🏞55)─1・C─江戸時代にヒューマニズムを実践した大政治家、保科正之。~No.236No.237No.238 

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 戦後民主主義教育の歴史教育で教えている歴史とは、超難関校の入試に合格するだけの丸暗記用の記号であって、昔、生きていた祖先の心・命・志は抹消されている。
 エセ保守とリベラル左派は、メディアと教育を使って民族史の嫌いな子供を量産し、その試みは成功してきている。
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 2024年9月6日 YAHOO!JAPANニュース ローカリティ!「江戸時代にヒューマニズムを実践した大政治家、保科正之公誕生物語(前編)【福島県猪苗代町
 福島県西部に位置する会津地方。この地がかつて会津藩と呼ばれていた時代、初代藩主となった保科正之公の偉業について独自の研究を行った水野貴裕(みずの・たかひろ)さんが、このたび「保科正之公誕生物語」を自費出版しました。水野さんがどのようなきっかけで正之公の魅力に引かれたのか、出版に込めた思い、そして今後の展望についてお話を伺いました。本記事は前後編でお届けします。
 水野貴裕(みずの・たかひろ)さん
 1959年、福島県郡山市生まれ。1983年、東北学院大学経済学部を卒業後、金融機関に勤務。2019年に定年退職し、現在は福島県猪苗代町にて、会津藩初代藩主・保科正之公の研究に取り組んでいる。趣味はギターとスケッチ。
 Q.今回の作品は、保科正之公が生まれ、兄である三代将軍家光公に認められるまでの物語を描いています。会津には多くの偉人がいますが、その中で水野さんが保科正之公に強い魅力を感じたのはなぜですか?
 -保科正之公は、「人道主義」や「ヒューマニズム」といった言葉も概念もまだない時代において、民の幸福を追求した政策を実践した大政治家です。また、幕政と藩政の両方、すなわち現代でいえば、総理大臣と県知事の両方の職責を果たした近世第一の人物であると思います。私は、民のための政治に人生を捧げたそんな正之公の行動力と人柄に強い魅力を感じました。
 Q.今回出版された「保科正之公誕生物語」の執筆のきっかけを教えてください。
 ―前述したように、正之公はこれほど立派な人物であるにもかかわらず、その名及び功績は、あまり知られていないのが実情のようです。これは残念です。これほどの大人物を歴史の闇にいつまでも埋れさせたままでよいはずがありません。「保科正之公を知らずして江戸時代を語れますか?」と、真剣に世に問いたいとさえ思います。「まずは人々の心に正之公を誕生させることから始めなければならない」という思いが、「保科正之公誕生物語」を執筆する動機となりました。
 正之公に由来する会津地方の郷土料理「高遠そば」(写真:福島県観光物産交流協会
 Q.保科正之公は、二代将軍・秀忠公の息子として生まれ、その後、高遠藩主・保科正光公の養子となりました。幼少期のどのような経験や環境、出来事が、後の正之公の成長につながったとお考えですか?
 ―将軍の子であれば、通常城か大名屋敷で生まれるものです。しかし、正之公は二代将軍秀忠公の子でありながら、嫉妬深い秀忠公の正室お江の方を恐れ、下町神田に住むお静の方(正之公の母)の姉婿・竹村助兵衛の隠居部屋でひっそりと誕生しました。
 正之公は、お静の方が宿した秀忠公の二人目の子でした。最初の子はお江の方を恐れて水に流してしまったので、正之公も同じ運命となる恐れがあったのです。
 しかし、正之公が無事この世に生を受けることができたのは、「産んで立派にお育て申し上げるべきだ!」と主張した神尾才兵衛(お静の方の弟)の存在や、老中土井利勝武田信玄の娘である見性院と信松尼などの有力な保護者に恵まれたことです。このことは、自分も水子となる運命だったかもしれない正之公の心に、「命に対する慈愛の精神」が培われた要因の一つだろうと思われます。
 正之公は三歳の頃から七歳まで見性院から学問の手ほどきを受けました。
 一時は、正之公によって武田家再興を夢見ていた見性院でしたが、自分の願いよりも、正之公を武士として立派に育て上げるべきだと考えるに至り、かつて武田家家臣だった信州高遠二万五千石藩主・保科正光公の養子に出すことにしました。
 会津若松市の親善交流都市:高遠町(現伊那市)の風景(写真提供:水野さん)
 Q.高遠藩と正之公とはかなり深い絆で結ばれていたのですね。
 ―高遠藩は急峻(きゅうしゅん)な山あいにある小さな藩で、暴れ川には堤防を築き、質実剛健な気風を守り、その一方で民に優しい政治を行う藩でもありました。
 1626(寛永三)年、正之公は16歳にして、保科家の菩提寺『建福寺』に通い、名僧鉄舟和尚に儒学を学んでいます。また、教育係の家臣とともに民の暮らしぶりを見て回って学んだことは、「民が安心して暮らせることが、藩にとってとても大切なことである。なぜなら、領民の協力があってこそ年貢がきちんと入ってくる。そしてそのお陰で藩が成り立っている。故に、政をする際には、民への慈愛の念をもって当たらねばならない」ということでした。
 ここで経験したさまざまな事柄が正之公の人格形成に大きな影響を与え、この地で過ごした時間は、後に「民のための政」を遂行していく上で、大切な充電期間であったと位置づけることができます。
 正之公が、普通に他の将軍の子の同様、城や大名屋敷で生まれていたなら、民と接する機会も少なかったはずです。正之公の幼い頃から青年期にかけて体験した苦労が、その後の日本にとっていかに大切なことであったか。このことを知る意義は大きいと思われます。
 (後編へ続く)
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 9月10日 YAHOO!JAPANニュース ローカリティ!「江戸時代にヒューマニズムを実践した大政治家、保科正之公誕生物語(後編)【福島県猪苗代町
 福島県西部に位置する会津地方。この地がかつて会津藩と呼ばれていた時代、初代藩主となった保科正之公の偉業について独自の研究を行った水野貴裕(みずの・たかひろ)さんが、このたび「保科正之公誕生物語」を自費出版しました。水野さんがどのようなきっかけで正之公の魅力に引かれたのか、出版に込めた思い、そして今後の展望についてお話を伺いました。本記事は前後編でお届けします。
 (前編URL:https://thelocality.net/hoshinamasayukikou-tanjyoumonogatari1/
 水野貴裕(みずの・たかひろ)さん
 1959年、福島県郡山市生まれ。1983年、東北学院大学経済学部を卒業後、金融機関に勤務。2019年に定年退職し、現在は福島県猪苗代町にて、会津藩初代藩主・保科正之公の研究に取り組んでいる。趣味はギターとスケッチ。
 【本記事中の画像一覧】
 家光公が保科正之公が弟であることを知るきっかけとなったたこ薬師成就院(東京都目黒区)
 成就院住職に「保科正之公誕生物語」を贈呈する水野さん(提供:水野さん)
 Q. 異母兄弟でありながらも将軍となった徳川家光公と保科正之公の関係について、どのようにお考えでしょうか?作品の中で特に印象深いエピソードがあれば、ぜひお聞かせください。
 ―正之公は、将軍家光公が兄であることを名乗り出ることはなく、あくまでも家光公の家臣であることを貫きました。そして、家光公はこの聡明(そうめい)で謙虚な正之公を心から信頼したのです。このことを伝える印象深いエピソードを「保科正之公誕生物語」の最終話としました。その逸話をここで簡単にご紹介したいと思います。
 家光公は、弟・忠長との跡目争いの末にようやく将軍の座を勝ち取ったばかりの頃、正之公というもう一人の弟の存在を知りました。家光公は、正之公が忠長のように傍若無人に振る舞うかもしれない。もしそうであるなら政に支障をきたしてしまうだろう、と危惧していたのです。
 しかし、当の正之公は将軍の弟であると名乗り出ることもなく、つつましく高遠藩の藩主であることを貫いていました。そして、大名たちが集まる江戸城の詰所では、正之公はいつも廊下ギリギリの末席にただおとなしく座っているのでした。
 ある日、家光公は正之公を試すことにしたのです。大名たちの前で「正之公は余の身内である」と宣言したならば、正之公はどのような反応をするだろうか? 正之公が尊大な振る舞いをするようであれば警戒しなければならないと思ったのです。
 そして家光公は大名たちが詰めている“菊の間”のふすまを開けてこう言い放ったのです。
 「肥後守*(ひごのかみ)正之公は余の身内である。肥後守の上座につける者は、誰もいないはずだ!」
 すると、大名たちは大慌てして正之公に上座を勧めたのです。しかし、正之公は首を横に振って頭を下げ、「いえ、私は小さな藩主で若輩者ですから……」と言って動こうとしません。大名たちは立ち上がって、なんとか正之公の下座につこうとしますが、正之公は廊下ギリギリの末席にいるため、やむなく大名たちは全員廊下に出てしまい、廊下はたちまち大名たちであふれかえってしまったのです。
 家光公は、この正之公の慎ましい態度に心底感服したのでした。
 伊那市高遠町歴史博物館(写真提供:水野さん)
 Q.本作の執筆において、特に苦労されたのはどのような点でしょうか?
 ―登場人物のせりふの言い回しに苦労しました。私が子供の頃は、『銭形平次』や『水戸黄門』、『遠山の金さん』等々、時代劇が盛んに放映されていたので、時代劇の言葉に慣れ親しむ機会に恵まれていました。しかし、最近は時代劇の放映が少ないので、今の若い人たちは時代劇のせりふになじみが薄いと思われます。したがって、若い人たちにも登場人物のせりふの意味が伝わるよう『現代語』と『時代劇の言葉』のバランスを意識して執筆しました。
 福島県猪苗代町の土津神社にある保科正之墓所奥の院(撮影:筆者)
 Q.今後の創作活動について、抱負や展望をお聞かせいただけますでしょうか。
 ―今後は、土津(はにつ)神社*が所蔵している「吉川神道*(よしかわしんとう)の秘伝書」、また、小平潟天満宮*(こびらがたてんまんぐう)が所蔵している正之公の和歌「千早振」(ちはやふる)につけた吉川惟足(きっかわこれたり)の詞書などを通して土津神社造営の秘密に迫りたいと考えています。保科正之公を真に捉えるためには、吉川神道の秘伝を知ることが必要だと私は考えます。
 私は、吉川神道の秘伝をひも解くことで、土津神社造営の秘密を発見することができました。これは、保科正之公の新たな物語の発掘につながりますので、今後この発見に基づいた物語の執筆に取り組みたいと考えています。新たな物語を執筆した暁には、NHK大河ドラマ化などに貢献できればと思っています。
 小平潟天満宮にて(撮影:筆者)
 Q.「保科正之公誕生物語」を通じて、読者にどのようなメッセージをお伝えしたいですか?
 ―民に優しい大政治家である「保科正之公」の誕生にまつわる逸話を多くの人に知っていただき、本書が保科正之公に興味を持つきっかけとなれば幸いです。
 ありがとうございました。
 (注)
肥後守(ひごのかみ)・・・1631年、正之公元服に伴って従五位下に叙された武家官位会津松平家は徳川家の家門として高い格式を持つ大名家のため、“大国”に数えられている国のひとつ「肥後」の名称を与えられている。慣習で、支配する藩と国名は必ずしも一致しない。
・土津神社(はにつじんじゃ)・・・福島県耶麻郡猪苗代町にある神社。会津藩初代藩主である保科正之公を祭っている。
吉川神道(よしかわしんとう)・・・神道の一派。江戸初期に、吉川惟足(きっかわこれたり)が、吉田神道の仏教的傾向を除き、宋儒の説を加味して立てたもの。
・小平潟天満宮(こびらがたてんまんぐう)・・・福島県猪苗代湖畔にある。祭神は菅原道真太宰府天満宮北野天満宮と並んで日本三大天神とする説がある。
・千早振(ちはやふる)・・・正之公が天満宮参拝時に詠んだ歌。「千早振 雪にもにほふみきの むめの葉をしらさりし 天津神がき」
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