🕯101)─2・B─死後の魂・霊魂は天国・浄土と家族の元を行き来する。~No.220 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年10月21日 YAHOO!JAPANニュース 婦人公論.jp「死後も人の魂は残る?死は人生の総決算?科学、哲学、宗教でどう捉えられてきたかというと…宗教学者が説く<教養としての死生観>
 埋葬の痕跡(写真提供:PhotoAC)
 「死んだらどうなるのか」「天国はあるのか」。古来から私たちは、死や来世、不老長寿を語りついできました。謎に迫る大きな鍵になるのが「宗教」です。日本やギリシアの神話、ユダヤ教キリスト教イスラム教から、仏教、ヒンドゥー教、そして儒教神道まで。死をめぐる諸宗教の神話・教え・思想を歴史的に通覧した、宗教学者・中村圭志氏が綴る『死とは何かーー宗教が挑んできた人生最後の謎』より一部を抜粋して紹介します。
 【書影】「死んだらどうなる?」「来世はあるのか?」「不老長寿?」古来からの尽きせぬ〈不可解〉を宗教哲学者・中村圭志氏が綴る『死とは何か-宗教が挑んできた人生最後の謎』
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◆「死」をめぐる諸宗教の神話や教えや思想
 宗教は人生最後の謎「死」に挑んできた。宗教にとって「死」が本質的なテーマであることは言うまでもない。
 人類史の黎明期(れいめいき)から宗教らしきものがあったのではないかと考古学者らが考えているのは、紀元前何万年にさかのぼる埋葬の痕跡が残っているからだ。
 伝統的な宗教と死とのかかわりは、おおむね次のような形に整理できる。
 第一に、宗教のほとんどは死後も霊魂が何らかの形で生存していると説いていた。その霊魂は暗い冥界で永遠に暮らすのかもしれないし、先祖の国に行って個性を消失するのかもしれない。
 あるいは、天国や地獄に行くのかもしれないし、この世に舞い戻ってくるのかもしれない。
 第二に第一の側面とは部分的に矛盾する見方だが、宗教は死の滅びとしての側面を強調してきた。いかに栄華の暮らしを誇っても、あらゆる人間は死ぬ。
 永遠に生きる神に対して、「死すべきもの」というのが人間の本質だ、という教えもある。
 ここで「滅ぶ」にもいろいろあって、文字通り消失してしまうのかもしれないし、家族や友人、財産や業績、諸々の世俗的欲望から切り離されるという「別れ」や「断念」を意味しているのかもしれない。
◆死とは日頃の修練の成果が試される場
 第三に、宗教は死をこの世での生き様の総決算と捉えてきた。宗教はふつう清く正しい生涯を送るよう説いているので、したがって、死とは日頃の修練の成果が試される場だということになる。
 人生を総合的に俯瞰(ふかん)して、善人であれば幸福な報いを受ける(天国に行く、好ましい生に転生する)、悪人なら苦しみを科せられる(地獄に行く、悪しき生に転生する)。報いなど気にしない境地に達することを修行の目標とすることもある。
 審判のスタイルもいろいろあり、神が裁くこともあるし、来世の運命が自動的に定まることもある。死後すぐに裁かれる場合も、世界が終末を迎えてから裁かれる場合もある。
 第四に、宗教の儀礼や呪術は、しばしば死や死後の運命を操作しようとしてきた。死者を供養する、死者の霊を呼んで対話するなどのパターンがある。
 自らの死後をよくするための「往生の技法」も、霊薬を用いるなどして死を永遠に回避しようという思考も、洋の東西を問わず見出(みいだ)される。
 実に多様だ。死と死後に関するいずれのビジョンも、人間が試行錯誤の末に創り上げていったものだ。
 素朴なところから始まった神話的ビジョンは、歴史とともにバリエーションを増やし、矛盾だらけのままブレンドされたり淘汰されたりし、死の思想を複雑なものにしていった。
 高度な倫理思想もあるし、比喩に満ちた民話調の訓話もあるし、完全なオカルトもある。人類のそんな営みを見守る神仏と呼ばれる超越者が本当にいるのかどうかは、また別の話だ。
◆物理主義と二元論
 科学や哲学など世俗の学問の世界では、死はどのようなものだと考えられているのだろうか。
 科学の基本的モデルは物理学などに代表される自然科学だ。一般的に言って自然科学者は、実在を物質的なものだと捉えている。
 すなわち、宇宙は時空間を占める物理的実在でできている。精神現象心や意識や記憶や思考や感情は、物理的身体の機能である。
 つまり、精神現象は物理的身体から独立した実在ではないので、死んで身体が崩壊すれば、そのときに精神現象は消失する。
 燃えるものが無くなったら火は消える。それと同じだ。
 死についての哲学的講義録で有名なシェリー・ケーガンは、こうした《物理主義》的な見方を確定された事実と考えてはいないものの、しかし、今のところこれが最も一貫性のある、 最も確からしい見方だとしている。
 絶対ではないが最も説得力がある、というのである(『「死」とは何か』)。たいていの自然科学者も、多くの哲学者も、たぶんこれに同意すると思われる。
 先祖を供養するために供える(写真提供:PhotoAC)
◆身体と精神の二つを対等の実在と考える霊肉二元論
 この《物理主義》と対立する立場は、《二元論》と呼ばれる。身体と精神(心、魂)の二つを対等の実在と考える霊肉二元論である。
 こちらの立場をとるならば、人間は死んでも<つまり物理的身体が朽ち果てても>精神ないし心の部分が一種独特な実在として生き続ける可能性がある。
 身体から着脱可能な精神・心の座は「霊魂」と呼ばれる。表現は「霊」でも「魂」でもいい。《二元論》は、伝統的な宗教の立場だ。
 仏教、ヒンドゥー教キリスト教イスラム教といった古典的なビッグネームの宗教に限らず、多くの宗教伝統、民間信仰新宗教では、人間 を超えた存在として「神仏」のようなものを想定すると同時に、人間の本質部分として「霊魂」のようなものを想定している。
 こうした宗教的人間観によれば、人間を構成する霊魂と身体がくっついた状態がいわゆる「生」であり、この二つが離れた上に身体のほうが消えてしまった状態が「死」なのである。
 「死」と呼ばれつつも霊魂は消失していないので、死は一種の「生」である。冥界や天国などにおける生、もしくは再びこの世に転生する生である。
 ※本稿は『死とは何か-宗教が挑んできた人生最後の謎』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
 中村圭志
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2019-10-14
🕯101)─2・A─日本の祖先の魂・霊魂は子孫の身近に留まって見守っている。~No.220 
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 日本列島とは、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。
 日本の自然は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。
 日本民族は、自然の猛威に耐え、地獄の様な環境の中を、家族や知人さえも誰も助けずに身一つ、自分一人で逃げ回って生きてきた、それ故に祖先を神(氏神)とする人神信仰を受け継いで来た。
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 日本民族人間性・個性(性格・感情・思考)、宗教観・死生観・人生観、伝統・文化は、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯という日本列島の自然の中から生まれた。
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 飢餓供養塔とは、葬式仏教(日本仏教)による貴重な歴史的記憶遺産・民族文化遺産であった。
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 日本民族の宗教とは、先祖を氏神として祀る人神信仰であり、祖先が1人でも欠けていたら自分は存在ない事を知っていた。
 それ故に、家の墓石を大切に守り、無念の念いを抱いて非業の最後を迎えた先祖の魂を慰め弔う為に宗教遺物として供養塔・慰霊碑を全国に建てて後世に残した。
 そこに、日本民族の宗教観が存在する。
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 反宗教無神論者(文化マルクス主義者)であるエセ保守とリベラル左派は、反天皇反民族反日戦後民主主義教育の一環として、メディアと教育を使って日本の宗教・文化を否定し、神殺し、仏殺しを子供達に教えている、その成果として現代日本人の間に無宗教無神論者が増えている。
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 日本仏教は、葬式仏教として犠牲者を懇ろに弔い、死者の霊魂と生者の生命を繋いでいる。
 生と死の絆を紡ぎ、死者の念いを生者に伝えるのが、葬式仏教の役割であった。
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 日本民族キリスト教イスラム教などの一神教を拒否したのは、死んだ父母や祖父母など祖先が「改宗していないから救わない」と知ったからである。
 戦国時代。日本に伝来した中世キリスト教会・イエズス会伝道所群は、キリシタンを祖先、一族、家族から切り離し民族の歴史・伝統・文化・宗教を消滅させるべく、由緒ある神社仏閣を破壊し、家の墓石を打ち壊し、家族の仏壇・位牌、神棚・護符を燃やした。
 キリスト教の最終目的は、数千年前から受け継がれてきた神の裔・祭祀王である正統男系父系天皇の廃絶であった。
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 2024年10月13日 読売新聞「あすへの考え 日本型の死生観 
 淑徳大学教授 郷堀ヨゼフ
 死後も続く私たちの物語
 死者を意識する機会減 バトンつなぐ『いのちの教育』

 私は京都の国際文化センターで民俗学を研究したこともありますが、仏壇や遺影が『あの世』である異界との日常的な接点になり、死者や先祖に見守られているという思想には、仏教だけでなく土着の祖先信仰が影響していると思います。
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 日本民族は、血の繋がった祖先から命・魂(霊魂)、身体、心、志、気持ち、気概を受け継いで産まれ生きてきた尊い人であって、全知全能の唯一絶対神が自分に似せた姿に土塊・塵・ゴミをこねて形を整え命・魂を吹き込み祝福した貴い土人形ではなかった。
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 日本人とは、日本列島に住む全ての人間の事で日本民族の事ではない。
 帰化人は日本民族の一員とされたが、渡来人は日本人と呼ばれても日本民族から排除された。
 何故なら、帰化人は利他として天皇に忠誠を誓い日本国の為に働いたからであり、渡来人は自利として天皇への忠誠を拒否し日本国に叛き自分の為のみに働いたからでる。
 昔の歴史は帰化人の神話・物語であったが、現代の歴史は渡来人の話である。
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 日本民族は自分の父母・祖父母・曾祖父母・祖先を、「家の神様」として神棚に祀り、「家の仏」として仏壇に納めた。
 家の神様や家の仏様は、必ずしも血縁者だけではなく血の繋がりのない赤の他人の他家からの養子も入っている。
 日本の世襲とは、そういう意味である。
 日本民族の宗教とは、自分につながる祖先を祖先神・氏神様として祀る人神崇拝宗教つまりローカルな家・家族・一族限定宗教であって、天地創造絶対神の福音を信じる信仰宗教・啓示宗教・奇跡宗教・救済宗教といった人種・民族といった枠組みを超えたグローバルは普遍宗教ではない。
 その象徴が、最高神である女性神天照大神を祀る天皇家・皇室である。
 日本の宗教では、仏教が伝来するまでは人が死んで行く死後の世界はなかった。
 天上界の高天原も地下界の黄泉国も、死ぬ事がない天孫系(天皇系)の天つ神が住む世界であり、死んでしまう八百万の神である国つ神が行ける世界ではないし、ましてや人が死んでいく世界でもなかった。
 死んでしまう国つ神や人は、死んだら神域である鎮守の森・ご神体とされる高い山・大岩・巨木・海の向こうに宿り、家の近く・家族の近くにある地元の氏神神社に鎮座した。
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 祖先霊・祖先神・氏神の人神信仰は、命と魂、血と身体、遺伝子とDNAを受け継ぐ事である。
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 人は、二人の両親から産まれてくる。
 日本民族の祖先な数は?
 日本人の命が尊いわけ。 
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 祖先神・氏神の人神信仰とは、純血の血縁ではなく、混血の地縁である。
 一人の日本人には、二人の両親がいた。二人の親には、四人の祖父母がいた。四人の祖父母には、八人の曾父母がいた。
 14世代前では、8,192人。
 23世代前には、419万4,304人。
 25世代前では、1,677万人。
 27世代前では、1億3,422万人。
 だいたい約700年前の鎌倉時代で、当時の日本の総人口は700万人から1,000万人。 
 30世代前には、5億3,687万912人。
 40世代前には、5,497億5,581万3,888人。
 50世代前には、562兆9,499億5,342万1,312人。
 100世代前の、祖先の人数は?
 指数関数的な増加。
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 祖先のうち一人でも欠ければ、今の命は存在しない。
 今の命が断たれれば、この後の命は存在しない。
 それが、命の重みである。
 そして、日本の家である。
 昔の日本人は、「命の継続性」という家の枠で、自分と家族の幸せの為に命を守りながら努力して生きていた。
 ゆえに、「命の絆」が断ち切られる「死」を穢れとして恐れた。
 この世は、生きるに値する。
 命は、等しく尊い
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 日本民族の宗教とは、亡き家族の魂を仏として弔って拝み、祖先の霊魂を祖先神・氏神の人神として祀り崇拝する事で、そこにあるのは「畏れと加護の慎み」であって「奇跡と恩寵の信仰」ではない。
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 祖先神・氏神の人神崇拝とは、永遠の命、生命の連続、命の継続として、祖先から子孫への絆であった。
 日本民族は、家族・自分の欲得としての短期的願望と家・子孫の理想としての長期的願望を持っていた。
 日本民族は、多神教崇拝宗教の信徒であって一神教信仰宗教の信者ではない。
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 日本民族の言霊信仰とは、民族中心神話に基ずく自然崇拝であり、宗教的精神的な自然への畏怖つまり畏れと敬い事である。
 それは、数千年前の弥生時代古墳時代から断絶する事なく繰り返されてきた正統世襲男系父系天皇による一子相伝宮中祭祀、さらには数万年前の石器時代縄文時代からの日本民族が受け継いだ自然の精霊と生命の永遠に対する崇拝宗教につながっている。
 日本民族伝統宗教とは、精霊崇拝宗教、八百万神の神話宗教、祖先祭祀宗教であって、信仰宗教、啓示宗教ではない。
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 小林武彦(東京大学定量生命科学研究所教授)「いま、私たちが存在するのは、過去に夥しい死に支えられているから。生き物にとって死とは、進化を実現させるためにある。変化と選択を繰り返して進化し、生き残った末裔が私たちなのです。自分も生まれてきた以上は生を謳歌し、命を次の世代につなぐためにも〝利他的に〟死んでいかなければならないのです」
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 靖国神社の心・志・精神は、戦前の軍国日本にはあったが、戦後の平和国家日本にはない。
 が、1980年頃まではあったが、1990年以降から消え始め、2020年以降には消滅した。
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 諫山創「人はいずれ死ぬ。ならば人生には意味がないのか?死んだ仲間もそうなのか?あの兵士たちも、無意味だったのか?いや違う‼あの兵士に意味を与えるのは我々だ‼あの勇敢な死者を‼哀れな死者を‼想うことができるのは生者である我々だ‼我々はここで死に、次の生者に意味を託す‼」(『進撃の巨人』)
 同じ自殺行為といっても、カミカゼ特攻とイスラムテロリストの自爆テロとは根本的に意味が違う。
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 映画・スペック「生と死を峻別する事に意味はない。
 他者が認ずれば死者とて生命を持ち、
 他者が認ずる事なければ生者とて死者の如し」
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 西行法師「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」(伊勢神宮参拝して)
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 イザベラ・バード「わたしは死んだ過去の時代の霊魂が私の背後に近づいてくる、と感じた」(伊勢神宮参宮して)
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 H・P・ラヴクラフト「人類の感情の中で、何よりも古く、何よりも強烈なのは恐怖である」
 人類は、恐怖に打ち勝つ為と真理を究める為に宗教を編み出した。
 最強の恐怖とは「死」であり、究極の真理とは「生」である。
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 マンガ「アシュラ」 原作 ジュージ秋山
 私は お前に教えられた。
 それは
 命喰らわずして生きられぬ人の性(さが)である。
 海に生まれた命を奪い
 野山に育つ命を奪い
 人は生きて行く。
 罪を背負い
 それでも与えられた命の限りを生きようとあがく。
 だからこそ 
 この世は美しい。
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 石原慎太郎「(靖国神社参拝について)根本を云えば、民族としての〝垂直の情念〟をどう認識するかということなんだ。国の礎として斃(たお)れた死者の存在を抜きにいて今生きている我々の価値観だけで国家民族の命運を決めていいのか。その慮(おもんばか)りと畏怖が今の日本人にはない。
 〝死者の不在〟ということを強く感じるね。今の日本には死者の居場所がない。それぞれの家庭を見ても仏壇なり、神棚なり、壁に掛けた写真でもいい、死者たち、亡くなった両親や祖父母、曾祖父さんや曾祖母さんの占める場所があるかね。核家族が当たり前になって家の中で身内の死を見取ることもない。死は病院の中にしか存在せず、家の中には生者しかいない」
 「靖国参拝は政治じゃないんだよ。参拝は殊更(ことさら)なことじゃないし、褒められる事でもない。ただある少年の日に米軍機を追撃して私を守ってくれた、芋畑で仰ぎ見た戦闘機のパイロットがそこにいるかもしれず、確かなことは女房の親父や多くの親戚が私にとってあそこにいるといことなんだ」
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 スピリチュアル
 パワースポット
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 吉村均「日本人は自然の力を人間の世界の外に排除して、その代償として、決まった日に来てくれたら、歓迎してもてなし、送り返すまつりをおこなう必要があった」『日本人なら知っておきたい日本の伝統文化』
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