🌏44)─1─明治維新は、イギリスの対ロシア戦略で起き、イギリスの協力で成功した。~No.144No.145No.146  

幕末維新を動かした8人の外国人

幕末維新を動かした8人の外国人

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・  
 明治から現代に至るまで、日本はイギリス・アメリカのアングロサクソン勢力とロシア(ソ連)の最前線にあった。
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 東アジア・極東アジアの近代化は、ロシアが東方・アジアへ侵出・侵略する事によって始まり、ロシアへの脅威を強く意識するイギリスやアメリカによって加速化さ、冷静に順応できなかった国や地域では内戦が起きて崩壊して行った。
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 日本民族日本人は、褒め言葉や煽て言葉で高く評価されると、思慮分別なき白痴になり、無能無策の馬鹿になり、自惚れて傲慢になり自堕落となって品格・品性・人格を失う。
 特に、グローバルな知的エリート層にその傾向が強い。
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 2018年3月号 WiLL「明治150年 試練に立つ日本 
 日本と日本人への高評価はそのまま警戒心につながることを忘れるなかれ
 中西輝政
 国難に囲まれた国
 今年は明治150年ですが、明治は日本が近代化するきっかけになった重要な時代です。
 この機会に、明治維新以降、日本がどのような歴史を歩んできたか、見直したいものです。
 明治という時代は、日本の安全保障が根底から脅かされた時代です。今もわが国は北朝鮮や中国の脅威がありますが、幕末・明治の日本は桁違いの脅威に悩まされてきました。そもそも地政学的な宿命から、日本ほど危うい国は世界にありません。
 この150年、日本はその数々の困難を、よくぞここまで生き抜いてきた。まさに『奇跡の150年』と言ってよいでしょう。幕末から明治期の周りには、北はロシア、西はイギリスを始めとするヨーロッパ勢と、清国、つまり、中国からの脅威もありましたし、太平洋の東からアメリカの脅威にもさらされていました。特に明治の初めは清国の『定遠(えいえん)』や『鎮遠(ちんえん)』などの巨大軍艦がやってきて、盛んに日本を威嚇し、長崎では清国水兵による暴動事件も起きた。
 当時、清は今の中国以上に海洋進出していて、清国軍艦は東シナ海から瀬戸内海にまで入り、傍若無人の振る舞いを繰り返していた。さらに、東からはアメリカのペリー、つまり黒船艦隊が来た。このように三方から安全保障上のプレッシャーをかけられた国は、世界史上、日本以外にはありません。
 挙句、ペリーによって開国させられたら、日本経済は一瞬で破壊されてしまった。銀が大量流出し、大インフレが始まった。徳川幕府はそれで急速に力を失っていきましたし、また新しい疫病も海外からどっと入りました。
 しかし何よりも、それまで触れたことがなかった異質な近代西洋思想が入ってきたことはもっとも大きな『脅威』で、これには日本人の頭が狂ってしまうようなインパクトがありました。伝統的な価値観・文化が破壊され、福澤諭吉みたいな知識人は、この『近代思想』の最先端に立って『日本の根本からの改革』を叫んだほどでした。
 つまり、海外から攻められ、いつ植民地にされるかわからないという安全保障上の脅威。加えて経済と社会がひっくり返るような、国民生活が崩壊する脅威。さらには伝統的な価値観・文化が根底から否定され破壊されようとする脅威。
 この三つの脅威が一度に降りかかったのが幕末明治の日本であり、これも世界史上、ほとんど例をみない深刻で複合的な大国難でした。
 少子化はGHQが原因
 安倍晋三首相は昨年の総選挙に際して、北朝鮮をめぐる安全保障危機と少子化の二つを『国難』として、これに立ち向かう、と明言しました。
 では、明治期から長い時間がたった現在、この二つの国難を引き起こしたのは誰なのか。
 まず少子化については、その起源がアメリカの対日占領政策にあったことが最近明らかになってきました。アメリカは対日占領政策形成の過程で、『日本はなぜ戦前、軍国主義に走ったのか』を研究した結果、増大する人口圧力に原因があったとい結論になった。つまり、戦前の日本は国内の人口圧力に耐えられなくなり、他国へ膨張拡大せざるを得なくなった、という見方です。
 すると、日本の人口を減らすことが平和国家につながる、という発想が生まれ、戦後日本ではGHQの指令によって大々的に人工中絶が推奨された。戦前は違法だった人工中絶が1948年制定の『優生保護法』によりフリーパスでできるようになった結果、日本の人口は一挙にガクッと減ってしまった。この辺りの事情は産経新聞の河合雅司氏が近著『日本の少子化 百年の迷走』(新潮選書)で詳しく述べています。
 もう一つの原因は地方都市の衰退です。1980年代から地方の衰退が始まっていきましたが、これが地方の少子化につながっているのではないか。そして、その原因は、日米の構造協議・経済問題にあったといわれています。たとえば、日本では地方都市の市街地にも大型店舗が進出することは珍しくないのですが、あれはアメリカ国内でもやっていないような、大型出店の大幅な規制緩和をやっているから実施できるのです。アメリカでは大型店舗を地方都市の中心部に作ろうとしたら、地方都市の活力が一挙に崩壊することが懸念されますから、多くの州では幾重にも規制をかけて、中心部から遠い場所にしか出店させないのです。
 では、なぜ日本でこんな徹底した規制緩和が実施されたのかというと、これはアメリカの覇権──つまり日本の安全を守ってやっている、という対日交渉での強い立場──の下、アメリカ国内ではできないような経済=社会政策の実験場に日本がされてきたからです。戦後の『農地改革』がいい例ですね。米国内であれをやったら、革命が起こってもおかしくない。
 戦後の日本では『反封建主義が軍国主義の温床(おんしょう)だ』というGHQに日本通とされたハーバート・ノーマンの理論に基づき、日本の軍国主義を防止する、という名目で実施されなした。しかし、大型店舗に代表される、外圧による規制緩和は、まさに竹に木を継ぐようなもので、日本社会と国民共同体の生命力に与えたダメージは実にきわめて大きかった。
 有機体としての地方都市を中心とする日本社会の根っこは、あれでズタズタにされてしまった。この影響は予想外に大きく、もはや回復は不可能、あるいは回復するとしても長大な時間が必要です。
 社会を持続発展させていくためには、いかに有機体としての生命力を保つかが大切なので、上辺だけの技術的・制度的・政策的な議論をしてすむことではありません。少子化を『国難』という以上は、それくらい掘り下げた議論が必要だと思います。
 EU軍創設の衝撃
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 英米覇権に適応できた時代
 ……
 日本は明治以後、アジアでいち早く近代化し、列強の一角になるほど成長した。その後、あの戦争つまり第二次大戦の挫折を経験したけれど、『奇跡の復興』と呼ばれるほどの短期間で立ち直った。これには他に選択の余地はなかったにせよ、前述のアングロサクソンの覇権に再び適応したからです。もっと言うと、福澤諭吉を始めとする先人たちが明治期に一生懸命、アングロサクソンの覇権システムに適応しようとした努力が、戦後の復興にも寄与したとも言えます。適応能力という点では──ときに『過剰適応』という弊(へい)に陥ることもあるが──、日本人はもともと世界を見る目に優れており。知的で敏感に観察していました。
 さらに大きな構想力を持っていた。これは世界が認めてます。
 しかし、逆に『世界が日本をどう見ているのか』という冷静な自覚が今もって著しく欠けているように思えるのです。特にイギリス・アメリカに代表される、アングロサクソン勢力が日本をどう見ていたのか。そして反対に、我々は彼らをどこまで理解しているのか──。
 この150年、日本はそういうことが問われていたのに、その点では今もって落第したままです。今日のように中国とアメリカがせめぎ合う時代には、はなから中国を信頼できない日本人にとって、もう一方のアングロサクソンアメリカについては、より深いところで理解することが一層重要なのです。
 彼らは『その時』にどう振る舞うのか──同盟や約束についてどう考えているのか。
 これについても一度、根底から考えてみることは、日本人が米欧の文化に触れ始めた明治開国から150年たった今が、ちょうどいい機会ではないでしょうか。その時に参考になるのが、当時の香港総督(イギリス植民地の最高責任者)の通訳官を務めたカール・ギュッツラフ(1803〜51年)の日本観です(加藤裕三・川北稔著『アジアと欧米世界』/中央公論社から引用)。
 ギュッツラフは、イギリスのアジアにおける覇権拡大の最前線に立った人物で、アヘン戦争後、中国以外の他のアジアの国々をどう開国させるべきかを説いています。そこで当時の日本の実情を正確に分析したうえで『日本が開国させやすいだろう』と結論づけている。さらに日本の情報分析能力の高さや国民性の誠実さ、科学技術への関心の高さを称賛している。
 日本は大いに褒められていたわけですが、問題はここです。つまりそこで喜んではいけないのです。注目すべきは、これだけ冷徹した目を持っている、アングロサクソンの覇権能力の高さの方なのです。
 結局、このときイギリスは日本に開国を迫らず、代わってアメリカのペリーが来たのですが、これも英米間での取引と計算があってのことです。これは、ジェームズ・スターリングという、当時のイギリス東洋艦隊の司令官が述べていますが、
 『日本は商業的に重要な国になるが、それ以上に政治的にも重要なパートナーになりそうだ。すでにアヘン戦争のニュースを聞いている日本人を無理に開国させるとイギリスの敵になり、商業的、政治的な利益を失いかねない。だからアメリカ人にやらせよう。覇権国のイギリスより、新興国アメリカの方が日本も警戒心を持たないだろう』
 と。これが『日本開国の原理』だったのです。『明治150年』を言祝(ことほ)ぐだけでなく、こういう真の歴史を今日の日本人はもっと学ぶべきです。
 ペリーの日本に対する印象も重要なカギです。日本の高度に進んだ都市文明や技術の高さ、好奇心や知識について非常に高い評価を下しているからです。
 このような日本に対する『アングロサクソンの高評価』は、明治の開国前にほぼ確定しており、その後も続いている。実際、その後、日本に来た英米人は軒並みに、他の西欧人以上にこうした高い評価を残しています。
 それが何を意味するか、この150年、真剣に考え抜いた日本人はほとんどいませんでした。それは日本人自身が、日本に対して非常にナイーブな、不安定な自画像しか持てなかったために、単なる『ほめ言葉』として受け止めてしまったからだと思います。ここに海外との認識の深刻なギャップがありました。
 アングロサクソンと明治史
 アングロサクソンは日本の潜在力をきわめて高く評価していましたから──それhs実に大変恐ろしいことなのですが──、彼らにとって明治以降の日本の近代化の成功や経済発展は、全然不思議ではなかった。明治日本を観察した英米の日本通によって、いわば、それは『予定のコース』だとさえ受け止められていた。彼らはそこまで情報通だったのです。
 日本人が危ういのは、こうやって高く評価してくれる国は、日本に好意的だろうと手放しで思ってしまうこと。これが日本人の世界認識のもっとも危ういところであす。
 他国のことを『高く評価する』ということは、好意よりも即、警戒心が強くなることを意味します。
 とくに覇権を握っている国は、きわめて敏感に、自分の地位を脅かす、危険な潜在的ライバルはどこの国か、目を皿のようにして世界を見ているのです。こうした徹底的な自己中心主義と性悪論が、一神教や近代の西洋思想の根幹にはある。
 他国、とくに明治の日本のような『潜在敵国』に対する覇権国の高い評価が直ちに鋭敏な警戒心につながることは、ギュッツラフからぺりー、さらに最近だとエズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』によく表れている。昭和末期の日本人は『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と言われて舞い上がりましたが、その後、見事にバブルが崩壊し、日本は奈落の底に突き落とされた。
 これは我々日本人が覇権主義の世界の中で、いかにうぶで田舎者だったかを示しています。バブル後の、この『失われた二十余年』を繰り返さないためにも、日本はこうしたアングロサクソンの考え方をもっと深く研究することがきわめて重要なのです。
 今日、改めて『明治150年』を考える際にも、こうしたアングロサクソンの分析をベースにすると、かなり違った視点で考察することができます。
 まず、明治の始まりを作った『維新』とは一体、なんだったのか。最近『明治維新という過ち』(原田伊織著/毎日ワンズ)という本がよく売れていたそうですが、維新後の薩長史観には確かに色々な問題がある。
 また、以前は『坂本龍馬が外国の武器商人の手先で云々』という書籍も注目されましたが、近代史を切り取ってみると、どこの国にもそういう側面は必ずある。近代資本主義が世界に広がっていった時代ですから、覇権国の金融資本と結びつくとか、覇権国の政府関係者が途上国に対しさまざまな工作をし、今日においても、欧米各国が途上国内に勢力を拡大させようとする、こういう動きはつねにあると思います。
 しかしもうちょっと真剣に明治維新を論じるとしたら、先ほどのギュッツラフ、彼の甥のハリー・パークス、パークスの部下として明治維新を演出していったアーネスト・サトウ。こういった面々が、『覇権主義の手先』としてアジアに〝暗躍〟した。アングロサクソンの対日工作活動の歴史を研究していけば、従来のあまりにも固着した薩長史観、あるいは長州征伐とか将軍継承問題とかの、国内史で歴史を覆い尽くすような明治維新史よりも、ずっと良質な歴史観が得られるように思います。
 アーネスト・サトウなんかは今も全くわからないことが多いのですが、パークスに関しては少しずつですが今日信頼できる資料が出てきていますので、パークスの例を見ていきましょう。
 パークスを通して近代史を見ると、彼は一貫してシナと関係が深いことがわかる。当時のイギリスはロシアの脅威を中国大陸に拡大させないため、なんとしても清国を開国させるつもりだった。そのためのアヘン戦争にパークスは自らも参加し、後に外交官になってからは、先頭に立ってアロー号事件、北京条約という1850〜60年代後半の余りにも苦い歴史経験があるからで、日本人には明治は『過去の歴史』ですが、中国人には『現在も生きている歴史』なのです。習近平中国の分析にはこういう視点が必要なのです。
 パークスが演出した明治維新
 その後の1865年、このパークスは37歳で駐日公使となって日本にやってくるが、それまでに中国の太平天国の首領とも会ったりして世界史的な舞台で、いろいろな経験をしていたから、年の割にすでにきわめて尊大な威信を身につけての日本赴任だった。日本に上陸したパークスは、まさに大英帝国を背負った男で、その部下が『工作員アーネスト・サトウ』だった。
 1865〜66年は長州征伐が挫折し、幕府に未来がないことがわかった年です。
 でも薩長は反目し、国内は混沌としている。そこにきて、翌67年の3〜5月にパークスがサトウを使い、横浜居留地で発行されていた『ジャパン・タイムズ』という英字新聞に『英国策論』という記事を掲載した。この記事には『討幕のために薩長は手を結ぶべきだ。そして日本を近代国家に導くべきだ』という明治維新の基本イデオロギーと、その後の現実となったシナリオが説かれていた。
 まさにこの記事が明治維新を作った、と言っても過言ではないかもしれない。この記事の翻訳は岩倉具視大久保利通の関係文書にも残っている。当時の維新の志士たちは、記事の邦訳をみんなで回し読みしていたので、まず西日本で大きな反響があり、わずか3ヵ月で全国への広がる一種の大ベストセラーとなり『維新回天のバイブル』になりました。
 その少し前、『新論』(会沢正志斎)と、この『英国策論』が、明治維新の志士を駆り立てる、非常に大きなイデオロギー・戦略・政策・構想の真の源泉であったと言えよう。
 『明治維新ゴッドファーザー』としてのパークスは日本公使(20世紀の大使に相当)として、18年間(1865〜83)、幕末・維新期の日本に君臨しました。
 彼はその間ずっと大英帝国の『大使』つまり実質的な『日本総督』だったわけですが、近代日本の創設に及ぼした彼の発言力は実は我々の思っているよりも、はるかに大きいものがあった。彼こそまさに『明治のマッカーサー』だったのです。当時のドイツ人医師の書いた日記(『ベルツの日記』)には『パークスが何か言うと、維新政府は直ちにそうした』と書いてある。
 台湾出兵、日清間の天津交渉、ロシアとの千島樺太交換条約にはパークスが多大な影響力を及ぼしました。
 特に千島樺太交換条約の場合、イギリスとしてはロシアが千島列島から太平洋に出てくるのを防ぎたかったから、日本に無理やり樺太を放棄させ、代わりにイギリス海軍の都合に沿って千島列島を押さえさせた。
 パックスアメリカーナの黄昏
 これはまさしく、冷戦期にアメリカが、オホーツク海を聖域化して米海軍の接近を拒否しようとするロシア海軍に対する防波堤として日本の海上自衛隊とP3C戦略を利用したのと同じ発想です。こういう地政学的な発想や『保護国』の巧妙な内面指導による操縦と利用というやり方が、アングロサクソン独特のアプローチとして100年のスパンを挟んでも実によく符号しています。
 明治から現代に至るまで、日本に対するアングロサクソンのアプローチの仕方、日本への影響力の行使という観点では実に驚くほどの連続性があるわけです。」
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 日本の脅威は、1700年後半の江戸時代後期からロシアの侵略であって、1840年(〜42年)に起きたイギリスのアヘン戦争ではなく、1853年に日本に来港したアメリカ・ペリー黒船艦隊でもなかった。
 ロシアは本気で日本を侵略する意思があったかわからないが、日本は西洋勢力の植民地強奪競争を知っていただけにロシアの日本接近を侵略と認識した。
 諸大名は、ロシアの侵略から母国日本を守る事よりも自藩の事にしか関心はなかった。
 上級武士階級は、今ある生活を破壊し特権を奪うような変革や改革には反対で、むしろ有害として潰した。
 下級武士や庶民(百姓や町人)さらには非人・エタ・散所などの賎民そして山の民・川の民・海の民ら部落民は、ロシアの侵略から神国日本と日本天皇を守る為に立ち上がった。
 尊皇攘夷派・勤皇の志士達は、身分の低い階層が主流であった。
 日本におけるグローバル知識人・知的階層とは、そうした身分の低い人々であった。
 日本の社会を変えたのが下級階層・下級階層であった。
 明治維新とは、下級階層・下層階層が天皇を担いで行った庶民穏便革命である。
 それ故に、マルクス主義共産主義の人民暴力革命など日本では起きるわけがなかった。
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 日本が教訓とすべきは、アヘン戦争に負けて植民地化されていった清国(中国)ではなく、インドのムガル帝国とムガル帝室であった。
 当時の日本人はアヘン戦争で敗北した腐敗堕落した中国に将来の日本を当てはめて恐怖したが、現代日本人も同様に無能無策で外交と軍事に失敗した中国に囚われる限り何も学ぶ事ができない。
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 当時の日本人は現代の日本人とは別人である。
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 日本が危機意識を持って開国し近代化したのは、清国が阿片戦争に無様に負けて植民地化へと転げ落ちたからではない以上、日本は中国に感謝する事は全くない。
 「日本の開国と近代化は中国のお陰だから中国に感謝しろ」と暴言を吐く人間は、日本に対すすて陰険で憎悪を持ったドス黒い心の持ち主である。
 反天皇反日派である彼らの言う事を「馬鹿の一つ覚え」のように公言する日本人は、如何なる社会的地位にあろうとも、世界的な名声をえ権威を持っていようが、信用してはならないし、信頼してもならない。
 そうしたグローバルな知的エリートは、反天皇反日的日本人である。
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 日本は、地政学的に反日敵日のロシア・清国(中国)・朝鮮に囲まれていた。
 朝鮮は、反日敵日として、たえず大国を利用して日本に圧力をかけていた。
 愛国者民族主義者らは、ロシアの侵略に恐怖して、母国日本を天皇を守るべく、封建体制の徳川幕府を倒して天皇中心の中央集権政権を樹立し、軍事力を増強するべく近代化(殖産興業・富国強兵・近代教育)を急いだ。
 その国家的危機は、古代から変わる事がなく存在していた。
 日本にとって、中国や朝鮮は友好国ではなく仮想敵国・敵国であった。
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 イギリスは、アジアの植民地をロシアの侵出から守る為に日本に開国を迫り、徳川幕府ではロシアに取り込まれる危険性がある為に、対ロシアの新政権を樹立すべく倒幕派に軍事船を行った。
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 西洋の中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、戦国時代から桃山時代迄の間、日本人を奴隷として売買していた。
 豊臣秀吉徳川幕府は、日本人を人として扱わなかった中世キリスト教を禁教とし、宣教師を追放してキリシタン弾圧をおこなった。
 世界は、今もって、日本人奴隷売買という歴史的事実が有った事を認めないし、日本のキリシタン弾圧を非人道的行為として激しく非難し、さらに世界記憶遺産として後世に残そうとしている。
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 日本の国家としての孤独は運命であり、一ヵ国で、自国のみで戦って生き残る事が宿命であった。
 他に依存できない孤独な日本が生きる為には、自立が鉄則で、自己責任・自己判断・自力救済・自己努力しかなかった。
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 日本の総人口は、江戸時代初期(1600年代)の約1,200万人から明治初期(1860年代)の約3,000万人に微増し、昭和前期(1945年)までに約7,000万人と急増した。
 この人口爆発によって、日本の近代化は成功した。
 人類発展史では「人口が国力(経済力・軍事力)の源泉であり、人口増加は繁栄と隆盛をもたらし、人口減少は衰退と絶滅につながる」という原則があり、全ての国・地域、民族・部族は「産めよ殖やせよ」として人口を増やす事に力を入れた。
 人口増加が領土拡大・国土膨張の大国家主義・大国民であれば、人口減少は領土放棄・国土縮小の小国家主義・小国民である。
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 武士階級(家族郎等を含めて)は、総人口の5%〜10%、150万人〜300万人であった。
 上級武士階級(家族を含めて)は、幕府や諸藩を合計しても数万人しかいなかった。
 上級武士階級は、既得権益受益者としての幕藩体制が維持され昔通りの生活ができれば、ロシアが日本を侵略しても自分の所までロシア軍が攻めてくるか判らないのに、無理して変革・改革して備える必要はないと考えていた。
 それは、滅亡したムガル帝国にも似ていた。
 日本がムガル帝国の様に滅亡し植民地化され、日本人が奴隷にならなかったのは、儒教価値観で硬直し変革・改革を嫌う知的エリートである上級武士階級を無視して、勤皇派や尊皇派の志を持った下級武士や庶民(百姓や町人)、非人・エタ・散所などの賎民、山の民・川の民・海の民の部落民や貧民達が明治維新を行ったからである。
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 安心バイアス傾向が強い日本人は、惰眠に近い安穏とした生き方がしたい為にロシアの侵略などあり得ないと信じ切っていた。
 平和慣れしていて江戸時代は、中国の侵略である元寇はおろか朝鮮の侵略である貞観の入寇、寛平の韓寇、刀伊の入寇応永の外寇、その他の歴史的事実を消し去っていた。
 反天皇反日派渡来人と弘仁新羅の乱。
 知的エリート層は高度な儒教価値観を持っていただけに、中国や朝鮮の侵略と虐殺・強奪・強制連行を忘れ、中国や朝鮮を聖人君子の住む理想の国という憧れが強かった。
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 反日親中国派のルーズベルトは、日本国を四つの島(北海道・本州・四国・九州)に閉じ込め、太平洋上の諸民族を大量に移民させて日本人と混血させて、日本民族を地上から消滅させるべきだと考え、対日圧迫政策を行った。
 ルーズベルトが推し進めようとした人為的日本民族改造計画が、日米全面戦争の一つの原因でもあった。
 GHQによる対日占領政策の核心部分に、ルーズベルトの対日圧迫政策・人為的日本民族改造計画が存在していた。
 ルーズベルトは、日本民族日本人の抹殺を願っていた、その証拠が日本に対する原爆投下実験とヤルタ極東密約によるソ連軍の日本侵攻であった。
 日本民族日本人を根絶できるのであれば、日本が共産主義化する事も容認していた。
 アメリカとイギリスそしてカナダなどのアングロサクソン諸国は、巨費を投じて開発した大量破壊兵器・原爆を日本国民(兵士ではなく女子供の一般市民)の上に落として虐殺する事に合意していた。
 何故か、それは日本を中国など他のアジア諸国以上に高く評価しているからである。
 世界は、ロシア人共産主義者の日本人避難民(女性・子供)大虐殺とソ連(ロシア)の北方領土不法占拠を黙認している。
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 日本は、敗戦によるキリスト教史観・マルクス主義共産主義)史観と1980年代の日本人残虐非道の極悪人史観を歴史教育から排除し、明治維新薩長史観や昭和前期の皇国史観ではない新たな民族主義歴史観を生み出す必要がある。



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