💄36)─3─江戸時代の日本は「離婚大国」だった。女性の自活力。~No.76 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昔の日本人男女の繋がり・絆は、民族神話の色恋であって、儒教の夫婦愛やキリスト教の恋愛ではなかった。
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 離婚は、身分の低い庶民の間では多かったが、身分の高い武士の間では少なかった。
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 2024年9月5日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「江戸時代の日本は「離婚大国」だった…92歳医師と結婚した50歳妻が2週間で離婚を求めた驚きの理由
 河合 敦 の意見
 © PRESIDENT Online
 江戸時代の夫婦はどんな関係性だったのか。歴史作家の河合敦さんは「男性が偉く、女性が虐げられていたというイメージがあるが、実はそうではない。原則として女性には離婚請求権がなかったが、夫に落ち度があれば離婚できたため、バツイチは当たり前だった」という――。
 ※本稿は、河合敦『逆転した日本史〜聖徳太子坂本龍馬鎖国が教科書から消える〜』(扶桑社)の一部を再編集したものです。
 離婚する権利は夫にしかなかったが…
 江戸時代が男尊女卑の社会であることは間違いない。ただ、それはかなり建前的であって、実際はいわれているほど女性が虐げられていたわけではない。
たとえば、男女の離婚を例に話そう。
 夫が気に入らなければ、妻に三行半(みくだりはん)(離縁状)を突きつけ、家から追い出す。そんなシーンが一昔前の時代劇にはよく見られた。
 確かに離縁状は、夫から妻に対して一方的に渡すものであり、離婚する権利は夫にしか認められていなかった。
 ちなみに離縁状を「三行半」と呼ぶのは、三行と半分で書くことが多かったからだ。
 「其方事、我ら勝手につき、このたび離縁いたし候、しかる上は、向後何方へ縁付(えんづき)候とも、差しかまえこれ無く候、よって件(くだん)のごとし」
 「誰と再婚してもかまわない」という許可状
 これが典型的な離縁状の文例である。
 しかし、その文章をよく読めば「離婚するのは私の都合であり、離婚したからには、お前は今後、誰と再婚してもかまわない」という意味であることがわかる。
 つまり、三行半は再婚許可状なのだ。これをきちんと妻に渡さないで、勝手に再婚した場合、その夫は「所払い」という刑罰に処せられるのである。
 こうした事実は、最近の教科書にもちゃんと反映されている。
 たとえば実教出版の『日本史B』(2017年)には「近世の結婚と離縁を調べる」と題して、主題学習の一例として江戸時代の離婚について詳しく記されている。
 時代劇のイメージだけだと試験で誤答する
 それを読むと、三行半が再婚の許可だということ、妻の持参金や持ち込んだ家財道具はすべて妻側に返還すること、子どもの養育費や親権については仲人を仲介として協議して決めるのが一般的であることが述べられている。
 さらに一部例外として、妻側にも離婚請求が法的に認められていたと、1741に発布された『律令要略』を引用して説明している。それは、夫が妻の衣類などを勝手に質入れした場合だ。
 すでに2006年の大学センター入試にも離縁状に関する問題が出題されている。
 江戸時代の農民の家や暮らしに関して述べた次の文X~Zについて、その正誤の組合せとして正しいものを、下の①~④のうちから一つ選べ。
 X 田畑の相続にあたって、分割相続が奨励された。
 Y 離縁状(三下り半)は、再婚を許可する役割も果たした。
 Z 信仰のための組織として、庚申講がつくられた
 ① X正 Y正 Z誤
 ② X正 Y誤 Z誤
 ③ X誤 Y正 Z正
 ④ X誤 Y誤 Z正
 正解は③だ。
 Xは「分割相続」という箇所が誤り。これは鎌倉時代の武士の相続方法だから。江戸時代の農民は大地主でない限り、次男以下に田畑を分割するのは法的に認められていない。
 いずれにせよ時代劇の三行半のイメージを抱いていたら、不正解を選んでしまうことになるのだ。
 バツイチは当たり前、女性も強かだった
 残念ながら江戸時代の離婚率は、統計をとっていないので判然としない。けれど、思った以上に高かったと考えられている。とくに江戸市中は高かったようだ。
 なぜなら女性は離婚しても次の相手に事欠かなかったからだ。男は単身の出稼ぎ者が多く、人口比も女性よりずっと高かったので、容易に再婚ができたのだ。バツイチは当たり前で、中には結婚と離婚を繰り返しているケースも見られた。
 なんと、将来相手が嫌いになったら別れられるよう、結婚前に夫から離縁状を強要した例も判明している。さらに夫を恐喝して離縁状を書かせ、家を飛び出して愛人のもとへ走る妻もいた。離縁状をもらうため、わざと家事を怠けたり、金を湯水のように使い、精神的に夫を追い込む女もいたというから驚きである。
 性的DVを理由に約2週間で離婚を要求
 原則的に女性には離婚請求権はなかったが、夫に落ち度があれば、離婚できるのが江戸時代であった。
 そんな事例を一つ紹介する。
 江戸後期に藤岡屋由蔵が日々の風聞をまとめたのが『藤岡屋日記』である。そこに次のような話が採録されている。
 小石川原町に住む医師の天公法現は、鍼灸師・妙仙と結婚し、正月3日に同居したところ、妙仙は18日に元の住居に逃げ戻り、仲人や親族に夫のひどさを訴え、離婚を求めた。
 なんと、嫁いだその日から翌日まで18回も性交されたうえ、それから10日間は昼夜なく交わり続け、妙仙は「陰門腫痛(しょうつう)」し、裂傷を負ったのである。いまなら強姦罪だ。
 そこで妙仙の親族が法現の屋敷に怒鳴り込んだ。法現は「妙仙を養生させたうえで離婚話を進める」と約束、そこで彼女を家に戻したところ、その夜また、妙仙を強姦したのだ。
 これで怒った仲人と親族は、慰謝料を法現から取って、妙仙を離婚させたという。
 夫から逃げたい妻を救った「縁切り寺」
 ただ、驚くべきは夫婦の年齢である。妻の妙仙は50歳、夫の法現は92歳だった。
 このケースは明らかに夫に非があって離婚が成立したのだが、原則的には夫が離縁状を出してくれなければ離婚は成立しない。だから飲んだくれ亭主や暴力を振るうDV夫から逃れられない、そんな悲惨な妻たちもいた。
 だが、一つだけ彼女たちを救ってくれる方法があった。
 縁切り寺へ駆け込むのである。
 代表的な寺が鎌倉の東慶寺である。鎌倉幕府の執権北条時宗の妻・覚山尼が創建した寺で、彼女は息子の九代執権貞時に「ひどい夫のために自殺する女性が後を絶たない。彼女たちを寺へ召し抱え、夫と縁を切って身軽にしてやりたい」と願い、朝廷の勅許を得て縁切(御寺法)が認められることになった。
 その後、東慶寺の第二十世・天秀尼(豊臣秀頼の娘)が徳川家康に縁切の永続を願って許可され、以後、江戸時代を通じて女性を救ってきた。
 駄々をこねる夫は呼び出して叱りとばす
 縁切を求めて東慶寺に駆け込んだ女は、境内の寺役人から身元を調べられ、寺の周辺の御用宿へ預けられる。その後、寺役人は妻の実家がある村の名主に連絡し、実家関係者を東慶寺に集め、「夫方と交渉して離縁できるようにしてあげなさい」と協議離婚をすすめる。
 これを内済(ないさい)離縁と呼ぶが、たいていの夫は、妻の実家から「うちの娘が東慶寺に駆け込んだ」と聞かされた時点で、素直に離縁状を渡した。
 だから内済離縁のために妻の実家関係者が東慶寺に来た時点で、夫の離縁状を携えているケースが多く、そのまま女性は寺から実家の関係者に引き渡された。
 でも中には駄々をこねる夫もいる。すると東慶寺では、仲人や夫本人を呼び出した。
 そして彼らがやってくると寺役人は叱りとばし、事実を確認したうえで離縁状を書かせた。離縁状は2枚つくらせ、1枚は妻に渡し、もう1枚は東慶寺で保管した。ただ、中には妻に夫が陳謝し、復縁することもあった。
 一方、呼び出してもやって来ない、叱られても離婚に応じない強者もいる。
 すると東慶寺では、寺法離縁の段階に入る。「近く寺役人が出張し、離婚についての裁判に出向く」と記された出役達書(しゅつやくたっしがき)を夫の住む村の名主(庄屋)に送りつけるのだ。
 すると、さすがに夫やその家族も恐れをなし、夫が鎌倉に出向いて離縁状を渡すことになる。
 「寺法離縁」まで粘る夫の浅ましい狙い
 しかし、それでもまれに離婚に応じない者がいる。そうなると、寺役人は「寺法書」を持って村の名主のもとに出向く。寺法書には「女が別れたがっているのに、離縁しないのはなぜだ。今後は女を東慶寺で預かる。もう、お前の女房ではない」と書かれている。つまり、容赦のない通告を突きつけるのだ。
 ただ、納得できないときは、夫は「違背書」をしたため、幕府の寺社奉行へ提出する権利がある。でも、奉行所に呼び出された夫は、寺社奉行から「このままでは仮牢入りだ」と脅され、最終的には詫び状を書かされるのである。どうせこうなるなら、なぜおとなしく離縁状を出さないのか? そう疑問に思うだろう。
 じつはわけがある。
 「寺法離縁」に発展した場合、女は1年間、寺での厳しい生活を余儀なくされる決まりなのだ。しかも、脱走すれば髪を剃られて丸裸で追放され、戸籍まで抜かれてしまう。つまり、寺法離縁まで引っ張るのは、逃げた女房への腹いせというわけだ。
 東慶寺へ駆け込んだ女性のその後は、記録に残っていない。余程の事情があったのだろうから、みんな幸福な人生を送ったと思いたい。
 なお、この縁切り制度は、1873年に女性の離婚請求権が認められたことで終わりを迎えた。

                    • 河合 敦(かわい・あつし) 歴史作家 1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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