🌏40)─1・C─ロシアかぜ(お染かぜ)蔓延。世界での犠牲者は約100万人。明治22年~明治28年。〜No.115 

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 2020年7月27日 (月)
 ロシア・インフルエンザ・パンデミック
 1889年から1890年代はじめにかけてインフルエンザが
 世界的に流行した。日本の被害が少なかったからだろうが
 日本語で検索しても情報はあまり見つからない。
 けれども、英語で検索すると関連サイトがずらりと並ぶ。
 ホームズ関連サイトもある。以下、調査結果を手短に記します。
 ‘1889-1890 flu pandemic’がWikipedia英語版の項目名。
 「ロシア・インフル(Russian flu)」or「アジア・インフル」が このパンデミックの名称で、死亡者100万人。
 1889年5月に現在ウズベキスタンのブハラでスタートし、ロシアからヨーロッパ各地をへてアメリカまで拡がる。
 1889.10-1890.12が最初の流行で、1891.3-6に第2波があり、続く2回の波のあと、1895年はじめに終息している。
 ‘I HEAR OF SHERLOCK EVERYWHERE’サイト内’Influenza and Doyle’by James C. O’Leary,2020.3.26(クリック)はこのパンデミックとドイル家との関わりを記している。
 最初の流行時、1890.1.13にドイルの姉アネットがポルトガルリスボンで感染して死亡。第2波では1891.5.4にドイルがロンドンで感染する(やがて回復)。ちなみに5.8に神智学の教祖ブラバツキー夫人が同じロンドンで感染して死亡している。
 インフルエンザの何型だったか、その後諸説が発表されたようだが、近年、インフルエンザではなくコロナウイルスだったと唱える学者が現われたとのこと。さらなる新説が発表されるかもしれません。
 ↓パリ’Le Grelot’誌1890.1.12号に載った戯画。Wikipediaより。
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 ロシアかぜ(Russian flu)あるいはアジアかぜ(Asiatic flu)[訳語疑問点]は、1889年から1890年にかけ世界的に流行した感染症。その後1895年にかけ何度も再流行を繰り返した。19世紀の最後の大流行であり、当時の世界人口15億人のうち、約100万人が犠牲となったと考えられている。
 1889年の5月にロシア帝国のブハラで最初に発生を確認。同月にはカナダのアサバスカやグリーンランドでも発生している。10月に入りサンクトペテルブルクで患者が発生すると、その後ヨーロッパ全域、アメリカ合衆国へと僅か4ヶ月で地球を一周した。拡大速度は非常に早く、航空機の発達した、のちのパンデミックに匹敵するものだった。
 日本では1890年に流行し、お染かぜ(お染風)の俗称で呼ばれた。江戸の人気芝居『お染久松』のお染から取られたもので、お染の侵入を防ぐといって「久松留守」や「お染後免」と書いた紙札が流行した。
 高齢者の致死率が異様に高い、神経症状が顕著に見られるなど、通常のインフルエンザパンデミックとは異なる点も見られた。致死率は0.1-0.28%、あるいは1%ともされる。
 ウイルス学が未発達であったため、原因となったウイルスは特定されていない。当時病原菌としてインフルエンザ菌が分離されたが、後に否定された。その後は、H2N2亜型あるいはH3N8亜型といったA型インフルエンザウイルスのほか、2005年にヒトコロナウイルスOC43の可能性があると発表されている。またこれに関連して、2019年に発生した新型コロナウイルス感染症と症状が似ていると主張する研究者も存在する。
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🎑67)─1─合理的実用的で美しく斬新さを追求する伝統的匠の業。職人の和箒。~No.153No.154 ⑬ 

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 2021年4月3日 MicrosoftNews イチオシ「見惚れるような美しさ!江戸時代から続く職人の箒「白木屋傳兵衛」
 © All About, Inc. 「白木屋傳兵衛」の箒。完璧に計算されたかのようなフォルムが美しい
 家の掃除道具としてすっかり日陰の身となってしまった箒と塵取りですが、もともと掃除機があまり好きでない私にとっては必須です。
 と言いつつも、ずっと100円ショップで購入した適当なものを使っていました。デザイン的には気に入っていたのですが、すぐに穂先が抜けてくるなど使い勝手に問題があり、いくつか買い換えているうちに「ちゃんとした箒を買おう」という方向に気持ちが向いていったのです。
 そこで、手に入れたのが「白木屋傳兵衛」の箒でした。
 江戸時代から続く箒職人の手仕事が鮮やかな箒
 © All About, Inc. バネの効いたホウキモロコシが選別され、手首の負担も軽くなり、疲労度も軽減
 「白木屋傳兵衛」は、東京の京橋に店舗を持つ、天保元年創業の江戸時代から箒作りを続ける老舗の箒屋さん。
 店内にはずらりと大中小さまざまな箒が並んでいますが、選んだのは、棕櫚(しゅろ)という植物を材料とした箒。斜めにカットしてある形や、肢の太さや長さなど、いろいろと試して自分が一番しっくりくるものをセレクトしました。
 江戸箒は、軽さ・コシ・シンプルな編み上げの3点が特徴。穂先はボサボサになってきたらその部分を切って使えばよいとのことなので、この先の人生、本当に箒は買わなくていいのではないか?と思っています。
 職人技が生み出す美の佇まい
 柄竹と穂先のバランスを考慮し、「一番軽く感じさせる」編み上げを採用されている© All About, Inc. 柄竹と穂先のバランスを考慮し、「一番軽く感じさせる」編み上げを採用されている
 「白木屋傳兵衛」の箒を手に入れて、何より嬉しいのは、やはり思わず見惚れてしまうような姿の美しさです。
 余計なものは何ひとつなく、完璧に計算されたかのような美しいフォルムと、うっとりするような飴色。見ているだけでなんだか癒されるのが不思議です。
 どこに置いておいても邪魔にならないし、むしろインテリアのアクセントになるくらいで、手に取りやすい場所に置いていつでも使えるようにしておくのがよいかと思います。
 © All About, Inc. 「江戸っ子」は美的センスを満足させるシンプルなたたずまい
決して安くないお値段ではありますが、これ以上買い換える必要がなく、そもそもこの美しいデザインが日々の生活に加わることを考えたら、高いという結論にも至らないはず。
 心を正してお掃除をしよう。そんな気分にさせてくれる職人の箒、みなさまの人生にもおひとついかがでしょうか?
 DATA 白木屋中村伝兵衛商店
 住所:東京都中央区京橋3-9-8 白伝ビル1F」
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🎑102)103)─1─ワシントンDCの桜は韓国産?杜撰な取材で拡散する嘘。~No.216No.217No.218No.219 ㉑ 

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 2021年3月31日 MicrosoftNews FNNプライムオンライン「【解説】ワシントンDCの桜は韓国産?杜撰な取材で拡散する嘘
 © FNNプライムオンライン ポトマック公園には桜が日米の友好の証であることを記載した案内板が設置されている
 散ればこそいとど桜はめでたけれ 浮き世になにか久しかるべき
 (以上引用)
 散るからこそ、一層桜は素晴らしい。憂い多きこの世で、永遠に続く事などない。
 伊勢物語に登場するこの美しい和歌を口ずさみ、散りゆく桜を眺めれば、新型コロナウイルスで苦しむ今の暮らしが永遠に続く事は無いのだと、未来に希望を抱けるだろう。
 古来日本人は桜について様々な思索を巡らせてきたが、コロナ渦の今だからこそ、騒がず静かに桜を愛でたいものだ。だが、そんな安らかな心をささくれ立たせる記事が、韓国から出てきた。
 ワシントンDCの桜は韓国原産?
 ワシントンDCで咲き誇る桜。公園には石灯籠や石塔なども設置されている© FNNプライムオンライン ワシントンDCで咲き誇る桜。公園には石灯籠や石塔なども設置されている
 韓国では春の風物詩のように毎年「ソメイヨシノは韓国起源」という類いの記事が出ていた。だが2018年9月、韓国山林庁の国立樹木園が、韓国の済州島に自生する桜とソメイヨシノは、遺伝的に別物であるとの研究結果を発表して以降、この種の記事はめっきり減っていた。「今年はどんな珍説が出るのか?」と期待している筆者にとってやや寂しい時期が続いたが、2021年は違った。
 韓国の大手紙「中央日報」は3月29日「ワシントンで満開の桜、済州島の桜だろうか」という記事を公開したのだ。舞台はタイトル通りアメリカの首都ワシントンDCだ。日本でも非常に有名だが、ワシントンには日本から送られた数千本の桜の木があり、春の開花時期には「桜祭り」が開催されている。コロナ渦のため2021年は人出が少ないだろうが、毎年100万人もの観光客が集まるという。多くのアメリカ人が、美しい桜の花と着物の試着など日本文化を楽しみ、日米同盟の蜜月ぶりを象徴する場にもなっている。
 この桜の木が、「実は韓国の済州島から持ち込まれたものだ」というのが問題の記事の結論で、根拠の1つはアメリカ農務省による遺伝子検査だ。記事によると、済州島に自生する桜とワシントンの桜が同じ塩基配列を持っているという事実が確認されたという。そこでアメリカ農務省の資料を見てみたところ、日本のソメイヨシノと韓国に自生する桜のDNAを比較した2007年の研究結果があった。
 しかし「結論として、韓国の桜はソメイヨシノの交雑種とは異なると考えられる(In conclusion, it appears that the Korean taxon,P.yedoensis, can be considered different from Yoshino cherry hybrids)」と結論付けられていて、逆に「ソメイヨシノ韓国起源説」を否定するものだった。
 短期間で桜を揃えられるはずが無い!
 問題の記事はさらに、1910年に日本から送られた桜が害虫により全量廃棄された事を紹介し、その14カ月後に6000本以上(ワシントンに3000本、ニューヨークに3000本)の桜を改めて日本が送った事について「短期間に数千本の桜を再び集めることができたのかが問題」だとして、済州島で採取された桜がアメリカに持ち込まれた説には説得力があるとしている。
 では実際にはどうだったのか?その経緯に詳しい兵庫県伊丹市元職員の荒西完治さんに聞いた。荒西さんによると、最初にアメリカに送られた桜は東京で準備されたものだったが、害虫により全滅してしまったという。そのため当時の農商務省がプロジェクトチームを結成し、短期間で大量かつ安全な桜の苗木を準備する方法が検討され、接ぎ木によって一気に桜を増やす案が採用されたのだ。
 そこで白羽の矢が立ったのが、伊丹市だ。伊丹市は当時から柑橘類などを生産するための接ぎ木の土台になる木(台木)の生産が盛んで、なおかつ害虫を駆除するための特殊な消毒小屋を保有していた。そこで農商務省伊丹市の農家に台木約1万5000本を発注。国の威信をかけた失敗の許されない仕事だったが、伊丹の農家は見事にやり遂げたという。その後荒川の河川敷で採取された桜の枝が接ぎ木され、静岡県にあった農商務省の試験場で1年間養生された結果、ごく短期間で立派な苗をアメリカに送ることが出来たのだ。
 荒西さんの元には、「ワシントンの桜は済州島産だ」と主張する韓国人から連絡が来ることがあるという。しかし、1912年当時に朝鮮半島から苗木が取り寄せられたとの情報や資料は全くない。「彼らは接ぎ木で桜を大量生産する技術があることも知らずに、思い込みだけで連絡してくる」と呆れて話していたのが印象的だ。
 荒西さんのお話や様々な資料から、当時の日本人が総力を挙げ、全国各地の資産を活用して桜を育て上げたことは間違い無いだろう。何の根拠も無く、単なる思い込みで「短期間で大量生産など出来るはずが無い。こっそり済州島から持ち込んだに違いない」と主張するこの記事は、美しい桜をアメリカの人にも楽しんでもらおうと奮闘した、当時の日本人を侮辱している。
 1930年代は日本も「ワシントンの桜は韓国産と認めていた?」
 同記事には「日本は1930年代までこのような事実を認めたが、解放(1945年)以後ワシントンと済州の桜が違う種だと立場を変えた」との記述もあった。だが「1930年代まで認めていた」事の根拠は示されていない。
 そこで執筆した記者に聞いてみると、「2014年に他社の記者が書いた記事から引用した」との事だった。呆れながらも元ネタの記事を読んでみると、「京都大の植物学者小泉博士は1932年済州島にある漢拏山の標高600m地点で、日本にはない王桜(※韓国でのソメイヨシノの表記)の木の自生地を発見。原産地を済州島に確定発表するに至った」との記述があった。この記述自体は事実だが、前述のようにその後のDNA検査で、済州島の桜とソメイヨシノに遺伝的繋がりは無い事が分かっている。この教授の発表は間違っていたのだ。
 また1人の大学教授の主張をもって「日本は1930年代までワシントンの桜と済州島の桜は同じとの事実を認めていた」というのは、読者に「日本は卑怯」とのイメージを植え付ける意図が透けて見え、ねつ造に近い。なお「アメリカ農務省のDNA検査」の件も、元ネタからの引用ということだったが、結局根拠は不明のままだ。
 ポトマック公園には桜が日米の友好の証であることを記載した案内板が設置されているコロナ渦を受け、今年はワシントンでもオンライン花見が呼びかけられている© FNNプライムオンライン コロナ渦を受け、今年はワシントンでもオンライン花見が呼びかけられている
 最後に受け入れ元のアメリカの資料だが、アメリカ国立公園局のホームページにある「桜の木の歴史(HISTORY OF CHERRY TREES)」によると、1912年に当時の東京市が送った桜の種類について、ソメイヨシノ有明、普賢象、福禄寿、御衣黄、一葉、上匂、関山、御車返し、白雪、駿河台匂、滝匂の12種類を明記している。朝鮮半島由来の桜の名前は無い。
 拡散される嘘
 中央日報の記者は「ソメイヨシノ韓国起源説」が破綻している事を知らずに執筆したのかもしれない。また桜をアメリカに輸出した経緯についても全く取材した形跡がない。あまりの杜撰さに言葉も無いが、こうして嘘が繰り返されることで、デマを根拠に日本への敵対心を持つ韓国人が増えていくことになる。
 たかが桜と甘く見ていてはいけない。「日本海を東海と呼ぼう」との韓国の執拗なキャンペーンに対し、日本は強い対応を見せてこなかったが、その結果世界中のメディアなどで日本海と東海を併記する動きが出てきているのを忘れてはならないのだ。
 冒頭で紹介した和歌は、在原業平が詠んだ、かの有名な「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」の返歌である。在原業平は、「桜が無ければ人々は心穏やかに春を過ごす事が出来るのに」と詠むことで、逆説的に桜の素晴らしさを際立たせた。だがこの記事を読むと、とても心穏やかにはならない。
 2022年もこんな記事が出るのだろうか?
 のどけからまし。」
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💖26)─2─日本陸軍の上海ゲットー・上海ユダヤ難民資料を世界記憶遺産に。〜No.108No.109No.110 

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 2015年8月9日 産経新聞「【歴史戦】中国、上海ユダヤ難民資料を記憶遺産申請へ 旧日本軍が保護の史実を隠蔽 「抗日戦勝70年」の一環に
 「世界記憶遺産」として登録申請の準備を進めている中国上海市内の上海ユダヤ難民記念館(河崎真澄撮影)
 【上海=河崎真澄】戦前に欧州を追われ、上海に逃れてきた3万人近いユダヤ難民の資料を「世界記憶遺産」として国連教育科学文化機関(ユネスコ)に登録する申請作業が中国で進んでいることが8日、関係者の話で分かった。ユダヤ難民は旧日本軍が当時、上海北部の日本人居留区に「無国籍難民隔離区」を置いて保護した経緯があるが、中国側はこうした事情をほぼ封印し、「抗日戦争勝利70周年」の一環として、中国がユダヤ人保護に貢献したかのように国際社会にアピールする考えだ。
 今回の申請作業を進めているのは、戦時中は摩西会堂(ユダヤ教会)と呼ばれ、現在は上海市虹口区当局が管轄している「上海ユダヤ難民記念館」。記念館が集めた難民の名簿や遺留品、旧日本軍が管理した隔離区(通称・ユダヤ難民ゲットー)に関する資料、難民から聞き取った証言などをまとめ、中国政府とともに登録を働きかけている。
 申請作業と並行し、9月3日に北京で大規模な軍事パレードなど一連の抗日戦勝利70周年記念イベントを行うのに合わせ、記念館や「リトルウィーン」と呼ばれたユダヤ難民の住居やダンスホール、カフェなどが立ち並ぶ、当時としては自由を謳歌(おうか)したエリアの建築物改修を終える予定だ。
 戦前の上海では、アヘン戦争(1840~42年)を経て英国などが設置した租界や、1937年の日中戦争の後にできた日本人居留区への上陸には必ずしも正式な書類は必要なかった。
 元駐リトアニア領事代理の杉原千畝(ちうね)氏が人道的な見地から発給し続けた「命のビザ」を手に、日本を経由して、当時は世界でも限られた難民受け入れ地だった上海に向かったユダヤ難民も少なくなかった。
 42年、ナチス・ドイツが日本に「最終解決」と称してユダヤ難民の殺戮(さつりく)を迫ったが、旧日本軍はこれを拒否。43年に「無国籍難民隔離区」を置き、許可なく域外に出られない制限を加えてナチス・ドイツに説明する一方、ユダヤ人の生命を守った歴史がある。
 日本がユダヤ難民を保護した理由として、上海社会科学院歴史研究センターの王健副所長は、「旧日本軍がユダヤ難民を当時の満州などに移住させて利用しようとした『河豚(ふぐ)計画』が背景にある」とみている。
 中国は昨年6月、「南京事件」と「慰安婦」を世界記憶遺産に登録申請し、日本政府が反発している。」
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 KAKEN
 1943年の「上海ゲットー」設置後における、ユダヤ避難民の状況の変化・比較研究
 研究代表者
 関根 真保 立命館大学, 衣笠総合研究機構, プロジェクト研究員 (20708698)
 研究期間 (年度)
 2018-04-01 – 2021-03-31
 キーワード
 東洋史 / 中国近現代史 / ユダヤ離散史 / 日本植民地史 / 上海外国人史
 研究実績の概要
 「上海ゲットー」とは日本軍によって、1943年から終戦まで設置されていたユダヤ人の居住区であったが、この時期のユダヤ人の生活状況を考察することが本研究の主要テーマであり、それこそが、日本のユダヤ人政策の本質を問うことにもなる。
 最初に、上海ユダヤ人の戦後の生活、彼らの海外移住への経緯に焦点を絞り、「上海ゲットー」からの解放後の状況の変化を追った。これに関しては、昨年度の史料収集、資料分析を通じて、今年度は論文執筆からその刊行に至った。論文は2019年7月刊行の『アジア遊学236 上海の戦後』(勉誠出版)に掲載された。
 次に必要なのは「上海ゲットー」設置以前、つまりユダヤ人がまだ制限を受ける前の1939年から1942年の状況に目を向けることである。今年度は、彼らが比較的自由を享受できた時代の音楽、芝居、メディアなどの文化活動を分析してきた。昨年度に上海出張で得た資料を丹念に追うことで、新たな事実も明らかになってきた。困難な「上海ゲットー」期と比較するうえで、重要なアプローチであった。
 最後に、「上海ゲットー」期に一変したユダヤ人の生活状況を分析することで、本テーマは完成に至る。この時期に関して、もちろん本年度も史料収集、分析を少しずつ行っている。とくに本年度はドイツの「国立文書館 Budesarchiv」で史料収集を行い、さらにはベルリンにおいてフィールドワークを行ったことで、上海移住以前のユダヤ人の動向、および反ユダヤ主義に関する様々な知見を得ることができた。
 現在までの達成度 (区分)
 3: やや遅れている
 理由
 本研究課題は「上海ゲットー」以前、「上海ゲットー」期、戦後の三期に分けて進められている。「『上海ゲットー』以前」と「戦後」は問題なく研究を進めてきたので、ここまでは順調といえる。ただし「上海ゲットー」期の分析が史料調査も含めてまだ思うように進展していない。
 現下の状況では海外出張が難しく、本来予定していた上海でのフィールドワーク、資料収集が実現できなかったことも大きい。さらには東京の国会図書館で数日間の資料収集を予定していたが、これも自粛した。
 今後の研究の推進方策
 最後に残っている課題は「上海ゲットー」設置期の上海ユダヤ人の歴史研究である。そのための資料収集として、ニューヨークの「ユダヤ歴史研究センター The center of Jewish history」と、ワシントンの「国立公文書館 National Archives and Records Administration」に行く予定にしているが、これもコロナウィルスの状況に左右されるだろう。
資料収集が順調に進めば、史料分析をしたのち、本科研課題を総括した論文を執筆予定である。論文は2021年2月頃に刊行予定である、神戸・ユダヤ文化研究会の機関誌『ナマール(港)』25号に掲載予定にしている。
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シオンとの架け橋
 バラガン・コラム-イスラエルあれこれ (他の記事一覧はこちら)
 上海でユダヤ人を救ったのは日本か?中国か?2018.10.28
 10月22日から4日間、中国の王岐山国家副主席がイスラエルを訪問しました。ネタニヤフ首相やリブリン大統領などと2国間の更なる貿易・投資の拡大や経済協力について話し合ったようです。またヤッド・バシェム(ホロコースト記念館)や嘆きの壁などを訪問し、文化交流も行ったようですが、こんなツイートがアジア担当のイスラエル人外交官によってされており、少し気になりました。
 {イスラエル大統領ルーベン・リブリンと中国副主席王岐山エルサレムで会談。両国に共通する古代文明や、ハルビンや上海でホロコースト時にユダヤ人が保護されていた事、そして今後のイノベーション協力についての明るい展望を話し合った。}
 というツイートで、イスラエル政府や外務省の公式アカウントがリツイートしています。このツイートを見て、何とも言えない気持ちになりました。大戦中、上海に寄留していたユダヤ人たちが助かったのは紛れもない事実なのですが、その上海は当時日本軍の占領下にあったからです。
 上海ゲットーで「救われた」ユダヤ人の命
 1930年代のドイツはナチスによる独裁政権、そしてホロコーストへの道を歩み始めていました。そしてイギリスやアメリカなどユダヤ人に同情的だった大国もユダヤ人受け入れの制限を行っていたため、ヨーロッパのユダヤ難民にとっては逃げ場のない状態でした。そんななか上海は「世界で唯一の無査証都市」だったこともあり、1933年から41年までの8年間で約3万人のユダヤ難民がヨーロッパから上海にやって来、そのうちの数千人は上海を経由して第三国に逃げる事ができたのですが、多くは上海に大戦終結まで留まったと言われています。その中には、杉原千畝の命のビザによって難を逃れたポーランドユダヤ人約1000人もいました。杉原ビザを受け取った数千人は敦賀から日本に入り神戸に落ち着き、日本滞在中にアメリカやカナダ、中南米イスラエルへの移住ビザの手配に奔走したのです。無事ビザを取得できたユダヤ人たちは第三国に向かうことが出来たのですが、ビザを得られなかった人たちは上海のユダヤ人地区に送られる事となったのです。
 当初はアメリカのユダヤ人団体や、19世紀から上海に移住した豊かなイラクユダヤ人コミュニティーなどの援助などもあり、ヨーロッパからの難民たちはコミュニティーに参画し上海のユダヤ人社会は繁栄していました。しかし41年12月に日本がアメリカ・イギリスと開戦すると、上海のユダヤ人たちは危険な立場に立たされることになります。アメリカのユダヤ人団体は敵国である上海への支援ができなくなり、バグダッドユダヤ人は英国籍を所持していたため抑留されこちらも援助ができなくなったからです。
 そんななかユダヤ人に対して理解を示していた派が日本軍内でも勢力を失い、日本は占領地に居るユダヤ人に対し強硬策を取り始めました。そしてまさにこの時、ワルシャワユダヤ人虐殺を主導し「ワルシャワの殺人鬼」とも呼ばれたヨーゼフ・マイジンガーがゲシュタポの駐日本主席として日本に赴任したのです。
 マイジンガーはドイツと同盟を結んでいるにもかかわらずユダヤ人排除に協力しない日本に対し、「上海ユダヤ人問題の最終的解決」を提出しました。その計画によると42年9月にあるロシュ・ハシャナ(ユダヤ歴の新年)でユダヤ人たちが集まる機会に乗じてユダヤ人を捕獲し、その後の計画については3つの選択肢が用意されていました。
 1.船にユダヤ人を乗せ東シナ海沖まで運び、撃沈または漂流し餓死させる。
 2.鉱山で強制労働を課し、過労死させる。
 3.収容所に収監し人体実験を行いゆっくりと死なせる。
 こんなナチスドイツからの圧力を受け上海を支配する日本軍司令部は、ユダヤ人コミュニティーのリーダーと面会し「なぜドイツ人たちにそこまで嫌われているのか」という質問をしました。するとハシディズム(敬虔主義)のラビ、シムオン・ショロム・カリシュがこう答えました―
 {「ユダヤ人の起源はアジアにあり、ナチスはアジア人を嫌っているからです。」}
そしてラビはそれを証明するかのように、ナチス軍司令官が日本人女性と結婚した事を非難するドイツ紙の社説を見せたと言われています。
 最終的に日本はナチスドイツの要求を拒否し、上海において「ホロコースト」が起こる事はなかったのですが、「上海ゲットー」の名で知られる無国籍難民隔離区を設置しユダヤ難民を移住させました。この決定は日本軍上層部のナチスへの配慮からだと考えられています。
 確かに生活環境は良くなかったのですが、同地区には地元の中国人や日本人が住むなどユダヤ人を隔離するヨーロッパのゲットーとは違い、壁や柵で囲まれる事もありませんでした。また43年の冬にはアメリカ政府の許可により上海への送金が行われたことにより生活環境も格段に向上し、多くのユダヤ人難民が大戦終結まで生き延びることが出来たのです。
 この上海で生き残ったユダヤ人の中には、ベラルーシユダヤ教神学校「ミール・イェシバ」の生徒数百人も含まれています。杉原ビザにより救われたこのイェシバは現在「ヨーロッパで唯一ホロコーストを生き延びたイェシバ」として、エルサレムで最も大きなイェシバになっています。また超正統派の一家に育った筆者の妻に聞いたところ、超正統派の世界では「ミールで学んだ」というだけでその男性は縁談に困らないとか…
それほどの「名門校」が、日本人や日本軍によってホロコーストを免れたというのは面白い歴史です。
 さて現在上海市内には「上海ユダヤ難民記念館」が建てられ、もともとは杉原千畝の写真があったようなのですが今はそれも無くなり、「日本がユダヤ難民に苦痛を与えた」というネガティブな面ばかりにスポットライトが当たり、まるで中国がユダヤ人保護に貢献したかのような展示内容になっているようです。最初に紹介した会談でも副主席がリブリン大統領に対し「日本軍のもとユダヤ人が生き延びた」という事実を話したとは、あまり考えられません。そして中国は今後もこの「歪んだ上海ゲットー像」をイスラエルや国際社会にアピールしていく事が予想されます。日本がアジア各国に対して残虐な行為を起こったことは事実でもちろん反省すべきですが、そんな日本軍によってユダヤ人が生き延びることが出来たのも事実です。
 上海でユダヤ人を救ったのは誰か― 日本は正確な情報をイスラエル、そして国際社会に発信すべきかも知れません。
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 アメリカ、イギリス、ソ連・国際共産主義勢力などの連合国、バチカンローマ教皇、国際赤十字社などは、ナチス・ドイツの迫害、虐殺されているユダヤ人を見捨てた。
 世界は、ユダヤ人からホロコースト情報を得ていたが助けなかったどころか非難も抗議もしなかった。
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 軍国日本は、戦場で人殺しの戦争犯罪を行ったが、同時に戦争で人助けの人道貢献もした。
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 日本陸軍は、ナチス・ドイツが上海ゲットーで行おうとしたホロコーストを阻止しユダヤ人難民達を助けた。
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 日本軍将兵にも、いい軍人もいれば悪い軍人もいた。
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 ポーランドユダヤ人難民を助けたのは、昭和天皇東条英機松岡洋右松井石根A級戦犯、そして日本軍部・日本陸軍であった。
 戦死した日本軍将兵の3分の1は戦闘死であったが、残りの3分の2は傷病死や餓死であった。
 上海ゲットーでは、食糧や物資が欠乏して苦しかったが餓死者はいなかった。
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 A級戦犯が神として祀られている靖国神社を否定する日本人や、昭和天皇戦争犯罪者と決めつけ昭和天皇の戦争責任や戦争犯罪を告発する日本人には、人類史的人道貢献・上海ゲットーを語る資格はない。
 A級戦犯が有罪判決を受け処刑された罪状は、平和に対する罪であって人道に対する罪ではない。
 東京裁判は、人道に対する罪より平和に対する罪を上位に置き、個人として人道貢献をしていても公人として戦争を始めた事が重大犯罪とされた。
 靖国神社批判を続ける現代日本人は、歴史好きから歴史事実を余す事なく知りながら、昭和天皇A級戦犯達が行った自己犠牲の人道貢献を否定し歴史の闇に葬っている。
 処刑されたA級戦犯の多くは親ユダヤ派としてユダヤ人難民保護に関与していた。
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 日本陸軍は、食糧や医薬品などの貴重な補給物資を1,000万人以上の飢餓被災者がいる河南省に運び、ファシスト中国軍(中国国民党軍)や中国共産党軍の抗日軍と激しい戦闘を続けていた。
   ・   ・   ・   
 中国共産党ファシスト中国(中国国民党)は、ユダヤ人難民の保護には一切関係していない。
 傀儡(偽)南京国民政府は、日本陸軍ユダヤ人難民保護に協力していた。
 汪兆銘親日派知日派は、軍国日本の人類史的人道貢献に関与していた。
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 上海ゲットー(英語:Shanghai Ghetto)は、第二次世界大戦中に日本軍勢力下にあった上海の北東部虹口のおよそ一平方マイルの地区にあったヨーロッパ・ユダヤ人が居住していた地区を指す。
 当時ナチス政権下のドイツ支配下にあったヨーロッパ地域から多数のユダヤ人が上海へ逃れてきており、彼らは1943年2月18日に日本軍が発した布告により同地域に居住および活動を制限され、以降1945年8月の終戦までここに留まっていた。正式には「無国籍難民限定地区」である。上海ゲットーは無祖国難民の限定地区として機能し、20,000人のユダヤ人難民と100,000人の中国人が定住し、貧しい難民が難を逃れ上海に移住するために押し寄せていた。
 現地のユダヤ人家族とアメリカ系ユダヤ人の慈善団体は彼らを保護し、食事と衣服を与えた。しかし日独と英米が開戦すると、ドイツの圧力で日本の当局は次第にいろいろな制限を強めていき、生活環境は劣悪になっていったが日本政府はゲットーを守り、封鎖されることは無かった。
 訪れたドイツ系ユダヤ
 チケットを購入した難民はイタリアのジェノヴァから出航するイタリアと日本の客船で旅についた。この3週間の旅は迫害されるドイツとむさくるしい上海ゲットーとの間にあって非現実的なほど娯楽も食事もふんだんにある旅であったと書かれている。いくらかの旅客はエジプトでイギリス領パレスチナに行くことを望み、予定外の行動を試みるものもいた。
 1938年8月15日、最初のユダヤ人難民がオーストリアからイタリアの船で上海にたどり着いた。1939年の6月には8,200人ものユダヤ人難民がゲットーに到着していた。
 ハラス・カドーリエの設立した欧州ユダヤ人移民援助協会、ヴィクトリア・サッスーン、パウル・コモルの三者は新たに欧州移民国際協会を設置して、多くの援助を供給した。この組織は国際共同租界やフランス租界に比べ比較的安い虹口の避難所に準備された。かれらはみすぼらしいアパートや学校の前の6つの学校に収容された。上海を占領していた日本の占領当局はドイツ系ユダヤ人を「亡国の民」と見て黙認していた。
 多くの難民が1937年以降に訪れた。その数は膨れあがり続け、受け入れが困難になっていった。このため1939年からは移民制限が行われた。しかしながら一部のユダヤ人はマレー作戦とそれに続く真珠湾攻撃が始まる1941年12月まで上海に逃れ続けた[7]。
 ゲットーでの生活
 移民当初から日英米開戦まで
 当局は大規模移民の準備を整えておらず、到着した難民は貧乏な虹口地区で厳しい状況に陥った。10%の家庭が飢餓に近い状態であり、衛生は悪く、雇用は少なかった。写真週報では、ゲットーを「上海のパレスチナ」と表現している。
 バグダッド系とアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会は家を借り、食べ物を供給するいくらかの援助を行った。ユダヤ人難民達は言葉の壁、極端な貧困、蔓延する病気、孤立、等に面していた。しかし、コミュニティーが設立した福祉機関によって徐々に生活の質を変えていった。ユダヤ人の文化生活は繁栄した。学校が設立され、新聞が発行され、劇場での劇の上演、スポーツチームはトレーニングに参加し、競技会とキャバレーさえあったという。このような生活は1941年12月の日英米間の開戦まで続いた。
 日英米開戦以降
 日本がマレー作戦と真珠湾攻撃を行って英米間と開戦して以後、英国民が多かったバグダッドユダヤ人グループは抑留され米国慈善基金は中止された。大きな資金源であったイギリスやアメリカとの関係が途切れた事から、雇用の悪化とインフレが起こり、再び難民に厳しい時代が訪れた。
 上海に訪れたアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会の連絡係ラウラ・マーゴリスは日本の当局の許可を得て資金集めの取組みを続け、状況を安定させるように試みた。これを受け、1937年以前に訪れたロシア系ユダヤ人へも支援を行えるようになり、新しい制限も免除された。
 ドイツの圧力
 1941年に日独英米の間で開戦すると、ドイツは日本に対して上海のユダヤ人を引き渡すよう圧力をかけはじめた。ウォーレン・コザックはゲットーのユダヤ人指導者が日本の上海市軍政府に呼びつけられたときのエピソードを記している。その中にはアムシノフ派のラビ、シモン・シャローム・カリシュがいたのだが、日本は彼に好奇心からこうたずねた。「どうしてそこまでドイツ人はあなたたちを嫌うのだ」。
 {カリシュ師はためらうことなく、また同胞の運命が自らの答えにかかっていることも知らず、通訳に〔イディッシュ語で〕こう言った。"Zugim weil mir senen orientalim(ドイツ人は我々が東洋人であることを憎んでいるのだといってくれ。)"。カリシュ師と対面したときから硬い表情であった知事の頬がゆるんだ。軍事同盟が結ばれていたにもかかわらず、結局ドイツの要求に日本が応ずることはなく、ユダヤ人が引き渡されることもなかった}
 そこに出席したほかのラビによると、カリシュ師の答えは「彼らは黒髪で背が低い人間を憎んでいるのだ」であったという。『東洋人』にあたる言葉は、当時のイディッシュ語ヘブライ語には存在しない言葉であり、現代ヘブライ語における学術的な用語であるため、実際の発言ではないと考えられている。
 制限
 日独防共協定に基づき設けられた駐日ドイツ大使館付警察武官として1941年5月に東京に赴任した「ワルシャワの虐殺者」と呼ばれる親衛隊大佐ヨーゼフ・マイジンガー (Josef Meisinger) は、1942年6月に、ハインリヒ・ヒムラーの命を帯びて上海に赴いた。彼は日本に対し、上海におけるユダヤ難民の「処理」を迫り、以下の3案を提示した。

・黄浦江にある廃船にユダヤ人を詰め込み、東シナ海に流した上、撃沈する
・岩塩鉱で強制労働に従事させる
・長江河口に収容所を建設し、ユダヤ人を収容して生体実験の材料とする

 要するに、彼はヒトラー及びヒムラーユダヤ人大虐殺計画をアジアへ持ち込んだのである。この案は安江を経由して松岡洋右外相に伝えられたが、日本政府はこのような提案に従おうとしなかった。結局マイジンガーの計画は、いわゆる「上海ゲットー」を形成するのみに留まった。上海のユダヤ人は特定の地区に居住することを強いられ、そこから出ることを禁じられた。
 1942年11月15日にドイツの圧力を受け、ゲットーの制限案が承認された。また1943年2月18日、日本の当局は「無国籍難民指定区域」を宣言し、1937年以降に訪れた難民に居住可能範囲と営利事業の可能な範囲を一平方マイルに制限することを命令し、5月15日までにその区域に移住するように命令した。無国籍難民は財産を処分するために日本の許可を必要とし、他のものもゲットーに移住する許可を必要とした。それまでゲットーには有刺鉄線も外壁も無かったが、これ以降は外出禁止令が敢行され、地域は警邏されたうえ、食料は配給制になり、区域からの出入りにはパスが必要になった。
 デビッド・カンツラー(David Kranzler)博士によれば、
 {このため、おおよそ人口の半分、16000人の難民が大きな難関に差し掛かった。暮らしの手段を見つけ、もう一度「指定区域」外での住居や職から去らねばならず、10万人の中国人と、8000人の避難民であふれる一平方マイルに満たない狭い地域に再移住しなければならなかった。}
 とある。
 ゲットーの外での働くために一時通行券が支給され、適宜許可された。一時通行券は初年以降大幅に削減された。しかし、中国人が虹口のゲットーを去らなかったということは、ゲットーは隔離されていなかったことを示している。にもかかわらず、経済的には困窮した。心理的ゲットー化の調節は厳しかった。1943年の冬には特に深刻で、飢えが蔓延したが、ユダヤ人の命は守られた。
 連合国軍による上海空襲は1944年暮れから始まった。最も徹底的な空襲は1945年7月に日本の虹口ラジオ局に対して行われたものであり、31人の難民が死亡し、500名のけが人、700名もの放浪者を出した。
 ゲットーのアメリカ系やイギリス系のユダヤ人の中には、日本軍に対する抵抗活動を始めるものもいた。彼らは地下組織のネットワークに参加し情報を手に入れ、伝え合った。日本の施設でのサボタージュを行い、撃墜されたアメリカ軍のパイロットを中華民国の支配地域に逃げさせることを手伝った。
 その後
 ゲットーは公式には日本降伏の翌日の1945年9月3日に「解放」された。そのしばらく後、中華民国軍が上海解放のために進駐し、またアメリカに去る者がいた。1948年のイスラエル国家の建設によりユダヤ人が上海から去った。
 さらに1949年の中華民国の国民党の敗退と、共産主義国中華人民共和国建国によって、共産主義を嫌ったユダヤ人はほとんどが上海から去った。1957年には上海に残ったユダヤ人は100名しかおらず、現在では数名住んでいるかいないかである。イスラエル政府は諸国民の中の正義の人の栄誉を1985年に杉原千畝に、2001年に何鳳山に与えた。
 1992年にイスラエル中華人民共和国に国交が結ばれると、ユダヤ人と上海のかかわりがいろいろ再認識されるようになった。イスラエル最大の持ち株会社イスラエル・コーポレーションの創設者でかつて上海に逃れた難民だったシャウル・アイゼンバーグ(英語版)はイスラエル中華人民共和国の貿易関係を築く先駆者となった。
 2007年、イスラエルの上海総領事館は、26のイスラエルの会社から寄付された66万人民元を、虹口の地域共同体計画に対して寄付した。ゲットーを設け難民を受け入れたことに感謝して寄付されたと認識されている。
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💍11)─1─皇位継承有識者会議。リベラル派・革新派の正統性男系父系旧宮家皇籍復帰反対。〜No.58No.59No.60 ⑪ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・     
 国民世論の70%以上が、正当性女系母系天皇擁立への変更に賛成。
   ・   ・   ・   
 男系父系天皇は、民族中心神話・血の神話を根拠にし歴史・伝統・文化・宗教をまとった正統性である。
 女系母系天皇は、今の憲法・法律を根拠にした政治(政局・政争)を伴った正当性である。
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 2021年3月23日18:27 産経新聞「首相「考え方、分かりやすい形で整理を」 皇位継承有識者会議
 出邸する菅義偉首相=23日午前、首相官邸(春名中撮影)
 菅義偉首相の安定的な皇位継承策を議論する有識者会議の初会合でのあいさつ全文は次の通り。
  ◇  
 皆さまにおかれましては、ご多忙の中、お引き受けいただき、また本日、お集まりくださったことに心からお礼申し上げる。
 平成29年6月に、衆院および参院の委員会で可決された天皇の譲位等に関する皇室典範特例法案に対する付帯決議において、政府に対し、この付帯決議に示された課題について国会に報告するように求められている。これを踏まえ、今回、高い識見を有する皆さまにご議論をお願いすることとした。
 議論いただくのは、国家の基本に関わる極めて重要な事柄だ。皇室制度や歴史の専門家など、さまざまな方々の考えも聞いていただきながら、十分に議論し、さまざまな考え方を分かりやすい形で整理していただきたい。
 政府として、皆さまの議論をしっかり踏まえて対応していくので、どうぞよろしくお願い申し上げる。」
   ・   ・   ・   
 3月23日21:13 産経新聞旧宮家復帰など10項目、専門家ヒアリング 有識者初会合、座長に清家氏
 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議の初会合に臨む菅義偉首相ら=23日午後、首相官邸(春名中撮影)
 政府は23日、安定的な皇位継承の在り方を検討する有識者会議の初会合を首相官邸で開いた。6人の有識者メンバーの中から互選で清家篤慶応義塾長が座長に就任。旧宮家の男系男子の皇籍復帰や養子縁組に関する考え方など計10項目について、4月8日の次回会合から法律や文化、歴史などの専門家に対するヒアリングを開始すると決めた。
 菅義偉首相は会合で「議論いただくのは国家の基本に関わる極めて重要な事柄だ。十分に議論し、さまざまな考え方を分かりやすい形で整理していただきたい」と述べた。政府は6月に会期末を迎える今国会中にもヒアリングを終え、成果を取りまとめて国会に報告したい考えだ。
 ヒアリングでは、皇統に属する男系男子について、養子縁組を可能とすることや、新たに皇族とすることについて意見を聞く。
 さらに、内親王や女王に皇位継承資格を認める▽皇位継承資格を女系に拡大▽内親王や女王が婚姻後も皇族の身分を保持▽婚姻後に元女性皇族が皇室活動を支援-といった論点についても考え方を聴取する。
 加藤勝信官房長官は23日の記者会見で「男系継承が古来例外なく維持されてきたことの重みなどを踏まえながら、慎重かつ丁寧に検討を行う必要がある」と語り、男系継承の重要性を重ねて強調した。
 有識者会議は、平成29年成立の譲位特例法の付帯決議が、安定的な皇位継承の在り方を速やかに検討するよう政府に求めたことを受けて設置された。」
   ・   ・   ・   
 3月24日13:34 産経新聞「加藤官房長官皇位継承めぐる有識者会議「議論踏まえ対応」
 会見に臨む加藤勝信官房長官=24日、首相官邸(春名中撮影)
 加藤勝信官房長官は24日の記者会見で、安定的な皇位継承策について、有識者会議の議論を尊重し、政府として意見集約を進める考えを重ねて示した。「会議の議論を踏まえて対応していきたい」と述べた。議論の進め方に関しては「メンバーの皆さんが考えることになる」と説明した。
   ・   ・   ・   
 3月24日13:49 産経新聞「共産・穀田国対委員長旧宮家男系子孫の皇籍復帰「戦前回帰許されない」
 共産党穀田恵二国対委員長
 共産党穀田恵二国対委員長は24日の記者会見で、安定的な皇位継承策を議論する政府の有識者会議が専門家から意見を聴取する項目に、旧宮家旧皇族)男系男子子孫の皇籍復帰の是非が含まれたことを批判した。「はっきり言って時代錯誤だ。戦前の考え方に戻るようなことは許されない」と述べた。
 女性・女系天皇に関する聴取については「憲法の精神からして当然だ」と述べた。」
   ・   ・   ・  
 3月24日16:01 産経新聞蓮舫氏 旧宮家の男系男子の皇籍復帰「立法府の意思は女性宮家の創設」
 立憲民主党蓮舫代表代行
 立憲民主党蓮舫代表代行は24日の記者会見で、安定的な皇位継承の在り方を検討する政府の有識者会議で旧宮家の男系男子の皇籍復帰が議論の対象に決まったことに関し、「否定はしないが、立法府(国会)の意思は女性宮家の創設だと理解している」と述べた。
 蓮舫氏はその根拠として、「女性宮家の創設等」の速やかな検討を政府に求めた平成29年成立の譲位特例法の付帯決議を挙げた。旧宮家の男系男子の皇籍復帰を疑問視し、「有識者会議には、立法府の思いに忠実な審議を期待をしたい」と語った。」
   ・   ・   ・   

💍11)─1─皇位継承有識者会議。リベラル派・革新派の正統性男系父系旧宮家反対。〜No.58 

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 国民世論の70%以上が、正当性女系母系天皇擁立賛成。
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 2021年3月23日18:27 産経新聞「首相「考え方、分かりやすい形で整理を」 皇位継承有識者会議
 出邸する菅義偉首相=23日午前、首相官邸(春名中撮影)
 菅義偉首相の安定的な皇位継承策を議論する有識者会議の初会合でのあいさつ全文は次の通り。
  ◇  
 皆さまにおかれましては、ご多忙の中、お引き受けいただき、また本日、お集まりくださったことに心からお礼申し上げる。
 平成29年6月に、衆院および参院の委員会で可決された天皇の譲位等に関する皇室典範特例法案に対する付帯決議において、政府に対し、この付帯決議に示された課題について国会に報告するように求められている。これを踏まえ、今回、高い識見を有する皆さまにご議論をお願いすることとした。
 議論いただくのは、国家の基本に関わる極めて重要な事柄だ。皇室制度や歴史の専門家など、さまざまな方々の考えも聞いていただきながら、十分に議論し、さまざまな考え方を分かりやすい形で整理していただきたい。
 政府として、皆さまの議論をしっかり踏まえて対応していくので、どうぞよろしくお願い申し上げる。」
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 3月23日21:13 産経新聞旧宮家復帰など10項目、専門家ヒアリング 有識者初会合、座長に清家氏
 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議の初会合に臨む菅義偉首相ら=23日午後、首相官邸(春名中撮影)
 政府は23日、安定的な皇位継承の在り方を検討する有識者会議の初会合を首相官邸で開いた。6人の有識者メンバーの中から互選で清家篤慶応義塾長が座長に就任。旧宮家の男系男子の皇籍復帰や養子縁組に関する考え方など計10項目について、4月8日の次回会合から法律や文化、歴史などの専門家に対するヒアリングを開始すると決めた。
 菅義偉首相は会合で「議論いただくのは国家の基本に関わる極めて重要な事柄だ。十分に議論し、さまざまな考え方を分かりやすい形で整理していただきたい」と述べた。政府は6月に会期末を迎える今国会中にもヒアリングを終え、成果を取りまとめて国会に報告したい考えだ。
 ヒアリングでは、皇統に属する男系男子について、養子縁組を可能とすることや、新たに皇族とすることについて意見を聞く。
 さらに、内親王や女王に皇位継承資格を認める▽皇位継承資格を女系に拡大▽内親王や女王が婚姻後も皇族の身分を保持▽婚姻後に元女性皇族が皇室活動を支援-といった論点についても考え方を聴取する。
 加藤勝信官房長官は23日の記者会見で「男系継承が古来例外なく維持されてきたことの重みなどを踏まえながら、慎重かつ丁寧に検討を行う必要がある」と語り、男系継承の重要性を重ねて強調した。
 有識者会議は、平成29年成立の譲位特例法の付帯決議が、安定的な皇位継承の在り方を速やかに検討するよう政府に求めたことを受けて設置された。」
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 3月24日13:34 産経新聞「加藤官房長官皇位継承めぐる有識者会議「議論踏まえ対応」
 会見に臨む加藤勝信官房長官=24日、首相官邸(春名中撮影)
 加藤勝信官房長官は24日の記者会見で、安定的な皇位継承策について、有識者会議の議論を尊重し、政府として意見集約を進める考えを重ねて示した。「会議の議論を踏まえて対応していきたい」と述べた。議論の進め方に関しては「メンバーの皆さんが考えることになる」と説明した。
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 3月24日13:49 産経新聞「共産・穀田国対委員長旧宮家男系子孫の皇籍復帰「戦前回帰許されない」
 共産党穀田恵二国対委員長
 共産党穀田恵二国対委員長は24日の記者会見で、安定的な皇位継承策を議論する政府の有識者会議が専門家から意見を聴取する項目に、旧宮家旧皇族)男系男子子孫の皇籍復帰の是非が含まれたことを批判した。「はっきり言って時代錯誤だ。戦前の考え方に戻るようなことは許されない」と述べた。
 女性・女系天皇に関する聴取については「憲法の精神からして当然だ」と述べた。」
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 3月24日16:01 産経新聞蓮舫氏 旧宮家の男系男子の皇籍復帰「立法府の意思は女性宮家の創設」
 立憲民主党蓮舫代表代行
 立憲民主党蓮舫代表代行は24日の記者会見で、安定的な皇位継承の在り方を検討する政府の有識者会議で旧宮家の男系男子の皇籍復帰が議論の対象に決まったことに関し、「否定はしないが、立法府(国会)の意思は女性宮家の創設だと理解している」と述べた。
 蓮舫氏はその根拠として、「女性宮家の創設等」の速やかな検討を政府に求めた平成29年成立の譲位特例法の付帯決議を挙げた。旧宮家の男系男子の皇籍復帰を疑問視し、「有識者会議には、立法府の思いに忠実な審議を期待をしたい」と語った。」
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🏞98)─1─町人医師・小山肆成は鎖国下で国内初の国産天然痘ワクチンを開発した。~No.376No.378No.379 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・     
 昔の日本人は偉かったからといって現代の日本人も偉いとは限らない。
 昔の日本人が褒められるからといって、現代の日本人も褒められるとは限られない。
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 昔の医師は、医学と論語(道徳)を学んでいた。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の日本人は、古今東西の過去の古典を学習し、自分の興味に従って経験を積み、オランダからの最新の西洋知識を学んでいた。
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 NHK知恵泉
 人たちの底力 知恵泉 「小山 肆成」「荻野吟子」
 先人たちの底力 知恵泉 医療の黎明!知られざる名医たち「小山 肆成(しせい)」「荻野吟子」
 NHK Eテレ 2021年3月16日(火)22:00~22:45
 再放送 翌週火曜 昼12:00~12:45
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 「小山 肆成(しせい) 国内初のワクチン開発者」
 【放送日時】2021年3月16日(火)22:00~22:45/再放送 3月23日(火)昼12:00~12:45
 江戸時代、猛威を振るう天然痘から人々の命を救うため、日本初となる国産ワクチンの開発に挑んだ町医者がいた。その名は小山肆成(しせい)。小山はどのようにしてワクチンを作り、どう広めていったのか。立ちはだかるいくつもの壁を乗り越える小山の知恵を、医師の二木芳人さんが読み解く。
 【出演】二木芳人(昭和大学医学部客員教授) 大石学(東京学芸大学名誉教授) 渡辺満里奈(タレント)
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 小山 肆成(こやま しせい、文化4年(1807年) - 文久2年9月6日(1862年10月28日))は、江戸時代後期の医師。日本で初の国産天然痘ワクチンの開発に成功した。号は蓬洲(ほうしゅう)。通称は敬介。和歌山県の医学界では華岡青洲と並び「北の青洲、南の蓬洲」と評価されている。
 生涯
 文化4年(1807年)、紀伊国牟婁郡久木村(現和歌山県西牟婁郡白浜町久木)の地士の家に生まれた。幼名は小文冶。若くして京都に出て、兄の文明の下で勉学に励んだ。兄の死後の文政6年(1823年)より医学を志し、儒学を岡田南涯、医学を宮廷医師・高階枳園に学んだ後、宮廷医師を経て烏丸に開業した。
 天保9年(1838年)から天保13年(1842年)にかけて熊野地方で猛威を振るった天然痘を目の当たりにしたため、家宝の刀など家財を売り払って実験用の牛を購入し、妻を実験台にして天然痘ワクチンの研究に没頭した。弘化4年(1847年)に牛痘法の書『引痘略』を校刻し、『引痘新法全書』を著した。
 牛痘を接種して効果を上げ、嘉永2年(1849年)には強い免疫性を持つ天然痘ワクチンの牛化人痘苗(ぎゅうかじんとうびょう)の開発に成功した。イギリスのエドワード・ジェンナーによる種痘開発から半世紀遅れたが、発病率はより低く世界的にも高評価を受けている。
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 AGARA 紀伊民報
 外相陸奥宗光に医師小山肆成 郷土の偉人から学ぶ
 (2020年11月27日 14時30分 更新) 和歌山 紀南 熊野灘 教育
 立谷誠一会長(奥左)から小山肆成の業績について話を聞く児童(26日、和歌山県串本町西向で)
 郷土の偉人から多くを学ぼうという学習会が26日、和歌山県串本町西向小学校であった。「『陸奥宗光外務大臣』の功績を教育に活かす実行委員会」が、天然痘ワクチンを開発した小山肆成と外交で活躍した陸奥宗光の業績を紹介。新型コロナウイルス感染症が広がる中、児童らは肆成らの取り組みに興味津々だった。
 「『生きる』―偉人に学び、生命(こころ)を強くする」と題して和歌山市や紀南各地で開いている。紀州光龍馬会共催。
 西向小では、実行委の立谷誠一会長(71)が小山肆成、臼井康浩事務局長(55)が陸奥宗光について語り5、6年生18人が耳を傾けた。
 小山肆成は江戸後期の医師。1807年、当時の紀伊国牟婁郡久木村(現白浜町久木)で生まれた。儒医だった兄を頼って22年に京都に移住。医学者の高階枳園らに師事して医師の道を歩んだ。
 当時、天然痘は治療が難しい病気とされ、熊野地方でも猛威を振るった。治療方法が分からず、当時は鎖国中だったので海外から情報を得ることも容易ではなかった。
 肆成はある時、牛の乳を搾っている人は天然痘にかからないと聞き、それを契機に研究に没頭。苦労の末、強い免疫性を持つ牛痘苗を作り天然痘の予防に力を尽くした。
 立谷さんは肆成の活動を描いた紙芝居をスライドにし、絵を交えて分かりやすく説明。貧しい人からお金を取らなかったため、研究費に困って家宝の刀も売ったとも話し、児童に「こんなに素晴らしい人物がいたことを誇りにし、大人になっても思い返してほしい」と呼び掛けた。
 陸奥宗光は1844年に和歌山市で生まれた。青年時代は神戸海軍操練所で勝海舟の影響を受けた。坂本龍馬とともに活動し、海援隊副隊長として龍馬を支えた。龍馬亡き後は明治政府に入り、外務大臣になった時、江戸幕府が西欧列強と交わした不平等条約を改正。列強による植民地政策から日本を救った。
 臼井さんは、宗光は教養や訓練を通して自身の技能を高めたとし「皆さんもそのような人になって」と話した。
 6年生の児童は「天然痘で3人に1人が亡くなったと聞きびっくりした」「ワクチンができてよかった」などと口々に感想を話していた。
 この日は、串本町へのロケット発射場誘致に尽力した和歌山市出身の故上野精一氏の妻、敦子さんの話も聞く予定だったが、都合で欠席となった。
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 種痘とは、天然痘の予防接種のことである。ワクチンをY字型の器具(二又針)に付着させて人の上腕部に刺し、傷を付けて皮内に接種する。1980年に天然痘ウイルスは撲滅され、自然界に存在しないものとされているため、1976年を境に日本では行われていない。
ワクチン
 古くから西アジアや中国では、天然痘患者の膿を健康人に接種して軽度の天然痘を起こさせて免疫を得る人痘法が行なわれていたが、数%の重症化する例もあり、安全性は充分でなかった。1796年にイングランドの医師エドワード・ジェンナーは、ウシが飼育されている家や地域では牛痘にかかると天然痘にならないという伝聞に着目、これの膿を用いた安全な牛痘法を考案し、これが世界中に広まり、天然痘の流行の抑制に効果を発揮した。ワクチンという言葉もこの時用いられたものである。
 しかし、のちの研究で牛痘ウイルスと天然痘ウイルスには免疫交差の作用がないことが判明した。実際には牛痘の膿に混じっていた別のウイルスによるものであり、したがってジェンナーが天然痘ワクチンを生み出せたのは偶然によるものだった。このウイルスはのちに「ワクチニアウイルス」と命名されたが、由来については長年不明だった。しかし、近年に馬痘ウイルスもしくはその近縁種であったことが判明している。
 日本への伝来と普及
 日本では秋月藩藩医だった緒方春朔が1789年に大庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘法で接種し成功させた。これはジェンナーが考案した牛痘を用いる方法ではなく、天然痘の瘡蓋(かさぶた)の粉末にして鼻孔に吹き入れる方法に、緒方自身が改良を加えたものだった。1810年にはロシアに拉致された中川五郎治が、帰国後に牛痘を用いた種痘法を伝えた。文政7年(1824年)、田中正右偉門の娘イクに施したのが日本初の種痘術である。この頃蝦夷地では天然痘の大流行が3度起っており、このとき彼が種痘を施したとみられる。しかし五郎治は種痘法を秘術とし、ほとんど伝えなかったために、知る者は少数であった。彼の入手した種痘書は幕府の訳官・馬場佐十郎によって文政3年(1820年)に和訳されている。その後種痘の技術は箱館の医師、高木啓蔵、白鳥雄蔵などにより、秋田、さらには京都に伝達された。これとは別に1813年に同じくロシアから帰国した安芸国の漂流民・久蔵が種痘法を覚え、種痘苗をガラスの器に入れて持ちかえっており、その効果を広島藩や藩主の浅野斉賢に進言しているが一笑され実現化に至らなかった。
 牛痘苗の輸入
 1823年に長崎出島にやってきたオランダ商館の医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、直後にバタヴィアから持参した牛痘苗を用いて種痘を行ったが、成功しなかった。彼は翌年には鳴滝塾を開き、日本中から集まる医師たちに西洋医学を教授する。1826年の江戸参府の際には、再度輸入した痘苗を用いて種痘術を実演し、種痘の知識や具体的な手順を伝えたが、この際も痘苗が活着することはなかった。
 福井藩福井県)の町医者笠原良策は弘化3年(1846年)、藩に対し牛痘苗入手の請願書を出したが、不採用となっていた。嘉永元年(1848年)12月に再度請願書を出し、従来のようなオランダ船経由では痘苗が活着しないため、清国からの取寄せを進言した。藩主松平春嶽はこれを受け入れ幕府に請願した。老中阿部正弘長崎奉行大屋明啓にこれを伝達した。
 長崎奉行からオランダ商館に要望が伝達された。オランダ商館医オットー・モーニッケは嘉永元年の来日赴任の際に牛痘を持ち込むが、これは上手くいかず、翌年に再度バタヴィアから取り寄せた。
 一方、シーボルトの門人で鳴滝塾に学び、当時佐賀藩医であった伊東玄朴が痘苗の入手を藩に進言した。佐賀藩もまた長崎出島のオランダ商館にこれを依頼していた。
 嘉永2年(1849年)6月、バタヴィアから長崎に再度もたらされた牛痘苗を用いて、モーニッケによって佐賀藩医の楢林宗建やオランダ通詞らの息子たち計3人に種痘が施され、その一人が善感した。この痘苗は、長崎・佐賀を起点として複数の蘭方医たちを中心とするネットワークによって、6か月ほどの短い間に京都・大阪、江戸、福井へと伝播した。京都の日野鼎哉と桐山元中から依頼を受けていた長崎の唐通詞頴川四郎八は、自分の孫に種痘を施した。そこから得られた痘痂8粒を瓶に納めて9月6日に京都の日野に向け発送し、同月16日に日野の手に届いた。これを日野は自分の孫に試すが上手く行かず、最後の一粒を桐山の息子に接種したところ、これは上手く行った。これを元に同年10月、笠原良策と日野鼎哉が京都に「除痘館」を開設。京都の噂を聞きつけた緒方洪庵が翌11月初めに京都を訪ねるが、前出の経緯により痘苗は「福井藩の所有物」であったため、医師の権限での安易なやり取りに問題があったが、日野や笠原らと緒方は話し合い、当時は人から人へ移し続けることでしか保存できなかった痘苗を途絶えさせないためにも、なるべく多くの場所で運営保存することによりこれを相互のバックアップとする、という大義名分を考え出した。これにより笠原・日野・緒方は6日に大坂に赴き、翌日の7日に「除痘館」を開設した。
 佐賀藩では、8月には佐賀藩医楢林宗建が痘母となる子どもをつれて佐賀に到着、藩医の子らに接種した後、藩主の子淳一郎(鍋島直大)にも接種した。同時期に種痘事業を担当する引痘方が設けられ、医師の出張・宿泊費を藩が支給し無料で藩領に接種が開始された。並行して熟達した医師に医業免札を発行する制度が導入された。10月に佐賀藩江戸藩邸の伊東玄朴に送られた痘苗から、関東・東北の各地に広がることになる。
 笠原良策は京都での種痘活動、大阪の「除痘館」の開設に関わったのち、福井藩への輸送を試みる。当時の種痘は子供から子供に7日目毎に植え継ぐ方法しかなかった。同年11月下旬、笠原らは子供とその親の総勢10数名を引き連れて京を出立、雪深い栃ノ木峠をかき分け越え、越前国へ痘苗を持ち帰った。笠原は福井城下自宅の隣家にて帰国した当日から種痘を開始し、接種と鑑定方法を熟知することを条件に、越前国内の府中・鯖江・大野・敦賀、隣国加賀(石川県)の大聖寺・金沢・富山などへと分苗していった。その後福井藩嘉永4年(1851年)10月、70名を超える藩医・町医を組織した「除痘館」を開設した。
 富山藩では、1840年代後半、前藩主である前田利保が種痘を聞くに及び、藩医の横地元丈を江戸に派遣、情報収集と種痘技術の習得を行わせた。1850年嘉永3年)、富山に戻った横地元丈は自分の子供に接種、翌年、藩内で天然痘が藩内で猛威を振るうと、前田利保自ら種痘の有効性を説き普及に努めた。
 江戸では嘉永2年(1849年)3月に、既得権益を守りたい、または用例が未だ少ない蘭方医学に対する不信感を持つ漢方医(多紀元堅ら医学館の関係者)らの働きかけから「蘭方医学禁止令」が布達された影響もあり、普及は遅れた。しかし種痘の需要は、下からの要望という形で増えていく。同年に医師の桑田立斎は『牛痘發蒙』という啓蒙書を出版している。立斎は江戸に牛痘苗が伝わるより前に、人痘法で種痘を行っていた桑田玄真の養子であり、坪井信道の門下生であった。
 幕臣世襲の伊豆韮山代官であった江川英龍蘭学知識人として知られていた。嘉永3年(1850年)1月、伊東玄朴に依頼して息子江川英敏と娘卓子に種痘を施させた。この結果を良好とみた江川は、部下の医師肥田春安にさらに試行を行わせた上で、伊豆地域の自身の支配領内に「西洋種痘法の告諭」を発した。肥田と助手が村々を回り、領民に種痘を施していった。この「西洋種痘法の告諭」の中で江川は、自身の子供二人にも施したことに触れた上で、当時の民衆の間で流布していた、種痘に対する得体の知れないものへの恐怖、迷信、噂などを打ち消そうとした。
 同じく幕府直轄領であった蝦夷地でもアイヌの間に度々大規模な流行があり、1807年の流行の際にはアイヌ総人口の4割強が死亡した、とも伝わる。これを阻止するため、箱館奉行の村垣範正が安政4年(1857年)に幕府に種痘の出来る医師の派遣を要請した。桑田立斎と深瀬洋春らが派遣され、国後場所にまで至る大規模かつ強制的な種痘が行われ、アイヌの人口の半数が種痘を受けたと伝わる。これが世界初の、ある地域を対象とした天然痘根絶のための強制・義務による一斉種痘施術、とされる。当時の状況を描いた平沢屏山筆の「種痘施行図」がある。
 このように、幕府支配地域での種痘に対する要望が増したこと、すなわち幕府として種痘医の養成が急務となったこと、および江戸での急速な開化ムードも後押しし、安政5年(1858年)に蘭方(蘭学)解禁となった。江戸幕府第13代将軍・徳川家定脚気による重態に際し、7月3日に漢方医の青木春岱・遠田澄庵と共に伊東玄朴・戸塚静海らの蘭方医奥医師(幕府の医官)に登用された。同7日には玄朴の戦略的な進言により伊東寛斎・竹内玄同の増員に成功した。これにより蘭方内科奥医師は4名となり、さらに同年10月16日、時のコレラ流行を利用し、松本良甫・吉田収庵・伊東玄圭らを公儀の蘭方医として採用させた。すなわち幕府(将軍)が自ら、蘭学蘭方医学にお墨付きを与えた形となった。これら蘭学解禁の世相の中で伊東玄朴・戸塚・箕作らは川路聖謨を通して幕閣に働きかけ、安政5年正月に種痘所開設の許可が下った。 伊東玄朴・戸塚・桑田・箕作阮甫・林洞海・石井宗謙・大槻俊斎・杉田玄端・手塚良仙ら蘭方医83名の資金拠出により、同年5月7日、神田松枝町(現・東京都千代田区神田岩本町2丁目)の川路聖謨の神田於玉ヶ池の屋敷内に「お玉が池種痘所」が設立された(東京大学の前身)。この種痘所は後に幕府直轄の「西洋医学所」とされた。
 上州舘林では長澤理玄が江戸に上り嘉永2年(1849年)に桑田立斎の弟子となり、嘉永4年(1851年)に種痘法を持ち帰ったが、藩主秋元志朝の命を受けてなお、皆は種痘を受けることを恐れた。理玄は普及を急き焦り、親の承諾も得ずに通りすがりの子供に施術するなどして益々反対派を増やしてしまった。翌年には藩飛び地の羽州漆山(山形県)へ赴き、同地でも種痘施術を行った。元々秋元家は同地から舘林に移されたばかりであり、山形では医師であった理玄の父の名声も高かったことから、種痘は普及した。また舘林では家老の岡谷瑳磨介が率先して自身の子供4人に受けさせた。この後、種痘に反対していた重臣の子供らは次々と天然痘に罹ったが、岡谷の子供らは大丈夫であった。効果を目の当たりにしたこれ以降、他の藩士や領民も進んで種痘を受けるようになった。のち藩は岡谷の献策により、理玄を中心とした大規模な医療施設を設け、さらに舘林藩は藩内の幼児全てに種痘を受けさせることを義務化した。
 こうして全国に広まっていくと同時に、もぐりのいい加減な施術を行う牛痘種痘法者が現れた。緒方洪庵らは「除痘館」のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走していた。安政5年4月24日(1858年6月5日)、洪庵の天然痘予防の活動に対し、大坂町奉行の戸田氏栄を通し幕府からの公認が行われ、牛痘種痘は免許制とされた。
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種痘医 小山肆成の生涯
「国産ワクチンの開発に挑め!小山肆成(しせい)」