関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
万世一系は血筋。
天皇位は皇統。
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日本が歴史的教訓とするべきは、清国(中国)ではなくムガル帝国(インド)であった。
世界的な大国であったムガル帝国が滅亡し、モンゴル帝国以来の帝室が抹殺され、インドがイギリスの植民地となったのは、地方の藩王(土侯、マハーラージャ、マハラジャ、ラージャ)がイギリスの侵略に手を貸したからである。
イギリスは、協力的な藩王に特権を与え領地の支配を認め、伝統的カースト制度を残しキリスト教化と直接植民地支配を避けた。
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日本に迫ってきたロシアやイギリスが日本を侵略し植民地化する意志がなかったとしても、日本は西洋が世界中で行っている植民地拡大戦争という情報から、迫ってきたロシアやイギリスを侵略者と認識した。
けっして、日本が愚かだったからではない。
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水戸藩内で天皇親政の大日本帝国の芽が生まれたのは、イギリス人の大津浜事件とロシア人の蝦夷地・北方領土への南下を日本侵略の兆しと恐怖したからである。
決して、ペリーの黒船艦隊が原因ではない。
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1782年 スイスで、最期の魔女が生きたまま焼き殺された。
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2018年3月号 新調45「水戸学の世界地図 片山杜秀
32 維新の縮図としての水戸藩
なぜ、水戸藩たちは『天保の改革』の4年前に江戸へ『南下』したのか?
水戸藩の『南下』
南下という言葉がある。北上や南下の間違いではない。水戸語だという。水戸藩で使われていた。この場合の『上る』とは『都に上る』の意。侍の都は将軍の都。江戸である。水戸から江戸は南方だ。だから南下という。
この南下を、水戸の侍たちが大挙して、しかもたいへん例外的なかたちで為したことがあった。通常の南下は当然ながら合法的に行われる。水戸藩士が公用で地元の常陸から水戸藩の江戸屋敷などに向かう。あるいは許可を得て私用で江戸へ出る。普通の南下である。
ところが1829(文政12)年秋の南下は違った。大勢が藩の命令も許可もなく江戸に上った。長州藩の兵学者、吉田松陰が、水戸の徳川光圀や朱舜水の墓に詣でたくなり、また水戸学者の会沢正志斎らに面会したくなって、江戸の長州藩邸から無断で失踪し、脱藩者扱いとなる事件が後に起こる。幕末の動乱期に武士が自由に京の都などで政治活動を行おうとしたら、誰しもそういう真似をした。脱藩して浪人となり自由人としての資格を得ることで、とりあえずは雇主から自由に尊皇や攘夷を唱えられる。文政12年の何十人かの水戸藩士たちの南下も、それに近かった。尊皇や攘夷ではないが公然たる政治的目標があった。一種の強訴である。捕縛されたり浪人となったり命を失う可能性もかなりあった。
文政は、水野忠邦が『天保の改革』を行う天保の直前の元号である。文政13年が天保元年となる。坂本龍馬が脱藩するような時代よりもおよそ30年は早い。水戸の侍のやることは何事も時代を先取りしていた。水戸人の気風と思想と行動の真似をして起こったのが幕末維新の動乱であったとも言える。
いったい文政12年に水戸のどんな人々が何を要求したくて江戸のどこへ行ったのだろうか。その年は、水戸藩領の大津浜にイギリスの捕鯨船の乗務員が上陸して大騒動になり、後に水戸学の雄となる藤田東湖がイギリス人たちを斬り殺そうと計画して未遂に終わってから5年後、やはり水戸学者の会沢正志斎が後に尊皇攘夷思想の聖典と仰がれる『新論』を著してから4年後に当たる。藤田東湖の父にして会沢正志斎の師匠であり、水戸藩主徳川斉脩にロシアやイギリスが日本を侵略しようとしていると激烈に訴え続けていた藤田幽谷は、文政9年に50代で既に逝っている。
その文政12年藩主斉脩は江戸でまだ30代の若さでありながら死の床にあった。跡継ぎの男子はなかった。誰が徳川御三家のひとつを相続するのか。藩論は割れていた。水戸藩は誕生して以来、ずっと財政難である。格式に対する石高が低すぎる。常陸の土地も決して肥沃ではない。それでも藩財政を成り立たしめようとすれば、いつも領民には重税が課せられることになる。領地には水戸の農民の怨嗟の声が漲(みなぎ)って限界に近づいていた。幕藩体制の歪みが、天保の改革期を前にして水戸で、もう爆発しかけていた。
水戸の自力更生の努力は限界に来ている。ではどうすればよいか。江戸の将軍家からお世継ぎを迎えるにかぎる。有力な藩論であった。主たる担い手は上士と呼ばれた高禄の藩士たちである。そこで候補とされたのは徳川恒之允。子沢山で知られた11代将軍、徳川家斉の20男で、清水徳川家の養子になっていた。清水徳川家とは、8代将軍の吉宗の2人の息子と9代将軍家重の息子1人をそれぞれ初代として作った御三卿の家のひとつ。他は田安徳川家と一橋徳川家である。御三卿を吉宗が設けたのはもちろん、初代将軍家康が晩年の3人の息子を始祖として尾張徳川家と紀伊徳川家と水戸徳川家の御三家を作った故事に倣っている。
清水徳川家から現将軍の実子を養子に迎えて水戸徳川家を継いで貰えれば、どんなによいことがあるのか。将軍家からの財政支援が大きく得られるのは確実であった。水戸藩主の家脩の妻はやはり将軍家斉の娘であり、清水家の恒之允は斉脩の妻の弟にも当たる。義弟を養子に迎えて家を継いでもらう。大名家によくある話であり、筋も通っている。水戸家は家斉の娘を嫁にすることで、既に経済的な恩典を種々受けてもいた。おかげで首の皮一枚で財政破綻を免れていたのが当時の水戸藩であった。徳川恒之允を次期藩主とすれば、水戸徳川家の懐事情はさらに改善され、みっと危機を脱出できる。徳川恒之允擁立派の水戸藩の上士たちはそのように算盤を弾いていた。
だが反対する人々が居た。藤田幽谷と東湖の父子や会沢正志斎などである。彼ら水戸学者とそのシンパを中核とするグループである。徳川恒之允をわざわざ連れてくることに本当の義があるのか。義公と称された徳川光圀以来の水戸の思想の担い手を自任する彼らは、恒之允では筋が通るまいと主張していた。確かに徳川斉脩には男子がない。だが弟が居る。先代の治紀の実子の斉昭である。江戸で財政難の水戸藩の家風をよく弁(わきま)えて慎ましく育っていた。
だいかい水戸徳川家を支えてきたのは、初代頼房とその子の光圀以来の尊皇と武勇を何よりも尊ぶエートスである。貧しい水戸藩のありさまを当為として受け入れ、その中で努力と工夫を重ね、外国の侵略や内乱に備えて思想を鍛え、国防の最前線を担おうとしてきたのが、初代将軍家康と2代将軍秀忠の時代から将軍家の盾として身命を賭けるように命ぜられてきた水戸の伝統というものである。今、ロシアやイギリスがついに迫り来ようという時代を迎えて、水戸の立場はいっそう貫徹されねばならない。
ところが恒之允擁立派はそうした自覚に乏しい。将軍家からの継続的財産分与を受ければ当座は凌(しの)げるということばかり考えている。彼らは血の裏付けられた歴史を軽視している。水戸徳川家は斉脩が8代目。そこまで初代頼房とその子の光圀の血筋は保たれている。水戸のエートスは頼房と光圀の血あってこそだ。万世一系だ。その血は斉脩の弟の斉昭を立てれば保たれる。徳川恒之允でも家康まで遡ればつながるが、彼は頼房や光圀の血を受け継いでいない。徳川恒之允の擁立は水戸の『万世一系神話』の崩壊を意味する。将軍家による水戸家侵略とも言える。水戸の培ってきた独自のエートスを失わせ、植民地根性を植え付ける。許しがたい。藤田父子や会沢正志斎の考え方であろう。
水戸学の思考様式の核心
ここに水戸学の思考様式の核心があるといってもよい。ローカルとセンターをぐるぐる回るのである。光圀の血筋に誇りをもって水戸藩の置かれた無茶な状況に忍耐することと、天照大神以来の天皇の血筋を信仰して極東の島国の独立を保全しようとする心意気とは、鶏が先か卵が先かのような関係にある。そこに、文政後期においては、ロシアやイギリスの日本植民地化可能性と、将軍家による水戸家植民地化の可能性とが重なって、相乗して、こちらも思考をぐるぐる回す。水戸の学者たち、殊に藤田幽谷以後の人々はそういう考え方を日々当たり前にしていた。水戸の血筋を思うのと同様に天皇の血筋を思い、水戸家と将軍家の力関係に相似させて考える習慣を身に付けていた。天皇の血筋や西洋の事情は水戸の侍からすれば遠いと言えば遠い。だが、彼らはそれを身近な我が事のように実感できる回路を有していた。新興宗教団体や革命をめざす政治組織のカリスマ的指導者が、自らの健康状態や集団の危機的状況を国家社会や世界全体の命運と無理やりにでも重ね合わせ、思想や行動を際限なく先鋭化させてゆく例はよくみられる。水戸の場合もそれと似ているのかもしれない。とにかく水戸で政治的・社会的・軍事的思想が19世紀前半に日本の中でも際立って敏感に急進化を示し得た理由は、そのあたりにあるのだろう。
そうした挙げ句の果てに、文政12年の南下が決行された。そのときもう藤田幽谷は世を去っていた。南下したのは藤田東湖や会沢正志斎、それから幕末の天狗党の乱によって名を残す武田耕雲斎といった面々である。彼らが江戸の水戸藩邸の藩主斉脩のもとに、後継者を弟の斉昭とするよう直訴すべく押しかけた。常軌を逸した振る舞いというほかない。だが、藩論は、将軍実子を迎えたい経済的現実主義と藩主実弟を担ぎたい政治的理想主義とに分裂して、調停不能だった。そんな状態のまま、斉脩がこの問題についての意思を示さずに逝ってしまっては、気質の荒い藩風の水戸のことだ。血で血を洗う抗争となって、下手をすれば御三家のひとつが無くなりかねない。藤田東湖らの南下は藩主に最終決断を仰ごうとするものであった。天皇に聖断を迫るような話である。それが無理なら、せめて斉昭擁立が自分たちの決死的意志であることを、藩内の反対派や日和見派、さらには幕閣や関係諸藩に訴えよう。下手をすれば、徳川斉昭を巻き添えにし、全員が玉砕しかねなかった。
結果はどうなったか、徳川斉脩はこのときすぐ亡くなるのだが、そうしたら遺言が出てきた。弟の斉昭を後継指名していたという。反対派もとりあえず黙らざるを得ない。徳川斉昭が藩主となり、烈公斉昭の名は幕末史に強く激しく刻まれることになる。ちなみに歴代の藩主を〇公と呼ぶのは水戸の中国趣味・儒学趣味から来る習慣であろう。徳川斉脩はというと哀公になった。哀しい寂しい人だったからではない。心の底から弟の斉昭を跡継ぎにしたいと哀願したから哀公。会沢正志斎や藤田東湖は、哀公から烈公へと藩史を導いた立役者として、藩の実権を握ってゆく。
それにしても、哀公の遺言があったというのは出来過ぎている気がしなくもない。東湖や正志斎が『聖断』を偽造したのではないか。同時代からそうとも思われ、言われ続けてきた。水戸学者による陰謀ではないかというのである。確かに斉脩の真筆の遺言も残ってはいないようだ。が、作り話という根拠もまたない。とにかく水戸の『万世一系』はこうして守られた。
さて、東湖や正志斎が、天保の初めの頃、新藩主斉昭に期待した最大のものは何であったか。そこにも幕末維新とダブる重い言葉が出現する。『御親政』である。この場合の御親政も南下と同じく水戸語と言ってよい。藩主が藩政を執るのは当たり前だろう。ところが水戸では必ずしもそうではなかった。御三家ができて以来、水戸家は他の大名と違った特別な役を課されてきた。『天下の副将軍』は将軍の側にいつも居なければならない。だから『江戸定府』。これまでも触れてきた話題である。参勤交代もしなくてよい。
尾張徳川家や紀伊徳川家を含め、北は松前から南は薩摩まで、全国すべての大名は隔年で江戸と国許を行き来する。藩主在任中の原則として半分の歳月は、領国の城や陣屋で政治を行う。ところが全国に大名は多くあれども水戸藩主だけが異なる。『江戸定府』の原則を守り通すとすれば、藩主であるあいだ、一度も水戸には行けない。事実、哀公こと徳川斉脩は藩主としては国入りを一度もしなかった。それが定めといっても、幕府に願い出れば、随時帰国は許される。斉脩がそうしなかったのは、病弱だったせいもあるが、水戸の財政事情が大きい。水戸と行き来するとなれば、御三家の格に見合った大名行列を組まねばならない。その負担を嫌ったのである。
水戸の歴代藩主は斉脩に限らずそういう具合に過ごしがちだった。すると、国許の常陸はどうなるのか。藩主だから藩政を行う権利も義務もある。が、肝心の常陸は遠い。形式的には江戸から指図するにしても、実権は国許の家老などに移って、それが常態化する。水戸藩士でも、高禄の家柄の上士にして、国許に居て家老や要職の奉行などの職に就く階級が、国許での特権をいろいろと有して既得権益化してしまう。殿様の目が行き届かないのをよいこよに、上士が勝手をし、中士や下士、さらに領民が無理な目に遭わされる構図が当たり前になる。
そのせいで不満の溜まりがちな水戸の人々は何を願望するようになるか。水戸語で言うところの『御親政』である。江戸には、家康の子として勇猛をうたわれた威公頼房や、水戸の誇りにして水戸学の開祖でもある義公光圀の血を受け継ぐ、代々の殿様が居る。だが、その殿様はたまにしか帰ってこない。何十年も帰らぬときもる。おかしいではないか。藩主と下士や領民のあいだの一階層に過ぎない上士と、彼らと仲良くしている人々が、力を持ち過ぎる。それを正すのは『御親政』だ。長ければ長いほどよい。水戸語の『御親政』とは藩主が水戸に帰りとどまって、直接に政治を行うことを意味する。しかもその藩主は威公や義公の血を受け継いでいる。そこが大事なところだ。
そして『御親政』という言葉は、天皇親政とつながる。ここにも水戸学のローカルとセンターをぐるぐる回りする思考形態が発見される。水戸学の『御親政』は、江戸に居る水戸徳川家当主を京の都の天皇に重ね、水戸に居る水戸家の主人から領内統治を委託された格好の国家老等を、江戸に居て京の天皇から国政を委託された格好の将軍や幕閣の官僚等に重ねて、使われる言葉だ。しかも、水戸藩の長年の実情に即せば、中間の者が上の人の意向を汲み切れぬことで政治が乱れがちになるから、究極的には親政が望ましいという思想に展開しがちになる。中抜きを熱烈に願望してやまない。
『御親政』の実感
繰り返せば、このような思考の回路は、江戸時代でも水戸藩の特殊事情だけが生み出し得、実感し得たと言ってよいだろう。薩長土肥でも会津でも桑名でも越前でも、藩主は定期的に帰ってくる存在であった。滅多に帰ってこない英雄的藩主に、なかなか顔の見えない天照大神の子孫をダブらせて、理想主義的妄想を膨らませ、その通りにならないと激発するのが、水戸学の思想形態であり、それが感染してこそ、尊皇攘夷の脱藩志士が世に満ちてもいったのだろう。
徳川斉昭は、藤田東湖や会沢正志斎の期待に応えて『御親政』をしようと、水戸に居る期間を長くすることに努めた。その斉昭は、ペリー来航以後、幕政に強く参与し、将軍よりも朝廷の意向を重んじようとして、幕府の権威を保とうとする大老の井伊直弼と、ことごと対立した。
その斉昭の子が徳川慶喜である。彼は御三卿のひとつの一橋家に養子に入って家督を相続し、そこから水戸家の系統、つまり頼房や光圀の血を受けた者として、初めて江戸幕府の将軍職に就いた。将軍なのに武家の独断専行を嫌い、孝明天皇に忠義を尽くそうとした。さらに慶喜は、中抜きの最終徹底をはかるべく大政奉還、つまり将軍に委託されてきた国政の権を天皇に返して、天皇親政を建て前とする維新政府実現の道を開いた。水戸語の『御親政』は、言葉の内包していた可能性を全面的に展開して日本近代を創出した。そう言ってよい。
ところで維新政府とは、天皇親政を建て前にしながらも実際は、上士と対立して脱藩するような諸藩の中士や下士のあたりに相当する武士たちが、まさに中抜きの原理を徹底して天皇と結び付くことによって、将軍や大名や家老クラスを飛び越え、権力を獲得して創出した政府と言える。大久保利通や木戸孝允や伊藤博文や山県有朋や黒田清隆といった名前を並べれば、それは分かる。
徳川斉昭の『御親政』を目指して決起し南下した水戸の人々は何者であったのか。やはり下士が中心であった。商人の息子で、学問の力のみによって水戸藩に取り立てられ、侍となって立身出世を果たしたのが、藤田幽谷であった。弟子の会沢正志斎も、遡れば農民の家だという、低い身分の武士であった。能力によって自力で這い上がった学者たちとそのシンパの下士が南下した勢力の核心であった。山野辺義観のような上士の中の上士というような人も混じっていたけれど。テレビドラマの『水戸黄門』で東野英治郎が主役を務めていた頃、『ご老公、旅はなりませぬぞ』という台詞を繰り返しては、いつも空振りに終わって臍を噛む、旅立ちの止め男としての水戸藩家老、山野辺兵庫を、大友柳太郎が演じていたが、その代々家老の山野辺家の跡取り息子が山野辺義観であった。彼は幽谷や正志斎の学に心酔し、国防意識を高潮させていた。
文政12年の『御親政』を目指した水戸の下士のクーデターとも呼べる南下は、それから39年後の『御親政』による王政復古を旗印にした明治維新の予告だったのではあるまいか。ついでに言えば、このとき徳川恒之允の擁立に失敗した上士の人々の流れが水戸藩内での佐幕派として諸生党を形成し、この諸生党が、かつて南下に参加した武田耕雲斎も加わった絶対尊皇の天狗党と全面戦争となって、水戸領内を熾烈な戦場と化したのは1864(元治)年である。これは水戸藩内版のプレ戊辰戦争であったと言ってよい。
水戸の歴史はいつも維新史を先取りしていた」
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徳川斉昭は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。
略歴
第7代藩主・徳川治紀の三男として生まれる。母は公家(日野家一門)の外山氏。幼名は虎三郎、敬三郎。初めは父・治紀より偏諱を受けて紀教(としのり)、藩主就任後は第11代将軍徳川家斉より偏諱を賜い斉昭と名乗った(本項ではすべて「斉昭」で統一する)。諡号は烈公、字は子信、号は景山、潜龍閣。
家督相続
寛政12年(1800年)3月11日、水戸藩江戸小石川藩邸で生まれる。治紀の子息たちの侍読を任されていた会沢正志斎のもとで水戸学を学び、聡明さを示した。
治紀には成長した男子が4人いた。長兄の斉脩は次代藩主であり、次兄の松平頼恕は文化12年(1815年)に高松藩松平家に養子に、弟・松平頼?は文化4年(1807年)に宍戸藩松平家に養子に(両松平家とも水戸家の連枝)、と早くに行く先が決まったが、三男の斉昭は30歳まで部屋住みであり、斉脩の控えとして残されたと思われる。なお、生前の治紀から、「他家に養子に入る機会があっても、譜代大名の養子に入ってはいけない。譜代大名となれば、朝廷と幕府が敵対したとき、幕府について朝廷に弓をひかねばならないことがある」と言われていたという(『武公遺事』)。
文政12年(1829年)、第8代藩主・斉脩が継嗣を決めないまま病となった。大名昇進を画策する附家老の中山信守を中心とした門閥派より、第11代将軍・徳川家斉の第20子で斉脩正室・峰姫の弟である恒之丞(のちの紀州藩主徳川斉彊)を養子に迎える動きがあったが、学者や下士層は斉昭を推し、斉昭派40名余りが無断で江戸に上り陳情するなどの騒ぎとなった。斉脩の死後ほどなく遺書が見つかり、斉昭が家督を継いだ。
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藤田幽谷(1774年3月29日(安永3年2月18日) - 1826年12月29日(文政9年12月1日))は、江戸時代後期の儒学者・水戸学者・民政家。水戸城下で古着商藤田屋を営む与右衛門の次男、母は根本氏の娘。祖父に与左衛門。子に藤田東湖。常陸水戸生まれ。名は一正。通称は熊之介、後に与介、また次郎左衛門。字は子定。水戸学中興の祖。
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会沢正志斎(天明2年5月25日(1782年7月5日) - 文久3年7月14日(1863年8月27日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者・思想家。名は安(やすし)。字は伯民。通称は恒蔵。号は正志斎、欣賞斎、憩斎。
天明2年(1782年)、水戸藩士・会沢恭敬の長男として、水戸城下の下谷で生まれる。母は根本重政の娘。幼名は市五郎、または安吉。会沢家は代々久慈郡諸沢村(常陸大宮市諸沢)の農家で、初代藩主・徳川頼房のとき餌差(鷹匠の配下、鷹の餌である小鳥を捕まえる職)となり、祖父の代に郡方勤めとなり、父・恭敬の代に士分となった。
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安積艮斎(あさかごんさい、寛政3年3月2日(1791年4月4日) - 万延元年11月21日(1861年1月1日))は、幕末の朱子学者。江戸で私塾を開き、岩崎弥太郎、小栗忠順、栗本鋤雲、清河八郎らが学んだ他、吉田松陰にも影響を与えたとされる。
寛政3年(1791年)3月2日、陸奥(後の岩代)二本松藩の郡山(福島県郡山市)にある安積国造神社の第55代宮司の安藤親重の三男として生まれる。名は重信、字は子順(思順)(しじゅん)、通称は祐助、別号は見山楼。
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吉田松陰
アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山、安積艮斎に師事する。嘉永4年(1851年)には、交流を深めていた肥後藩の宮部鼎蔵と山鹿素水にも学んでいる。
嘉永5年(1852年)、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の現場を訪ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。
嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれた。この時、同志である宮部鼎蔵に書簡を送っている。そこには、「聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるということです。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります」と記されていた。その後、師の薦めもあって外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航していた為に果たせなかった。
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吉田松陰は、「ロシアの侵略による皇室と日本の危機」という水戸学の警鐘に突き動かされ、尊皇派の宮部鼎蔵とともに藩の許可も得ずに東北地方を旅して、各藩・各地の憂国の士を訪ね、「皇室や日本を如何に守るか」の意見交換をした。
憂国の士は、下級武士だけではなく庶民(百姓や町民)の間にも多く存在していた。
上級武士は、現状維持派として、お家大事の自藩中心主義から自藩は命をかけても守るが、他藩はもちろん、日本が侵略されて植民地となろうが関心は薄かった。
それが、日本の国防より自藩の安泰を優先するのが幕藩体制の実態であった。
その為、維新の原動力となったのは上士・上級武士層ではなく下士・下級武士層や庶民であった。
つまり、明治維新とは下層から上層への社会変革であった。
その発端が、ロシアの侵略に対する恐怖であった。
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江戸時代後期の知識人は、現代の裕福な高学歴出身知的エリートとは違い、貧しい下級武士や身分低い庶民達であった。
日本の民族的な思想や哲学は、下級武士や庶民達の間から生まれた。
日本の強みは、西洋や中華由来のグローバルに影響を受けながら、日本のグローバル化を拒否する民族的なローカルにあった。
下級武士や庶民は、立身出世の道具として外国語を身に付けようとする知的エリートとは違い、「言霊」を宿した日本国語を愛し大切にした。
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勤王の志士や尊皇派は、下級武士、庶民、そして非人・エタなどの都市部の賤民や山の民・川の民・海の民など地方の部落民達であった。
京の町では、地方から集まった一本差しの俄武士が尊皇攘夷を叫んで暴れ回って治安が悪化した。
俄武士には、武士の作法や武士の気概といった武士道・士道がなく、相手かまわずに激論を吹っ掛け言い負けそうになると激高して刀を抜いて暴れ、意気投合すると酒を飲んで暴れた。
異国の侵略から天皇家・皇室と母国を守らなければならないという使命感の中から、歴史上初めて日本民族日本人という運命共同体意識が生まれ、民族主義が誕生した。
それが、日本の近代化であった。
天皇家・皇室を護り、天皇制度を支えたのは、ローカルな、下級武士や庶民、そして非人・エタなどの賤民や山の民・川の民・海の民などの部落民達であった。
日本の貧困層や下級階層は、普遍宗教のキリスト教もグローバルなマルクス主義(共産主義)も必要としなかった。
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日本においてマルクス主義(共産主義)やキリスト教に染まるのは、ローカルな知識層ではなく、グローバルな知的エリート層であった。
それ故に、グローバルな知的エリートはローカル言語である日本国語を目の敵のように嫌い、グローバル言語を日本の公用語にするべく子供達に教えようとする。
それは、ハワイから民族言語とともに伝統・文化・宗教・習慣・風習が抹消した事が好例である。
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マルクス主義者とくに共産主義者は、庶民を人民として味方につけ暴力革命を成功させる為に、命・血・心・志・想いでつながっている日本民族を完全無視して、正統な皇統で受け継がれてきた民族的天皇制度を廃絶し、正統な血筋で保たれてきた民族的天皇家・皇室を消滅させようとしている。
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日本の伝統的民族中心歴史観が歪に改竄されたのは、敗戦後のキリスト教教会史観とマルクス主義階級闘争史観そして1980年代の日本人極悪非道の凶悪犯史観=自虐史観である。
そこでは、キリスト教徒によって日本人が改宗されて奴隷として売られたという非人道行為も、昭和天皇・皇族がキリスト教系朝鮮人テロリストに暗殺されかけたという大逆罪・不敬罪も抹消されている。
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