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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
五木寛之「仏教の基本は、語りと歌である。説法によって生きる智恵を伝え、歌によって人生の苦を和らげる。日本の芸能の原点は、寺の説法にはじまる。笑わせ、泣かせ、感動させる語りの中から大衆芸能は生まれた。音楽は声明(しょうみょう)に、そして歌は和讃(わさん)となってこの国の歌謡をかたちづくる。『正信偈(しょうしんげ)』の『偈』とは、歌うことだ」
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小林秀雄「伝統は、これを日に新たに救ひださなければ、ないものなのである。それは努力を要する仕事なのであり、従って、危険や失敗を常に伴った。これからも常にそうだろう。少なくとも、伝統を、さういうものとして考へている人が、伝統について、本当に考へている人なのである」
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雅楽の源流は、大陸にあった。
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2017年8月 SAPIO「書闘倶楽部 平安の装束の向こうにアジアの風土を感じる
『美しき雅楽装束の世界』遠藤徹著/青木信二撮影
本書は、宮内庁式部職楽部が行った雅楽の著名な演目の舞台で着用された装束を撮影した写真集で、演目ごとに曲目と装束についての解説が付く。写真の一枚一枚が美しく、かつ興味深い。
本書によれば、雅楽は舞を伴う『国風歌舞(くにぶりのうたまい)』や『舞楽』、器楽合奏の『管絃』、歌謡の『催馬楽(さいばら)』、『朗詠』などからなる。
このうち、日本古来の歌舞を源流とする『国風歌舞』は宮中祭祀や神社祭祀で舞われるもので、その装束は単色系で、簡素で控えめな美を感じさせる。一般の人が抱く雅楽のイメージはこちらではないか。
非公開が多い『国風歌舞』に代わって、本書が主に取り上げるのは、5世紀から9世紀(古墳時代から平安時代)にかけて中国大陸や朝鮮半島から伝えられた楽舞を源流とする『舞楽』だ。
その『舞楽』は中国大陸系の『左方』と朝鮮半島系の『右方』に分けられる。『左方』の中心は唐代中国で花開いた楽舞だが、そこには中国の伝統的な楽舞だけでなく、シルクロード沿いの西アジアや、インド、ベトナムから伝来した楽舞も含まれている。一方、朝鮮半島系の『右方』には高句麗、百済、新羅だけでなく、中国東北部から朝鮮半島北部に興隆した渤海の楽舞も含まれているという。
つまり、雅楽というのは一般の思い込みとは逆に、実に国際色豊かなものであることがわかるのだ。これには驚くが、本書に収められた写真を見ていると、中国の京劇を思わせる装束を初め、アジア各地で見られる極彩色の文様が数多くある。
平安時代に確立した雅楽の装束の向こうに、アジアの風土を感じることができる」
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日本雅楽會
雅楽の歴史
雅楽は1200年以上の歴史を持ち、日本の古典音楽として、また世界の古典音楽として外国でも非常に高く評価されてきています。
雅楽は、日本古来の儀式音楽や舞踊などと、仏教伝来の飛鳥時代から平安時代初めにかけての400年間あまりの間に、中国大陸や朝鮮半島から伝えられた音楽や舞、そして平安時代に日本独自の様式に整えられた音楽などです。
奈良時代・平安時代から、雅楽の演奏は宮廷は勿論、寺院や神社において盛んに演奏されました。そして1000年以上、京都・奈良・大阪の専門の演奏家によって伝承され続けました。明治時代に宮内庁式部職楽部が創設され雅楽を伝承しています。最近は、民間の雅楽の演奏団体も増えてきています。
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ウィキペディア
雅楽は、日本の古典音楽の一つ。以下、宮内庁式部職楽部に伝わる日本の雅楽(重要無形文化財、ユネスコの無形文化遺産→2007年)を中心に述べる。(ベトナムについては「ベトナムの雅楽」を参照)日本の歴史に大きな影響をもたらした。現在、神社などのコマーシャルなどに引用されることが多い。
概説
アジア大陸の諸国からもたらされた音楽や舞に、上代以前から伝わる音楽や舞が融合して日本化した芸術。10世紀頃の平安時代に大まかな形態が成立し、今日まで伝承されている。元は、奈良時代にまで遡る。
歴史
春日権現験記
5世紀前後から中国、朝鮮半島など大陸(南アジアについては、736年に大宰府に漂着した林邑(ベトナム)僧から伝えられたとされる舞楽が「林邑楽」と呼ばれ、唐楽に分類される。)から儀式用の音楽や舞踊が伝わるようになった。大宝元年の大宝令によって、これらの音楽とあわせて日本古来の音楽や舞踊を所管する雅楽寮が創設されたのが始まりであるとされる。この頃は唐楽、高麗楽、渤海楽、林邑楽(チャンパの音楽)等大陸各国の音楽や楽器を広範に扱っていた。中国の雅楽は儀式に催される音楽であったが、日本の雅楽で中国から伝わったとされる唐楽の様式は、この雅楽とは無関係で、唐の宴会で演奏されていた燕楽という音楽がもとになっているとされる。ベトナムの雅楽(nhã nhạc)や韓国に伝わる国楽は中国の雅楽に由来し、日本の雅楽とは異なる。 天平勝宝四年の東大寺の大仏開眼法要の際には雅楽や伎楽が壮大に演じられるなど、この頃までは大規模な演奏形態がとられていた。 また、宮中の他に四天王寺、東大寺、薬師寺や興福寺など一部の大きな寺社では雅楽寮に属さない楽師の集団が法要などの儀式で演奏を担っていた。
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世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典
改訂新版 世界大百科事典
雅楽 ががく
古代以来もっとも長い歴史をもつ東アジアの音楽。中国で成立し,朝鮮,日本,ベトナムなどの王朝国家に伝えられ,主として国家的制度のもとで管理,伝承されてきた。中国の雅楽は,〈雅正の楽〉の意で俗楽に対立し,儒教の礼楽思想に基づいて成立,発展したために狭義には天地宗廟の祭祀楽を意味するが,広義には国家,宮廷の儀式や宴饗の楽も含める。狭義の雅楽は古来の雅楽器を用い,堂上登歌(どうじようとうか),堂下楽懸(どうかがくけん)の2種の楽を奏し,八佾(はちいつ)の舞を舞うという一定の形式を有する。朝鮮,ベトナムには中国から狭義の雅楽も伝わったが,日本に伝来した雅楽は唐朝の宮廷俗楽であって,使用する楽器も異なり,儒教に基づく古制の雅楽ではない。
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国史大辞典
雅楽 ががく
本来は雅正の楽という意味であったが、唐代には俗楽・宴楽に相対して、もっぱら宗廟や孔子廟に用いる祭祀の楽を指していた。しかしわが国では、大宝元年(七〇一)制定された『大宝令』に基づく官庁である雅楽寮において扱う楽舞を雅楽と称した。その中には和楽・三韓(新羅・百済・高句麗)楽・唐楽・度羅楽・林邑楽・渤海楽などが含まれていた。天平勝宝四年(七五二)四月に行われた大仏開眼の法会には、これらの各楽舞が雑然と行われた。当時使用された多くの楽器は、聖武天皇遺愛の器とともに東大寺の正倉院に納められて今日に保存されているが、これを見ても、当時の雅楽が東アジア各民族の楽舞が混然と行われていたものであることがわかる。ところが平安時代に入り、仁明天皇の承和年間(八三四―四八)嵯峨上皇を中心に、雅楽寮の楽人大戸清上・尾張浜主・和邇部大田麻呂・常世乙魚・林真倉・犬上是成・大戸真縄らに加え、特に音楽に造詣の深い良峯安世(桓武天皇皇子)・源信(嵯峨天皇皇子)・藤原諸葛らが相寄り研究の結果、わが国風に適した雅楽に改造された。その主要な改革点は、(一)管絃の合奏を小規模な室内楽形式に改めたこと、(二)従来の楽曲を改作し、かつこれに倣った多くの新曲を作ったこと、(三)演奏形式を管絃(楽器の演奏だけ)と舞楽(舞を伴うもの)とに分けたこと、(四)雅楽曲の全部を左方(唐楽ともいう)・右方(高麗(こま)楽ともいう)の二種に分かち、おのおの独自の楽器とその合奏形式とを定めたことである。以上の改革によってわが雅楽の楽器配合は別表のようになった。舞楽の場合、絃楽器は使用しないが、まれに絃を用いる場合がある。これを「管絃舞楽」と称し、平安時代には行われたが、近代には絶えた。また右方においては、近代はほとんど舞楽のみが行われている。舞楽の場合、普通左方の舞一曲とこれに応ずる右方の舞一つを順に組み合わせて行う。これを番舞(つがいまい)といい、左方の舞に対して組み合わされた右方の舞を答舞(とうぶ)という。この左方右方の舞を以て舞一番とする。古くは一日に舞数番を行なった(『陵王』(左)と『納曾利(なそり)』(右)、『承和楽』(左)と『仁和楽(にんならく)』(右)など)。舞楽を行う前には、はじめに振鉾(えんぶ)という作法が行われ、舞台を清める。わが雅楽の規模は平安時代に至り小規模の室内楽形式に改められたので、宮廷貴紳の人たちにとって好適な娯楽となり、「御遊(ぎょゆう)」または「あそび」と称されて、平安時代中期の藤原氏全盛時代にはすこぶる盛んに行われた。当時流行した催馬楽(さいばら)・朗詠などの歌謡も音楽的に整理され、御遊の中に加えられた。これが近代に至って催馬楽・朗詠が雅楽の一部とされる遠因である。
元来、雅楽を専業とするのは雅楽寮の楽人たちであったが、平安時代に入ると楽制改革とともに雅楽が宮中の諸行事に盛んに用いられ、近衛や衛府の官人などが最も多く雅楽に関連するようになった。天暦二年(九四八)八月には大内に特に楽所(がくしょ)が設けられて雅楽寮にかわって宮中の楽事を管掌し、雅楽を扱う者を楽人と称した。当時近畿にあって主として雅楽を業とした楽人団に、京都の御所楽人(主として楽所の楽人)、奈良の楽人(南都楽人)、大阪の天王寺楽人の三所の楽人(三方楽人)があった。御所楽人は多(おお)・阿部・豊(ぶん、豊原姓)・山井(やまのい、大神(おおが)姓)、南都楽人は狛(こま)姓の東(ひがし)・辻・奥・窪(くぼ)・上(うえ)および中(なか、大神姓)・芝(藤原姓)、天王寺楽人は秦(はた)姓の薗(その)・林・東儀(とうぎ)・岡の各氏から成る。三所の楽人によって、同一の曲でも多少所伝の異同があった。鎌倉時代に至り、宮廷貴紳の勢力失墜とともに、雅楽は生活から離れて固定化し、単に宮廷の儀式に使用されるのみとなり、室町時代に入ると一層衰微し、ことに応仁の乱以後は、御所楽人はほとんど散佚して滅亡に瀕した。桃山時代に至って豊臣秀吉はその復興を図り、御所楽人の欠を南都および天王寺の楽人を以て補給する策を立てた。それが完成したのは江戸時代に入ってからで、ことに寛永三年(一六二六)九月の三代将軍徳川家光上洛に際しての上演を機に新制度を定め、三方楽人中の主な楽人を集めて一団とし、その本流を京都の御所に(御所楽人)、庶流の一部を江戸城中の紅葉(もみじ)山に置いた(紅葉山楽人)。御所楽人は宮廷の儀式を、紅葉山楽人は江戸幕府の祭祀や日光東照宮の祭祀などを扱った。和歌山藩や岡山藩など、藩内に雅楽の楽人を養成するものも現われ、伊勢神宮・熱田神宮・厳島神社、その他の神社や本願寺などの寺院でも専属の楽人を養成するものが多かった。明治維新後皇居が東京に移されるや、御所楽人の大部分は東京に移り、江戸城中にわずかに残っていた紅葉山楽人も加え、明治三年(一八七〇)に太政官の中に雅楽局を設置した。翌四年これを式部寮に移し、雅楽課と称した。七年から西洋楽(欧州楽)を併せ行い、大正十年(一九二一)宮内省楽部と称し、従来楽人を伶人と称していたのを楽師とした。宮内省は昭和二十二年(一九四七)宮内府、ついで同二十四年宮内庁となり、楽部の組織も極度に縮小し、最小限度の楽人を以て辛うじてその亡滅を防止し得た状態にあった。その後漸次増員し、現在では雅楽は海外文化人たちの賞讃の下に、再び隆盛に赴かんとしつつある。現在宮内庁楽部を中心とした雅楽には、(一)古楽に基づき祭祀および儀式に用いるもの(御神楽(みかぐら)・和舞(やまとまい)・東遊(あずまあそび)・鎮魂歌・田舞・久米歌(舞)・五節舞など)、(二)管絃および舞楽、(三)催馬楽・朗詠の三種の芸能が含まれている。 (田辺 尚雄)
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