている。
 もう一つの特質は、江戸や京都・大坂、あるいは西南雄藩を舞台に据(す)えるのではなく、あくまでも信濃・美濃の国境の自然の中の宿場、馬籠を中心に話が展開している点であろう。街道筋の本陣、庄屋、問屋に届く、江戸や京都からの政治情報を読み取るという手法が記述の中心となっている。作中、藤村がいみじくも語っているように、
 『交通の持ち来(きた)す変革は水のように、あらゆる変革の中の最も弱く柔らかなもので、しかももっとも根深く強いものと感ぜらるることだ。その力は貴賤貧富を貫く。人間社会の盛衰を左右する。歴史を織り、地図をも変える。そこには勢い一切のものの交換ということが起きる』(第二部第12章五)。
 東海道中山道は参勤交代の主要ルートであった。日本国全体の政治の動きを知る上でも街道筋は格好の情報の結節点である。江戸末期には、和宮内親王の降嫁(1861)や将軍家茂の三度の上洛(1863、64、65)など、京都と江戸の間の公的な『御通行』が頻繁になっていた。諸大名、幕府役人、公家たちも往来する。3,000人を率いたと言われる家茂の最初の上洛は、三代将軍家光が寛永11(1634)年に『入朝の儀式』を行って以来、実に230年ぶりのことであった。皇室に対する過去の非礼を陳謝し、公武合体に意を致すため、そして一切の政務を従来通り幕府に委任するとの沙汰を拝することが目的であった。
 こうした『御通行』は宿場、本陣はもとより、後に触れる『助郷(すけごう)制度』による役務の挑発で、周辺農民にも過重な経済的負担を強いることになる。一方、文久2(1862)年に参勤交代制度が緩和されると幕府の統制力はさらに弱まり、長州藩の攘夷派志士たちの京都入りが目立つようになる。政治の重心は確実に江戸から朝廷のある京都へとシフトするのだ。
 Ⅲ 経済描写の入念さと確かさ
 本格的な歴史小説の面白さは人物造形の新しさにとどまるものではない。資料そのもののもつ迫力にも依存する。『夜明け前』の第一部は、主に、脇本陣、年寄役(酒造業、金融業の『大黒屋』大脇兵右衛門信興)が死の直前の明治3(1870)年 まで40年以上にわたって書き続けた『大黒屋日記』(年内諸事日記帳)を用いながら、幕末期の人々の経済生活と日本の社会状況を再現している。細部にわたる具体的な描写からいくつもの興味深い歴史的事実に出会うことができる。もちろん北大路健、鈴木昭一らの綿密な研究が示すように、こうした資料をベースにしつつ、巧みな修正を加えながらドラマ性を強める工夫がなされていることは言うまでもない。
 随所で、平田派門人の動静、天狗党赤報隊の悲劇、江戸末期の幕府・諸藩の財政破綻とインフレーション、そして何よりも農民たちの生活と公役負担の実情などが、どの歴史書よりも具体的に生々しく記述されている。現代を多少とも意識しながら、この『歴史文学』のいくつかの経済的背景を整理しておこう。
 ①人口増加地域と平田国学 
 人口は経済と国力の基本である。江戸後期の日本社会の経済状況を知るためには、人口動態に関する一つの重要な事実に注目する必要がある。関山直太郎氏の研究によると、江戸時代の日本は、1720年頃までの人口の増加率は高かったが、それ以後、幕末維新期までの125年間(享保6年から弘化3年まで)は、総人口3,100万人前後のままの『人口停滞社会』であったことがわかる。日本の人口が急速に増加し始めるのは明治維新以降なのだ。
 関山がすでに指摘したことであるが、総人口の停滞はあったが、人口の増減には大きな地域差が存在した。近畿・関東・東北の三地方は大きな減少を見ているのに対し、山陰・山陽・四国・九州では増加が著しい。京・大坂はもちろん、江戸(武士50万人、商工業者50万人の世界有数の大都市)では文化も爛熟し、自然増加力が減耗したことは推測がつく。実際、関山は『無籍のための調査洩れとなる者の数の増加』を認めつつ、当時の文献に依り『独身者増加 晩婚 出生児の減少』(現代の日本!)をその原因の一つとして指摘している。
 凶作・天災・飢饉、間引きや堕胎が広く行われた東北をはじめ、目立った人口減少を見た藩は東日本に多かった。逆に西日本、特に薩摩、周防(すおう)、土佐など、維新期に多くの志士が輩出した西南雄藩は著しい人口増を見ている。その因果関係を同定することは難しいが、教育や軍事技術の導入に熱心であった諸藩が、東日本に比べて経済的に豊かであったことは十分考えられる。
 現代のような高度の生産技術を誇る産業社会では、人口の増減と経済成長が直接結びつくわけではない。しかし農業人口が全人口の9割近くを占めていた近世社会においては、マルサスの論を俟(ま)つまでもなく、人口と経済力(すなわち食糧)の関係はかなり直接的であった。現代では子供を持つことは教育のコスト面でも大きな負担がかかるため、出生数はマルサスの法則と異なり、経済成長とは逆方向の抑制力が働く。しかし江戸後期の東日本に関しては、人口停滞を経済的な停滞と結びつけることは十分可能であろう。
 『夜明け前』では、江戸後期に人口増を経験したこうした地方に、平田派の国学が武士階級にもかなり浸透していたことが指摘されている。平田の門人は医者、本陣、問屋から、さもなければ百姓・町人などの『縁の下の力持ち』の社会層であって、士分は少ないと指摘しつつ、それでもいくつかの藩の武士の中に門人はいたという。この点について、半蔵の同志である勤皇の志士・暮田正香は次のように語っている。
 『見給え、こないだわたしは鉄胤先生のところで、天保時代の古い門人帳を見せて貰ったが、あの自分の篤胤直門(じきもん)は549人ぐらいで、その中で73人が士分のものさ。全国で17藩ぐらいから、そういう人達を出してるよ。最も多い藩が14人、最も少ない藩が1人という風にね。鹿児島、津和野、高知、名古屋(後略)』(第二部第2章5)
 西南雄藩の下級武士の改革へのエネルギーは、経済が相対的に豊かであったために生まれたという面、そして平田派国学尊王思想の浸透によるという面の双方があったのだろうか。前者はいわゆる『下部構造』からの説明、後者は『上部構造』による説明ということになろう。こうした問いは実証できる性質のものではないが、一考に値する。
 ②衰弱する幕府権力と藩の経済
 幕府と藩の財政はどれほど危機に瀕していたのか。治安、国防といった国家権力の基盤は、詰まるところ財政力とその前提となる徴税力にある。その点で幕府も諸藩も著しい窮乏状態に陥っていた。
 国内の治安の悪化は、皇女和宮御通行の通路の選択にも表れている。本来なら東海道経由であってしかるべきところ、中山道が選ばれた。東海道筋は御通行を妨害しようとする志士浪人が少なくなく、すこぶる物騒だとの理由から変更されたという。また『諸国に頻発する暴動沙汰が幕府を驚かしてか、宿村の取締りも厳重を極めるようになった』。街道筋の村民は『強盗や乱暴者の横行を防ぐために各自自衛の道を講』じなければならないほどである(第一部第9章1)。
 黒船への警戒態勢をはじめ、外国の脅威も等閑(なおざり)にできなかった。幕府は開港場の整備や砲台の建設、陸軍の創設、軍艦・商船の購入などの多額な出費を余儀なくされ、二度にわたる長州征伐の戦費も大きな負担となっていた。一方、収入のほうは、海防警備の費用負担に喘ぐ諸藩からの上納金を当てにすることもできないため、旧貨を回収して品位の劣る新貨に改鋳してその差益を収入とする弥縫策(びほうさく)に終始せざるを得なかった。さらに江戸や大坂の豪商に御用金を賦課するという始末である。大口勇次觔の研究によると、改鋳益金の幕府財政収入に占める割合は文久3(1863)年には68%に至っている。
 幕府は生麦事件などの賠償金44万ドルを英国に、薩摩藩も英公使に10万ドルを交付している。翌文久4年には再び将軍家茂が上洛する。この経費も大きい。二度の長州征伐(1864、1866)も、結局多額(437万両)の臨時支出を必要とした。慶応年間には農工商への御用金の賦課に一層頼らざるをえなくなったのである。
 こうした財政の窮乏と通貨改鋳が開国以後のインフレーションを招いたことは言うまでもない。1860年代初頭、60年代中葉、そして維新直後の69年の3度のインフレは貨幣改悪によるところが大きい。諸藩は諸藩で藩札を乱発し、商人からの『借り入れ』を繰り返し、武士への信用を著しく傷つけていく。
 実際、幕府や藩への献金者は豪商にとどまらなかった。『夜明け前』でも、半蔵は木曽福山の地方(じかた)御役所から長州征伐のための『献金』の件で呼び出しを受け、結局、木曽谷全体で都合614両余を献金している。
 半蔵の父・吉左衛門もかつて脇本陣の伏見屋金兵衛に、『ああ。世の中はどう成っていくのかと思うようだ。あの御勘定所の御役人なぞが御殿様からの御言葉だなんて、献金の世話を頼みに出張して来て、吾家の床柱の前にでも座り込まれると、わたしは又かと思う』(第一部第1章1)と嘆いている。国恩金は『百姓はもとより、豆腐屋、按摩まで上納するような話ですで、俺たちも見ていられすか。18人で2両2分とか、56人で3両2分とか、村でも思い思いに納めるようだが、俺たちは7人で、1人が1朱ずつと話をまとめましたわい』(第一部第1章3)と百姓にも及んでいた。こうした『献金』は『国防献金』と称されたが、公儀の御金庫がすでに空っぽになっているという内々の取沙汰が流布するのは避けられなかったのである。
 貧しい武家や公卿のなかでタチの悪いものになると、江戸─京都間を一往復して、少なくとも1,000両くらいの金を強請(ごうせい)し、それによって2、3年は寝喰いができるような連中もいたという。この時期、『実懇(じっこん)』、つまり こころやすくなるという言葉も特別の意味を持った。『実懇になろう』と武士から言葉を掛けられた旅館の亭主は、必ず肴代とか祝儀の献上金をねだられるのが常であったからだ(第一部第8章4)。
 1859年の開港後、相当な勢いで物価が上昇したことは宮本又郎氏らの研究の示す通りである。1854年から56年までの物価上昇を年率で見ると、8.5%の高率である。すでに1820年頃から物価の上昇は観測されているが、この幕末維新期の物価上昇はそのペースをはるかに上回るものであった。この高率インフレは、開港後に日本の金銀比価(金安銀高)を国際比価に合わせるための貨幣改鋳の結果でもあった。日本からの大量の金流出は、劣悪な銀の流入と裏表の関係にあった。純粋な小判(金)はどしどし海外へ出て行き、その代わりに輸入されるものは多少の米弗(ドル)銀貨はあるとしても、多くは悪質な洋銀であった。
 半蔵の学友、中津川の蜂谷香蔵は言う。『今までに君、90万両ぐらい(この数字には諸説あり──引用者註)の小判は外国へ流れ出したと言いますよ。(中略)その結果はと言うと非常な物価高騰です。そりゃ一部の人たちは横浜開港で儲けたかもしれませんが、一般の人民はこんなに生活に苦しむようになってきましたぜ』(第一部第5章2)。横浜開港1周年の記念日、6月2日は、記念日というよりむしろ『屈辱の日』であるとするほど排外熱が全国的に盛んになってきたのである。
 諸藩士の家禄は削減され、贋造の貨幣まで現れるほどになった。『社会の基盤を転覆させるうえで、貨幣を堕落させる以上に巧妙かつ確実な方法はない』(ケインズ『平和の経済的帰結』におけるレーニンの引用)という言葉はまことに鋭い洞察であったと言わざるを得ない。
 ③本陣・脇本陣の負担、助郷制度という農民への負担
 街道筋の宿駅では常置の御伝馬以外に、付近の郷村の百姓は石高に応じて人馬を補充するために継立てを応援しなければならない制度ができていた。これが宿駅周辺に重い負担を課した助郷制度である。
 例えば天保10(1839)年、常住していた江戸藩邸で亡くなった尾張藩徳川斉温の遺骸が通過する大通行に当たっては、一行約1,970人が馬籠の宿に溢れた。木曽福島の代官・山村氏からの指図で、木曽谷から集められた人足730人だけでは足りず、1,000人余りの伊那の助郷の助けを借り、馬も220匹必要とした。本陣の青山家はもとより、脇本陣の金兵衛の住居でさえ、2人の用人の外に合わせて80人を泊めたという(第一部序の章2)。
 また、黒船が来てからのち、尾張藩主が出府した折りには、木曽寄せの人足730人、伊那の助郷1,770人ほどを動かす大通行が馬籠の宿を経て江戸表に出た。宿場の馬180匹、馬方180人。
 こうした制度は本陣・脇本陣だけでなく、周辺農民にも大きな負担となった。大通行の荷物は宿場ごとに付け替えられ運送され、宿駅に備え付けられた人馬の使用は大通行のような公用が優先された。幕府設定の料金(御定賃銭{おさだめのちんせん})はあったものの、幕府の許可を得れば、宿場の人馬は無料で使用できた。
 こうした無理な徴発が長続きするはずはない。幕末期になると割のいい民間の仕事が増えて、多くの『助郷不参』の村々が出てくる。徳川様の御意向というだけでは、百姓も言うことを聞かなくなってきたのである(第一部6章1)。そして遂には、明治に入ると伝馬所(旧問屋)は廃止され、宿駅制度も解体するのである。それは助郷農民の解放を意味した。
 参勤交代制度は文久2年に『3年1回出府』と緩和されてはいたが、幕府は旧制度の復活を望んだ。人馬徴発の激増は、庄屋、本陣、そして助郷制度下にある農民への負担を過重にせざるを得ない。だが、幕府は元治(1864)元年、参勤交代の制度を旧に復することに決定。目的は言うまでもない。徳川幕府の頽勢(たいせい)の挽回と急激に多くなる消費者を失った江戸経済へのテコ入れである。しかしこの期待は裏切られ、諸藩の人心は幕府から完全に離れていく。ここに各藩の頸木(くびき)を離れ、独自の道を歩む方向へと舵を切る。海運、造船、物産振興、兵制、留学生の派遣などについて、藩独自の産業政策と教育方針を練り始めるのである。
 Ⅳ 『近代人』の自家撞着──寛斎・正香・松雲
 『夜明け前』には近代化が孕(はら)むいくつかの重要問題を明らかにするために、幾人かの興味深い人物を脇役として配置されている。いずれも近代社会の中で『ドグマと処世』のジレンマを乗り越えようとしている点に共通性がある。そのジレンマとは、近代化とともに進む現世主義、経済主義、合理主義と、人間が求める霊的なものとを、自己の中でいかに調和・解決するかという難問から生まれる。
 こうした自家撞着を抱える人物として、医師・宮川寛斎、攘夷派の志士・暮田正香、そして曹洞宗万福寺の和尚・松雲を取り上げてその意識の内実を探ってみたい。
 ①宮川寛斎──ビジネスと宗教の間
 宮川寛斎は中津川の医師で、半蔵と同門の蜂谷香蔵の姉の夫にあたる。漢学・国学に通じた半蔵たちの『師匠』とも呼びうる知識人で、馬島靖庵がモデルになっている。
 寛斎は『安政の大獄』があった安政6(1859)年10月、中津川の商人・万屋安兵衛の書役(かきやく)として、異国の商人を相手に生糸売り込みの出稼ぎに神奈川まで100里に近い道を馬の背で生糸の材料を運ぶ。商売がうまくいけば、利得を安兵衛から分けてもらうという約束のもとにリスクを含んでだビジネスに入る。60歳近い寛斎にとって、老後に伊那の地で隠棲するための経済的な基盤を得ることは死活問題だったであろう。神奈川条約はすでに結ばれているから、別段これは違法行為ではない。しかし寛斎は、半蔵ら弟子たちにこの横浜行きの目的は知らせていない。(第一部第4章、第5章)
 香蔵はこれを知って『現世の利得』に突き動かされる寛斎の行動を批判して、半蔵に次のように言う。『国学者には君、国学者の立場もあろうじゃありませんか、それを捨てて、ただ儲けさえすれば好いというものでもないでしょう』(第一部第5章2)。
 こうした批判を予想してか、寛斎は商売がうまくいったことを喜びつつ、次のように呟くのである。『金銀欲しからずというは、例の漢(から)ようの虚偽(いつわり)にぞありける』と。
 この本居宣長『玉かつま』の言葉は、寛斎にとって何より有力な味方であった。『誰だって金の欲しくないものはない』。そこから寛斎のように中津川の商人に付き従って横浜への出稼ぎということも起こった。『本居大人(うし)のような人には虚心坦懐というものがある。その人の前には何でも許される。しかし、血気壮(さか)んで、単純なものは、あの寛大な先達のように貧しい老人を許しそうもない』(第一部第4章2)。
 宣長は中国の道徳観に深く染み込んでいた『金は要らない』という偽善を批判するのであるが、この『玉かつま』の文章は、金銀を『はばかることなくむさぼる世のならひにくらぶれば偽(り)ながらも、さるたぐひは、なほはるかにまさりてぞ有べき』と続く。つまり度を越した金銭欲を批判しているのであって、『金、金』と浅ましいことを言うのに比べたら、『金など要らぬ』というほうがまだましだが、という言葉も付け加えているのだ。
 ちなみに、寛斎が生糸取引に没頭している折、馬籠の伏見屋金兵衛から一通の手紙が届き、金兵衛の最愛の一人息子、鶴松が病で亡くなったことを知るくだりがある。寛斎の長い不在によって一人の患者の命が失われたかのように事実が暗示されるのである。
 北小路健木曽路 文献の旅 〈続〉──『夜明け前』探求』は、この間の経緯を『大黒屋日記』を照合しつつ検討し、寛斎の横浜滞在の異様な長さと鶴松の死のタイミングは藤村の虚構であると指摘している。この辺りは、藤村が原資料をどのようにドラマに仕立て上げ、その事実の意味づけを行っているかを知る興味深い例であろう。
 寛斎は結局、横浜で何を知り何を経験したのか。身近に見た西洋の商人は、髪の毛色や瞳の色こそ違え、『黒船』が連想させるような恐ろしいものでも幽霊や化け物でもない。やはり血の通っている同じ人間の仲間だ、ということであった。この単純な認識こそ、国学に通じ攘夷論を唱えていた宮川寛斎をして、安政の大獄に無関心ではいられないものの、『しかに、俺には、あきらめというものが出来た』(第一部第4章2)と確信させるのである。
 寛斎はその後伊那谷へと居を移すが、妻を亡くし独り身となる。横浜貿易のことが祟ったのか、どこへ行っても評判が悪い。伊那谷で平田門人たちの行う篤胤『古史伝』の上木(じょうぼく)事業を手伝ったりしたが門人たちと折りが合わず、結局3年の後、再度中津川に戻る。その途上、馬籠で半蔵と久闊(きゅうかつ)を叙しつつ、無尽(頼母子講)加入を誘うのだ(第一部第7章2)。
 こうした寛斎の思想と行動をどのように理解するか。一つ確かなことは、平田派の国学者の中には様々な思想的な立場がありえたということである。『皇室中心的開国論』『攘夷的通商主義』などである。寛斎から見れば、半蔵や香蔵たちの学問はますます『実行的な方向』へと動いていることになる。古い師匠と弟子の間にはすでに隔たりが生じている。古代の日本人に見るような『雄心(ゆうしん、おごころ)』を奮い起こさないと、この国始まって以来の一大危機を乗り越えることはできないという弟子の心持はわかるが、寛斎は『あきらめ』という心境に達している。
 篠田一士は、この宮川寛斎の悲喜劇は、『明治の日本に襲いかかった。新旧両文明の衝撃がもたらした数多くのドラマのささやかな先駆と呼んでも差し支えないもので、寛斎の運命は、また、漱石の小説の主人公たちのそれらに容易に変形しうるのである』と鋭く指摘している。おそらく寛斎の偽善的ともみなしうる姿勢は、『意識せる自家撞着』とでも呼ぶのが適当かもしれない。
 ②暮田正香過激派の転身
 もう一人重要な脇役、暮田正香は、寛斎のような自家撞着を意識していない。暮田正香は半蔵と同国人、かつて江戸に出て水戸藩藤田東湖の塾に学んでいる。
 藤村は勤王思想には二つの流れがあるとし、一つは激烈な攘夷論者・藤田東湖の流れ、もう一つは本居・平田の流れと見る。前者は弘道館の碑文にあるように『神州の道を敬い同時に儒者の教えをも崇める』漢ごころの混じった武家の学問である。後者は『古代』の復興に着目し、『近(ちか)つ代(よ)』ではなく『上つ代』を『一切は神の心であろうでござる』(篤胤の遺書『静(しず)の岩屋』)として強調する立場である。東湖の没後、正香は水戸の学問から離れて平田派の古学に開眼したとある。
 『伊那尊王思想史』を検討した鈴木昭一『「夜明け前」研究』によると、正香は実在の人物、角田忠行をモデルとしているという。『伊那尊王思想史』に示されている角田の経歴は、『夜明け前』に記された暮田正香のそれと全く同じである。正香は文久3(1863)年2月、京都等持院に安置されていた足利尊氏以下2将軍の木像の首を抜き取って、三条河原にさらすという事件を起こしている。同志9人、その多くは平田門人であった。『夜明け前』では、この事件で幕吏に追われて逃亡中の正香を青山半蔵は馬籠で一夜かくまっている。
 その後、平田派国学が盛んであった伊那谷に潜伏するが、慶応末年、大赦によって流浪の生涯から脱して変名で表の世界に現れ、王政復古後、皇学所監察、学制取調御用掛、大学出仕へと昇進し、(その出世の速さを妬まれて讒言{ざんげん}され)一時山口藩・和歌山藩にお預けの身となっている。明治6(1873)年8月、暮田正香は賀茂神社少宮司に任命されて、木曽馬籠宿の青山家に一泊する。その夜、酒を飲みつつ、杜甫の詩『奉贈韋左丞二十二韻(いさじょうにおくりたてまつるにじゅうにいん)』を吟じ、『此意竟に蕭条(しょうじょう)(この考えも畢竟{ひっきょう}成し遂げられず)』のところを何度も半蔵に読み聞かせて、絶句し涙を流している(第二部第9章4)。それは新政府の現状に失望し、平田一門が志を得ず、いかに政府の中心から外れていくのかを嘆く涙なのだ。
 『御一新』後の新政府では神祇官(じんぎかん)を平田派が占め、慶応4年1月17日の太政官布告神道国教・祭祀一致を国是とした。その後明治2年7月の官制改革では、それまで太政官の下にあった神祇官ひきあげて太政官と併立させたほどだ。『ご一新』の時期の平田派のこの権勢を考えると、今は何という有り様だというわけだ。
 この暮田正香の言行には過激な行動に走った人物特有の自家撞着が読み取れないだろうか。足利木像事件のような行動に出ながら、『御一新』後は、伊勢神宮に次ぐ高い格式にある賀茂神社少宮司になるなど近代的な立身出世を意識している。その点では、杜甫の詩にある、傑出した人物が身の振り方を誤ったがために『隠遁者でもないのに歩きながら歌をうたっているありさま』ではない。正香においては、近代化における自己撞着は自分自身の問題として意識されてはいないのだ。
 実際、平田篤胤の思想は決して極端な排外主義ではなかった(第二部第13章6)。暮田正香の篤胤理解は一つの極端なケースではなかった。現実の平田篤胤は当時の科学技術にもきわめて明るく、キリスト教に関する知識も中途半端なものではなかったことが近年指摘されるようになった。つまり、篤胤は外国の思想や文物を、すべて排除するというような、狭量で非合理な思想の持ち主ではなかったのである。
 『夜明け前』で、半蔵の義弟・寿平次は、そもそも、外国を夷狄(いてき)の国と考えてむやみに排斥することこそ唐土から教わったことであり、攘夷などというのは『漢(から)ごころ』なのだと鋭く指摘している。攘夷思想が平田篤胤の思考の中核であったのかどうか。思想そのものと、解釈された思想とは別物である。本居宣長を篤胤がどう理解したか、その篤胤を門人たちがどう要約したのか。思想の伝播には『伝言ゲーム』のような不正確さが常に付き纏(まと)っている。
 ③松雲和尚──近代の神仏同体説
 明治新政府によって神仏分離廃仏毀釈が断行され、仏教寺院は受難の時代に入る。半蔵は、『今日ほど宗教が濁ってしまった時代もめずらしい』『まあ、諸国の神宮寺などを覗いてごらんなさい。本地垂迹(ほんじすいじゃく)なぞということが唱えられてから、この国の神は大日如来阿弥陀仏の化身だとされていますよ。神仏はこんなに混淆(こんこう)されてしまった』『これが末世の証拠だと思うんです。金胎両部なぞの教えになると、実際ひどい。仏の力にすがることによって、はじめてこの国の神も救われると説くじゃありませんか。あれは実に神の冒?というものです』といい、黒船は嘉永6年が初めてなのではない、『伝教でも、空海でも──みんな、黒船ですよ』と言い募っている(第一部第6章2)。彼は漢学(からまな)びの深い影響を受けない古代の人の心に立ち帰って、もう一度心寛(ゆた)かにこの世を見直せというのだ。
 こうした激しい宗教界の動きを背景として登場する曹洞宗万福寺の松雲和尚は、まことに静謐(せいひつ)な雰囲気を備えた人物として描かれている。松雲のモデルは明治17年頃、藤村の父・正樹が馬籠の人々と写した写真にも現れる。永昌寺の桃林和尚のようだ。もともと万福寺は青山半蔵の祖先の青山道斎が建立した寺である。遠い祖先代々の位牌、青山家の古い墓地、それらのものを預けてある馬籠の寺であることからも、半蔵が松雲和尚を意識するのは当然であろう。
 松雲和尚が最初に登場するのは、京都本山の許しを得て智現の名を松雲と改めて、馬籠万福寺の跡を継ぐ新住職として帰国するのを、組頭笹屋の庄兵衛はじめ、五人組仲間その他のものが新茶屋まで出迎えに行く場面である(第一部第2章1)。松雲和尚を待ち受けながら、自分が『物学びするともがら』の道を追い求めていけば、自ずと松雲和尚の信仰に『行く行く反対を見出すかもしれない』ことを半蔵は予感する。
 だが、この禅僧の所作言葉を目の当たりにして、『ものの小半時も半蔵が一緒にいるうちに、とてもこの人を憎むことができないような善良な感じのする心の持ち主』であることを感じ取る。確かに松雲は尾張藩主の出府で街道筋が騒々しくなっている折も、唯一人黙然として、古い壁にかかる達磨の画像前に座りつづけるような人なのである。
 松雲和尚のこだわりのない自然な姿は、半蔵に何が虚偽で何が自然(おのずから)なのかについて改めて問いかけたはずだ。復古の精神は、もともとは『虚偽を捨てて自然に帰れ』との教えから出たことであったのだから。
 だが現実には、葬儀を仏式ではなく神式の形式、すなわち『神葬祭』で行うか否か、という具体的な問題である。信仰と風俗習慣とに密接な関係のある神葬のことを仏教寺院から取り戻して、それを白紙に改めようということになるのか。義弟の寿平次は、『これは水戸の廃仏毀釈に一歩を進めたもので、いわば一種の宗教改革である。古代復帰を夢みる国学者仲間がこれほどの熱情を抱いて来たことすら、彼には実に不思議』なのだから『神葬祭などは疑問だ』と考えざるを得ない(第一部第6章2)。皮肉なことは、国学隆盛の時代を招いたのは廃仏運動のためであったかもしれないが、廃仏が国学の全部と考えられるようになって、かえって国学は衰えたとも言える点だ。
 しかし、半蔵にとって神葬改典は軽視できない問題であった。彼は父祖の位牌も多く持つ帰る。青山の祖先道斎が建立した菩提寺も青山家から遠くなってしまった。にもかかわず、松雲和尚は半蔵を十五夜の月見の客の一人として招待する。松雲は客に親疎(しんそ)を問わず、好悪を選ばずという人なのである。
 その松雲の寺に半蔵は火を放つ。だが松雲は放火を企てた半蔵に対して、全く狂気の沙汰とも思わないと考える。『もともと心ある仏徒が今日眼をさますようになったというのも、平田諸門人が復古運動の刺戟によることであって、もしあの強い衝動を受けることがなかったなら、おそらく多くの仏徒は徳川時代の末と同じような頽廃(たいはい)と堕落とのどん底に沈んでいたであろう』と言うのである。和尚は半蔵が焼こうとした寺にも決して何らの執着を持たないことを明らかにして、それをもって故人への回向に替えようとするのである(第二部終の章6)。
 松雲和尚はこの神仏の対立関係を、聖徳太子の遺した言葉を引用し、『神道はわが国の根本である。儒仏はその枝葉である、根本昌(さかん)なる時は枝葉も従って繁茂(はんも)する、故に根本をゆるがせにしてはならないぞよとある。これだ。この根本に帰入するのが、いくらかでも仏法の守られる秘訣だ』として神仏の対立関係を昇華しようとするのだ(第二部第10章2)
 Ⅴ 『御一新』への失望と落胆
 『御一新』への半蔵の失望は、単に『文明開化』がもたらした日本社会に対する失望という漠然たる反発感情ではなかった。彼の怒りはより具体的で身近な問題から発している。それは王政復古後に起こった木曽谷の百姓一揆、いわゆる『農兵問題』と、この小説の白眉とも言われる『山林事件』である。
 慶応4(1868)年、戊辰戦争が北陸・東北へと展開する中で、官軍側の尾張名古屋藩では兵力不足のため、官軍の支配下の村々から農民を兵士として徴発しようとする。同年3月に江戸城無血開城はあったものの、まだ旧幕府軍の戦いは各地で続いていた。恩師・宮川寛斎が伊勢の地で客死したとの知らせを受け、半蔵がその墓参のために郷里を留守にしている間に起こった騒動が『農兵問題』であった。百姓仲間1,500人余り、主に東美濃の村民であるが、木曽地方の馬籠、妻籠などの百姓もこの一揆に加わったことが判明する。小野三郎兵衛が収拾に出向き、『平田の門人なら嘘はつくまい』ということで何とか収まった。小野三郎兵衛が尾州藩に出した嘆願趣意書には、新紙幣の下落(すなわちインフレ)、人馬雇銭の割り増しなど、百姓たちの経済的な困窮がきされていたという。
 半蔵は留守中に起こった騒動の実情を出入りの百姓から聞き出そうとして、村中の百姓がこのことについては一切口外しないと申し合わせたことを知る。半蔵が自らその保護者であり代弁者だと思い込んでいた百姓から『誰もお前様に本当のことを言うものがあらすか』と呟かれて『そんなに俺は百姓を知らないかなあ』と嘆くほどに、自分の考えが百姓から遊離していたことを思い知らされるのである。『農兵問題』は単に新政府の信用が未確立であることを示すだけでなく、百姓の半蔵に対する信用も厚くなかったことを示す事件だったのだ。
 一方、さらに『山林事件』が半蔵に追い打ちをかける。明治元年、官軍の先鋒隊として、『御一新』と『年貢半減』を掲げた相楽総三率いる『赤報隊』が偽官軍として処刑される。その偽官軍に資金援助したために、木曽福島の代官から厳しいお咎めを受けた半蔵にとって、『御一新』が大いなる失望であったことを決定付けたのがこの『山林事件』であった。
 木曽谷33ヵ村の総代となって山林問題の再嘆願をするこの事件を扱った第二部(下)第八章は、歴史家・服部之総をして『この小説の圧巻章』と言わしめた迫力に満ちた部分である。
 維新前は、巣山、留山、明山(あけやま)の木曽山一帯は尾張藩によって管理され、唯一自由林であった明山でも、許可なしに村民が5木(檜木{ひのき}、椹{さわら}、明檜{あすひ}、高野槇{こうやまき}、ねずこ)を伐採することは禁じられていた。しかし全体としては自由林が大部分を占めていた。ところが維新後、全山の面積およそ38万町歩あまりのうち、その9割にわたるほどの大部分が官有地に編入され、民有地としての耕地、宅地、山林、それに原野は、併せてわずか1割にすぎなくなった。『御一新』であるから、自由林は村民の手に戻るものと期待していた半蔵は、明治2年3月から山林解放運動に挺身する。その結果、維新後に就いた『戸長』の職を解任される。問屋制は廃止され、参勤交代もなくなったため、青山家は本陣の宿泊所としての業務も奪われるのである。
 『御一新』で、『上つ代』を回復するという平田国学に心酔した半蔵が東京で見たのは、文明開花一色に変貌した社会であった。『これでも復古と言えるのか』。しの失望感は計り知れない。同じ頃に福澤諭吉が書き留めた次の文章は、多くの日本人の当時の精神状況を大局観をもって要約している点で迫力がある。
 『概して云えば、今の時節は、上下貴賤皆得意の色を為すべくして、貧乏の一事を除くの外は、更に心身を窘(くるしむ)るものなし。討死も損なり、敵討も空なり、師(いくさ)に出(いず)れば危し、腹を切れば痛し。学問も仕官も唯銭のためのみ、銭さえあれば何事を勉(つと)めざるも可なり、銭の向う所は天下に敵なしとて、人の品行は銭を以て相場を立てるものの如し。この有様を以て昔の窮屈な時代に比すれば、豈(あに)これを気楽なりと云わざるべけんや。故に云く、今の人民は重荷を卸して正に休息する者なり』(『文明論之概略』巻之六、第10章)。
 主人公半蔵は『近つ代』のもたらしたものを目の当たりにして破壊する。先に取り上げた3人の脇役は、それぞれ意識の強弱はあれ、近代社会が突きつける現世主義と霊性の相克をそれなりの仕方で解決した。より正確には、彼らにとって『ドグマと処世』の自家撞着は、解決されたわけではないものの、とにもかくにも回避されたものである。
 Ⅵ 情念の書としての『夜明け前』──結びにかえて
 『夜明け前』成立の経緯と資料に関する研究は極めて豊かだ。それでも、この傑作を歴史書として、あるいは文学としていかに位置付けるかという問題は残る。確かに歴史と文学の関係は人文学の一大テーマとなりうる難問であろう。だが、無理な分類は、ときに問題の核心を見る目を曇らせる。服部之総が同書を『文学的なだけでなく文献的な価値さえもつと思われる』(『志士と経済』)と述べたことは、こうした分類・評価の難しさを端的に物語っているのではないか。
 用いられた資料の持つ迫力は否定しがたいものの、読者の心を打つのはすした実証性を超えたところにある。近代における思想の運命を見つめ、あるいは近代人の自家撞着の問題と正面から向き合っているからだ。主人公・青山半蔵の生涯は悲劇として幕を閉じた。宮川寛斎、暮田正香、松雲和尚という重要な脇役は、近代社会が突き付けた問題にどのような情念で対応し、近代化の困難を生き抜くことができたのかを藤村は見事に描き分けてた。
 情念は人間にとって原初的な心の動きであり、理性と必ずしも矛盾するものではない。ともすればわれわれは、理性は永遠不変で、情念は不確かで欺瞞性に富むと考えがちだ。しかし理性のみでは意志は生まれない。行動を起こすこともない。その点で『理性は情念の奴隷』(ヒューム)なのだ。理性は意志を妨げることもできず、情念に優先することもない。松雲和尚の情念の働きは確かに静謐(せいひつ)であった。しかしその静謐さゆえにそれを理性の働きととらえてはならない。
 正香の情念は、意志の発生を強く促すような過激なものであった。寛斎においては情念が生み出す判断が道理に合わないという自家撞着を生み出した。
 青山半蔵の情念は『中世否定の運動』と『復古の精神』から生まれている。懐古ではなく復古、『再び生きる』という激しい情念である。半蔵が、自ら命を絶とうとした娘の粂(くめ)の復活を願って励ましたのも、『再び生きる』とうい言葉であった(第二部第10章3)。『再び生きる』ための力が過少であれば、生に意味を与えることはできない。過剰にあれば破滅を招く。こうした二方向の情念のバランスを失ったところに半蔵の悲劇があると言えないか。
 思想によって生きる人もいれば、思想に殉じる人もいる。その思想とは原始的な情念と行動を結びつける『判断』の形であり、理論や経験から推論する『理性』から生まれるものではない。実際、人は自らの原初的な存在を意識するとき、『国』という器を抜きにしては自己の精神に形を与えることができない。『国』という器は絶対的なものではないものの、一つの基準座標であることは否定できない。座標そのものを絶対視することは本末転倒だとしても、座標を失えば人は浮草のような存在になりかねない。ナショナリズムが人間にとって一つの『宿痾(しゅくあ)』となりうるのは、それが人間に埋め込まれた原初的な情念と考えられるからだ。『夜明け前』の中で、幕末の金銀比価の国際的な乖離ゆえに日本が金の流失と劣悪な洋銀の流入に悩んでいる状況を、『自分等の持つ古い金貨が流れ出して行き、そのかわりに入って来る新しい文明開化が案外な洋銀のようなものであるとしたら、それこそ大変な話だと思われて来た』(第二部第11章5)と譬えたのも、藤村のナショナリズムなのだ。
 『夜明け前』の連載が『中央公論』誌上で始まったのは1929(昭和4)年4月であった。『御一新』からすでに60年が経過している。『夜明け前』で『和助』の名で登場する藤村自身がうまれたのは明治新政府成立の5年後のことである。その意味で同書は、60年前に始まる日本の『文明開化』が含み持つ問題を浮き彫りにしながら近代を再構築した、ナショナリズムという『情念』の書と言い得るであろう。
 その後に書かれた未完の遺作『東方の門』は、藤村の抱く近代への危機感が露骨に肉付けあれた作品となった。話は万福寺の松雲和尚を中心に展開するが、もはや文学として香りはない。歴史記述の迫力にも欠ける、きわめて思弁的な書きぶりだ。『中央公論』1943年1月号からの連載というタイミングと当時の時局を考えても、引き込まれるよう読み続けられる作品ではないと思うのは筆者だけではあるまい。『中世の門を開くことなしには古代の門に達し難し、随ってまた近代の意味を知る能(あた)わず』(執筆ノート)と近代の意味を再び厳しく問うているにもかかわず、この遺作には『夜明け前』の重厚さはもはや失われている。それは藤村自身のナショナリズムという情念の運命であったということができよう」

   ・   ・   ・   
[asin:B00JAWDBAK:detail]