💖2)─3・B─戦傷病死の日本赤十字社従軍看護婦を祀る靖国神社が否定されている。~No.4 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 靖国神社の祭神には軍人だけではなく子供や女性も神として祀られ、国家総動員法に基づく徴用または協力者中の死没者(学徒・徴用工・女子挺身隊員・報国隊員・日本赤十字社救護看護婦)、学徒動員中に軍需工場で爆死した学徒、交換船「阿波丸」沈没により犠牲となった非軍属乗員や集団疎開の学童達が含まれている。
 日本赤十字社救護看護婦には、日本人だけではなく日本国籍を持つ台湾人や朝鮮人もいた。
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第一次世界大戦、日本が5大国の一国として国際連盟の常任事理国になった。
2017-08-18
💖9)─1─日本皇室と日本赤十字社は、パリに日本赤十字社救護班による日赤病院を開院した。~No.38・ @ 
2021-02-17
💖9)─2─日本赤十字社集団的自衛権赤十字救護看護婦「竹田ハツメ」。~No.39No.40No.41 
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 2024年5月15日 NHK「皇后さまなど出席 日本赤十字社の全国大会が開催 東京
 日本赤十字社の全国大会が、皇后さまや女性の皇族方も出席されて、15日、東京で開かれました。
 東京 渋谷区で開かれた大会には、日本赤十字社の名誉総裁を務める皇后さまや、秋篠宮妃の紀子さまなど名誉副総裁を務めている女性の皇族方も出席されました。
 大会では、集まった関係者およそ1600人を前に、皇后さまが赤十字の活動に功績のあった個人や団体の代表に表彰状などを手渡されました。
 続いて活動報告が行われ、学生奉仕団の一員として能登半島地震の被災地に入った金沢星稜大学4年の大久保百茄さんが、輪島市で炊き出しを行った経験などを語りました。
 また、パレスチナガザ地区に派遣されていた大阪赤十字病院の川瀬佐知子さんが、イスラエル軍イスラム組織ハマスの戦闘が続く中、南部のラファで3週間余りにわたって住民のけがの手当てや薬の手配などにあたったことを報告しました。
 皇后さまなど皇族方は、会場をあとにする際2人にことばをかけられ、大久保さんは「皇后さまから『揺れたと思いますが、どうでしたか』と聞かれ、立っていられないほどで恐怖を感じましたと答えました」と話していました。
 また、川瀬さんは「皇后さまに、当時の私の状況や今も現地に残って活動している仲間のことを気遣っていただき、うるっときました」と話していました。
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 歴史的事実として、日本人従軍看護婦は、天皇の御稜威、日本の心そしてナイチンゲールの思想で、負傷した兵士を敵味方に関係なく平等に公平に治療して助けていた。
 従軍看護婦が所属する日本赤十字社は、皇室の保護を受け、皇后が総裁を務め、陸海軍大臣の監督を受け戦場で医療活動を行っていた。
 赤十字社従軍看護婦は、戦場で日本軍の軍紀・軍律が正常に働いている内は保護されていた。
 日本軍にとって十字社と従軍看護婦の自己犠牲的医療活動を妨害する事は、天皇に対する反逆ではないが不忠であった。
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 アジアの戦場では国際法は守られず無法地帯のような戦闘が繰り広げられ、日本の従軍看護婦の犠牲者は絶える事がなかった。
 中国・満洲樺太などで、ロシア人共産主義者中国共産党軍兵士、中国人暴徒、朝鮮人パルチザンらは、戦傷病で動けない日本軍兵士を庇う日本人従軍看護婦を目の前で襲いかかり強姦し惨殺していた。
 国際法は、非人道に対する犯罪、戦争犯罪とは認定していない。
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 エセ保守とリベラル左派、中国、韓国・朝鮮、キリスト教原理主義イスラム教過激派は、人神信仰の靖国神社を否定している。
 反宗教無神論マルクス主義過激派や反天皇反民族反日的日本人は、皇室との繋がりがある靖国神社を絶対に認めない。 
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 反日派の中国人や韓国人・朝鮮人、反靖国神社の日本人やキリスト教徒やイスラム教徒らによる、靖国神社に対する宗教テロが絶えない。
 反日派中国人の後ろに隠れているのが中国共産党である。 
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 世界は、非人道が常識である。
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 日本は宗教テロに襲われている。
2022-01-23
🎃目次)ー9ー日本の宗教を襲う近隣諸国の宗教テロと外国人による仏像・仏画・仏具泥棒。カルト宗教。~No.1 * 
2024-06-26
🎃8)─1─中国共産党反日愛国ビジネス。靖国神社宗教テロ。~No.17No.18 
2019-03-01
🎃9)10)─1─韓国人の靖国神社神池放尿冒涜事件。平成25年5月31日 〜No.19No.20No.21No.22No.23・ *・
2019-03-03
🎃21)22)23)─1─靖国神社公式参拝に対するアメリカの失望発言。平成25年9月23日~No.48No.49No.50No.51No.52No.53・ *・ 
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 日本人の共産主義者無政府主義者テロリストは、キリスト教朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。



 2024年6月30日6:05 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「皇室と共に歩んだ“博愛精神”の「日本赤十字社」その看護婦は「赤紙」で召集され太平洋戦争で1120人が“戦死”した
 台湾人元従軍看護婦のデモ
 水さかずきで出発する日赤救護班(『戦争と看護婦』より)
 1994年3月の台湾・台北市。日本の軍歌が宣伝カーから大音量で流れ、数十本もの「日の丸」が雨風になびく。それを先頭に、高齢者ばかり約3000人のデモ隊が、降りしきる雨の中を出発した。旧日本陸軍・海軍の戦闘帽を被った人が多い。
 【写真】死体をトロッコで運び大きな穴に…元日本従軍看護婦が明かす地獄のような戦場
 彼らは、日本政府に補償を求める台湾人の旧日本軍の元軍人・軍属とその遺族だ。私はこのデモを見た時、たくさんの「日の丸」は日本への好意を示すものだと思った。だがそれは濡れた道路に敷き詰められ、デモ参加者によって次々と踏みつけられた。雨が降っていなければ、火をつける予定だったという。
 そうした激しい抗議行動をするデモ隊の中に、「日本赤十字社(日赤)」看護婦の濃紺の制服を着た女性たちの姿があった。「日本人」として戦場へ送られた台湾人の元日赤看護婦である。
 日赤は、日本のさまざまな時代の戦争の遂行に大きな役割を果たしてきた。とりわけアジア太平洋戦争で、「日赤戦時救護班」として戦場へ派遣された看護婦たちは壮絶な体験をした。
 その中には、日本が植民地支配をしていた朝鮮と台湾で召集された女性たちがいる。日本人看護婦からはほとんど語られることがない、極限状況の戦場で起きたおぞましい出来事を、韓国人と台湾人の元看護婦たちが語ってくれた。
 なお本稿では、法改正で「保健婦助産婦看護婦法」から「保健師助産師看護師法」へと名称が変更された2001年より前の女性看護師を「看護婦」としている。
 日赤の誕生と皇室とのつながり
 「赤十字思想誕生百年」の切手
 日赤は現在、全国に赤十字病院92、地域血液センター47を運営し、職員は約6万7400人という巨大組織になっている。また世界の赤十字社赤新月社の中で唯一、大学・短大など19もの看護教育のための施設を持つ。そして日赤は、設立から今日にいたるまで、皇室と極めて密接な関係にある。
 敬宮(としのみや)愛子内親王は今年4月、日赤本社に常勤嘱託職員として入社。日赤を就職先に選んだ理由は、日赤の社会における役割の大きさを実感し、社会に直接的に貢献できる活動に魅力を感じたからだという。仕事の内容は、ボランティアに関する情報誌の編集などで、今年5月15日の「全国赤十字大会」では誘導係を務めたことがニュースになった。
 また日赤は現在、献血や寄付を呼び掛けるわけでもないイメージ広告をテレビ各局で流している。その費用は、合わせて約1億5000万円だという。愛子内親王の就職に合わせて、日赤のイメージアップを図ろうとしているのだろう。“地味”な存在の日赤に、社会の関心が向いている。
 現在の日赤の名誉総裁は雅子皇后。名誉副総裁には、皇族6人が名前を連ねている。年に1度開催される全国赤十字大会には、皇后と皇族らが出席してきた。そして日赤は、1952年制定の「日本赤十字社法」による認可法人という特異な組織だ。
 世界には191の国・地域に、赤十字社ないしは赤新月社がある。現在の「日赤救護班」は大規模災害時の救護活動をしているが、そもそも各国の赤十字社赤新月社は、戦争での傷病兵を救護することを目的につくられた。
 1859年にスイスの実業家アンリ・デュナンは旅行中に、戦場に負傷者が放置されている悲惨な状況を見て救護に参加。それが、戦争時の傷病兵・捕虜・抑留者などの保護を目的とする1864年の「ジュネーブ条約(赤十字条約)」の調印へと発展した。
 では、日本の赤十字社はどのように生まれたのか。
 1877年2月に明治政府軍と鹿児島士族との「西南戦争」が起きた。その負傷者救護のために、その年の6月に「博愛社」が創設された。初代の総長には、小松宮彰仁親王が就任。明治天皇が1000円(現在の約2000万円)の寄付をしたり皇后が包帯を贈るなど、皇室がバックアップをした。このように日本での赤十字運動は、誕生の時から皇室との強いつながりを持った。
 日本政府は1886年ジュネーブ条約へ加入し、その翌年に博愛社は「日本赤十字社」へ改称。この条約への加入は、日本が“文明国”であることを国際的に示そうという思惑があった。1912年には皇后が、ワシントンでの「赤十字国際会議」に10万円(現在の約20億円)もの寄付をしている。
 「日赤は天皇・皇后の保護を受け、皇族を総裁とすること、社長、副社長の就任には勅許を得ること、陸海軍大臣に監督権をゆだね、活動にさいしては陸海軍の指図を受けるということ、下部機構は、府県市町村の行政組織に一致させて、本社の意向が直ちに地方へ行き渡るような中央集権的体制が徐々に確立されていった」(『日本赤十字の素顔』赤十字共同研究プロジェクト)
 日赤を支える個人社員(現在は会員)数は、1945年には約1500万にも達した。その時の人口は約7200万人だったので、何と加入率は約20パーセントにもなる。日本が戦争への道を進む中で、日赤は「挙国一致」のための国民統合の強力な装置となったのだ。
赤紙」で召集された看護婦たち
日赤が発行した看護婦召集令状(『日本赤十字の素顔』赤十字共同研究プロジェクト)
 1901年に制定された「日本赤十字社条例」には、「日本の陸軍大臣海軍大臣の指定する範囲内において陸海軍の戦時衛生勤務を幇助すること」と明記された。つまり日赤は軍の監督下に置かれ、戦争時には軍の衛生部隊の医療・看護活動を補助すると位置付けられたのだ。
 「日本では日露戦争以降、日赤と軍の相互主義はなし崩しとなり、徐々に軍の支配が強くなっていく。日赤看護婦の身分は、陸軍においては軍属とされた。(中略)軍の指揮下に入る際には宣誓をして軍属となり、命令違反があったときには陸軍刑法および懲罰令の適用を受けることになった。(中略)軍の日赤に対する統制が強まるなか、やがて救護員にとって軍の命令は絶対となった」(『戦争のある場所には看護師がいる』「戦時下に日本のナースたちが体験したこと」川原由佳里)
 日本が武力を背景にアジア諸国へ権益を求めて進出する中で、日赤は日本軍の海外派兵と戦争に備えて病院建設と看護婦の養成を進めた。「日赤看護婦養成所」の開設目的には「戦時ニ於テ患者ヲ看護セシムル用ニ供ス」とされていた。
 「私が日本赤十社救護看護婦養成所に行ったのは、それが女が行ける陸海軍に最も近い位置、というより陸海軍と一体であったからである」(『慈愛による差別』北村小夜)というように、「お国のために尽くしたい」と思った女性は日赤の看護婦になって、戦場で兵士の看護をするという選択肢しかなかったのだ。
 “軍国少女”でなくても、日赤の「救護看護婦養成規則」により日赤看護婦養成所を卒業した看護婦は、2年間の病院勤務に服することと、卒業後20年間(次第に短縮)は「国家有事」には召集に応じる義務があった。それは既婚者や、子どもが何人いても対象となった。
 召集されると「日赤戦時救護班」に組み込まれる。それは医師1人、看護婦長1人・看護婦20人と、書記・使丁1人ずつの合計24人で1班が構成されていた。軍隊内での待遇は、書記と看護婦長は下士官、看護婦は兵卒と同じだった。そしてこの救護班は、陸軍・海軍の部隊に組み入れられた。
 「赤十字の救護班に対してまで、軍は敵を殺すことを想定した竹やり訓練を行い、遺髪や爪を残すよう命じ、天皇陛下万歳を三唱するという死に際の作法を指導、そして自決のための手榴弾の訓練や青酸カリを配布したのです」(『戦争と看護師』「赤十字条約はなぜ守られなかったのか」川原由佳里)
 日赤救護班員は戦闘に参加しない「軍属」だった。しかし軍事訓練では、竹やりだけでなく殺傷能力のある長刀や実弾射撃まで受けた看護婦たちもいた。
 日赤看護婦の召集は、兵士と同じ「赤紙」によって行なわれた。戦況悪化の中で若い男性が片っ端から戦場へ向かうという状況の中で、女性が従軍看護婦として出征することは“家の名誉”だった。その看護婦の自宅玄関には、「出征兵士の家」と書かれた木札が掲げられた。
 居住地を出発する際には兵士の出征と同じように、看護婦も万歳三唱で送られた。そして死を覚悟したことの証の“水さかずき”をし、戦場へ向かったのだ。「女の兵隊さん」と従軍看護婦たちが呼ばれたゆえんである。
  “水増し”された従軍看護婦
 戦線が拡大するにつれて、兵士だけでなく看護婦も足りなくなった。そのため、次々と看護婦の“水増し”が実施された。1941年に「内務省令看護規則」が改定され、看護婦資格が得られる年齢を18歳から17歳へ引き下げた。さらに1944年には、16歳になった。
 日赤看護婦は最初、修業期間4~5年の高等女学校を卒業してから、日赤看護婦養成所で3年間の教育を受けた者だった。それを1940年には、尋常高等小学校を卒業し養成所で2年間の教育を受けた者を「乙種救護看護婦」とし、従来の看護婦を「甲種救護看護婦」と呼ぶようにした。
 さらに1942年には、日赤以外の看護婦養成所を卒業して民間病院に勤務している看護婦や退職看護婦を対象に、日赤で3カ月間だけ教育して「臨時救護看護婦」としたのだ。
 それだけではなく、高等女学校の在校生・卒業生までもが看護に駆り出された。沖縄戦では、いくつもの高等女学校などの「学徒隊」で多くの死者が出た。そのうちの「ひめゆり学徒隊」は、「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第1高等女学校」の生徒222人・教師18人で構成され、「沖縄陸軍病院」で勤務。集団自決をせざるを得なかった10人を含む、生徒・教師136人が死亡している。
 “戦死”した1120人の日赤看護婦
 「満州事変」での日本の従軍看護婦Wikipedia
 日本から戦場へ送られた看護婦は、日赤と陸軍・海軍からだった。日赤と陸軍の看護婦が最初に派遣されたのは、1937年に「盧溝橋事件」が起きた中国だった。
 それ以降は、フランス領インドシナ南鳥島南洋諸島および新南群島・タイ・ビルマ・英国領マレー半島・オランダ領東インド諸島・英国領ボルネオ・ニューギニア島ビスマルク諸島・オーストラリア・フィリピン諸島ハワイ諸島・太平洋およびインド洋上の島嶼・千島列島・小笠原諸島および硫黄列島・インド・南西諸島・樺太北緯38度線以北の朝鮮。つまり、日本が覇権を求めて軍隊を送り込んだアジア太平洋の国と地域のすべてである。
 1937年から1945年のアジア太平洋戦争の敗戦までに動員された日赤救護班は960班で、延べ3万3156人。この中には、2~3回と召集された人たちがいる。
 このうち戦場へ派遣されたのは307班、病院船91班、残りが日本国内での勤務だった。送られた戦場は中国が187班と最も多く、それと別に中国東北地方へ64班、ビルマ・タイ・南洋群島の「南方」へは56班だった。そして殉職した看護婦は、1120人にもなった。
 これ以外に陸軍・海軍看護婦や沖縄の学徒隊など、救護活動の中で死亡した多くの人がいる。10代と20代の若い女性たちが、兵士と同じように戦場で次々と亡くなったのである。
 ビルマへ送られた和歌山からの「第490救護班」は、23人中の15人が死亡した。看護婦長は、「天皇陛下万歳」と叫んで自決。それは、1941年1月に東條英機陸軍大臣の名で公布された「生きて虜囚の辱めを受けず」とする「戦陣訓」があったからだ。
 ジュネーブ条約は「戦時傷病者は敵味方の区別なく看護されること」としている。これは、赤十字運動の根幹である。そして日赤は「人道・博愛」を掲げてきた。だがそうした崇高な理念とは異なり、実際には日赤救護班による敵兵への看護は例外的に行なわれただけだった。
 中編『死体をトロッコに乗せて運び大きな穴に…植民地から召集された「日本赤十字社従軍看護婦が明かす「地獄のような戦場」』に続く
 (撮影日記載の写真は筆者撮影)
 伊藤 孝司(フォトジャーナリスト)
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 6月30日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「死体をトロッコに乗せて運び大きな穴に…植民地から召集された「日本赤十字社従軍看護婦が明かす「地獄のような戦場」
 伊藤 孝司
 前編『皇室と共に歩んだ“博愛精神”の「日本赤十字社」その看護婦は「赤紙」で召集され太平洋戦争で1120人が“戦死”した』から続く
朝鮮総督に激励されて戦場へ
 「日本赤十字社(日赤)」の看護婦たちは、アジア太平洋戦争では「赤紙」で召集されて戦場へ送られた。その中には、日本が植民地支配をしていた朝鮮と台湾の看護婦たちもいた。韓国人と台湾人の元従軍看護婦たちからは、戦場での驚くべき体験が語られた。
 朝鮮では「大韓帝国」時代の1906年に「大韓赤十字社」が創設された。1910年に日本が植民地支配を開始すると、それは「日本赤十字社朝鮮支部」となった。朝鮮における日赤は「愛国婦人会」と共に、「朝鮮総督府」による朝鮮人に対する同化政策に協力。日本国内で、国民統合に協力したのと同じ構造だ。
 「日赤京城赤十字病院」だったソウルの赤十字病院(ポストカード)
 「日赤救護班」は、朝鮮と台湾においても編成された。朝鮮が18班の488人、台湾では11班346人だった。
 朝鮮から戦場へ送られた日赤救護班の中で、最も過酷な体験をしたのはフィリピンのルソン島へ送られた「343救護班」。この班は看護婦3人と使丁だけが朝鮮人で、日本人看護婦のほとんどは朝鮮で育った人たちだった。この班にいた韓国人の潘姫静(パン・ヒジョン)さんと蔡然福(チェ・ヨンボク)さんから話を聞いた。
 「生まれたのは慶尚北道キョンサンブクド)の田舎です。両班(ヤンバン)の家系でもあり、小作人たちを使うほどの家だったので、子どもの時に苦労したという事はありませんでした」と潘さんは言う。
 当時の朝鮮で、高等女学校へ朝鮮人が入学するのはかなり大変なことだったが、潘さんは大邱(テグ)にある朝鮮人だけの名門校「慶北高等女学校」へ通う。
 学校から日赤看護婦を出す事になり、潘さんは校長から「お前はクリスチャンだから看護婦になったらどうか」と勧められた。彼女は信仰心からもあったが、「日本人に負けたくない」という気持ちから志願する事を決めた。
 威鏡北道(ハムギョンブクド)の地主の家で生まれた蔡さんは、「女として人のためになる生き方をしたい」と思っていた。だが、女性が働く事が出来る職業は極めて限られていたため、日赤の看護婦を希望。「お母さんは『日赤の看護婦になれば勲章がもらえる』と喜んでくれたし、私もその時は名誉だと思いました」と語る。
 日本人の“軍国少女”と同じように、徹底した「皇民化」教育を受けた朝鮮人・台湾人女性にとって、「日赤看護婦」は日本へ“貢献”できる唯-の道だったのである。
 朝鮮から派遣された日赤戦時救護班(潘姫静さん提供)
 女学校を卒業した潘さんと蔡さんは、1939年4月から朝鮮内の「日赤看護婦養成所」へ通う。日本が米国・英国に宣戦布告したのは1941年12月8日。その前の10月に、2人は繰り上げて卒業させられていた。そして、年が明けた1月19日に召集令状が渡された。
 朝鮮で編成された日赤救護班の派遣先は、フィリピン・中国と内モンゴル東部の「蒙古」で、病院船勤務の人たちもいた。朝鮮で救護班へ入った朝鮮人は、合わせても10人くらいと潘さんは推測している。
 ソウルにあった朝鮮総督府庁舎(2005年6月30日撮影)
 2人が所属した343救護班が朝鮮総督府へ挨拶に行くと、南次郎総督までもが出てきて訓示をした。そして副総督が出席しての壮行会が、大きな料亭で盛大に開かれた。総督府は植民地朝鮮からも、兵士だけでなく看護婦も戦場へ出す事を、極めて重要視していたのだ。
 1月21日の出発の日、京城(現在のソウル)駅前には見送りのためにたくさんの学生が動員されていた。「日の丸」の小旗と万歳の声に送られて、釜山へ向かう列車に乗った。経済的に恵まれて何の不自由もない生活をしてきた若き朝鮮人女性たちが、戦争という巨大な渦に飲み込まれていった。
 台湾人看護婦も戦場へ
 台湾で私は、さまざまな戦場へ送られた元従軍看護婦たちと会った。「私たち台湾人看護婦も、大和撫子やまとなでしこ)として従軍したんですよ」と語ったのは黄玉緞さん。そして、戦場へ持って行った「千人針」を見せてくれた。兵士と同じように、“弾除け”として腹に巻いていたのだ。
 黄玉緞さんと戦場へ持参した「千人針」(1994年5月30日撮影)
 黄さんは「陸軍病院」の看護婦募集に、妹と一緒に応募。4ヵ月間の教育を受けて看護婦になった。この陸軍看護婦は、最初のうちは日赤看護婦出身が前提だったが、次第に一般の看護婦からも採用するようになっていた。
 制服姿の台湾からの陸軍看護婦(張月華さん提供)
 黄さんは配属された「台南陸軍病院」で約1年間の勤務をした時に、「南方」へ行く看護婦に志願した。「陸軍看護婦台南班」は13人で編成され、その内の7人が台湾人だった。
 1942年11月、黄さんは高雄港で妹に見送られてフィリピンへ向かう。勤務したマニラの「第12陸軍病院」の周囲には、色とりどりの花が咲き乱れていた。休日には、有名な“マニラ湾の夕日”を見に行ってアイスクリ-ムを食べたという。
 「マニラ陸軍病院」の台湾とフィリピンの看護婦ら(黄玉緞さん提供)
 こうしたのどかな生活は、1944年9月の米軍による空襲で終わった。12月23日には、マニラから北へ約250キロメートルにあるバギオへ向け撤退を開始。この都市は標高約1500メートルにあり、「松の都」と呼ばれる美しい避暑地だった。
 ここの竹薮の中に、病院が開設された。「赤十字」の印が屋根に大きく書かれていたが、米軍機は500キロ爆弾を投下した。「爆撃で吹き飛んだ看護婦の肉片が、木に引っ掛かっていました。数百もの死体を埋めることも出来ず、月明かりを頼りに捨てに行ったんです」と黄玉緞さんは語る。
 黄紡さんは初等教育機関である「麻頭女子公学校」を卒業すると、家族に黙って海軍看護婦の試験を受けた。麻頭から50~60人が受験し、合格したのはわずか3人だった。
 家に届いた召集の通知を見た祖母は、「この家には男がいないのに、どうしてこんな物が来たんだろう」と驚き、その理由を知ってからは泣き続けた。日本本土での勤務を期待していたが、船が着いた先は海南島だった。海軍は、蒋介石軍からこの島を奪おうとしていた。
 「島では看護教育だけでなく、小銃を担いでの軍事訓練がありました。病院が機銃掃射を受け、1発の弾が私の両足を突き抜け、さらに左手の薬指に当たって骨を砕いたんです。医者が指を切断すると言ったので、必死になって拒みました。その指は今でも変形しています」
 台湾からニューギニアへ送られた日赤救護班もあった。私と初めて会った時、陳邁さんは「山田富美子」、張月華さんは「永田月子」と、植民地時代に使っていた名前で名乗った。彼女たちは台北の日赤台湾支部で看護婦試験を受け、1940年に救護看護婦養成所に入学。共に公学校卒業なので「乙種看護婦」だった。
 パプアニューギニアに残る日本軍戦闘機(1994年12月6日撮影)
 日赤病院で勤務して約1年が過ぎた時、2人は「赤紙」で召集された。1943年3月、広島へ集合してから勤務地へ送られた。そこがニューギニアラバウルだと知ったのは上陸してからだった。ここへ派遣された救護班は6班。台湾からの「第381救護班」には、台湾人は3人だった。
 勤務した「第94兵站病院」へは毎日のように爆撃があった。このラバウルに9ヵ月間。フィリピンのセブ島へ移って、そこに約1年間。看護というよりも、逃げ回っていただけだったという。さらにレイテ島へ移動してからは、手溜弾が渡された。「日本の敗戦を知った兵隊の、自決する手榴弾の音が聞こえてきた」と陳さんは言う。
 2人が台湾へ戻ったのは1946年3月。張さんのあまりにもやせこけた姿を見た家族は、それが誰なのかすぐには分からなかったという。
 ひどい栄養失調とやけどの兵士たち
 話は朝鮮から出発した日赤救護班へ戻る。
 潘姫静さんらの「343救護班」は、広島に数日間滞在してから台湾へ向かう。先述した台湾人陸軍看護婦たちと同じ「台南陸軍病院」へ着いたのは1942年1月30日。この時、広島から台湾へは10班が送られ、そのうちの3班が台南だった。
 ここへはラバウルで栄養失調になった兵隊たちが送られてきた。ここでの勤務に慣れた頃、フィリピンの「第14方面軍」への移動を命じられた。1943年5月24日にマニラへ上陸し、バギオへ向かった。
 バギオの「第74兵站病院」での餅つき(潘姫静さん提供)
 士官学校の校舎を接収した「第74兵站病院」には、約4000人もの患者が収容されていた。
 ニューギニアガダルカナルから送られて来た兵隊たちは、ひどい栄養失調により戦意をまったく失っていた。台湾とフィリピンとの間のバシー海峡で撃沈された船に乗っていた兵隊たちは、海面上に出ていた顔と手にひどいやけどをしていた。
 潘さんが包帯を交換しようとしたら、関節の所から指がとれてしまった。「頭の骨が剥き出しになっている人から夜中に声をかけられ、びっくりした事があります。その姿は、今でも目に焼きついているほど」と言う。
 劣悪な坑道内での看護
 日赤救護班が勤務する場所は、戦闘が行なわれている危険な前線を避ける事になっていた。だが戦況が悪化すると、兵士たちと同じように、死と隣り合わせの状況に陥った。
 1945年1月、山下奉文陸軍大将が率いる「第14方面軍」の司令部がマニラを撤収してバギオへ移って来た。「大海の魚群を狭い池の中に入れて捕らえる」として、ルソン島北部のジャングルでの持久戦をしようとしたのだ。その直後からバギオは、米軍の徹底的な爆撃を受けるようになる。
 ルソン島北部の露天掘りの金鉱山(2000年3月27日撮影)
 そのため1月末には、第74兵站病院の一部は343救護班を含めて避難を開始。バギオから東北東へ約16キロメートルにあるビッグウェッジ金鉱山を分院とした。軽傷患者は坑夫宿舎へ入ったが、数十人の重傷患者たちを収容したのは、3キロメートル近くある坑道内だった。
 この中は真っ暗で、天井からは水滴が垂れてベッドの下には湧き水が小川のように流れているという劣悪な環境だった。看護婦たちは雨合羽を着てカンテラをぶら下げ、坑道内に敷かれたレール上のトロッコを押して水と食事を運んだ。この地獄のような状況の中で、負傷兵たちは手を合わせて看護婦を拝み、1日50グラムほどの食事を待ちわびていた。
 ネズミやゴキブリ・ウジ虫が生きている患者の傷口をかじり、腐った患部からは骨が見えた。毎日のように麻酔を使わず足の切断がおこなわれた。「切り終わった時、つかんでいた足の重さが何とも言いようのない感覚でした」と潘さんは言う。
 毎日、10人~20人が死亡。そうした患者をベッドから下ろすと、死体から離れたシラミで毛布は真っ白になっていた。蔡さんは、死者の扱いについて語った。
 「患者が死亡すると看護婦は制服に着替えて見送りましたが、途中からはそれどころではなくなりました。死体をトロッコに乗せて運び、大きな穴に10人でも20人でもそのまま放り込んだんです」
 敗走する日本軍と、運命を共にせざるを得なかった日赤と陸軍の看護婦たち。ジャングルでの逃避行の中で、兵士たちのおぞましい行為を目撃する。日本人看護婦からは語られることがなかった地獄のような光景を、韓国人と台湾人の元看護婦が語る。
 後編『フィリピンのジャングルでの皇軍兵士のおぞましい「人肉食行為」…「日本赤十字社」の従軍看護婦にも“玉砕”の時が』へ続く
 (撮影日記載の写真は筆者撮影)
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 6月30日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「フィリピンのジャングルでの皇軍兵士のおぞましい「人肉食行為」…「日本赤十字社」の従軍看護婦にも“玉砕”の時が
 伊藤 孝司フォトジャーナリスト
 中編『死体をトロッコに乗せて運び大きな穴に…植民地から召集された「日本赤十字社従軍看護婦が明かす「地獄のような戦場」』から続く
 「処置」された傷病兵たち
 1945年1月にマニラを撤退してバギオへ移り、さらに北部のジャングルへと逃げ込んだ日本軍。「日本赤十字社(日赤)」と陸軍の看護婦たちは、その劣悪な状況の中で傷病兵の看護をした。
 4月23日、米軍が接近したために金鉱山に設けた“病院”からも撤退する事になった。朝鮮からの日赤看護婦・潘姫静(パン・ヒジョン)さんは、日赤の制服では動きにくいので、もらった布で服とリュックを作り髪も切った。最小限の荷物だけを持ったが、それでも 20キログラムあった。
 そしてジャングルでの逃避行という大変な事態を前に、鬼畜の所業が行なわれた。「衛生兵が患者たちを処置したと何度か聞きました」と潘さんは言う。潘さんと一緒に朝鮮で召集された蔡然福(チェ・ヨンボク)さんは次のように述べた。
 「鉱山を撤収してジャングルへ逃げる際、動く事のできない数百人の患者がいました。その人たちは仲間の兵隊によって、クレゾールの注射で殺されたそうです」
 こうしたことは、ジャングルでの逃避行の中でもあったという。動くことのできない傷病兵を、自分たちの撤退の足手まといになるとして殺害するということは他の戦場でもあった。「日本人女性である看護婦に殺してもらうことがせめてもの供養」という理屈で、兵士ではなく看護婦に殺害させることがあったという。中国東北部の「関東軍」の病院では、衛生兵ではなく看護婦が青酸カリを注射したという。
 「ジュネーブ条約」では、退却に際して負傷兵を前線から後送することができない場合には、衛生要員をつけてその場に残置し、敵の保護にゆだねることができるとしている。だが日本軍は、動くことができない兵であっても、敵の捕虜になることを一切許さなかった。それは「生きて虜囚の辱めを受けず」とした「戦陣訓」があったからだ。これによって、どれほど多くの将兵や民間人までもが自決や殺害されなければならなかったことか。
 日本軍が逃避行をしたルソン島北部(2003年3月30日撮影)
 ジャングルの中での、兵士と看護婦らの絶望的な逃避行が始まった。兵士たちは、眠りながら歩く。カルシウム不足で、歩いているだけで骨折する兵士もいる。木の上からは、人間の血を吸うためにヒルが次々と落ちて来る。大量に吸われて死んだ人さえいる。力尽きた兵士たちの死体が路上に積み重なっていても、誰も気にしない……。
 こうした死と隣り合わせの逃避行が行なわれたルソン島北部のジャングルへは、看護婦だけでも約500人が逃げ込んでいたという。
 人肉を食べる兵士たち
 ルソン島北部のジャングルには、食べ物がなかった。私はこのルソン島北部やニューギニアの熱帯林を歩いたことがあるが、食料となるようなものはほとんど見当たらなかった。兵士たちはバナナの木の皮や芯、アザミの根、そしてネズミやゴキブリなど何でも口にした。履いている革製の軍靴まで食べた。そして、ここで暮らす先住民族が植えたイネやイモを畑から奪った。
 「人肉を食べている者がいる」という噂が看護婦たちに伝わる。このルソン島でも、日本兵による人肉食が頻繁に行なわれていたようだ。山の中には、大腿部や頬などがえぐり取られた日本兵の死体が転がっていた。
 日本兵先住民族を襲っただけでなく、仲間の兵士まで殺して食べたのだ。この地域でも先住民族の抗日武装組織による日本軍への襲撃があったが、味方の兵士からも襲われないように警戒したというのだ。
 パプアニューギニアの人びと(1994年12月2日撮影)
 たくさんの日本兵がジャングルの中で飢餓状態に置かれるといった事は、フィリピンだけでなくニューギニアでもあった。私は、ニューギニアで住民を殺してその肉を食べたという元軍属から話を聞く事が出来た。
 日本統治下の台湾では、先住民族による「高砂義勇隊」が組織された。戦闘に参加しないはずの軍属だったが、フィリピンやニューギニアの陸軍部隊に配属。山仕事で使う大きな「蕃刀(ばんとう)」だけで米軍陣地への“斬り込み”の先頭に立たされ、多くの戦死者を出した。
 人肉を食べたと語る台湾人の元軍属(1994年6月1日撮影、一部画像処理)
 「ニューギニアには、弾だけでなく食べ物もありませんでした。私が持って行った蕃刀は長さが75センチあり、人間の首でも落とせるほどでした。それでイノシシを捕まえただけでなく、住民を殺してその肉を夜中に煮て食べたんです。ただ戦友が死んでも、そうすることはありませんでした」
 「人肉食があった」と話す元兵士はいるが、自ら人を殺して食べたと語った人はほとんどいないのではないか。その事を明らかにしたならば、社会から排除される可能性が高いからだ。台湾人の元軍属が語ってくれたのは、高砂義勇隊の取材で何度も訪れた私を信頼してくれたからだろう。
 看護婦にも“玉砕”の時が
 話はルソン島のジャングルへ戻る。口にできそうな物はすべて食べ尽くし、看護婦たちにも死が迫っていた。「玉砕するのは近い」という話が伝わってきた。埼玉県からの日赤救護班には、3人に1個の手榴弾が渡された。大分県の救護班では、仲間の負担を減らすために自ら麻薬を注射して自決した看護婦がいたという。
 黄玉緞さんら台湾からの陸軍看護婦は、6月9日にキアンガンへたどり着いた。ここは敗戦後の9月2日に、山下奉文・第14方面軍司令官が米軍に降伏した場所だ。この地で全員が自決することになった。
 整列して皇居の方向へ「東方遥拝」をし、「君が代」と「海ゆかば」を歌った。そして、まず患者たちが注射によって「処置」された。ところが、である。玉砕は突然、中止になったのだ。「命じられて患者たちを殺した兵士はその後、精神に異常をきたしたんです」と黄さんは言う。
 愛知県・三ヶ根山の「従軍看護婦慰霊碑」(2024年6月13日撮影)
 フィリピンでの日本軍の軍人・軍属の死者は約50万人。その「名誉の戦死」の実態は、多くは餓死と無意味な玉砕によるものだった。フィリピンで戦死した従軍看護婦は、日赤救護班の114人、陸軍看護婦の16人だという。
 激しい爆撃を繰り返していた米軍機が突然来なくなった。日本が「ポツダム宣言」を受諾したのだ。潘さんは、天皇マッカーサーが並んだ写真が入ったビラで日本の敗戦を知る。
 昭和天皇マッカーサー(gettyimages)
 看護婦たちは武装解除された将兵たちと共に、米軍のトラックに乗せられた。輸送される途中ではフィリピン人たちから「ジャパン、ドロボウ(日本語)」との罵声を浴び、手当たり次第に石を投げつけられた。日本軍の占領によって肉親を失ったフィリピン人にとって、戦闘に参加していない看護婦であっても増悪の対象だったのだ。
 看護婦たちも、マニラ郊外モンテンルパの捕虜収容所へ入れられた。ここには大勢の朝鮮人慰安婦」もいた。最初の引き揚げ船には、朝鮮人たちが乗る事になった。「343救護班」にいた3人の看護婦や軍人・軍属など、数百人の朝鮮人が日本の軍艦で帰国した。
 「親日派と言われるので、日赤看護婦だった事は人には話せなかったんです。夫は、私が従軍した時の話をするのを嫌がっていました」と潘さんは言う。蔡さんは「人のためになるような生き方をしたいと思って日赤看護婦になったのですが、その事で人生が変わってしまいました。今でも看護婦になった事を後悔しています」と何度も繰り返した。
 朝鮮戦争でも看護婦を動員
 日赤から戦争での傷病兵看護のために看護婦を出したのは、アジア太平洋戦争が最後ではなかった。
 1950年6月25日、朝鮮戦争が始まる。この戦争で北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)・中国・ソ連と戦ったのは、韓国・米国など16ヵ国の「国連軍」。日本はそれに入っていないが、さまざまな形での多大な支援をした。分かっているだけでも、「海上保安庁」職員や米軍雇用の船員など60人近くの日本人が死亡している。日本は事実上の“参戦国”だった。
 「国連軍総司令官」のダグラス・マッカーサーは、日本を戦争遂行のための巨大な兵站基地にしようとし、吉田茂首相はそれを積極的に受け入れる。日本国内で大量の物資調達が行なわれ、港湾・鉄道などが使用された。米軍に雇用された労働者は最大時には約30万人にもなり、米軍が集めた日本人の港湾労働者数千人が韓国の港で働いた。
 朝鮮戦争の際に韓国で下船する米軍兵士(gettyimages)
 この戦争で「国連軍」は、約36万人の死傷者を出したという。そのため膨大な数の傷病兵が、日本へ次々と移送されてきた。日本各地の14都市には、「国連軍」の野戦病院が設置。そして日赤本社は、マッカーサーからの看護婦の派遣要求に対し全面的に協力することを決めた。
 朝鮮戦争が始まって半年後、日赤は看護婦を再び「赤紙」を使って召集したのだ。アジア太平洋戦争が終わってからも、日赤の看護婦養成のための学校を卒業した看護婦には召集に応じる義務があったからだ。その根拠となる「日本赤十字社戦時救護規則」が廃止されたのは、1965年6月になってからの事だ。
 日赤本社は九州の支部に対し、救護班派遣を要請。佐賀県では、その要請を受けたのが12月8日午後8時だったが、11日午前11時には佐賀市役所で出発式が行われることになった。
 急なことなので、日赤支部の病院で勤務している看護婦が召集された。その看護婦16人は濃紺の制服姿で、飯ごうと水筒をけさ掛けていたという。まさしく、アジア太平洋戦争で戦場へ送られた救護班と同じ姿なのだ。
 アジア太平洋戦争での制服姿の「日赤戦時救護班」
 派遣先は、福岡県の「国連軍第141兵站病院」。九州の各支部から、第1次54人・第2次25人・第3次17人を派遣したのである。この病院には傷病兵約1500人が収容されていて、看護婦は約1000人もいたという。
 ところが日赤本社は、この「国連軍病院」への看護婦派遣という事実を隠し、病院内での服務内容などを機密扱いにして看護婦に守秘義務を課すことまでしたのだ。また日赤は、「国連軍」兵士への献血や慰問の金品を送る運動を全国で精力的に展開。
 「敵味方なく救う」という赤十字の基本精神からすれば、朝鮮戦争の当事国でもない日本の赤十字社は、北朝鮮の「朝鮮赤十字会」へも医薬品などを送るべきだったのではないか。
 再び日赤看護婦は戦争へ動員されるのか
 「赤十字は戦争を前提とした組織であったし、今もそうである。(中略)兵士が安心して戦うための後方支援、ついには戦争の歯車となってしまうこともある」(『戦争のある場所には看護師がいる』「戦時下に日本のナースたちが体験したこと」川原由佳里)
 そのように日赤は、日中戦争からアジア太平洋戦争に至るまで軍部に命じられるまま看護婦を戦場へ派遣し、戦争を底辺で支えてきた。そのことに対する反省がなかったために、朝鮮戦争でも看護婦派遣などで協力することになった。そうしたことは、再び起こらないのだろうか。
 朝鮮から派遣された「日赤救護班」(潘姫静さん提供)
2004年6月、「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律(国民保護法)」が成立。日赤はこの法律で、日本銀行日本放送協会NHK)などと共に「指定公共機関」となった。「指定公共機関は、武力攻撃事態等においてはその業務について、国民の保護のための措置を実施する責務を有する」としており、日赤の自主性が大きく制限される事が危惧される。
 日赤は国民保護法の成立を受け、翌年に「日本赤十字社国民保護業務計画」を策定。「本社、支部並びに医療施設、血液センター及び社会福祉施設等の施設が一体となって、必要な措置を実施する」とし、武力攻撃を受けた際には組織を上げて政府に協力することを明確にした。
 日赤看護婦だった時の写真を見せる潘姫静さん(1994年7月11日撮影)
 「朝鮮半島有事」や「台湾有事」は実際には米国が当事者であるため、その同盟国・日本へは朝鮮戦争の時よりも多い傷病兵が運ばれて来るだろう。そのための体制をすでに整えているという自衛隊は、昨年6月からは「自衛隊中央病院」でウクライナ軍の負傷兵の受け入れをしている。予行演習である。
 自衛隊には、自衛隊中央病院と10ヵ所の地区病院がある。そこで働く「自衛隊看護師」は約1000人だという。敗戦前の「陸軍看護婦」は約2万500人、「日赤看護婦」は約1万1500人との事なので、比較すれば圧倒的に少ない。「有事」になれば、自衛隊看護師だけでなく日赤看護師も動員されるのは確かだろう。
 (撮影日記載の写真は筆者撮影)
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