🏞79)─3─北前船。江戸の経済と文化と料理を支えたアイヌとの北方交易。~No.321No.322 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 徳川幕府は、経済面や国防の面から蝦夷地のアイヌを間接保護する必要があった。
 蝦夷地やアイヌ人に対する差別は、江戸時代と現代日本では全然違う。
 その証拠に、徳川幕府は世界で蔓延していた疫病からアイヌ人を救っていた。
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 アイヌ人は、江戸時代を支え、日本国の存亡を握っていた。
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 蝦夷地は(北海道)は日本の植民地ではなく、アイヌは北方の土人であったが日本の植民地人・奴隷ではなかった。
 アイヌ民族日本民族琉球民族は。兄弟民族で縄文人の子孫である。
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 2024年1月号 Voice「地域から日本を動かす 結城豊弘
 北前船から現代を俯瞰する。
 北前船にはどんなイメージがあるだろうか。
 歴史の授業で習った北前船は、北海道の昆布を日本海の港や天下の台所・大阪に運び、代わりに米や布、各地の物産を運搬し、交易を行なった巨大貿易帆船と記憶している。
 北前船の歴史について解説した伊東香織倉敷市長は、『北海道から北前船で運ばれたニシンのかすが、有益な肥料として綿花の栽培に使われ、倉敷の紡績業の繁栄につながった』と指摘。人と物の交流が文化振興にとって大切であり、それは現代にも通じると強調した。
 ……
 フランス人を魅了
 2022年10月には、フランス・パリ市で4日間、同フォーラムが開催され、大好評だったそうだ。美食の国フランスで昆布の『日本の出汁(だし)文化』もアピール。日本の刀剣やアニメも紹介した。今回の岡山での開催にも絆がつながり、欧州の各国大使や領事がフォーラムに多数参加。フランス東部のアルザス地方・欧州日本学研究所や駐日欧州連合(EU)代表部などが顔を揃えた。
 僕は、参加者の一人であるフランスの元文部大臣でアルザス欧州日本学研究所所長のカトリーヌ・トロットマンさんと対談した。
 彼女は『2025年には、アルザスに日本の漫画博物館を開設する計画がある。日本の文化は、複雑なフランス人を魅了する。北前船の物流の歴史にも心が躍る。アルザスと日本との交流は、江戸時代末期に大阪商人が繊維品を買いつけにきたころから始まる』といって、『ゲゲゲの鬼太郎』の生みの親、水木しげる氏の出身地である『妖怪の町』境港を紹介した僕の手を握り返した。
 北前船じゃ一度の航海で1隻当たり約千両、現代のお金で約1億円以上の莫大な富を稼いだという。西日本の古着が生産技術の差から東日本では高値で売られ、西日本では北海道の昆布やニシン、ニシンのカスが肥料として、高値で売れた。
 しかし、多額の利益を生む北前船も、嵐で遭難すれば一巻の終わり。まさに命がけの航海が、寄港地に料亭や茶屋などの振興と民謡の流行、神社仏閣などの繁栄をもたらしたのだ。さらに、そこから生まれた祭りや文化、町並みが、現代では海外とのまったく新しい交流を生み出していく。……」
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 北前船とは、蝦夷地のアイヌと本土の和人との間でおこなわれた北方交易の事であり、日本の食文化など多くの面で支えていた。
 つまり、日本民族の文化や経済はアイヌ人の恩恵を受けて進歩・発展し繁栄していた。
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 日本の近代化は、江戸時代の北前船交易や日本人の旅好きによる国内での人・物・金の流動で成功した。
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 こんぶネット 一般社団法人 日本昆布協会
 昆布って何?
 昆布は海で育つ藻、海藻の仲間です。
 「海草」と「海藻」読み方は同じですが、海草は、海中で花を咲かせ種子によって繁殖し、海中で一生を過ごすアマモなどの海産種子植物のことをいいます。比較的浅いところに多く、海底深くに生育することはありません。
 一方海藻は、海で生活する藻類のことで、胞子によって繁殖します。海藻の根は栄養吸収のためではなく、岩に固着するためのものです。葉色によって緑藻・褐藻・紅藻の3種類に分けられます。世界に約2万種の海藻類があるといわれ、食用にされるのは昆布に代表される褐藻に多く、全部で約50種程度といわれています。
(参考:水産庁
 昆布の歴史
 こんぶの名前の由来
 日本の味としてすっかり食生活に定着している昆布ですが、その歴史はあまりに古く、確かな記録は残っていません。縄文時代の末期、中国の江南地方から船上生活をしながら日本にやって来た人々が、昆布を食用としたり、大陸との交易や支配者への献上品としていたのではないかと言われています。昆布という名の由来は、はっきりしませんが、アイヌ人がコンプと呼び、これが中国に入って、再び外来語として日本に逆輸入されたと言われています。
 こんぶが旅した”こんぶロード
 鎌倉中期以降になると、昆布の交易船が北海道の松前と本州の間を、盛んに行き交うようになりました。昆布が庶民の口に入るようになったのは、そのころからです。海上交通がさかんになった江戸時代には、北前船を使い、下関から瀬戸内海を通る西廻り航路で、直接、商業の中心地である「天下の台所」大阪まで運ばれるようになりました。昆布を運んだ航路の総称を「こんぶロード」と言います。こんぶロードは江戸、九州、琉球王国沖縄県)、清(中国)へとのびていきました。
特に、琉球王国薩摩藩(鹿児島県)と清とのこんぶ貿易の中継地として、重要な役割を果たしました。
 新しい土地に新しい昆布文化が生まれる
 こんぶロードがのびて新しい土地に昆布がもたらされると、そこに独自の昆布食文化が生まれました。
 たとえば、大阪ではしょうゆで煮てつくだ煮にしたり、沖縄では、ぶた肉や野菜といためたり、煮こんだりして食べています。
 関東地方はこんぶロードの到達がおそかったため、全国的に見て昆布の消費量が少ない地域となっています。このように、現在見られる地域による食べ方の違いは、こんぶロードの歴史的背景と関連があるのです。
 こんぶ料理
 参考文献
 (株)全教図「中学校技術・家庭科副読本こんぶ」(平成9年3月発行)
 北海道ぎょれん「北の幸。釧路の味 釧路の昆布」 
 昆布の種類(昆布いろいろ)
 日本で採れる昆布の95%以上は北海道全域で、その他は 東北(青森県岩手県宮城県)の三陸海岸沿いで採れ、 場所によって、採れる昆布の種類が違います。
 どれで、だしをとっても、煮て食べても良さそうですが、 実は使い方が異なります。
 縁起物でもある昆布で幸せを引き寄せよう!
 開運!縁起物でもある昆布で 幸せを引き寄せよう!
 昔から、おめでたい席に欠かせない昆布は、
 いわば日本人の必須ラッキーアイテム。
 なぜ、どうして昆布は"縁起がいい"とされてきたのか…。
 話せば長~くなるその謎を、ギュッと凝縮してお届けします。
 これを読んで、あなたの開運に役立てくださいね!
 なぜ昆布は縁起物なの?
 縁起のいい食べ物として、結婚式やおめでたい席に欠かすことができない≪昆布≫は、鎌倉・室町時代から今日まで『よろこんぶ』として、縁起物とされています。
 まるでゴロ合わせのシャレのようですが、昆布が"縁起物"と言われるようになるには、日本人と昆布の切っても切れない関係があります。
 政(まつりごと)にも欠かせなかった昆布
 奈良時代の歴史書続日本紀』によると、「715(霊亀元)年、蝦夷(現在の東北地方)の須賀君古麻比留から"こんぶ"が朝廷に献上された」と書かれています。
 実はこれこそが、昆布について書かれたもっとも古い記録。
 また、平安時代の詳しい決まり事についてかかれた『延喜式』という書によれば、地方の特産物を収める税金として陸奥の国(青森県)から、昆布が収められていたといいます。
昔の名前は“ヒロメ”です
 「ヒロメ」とは幅が広い海藻の意味で、「広布」と表していました。それが音読みされだして「こんぶ」と呼ばれるようになったという説があります。
 この「ヒロメ」という言葉が、結婚披露宴を「おひろめ」と呼ぶ語源と言われています。
また、現在でも祝儀の時には、幅の広い昆布(ヒロメ)を縦二つに折ってぐるぐる巻き、紅白の紐で結んだものを床の間に飾るという習慣が残っている地方もあります。
 戦国時代は必勝祈願の必須アイテム
 昆布は、平安期にはすでに祝膳にのぼったそうです。そんな宮中の古式にならって室町時代になると武将が出陣するときのラッキーアイテムとして登場します。
一に打ちあわび、二に勝ち栗、三に昆布…すなわち「打ち勝ちよろこぶ」という語呂あわせですが、戦乱の世の武将達には単なる言葉遊びでは済まされない、もっと大切なアイテムだったと思われます。
 栄養面でもお祝いの場にピッタリ!?
 広く一般の人まで、昆布をお祝いごとに使うようなったのは江戸期から。結納の席にも、子生婦(こんぶ)として登場するようになりました。昆布の繁殖力の強さもあって"よい子が授かりますように"と用いられていたようです。しかし、食物繊維やカルシウムがたっぷりの昆布は、妊婦さんにはうってつけの食品という側面もあったのかもと推測されています。
 このように、昔からおめでたい日やここ一番の大事な日にかかせない大切な食糧として受け継がれてきた昆布。
 長い長い歴史の中で、ただの語呂合わせだけではない価値が出来上がったのだと推測されます。
 “縁起物”として昆布が大活躍するシーン
 結納品 子生婦
(こんぶ・こうぶ)
 "よろこぶ"との語呂合わせはもちろん、その旺盛な繁殖力が好まれ「立派な子供を産めますように」という願いを込めて「子生婦」という字が当てられている。ちなみに…婿養子の場合は「子生夫」「幸運夫」と書く場合も。
 土俵
 "勝栗や昆布・米・ スルメ・塩・カヤの実"などの"鎮物(しずめもの)"が、場所中にケガや事故がないようにと、祈願する土俵祭りの際に土俵の中央に埋められます。
 鏡餅
 正月などに、神仏や床の間に供えるお餅の正月飾り。地域によっては紅白餅だったりと様々な形式がありますが、餅の上の飾りも様々で、昆布をはじめ橙・串柿・干しするめなどがあります。
 このように昆布は日本古来の縁起物として色々なシーンで大活躍しています。
 食品としても、縁起物としても日本を代表する存在と言えそうですね。
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 料理王国
 日本料理の基本・だしを学ぶ~昆布 ―1200 年の歴史と文化
  #歴史
 日本料理の基本・だしを学ぶ~昆布 ―1200 年の歴史と文化
 2021年9月24日 #歴史, Journal, 日本料理, 歴史・文化, 食材, 魚介
 料理王国2021年10月号の特集「日本料理の基本・だしを学ぶ」より、本誌でカバーできなかった内容を紹介する新連載。日本料理特有のだしについてご紹介します。
本誌内容はこちらから:
 https://cuisine-kingdom.com/magazine-202110
 日本人と昆布の関わりはたいへん長く深いものです。文献に初めて登場するのは1200 年ほど前のことですが、最初に煮炊きが始まった縄文時代(約1万5000 年前~ 2300 年前)から昆布はすでに使われていたといわれます。古来より昆布は細かく削って薬として珍重されたり、神様へ奉納されたりするなど貴重で神聖なものでした。現在のように、だしの素材として使われるようになったのは、中国から伝わった精進料理が発展を遂げた12世紀頃です。精進料理にとって海藻である昆布は使い勝手のよい食材であり、だしや煮物などさまざまな料理に用いられたほか、胡麻油で揚げた昆布も栄養価が高く好まれました。
 昆布店が得意先に年末に配った縁起物の引き札。北前船を描いた錦絵(明治後期)をもとにしている
 その後、17世紀後半になると海運が発達し、昆布の収穫地である北端の蝦夷地(えぞち)(現在の北海道)から商業の中心である西の大坂まで昆布の長距離輸送が可能となりました。そこを往復して物資を売買する船は「北前船(きたまえぶね)」と呼ばれ、北陸地方敦賀はその主要な寄港地としてにぎわいました。物資のなかでも昆布は重要な地位を占めており、敦賀で加工され、京都や大坂へと出荷されました。この「昆布ロード」の確立により昆布が安く出回るようになり、庶民のあいだにも広まっていったのです。
 日本料理の特徴のひとつに、保存のきく乾物をさまざまに活かすというのがありますが、だしの素材である昆布はその代表格です。収穫した昆布を一定期間寝かせることで熟成させ、さらにもどして使うことでうま味を抽出する技法は日本ならではのものであり、日本料理の核となっています。
 昆布には多くの種類がありますが、利尻昆布羅臼昆布、日高昆布、真昆布が、現在流通しているなかでもっとも有名なものです。京都の料理店では利尻、大阪を中心とする関西地方では真昆布が多く出回り、東京では日高がなじみ深いなど地域や料理によって使われる昆布が異なります。「だしの味で料理が決まる」とされ、料理店のだしへのこだわりはとても強いものです。この本で紹介する料理では、とくに断わりがない場合は、利尻昆布でとっただしを用いています。
 だしの素材以外でも、昆布を薄く削ったおぼろ昆布、酢でもどした昆布を重ねて熟成させ、表面を削ったとろろ昆布、醬油で炊き上げた佃煮昆布など多くの加工品があります。
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✨18)─3─終戦の時、チャーチルはアメリカに「天皇を使え」と伝えた。~No.78 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
2024-03-10
🎺40:─3・B─1944年9月 ハイドパーク協定。原爆を「日本人に対して使う」秘密合意。~No.179No.180No.181 
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 スターリンは、昭和天皇と軍国日本が停戦交渉を望んでいる事を米英の連合軍に知らせていた。
 ルーズベルトチャーチルは、原爆投下実験が終了するまで昭和天皇と軍国日本の降伏を認めない事に合意していた。
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 原爆開発のマンハッタン計画は、アメリカ・イギリス・カナダの三カ国による共同開発で、ベルギーがコンゴ・ウランを提供していた国際的プロジェクトであった。
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 原爆投下実験とは、実戦における爆破実験であったが、隠れた目的は日本人をモルモットとする人体実験であった。
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 2024年4月10日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「天皇をつかえ」…終戦のときイギリスの「チャーチル」が、アメリカに伝えた「意外なメッセージ」
 日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。
 【写真】なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」
 そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。
 『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』では、最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。
 *本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。
 重要な文書は、最初すべて英語で作成する
 本書でいま、私がお伝えしているような大きな日本の歪みについて、多くの方が関心を持つようになったきっかけは、2012年にベストセラーとなった孫崎享氏の『戦後史の正体』だったかもしれません。
 外務省の国際情報局長という、インテリジェンス部門のトップを務めた孫崎氏は、同書の第1章を、次のような少し意外な問いかけから始めています。
 「日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう」
 こう聞くと、ほとんどの人が、「1945年8月15日に決まっているじゃないか」というが、それは違う。8月15日が「終戦記念日」だというのは、世界の常識とは、まったくかけ離れているのだと孫崎氏はいうのです。
 「私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と聞くと、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです」
 世界の常識からいうと、日本の「終戦記念日」である8月15日には何の意味もない。
 国際法上、意味があるのは日本がミズーリ号で「降伏文書」にサインし、「ポツダム宣言」を正式に受け入れた9月2日だけだからです。
 それなのに、なぜ日本では、9月2日のことを誰も知らないのかというと、
 「日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目をそらしつづけているのです。
 「日本は負けた。無条件降伏した」
 本当はここから新しい日本を始めるべきだったのです。しかし「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう」
 自分たちに都合のいい主観的な歴史
 いま読み返してみても、じつにあざやかな書き出しだったと思います。
 私も『戦後史の正体』の編集を担当するまでは、「降伏文書」や「ポツダム宣言」について、もちろん一度も読んだことがありませんでした。孫崎氏が教授を務めた防衛大学校でも、とくに「降伏文書」は授業でほとんど教えられていなかったそうですから、おそらく普通の日本人は誰も読んだことがないといっていいでしょう。
 けれども、敗戦にあたって日本がどういう法的義務を受け入れたかを書いた「ポツダム宣言」と「降伏文書」は、もちろんその後の日本にとって、なにより重要な国家としてのスタートラインであるはずです。
 にもかかわらず、「戦後日本」という国はそうやって、その出発時点(8月15日)から国際法の世界を見ようとせず、ただ自分たちに都合のいい主観的な歴史だけを見て、これまで過ごしてきてしまったのです。
 もっとも、もちろんそれは戦勝国であるアメリカにとってもそのほうが、都合がよかったからでもありました。もしそうでなければ、そんな勝手な解釈が許されるはずがありません。
 歴史をひも解いてみると、「降伏という厳しい現実」を日本人に骨身に沁みてわからせる別のオプションのほうが、実行される可能性は、はるかに高かったのです。
 それは昭和天皇自身がミズーリ号の艦上で、自ら降伏文書にサインをするというオプションでした。
 天皇自身による降伏の表明
 考えてみると、日本は天皇の名のもとに戦争をはじめ、また天皇憲法上、講和を行う権限も持っていたわけですから(大日本帝国憲法・第13条)、降伏するにあたっても、本来天皇が降伏文書にサインするのが当然のなりゆきでした。
 事実、ミズーリ号の調印式の7ヵ月前、1945年2月時点のアメリカの政策文書では、日本の降伏文書には昭和天皇自身がサインし、さらにそのとき、次のような宣言を行うことが想定されていたのです。
 日本国天皇の宣言
 「私はここに、日本と交戦中の連合国に対して、無条件降伏することを宣言する。
 私は、どの地域にいるかを問わず、すべての日本国の軍隊および日本国民に対し、ただちに敵対行為を中止し、以後、連合国軍最高司令官の求めるすべての要求にしたがうよう命令する。(略)
 私は本日以後、そのすべての権力と権限を、連合国軍最高司令官に委ねる」
(国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)文書21「日本の無条件降伏」)
 天皇をつかえば、多くの命が救われる
 もしもこのプランが実行されていたら、日本人が9月2日の「降伏」に目をつぶりつづけることなど、もちろん不可能だったでしょう。
 けれども、日本が8月10日にポツダム宣言の受け入れを表明した直後、このプランは撤回され、天皇に代わって日本政府と軍部の代表が、2人で降伏文書にサインするプランへと変更されます。
 その理由は、アメリカにとって最大の同盟国であるイギリスのアトリー首相とベヴィン外相から、バーンズ国務長官のもとに、
 「天皇個人に直接降伏文書へのサインを求めることが、良い方法かどうかは疑問です」
 というメッセージが届いたからでした(「アメリカ外交文書(FRUS)」1945年8月11日)。
 なぜならこれから私たちは、天皇を使って、広大な地域に広がる日本軍を確実に武装解除していかなければなりません。それがアメリカ、イギリス、その他、連合国の多くの兵士たちの命を救う方法なのです、と。
 つまり、今後は天皇の命令というかたちで、アジア全域にいる日本軍を武装解除させていく計画なのだから、そのためには、なるべく天皇の権威を傷つけないほうがいいというわけです。
 このメッセージを本国に伝えたアメリカの駐英大使からは、その夜、イギリスのチャーチル前首相からも電話があり、そのとき彼が、
 「天皇をつかえば、遠い場所で多くの兵士の命が救われる」
 と確信をもってのべていたということが報告されています。
 意図的に隠された昭和天皇の姿
 その結果、ミズーリ号の調印式には、日本政府の代表である外務大臣重光葵と、軍部の代表である陸軍参謀総長梅津美治郎が2人で出席し、9月2日、降伏文書にサインすることになりました。こうしてこの一大セレモニーから、天皇の姿が意図的に隠されることになったのです。
 その一方で、昭和天皇には8月21日、マニラにいるマッカーサーから英語で書かれた「布告文」が届けられました。それは本来なら天皇自身が調印式に出席して、そこで読みあげる可能性のあった、あの「日本国天皇の宣言」が、その後、アメリ国務省のなかで何度も改訂されてできあがったものでした。
 日本語に翻訳したその布告文に署名と捺印(御名御璽)をして、9月2日のミズーリ号の調印式にあわせて表明せよと指示してきた。言い換えれば、それさえやってくれれば、昭和天皇は調印式に出席することも、降伏文書にサインすることも、宣言を読みあげることも、すべてやらなくていいということになったわけです。
 こうして占領期を貫く、
 「最初は英語で書かれたアメリカ側の文書を、日本側が翻訳してそこに多少のアレンジを加え、最後はそれに昭和天皇がお墨付きをあたえて国民に布告する」
 という基本パターンが、このときスタートすることになりました。
 さらに連載記事<なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」>では、コウモリや遺跡よりも日本人を軽視する在日米軍の実態について、詳しく解説します。
 矢部 宏治
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🎑39)─2─「江戸時代の日本人の識字率は世界イチ」という説は「嘘」だった。〜No.97 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 2024年4月12日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「日本人の「2人に1人」は自分の名前さえ書けなかった…!?明治期時代の日本の「知的格差」驚きの実態
 佐藤 喬
 「江戸時代の日本人の識字率は高かった」「大半が読み書きできた」さらには「日本は識字率が世界一」……こういった言説はネットだけでなく、書籍でも散見される。しかし、本当にそうだったのか。たとえば1881年明治14年)、長野県の北安曇郡常盤村(現・大町市)にて15歳以上の男子882人を対象に行われた調査では、「証書類」を自分で書けるものはわずか4.4%、社会の動きを知るために必要な「公布達」や「新聞論説」を読めるものに至っては1.7%しかいなかった。引き続き、日本人の「知性格差」についてみていこう。
 『「江戸時代の日本人の識字率は世界イチ」という説は「嘘」だった…!882人調査から読み解く、日本の「知性格差」』より続く…
 識字率が最も低かった鹿児島県
 長野県の北安曇郡常盤村の調査の結果は、決して例外的ではない。当時の他の資料と照らし合わせると、常盤村の住人の読み書き能力は全国的には高い方だった可能性さえある。
 常盤村の調査が貴重なのは、読み書き能力を細かく段階に分けた点にあるが、同時期の1890年前後に、当時の文部省が全国の数県で「自署率」、すなわち自分の名前を書けるかどうかの調査を行っている。この調査によると、近江商人の本拠地であり、調査の対象となった県でもっとも識字率が高い滋賀県の男性では90%近くが自分の名前を書けたが、女性では50%前後しかない。
 逆に最も識字率が低い鹿児島県では、男子でも40%前後は自分の名前が書けず、女子に至っては、自分の名前が書けた者は4~8%前後しかいない(「近代日本のリテラシー研究序説」島村直己、「識字能力・識字率の歴史的推移――日本の経験」斉藤泰雄など)。また、読み書きができるものの割合は、士族階層や農村部の指導層など社会の上層ほど高く、農村内部にもかなりの格差があった可能性が高い(『日本人のリテラシー』リチャード・ルビンジャー、柏書房など)。
 このように識字率にはかなりの階層差・地域差・男女差があったが、ある研究者は、識字レベルが滋賀県と鹿児島県のおよそ中間だった岡山県の数値(男子の50~60%、女子の30%前後が自分の名前を書けた)が全国平均に近かったのではないかと推測している(「識字能力・識字率の歴史的推移――日本の経験」斉藤泰雄)。先の長野県常盤村では男子の約65%が自分の名前を書けたので、常盤村の識字レベルは平均的か、むしろやや上回っていたかもしれない。
 読み書き能力を持つのは、社会の上層のごく一部
 忘れてはならないのは、この調査の数字はあくまで自分の名前を書ける者の割合であって、「自由に読み書きできる者」の割合はずっと低くなる点だ。「識字率」の定義は実は難しいが、少なくとも今の一般的な文脈では、かろうじて自分の名前を書けるだけで、日常的な文章も新聞も読めないようでは「識字」に含まれないだろう。
 明治期の識字について多くの研究がある東北大学八鍬友広は、自署能力に加えて文通する能力についても調べた明治初期の和歌山県の調査の例をひき、そこでは文通可能なリテラシーを持っていた男子は自署できた者の1/4以下の約10%だったと述べている(「明治期滋賀県における自署率調査」八鍬友広)。
 この割合は、自署できた男子の1割強だけが普通の書簡を読めたとする先の常盤村のデータよりもかなり高いが、当時の調査の正確さに限界がある以上、詳細な議論はあまり意味がないだろう。いずれにしても、自由に読み書きができた者は、自分の名前だけが読み書きできる者よりずっと少なかったと考えるのは自然ではある。
 ということは、女性を含めると(日本人のリテラシーを考えるときに女性を排除する理由はない)半数前後が自分の名前さえ書けなかったと思われる明治初期の日本では、圧倒的多数は自由な読み書きができなかったことになる。特に、常盤村の調査からも分かるように、社会の動きを知る手段である新聞等を読めた人間の割合は、人口の数%に過ぎなかったのではないか。
 読み書き能力は、知的な能力の基礎であると言わざるを得ない。だが、明治時代の初期でさえ、読み書き能力を持つのは、社会の上層のごく一部の人間に限られていた。
 本や新聞を読む/書くなどの知的な活動に参加する機会や能力には、前出のルビンジャーが繰り返し強調するように、社会階層・地域・性によって著しい格差があったのである。それはつまり、豊かさや身分に格差があったように、知的能力にも、本人の力ではどうしようもない格差があった可能性を示唆している。
 では、その格差は、今日では解消されているのだろうか?次回に続く。
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 4月13日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「江戸時代の日本人の識字率は世界イチ」という説は「嘘」だった…!882人調査から読み解く、日本の「知性格差」
 江戸の庶民は文字が読めた?
 まるで人間のような自然な作文をするAIが話題になった2023年、いくつかの新聞が、「読み書き」を巡る目立たないニュースを報じた。それは、国立国語研究所(東京)が、1948年以来実に75年ぶりに、全国的な識字率の調査を試みているというものだ。
 【一覧】意外すぎる結果に…「タモリが司会」の好きな番組ランキングはこちら
 誰もが読み書きできるはずのこの日本で、どうしてわざわざ識字率などを調べるのか。そう感じる日本人は多いと思われる。記事のひとつで国立国語研究所准教授の野山広が言うように、日本では「読み書きができない人はほぼいないと長く信じられてきた」からだ。
 だが、野山も言うように、それは「共同幻想」である。
 「日本人なら誰でも読み書きができるはず」という幻想は、極めて根強い。どのくらい根強いかというと、時間を遡り、歴史上の事実をも塗り替えたほどだ。
 江戸時代や明治時代の日本人の識字率は高かったとか、大半が読み書きできたとか、大胆なものでは識字率が世界一だったとかいう言説をよく目にする。たとえば「江戸文化歴史研究家」を名乗る作家の瀧島有はこう書いている。
 「江戸後期、日本は『江戸の町の人口』の他に、もう一つ、世界トップクラスを誇ったものがあります。それは『庶民』の識字率。全国平均では約60%以上、江戸の町では約70%以上でした。江戸の町の『実際』は、おそらく約80%以上だろうと言われています」
 こういった認識は半ば常識になっているが、結論を先に書けば、誤りである、もしくは著しく誇張されていることが研究によって明らかになっている。こういった俗論は主に1970年代以降、ロナルド・ドーアらによる寺子屋教育の過大評価などによって広まったらしいが、実はドーア本人は後にその見解を訂正している(『日本人のリテラシー』リチャード・ルビンジャー、柏書房など)。
 「新聞」を読めたのはたったの1.7%
 では、当時の日本人の読み書き能力はどのようなものだったのか。
 江戸時代末期の日本人の8割以上は農民だったため、「普通の日本人」の識字能力を知るためには、農民についてのデータが欠かせない。だが、多くの研究者も認めるように、江戸時代はもちろん明治時代に入っても、農民の識字率に関する資料は極めて少ない。
 しかし、過去の日本人の識字能力に関心がある者の間では有名な、極めて貴重な資料が一つ残されている。それは、1881年(明治14年)に長野県の北安曇郡常盤村(現・大町市)で、15歳以上の「男子」882人を対象に行われた調査である。
 村民の読み書き能力を八段階に分けたこの調査によると、自分の名前や村名さえ読み書きできない者が35.4%存在したらしい。彼らには識字能力がないことになるが、では残りの65%の男子が読み書きできたかというと、まったくそうではない。
 生活上の必要があっただろう出納帳を書けるものはなんとか14.5%いたが、「普通ノ書簡」および「証書類」を自分で書けるものはわずか4.4%、社会の動きを知るために必要な「公布達」や「新聞論説」を読めるものに至っては、882人中15名、1.7%しかいない(「近代日本のリテラシー研究序説」島村直己など)。
 しかも忘れてはならないのは、この調査は女性を対象外としていた点である。明治時代の識字率には地域によりかなりのばらつきがあるが、女性の識字能力が男性よりも大幅に劣っていた点は全国に共通している。したがって、当時の常盤村の住民全体の読み書き能力は、上の数値よりもかなり落ちる可能性が高い。女性を含めると、村で新聞を読めた人間は1%程度しかいなかったのではないだろうか。
 『日本人の「2人に1人」は自分の名前さえ書けなかった…!? 明治期時代の日本の「知的格差」驚きの実態』に続く…
 佐藤 喬
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🌺2:─1─人類学は自然人類学、先史考古学、社会人類学で構成されている。~No.2No.3

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 日本民族大和民族は、明治の近代化で急遽作られた分類で江戸時代まではなかった。
 「日本民族単一民族である」はウソである。
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 2024年4月9日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「日本中の職場に溢れる「クソどうでもいい仕事」はこうして生まれた…人類学者だけが知っている「経済の本質」
 奥野克巳
 「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。
 ※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。
 サファリルックで「未開の地」へ?
 そもそも、人類学とは何でしょうか。みなさんは人類学という言葉を聞いたとき、どのようなイメージを思い浮かべるでしょう。サファリルックのような服装で「未開」の部族に入り込み、フィールドワークをつうじてその人たちの文化を明らかにする学問? たしかにそれもひとつの見方です。ただ、それはある意味で固定化されたイメージにすぎません。
 たとえば最近では、デヴィッド・グレーバーによる『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(2018年)が話題となりました。誰も読まない文書の作成、いつまでも結論が出ない会議の連続……。現代にはやりがいもなく、無意味な仕事が蔓延しています。読者のみなさんも、「なんでこんな無駄な仕事があるんだろう」と感じる場面が多いかもしれません。効率化が進んだ現代において、「無駄」な仕事はどんどん淘汰されていくと思われていました。ところが、そのような無意味な仕事は逆に増えていくばかりです。それらをブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)と断言したグレーバーの研究は、社会の中での生産や分配、消費などの人間の経済生活を考察するという点で経済人類学として位置付けられます。それだけではなく、いまや人類学は、芸術人類学や医療人類学、観光人類学、映像人類学、心理人類学、宗教人類学など多岐にわたっています。
 このようにずらりと並んだ下位分野を見ると、人類学とは何をやっているか分からない、正体不明の学問のようにも思えるでしょう。
 ですが、人類学が誕生して以来、この学問が問い続けてきた本質は何も変わりません。それは「人間とは何か」という問いです。
 人間とは何か。その根源的な問題を追い続けて、人類学者たちは悩み、悪戦苦闘してきたのです。そして彼らが見つけ出してきた答えは、今を生きている私たちのものの見方や生き方を変え、現実を生き抜くための「武器」にもなり得るのです。
 人類学100年の歴史とは
 4人の超重要人物
 記念碑的な著作が出版された1922年に近代人類学が誕生してから100余年、これまでに数々の人類学者たちが世界中を駆け回り、幾多の学説を唱えてきました。それらをひとつひとつ取り上げ、トピックや人名別に整理して辞典的にまとめた本はすでに世の中にたくさん出されています。ですが、この本ではあえてそのような形はとりません。ズバッと人類学の要諦を掴むための、「はじめての人類学」としての一冊を目指します。
 誤解を恐れず言えば、人類学には「絶対にこの4人は外せない」という最重要人物がいます。ブロニスワフ・マリノフスキ(1884―1942)、クロード・レヴィ=ストロース(1908―2009)、フランツ・ボアズ(1858―1942)、ティム・インゴルド(1948―)です。彼らは19世紀後半から現代に至るまで、それぞれの時代を生きながら人類学において重要な概念を打ち出してきました。
 先回りして言えば、マリノフスキは「生の全体」を、レヴィ=ストロースは「生の構造」を、ボアズは「生のあり方」を、インゴルドは「生の流転」を突き詰めた人類学者と捉えることができます。
 人間の生にまつわるこの4つの考え方は、そのまま人類学が歴史の中で勝ち取ってきた学問的な成果です。つまり4人の人類学者を取り上げることで、人類学の歩みが一掴みにできると言えるのです。本書ではこの4人を中心に、人類学の「真髄」を押さえます。
 さらに連載記事〈「ミンゾクガク」は「民族学」?「民俗学」?日本人が大好きな「河童伝説」の研究が生まれた「本当の理由」〉では、人類学の超重要ポイントを紹介しています。
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 4月10日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「くだらなすぎる現実から抜け出したい…100年前、ひとりの人類学者が発見した「ある答え」
 奥野克巳
 「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。
 ※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。
 現場主義の人類学者
 どのような分野であれ、人は何かを知りたいと思ったとき、まずはこれまで先人たちが残してきた書物を探します。そして目的のことが書かれている本や文献、資料にあたれば、たいていのことはイメージが掴めるでしょう。
 しかし、それで本当に知りたいことの「すべて」が理解できるわけではありません。異国の人々を知ろうとする人類学ならば、なおさらです。遠く離れた場所に住む人たちのことは、本だけでは分かりません。どうしても理解できない部分がモヤモヤと残ります。それならば実際に現地に行って、見てみることで、謎は解決に向かうはずです。そして現地での滞在は短期ではなく、長期に及ぶほど理解は深まるでしょう。
 © 現代ビジネス
 そのことを人類学の中で突き詰めた人がいます。ポーランド生まれのブロニスワフ・マリノフスキです。彼はフィールドに出かけて長期間にわたって現地に住み込み、その土地の言語を身につけて調査を進めました。
 マリノフスキは現地の人たちが行っている行事や儀礼、仕事、その他の様々な出来事に参加(参与)しながら観察を行う「参与観察」という手法を編み出しました。この参与観察は、現在でも人類学において非常に重要な研究手法として受け継がれています。彼は現場主義に徹した最初の人類学者だったのです。
 安楽椅子学者への強烈なアンチ
 そもそも前章で触れたように、19世紀から20世紀にかけての人類学では、文化を直進的に進化発展するものとして捉える「文化進化論」が優勢でした。19世紀の人類学者たちが「安楽椅子の人類学者」と揶揄されたように、彼らは探検家や旅行者、宣教師などによって記録された二次資料に基づいて、机の上で仕事をしていたのです。
 文化進化論の目的は、文化の諸要素を当該社会の全体性から切り離して比較し、時間的な前後関係に並べ替えることでした。要するに、文献で得た情報をつなぎ合わせるパッチワークです。
 ですが、頭の中だけの世界に終始するそうした方法には限界があります。これまでの研究手法を退屈に感じ、不満を抱いていたマリノフスキは実地に調査に出かけて、文化をより深いところで捉えようとしたのです。
 マリノフスキは、共同体を外から眺めて「ここの社会はこうなっている」と表面的に断じることをしませんでした。むしろ内部に潜入して、自分の目の前で起きていることの細部にこだわりながら記録し、人間が生きているさまを生々しく描き出したのです。彼の生み出したやり方をひとつのモデルとして、20世紀の新しい人類学のスタイルが切り拓かれたのです。
 目の前で繰り広げられている出来事をその場でわしづかみにするフィールドワークは、社会が儀礼や経済現象、呪術などが複雑につながり合ってひとつの統合体として成立していることを教えてくれます。そしてマリノフスキはその複雑なつながり合いを「機能主義」として理論化し、旧来の人類学を打ち破りました。マリノフスキは、人間の生きている全体をまるごと理解することを提唱したのです。
 さらに連載記事〈日本中の職場に溢れる「クソどうでもいい仕事」はこうして生まれた…人類学者だけが知っている「経済の本質」〉では、人類学の「ここだけ押さえておけばいい」という超重要ポイントを紹介しています。
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 4月10日7:03 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「ミンゾクガク」は「民族学」?「民俗学」?日本人が大好きな「河童伝説」の研究が生まれた「本当の理由」

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 「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。
 ※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。

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 【写真】多くの人が間違っている「人生の終わり方」
 イギリス、アメリカ、フランスの違い
 いわゆる「人類学」と呼ばれるこの学問分野は、成立の背景の違いから、国や地域によって名称が少しずつ違っています。あるいは同じ名称が国によって別の意味で使われたりしているので、紛らわしいのです。
 人類学(Anthropology)は、ギリシア語の「人間anthropos(アントロポス)」と「学logy」からなり、「人間についての研究」を意味します。イギリスでは、人類学は「自然人類学」、「先史考古学」、「社会人類学」の3つによって構成されます。
 まず「自然人類学」は、皮膚や眼の色、身体各部のサイズや骨格、指紋や血液型などの身体的特徴を比較分類しながら、系統関係や変化を考える分野です。理系的な分野だと言えるでしょう。「先史考古学」は、遺跡から出た土器やそれと一緒に発見された動物の骨や植物の種子などを調べて、先史時代の人間を再構成するものです。そして「社会人類学」は、文字通り地球上に存在する諸民族の社会や文化の研究を行う分野です。イギリスの社会人類学では、伝統的に家族、親族、婚姻や集団の問題に重点が置かれてきました。
 これがアメリカに渡ると、これらの3つの領域の他に言語学(言語人類学)が加わります。言語学は、人間の持つ言語の能力やそれぞれの言語の特徴に関する研究です。アメリカでは、イギリスで社会人類学と呼ばれている分野を「文化人類学」と呼びます。私たち日本人にとっては、この文化人類学という言い方のほうが、なじみがあるかもしれませんね。
 これに対しフランスでは、社会人類学文化人類学は一般に「民族学」と呼ばれてきました。日本語だとミンゾクガクという同じ音で「民俗学」という学問もあって紛らわしいのですが、フランス語では民族学をEthnologie、民俗学をFolkloreと呼ぶので間違いようがありません。
 人類学の起源
 民族学とは自民族以外の民族(ethnos)を研究する学問で、民俗学は自民族の言語や社会生活を調査・研究する学問です。民俗学は、日本においては河童の伝説を取り上げたことで有名な『遠野物語』の著者・柳田國男によって始められた学問として知られています。
 このように、イギリスやアメリカでは諸民族の文化だけではなく、生物学的なヒトの形質も含めて探究する学問が人類学と呼ばれてきました。隣接し合った学問どうしの総合化という意識を持っている研究者は、いわゆる文化人類学を中心にやっていても、自らを「人類学者」と名乗ることもあります。私自身も、そっちの範疇に入ると思っています。
 人類そのものや人間の文化を扱う研究領域がどの時期に、どのようにして現れたのかに関しては諸説あります。ですが15世紀以降、ヨーロッパがそれまで経験したことがなかった規模で「外の世界」と出合ったことが契機になったのは間違いありません。
 ヨーロッパで絶対主義国家が興隆し、重商主義が発展したことで、15世紀末に大航海時代が始まりました。ヨーロッパは、海の向こうの未知なる「他者」たちに出合ったのです。その意味で人類学は、その歴史の始まりからして「他者」についての学問という性格を持っていました。
 人類学の起源に関して、もうひとつ重要なこととして、ヨーロッパにおける人間の本質や人間社会の成立への関心の高まりが挙げられます。
 ルネサンス期後半(16世紀)から啓蒙主義時代(18世紀)にかけて、国家というものが存在しない自然の中に置かれたら、人間はどのように暮らしていくのかという、「自然状態」に対する関心が高まったのです。
 17世紀を生きた哲学者トマス・ホッブズは、自然状態に近い社会では、人間の本性がむき出しになり「万人の万人に対する闘争」が起きると唱えました。そして、その状態を治めるために社会契約を結んで、国家がつくられたのだと説きます。これを「社会契約説」と呼びます。この言葉を聞いたことがある読者もいるでしょう。
 一方、18世紀の政治哲学者ジャン=ジャック・ルソーは、自然状態の人間とは、自己愛と同情心以外の感情は持たない無垢な精神を持つ存在だと捉えました。
 ルソーよりも20年あまり早く生まれたのが、啓蒙思想家のシャルル・ド・モンテスキューです。1721年の『ペルシャ人の手紙』は、架空の2人のペルシャ人の旅を描いている点で、後の「民族誌」の先駆けであったとも評されることがあります。1748年の『法の精神』は、政府の形態や諸国民の気質に気候が与える影響に関して、世界中の事例を用いて考察しています。
 さらに連載記事〈日本中の職場に溢れる「クソどうでもいい仕事」はこうして生まれた…人類学者だけが知っている「経済の本質」〉では、人類学の超重要ポイントを紹介しています。
 奥野克巳
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⛩50)─1─日本民族と怨霊神社。~No.117No.118 

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 日本民族は、人を呪い殺した怨霊を御霊にすり替えて崇拝していた。
 日本神道においては、災いや不幸をもたらす疫病神、貧乏神さらには死神さえも敬うべき神様であった。
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 2024年4月8日 YAHOO!JAPANニュース mi-mollet(ミモレ)「この春、絶対に「縁切り」したい人必見! 日本三大怨霊の「崇徳天皇」への参拝をすすめる理由
 良縁祈願だけでなく、なんとか「悪縁」を断ち切りたい、と願う人も少なくないのではないでしょうか。わずわらしい人間関係、直したい自分の悪い習慣など……断ち切りたい「ご縁」は様々かもしれません。
そうした、人にはなかなか打ち明けづらい「縁切り」の願いを叶えてくれる神様を教えてくれるのが、社会心理学者にして神社参拝のスペシャリストでもある八木龍平さんです。著書『愛される人はなぜ神社に行くのか?』では、絶対に縁切りしたいときにおすすめの神様と神社を紹介! 知っておきたい参拝の基本とあわせて、本書から特別に紹介します。
 「絶対に縁切りしたい!」なら崇徳天皇
  ひとり思い詰めた顔をして参拝する人をよく見かける神社があります。
 「縁切り」で知られた神社です。
 人のご縁は結ぶだけでなく、切ることを迫られるときもあります。深刻なケースもあり、大っぴらに話せないことも多いですが、縁切りを願う人は少なからずいます。
 「人の縁を切るって、一体どんな神様が担当されているのだろう?」
 京都市内に縁切り神社の代名詞・安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)があります。ご祭神を見て、納得しました。日本三大怨霊のおひとり崇徳(すとく)天皇です。父の鳥羽天皇に嫌われた不遇の天皇として知られ、鳥羽天皇法皇となって最高権力者の時は意地悪をされ続け、鳥羽法皇崩御した直後、鳥羽法皇に優遇された後白河天皇に戦争をしかけられて負け、讃岐国(今の香川県)へ流罪になります。天皇上皇の配流は、およそ四百年ぶりの出来事で、二度と京の地に戻ることなく、崩御されました。そりゃ恨みますよね。
 安井金比羅宮の起源は、崇徳天皇上皇になってよく訪れていた藤寺(ふじでら)です。上皇は藤寺に寵愛していた女官を住まわせ、たびたび訪れていたのです。上皇讃岐国崩御すると、悲嘆にくれた女官は出家して尼になり、上皇自筆の尊影を藤寺の観音堂に奉納し、墓を築いて遺髪を埋め日夜ひたすらお経を読んだとか。その後、ある僧が参拝すると上皇の霊があらわれたことから、崇徳上皇流罪にした後白河法皇の命で崇徳上皇を祀る寺が建立され、明治時代より安井神社になりました。
 怨霊は、災難を避ける厄除けや縁切りの神様に
 怨霊を祀る神社は、かつてひどいことをした相手を神様に祭り上げて、「どうか祟らないでください」と、怒りの心を鎮めていただくようお祈りする場所です。崇徳天皇は生前、悪意ある意地悪をされ続けました。神様になると、生前の挫折や苦しみが逆転してご利益になります。怨霊なら災難を避ける厄除けや縁切りの神様として人々に頼られます。崇徳天皇は三大怨霊ですから、最強の厄除け・縁切り神でしょう。
 崇徳上皇讃岐国に配流された時に金毘羅権現(通称こんぴらさん)を信仰したことで、こんぴらさん総本宮金刀比羅宮(ことひらぐう)や前述の安井金比羅宮で、崇徳天皇こんぴらさんと一緒に祀られています。
 「怨霊の神社に参拝するなんて、ちょっと怖い……」
 ご安心ください。崇徳天皇が恨んでいらっしゃるのは、鳥羽天皇後白河天皇およびその一派なので、あなたを恨んではいません。
 「崇徳天皇って普通の人間だよね。なのに神様っておかしくない?」
 神道の神様は2タイプいて、自然神とご先祖さまです。自然神は太陽や月、風、土、海、山、水など自然物です。一方、ご先祖さまは普通の人間です。同じ人間の大先輩だからこそ、我々の悩みや苦しみに共感し、希望を理解してくれます。また我々の方が神様に共感し、「崇徳天皇は私みたいだ!」と神様に自分を投影したりもします。
 「崇徳天皇」をお祀りする神社は?
 人からの嫌がらせや人間関係のトラブルを断ち切るのに、崇徳天皇の冷気のようなエネルギーがサポートします。あなたの悪縁や大事な人が困っている悪縁を、こっそり断ち切りましょう。
 悪縁を断つと、金運など運気全般上昇しますので、何もなくとも定期的に縁切りするのが良さそうです。
 <崇徳天皇をお祀りする神社>
虎ノ門 金刀比羅宮(東京都港区虎ノ門1丁目2‐7)
安井金比羅宮京都府京都市東山区下弁天町70)
白峯神宮京都府京都市上京区飛鳥井町261)
金刀比羅宮香川県仲多度郡琴平町892‐1)
崇徳天皇宮(香川県香川郡直島町618)
 難しい決まりや作法は何もない――参拝の基本
 ひとり神社仏閣参拝なんかもおすすめですね。
 そこで参拝の基本についてお伝えします。
 私はお寺よりも神社の方がくわしいですが、まず特に決まりやルールはありません。神社もお寺も、かつては字の読めない人たちが沢山参拝していましたから、難しい決まりや作法は何もないのです。
 手を合わせて、頭を下げる。これが神仏への祈りの基本です。
 浄土宗・浄土真宗なら、手を合わせて「南無阿弥陀仏」と(心の中で)唱えればそれで十分です。ただ一心に「南無阿弥陀仏」と唱えれば、極楽往生すると浄土宗の開祖・法然は主張しました。他のことはしなくとも、ただひたすら南無阿弥陀仏を唱えればいいというわけですね。
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⛩104)─1─神社本庁の内紛。日本宗教界の危機。~No.233No.234No.235 

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 2023年4月10日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「ついに「公家家格の頂点」「神社界のボス」も超激怒...ヤバすぎる横暴を続ける現在の「神社本庁」につきつけた「ノー」
 日本全国の神社のうち約95%が加盟している宗教法人「神社本庁」で内紛が勃発。トップの座を巡り裁判にまで発展している。知っているようで知らない神社の仕組みとともに、その内幕をルポする―。
 【写真】誕生日を迎える佳子さまの最新動画で「不敬」な反応が続出…
 前編記事『まさかの「神社本庁・崩壊」の危機...総長の「不正土地取引」に「超有名神社の離脱」と「2000人関係者が猛激怒」が相次いで勃発』より続く。
 総長職への異常な執着
 さて、神社本庁の田中総長は京都府八幡市にある石清水八幡宮宮司を務めている。ところが、神社本庁関係者は「石清水八幡宮も構図は同じで、経営はラクではないはず」と明かす。
 「総長職の報酬は年間1000万円以上あるので、田中さんが総長の席にこだわっているのは、権力欲のほかに、金銭的側面もあるのでは、とも見られています」
 氏の総長職への執着は異常だ。前述の通り田中氏側の敗訴という判決が下された職員寮の不正土地取引疑惑を巡る裁判の後も、辞任を求める声を無視して総長の座を死守。通常は2期6年で交代となる総長の座を現在14年も続けているのだ。
 「'22年6月の役員会で田中総長は5期目に名乗りを上げました。驚くべきことに、この時の役員会で過半数の理事が田中氏続投に賛成票を投じたのです」(神社本庁関係者)
 職員寮売却の件でも背任が疑われたというのに、なぜ多くの理事が田中氏を支持したのか。神社本庁関係者が続けて解説する。
 「実は役員会は田中さんと、彼の側近で神道政治連盟の打田会長に近い役員らで固められていて、自浄作用が働かない。だから、何年も総長の座を維持し続けることができるのです」
 田中氏は三大八幡宮(宇佐、石清水、鶴岡)の社家(神社を世襲する家柄)出身の神職エリート。國學院大學神道学科を修了し、平安神宮権禰宜(宮司の補佐役)を経て石清水の宮司となった。若手神職の集まりである神道青年全国協議会の会長を務めたのち、神社本庁副総長となり、総長に昇格する。
 その田中氏を副総長時代から支えてきたのが打田氏だ。打田氏は國學院大學神道学科を修了後、'77年に寒川神社に奉職。'80年に神社本庁に転任し、本庁職員となる。渉外部長として対外人脈を広げつつ、神道政治連盟の事務局長に就任してからは日本会議や政界ともつながりを深めていった。
 長期政権が叶ったワケ
 「田中さんは'04年に副総長になったものの、事務方の本庁職員に人脈があるわけではなく、政界との縁もそれほど深くない。そんな田中さんを資金面、人脈面、政治面で支えたのが打田さんでした」(神社本庁関係者)
 打田氏は、'07年には神道政治連盟の幹事長に就任し、本庁人事にも口出しできる存在となった。
 「神社本庁を運営する理事たちは有力神社の宮司を務める地方の名士たち。神社本庁内部のことはズブの素人なので、打田さんがアドバイスをして、本庁全体の運営をさばいていた。
 さらに打田さんは驚くほど口が達者で、本庁役職員を取り込むのもうまい。自分に近しい職員にはいいポジションをあてがうなど、人事面で優遇する人心掌握にも長けていました」
 人事を掌握し、役員会をコントロールすることで、田中氏が総長になる'10年には、神社本庁全体を牛耳る「田中-打田体制」が完成していた。
 そして理事の多くを側近らで固めることで、田中氏は4期目、5期目という異例の長期政権を実現していったのだ。
 総長の座を巡って
 ところがあまりに横暴な行いを看過できず、これに「待った」をかけた人物がいる。神社本庁の象徴としてのトップ・鷹司尚武統理だ。
 「鷹司統理は、公家の家格の頂点である『五摂家』の一つ、鷹司家の現当主であり、昭和天皇の第3皇女の養子で、上皇陛下の義理の甥にあたる人物です。神社界の頂点ともいえる伊勢神宮の大宮司も務めたこともあり、まさに『神社界のボス』という存在です」(神社本庁関係者)
 田中氏の暴挙を許さなかった鷹司統理は、'22年の役員会で田中氏とは別の理事を指名した。しかし、前述のとおり役員会の結束は固く、田中派の賛成多数で、統理が指名した理事は総長の座を得られなかった。
 この総長の座を巡るイス取りゲームは、統理から指名された理事が、総長になれないのはおかしい、と訴え出たことで裁判にまで発展。'22年12月に下された一審では「鷹司統理が原告を次期総長に指名したとしても、役員会が議決により原告を次期総長に決定していない以上、原告は、総長に就任していない」として司法の場でも田中総長側に軍配が上がった。さらに、'23年6月の第二審でも一審が支持され控訴を棄却。田中氏は総長のイスに座り続けている―これが「神社本庁田中派支配」の実態だ。
 こうした状況に見切りをつけて、鶴岡八幡宮は「神社本庁離脱」を表明したわけだが、行動を起こしたのは鶴岡八幡宮だけではない。
 「裁判に前後する形で鷹司統理を支持する『花菖蒲ノ會』が結成されました。すでに全国2000人近くの神社関係者が賛同し、『反田中』を明確にしています」(同前)
 神社本庁が空中分解する日
 同会の呼びかけ人には、鶴岡八幡宮に加え、出雲大社、東京大神宮などが名を連ねる。彼らもまた本庁離脱も辞さない構えだ。前出の島田氏が言う。
 「以前から田中体制と険悪な関係にあった香川県金刀比羅宮は'20年にすでに離脱をしていますが、鶴岡八幡宮も離脱を決断したことで、ほかの神社が追随する可能性があります。神社界は田中総長派と鷹司統理派で二分されている。このままでは神社本庁が空中分解してしまいかねません」
 この分断こそが、神社本庁の危機の正体なのだ。
 神社本庁に、田中体制に批判が集まっていること、また鶴岡八幡宮が本庁を離脱した経緯について質問書を送ったが、期日までに回答がなかった。
 国立歴史民俗博物館名誉教授で社会学博士の新谷尚紀氏は、こうした内紛は「神様への感謝の気持ちが薄れている証拠」だと指摘する。
 「神社は、みんなが拝んでご利益をいただく場でもあります。そこにお仕えする人は、奉仕に徹しなくてはいけません。『神様が見ておられる』と思えば、自然とそうなるでしょう。現在の神社本庁はそうした神職の基本に立ち返るべきではないでしょうか」
 神社本庁の内紛が収まり、純粋な気持ちで参拝できる日が早く訪れることを願うばかりだ。
 「週刊現代」2024年4月6・13日合併号より
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💄71)72)─1─戦国時代の男色と現代の同性愛は別物である。〜No.143No.144No.145 

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 2024年4月9日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「「男色」が広まったのは戦場からではない?今日的な同性愛とは異なる、戦国時代の男色にありがちな誤解
 『豊臣勲功記』よち、本能寺で討ち死にする森蘭丸
 (歴史家:乃至政彦)
■ 男色に関する誤解
 戦国時代の男色(『日葡辞書』に「Nanxocu.ナンショク(男色) 悪い,口にすべからざる罪悪.」とあるように、「なんしょく」が正しい発音。「だんしょく」とは読まない)については、今も多くの誤解がまかり通っている。この時代の武士は、男色が当たり前だったというのは、ある意味では正しいが、ある意味では間違っている。
 男色を好きな武士はたくさんいたのは事実だが、有名な「カップリング」はごく一部を除いて、ほとんどどれも事実ではない。
 少なくとも、武田信玄春日虎綱高坂昌信)、上杉謙信樋口与六直江兼続)、織田信長森成利森蘭丸)の関係は、史料の誤読、または江戸時代や昭和の創作によって広まったものである。
 基本的に男色は一過性の「忍ぶ恋」であり、大っぴらにするものではなかった。だから、有名な関係にはなりにくい。
 このほか一般的な男色イメージと、事実との相違点を3点ほど述べていこう。
■ (1)男色は今日的な同性愛とは異なる
 北野武監督の映画作品『首』では、中年男性が中年男性の胸を舐めるようなシーンが印象的に描かれていて、「これでは『首』じゃなく『乳首』だ」という感想を漏らす友人もいた。これを見て戦国時代の男色をそのまま再現していると思った観客は少なくなさそうだ。
 しかし、当時の男色は、「未成年男性への性愛」であって、成人した「男同士の自由恋愛」ではなかった。だから、中年男性同士が性的に交わる例は史料に例が認められていない。少なくとも「あって当たり前」なものではなかったのである。 もちろん当時に今風の同性愛もあっただろうが、史料から探れる範囲では表立ってそのような関係は結ばれていない。タブーではなかったと思うが、他人に公表する理由がなく、社会的にも取り上げる必要がないと思われていたのか、そうした記録は残っていないのである。
 武士の男色に思いを馳せる場合、ここを前提としておく必要があるだろう。
■ (2)男色が広まったのは戦場からではない
 また、武士の間で少年愛が流行した理由について、「武士は完全なる男社会であり、特に戦場では女を禁忌としたからだ」と説明されることがある。だが、これは完全に間違いである。
 武士が男社会なのは事実だが、戦場に女性が排除されていたわけではない。なるべくなら安全のために立ち入らせなていなかったが、タブーだったわけではない。
 例えば、河越夜戦において大将の上杉憲政は、遊女を集めて遊んでいたところを北条氏康に奇襲攻撃されて、敗北したとされている。この遊女たちは氏康が派遣したクノイチとも言われている。
 これは事実ではなく創作話に過ぎないと思うが、それでも戦場に遊女を集めて遊ぶことが当時の景色として不自然ではない事実がなければ成り立たない逸話であろう。
 豊臣秀吉小田原城攻めでも、秀吉が本陣に武将たちの妻子を呼び寄せ、自身もまた遊女を集めてこれを敵方に見せつけた逸話が有名である。
 戦場に、女性が禁忌とされたというのは、事実ではないのだ。各地方の籠城戦では女性の活躍が多数認められ、夜戦地の首塚に女性の遺骨も発見されている。
 ではどこから男色が流行り始めたかというと、僧侶からである。足利時代に、僧侶たちが上級武士との接待や交流に稚児を使った。女装のような装束で着飾った美少年にチヤホヤされたら、武士たちが骨抜きになるのも当然であるだろう。ここから男色が広まっていったのである。
■ (3)男色は大歓迎されていたわけではない
 中世から近世にかけて、男色は無批判に受け入れられていたというイメージがあるが、これも眉に唾をつけておかなければならない。
 実際には、男色に嫌悪感を抱くものも少なからずいた。
 たとえば、近世初期に書かれた『田夫物語』には、百姓が武士の男色を徹底的にバカにして、「その方の非道、はやはや止めたまえ」と痛烈に非難するシーンがある。
 そして男色好きの武士は「お前たちは田舎者だから、そのよさがわからないのだ」と捨て台詞を残してさっさと退散する。
 実際、徳川幕府は、武士の男色を「無体」として、禁止する対策を取っていた。それから書かれた軍記では、バカなお殿様が無能者を取り立てる筋書きとして、「男色で出世した愚将」という基本構造による関係をたくさん捏造した。
 このほか男色については、たくさんの誤解がある。
 具体的な詳細は、4月12日ごろ発売の『戦国武将と男色 増補版』(ちくま文庫)に書いたので、興味のある方はぜひご一読願いたい。本書がメインで扱っているのは戦国時代だが、日本の男色そのものを理解するのにも有用となるだろう。
 【乃至政彦】ないしまさひこ。歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(ともにJBpress)、『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『平将門天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。現在、戦国時代から世界史まで、著者独自の視点で歴史を読み解くコンテンツ企画『歴史ノ部屋』配信中。
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