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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
江戸時代の治安維持は、中国・朝鮮や西洋や中東などの大陸世界とは異なっていた。
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江戸時代の消防事情⑨
元東京消防庁
消防博物館館長 白 井 和 雄
辻番とは武家地の治安維持のために設けられた、 番所のことである。 『徳川実記』には、「寛永六年(1629)三月、去 年以來府内街巷に於て、濫りに、往還の路人を刀 傷する者多し、因て番所を置いて守らしむ。」 と いう記述があり、これが辻番の起源であるといわ れている。
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時代劇用語指南
番屋(ばんや)/自身番(じしんばん)
2010/04/01
山本博文
番屋とは、江戸の町々にあった防犯のための施設。自身番とは、町の会計である町入用(ちょうにゅうよう)で設けられ、町入用で雇われた書役と町名主や家主たちによる自警組織。多くは1町に1カ所あったが、最合(もあい)といって、2~3町共同で設けるものもあったから、江戸に200余~300ほどあったとみられる。江戸の治安を担う廻り方同心が町を巡回するときは、御用箱を背負った供(とも)と木刀1本を差した中間1人、手先(目明かし)2~3人を連れ、自身番に「町内に何事もないか」と聞いて回る。同心が怪しい者を見つけると、自身番に連れていき、尋問する。ただし、容疑者を留置する施設ではないので、詳細な調べが必要なときは大番屋に連れていく。自身番には「自身番日記」が置かれ、町内の出来事などを書き留めていた。また、庶民の戸籍に当たる人別帳も備えられていた。
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じしん‐ばん【自身番】
〘 名詞 〙 江戸時代、町の四辻など所々に置かれた町内持ちの番所で警備すること。 また、そこに詰めている人。 町内の地主が自身で詰めたので、この呼称が生まれたが、のちには大家(地主の差配人)や町でやとった書役(自身番親方ともいう)が詰めた。
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2022年5月3日 AERAdot.「死体の片づけから捨て子の保護まで 江戸時代に「辻番」が果たした大切な役割
山本博文
目次
旧彦根藩足軽組辻番所。写真はイメージ
組織に不満があっても、自分や家族の生活を考えれば、そう簡単には辞められない。組織で働く人ならば、誰もが多かれ少なかれ、ストレスを抱えているだろう。それは現代に限ったことではない。江戸の武士も「家格」の上下に泣き笑い、「出世」のために上司にゴマをすり、「利権」をむさぼり、「経費」削減に明け暮れていた。組織の論理に人生を左右されてきたのである。山本博文氏が著した『江戸の組織人』(朝日新書)は、大物老中・田沼意次、名奉行・大岡越前、火付盗賊改・長谷川平蔵などの有名人から無名の同心、御庭番、大奥の女中まで、幕府組織を事細かに検証し、重要な場面で組織人がどう動いたかを記している。本書から一部を抜粋して紹介する(※一部ルビなどは追記)。
【表】薩摩藩が首位! 幕末の「雄藩最強」ランキング
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■八百九十九か所の辻番
江戸の町の六割は武家地だった。武家地には、広大な大名屋敷や旗本屋敷があり、大名屋敷では一万坪以上、旗本屋敷でも多くは五百坪から千坪の邸宅だったから、夜ともなると武家地の道は延々と塀が続く寂しい通りだった。
江戸時代初期には、辻斬りが横行した。辻斬りは、刀の切れ味を試すために行ったものと言われるが、戦国の余習がさめやらぬ時期のことだから、人を斬りたいという衝動を持つ者もいたかもしれない。こうしたことから、夜、町を歩くのはたいへん危険だった。
幕府は、寛永六(一六二九)年、庶民が辻斬りに難儀しているため、大名や旗本に辻番(つじばん)という警備施設を設けるよう命じた。辻番は、武家屋敷の周囲に何か所か設けられ、常時戸を開けて辻斬りなどが起こらないよう見張る小屋である。
大名は、単独で一か所ないし数か所を設けて足軽を置き、旗本は単独で設けるのは経済的に厳しいので、近所同士で何家か共同して置いた。こうして、江戸には八百九十九か所の辻番ができた。このうち、大名のものが二百十九、旗本のものが六百八十だという。この数から言えば、一万石程度の大名だと、他と共同して置くこともあったようである。
幕府の規定によると、辻番には、二万石未満の大名だと昼三人、夜五人、二万石以上だと昼四人、夜六人を置くようになっていた。旗本の場合は、昼二人、夜四人だった。
幕府から辻番設置を命じられた大名は、国元から足軽を呼び寄せ、辻番とした。旗本はそのクラスの家来を出した。しかし、旗本ではなかなか辻番を維持することが難しく、十七世紀後半には請負人に任せるようになった。
■辻番は足軽役
こうして、辻番のある部分は、都市に生活する「日用(にちよう)」と呼ばれる人々が務めるようになった。「日用」とは、「人宿(ひとやど)」と呼ばれる今で言えば人材派遣業者のもとに集まる者たちで、武家奉公人や普請や作事の人夫として派遣される者である。
十八世紀初頭の学者荻生徂徠(おぎゅう・そらい)は、その著書『政談』に、地方の農村から江戸に出てきて武家奉公などを行い、年をとって故郷にも帰れなくなった者が辻番などになっている、と書き、何の役にも立たぬ、と批判している。確かにそういう面はあっただろうが、それでも武家地にこうした施設があれば、それなりに犯罪の抑止力になったと思われる。
幕末の事例によれば、辻番の請負は、一人一年の給金が九両となっている。これはかなりの額である。もっとも、辻番を派遣する人宿がピンハネしていたから、辻番になる者がこれだけの額をもらえたわけではなかろう。ただし、辻番は足軽役だったから、庶民でも刀と脇差の両刀を差して務めた。
辻番は、昼夜ともに交代で務め、番所の戸は開け放ち、常時、受け持ちの地域を巡回した。もし、不審な者や喧嘩をした者がおれば、その者を捕らえ、藩邸の係に連絡し、そこから幕府目付へ知らせる体制をとった。堀にゴミを捨てる者がいればこれを取り締まり、酒に酔って倒れている者は介抱するようにと命じられている。
もし、担当地域に死体があれば、目付に届け、それを晒し、関係者の申し出がなければそれを寺に葬らなければならなかった。江戸時代は、辻斬りでなくても殺人事件は頻発していたし、行き倒れになる者もいたから、これはよくあることだった。
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組合辻番(読み)くみあいつじばん
世界大百科事典(旧版)内の組合辻番の言及
【辻番】より
…会津若松では,毎夜九つ(0時),八つ(2時)の2回,組中に〈御用心〉を触れ回り,流浪の者があれば,その住所を尋ねたうえで次の辻番所へ継送りするといった職務があった。江戸の辻番は設置者によって,公儀辻番(幕府が設置する),一手持(いつてもち)辻番(1軒の大名が設ける),組合辻番(大名・旗本など近隣の屋敷が共同で設ける)と区別し,その設置者が管理費を負担した。町方で設けた自身番は,その町が町入用(ちよういりよう)で支弁した。…
※「組合辻番」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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ウィキペディア
辻番は、江戸時代に江戸幕府によって江戸城下の武家屋敷周辺の辻々に置かれた警備隊である。辻番の詰所は辻番所と称された。
寛永6年(1629年)、江戸市中での辻斬を防止するために設けられた番所が始まりである。辻番は設置者により分類でき、幕府の負担による公儀辻番(公儀御給金辻番)、大名によって設置される一手持辻番(大名辻番)、いくつかの大名や旗本が共同して設置する組合辻番(寄合辻番)があった。辻番はそれぞれの担当地域を巡回し、狼藉者などを捕らえた。辻番所には昼夜交代で勤務し、番所は夜中も開かれていた。
辻番所の数は、元文年間で約930箇所という記録が残っている。割合としては650箇所を超えた組合辻番が大半を占めた。組合辻番の運営はのちに町人が請け負うようになり、寛政5年(1793年)には辻番請負人組合が成立している。町人による運営下では、職務に相応しくない老若者が雇われる・番所内で博打や商売が行なわれるなどの問題が起こり、幕府によってたびたび規制された。
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