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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
反宗教無神論を自称する現代日本人は、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力がない為に江戸時代の葬式仏教が正しく理解できない。
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2024年6月30日 読売新聞 文化 よみうり堂 本「評・岡美穂子
『激変する日本人の死生観』人は死んだらどこへいくのか 第2巻
佐藤弘夫 著
来世と現世の境巡る旅
いわゆる日本の古典的名著には、冒頭に作者の死生観が表現されることが多い。『平家物語』の『祇園精舎の鐘の声』や『方丈記』の『ゆく川の流れは』など、枚挙に暇(いとま)ない。そしてこれらの導入を持つ名文が古典として読み継がれてきた背景には、日本人の『生きること』と『死ぬこと』への関心の高さが見え隠れする。
本書は日本全国各地にある『あの世』と『この世』を結ぶ境界的な場所を巡る旅エッセーである。もともとは『月刊住職』(興山舎)という専門雑誌の連載であり、当然ながら読者の多くはその道のプロである。その点でもクオリティの高さは保証されていると言ってよい。実際、なぜその地が境界たりえるのか、宗教実践の視点と歴史学・民俗学の正確な学術的知識が交錯しつつ、静謐(せいひつ)に語りかけるように平易な文章で解き明かされる様な、知的好奇心を刺激しながらも『癒し』の効果を感じる。
著者に拠(よ)ると、中世人の理想的な『死後』が極楽浄土への往生であったのに対し、近世人は自分が生きていいた世界、子どもや孫たちが暮らしている場所により近いところで『仏さま』として過ごすことを考えるようになったという。その理由として中世の『生』は飢饉や貧困、病気などに満ちた厳しい場所であったのに対し、比較的平穏であった江戸時代の現世が『生まれ変わっても良い』と思える場所になっていたことが挙げられる。現在日本人の家庭の多くにあるように、江戸時代に仏壇が普及したのは、その時代の死生観に基づくと考えれば合点がいく。
近代以前の日本人の意識の中で、生者と死者の世界は時に重なり合い、死者は恐怖や畏怖の対象であっても、それを祀って宥(なだ)めることで共存し得る存在であった。地震などの大きな災害に度々見舞われ、食糧環境も豊かではない中で、愛する人を失うのも日常であった日本人は、死者を近くに感じることで、その喪失感を埋め、生きる力に変えることもできたのだろう。」
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6月30日 MicrosoftStartニュース 産経新聞「一般人と寺とのズレはなぜ生じるのか 『葬式仏教 死者と対話する日本人』薄井秀夫著 〈産経BOOKS〉
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一般人と寺とのズレはなぜ生じるのか 『葬式仏教 死者と対話する日本人』薄井秀夫著 〈産経BOOKS〉
© 産経新聞
『葬式仏教 死者と対話する日本人』薄井秀夫著(産経新聞出版・1320円)葬式仏教。この言葉には「葬式ばかりやっていて、教えを説かない仏教」や「葬式で金もうけばかりしている仏教」といった否定的なニュアンスがにじむ。しかし、お寺運営コンサルタントとして長年実態を見てきた著者は「日本人が生活のなかで信仰してきた、紛れもない宗教」であり、死者への優しさに満ちた「とても大切な財産」だと評価する。
本書は、葬式仏教という死者供養中心の日本特有の仏教が室町時代の後半に生まれ各地で浸透していった歴史のほか、お布施を巡って金額の相場を知りたがる一般生活者側と「お気持ちで」を繰り返すお寺側との間でズレが生じる背景、地域コミュニティーの中核としてのお寺の再生に向けた方策などを記す。
興味深いのは、日本で葬儀の9割近くが仏教式で行われているにもかかわらず、僧侶育成の大学や学部では葬送や祈願について学ぶ講義がほとんどないことだ。国民的な行事であるお盆についても「〝この世に戻ってきた死者と触れあう期間〟という考えは、仏教の教義には存在しない」とか。目から鱗(うろこ)が落ちる話だ。
供養という死者との対話を通じ、心の安らぎや謙虚さをもたらしてくれる葬式仏教の存在感の大きさと魅力がじわじわ伝わってくる。(伊)
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死生観と言っても、昔の日本人の死生観と現代日本人の死生観は全然違う。
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日本民族の死生観が、神の王国を説くキリスト教と死後の完全消滅を力説する共産主義を排除した。
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日本民族は集団主義・家族主義に基づく家制度として、改宗した自分一人だけではなく亡き父母や祖先まで全ての身内の「癒やし」や「救済」を求めていた。
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日本列島は、地理的に生と死の狭間、陸と海の境界で、自然環境からは生と死が表裏一体となった災害多発地帯であり、宗教的に聖と俗の中間に位置する。
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