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『縄文文明の環境』 安田喜憲 著 吉川弘館
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森と縄文のビッグバン
稲作を定着させなかった縄文人
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縄文土器に刻まれた森のこころ
石の文化と土の文化
人類史には石が大好きな文明と土の大好きな文明があるようだ。すでに述べたようにシリアのダマスカス博物館には40~50万年前の原人の作った巨大な旧石器が展示されていた。フリトンで作ったこの石器は、大きいものは30センチをゆうにこえる。鋭利な刃を持ちいかにも石器らしい。これならゾウやライオンさえ殺すことができるにちがいない。
一方、宮城県北部の高森遺跡や馬場壇A遺跡から発見された、原人や旧人段階の石器とされるものはいかにも小さかった。大きいものでも10センチ前後で、かつ鋭利な刃物を持った石器というより、石ころを打ちかいたようにさえ見える。これまで私がイメージしてきた石器とはずいぶん形が異なっていた。これまで私たちがイメージしてきた旧石器、と書いたが、それは石が大好きな人々が作った石器なのだ。
石の大好きな人々の伝統は、後期旧石器とよばれる現代型新人(クロマニヨン人など)たちが作った石器の中にも受け継がれている。……。
この石好きの文化の伝統は、あのギリシアやローマ時代の巨大な石の神殿へと受け継がれ、現代にまでいたっていると思う。
これに対し、後期旧石器時代の日本を代表する石器はナイフ形石器である。ずんぐりした小つぶの、あまりさえない石器である。しかし、ヨーロッパの石好きの人々とは異なった石器も持っている。それは磨製石器は新石器時代以降という考古学の常識をくつがえした。おそらくこの磨製の石斧は、木を伐採したり球根の採集などに使用されたものであろう。そのルーツはやはり中国南部や東南アジアの森の中にあるように思われる。森の琉球陸橋を北上して南九州に到達した可能性が高い。しかし、見た目には石ころとあまりかわらないさえない石器である。木葉形のすらりとした鋭利な刃を持つヨーロッパの後期旧石器と日本のナイフ形石器や磨製の石斧をならべてみると、いかにも日本の後期旧石器文化がさえない、みすぼらしい文化に見えてくる。
土器文化の始動
ところが、旧石器時代が終わり、縄文時代に入ると、俄然、日本の文化は色づいてくる。それは縄文土器の出現である。最古の土器は1万3000年も前にさかのぼる。そして、縄文人はそれ以来、1万年以上にもわたって、土器文明の極致(きょくち)とでもいうべき縄文文明の華をさかせるのである。
そこで作られた縄文土器の数は膨大な量に達している。つぎからつぎへと、あけてもくれても、日本列島の各地で、1万年以上にわたって縄文土器が作られつづけたのである。その土器への思い入れ、土好きの原点はいったいなんなのだろうか。
森とコメの文化の象徴は土器だった
土器文化の始動の背景には森の存在が深くかかわっている。土器は人類が森の資源を利用するために発見した道具なのだ。
日本列島で最古の土器が作られた1万3000年前の地球は、長い氷河時代が終わり、温暖で湿潤な後氷期に地球が大きく移行する時代に相当していた。その時代は森が拡大を開始する時代だったのだ。
氷河時代は寒冷で乾燥した気候の下、草原が卓越した。シリアのダマスカス博物館の巨大な旧石器は、こうした大草原に生息するゾウやウマあるいはバイソンの狩りをする道具だった。ところが1万3000年前から気候が温暖化・湿潤化すると、乾燥した草原はしだいに縮小し、かわって森が拡大を始めた。
日本列島はそうした中、地球上でいち早くブナあるいはクリなどの温帯の落葉広葉樹の森が急速に拡大を始める所に相当している。それは四方を海に囲まれていたため温帯の落葉広葉樹の生息に適した海洋的気候風土が、いち早く形成されたためであった。
土器は森の中の木の実や山菜、そしてイノシシやシカの肉、さらには森の中を流れる川や湖に生息する魚、そして海の魚介類をごった煮する道具として発明された。その技術が日本独自で発見されたのか、それとも大陸から伝播してきたのかは、まだ明白な結論がでていない。
土器を作るためには、土器作りに適した土と土器を焼く燃料が必要である。これまで考古学者は土器の出現は麦作農耕の誕生と深くかかわっていたと長い間考えてきた。しかし、これはとんでもない誤りだった。麦作農耕は西アジアで1万1000年前頃開始された。しかし、土器が西アジア一帯に広く普及するのはそれよりも3000年以上も後の8000年前なのである。その時代は西アジア一帯にようやく森の拡大を始めた時代に相当しているのである。
同じく北欧でも森の拡大するのは8000年前のことである。そして土器が出現するのはようやく7000年前に入ってからなのである。このような森の拡大時期と土器の普及時期は密接に関連している。土器は森の中で誕生し、森の拡大とともに普及していったのである。日本で最古の土器が発見されていることと、日本列島でいち早く温帯の落葉広葉樹の森が拡大したことは、密接に関連しているのである。土器の出現は森の縄文文化誕生のあかしだった。
むしろ現在私たちが注目しているのは、稲作と土器の関係である。粉食(ふんしょく)を基本とする麦作農耕地帯では、麦を粉にする石臼は必要であったが、あとは水やミルクでといた粉を焼いて手でちぎって食べればことたりる。しかし、稲作農耕地帯では、まずコメを水とともに炊く土器が必要であり、さらにできあがったご飯や雑炊を盛りつける容器として土器が必要である。粒食を基本とする稲作農耕地帯では、コメを調理する容器として土器は必要不可欠であった。
近年の研究は、稲作が長江中・下流域の森で誕生したことは明らかにしている。人類最古の土器は、稲作を誕生させた長江中・下流域の森の民が作り出した可能性が大きくなってきたのである。
……。
土器は森の恵み(ドングリや球根)と大地の恵み(コメ)そして海や川の恵み(魚貝類)を加工し食に供えるために、なくてはならない道具だった。土器への深い思い入れの背景には、森の恵み、大地の恵みそして海や川の恵みへの畏敬と感謝の念があることを忘れてはならない。
森と大地そして海や川への畏敬と感謝の念が、土器作りへの情熱を燃やしつづけたのである。
なぜ縄文なのか
その土器に縄文人たちは縄文の文様をつけた。その縄文とはなんなのか。なぜ縄文人は縄を聖なるものとして選択したのか。ズバリいおう。縄文は雄と雌の2匹のヘビがセックスしているところなのだ!
拙著『蛇と十字架』(人文書院、1994年)で述べたように、蛇は交尾するとき、しめ縄のようにからまりあう。しかも、その交尾の時間はえんえんと半日以上に及ぶ。その雄と雌のヘビがからまりあい、長時間愛を交わすはげしい性のエネルギーの中に、縄文人は豊饒の自然神の存在と生命への畏敬の念を感じたのである。
エビの中で特に畏敬されたのはマムシだった。……そしてヘビは脱皮する。このヘビの脱皮は生命は再生し循環をくりかえすという、縄文人の世界観を体現している。そして、ヘビは森の主、大地の主だった。そんの森の主、大地の主を土器に造形することによって、森の恵み、大地の恵みへの感謝と豊穣を祈ったのだ。
縄文土器にこれでもかといわんばかりに、空間を埋めつくすように、くりかえし、くりかえしつけられた文様。それは縄文人の生命の再生と循環、豊穣への祈りを表現したものにほかならない。それは、雄と雌のヘビがセックスをしているところだったのだ。
再生への祈り
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その情念の背景には、縄文人の豊穣への祈りがあったのではないか。……破壊は再生への第一歩である。縄文人たちは、きたるべき豊かな恵みの季節の再来を念じて土器を破壊し、廃棄した。
我々日本人が陶器好きなのは、日本人の魂の根源がまさに石の文化ではなく、森の文化、土の文化そして海や川の文化に根ざしているからなのです。森と大地そして海や川への畏敬の念を感じながら縄文人は縄文土器を作りつづけた。炎は森からの贈りものだ。土は大地からの贈りものだ。その土をこねる水は川や湖の賜りものだ。その自然への畏敬の念と豊穣への祈りの念を表現する中にこそ、真の土器づくりへの道があったのだ。縄文土器は1万年の時をこえてこう語りかけているのである。
容器の文明
人類史には物を煮て調理したり、食物を盛りつけたり、物を貯蔵したりする容器に異常にこだわる文明がある。縄文文明はまさにその典型であると言える。……
そして縄文土器はたんに調理用具や食器として作られたのではなく、その土器の制作の行為そのものが宗教的な意味を持っていた。縄文人の土器作りには自然への畏敬の念、豊穣への祈り、さらには生命の誕生の喜び、そして社会的な規制や制度までがそこに込められていたとみなすべきであろう。そしてその土器には共同体の権威やシンボルとしての意味さえあった。
土器を作ること、それは縄文時代の社会を運営・維持していく上で必要欠くべからずのものであった。いや縄文土器の制作こそが縄文文明の装置・制度系の根幹を形成するものであったといっても過言ではないのだろう。しかもその縄文土器は食物を調理したり盛りつけたり貯蔵する容器なのである。
この容器が文明の装置・制度系の根幹を形成する文明は、他にもある。それは中国の黄河文明である。その黄河文明を代表する青銅器はまさに酒器であったり肉を調理し、肉汁を盛りつける容器なのである。主権のシンボルとなった鼎(かなえ)とは肉汁の食物を入れる容器であった。その青銅の容器こそが主権のシンボルであり黄河文明の装置・制度系の根幹を形成するものであった。
このようにみると、日本の縄文文明は中国の黄河文明と深いかかわりがあった可能性がきわめて高いということができよう。その文明はやはりモンスーン・アジアのナラ林帯に発展した文明であった。その黄河文明も縄文文明もともに、食物を調理したり盛りつける容器に異常にこだわり、その容器の製作工程そのものが宗教的・精神的行為であり、かつでき上がった食器に異常にこだらり、食器をついにはその文明の最高のシンボルにまで高めた文明を私は容器の文明とよぶことにする。
このように縄文土器を通して縄文文明をみると、日本列島の縄文文明は、華北から沿海州にかけてのナラ林帯に広がった文明と深い関係があったことが理解できるのである。それは食物を調理・加工し盛りつける容器に異常なまで固執した容器の文明であった。」
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日本民族は、数万年前の縄文時代から受け継いできた森の恵み、大地の恵、海や川の恵みに対して日本神道及び日本仏教による宗教的「供養祭」で感謝の念を捧げてきた。
現代日本における反宗教無神論・反天皇反民族反日本的風潮は、伝統的供養祭を軽視もしくは否定し、日本から縄文的なモノを抹消しつつある。
それが、左派系マイノリティー・ファシズムが推し進めている政教分離原理主義の神殺し・仏殺しである。
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縄文人が神聖として崇め、畏敬と感謝を捧げたのは、大陽とヘビと女性であった。
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日本民族は、旧石器人(ヤポネシア人=岩宿人)、縄文人(日本土人)、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が混じり合い乱婚し混血して生まれた雑種である。
現代の日本人(日本国民)と昔の日本人(日本民族)は、別人のような日本人であり、その証拠が民族の宗教性を肯定して持っているか否定して捨てているかである。
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