💖26)─2─日本陸軍の上海ゲットー・上海ユダヤ難民資料を世界記憶遺産に。〜No.108No.109No.110 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2015年8月9日 産経新聞「【歴史戦】中国、上海ユダヤ難民資料を記憶遺産申請へ 旧日本軍が保護の史実を隠蔽 「抗日戦勝70年」の一環に
 「世界記憶遺産」として登録申請の準備を進めている中国上海市内の上海ユダヤ難民記念館(河崎真澄撮影)
 【上海=河崎真澄】戦前に欧州を追われ、上海に逃れてきた3万人近いユダヤ難民の資料を「世界記憶遺産」として国連教育科学文化機関(ユネスコ)に登録する申請作業が中国で進んでいることが8日、関係者の話で分かった。ユダヤ難民は旧日本軍が当時、上海北部の日本人居留区に「無国籍難民隔離区」を置いて保護した経緯があるが、中国側はこうした事情をほぼ封印し、「抗日戦争勝利70周年」の一環として、中国がユダヤ人保護に貢献したかのように国際社会にアピールする考えだ。
 今回の申請作業を進めているのは、戦時中は摩西会堂(ユダヤ教会)と呼ばれ、現在は上海市虹口区当局が管轄している「上海ユダヤ難民記念館」。記念館が集めた難民の名簿や遺留品、旧日本軍が管理した隔離区(通称・ユダヤ難民ゲットー)に関する資料、難民から聞き取った証言などをまとめ、中国政府とともに登録を働きかけている。
 申請作業と並行し、9月3日に北京で大規模な軍事パレードなど一連の抗日戦勝利70周年記念イベントを行うのに合わせ、記念館や「リトルウィーン」と呼ばれたユダヤ難民の住居やダンスホール、カフェなどが立ち並ぶ、当時としては自由を謳歌(おうか)したエリアの建築物改修を終える予定だ。
 戦前の上海では、アヘン戦争(1840~42年)を経て英国などが設置した租界や、1937年の日中戦争の後にできた日本人居留区への上陸には必ずしも正式な書類は必要なかった。
 元駐リトアニア領事代理の杉原千畝(ちうね)氏が人道的な見地から発給し続けた「命のビザ」を手に、日本を経由して、当時は世界でも限られた難民受け入れ地だった上海に向かったユダヤ難民も少なくなかった。
 42年、ナチス・ドイツが日本に「最終解決」と称してユダヤ難民の殺戮(さつりく)を迫ったが、旧日本軍はこれを拒否。43年に「無国籍難民隔離区」を置き、許可なく域外に出られない制限を加えてナチス・ドイツに説明する一方、ユダヤ人の生命を守った歴史がある。
 日本がユダヤ難民を保護した理由として、上海社会科学院歴史研究センターの王健副所長は、「旧日本軍がユダヤ難民を当時の満州などに移住させて利用しようとした『河豚(ふぐ)計画』が背景にある」とみている。
 中国は昨年6月、「南京事件」と「慰安婦」を世界記憶遺産に登録申請し、日本政府が反発している。」
   ・   ・   ・   
 KAKEN
 1943年の「上海ゲットー」設置後における、ユダヤ避難民の状況の変化・比較研究
 研究代表者
 関根 真保 立命館大学, 衣笠総合研究機構, プロジェクト研究員 (20708698)
 研究期間 (年度)
 2018-04-01 – 2021-03-31
 キーワード
 東洋史 / 中国近現代史 / ユダヤ離散史 / 日本植民地史 / 上海外国人史
 研究実績の概要
 「上海ゲットー」とは日本軍によって、1943年から終戦まで設置されていたユダヤ人の居住区であったが、この時期のユダヤ人の生活状況を考察することが本研究の主要テーマであり、それこそが、日本のユダヤ人政策の本質を問うことにもなる。
 最初に、上海ユダヤ人の戦後の生活、彼らの海外移住への経緯に焦点を絞り、「上海ゲットー」からの解放後の状況の変化を追った。これに関しては、昨年度の史料収集、資料分析を通じて、今年度は論文執筆からその刊行に至った。論文は2019年7月刊行の『アジア遊学236 上海の戦後』(勉誠出版)に掲載された。
 次に必要なのは「上海ゲットー」設置以前、つまりユダヤ人がまだ制限を受ける前の1939年から1942年の状況に目を向けることである。今年度は、彼らが比較的自由を享受できた時代の音楽、芝居、メディアなどの文化活動を分析してきた。昨年度に上海出張で得た資料を丹念に追うことで、新たな事実も明らかになってきた。困難な「上海ゲットー」期と比較するうえで、重要なアプローチであった。
 最後に、「上海ゲットー」期に一変したユダヤ人の生活状況を分析することで、本テーマは完成に至る。この時期に関して、もちろん本年度も史料収集、分析を少しずつ行っている。とくに本年度はドイツの「国立文書館 Budesarchiv」で史料収集を行い、さらにはベルリンにおいてフィールドワークを行ったことで、上海移住以前のユダヤ人の動向、および反ユダヤ主義に関する様々な知見を得ることができた。
 現在までの達成度 (区分)
 3: やや遅れている
 理由
 本研究課題は「上海ゲットー」以前、「上海ゲットー」期、戦後の三期に分けて進められている。「『上海ゲットー』以前」と「戦後」は問題なく研究を進めてきたので、ここまでは順調といえる。ただし「上海ゲットー」期の分析が史料調査も含めてまだ思うように進展していない。
 現下の状況では海外出張が難しく、本来予定していた上海でのフィールドワーク、資料収集が実現できなかったことも大きい。さらには東京の国会図書館で数日間の資料収集を予定していたが、これも自粛した。
 今後の研究の推進方策
 最後に残っている課題は「上海ゲットー」設置期の上海ユダヤ人の歴史研究である。そのための資料収集として、ニューヨークの「ユダヤ歴史研究センター The center of Jewish history」と、ワシントンの「国立公文書館 National Archives and Records Administration」に行く予定にしているが、これもコロナウィルスの状況に左右されるだろう。
資料収集が順調に進めば、史料分析をしたのち、本科研課題を総括した論文を執筆予定である。論文は2021年2月頃に刊行予定である、神戸・ユダヤ文化研究会の機関誌『ナマール(港)』25号に掲載予定にしている。
   ・   ・   ・   
シオンとの架け橋
 バラガン・コラム-イスラエルあれこれ (他の記事一覧はこちら)
 上海でユダヤ人を救ったのは日本か?中国か?2018.10.28
 10月22日から4日間、中国の王岐山国家副主席がイスラエルを訪問しました。ネタニヤフ首相やリブリン大統領などと2国間の更なる貿易・投資の拡大や経済協力について話し合ったようです。またヤッド・バシェム(ホロコースト記念館)や嘆きの壁などを訪問し、文化交流も行ったようですが、こんなツイートがアジア担当のイスラエル人外交官によってされており、少し気になりました。
 {イスラエル大統領ルーベン・リブリンと中国副主席王岐山エルサレムで会談。両国に共通する古代文明や、ハルビンや上海でホロコースト時にユダヤ人が保護されていた事、そして今後のイノベーション協力についての明るい展望を話し合った。}
 というツイートで、イスラエル政府や外務省の公式アカウントがリツイートしています。このツイートを見て、何とも言えない気持ちになりました。大戦中、上海に寄留していたユダヤ人たちが助かったのは紛れもない事実なのですが、その上海は当時日本軍の占領下にあったからです。
 上海ゲットーで「救われた」ユダヤ人の命
 1930年代のドイツはナチスによる独裁政権、そしてホロコーストへの道を歩み始めていました。そしてイギリスやアメリカなどユダヤ人に同情的だった大国もユダヤ人受け入れの制限を行っていたため、ヨーロッパのユダヤ難民にとっては逃げ場のない状態でした。そんななか上海は「世界で唯一の無査証都市」だったこともあり、1933年から41年までの8年間で約3万人のユダヤ難民がヨーロッパから上海にやって来、そのうちの数千人は上海を経由して第三国に逃げる事ができたのですが、多くは上海に大戦終結まで留まったと言われています。その中には、杉原千畝の命のビザによって難を逃れたポーランドユダヤ人約1000人もいました。杉原ビザを受け取った数千人は敦賀から日本に入り神戸に落ち着き、日本滞在中にアメリカやカナダ、中南米イスラエルへの移住ビザの手配に奔走したのです。無事ビザを取得できたユダヤ人たちは第三国に向かうことが出来たのですが、ビザを得られなかった人たちは上海のユダヤ人地区に送られる事となったのです。
 当初はアメリカのユダヤ人団体や、19世紀から上海に移住した豊かなイラクユダヤ人コミュニティーなどの援助などもあり、ヨーロッパからの難民たちはコミュニティーに参画し上海のユダヤ人社会は繁栄していました。しかし41年12月に日本がアメリカ・イギリスと開戦すると、上海のユダヤ人たちは危険な立場に立たされることになります。アメリカのユダヤ人団体は敵国である上海への支援ができなくなり、バグダッドユダヤ人は英国籍を所持していたため抑留されこちらも援助ができなくなったからです。
 そんななかユダヤ人に対して理解を示していた派が日本軍内でも勢力を失い、日本は占領地に居るユダヤ人に対し強硬策を取り始めました。そしてまさにこの時、ワルシャワユダヤ人虐殺を主導し「ワルシャワの殺人鬼」とも呼ばれたヨーゼフ・マイジンガーがゲシュタポの駐日本主席として日本に赴任したのです。
 マイジンガーはドイツと同盟を結んでいるにもかかわらずユダヤ人排除に協力しない日本に対し、「上海ユダヤ人問題の最終的解決」を提出しました。その計画によると42年9月にあるロシュ・ハシャナ(ユダヤ歴の新年)でユダヤ人たちが集まる機会に乗じてユダヤ人を捕獲し、その後の計画については3つの選択肢が用意されていました。
 1.船にユダヤ人を乗せ東シナ海沖まで運び、撃沈または漂流し餓死させる。
 2.鉱山で強制労働を課し、過労死させる。
 3.収容所に収監し人体実験を行いゆっくりと死なせる。
 こんなナチスドイツからの圧力を受け上海を支配する日本軍司令部は、ユダヤ人コミュニティーのリーダーと面会し「なぜドイツ人たちにそこまで嫌われているのか」という質問をしました。するとハシディズム(敬虔主義)のラビ、シムオン・ショロム・カリシュがこう答えました―
 {「ユダヤ人の起源はアジアにあり、ナチスはアジア人を嫌っているからです。」}
そしてラビはそれを証明するかのように、ナチス軍司令官が日本人女性と結婚した事を非難するドイツ紙の社説を見せたと言われています。
 最終的に日本はナチスドイツの要求を拒否し、上海において「ホロコースト」が起こる事はなかったのですが、「上海ゲットー」の名で知られる無国籍難民隔離区を設置しユダヤ難民を移住させました。この決定は日本軍上層部のナチスへの配慮からだと考えられています。
 確かに生活環境は良くなかったのですが、同地区には地元の中国人や日本人が住むなどユダヤ人を隔離するヨーロッパのゲットーとは違い、壁や柵で囲まれる事もありませんでした。また43年の冬にはアメリカ政府の許可により上海への送金が行われたことにより生活環境も格段に向上し、多くのユダヤ人難民が大戦終結まで生き延びることが出来たのです。
 この上海で生き残ったユダヤ人の中には、ベラルーシユダヤ教神学校「ミール・イェシバ」の生徒数百人も含まれています。杉原ビザにより救われたこのイェシバは現在「ヨーロッパで唯一ホロコーストを生き延びたイェシバ」として、エルサレムで最も大きなイェシバになっています。また超正統派の一家に育った筆者の妻に聞いたところ、超正統派の世界では「ミールで学んだ」というだけでその男性は縁談に困らないとか…
それほどの「名門校」が、日本人や日本軍によってホロコーストを免れたというのは面白い歴史です。
 さて現在上海市内には「上海ユダヤ難民記念館」が建てられ、もともとは杉原千畝の写真があったようなのですが今はそれも無くなり、「日本がユダヤ難民に苦痛を与えた」というネガティブな面ばかりにスポットライトが当たり、まるで中国がユダヤ人保護に貢献したかのような展示内容になっているようです。最初に紹介した会談でも副主席がリブリン大統領に対し「日本軍のもとユダヤ人が生き延びた」という事実を話したとは、あまり考えられません。そして中国は今後もこの「歪んだ上海ゲットー像」をイスラエルや国際社会にアピールしていく事が予想されます。日本がアジア各国に対して残虐な行為を起こったことは事実でもちろん反省すべきですが、そんな日本軍によってユダヤ人が生き延びることが出来たのも事実です。
 上海でユダヤ人を救ったのは誰か― 日本は正確な情報をイスラエル、そして国際社会に発信すべきかも知れません。
   ・   ・   ・   
 アメリカ、イギリス、ソ連・国際共産主義勢力などの連合国、バチカンローマ教皇、国際赤十字社などは、ナチス・ドイツの迫害、虐殺されているユダヤ人を見捨てた。
 世界は、ユダヤ人からホロコースト情報を得ていたが助けなかったどころか非難も抗議もしなかった。
   ・   ・   ・   
 軍国日本は、戦場で人殺しの戦争犯罪を行ったが、同時に戦争で人助けの人道貢献もした。
   ・   ・   ・   
 日本陸軍は、ナチス・ドイツが上海ゲットーで行おうとしたホロコーストを阻止しユダヤ人難民達を助けた。
   ・   ・   ・   
 日本軍将兵にも、いい軍人もいれば悪い軍人もいた。
   ・   ・   ・   
 ポーランドユダヤ人難民を助けたのは、昭和天皇東条英機松岡洋右松井石根A級戦犯、そして日本軍部・日本陸軍であった。
 戦死した日本軍将兵の3分の1は戦闘死であったが、残りの3分の2は傷病死や餓死であった。
 上海ゲットーでは、食糧や物資が欠乏して苦しかったが餓死者はいなかった。
   ・   ・   ・   
 A級戦犯が神として祀られている靖国神社を否定する日本人や、昭和天皇戦争犯罪者と決めつけ昭和天皇の戦争責任や戦争犯罪を告発する日本人には、人類史的人道貢献・上海ゲットーを語る資格はない。
 A級戦犯が有罪判決を受け処刑された罪状は、平和に対する罪であって人道に対する罪ではない。
 東京裁判は、人道に対する罪より平和に対する罪を上位に置き、個人として人道貢献をしていても公人として戦争を始めた事が重大犯罪とされた。
 靖国神社批判を続ける現代日本人は、歴史好きから歴史事実を余す事なく知りながら、昭和天皇A級戦犯達が行った自己犠牲の人道貢献を否定し歴史の闇に葬っている。
 処刑されたA級戦犯の多くは親ユダヤ派としてユダヤ人難民保護に関与していた。
   ・   ・   ・   
 日本陸軍は、食糧や医薬品などの貴重な補給物資を1,000万人以上の飢餓被災者がいる河南省に運び、ファシスト中国軍(中国国民党軍)や中国共産党軍の抗日軍と激しい戦闘を続けていた。
   ・   ・   ・   
 中国共産党ファシスト中国(中国国民党)は、ユダヤ人難民の保護には一切関係していない。
 傀儡(偽)南京国民政府は、日本陸軍ユダヤ人難民保護に協力していた。
 汪兆銘親日派知日派は、軍国日本の人類史的人道貢献に関与していた。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア 
 上海ゲットー(英語:Shanghai Ghetto)は、第二次世界大戦中に日本軍勢力下にあった上海の北東部虹口のおよそ一平方マイルの地区にあったヨーロッパ・ユダヤ人が居住していた地区を指す。
 当時ナチス政権下のドイツ支配下にあったヨーロッパ地域から多数のユダヤ人が上海へ逃れてきており、彼らは1943年2月18日に日本軍が発した布告により同地域に居住および活動を制限され、以降1945年8月の終戦までここに留まっていた。正式には「無国籍難民限定地区」である。上海ゲットーは無祖国難民の限定地区として機能し、20,000人のユダヤ人難民と100,000人の中国人が定住し、貧しい難民が難を逃れ上海に移住するために押し寄せていた。
 現地のユダヤ人家族とアメリカ系ユダヤ人の慈善団体は彼らを保護し、食事と衣服を与えた。しかし日独と英米が開戦すると、ドイツの圧力で日本の当局は次第にいろいろな制限を強めていき、生活環境は劣悪になっていったが日本政府はゲットーを守り、封鎖されることは無かった。
 訪れたドイツ系ユダヤ
 チケットを購入した難民はイタリアのジェノヴァから出航するイタリアと日本の客船で旅についた。この3週間の旅は迫害されるドイツとむさくるしい上海ゲットーとの間にあって非現実的なほど娯楽も食事もふんだんにある旅であったと書かれている。いくらかの旅客はエジプトでイギリス領パレスチナに行くことを望み、予定外の行動を試みるものもいた。
 1938年8月15日、最初のユダヤ人難民がオーストリアからイタリアの船で上海にたどり着いた。1939年の6月には8,200人ものユダヤ人難民がゲットーに到着していた。
 ハラス・カドーリエの設立した欧州ユダヤ人移民援助協会、ヴィクトリア・サッスーン、パウル・コモルの三者は新たに欧州移民国際協会を設置して、多くの援助を供給した。この組織は国際共同租界やフランス租界に比べ比較的安い虹口の避難所に準備された。かれらはみすぼらしいアパートや学校の前の6つの学校に収容された。上海を占領していた日本の占領当局はドイツ系ユダヤ人を「亡国の民」と見て黙認していた。
 多くの難民が1937年以降に訪れた。その数は膨れあがり続け、受け入れが困難になっていった。このため1939年からは移民制限が行われた。しかしながら一部のユダヤ人はマレー作戦とそれに続く真珠湾攻撃が始まる1941年12月まで上海に逃れ続けた[7]。
 ゲットーでの生活
 移民当初から日英米開戦まで
 当局は大規模移民の準備を整えておらず、到着した難民は貧乏な虹口地区で厳しい状況に陥った。10%の家庭が飢餓に近い状態であり、衛生は悪く、雇用は少なかった。写真週報では、ゲットーを「上海のパレスチナ」と表現している。
 バグダッド系とアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会は家を借り、食べ物を供給するいくらかの援助を行った。ユダヤ人難民達は言葉の壁、極端な貧困、蔓延する病気、孤立、等に面していた。しかし、コミュニティーが設立した福祉機関によって徐々に生活の質を変えていった。ユダヤ人の文化生活は繁栄した。学校が設立され、新聞が発行され、劇場での劇の上演、スポーツチームはトレーニングに参加し、競技会とキャバレーさえあったという。このような生活は1941年12月の日英米間の開戦まで続いた。
 日英米開戦以降
 日本がマレー作戦と真珠湾攻撃を行って英米間と開戦して以後、英国民が多かったバグダッドユダヤ人グループは抑留され米国慈善基金は中止された。大きな資金源であったイギリスやアメリカとの関係が途切れた事から、雇用の悪化とインフレが起こり、再び難民に厳しい時代が訪れた。
 上海に訪れたアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会の連絡係ラウラ・マーゴリスは日本の当局の許可を得て資金集めの取組みを続け、状況を安定させるように試みた。これを受け、1937年以前に訪れたロシア系ユダヤ人へも支援を行えるようになり、新しい制限も免除された。
 ドイツの圧力
 1941年に日独英米の間で開戦すると、ドイツは日本に対して上海のユダヤ人を引き渡すよう圧力をかけはじめた。ウォーレン・コザックはゲットーのユダヤ人指導者が日本の上海市軍政府に呼びつけられたときのエピソードを記している。その中にはアムシノフ派のラビ、シモン・シャローム・カリシュがいたのだが、日本は彼に好奇心からこうたずねた。「どうしてそこまでドイツ人はあなたたちを嫌うのだ」。
 {カリシュ師はためらうことなく、また同胞の運命が自らの答えにかかっていることも知らず、通訳に〔イディッシュ語で〕こう言った。"Zugim weil mir senen orientalim(ドイツ人は我々が東洋人であることを憎んでいるのだといってくれ。)"。カリシュ師と対面したときから硬い表情であった知事の頬がゆるんだ。軍事同盟が結ばれていたにもかかわらず、結局ドイツの要求に日本が応ずることはなく、ユダヤ人が引き渡されることもなかった}
 そこに出席したほかのラビによると、カリシュ師の答えは「彼らは黒髪で背が低い人間を憎んでいるのだ」であったという。『東洋人』にあたる言葉は、当時のイディッシュ語ヘブライ語には存在しない言葉であり、現代ヘブライ語における学術的な用語であるため、実際の発言ではないと考えられている。
 制限
 日独防共協定に基づき設けられた駐日ドイツ大使館付警察武官として1941年5月に東京に赴任した「ワルシャワの虐殺者」と呼ばれる親衛隊大佐ヨーゼフ・マイジンガー (Josef Meisinger) は、1942年6月に、ハインリヒ・ヒムラーの命を帯びて上海に赴いた。彼は日本に対し、上海におけるユダヤ難民の「処理」を迫り、以下の3案を提示した。

・黄浦江にある廃船にユダヤ人を詰め込み、東シナ海に流した上、撃沈する
・岩塩鉱で強制労働に従事させる
・長江河口に収容所を建設し、ユダヤ人を収容して生体実験の材料とする

 要するに、彼はヒトラー及びヒムラーユダヤ人大虐殺計画をアジアへ持ち込んだのである。この案は安江を経由して松岡洋右外相に伝えられたが、日本政府はこのような提案に従おうとしなかった。結局マイジンガーの計画は、いわゆる「上海ゲットー」を形成するのみに留まった。上海のユダヤ人は特定の地区に居住することを強いられ、そこから出ることを禁じられた。
 1942年11月15日にドイツの圧力を受け、ゲットーの制限案が承認された。また1943年2月18日、日本の当局は「無国籍難民指定区域」を宣言し、1937年以降に訪れた難民に居住可能範囲と営利事業の可能な範囲を一平方マイルに制限することを命令し、5月15日までにその区域に移住するように命令した。無国籍難民は財産を処分するために日本の許可を必要とし、他のものもゲットーに移住する許可を必要とした。それまでゲットーには有刺鉄線も外壁も無かったが、これ以降は外出禁止令が敢行され、地域は警邏されたうえ、食料は配給制になり、区域からの出入りにはパスが必要になった。
 デビッド・カンツラー(David Kranzler)博士によれば、
 {このため、おおよそ人口の半分、16000人の難民が大きな難関に差し掛かった。暮らしの手段を見つけ、もう一度「指定区域」外での住居や職から去らねばならず、10万人の中国人と、8000人の避難民であふれる一平方マイルに満たない狭い地域に再移住しなければならなかった。}
 とある。
 ゲットーの外での働くために一時通行券が支給され、適宜許可された。一時通行券は初年以降大幅に削減された。しかし、中国人が虹口のゲットーを去らなかったということは、ゲットーは隔離されていなかったことを示している。にもかかわらず、経済的には困窮した。心理的ゲットー化の調節は厳しかった。1943年の冬には特に深刻で、飢えが蔓延したが、ユダヤ人の命は守られた。
 連合国軍による上海空襲は1944年暮れから始まった。最も徹底的な空襲は1945年7月に日本の虹口ラジオ局に対して行われたものであり、31人の難民が死亡し、500名のけが人、700名もの放浪者を出した。
 ゲットーのアメリカ系やイギリス系のユダヤ人の中には、日本軍に対する抵抗活動を始めるものもいた。彼らは地下組織のネットワークに参加し情報を手に入れ、伝え合った。日本の施設でのサボタージュを行い、撃墜されたアメリカ軍のパイロットを中華民国の支配地域に逃げさせることを手伝った。
 その後
 ゲットーは公式には日本降伏の翌日の1945年9月3日に「解放」された。そのしばらく後、中華民国軍が上海解放のために進駐し、またアメリカに去る者がいた。1948年のイスラエル国家の建設によりユダヤ人が上海から去った。
 さらに1949年の中華民国の国民党の敗退と、共産主義国中華人民共和国建国によって、共産主義を嫌ったユダヤ人はほとんどが上海から去った。1957年には上海に残ったユダヤ人は100名しかおらず、現在では数名住んでいるかいないかである。イスラエル政府は諸国民の中の正義の人の栄誉を1985年に杉原千畝に、2001年に何鳳山に与えた。
 1992年にイスラエル中華人民共和国に国交が結ばれると、ユダヤ人と上海のかかわりがいろいろ再認識されるようになった。イスラエル最大の持ち株会社イスラエル・コーポレーションの創設者でかつて上海に逃れた難民だったシャウル・アイゼンバーグ(英語版)はイスラエル中華人民共和国の貿易関係を築く先駆者となった。
 2007年、イスラエルの上海総領事館は、26のイスラエルの会社から寄付された66万人民元を、虹口の地域共同体計画に対して寄付した。ゲットーを設け難民を受け入れたことに感謝して寄付されたと認識されている。
   ・   ・   ・