🌈9)─1・A─縄文文明。縄文人は稲作農業を受け入れなかった。⦅2⦆〜No.18 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 縄文人は狩猟漁労採集生活を守りながら稲作をゆっくりと取り入れていった。
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 日本民族の稲神話とは、日本書紀古事記における天皇由来神話である。
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 『縄文文明の環境』  安田喜憲 著  吉川弘館
 「縄文文明の位置と生成
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 縄文文明の世界史位置
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 縄文人のルーツは森の狩人だった
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 縄文文明はいかにして生まれたか
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 日本列島に世界にさきがけて温帯の落葉広葉樹の森が形成され、その中で誕生した最古の土器文化をやはり縄文文化とよぶのが適当であると考える。したがって、現在では私は第1説、すなわち最古の土器が出現した時代をもって縄文時代の開始とみなす説が妥当であると考えている。
 縄文文化はいかにしてうまれたか
 それではC14年代、1万3000~1万2000年前、縄文文化はどのようにして生まれたのであろうか。1万3000~1万2000年前は地球の環境が激動期に入った時代であった。地球の気候が氷期の気候システムから後氷期の環境システムへと大きく移行を開始した。ナイル川の上流のビクトリア湖では気候の温暖化とともに降水量が増加し、水位はぐんぐんと上昇した。そして、ついに1万2000年前、ビクトリア湖の水はナイル川に一気にあふれ出したのである。このためナイル川の水位は20メートル以上も上昇し、ナイル川は大洪水にみまわれた。
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 こうした湖水位の上昇や大洪水の証拠は、西アジアからインドそしてチベット高にまで連続してみとめられる。1万2000年前から8000年前は多雨期であった。日本列島においても地すべりや大洪水が多発している。ハンコックはエジプトのスフィンクスが雨滴による侵蝕を受けており、その雨による浸食を受けるためには、スフィンクスが1万2000年以前に作られ、この多雨期に雨による侵蝕を受けたと考えられている。
 氷河時代の地球は全体として乾燥気候が支配的であったが、1万3000~1万2000年前頃より、地球の気候が温暖化するとともに、降水量と積雪量も増加した。
 日本にも大洪水時代があった
 1万2000年前頃、ナイル川の大洪水があったことを述べた。このような大洪水は日本にもあった。
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 その縄文時代草創期の隆起線文土器、つづく爪形文・押圧文系土器、多縄文土器、さらには縄文時代早期の押型文土器、条痕文系土器の遺物包含層は、いずれも砂礫層なのである。C14年代で1万2000年前から8000年前までの遺物包含層の大半は砂礫層だった。
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 ブナの森の拡大
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 最後の氷河時代後半の最寒冷期に相当する2万1000~1万8000年前、海面は100メートル以上現在より低く、このため日本海は閉塞状態に近くなり、対馬暖流は流入できなかった。
 冬季、日本海側に多雪(たせつ)をもたらすのは対馬暖流が深くかかわっている。対馬暖流の流入で、日本海の表面水温は冬季でも5~10度に冷えきっている。これに対しシベリア高気圧はマイナス20~30度に冷えきっている。この温度格差が、さらに蒸発をもたらし、雪雲となって日本海側に豪雪をもたらすのである。対馬暖流が日本海流入できなかった個の時代、冬の雪は少なく、大陸的な寒冷で乾燥した気候が支配的であった。
 こうした大陸的風土がゆるみはじめ、日本列島が大陸とは異なった海洋的風土に変わりはじめたのが、およそ1万2000年前なのである。それはブナの花粉の増加で知ることができるのだ。
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 ……1万2000年前から8000年前までは、ナイル川流域や地中海沿岸と同じく、日本列島の環境も不安定で、洪水がたびたび発生する大洪水期だったのである。
 森の拡大と人類の適応戦略
 この降水量の増加は、森の育成にとってかっこうの条件となった。西アジアでは、旧石器時代の人々の主要な食料となったウマ、バイソンなどの大型哺乳動物の生息する草原はしだいに縮小し、かわってナラやマツの森が拡大してきた。さらに冬の雪の増加は、大型哺乳動物には致命的だった。雪におおわれた草原では冬の食料をさがすことができなくなったからである。さらに夏の気温の上昇は永久凍土を融かし、ぬかるみに足を取られたマンモスがいくつも化石となって、現在のシベリアから発見されている。
 こうした気候の温暖・湿潤化の中で、大型哺乳動物がつぎつぎと姿を消し、加えて人類の乱獲もたたって旧石器時代の人々は食料不足におちいつた。彼らが取った生き残り戦略は二つある。
 その一つは新たに出現した森の中に逃げこみ、森の中の資源を利用して定住生活を開始して生き残る戦略である。
 他の一つは新たな大型哺乳動物や食料を求めて大移動するという戦略である。
 第一の森の中に逃避した人々は、森の中の植物資源と定住生活をおぼえた。森の中の堅果類(けんかるい)や球根など食料となるものがたくさんある。森の中の湖や小川には魚もいる。そして森の中には小動物もいる。こうして、森の中に逃げ込んだ人々は、新たに植物質食料を利用する技術をマスターする。西アジアではこうした人々が、つづいて引き起こされるヤンガー・ドリアスの寒冷期に、再び草原に出て農耕を開始するのである。
 一方、食料を求めて大移動を開始した人々は、シベリアのバイカル湖周辺から東方へ移動し、アラスカのベーリング陸橋を通って新大陸アメリカに到達した。当時、カナダを広くおおっていたローレンタンド氷床の南側は、まだゾウやバイソン、ウマそれにオオナマケモノなどの大型哺乳動物の楽園だった。1万2000年前頃、ローレンタンド氷床とロッキー山脈の間にできた細長い氷の割れ目を南下した人々は、8000年前までにこれらの大型哺乳動物の大半を狩り尽くしてしまうのである。
 このバイカル湖周辺から東方へ大移動を開始した一派が日本列島に到達した。その到達の時代はアメリカ大陸のローレンタンド氷床の南に到達するよりも2000年近く早かったとみなされる。彼らは荒屋型陶器と呼ばれる特徴的な細石刃を持っていた。……。
 ……南から土器文化の北上を可能にした琉球陸橋の存在が大きな役割を果たしていた可能性が今後検討される必要があるだろう。琉球列島から縄文時代草創期の土器が発見されることが期待されるのである。
 農耕へとつきすすまなかった理由
 西アジアでは森の中に逃避した人々は、アーモンドやピスタチアの実を採り、野生のヒツジやウサギを狩猟して、人口も増大し、平和な時がしばらくつづいた。ところがC14年代1万2000年前頃、突然、ヤンガー・ドリアスとよばれる寒のもどりがひき起こされるのである。大西洋沿岸地域の北米やヨーロッパの年平均気温は一気に摂氏5~7度も低下し、氷河時代に逆戻りしてしまった。これは、北米をおおっていたローレンタンド氷床が融解してできた五大湖の数倍もあった巨大な氷河湖の水が、氷の融解によって東側の堤が切れ、いっきに大洪水となって現在のセントローレンス川を下り、大西洋に流出したために引き起こされた。淡水の被膜が大西洋の北部をおおって、大西洋から太平洋にかけてつながっている深層水の循環がストップしたため、気候が氷期に逆戻りしたのである。この寒の戻りによって、西アジアの森は再び枯渇し、森の資源によって生活していた人々は、食料危機に直面した。森の恵みと温暖な気候そして定住生活によって人口も増加していたから、食料不足の影響は深刻だった。人々はやむなくてあたりしだいに集落の周辺に生育しているものを食べ始める。そして、その中から野生のムギ類の栽培化をおぼえるのである。これがその後の人類の文明の展開に決定的な出発になるのである。農耕を知ることによって、人類は文明を発展させ、今日の繁栄を手にすることができたのである。だが同時にそれはまた大規模な自然破壊開始の第一歩でもあった。現在の地球環境問題へつき進む出発点は、人類の農耕を開始した時にはじまる。
 ところが、日本列島ではヤンガー・ドリアス気候寒冷化は、それほど深刻な打撃を縄文人の生活に与えなかった。太平洋沿岸のヤンガー・ドリアスの証拠は、大西洋沿岸ほど顕著にはみられない。このため縄文人の生活も危機に直面することなく、狩猟・漁労・採集生活を基本においた縄文文化が、その後も長らく続きことになった。日本列島の豊かな森の恵みに支えられて、縄文人たちは、農耕社会へと突入する必要がなかったのである。
 しかしそれだけではなく、縄文人は農耕社会に突入することを意識的にさけていたようなきらいさえある。富を貯蔵し、貧富の差を生み出し、その富を背景として権力者が、貧しい人々を搾取するそのような社会に突入することをさけていたように思えるのである。
 ……
 稲作はなぜ普及しなかったか
 長江中・下流域では河姆渡遺跡よりさらに古い稲作の証拠が発見されている。厳文明(げんぶんめい)氏(『世界最古の土器と稲作の起源』『季刊考古学』56、1996年)によれば、江西省万年県仙人洞遺跡では、稲作がすでに1万1000年前から行われてリ、何介鉤(かかいぎ)氏によれば湖南省八十●(土当:はちじゅうだん)遺跡や蝦蟆洞(がまどう)遺跡でも、やはり1万年以上前にさかのぼる稲籾が発見された(安田喜憲『稲作の環境考古学』『季刊考古学』56、1996年)。このように稲作も麦作と同じように1万年以上前から始まっていた可能性がきわめて高くなってきた。そして、おそらくこの稲作農業を背景として、米を食べる容器として土器が誕生してきた可能性が高かった。
 そして、5000年前には都市文明さえ誕生していた可能性が高い。この中国の長江中・下流域と九州は直線距離にして、わずか800キロメートル離れているだけである。かつ鳥浜貝塚の出土遺物にみられるように、ヒョウタン・エゴマ・漆(うるし)など長江流域との交流を物語るものが出土している。
 にもかかわず稲作は縄文時代の終末期の3000年前にならないと伝播しないのである。長江中・下流域の稲作農耕社会の発展の程度、さらには長江文明の発展の段階を考えてみると、もっとも古い時代に稲作が日本列島に伝播していてもよさそうに思える。
 最近、岡山県総社市南溝手遺跡のプラント・オパールの分析の結果、縄文時代中期まで稲作がさかのぼれる可能性が指摘されている(吉崎昌一『日本における栽培植物の出現』『季刊考古学』50、1995年)。中国大陸での文明の発展の状況を考えると、5000年前の縄文時代中期に稲作をたずさえた人々が、日本列島に到来していた可能性はきわめて高いと思う。
 しかし、なぜか日本列島では縄文時代終末期にならないと稲作は定着・普及しないのである。それはなぜか。
 その第一の理由として考えられるのは、ドングリやクリあるいは豊かな海の幸さらにはイノシシやシカなどに依存する社会が、稲作を必要としないほどに豊かだったということがあげられる。
 第二に稲をもたらした人々が、当初の段階ではきわめて少数であり、渡来人がコロニーを作って稲作を行うほどの力がなかったことが考えられる。稲作を行うにはまとまった人口が必要であり、稲作にたけたある一定以上の渡来がないかぎり、複雑な技術体系をもつ稲作を普及するのは困難であった。
 第三に女性中心の平等主義に立脚した縄文社会においては、男性指導型の稲作を実施に移すのが社会的に困難であった・・・等々である。
 縄文時代晩期の気候寒冷化による環境の悪化の中で、縄文人ははじめて食料危機に直面し、大量死に直面した。そんな時、大陸から気候悪化による春秋・戦国時代の社会動乱から逃れたポート・ピープルが、稲作をたずさえて大量に渡来した。おそらく彼らは当初においても、在来の縄文人と関係なくても、稲作を実施できるだけの人口を有していたとみなされる。男性のみでなく女性がともに渡来したことも指摘されており、独自のコロニーを作り、そこでまず稲作を開始した。
 稲をたずさえた人々は、すくなくとも縄文時代前期以来、ポツポツと日本列島にやって来ていたと思われる。しかし、稲作の普及には高い技術の習得と人口が必要だった。当時の縄文人もまた豊かな食料資源にめぐまれ、どうしても稲作を開始せねばならない必然性がなかった。縄文文化が気候悪化の中で食料危機に直面し、大陸から稲作をたずさえた人々の大量移住があった時、はじめて稲作は日本列島で定着し急速に普及することができたのであろう。
 その背景には茂在寅男氏や山田慶児氏(『技術と技術者が海を渡る』埴原和郎『日本人誕生』集英社、1986年)が指摘するように、航海技術の発達があった。
 すでに紀元前6世紀、長江中・下流域には強力な水軍が出現している。華北の人々は水軍の技術においては、江南におくれをとっている。水軍と海上貿易の中心は江南の長江中・下流域の人々であった。したがって、船に乗り大挙して日本をめざした人々は、こうした江南の長江中・下流域の人々であった可能性が高い。山田氏が指摘しているように、戦国時代の末期には船楼と櫂(かい)と舵をそなえた大型構造船が出現し、後漢光武帝の楼船艦隊は紀元42年にベトナムまで遠征しているのであるから、弥生時代の日本列島に大挙してやってくることは、航海技術の上からみても、十分に可能であった。
 こうした航海技術の発展を背景として、稲作をたずさえた人々が日本列島に大量に渡来するまで、日本では本格的な稲作ははじまらなかったとみなすのが現時点では妥当であろう。
 しかし、5000年前の巨大な長江文明の発展の状況を見るにつけ、もっと早くから稲作をたずさえた人々が日本列島に渡来していた可能性はまだ捨てきれないと思っている。それは今後の研究をまつしかあるまい。」
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 神道入門Q&A(39)
 斎庭稲穂の神勅
 吾(あ)が高天原(たかまのはら)にきこしめす斎庭(ゆには)の穂(いなほ)を以(もっ)て、また吾(あ)が児(みこ)にまかせまつるべし。(神代紀、第九段、一書第二)
わたしが高天原で育てた神聖な稲穂をあなたに授けましょう。
 天照大御神が「人々の食の中心」として天上の田んぼで育てた稲を地上に授けたことを伝える神勅です。毎秋、宮中や全国神社で行われる新嘗祭(にいなめさい)は大御神からの賜り物である米の収穫感謝のおまつりです。天皇一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)においても天皇みずから神々へと新穀を供えられ、国と人々の繁栄が祈られます。日本においてまつりや食文化と分かち難い稲作が、神代から受け継がれてきたことを示しています。
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縄文文明の環境 (歴史文化ライブラリー)
森と文明の物語 ――環境考古学は語る (ちくま新書)
縄文文明 世界中の教科書から消された歴史の真実
人類一万年の文明論―環境考古学からの警鐘
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 天照大神は、最高位の女性神であり天皇家・現皇室の祖先神である。
 現人神とは、人間の生き神・生き仏ではなく、祖先を神とする神の裔という事である。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)「農業神」の解説
 農業神 のうぎょうしん
 農耕の守護神で、東北地方では農神(のうがみ)、関東・中部地方では作神(さくがみ)、近畿地方では野神(のがみ)・作り神などとよばれる場合が多く、さらに田の神の名称はほぼ全国的にみられる。農業神はこれらを汎称(はんしょう)とし、それぞれ個別には地神(ジガミ・ジジン)、竈神(かまどがみ)(オカマ様・荒神(こうじん))、恵比須(えびす)、大黒、亥子神(いのこがみ)、案山子(かかし)、サンバイ様、ソウトク様などが祀(まつ)られている。これら日本の農業神は、田の神の名称が広く使われていることからもわかるように稲作神としての性格が顕著で、稲作の作業過程に対応して去来するという伝承が広くみられる。田の神には、春に山の神が田に降りて田の神になり、秋にふたたび山に帰って山の神になるという伝承が各地にある。また、日本では、農業は古来から国民の全体的生業と考えられてきたため、年中行事に現れる神や各家で祀る神は農業神としての性格・要素をもつ場合が多く、この神は複雑に習合し、錯綜(さくそう)した様相を示している。
 [小川直之]
 『倉田一郎著『農と民俗学』(1969・岩崎美術社)』▽『西谷勝也著『季節の神々』(1970・慶友社)』
 [参照項目] | 田の神 | 農耕儀礼
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 日本民族の革命的変化は、食料危機による大量餓死者によって起きる。
 つまり、古代から、日本民族の行動原理とは「安心して食べて生きる」事であり「飢えて死なない」事であった。
 餓死の恐怖が、信仰宗教やイデオロギーの普遍的原理主義より優っていた。
 日本における正しい人とは、食べ物を巡って争わず・奪わず、食べ物を自分で作り自ら料理して皆で美味しくいただいて生きる集団主義・ムラ人根性の「食の人」である。
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 日本民族は、数万年前の旧石器時代(岩宿時代)・縄文時代にしろ、数千年前の弥生時代古墳時代にしろ、中国大陸や朝鮮半島に恩義を感じる必要はない。
 何故なら、渡来人とは、日本人のたっての願いで来てもらったのではなく、勝手に逃げて来た難民や敗者・亡命者・逃亡者・犯罪者などの弱者であったからである。
 当然の事ながら、現代の中国人や朝鮮人は昔の中国人や朝鮮人の子孫でもなければ血の繋がらない全くの別人である以上、日本人はことさら卑下して現代の中国人や朝鮮人に感謝する必要はない。
 むしろ、日本列島は中国大陸や朝鮮半島から感謝されて当然である。
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 歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。 
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 日本文明は、南方系長江文明の後継文明であり、北方系黄河文明の亜流文明ではなかった。
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 昔の日本民族は、自然を大事に守りながら自然と共に生きてきた旧石器人(ヤポネシア人=岩宿人)・縄文人(日本土人)の子孫といえた。
 日本民族は、北方系山森人、南方系海洋人、西方系草原人など数多くの人々が混じり合い乱婚を繰り返し混血して生まれた雑種である。
 そうしたまとまりがない雑多な人々を一つにまとめる為に、民族中心神話・天皇由来神話という最高神を女性神とする日本神話が創られ、そして日本の正統性を神話物語に込め女性神に結び付けた。
 これが、日本における絶対不変の正統性であり、それ以外は改竄自由な正当性である。
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 数万年前の縄文時代は、女性中心の平等主義社会であった。
 大陽は女性神で、古墳時代には天皇の祖先神・天照大神へと神話化された。
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