🎑16)17)19)─1──能。〜No.32No.33No.34No.35No.36No.37 ⑤

こんなに面白かった! 「ニッポンの伝統芸能」 (PHP文庫)

こんなに面白かった! 「ニッポンの伝統芸能」 (PHP文庫)

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 能は、身分卑しい地方の下層民の野卑な踊りであった。
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 2015年7月号 月刊文藝春秋「文字に美はありや 伊集院静
 第19回 秘伝の書、後継の書
 日本人が歴史で呼ぶ〝中世〟という時代はまことにユニークな時間の流れを持っている。特に中世前期は興味を引く。安土、桃山へ至る応仁の乱以降の乱世の期間は統治者の貌(かお)も転々としたが、日本の歴史の中で、日本人が発想しえなかった芸術の貌が誕生し、短期間のうちに成熟し、今日までそのかたち、風貌、精神を継承している。しかもその存在は光を失っていない。あの田舎侍たちが、日本という箱をガラガラポンと振り回した明治維新の荒波でさえ毅然と生き残った。欧州化がさも理想と声を大にせよとした折、岡倉天心は世界にこの日本という国と人々の、感性を主張する象徴に持ち出したほどだ。
 〝お茶の湯〟〝能〟と、である。
 人で言えば〝千利休〟と〝世阿弥〟である。
 以前、この連載で、文字(ここでは漢字であるが)について白川静博士もおっしゃっているが、人間にとって必要不可欠なものは長い歴史の時間で完成するのではなく、或る時期、少人数の才能ある人の創造力、推進力を持って脅威的な速度で完成をする」
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 世阿弥の本名は、秦元清という。
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 1370年頃 日本芸能の一つである「能」は、「猿楽」或いは「申楽」と呼ばれ、平安時代頃に大和国で自然発生的に生まれた。
 猿楽師や申楽師は、最下層の河原乞食・非人・ヘタ・賎民と馬鹿にされ、その舞いは教養の欠片もない野卑で下品な乞食の所作と軽蔑されていた。
 大和猿楽師・観阿弥の子である世阿弥(実名・元清)は、舞が芸能に対する鑑賞眼のある足利義満に気に入られて庇護を受け、足利義満からの舞に対する高度な要求に応えるべく精進を重ねた。
 能舞は、公家の二条良基らからも贔屓にされた分、更なる厳しい要求に応えるべく優雅さに磨きをかけていった。
 江戸時代には武士の嗜みとされ、将軍や大名に能舞を教える能役者は武士の身分を与えられた。
 能役者は、第一人者として驕り、玄人肌的に能楽への鑑賞眼のある将軍や大名の前で手を抜いたいい加減な舞をすると咎め受け、身分やを剥奪され資産を没収されて追放されるか、最悪、切腹を命じられた。
 世に認められ名声をえ地位を上げた日本芸能は、武士の身分を得ると引き換えに死と隣り合わせの「覚悟」が強要された。
 演者の能舞に対する「死」の覚悟が、世界遺産をもたらした。
 真剣勝負の能楽は、日本独自の芸能であって、中国や朝鮮の身分低い卑しい芸事とは一切関係ない。
 日本の身分制度は、未来永劫変わる事なくその家族に押された烙印ではなく、流動的に変わりうるものであった。
 日本芸能の半数が、差別されていた下層民達が生活の為に金を稼ぐ手段として生まれた。
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 観世清和(26世観世宗家)「現在まで継承されている伝統的な稽古法を、まずは重んじるべきと考えます。なかでも『工夫する』ことをとりわけ重く受け止めていて、稽古中は『もっと工夫しなければ駄目だ』という言葉をよく使います。
 能では型や様式美、規範を重んじますのは、どんな工夫もその枠をはみ出してはいけない。なぜ型や規範が大事なのかといえば、逆説的な表現ですが、舞台の内容にはお客様がよりリアリティーを感じてもらうためなのです。無駄を削ぎ落とした方が、実はお客様の想像力を刺激する。
 静止していれば良いかというと、そうでもない。ある名人がこう話しました。『三間四方の能舞台で、いかに動かずに深いリアリティーを現出させるか』と。実現できればスゴい事ですが、面白くないですよ。
 あくまで規範の中でこそ自由さは許容される。『本番当日、舞台の上での即興はあるのか』と問われたら、『規範の中でなら、あり』それもなのです。
 ……
 観阿弥世阿弥がやっていた能の形をまったく変えずに踏襲し続けている訳ではありません。時代も人も常に変化している以上、芸術も変わらなければ嘘ですよ。私どもは現代人ですし、コピーマシンのように先祖と同じ事をやれるかといえば、それは無理です。
 ……」
 能には亡者を供養し鎮魂するという意味合いを持つ一面があります。能の作品には、老若男女、有名無名問わず、無念の死を遂げた人々を題材としたものが多いのです。『亡者達が生きていた時間のうちの一瞬でもよいから輝きを、舞台上で命の花を咲かせてやりたい』と人の心に寄り添う世阿弥の優しさを、演じていて感じます。能の数々の型や謡(うたい)の中の詞章(ししょう)は、世阿弥の優しい心が宿っているかあこそ美しいのだと思うのです。世阿弥の作品はこれ以上ないというほどの美文で綴られており、特に『松風』や『井筒』は、世阿弥の文章力が存分に発揮されている。これは文学史上の奇跡です。また『初心忘るべからず』や『秘すれば花』『離見の見』などの名文句が時代を超えて現代にまで受け継がれています。それは、能が日本人にとって心の原点であり、共感できる部分が多いからではないでしょうか。
 ……
 いまのような能の形になったのは、もう少し後の時代で、徳川幕府の式楽(国家指定芸能)に指定されてから能の洗練度を増しました。室町時代の文芸のエネルギッシュさが、徳川時代に失われたのではないかという通説がありかすが、まったく違います。能楽師達のエネルギーは式楽になってからまったく失われませんでした。それどころか、幕府お抱えの立場になり、今度はいかに洗練度を増すかという事に工夫を重ね、日夜力を傾注していたと思います。……涙ぐましい工夫を重ねてきた事がよく分かります。おうやって能楽の爛熟期を迎えたのが江戸時代だと、私は捉えています。
 ……
 江戸城の西の丸にあった能舞台で、将軍や諸大名の御前で演ずるのですから、やりにくかったでしょう。例えば『井筒』を舞うにしても、将軍や大名は、『井筒』の謡は諳んずる事が出来たと思います。そんな状況で家元クラスが演じて、間違えようものなら切腹ですよ。なかには自ら能を舞う将軍もいらして、……
 美しい型には、自然と美しい心が宿るのです」
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 観世清和(26世観世宗家)「再開の日を心待ちに……能楽において、私もまた、観阿弥世阿弥以来の、700年近い伝統を受け継いで行く使命を担っています。あるいは、歴史によって鍛えられた揺るぎない『型』をもつものの継承は、容易と思うかもしれません。しかし決してそうではないのです。ある碩学は著書に『伝統が形式として与えられた時、すでにそれは伝統ではない。伝統は追体験によって個に内在するものとなって初めて伝統になる』という趣旨の事を記されました。まさにそうだと膝を打った覚えがあります。
 確かに私どもの稽古は、型を繰り返す事から始めます。理屈は何もありません。ただ言われた通りに真似る。謡いも師匠の後に付いてオウム返しにするだけです。何度も違うと言われ、駄目だと叱られながら、しかし懸命に真似るのです。するとある時『なるほど、そういう事か』と腑に落ちる瞬間がやってきます。そしてそれは、ただ一回の経験ではありません。20年、30年と稽古や舞台を重ねてなお新たな気付きが沢山あります。私自身、あるとき父が言いたかったのはこの事だったかと、今になって改めて知る事が少なくありません。
 おそらく『伝統を受け継ぐ』という事は、与えられた型に対する敬意を持ち、それを懸命に真似る中で、何故そうなのかという意味を自分なりに見付けて行く、その努力にあるのだと思います。ただ上辺の型を繰り返すだけであったら、それはやがて形骸となって、命を失ってしまうでしょう。
 ホテルオークラのロビーに一歩足を踏み入れれば、そこには何時も変わらぬ気遣いともてなしがあるという事の背後に、どれだけの努力と訓練があるのか、しかもその努力の跡も見せないプロフェッショナルの心意気、私は心から敬意を表したいと思います。
 幸いホテルオークラからお誘いを頂き、半世紀の歴史を歩いてきた本館にお別れをする数々の記念事業の『最終章』として、『平安の間』を会場に『観世宗家特別公演』を二日間にわたって勤めさせて頂きました。
 ご存じのように、能楽の出自は神仏に奉納する舞です。地を鎮め、人の心を慰め、神仏の加護と世の平安を祈る役割を担っていました。もしも私どもの演能が、多くの人々と共に敬愛するホテルオークラ半世紀の歩みを未来へとつなぐ区切りの祝宴となったとすれば、これに勝る幸いはありません」
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 キリスト教世界の演劇における主要なテーマは、逃れられない「原罪意識」であった。
 日本の能楽、歌舞伎、文楽などの伝統芸能における主要な題材は、「そのままでいい」「あるがべきよう」にであった。
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 『栂尾(とがのお)明恵上人遺訓』「人は阿留辺幾夜宇和と云う七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり」
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 澤田瞳子「歌や説話、更には数々の史実までを糧に紡ぎだされた能楽は、いわば古代から室町期に至る文化の結晶。それだけにストーリーを重んじる近代の文学は、高い物語性を有する能楽の前には、まさに手も足も出ないのに違いない」
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 真山和幸「(初心忘れるべからず、とは)これは世阿弥の書『花鏡』に記された言葉ですが、世阿弥のいう『初心』とは初々しさではなく、『芸の未熟だったころ』のこと。世阿弥は決して初心をいい意味に捉えていない。むしろ過去の自分の未熟さを心に刻むべきだと説いているのです」
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新版 日本の伝統芸能はおもしろい 観世清和と能を観よう

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新版 日本の伝統芸能はおもしろい 野村萬斎と狂言を観よう

新版 日本の伝統芸能はおもしろい 野村萬斎と狂言を観よう

🎑13)─1─日本雅楽。〜No.26No.27 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 五木寛之「仏教の基本は、語りと歌である。説法によって生きる智恵を伝え、歌によって人生の苦を和らげる。日本の芸能の原点は、寺の説法にはじまる。笑わせ、泣かせ、感動させる語りの中から大衆芸能は生まれた。音楽は声明(しょうみょう)に、そして歌は和讃(わさん)となってこの国の歌謡をかたちづくる。『正信偈(しょうしんげ)』の『偈』とは、歌うことだ」
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 小林秀雄「伝統は、これを日に新たに救ひださなければ、ないものなのである。それは努力を要する仕事なのであり、従って、危険や失敗を常に伴った。これからも常にそうだろう。少なくとも、伝統を、さういうものとして考へている人が、伝統について、本当に考へている人なのである」
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 雅楽の源流は、大陸にあった。
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 2017年8月 SAPIO「書闘倶楽部 平安の装束の向こうにアジアの風土を感じる
 『美しき雅楽装束の世界』遠藤徹著/青木信二撮影
 本書は、宮内庁式部職楽部が行った雅楽の著名な演目の舞台で着用された装束を撮影した写真集で、演目ごとに曲目と装束についての解説が付く。写真の一枚一枚が美しく、かつ興味深い。
 本書によれば、雅楽は舞を伴う『国風歌舞(くにぶりのうたまい)』や『舞楽』、器楽合奏の『管絃』、歌謡の『催馬楽(さいばら)』、『朗詠』などからなる。
 このうち、日本古来の歌舞を源流とする『国風歌舞』は宮中祭祀や神社祭祀で舞われるもので、その装束は単色系で、簡素で控えめな美を感じさせる。一般の人が抱く雅楽のイメージはこちらではないか。
 非公開が多い『国風歌舞』に代わって、本書が主に取り上げるのは、5世紀から9世紀(古墳時代から平安時代)にかけて中国大陸や朝鮮半島から伝えられた楽舞を源流とする『舞楽』だ。
 その『舞楽』は中国大陸系の『左方』と朝鮮半島系の『右方』に分けられる。『左方』の中心は唐代中国で花開いた楽舞だが、そこには中国の伝統的な楽舞だけでなく、シルクロード沿いの西アジアや、インド、ベトナムから伝来した楽舞も含まれている。一方、朝鮮半島系の『右方』には高句麗百済新羅だけでなく、中国東北部から朝鮮半島北部に興隆した渤海の楽舞も含まれているという。
 つまり、雅楽というのは一般の思い込みとは逆に、実に国際色豊かなものであることがわかるのだ。これには驚くが、本書に収められた写真を見ていると、中国の京劇を思わせる装束を初め、アジア各地で見られる極彩色の文様が数多くある。
 平安時代に確立した雅楽の装束の向こうに、アジアの風土を感じることができる」
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 日本雅楽
 雅楽の歴史
 雅楽は1200年以上の歴史を持ち、日本の古典音楽として、また世界の古典音楽として外国でも非常に高く評価されてきています。
 雅楽は、日本古来の儀式音楽や舞踊などと、仏教伝来の飛鳥時代から平安時代初めにかけての400年間あまりの間に、中国大陸や朝鮮半島から伝えられた音楽や舞、そして平安時代に日本独自の様式に整えられた音楽などです。
 奈良時代平安時代から、雅楽の演奏は宮廷は勿論、寺院や神社において盛んに演奏されました。そして1000年以上、京都・奈良・大阪の専門の演奏家によって伝承され続けました。明治時代に宮内庁式部職楽部が創設され雅楽を伝承しています。最近は、民間の雅楽の演奏団体も増えてきています。
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 ウィキペディア
 雅楽は、日本の古典音楽の一つ。以下、宮内庁式部職楽部に伝わる日本の雅楽重要無形文化財ユネスコ無形文化遺産→2007年)を中心に述べる。(ベトナムについては「ベトナム雅楽」を参照)日本の歴史に大きな影響をもたらした。現在、神社などのコマーシャルなどに引用されることが多い。
 概説
 アジア大陸の諸国からもたらされた音楽や舞に、上代以前から伝わる音楽や舞が融合して日本化した芸術。10世紀頃の平安時代に大まかな形態が成立し、今日まで伝承されている。元は、奈良時代にまで遡る。
 歴史
 春日権現験記
 5世紀前後から中国、朝鮮半島など大陸(南アジアについては、736年に大宰府に漂着した林邑(ベトナム)僧から伝えられたとされる舞楽が「林邑楽」と呼ばれ、唐楽に分類される。)から儀式用の音楽や舞踊が伝わるようになった。大宝元年の大宝令によって、これらの音楽とあわせて日本古来の音楽や舞踊を所管する雅楽寮が創設されたのが始まりであるとされる。この頃は唐楽、高麗楽渤海楽、林邑楽(チャンパの音楽)等大陸各国の音楽や楽器を広範に扱っていた。中国の雅楽は儀式に催される音楽であったが、日本の雅楽で中国から伝わったとされる唐楽の様式は、この雅楽とは無関係で、唐の宴会で演奏されていた燕楽という音楽がもとになっているとされる。ベトナム雅楽(nhã nhạc)や韓国に伝わる国楽は中国の雅楽に由来し、日本の雅楽とは異なる。 天平勝宝四年の東大寺大仏開眼法要の際には雅楽や伎楽が壮大に演じられるなど、この頃までは大規模な演奏形態がとられていた。 また、宮中の他に四天王寺東大寺薬師寺興福寺など一部の大きな寺社では雅楽寮に属さない楽師の集団が法要などの儀式で演奏を担っていた。
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 世界大百科事典・日本大百科全書国史大辞典
 改訂新版 世界大百科事典
 雅楽 ががく
 古代以来もっとも長い歴史をもつ東アジアの音楽。中国で成立し,朝鮮,日本,ベトナムなどの王朝国家に伝えられ,主として国家的制度のもとで管理,伝承されてきた。中国の雅楽は,〈雅正の楽〉の意で俗楽に対立し,儒教の礼楽思想に基づいて成立,発展したために狭義には天地宗廟の祭祀楽を意味するが,広義には国家,宮廷の儀式や宴饗の楽も含める。狭義の雅楽は古来の雅楽器を用い,堂上登歌(どうじようとうか),堂下楽懸(どうかがくけん)の2種の楽を奏し,八佾(はちいつ)の舞を舞うという一定の形式を有する。朝鮮,ベトナムには中国から狭義の雅楽も伝わったが,日本に伝来した雅楽は唐朝の宮廷俗楽であって,使用する楽器も異なり,儒教に基づく古制の雅楽ではない。
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 国史大辞典
 雅楽 ががく
 本来は雅正の楽という意味であったが、唐代には俗楽・宴楽に相対して、もっぱら宗廟や孔子廟に用いる祭祀の楽を指していた。しかしわが国では、大宝元年(七〇一)制定された『大宝令』に基づく官庁である雅楽寮において扱う楽舞を雅楽と称した。その中には和楽・三韓新羅百済高句麗)楽・唐楽・度羅楽・林邑楽渤海楽などが含まれていた。天平勝宝四年(七五二)四月に行われた大仏開眼の法会には、これらの各楽舞が雑然と行われた。当時使用された多くの楽器は、聖武天皇遺愛の器とともに東大寺正倉院に納められて今日に保存されているが、これを見ても、当時の雅楽が東アジア各民族の楽舞が混然と行われていたものであることがわかる。ところが平安時代に入り、仁明天皇の承和年間(八三四―四八)嵯峨上皇を中心に、雅楽寮の楽人大戸清上尾張浜主和邇部大田麻呂常世乙魚・林真倉・犬上是成・大戸真縄らに加え、特に音楽に造詣の深い良峯安世(桓武天皇皇子)・源信嵯峨天皇皇子)・藤原諸葛らが相寄り研究の結果、わが国風に適した雅楽に改造された。その主要な改革点は、(一)管絃の合奏を小規模な室内楽形式に改めたこと、(二)従来の楽曲を改作し、かつこれに倣った多くの新曲を作ったこと、(三)演奏形式を管絃(楽器の演奏だけ)と舞楽(舞を伴うもの)とに分けたこと、(四)雅楽曲の全部を左方(唐楽ともいう)・右方(高麗(こま)楽ともいう)の二種に分かち、おのおの独自の楽器とその合奏形式とを定めたことである。以上の改革によってわが雅楽の楽器配合は別表のようになった。舞楽の場合、絃楽器は使用しないが、まれに絃を用いる場合がある。これを「管絃舞楽」と称し、平安時代には行われたが、近代には絶えた。また右方においては、近代はほとんど舞楽のみが行われている。舞楽の場合、普通左方の舞一曲とこれに応ずる右方の舞一つを順に組み合わせて行う。これを番舞(つがいまい)といい、左方の舞に対して組み合わされた右方の舞を答舞(とうぶ)という。この左方右方の舞を以て舞一番とする。古くは一日に舞数番を行なった(『陵王』(左)と『納曾利(なそり)』(右)、『承和楽』(左)と『仁和楽(にんならく)』(右)など)。舞楽を行う前には、はじめに振鉾(えんぶ)という作法が行われ、舞台を清める。わが雅楽の規模は平安時代に至り小規模の室内楽形式に改められたので、宮廷貴紳の人たちにとって好適な娯楽となり、「御遊(ぎょゆう)」または「あそび」と称されて、平安時代中期の藤原氏全盛時代にはすこぶる盛んに行われた。当時流行した催馬楽(さいばら)・朗詠などの歌謡も音楽的に整理され、御遊の中に加えられた。これが近代に至って催馬楽・朗詠が雅楽の一部とされる遠因である。
 元来、雅楽を専業とするのは雅楽寮の楽人たちであったが、平安時代に入ると楽制改革とともに雅楽が宮中の諸行事に盛んに用いられ、近衛や衛府の官人などが最も多く雅楽に関連するようになった。天暦二年(九四八)八月には大内に特に楽所(がくしょ)が設けられて雅楽寮にかわって宮中の楽事を管掌し、雅楽を扱う者を楽人と称した。当時近畿にあって主として雅楽を業とした楽人団に、京都の御所楽人(主として楽所の楽人)、奈良の楽人(南都楽人)、大阪の天王寺楽人の三所の楽人(三方楽人)があった。御所楽人は多(おお)・阿部・豊(ぶん、豊原姓)・山井(やまのい、大神(おおが)姓)、南都楽人は狛(こま)姓の東(ひがし)・辻・奥・窪(くぼ)・上(うえ)および中(なか、大神姓)・芝(藤原姓)、天王寺楽人は秦(はた)姓の薗(その)・林・東儀(とうぎ)・岡の各氏から成る。三所の楽人によって、同一の曲でも多少所伝の異同があった。鎌倉時代に至り、宮廷貴紳の勢力失墜とともに、雅楽は生活から離れて固定化し、単に宮廷の儀式に使用されるのみとなり、室町時代に入ると一層衰微し、ことに応仁の乱以後は、御所楽人はほとんど散佚して滅亡に瀕した。桃山時代に至って豊臣秀吉はその復興を図り、御所楽人の欠を南都および天王寺の楽人を以て補給する策を立てた。それが完成したのは江戸時代に入ってからで、ことに寛永三年(一六二六)九月の三代将軍徳川家光上洛に際しての上演を機に新制度を定め、三方楽人中の主な楽人を集めて一団とし、その本流を京都の御所に(御所楽人)、庶流の一部を江戸城中の紅葉(もみじ)山に置いた(紅葉山楽人)。御所楽人は宮廷の儀式を、紅葉山楽人は江戸幕府の祭祀や日光東照宮の祭祀などを扱った。和歌山藩岡山藩など、藩内に雅楽の楽人を養成するものも現われ、伊勢神宮熱田神宮厳島神社、その他の神社や本願寺などの寺院でも専属の楽人を養成するものが多かった。明治維新後皇居が東京に移されるや、御所楽人の大部分は東京に移り、江戸城中にわずかに残っていた紅葉山楽人も加え、明治三年(一八七〇)に太政官の中に雅楽局を設置した。翌四年これを式部寮に移し、雅楽課と称した。七年から西洋楽(欧州楽)を併せ行い、大正十年(一九二一)宮内省楽部と称し、従来楽人を伶人と称していたのを楽師とした。宮内省は昭和二十二年(一九四七)宮内府、ついで同二十四年宮内庁となり、楽部の組織も極度に縮小し、最小限度の楽人を以て辛うじてその亡滅を防止し得た状態にあった。その後漸次増員し、現在では雅楽は海外文化人たちの賞讃の下に、再び隆盛に赴かんとしつつある。現在宮内庁楽部を中心とした雅楽には、(一)古楽に基づき祭祀および儀式に用いるもの(御神楽(みかぐら)・和舞(やまとまい)・東遊(あずまあそび)・鎮魂歌・田舞・久米歌(舞)・五節舞など)、(二)管絃および舞楽、(三)催馬楽・朗詠の三種の芸能が含まれている。 (田辺 尚雄)
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⛩71)72)─1─男子禁制で女性が行う神事。~No.159No.160No.161No.162 ⑭

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 沖縄で、女性の神事から男子が排除される。
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 産経新聞iRONNA編集部「なんでこうなったニッポンの「男子禁制」社会
3月8日は、女性への差別撤廃と地位向上を訴える「国際女性デー」だそうです。恥ずかしながら、筆者はまったく知りませんでしたが、そういえば日本でも最近、女性優遇だの男子禁制だのという声が一段と大きくなった気がします。男女性差の隔たりはいったいどこまで広がるのでしょうか? 」
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 男子禁制 読み方:だんしきんせい
 男性の立ち入りを禁止すること。男性の存在が風紀や平穏を乱す場合などに指定されることがある。首里城の黄金御殿は王妃らの起居する場所であり、国王を例外として男子禁制だった。男子禁制に対して女性の立ち入りを禁止することは「女人禁制」と呼ばれる。
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 NEWSポストセブン「神事を女性が行う沖縄 男子禁制の霊場も存在する
 今なお日本には、女性もしくは男性に限って立ち入ることのできない聖域がある。兵庫県の舟木石神座、石川県の石仏山奈良県大峯山などは女人禁制がいまだに守られている。
 一方、沖縄の場合は男女の意味づけがまったく逆になる。日本の中で、奄美大島の北、トカラ列島付近に文化的な境界があり、そこから南では神事は女性が行うことが通常の社会で、血の穢れの観念がないどころか、女性が男性より霊的に優位である。
 各地域で神事を行うカミンチュ(神女)やノロ祝女)、個人の願いを聞き届けるシャーマンのユタは大半が女性である。だから、神聖な地には女性のみが立ち入りを許され、女人禁制は存在しない。男子禁制の霊場にはかつては琉球国王であっても入ることはなかったし、国王の姉妹は、聞得大君という国の最高の神女であった。
 久高島で12年に1度行われるイザイホーと呼ばれる神女誕生の儀式と、その舞台であるフボー御嶽は男子禁制。新たな神女のなり手不足の問題から、1978年を最後にイザイホーは途絶えている。
 一方、斎場御嶽(セーファウタキ)は琉球民族の祖霊神アマミキヨが作ったとされる聖地。観光マナーの悪化から、この地を管理する南城市では、かつてのしきたりである男子禁制の復活を検討している。
 【プロフィール】鈴木正崇 (慶應義塾大学名誉教授)すずき・まさたか:1949年東京都生まれ。文学博士。文化人類学者。民俗宗教、祭祀芸能の比較研究、民俗社会を中心とする日本文化論が専門。『女人禁制』(吉川弘文館刊)、『山岳信仰』(中公新書)など著書多数。※SAPIO2016年4月号」
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🕯172)173)─1─中華儒教は神仏を弾圧し日本天皇を滅ぼそうとした。〜No.361No.362No.363No.364 ㉝ 

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 論語・述而(じゅつじ)篇「子(し)は怪(かい)・力(りき)・乱(らん)・神(しん)を語らず」
 (孔子は、怪異、暴力、乱倫、神秘を語らず)
   ・   ・   ・   
 中華の正統派儒教である朱子学を修正せず丸呑みで日本に導入したら、朝鮮同様に日本は根底からひっくり返って崩壊する。
 中華儒教は、天・天帝の正道を説き、徳を持つ者を唯一の天子と認め、地上の絶対支配者・皇帝に即位させた。
 中華儒教は、神仏を破壊し、日本天皇を滅ぼそうとした。
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🎑26)─1─言霊。日本民族はセンチメンタルな「うた」を唱う。〜No.66 

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 言霊には、益荒男の勇ましい言葉より早乙女(さおとめ)の優しい言葉が似合う。
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 日本女性は、大和撫子ではなく早乙女である。
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 現代日本人は、昔の日本民族日本人とは違う別種の日本人で、民族固有の伝統文化を持っていない。
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 五木寛之「よく始めに言葉ありきといわれるけれど、始めにあったのは歌だと思うことがある。最近、万葉学者の中西進さんとも対談させていただいたんだけど、万葉集も、もともと歌なんですよね。みんなメロディーをつけて歌っていたから後世に残った。この国派、歌の国でもあるんです。
 歌と言うば、敗戦後、外地で難民キャンプみたいなところにいたときも、とにかく朝から晩までみんなが歌を歌っていたのを覚えています。それも、マイナー調のセンチメンタルな歌ばかり、でもその歌にはげまされて、がんばりぬいて帰ってこられた。引き揚げ船の中で日本の船員さんたちがいま内地で大ヒットしている曲だといって『リンゴの唄』というのを聞かせてくれたんですが。でも、みんなキョトンとしていた。しらけた感じで盛り上がらなかった記憶がある。
 ……
 ずっとマイナーなセンチメンタルな歌謡曲を歌ってました……。
 ……
 歴史をたどると経済的成長が下り坂にさしかかるころにカルチュアが花開くことが多いでしょう。
 これからは経済的な成長だけではなくて文化的成熟に第一義を踏み出していく。それが令和の時代と思ってるんです。
 ……
 若い人のカルチュア、中年のカルチュア、シニアのカルチュアが和音のように重なっている時代になるといいですね」
   ・   ・   ・   
 日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣息づき、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 日本民族日本人は、森羅万象、自分を取り巻く全ての音に感謝し、そして讃えて唱い舞った。
 それを見える化したのが、日本神道の皇室祭祀、新嘗祭大嘗祭である。
 それを音化したのが、和歌や俳句などの日本独自の短詩である。
 日本の伝統的楽器は、自然の音色を邪魔しないように、殺さないように、寄り添うように発達してきた。
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 大陸のキリスト教や中華儒教そして科学にとって自然とは、滅ぼすか屈服させるか、征服し支配し制御するべき敵であった。
 人類の歴史とは、人間と自然を敵として戦ってきた歴史である。
 人間の宿命として、自然を壊して奪う事でしか豊かな幸せを手にする事ができなかった。
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 西洋では、言語に関係のない楽器が発達し、人種民族、国家、宗教に関係なく受け入れられるクラッシックが生まれた。
 日本では、楽器の音ではなく自然の音が好まれ、自然の音色に合わせて唱った。
 その意味で、日本でカラオケが生まれたのは自然な事であった。
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 ユダヤ人は、信仰とユーモア、笑いでホロコーストを耐えた。
 日本民族日本人は、楽観的な「あきらめ」とセンチメンタルな「唱」で困難・災難に耐えた。
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💍6)─2─女性天皇・女系天皇即位、女系宮家創設の容認論と現代の道鏡事件。~No.24No.25 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本人は、歴史力はなく、歴史が嫌いであり、歴史が理解できない。
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 日本の国会・政治家に道鏡支持派が増え始めている。
 女性天皇女系天皇即位と女系宮家創設の容認論に対する賛成派は、日本共産党などの野党と自民党公明党などの与党の中でも増えている。
 リベラル派・革新派そして一部の保守派にも賛成派が増えている。
 国会内における女性天皇女系天皇即位と女系宮家創設の容認論の、賛成派が多数派に、反対派が少数派になりつつある。
 つまり、現代において、道鏡事件が再発しようとしている。
 天皇・皇室が、伝統文化である宗教的家族制度から伝統文化崩壊による非宗教的政治制度への変貌である。
 それは、日本民族の祖先神・氏神の人神崇拝の消滅を意味し、戦後日本の日本国憲法が目指してきた「神殺し」の完成である。
 現代日本人は、縄文時代から受け継いできた宗教性を捨て、祖先を切り捨てる事である。
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 天皇位・皇室の正統性が特殊な血統・血筋と特別な一系男系の皇統でなくてもよければ、誰が即位しても憲法上・法律的には正当性が認められる。
 現代日本人が欲しい天皇制度は、特殊な血統・血筋と特別な一系男系の皇統による正統性ではなく、憲法・法律に基ずく正当性である。
 正統性とは、最高神である女性神天照大神を源流とする正しい特殊な血統・血筋と特別な一系男系の皇統である。
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 万世一系男系天皇のY遺伝子は、縄文時代の日本人に繋がっている。
 万世一系男系天皇のY遺伝子を遡れば、揚子江流域の長江文明に辿り着く。
 万世一系男系天皇のY遺伝子は、日本民族日本人の中にしか存在しない。
 女性天皇女系天皇即位、女系宮家創設とは、その縄文人日本民族日本人のY遺伝子を消し去る事を意味する。
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  2019年6月4日15:35 産経新聞「自民・加藤総務会長「皇位継承などの議論の場が必要」
 自民党加藤勝信総務会長は4日の記者会見で、安定的な皇位継承策に関する党内議論の場を設け、検討を進める必要があるとの認識を示した。「皇位継承女性宮家創設などの課題が具体的に提示されており、自民党の中でも議論すべきだ」と述べた。
 共産党志位和夫委員長が女性・女系天皇に賛成だと明言したことについては「それぞれの政党の見解に言及するのは控える」と述べるにとどめた。」
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 6月4日18:48 産経新聞「国民民主・玉木氏「愛子さまがつなぐこと考えるべき」 皇位継承
 国民民主党玉木雄一郎代表は2日、高松市で講演し、安定的な皇位継承策をめぐり「男系の女性天皇は認めるべきだ。(天皇陛下の長女)愛子さまが、悠仁さまにつなぐことを考えるべきではないか」と述べた。戦後に皇籍を離れた「旧宮家旧皇族)」の皇族復帰も検討課題に挙げた。
 皇室典範は、皇位継承資格者を「男系男子」に限定している。玉木氏は男系維持を強調した上で「旧宮家」の復帰について「どれだけ現実性があるか考えなければならない」と見解を示した。」
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 6月11日 産経新聞「立民が「女系天皇」容認 国民との違いが浮き彫りに
 (左から)立憲民主党枝野幸男代表、国民民主党玉木雄一郎代表
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 立憲民主党は11日、「安定的な皇位継承を確保するための論点整理」を取りまとめた。皇位継承資格を「女性・女系の皇族」に拡大し、126代に及ぶ男系継承の伝統を改める考えを打ち出した。「女性宮家」創設の必要性も強調した。一方、国民民主党皇位検討委員会」は同日、男系維持に主眼を置いた皇室典範改正案の概要を玉木雄一郎代表に提出。両党間で皇室観の違いが浮き彫りとなった。
 立憲民主党の「論点整理」は伝統的な男系継承について「偶然性に委ねる余地があまりに大きい」と指摘した。また、「現代における男女間の人格の根源的対等性を認める価値観は一過性ではない」などと明記した上で、女系天皇を容認すべきだと訴えた。皇位継承順位に関しては、男女の別を問わず、「長子優先の制度が望ましい」とした。
 男系を維持する手段として旧皇族を皇室に復帰させる案は明確に否定。「今上天皇との共通の祖先は約600年前までさかのぼる遠い血筋だ。国民からの自然な理解と支持、それに基づく敬愛を得ることは難しい」と断じた。
 また、皇族減少に歯止めをかけるため、女性皇族が結婚後、宮家を立てて皇室に残り皇族として活動する女性宮家の創設を訴えた。
 一方、国民民主党女系天皇を「時期尚早」として認めず、改正案も男系を維持する内容だ。ただ、過去に10代8人いた「男系の女性天皇」の皇位継承は認める。きょうだいの中では男子を優先した。
 皇統に関しては、共産党がすでに女性・女系天皇に賛成する立場を明らかにしている。3党は参院選の32ある改選1人区の全てで候補を一本化したが、最重要の皇室をめぐり、「立憲民主党共産党」と「国民民主党」の間で方向性の違いが表面化した。(内藤慎二)」
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 6月13日 産経新聞「「女性宮家」を容認 国民民主が参院選公約発表
 参院選の選挙公約を発表する国民民主党玉木雄一郎代表=13日午後、国会内(春名中撮影)
 国民民主党は13日、夏の参院選の公約「新しい答え 2019」を発表した。「家計第一の経済政策」を柱に据え、10月に予定される消費税率10%への引き上げ中止や児童手当の増額などの政策を掲げた。また、男系の女性天皇の容認に加えて、女性皇族が結婚後も皇室にとどまる「女性宮家」創設も盛り込んだ。
 児童手当の対象を現行の15歳から18歳に引き上げ、給付額を一律で月1万5千円とした。子育て支援の財源は「こども国債」を発行して確保する。低所得の年金生活者には月5千円を給付するほか、年収500万円以下の世帯に月1万円の家賃補助をする。
 女性宮家は前例のない女系天皇誕生への道を開く可能性がある。玉木雄一郎代表は「公務を分担して頂けるような新しい地位を設けることも含め女性宮家の創設を考えていきたい」と述べ、公務の負担軽減に主眼を置いていると説明した。」
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 12月26日 産経新聞皇位継承「女系だからダメの議論に賛同しない」 石破氏
 自民党石破茂元幹事長は26日、CS-TBS番組の収録で、皇位継承のあり方について「皇室が途絶えることは国の本質が変わることだ。女系だからダメだという議論には賛同していない」と述べ、「女系天皇」の容認を含めて議論すべきだとの考えを示した。
 石破氏は収録後、記者団に「男系、女系ということだけで(皇位継承を)決めることなのか。お生まれになったときから、天皇として国民統合としての務めを果たすため、常人の及ばざる努力をしてこられた方がふさわしい」とも語った。
 石破氏は平成29年1月、上皇さまの譲位をめぐる法整備に関し「男系男子による皇位継承を基本としつつ、女系天皇の可能性もあえて追求し、早急に解を求めるべきだ」とする書面を党本部に提出していた。」
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 産経WEST「眞子さまご婚約に増長する民進党女性宮家は皇統の「禁じ手」である
 『竹田恒泰
 竹田恒泰(作家)
 眞子内親王殿下のご婚約が報ぜられると、民進党は、安倍政権を揺さぶる新しいネタを得たと思ったのだろう。彼らは早速、天皇陛下の譲位の特例法の付帯決議に「女性宮家の創設」を明記することを賛成の条件とした。
 そもそも女性宮家の話は、民主党政権下で野田総理が打ち上げたことだった。天皇陛下の心臓のバイパス手術の直後のことである。将来皇族が減少することで陛下のご公務が増えてしまうことは、陛下のご体調とお歳を鑑(かんが)みると問題であるとし、陛下のご負担軽減のために女性宮家を創設すべきと訴えたのは、野田総理その人である。
 もしその考えが正しければ、今回の特例法によって天皇陛下の譲位で若き新天皇が立った場合、ご負担軽減自体が不要になるため、そもそも女性宮家は不要ということになる。
 にもかかわらず、今般、女性宮家創設を約束しない限り、譲位特例法に賛成しないというのは、論理的に整合性が取れていない。
 また、民進党女性宮家を作ろうと躍起になっているのは、たとえば蓮舫代表であり、また参議院では白眞勲議員である。
 私の懇意にしている自民党参議院議員によると、白議員は、女性宮家を議論しない限り参議院憲法審査会は開催しないと述べているという。
 皇室を重んじる者が皇室を守るべく発言しているならまだよい。
 かたや二重国籍問題が未解決で、いずれの国にアイデンティティーがあるかどうかも不明な蓮舫代表、方や元朝鮮人で朝鮮日報の元東京支社長を務めた白議員が、一体どのような意図があって熱心に女性宮家を提案するのであろうか。彼らが本当に皇室のために意見を述べていると考えるのは、あまりに不自然であろう。
 白議員の話が事実であるなら、民進党は、憲法九条改正の審議をするのと引き換えに、女性宮家を作ろうとしていることが分かる。つまり、女性宮家創設は、彼らにとってそれほど重大な課題ということになろう。
 たしかに、将来的には皇族が減少し、皇位の安定的継承に問題が生じる可能性が高いことが危惧される。現在皇室には皇位を継承できる皇族男子は、若い世代には秋篠若宮殿下(悠仁親王殿下)のお一方のみである。
 しかも、今後皇族がご誕生になるのは、若宮のご結婚の先まで待つ必要があり、また、女性皇族のご結婚によって、今後皇族は激減することが確実である。皇族が極端に減少すると、天皇の外国ご訪問やご不例などで、天皇の国事行為や公的行為を代行する皇族が不在になる恐れがある。
 陛下のご不例の折には、皇太子殿下が国事行為の臨時代行者をお務めになり、また秋篠宮殿下が公的行為の一部をご名代としてお務めになったが、皇族の減少はそれを危うくする。
それだけではない。もし皇族が二人未満になると、皇室典範が規定する皇室会議が開けなくなる大問題が生じる可能性がある。
 皇室会議とは、摂政の設置、皇位継承順位の変更、皇族男子の婚姻などを決議する機関で、三権の長をはじめ、皇族二名を含む十名の議員をもって構成される。もし、これが開けなくなると、皇室に関する重大事が決議不能に陥る。ところで、天皇は皇族ではないことも付言しておきたい。
 ただし、火急といえども、若宮のご誕生により、皇統の危機は数十年遠のいたのであり、半年や一年程度で結論を必要とするものでもない。女性皇族は天皇の御公務を分担しているわけではないので、女性皇族の減少と、天皇陛下のご公務の増加は、基本的に関係はない。
 いくら皇族が減少するとはいえ、皇族を確保するためにいかなる手段を講じてもよいわけではない。
 皇室典範は、皇位は皇統に属する男系の男子が継承すると規定している。そのため、いくら女性宮家創設で皇族の頭数を確保しても、皇位を継承することが可能な「男系の男子」を確保したことにはならない。それでは何も解決していないに等しい。
 ならば、戦後にGHQの指示によって皇籍を離れた旧皇族一族を活用することが先であろう。旧皇族を一部復帰させるか、あるいは既存の宮家が旧皇族から養子を取ることができるように法整備すべきである。
 女性宮家創設とは、すなわち民間出身の男子を皇族に迎え入れることである。もしこれが現実のものとなれば、皇室の歴史上、初めて民間出身の男性が皇族の身分を取得することになる。
 そして、その子や孫がなし崩し的に将来の天皇となった場合、男系継承の原則が崩され、初めて歴代天皇の男系の血筋を引かない天皇が誕生することになる。
 女性宮家創設というのは一般人の耳に優しく響くだろう。しかし、女系天皇を容認する国民的合意なくして、女性宮家について論じるのは適切ではない。女性宮家創設の皮をかぶった女系天皇論にほかならず、将に「禁じ手」というべきである。
 天皇の原理は、究極的には「血統」の原理である。天皇の基本原理が変更されたら、それは歴史的な天皇とは異なる原理の天皇に変化することを意味する。
 その様に成立した新しい原理の天皇は、ある一定の人は認めるかもしれないが、また別のある一定の人は認めないことになる。非の打ち所のない天皇が、非の打ち所のある天皇に変化してしまうことが、最大の問題といえる。
 人によっては認めあるいは認めないような天皇が、日本国の象徴、あるいは日本国民統合の象徴としての役割を全うすることは不可能であろう。
 女性宮家は「皇室の終わりの始まり」であることを知ってほしい。ゆえに、民進党が九条とバーターにしてでも女性宮家を実現させようとしているのである。甘い言葉に騙されてはいけない。
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 2015年3月20日 産経WEST「【歴史事件簿】道鏡の深謀遠慮 女帝と“ねんごろ”になり破格のスピード出世、一介の僧が「太政大臣」に上り詰める(第二部上)
 一介の僧侶から法皇になった道鏡護王神社の「御祭神絵巻」から)
 行幸(ぎょうこう)先の近江・保良宮(ほらみや)で病を患った奈良朝の女帝・孝謙(こうけん)上皇の前に一介の僧の道鏡(どうきょう)が出現したことで、朝廷は動揺する。誰も手がつけられない心の病を祈祷(きとう)で治し、上皇に気に入られた末、政権の中枢に躍り出てきたためだった。女帝は道鏡の政敵、恵美押勝(えみおしかつ)を倒して再び天皇に即位すると今度は押勝の後任として、道鏡太政大臣の就任を要請する。出会いからわずか4年。この異常なまでのスピード出世の背景にあったものは。
 生涯独身
 聖武天皇(後の上皇)と光明皇后(後の皇太后)の間に男の子が育たなかったことから娘の阿倍内親王(ないしんのう)が女性の皇太子となり、天平宝字2(749)年8月、天皇に即位する。これが孝謙天皇である。
 女性の天皇というと、これ以前にも持統(じとう)天皇元明(げんめい)天皇のように、天皇あるいは皇太子の妻が即位するケースはあったが、天皇の娘が皇太子となり即位する例は初めてだった。
 この場合、皇室の男系を維持するために孝謙天皇は後々にわざわいの種を残さないように独身を貫き、子供をもうけないなどの必要があり、本人も覚悟の上での即位だった。
 そんなとき、天皇の父・聖武上皇は死の直前の天平勝宝8(756)年、政界きっての実力者、藤原仲麻呂(なかまろ)(のちの恵美押勝)を呼ぶと、天皇の後継ぎである皇太子として道祖(ふなど)王をあてることを言い残して亡くなる。
 上皇も王位継承の問題を複雑化したくないため、娘はあくまでも中継ぎ天皇であり、長期政権を望んでいなかったのだ。
 ところが、上皇が亡くなった翌年の天平宝字元(757)年、喪が明けていないにもかかわらず、道祖王が自分に仕える少年と関係を持ったことが発覚。女帝は道祖王を廃し、代わりに大炊(おおい)王(後の淳仁(じゅんにん)天皇)を立てる。
 このとき女帝は、今回の経緯についてこう説明している。
 道祖王は夜な夜な住まいを出ては関係し、「皇太子の重責に耐えられない」と漏らす。女帝は忠告を重ねたが、癖はおさまらなかったのだという。
 その後に道鏡との関係が噂される女帝だが、当時はまだ潔癖さを求める余りの厳正な処分だったとも。
 女帝の孤独
 その一方で、道祖王の処分の背景には大納言・藤原仲麻呂の存在があったともいわれている。現に、道祖王の代わりに立てた大炊王を強力に推挙したのは仲麻呂だった。
 藤原氏出身の光明皇太后の子の孝謙天皇と皇太后のおいの仲麻呂。この関係をうまく使い、仲麻呂道祖王を退けることで短命に終わるはずの天皇の座を延命させ、さらなる権力を握るといったことを考えたのかもしれない。
 道祖王の処分後、仲麻呂は政敵・橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が起こした政変を鎮め、奈良麻呂があげた天皇候補の中にいた道祖王を殺害すると同時に不満分子の一掃にも成功する。そして強大な力を手にした仲麻呂は、女帝との関係をさらに深いものとしていった。
 しかし、奈良麻呂の乱の翌年、孝謙天皇大炊王に譲位したところで仲麻呂の態度が大きく変わった。淳仁天皇はかつて皇太子に推してもらった礼もあり、仲麻呂恵美押勝という唐風の名とともに、律令制下の最高位である太師(たいし)(太政大臣)をプレゼントする。
 仲麻呂淳仁天皇を自分の邸宅に住まわせるなどして、天皇との関係を築いていくが、女帝から遠ざかっていった。
 しだいに孤立していった女帝。寂しさが募る中で母の光明皇太后の死がさらに追い打ちをかけた。子も夫もなく、母までもがこの世から消えたことで、孤立無援の存在になってしまったのだ。
 スピード出世
 そんな押勝に裏切られた女帝の心に深く入り込んできたのが、密教を操り不可思議な力を持った河内の僧の道鏡だった。
 平城宮の改修のために一時、都を保良宮に移した天平宝字5(761)年、女帝は病を患う。寂しさから来る精神的な病といわれている。
 病を扱う禅師として、そんな女帝に付き添った道鏡は祈祷と献身的な看病で治してしまう。このときの女帝は、突然、目の前に「待ち人が現れる」といった心境だったのだろう。
 女帝は40歳代半ばで老け込むには早い。一方、地方土豪の出身の道鏡は師に恵まれたとはいえ、宮中に出入りする一介の禅師に過ぎない。だが、道鏡の献身的な姿が上皇の病を癒し、2人が同世代ということも幸いした。
 健康を取り戻した女帝は押勝への復讐(ふくしゅう)を考える。2年後、道鏡を全国の僧を管理する少僧都(しょうそうず)に登用し、押勝も無視できない存在に成長させる。
 ここで起きることが予想されたのが、宮中の2極分裂。淳仁押勝天皇派vs孝謙道鏡上皇派という図式の中、天平宝字8年に起きた戦いで女帝は押勝を殺害すると、淳仁天皇も廃して自ら称徳(しょうとく)天皇として再び即位する。
 以後、女帝との関係をさらに深めていった道鏡は、破格のスピードで出世を重ねていく。このときすでに夫婦同然の関係といわれた2人は、押勝の乱の翌年の天平神護元(765)年に旅に出る。
 大和、紀伊、和泉をめぐって道鏡の故郷・河内に入るルートで、新婚旅行ともとれるこの旅の終盤に差しかかった10月29日、河内の弓削行宮(ゆげあんぐう)に入った女帝は弓削寺で太政大臣道鏡を任じることを仏に誓う。
 一度は道鏡が断った人事だったが、どうしても就いてもらいたい女帝は仏前に誓うかたちで就任を要請したのだ。こうなると道鏡も断れなかった。(園田和洋)
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 国民世論は、女性天皇女系天皇及び女系宮家に賛成している。
 女系天皇即位・女性宮家創設の反対する男系相続維持派日本人は、少数派である。
 国際世論は、女性天皇・女系宮家を阻止しようとする男系相続維持派日本人は女性蔑視の性差別主義者と見做して批判している。
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 女系天皇・女系宮家を認める事は、神話から続く血筋・血統に基ずく特定の家族・一族の身内という正統性は消える。
 女系天皇即位・女系宮家創設賛成派日本人は、宗教的建国神話を根拠とする神聖不可侵の正統性を放棄する事を認めた日本人達である。
 宗教的建国神話とは、最高神である女性神天照大神(皇室の祖先神)を根源とする民族の歴史物語である。
 つまり、女系天皇即位・女系宮家創設賛成派日本人とは、民族中心神話と天孫降臨神話を無価値として破棄する日本人達である。
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⛩35)─1─初詣人気1位、住吉大社。神功皇后と三韓征伐(朝鮮半島征伐)。〜No.75No.76 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
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 日本の神々は、天皇神話・高天原神話・天孫降臨神話・民族中心神話で日本民族の正統な神と認定されている。
 日本の正統な神々とは、『古事記』『日本書紀』に名前が記載されている、天皇家・皇室に由来する、天皇の勅許をえた、そうした神々だけである。
 海外から伝来した仏教や道教など多くの神仏は、天皇の許しを得て日本の神仏となった。
 神仏に正統性を与えた天皇とは、万世一系男系天皇であって女系天皇ではない。
 よって、神を祀り仏に祈りを捧げる資格があるのは、万世一系男系天皇であって女系天皇ではない。
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 住吉大社
 ウィキペディア
 祭神
 現在の祭神は次の4柱で、4本宮に1柱ずつを祀る[2]。
 第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)
 第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)
 第三本宮:表筒男命(うわつつのおのみこと)
 第四本宮:神功皇后(じんぐうこうごう) - 名は「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」。第14代仲哀天皇皇后。
 特に底筒男命中筒男命表筒男命の3柱は「住吉大神(すみよしのおおかみ)」と総称され、「住江大神(すみのえのおおかみ)」・「墨江三前の大神(すみのえのみまえのおおかみ)」とも別称される。延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳での祭神の記載は4座。『住吉大社神代記』(平安時代前期頃か)でも祭神を4座とするが、第一宮を表筒男、第二宮を中筒男、第三宮を底筒男、第四宮を姫神宮(気息帯長足姫皇后宮)としており現在とは順序が異同する。
 祭神について
 『日本書紀』では住吉大社とともに神功皇后による創祀とする。
 主祭神住吉三神(筒男三神/筒之男三神)は、『古事記』・『日本書紀』において2つの場面で登場する神々である。1つは生誕の場面で、黄泉国から帰ったイザナギ(伊奘諾尊/伊邪那岐命)が筑紫日向小戸橘檍原で穢れ祓いのため禊をすると、綿津見三神(海三神)と筒男三神が誕生したとし、その筒男三神について『日本書紀』では「是即ち住吉大神なり」、『古事記』では「墨江の三前の大神なり」とする。次いで登場するのは神功皇后朝鮮出兵の場面で、住吉神の神託もあって皇后の新羅征討が成功したとする。特に『日本書紀』では、住吉神は皇后の朝鮮からの帰還に際しても神託したとし、それにより住吉神の荒魂を祀る祠が穴門山田邑に、和魂を祀る祠が大津渟中倉之長峡に設けられたとする。また『住吉大社神代記』では、筑紫大神が神功皇后に我が荒魂を穴門山田邑に祀るよう宣託を下したので、穴門直の祖である踐立が住吉神社山口県下関市)に荒魂を、和魂を津守の祖である手搓(田裳見宿禰)が大津渟中倉之長峡の祠(当社の地)に祀ったとある。
 このように住吉三神記紀編纂時の7-8世紀には神代巻に登場する天神(あまつかみ)のランクに位置づけられており、『令義解』・『令集解』でも伊勢神・山城鴨神・出雲国造斎神と並んで住吉神が天神である旨が記される。
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 神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、日本の第14代天皇仲哀天皇の皇后。
 略歴
 父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は渡来人の新羅王子天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫がいる。
 仲哀天皇2年、1月に立后天皇熊襲征伐に随伴する。仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成する。同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させる(三韓征伐)。12月、天皇の遺児である誉田別尊を出産。翌年、誉田別尊の異母兄である香坂皇子、忍熊皇子を退けて凱旋帰国。この2皇子の母は仲哀天皇の正妻であり、神功はクーデターを起こしたことになる。 クーデターの成功により神功は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれる。一部の史書では第15代天皇で初の女帝とされている。摂政69年目に崩御
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 宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社。式内社名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社。旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社
 祭神
 主祭神は以下の3柱。
 一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊応神天皇)とする
 二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神多岐津姫命市杵島姫命多紀理姫命)とする
 三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) - 別名として息長足姫命とも
 いずれも上宮・下宮の両方に祭られている。
 主神は、一之御殿に祀られている八幡大神応神天皇であるが、ただ実際に宇佐神宮の本殿で主神の位置である中央に配置されているのは比売大神であり、なぜそうなっているのかは謎とされている。
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 反宗教無神論マルクス主義者・共産主義者そして反天皇反日的日本人達は、天皇所縁の全ての神々を否定し消し去ろうとしている。
 つまり、彼らの真の目的は、日本の神殺しであり、日本の宗教破壊・精神性崩壊である。 
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 朝鮮半島出身者が憎むべき神社と神様とは、住吉大社神功皇后であって靖国神社A級戦犯達ではない。
 まして、昭和天皇は関係ない。
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 日本民族日本人が嫌う朝鮮半島出身者とは、昭和天皇と皇族を惨殺しようとしたキリスト教朝鮮人テロリストである。
 天皇と皇族は、天皇・皇族殺しのテロリストを出した韓国と北朝鮮には行ってはならないのである。
 ましてや、天皇や皇族に土下座をして謝罪する事を強要する韓国の訪問は論外である。
 まず、韓国が天皇・皇室に昭和天皇と皇族を暗殺しようとした事について謝罪すべきである。
 もし、これがイギリスであったら国王暗殺未遂事件を仕掛ければ問答無用で報復戦争である。
 現代日本のメディア・報道機関は、無言の無視である。
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