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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本は中国や朝鮮とは違う。
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和歌は、日本民族の心・精神である。
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日本民族は、恋愛の民であって、尚武・武勇の民ではない。
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現代の日本人、特に超難関校出の高学歴なエリートやインテリは、欧米の学術書・哲学書・文学書などを原書で読むが、民族固有の「もののあわれ」や「やまとごころ」そして「惻隠の情」を持っているかどうか疑わしい。
エセ保守やリベラル左派はもちろん右翼・右派・ネットウヨクなどの人種差別主義者も同様である。
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知の快楽 哲学の森に遊ぶ
本居宣長「石上私淑言」を読む:もののあはれ論
本居宣長の著作「石上私淑言(いそのかみのささめごと)」は、「紫文要領」と並んで、「もののあはれ」論を展開した著作である。「紫文要領」がその題名にあるとおり「源氏物語」を材料にとって「もののあはれ」を論じているのに対して、「石上私淑言」のほうは、和歌を通して日本人特有の「もののあはれ」を重んじる姿勢を論じている。国文学者の日野龍夫によれば、この二つの著作はいずれも宝暦十三年(1763)に書かれており、しかも宣長が「もののあはれ」という言葉を用いて己の思想を語ったのはこの二つの著作に限られるという。後年「源氏物語玉の小櫛」が出版され、そのなかでも「もののあはれ」という言葉が出てくるが、この著作は「紫文要領」に手を加えたものなので、実質的な内容は「紫文要領」と変わらない。
宣長の「もののあはれ」論の特徴は、「もののあはれ」に体現された日本人の文学的な感性を中国人のそれと比較し、そこから日本人のアイデンティティを導き出しているということにある。もっぱら中国人と比較したのは、宣長の時代には、日本人との比較対象になるような外国は、実質的には中国しかなかったからである。その唯一の鏡ともいうべき中国を通して日本人のアイデンティティを探ったというのがこの著作の大きな特徴なのであり、その点でこれはある種の比較文明論にもなっている。
この「もののあはれ」を宣長は、「もののあはれを知る」という文脈の中で説明している。「もののあはれ」とは、それ自体として客観的に存在するあるものではなく、「もののあはれを知る」という人間の心の動きにともなって生じてくるものとされる。自然や人の生き様に接して、人が深く感ずることがある、その感ずる働きに注目して「もののあはれを知る」というように表現される。だからこの「もののあはれを知る」ということは、人間の心の働きについて言われるものなのである。
「何ごとにも心の動きて、うれしとも悲しとも深く思ふは、みな『感ずる』なれば、これがすなはち『もののあはれを知る』なり」。このように、心の動きが深い感動となって現れる、その感動を表現する、それが歌なのであり、「もののあはれ」を旨とした文学なのだと宣長は考えるわけである。こうした点で、宣長の考える文学は、きわめて感情を重んじる、というより、専ら感情に偏った見方といえる。
日本人が「もののあはれを知る」を重んじるのに対して、中国人は、いわば「物の道理を知る」を重んじる。物の道理が大事なことは無論のことで、日本人といえどもそれを否定するわけではないが、しかし、中国人のように、詩歌の世界にまで物の道理を持ち込むのはよくない。中国人は、日本人のように恋愛とか女性的なめめしい感情を詩にすることがないが、これは間違っている。なぜなら、日本の歌にせよ、中国の詩にせよ、もともとは人間のやむにやまれぬ素直な感情を表現することから始まったのに、その素直な感情の表現を抑圧して、物の道理といったことをさかしらに言い立てるのは、人の道に反している、と宣長は言うのである。
中国人はなぜ物の道理に拘るのか、そのわけについて宣長は次のように断ずる。「かの国(中国)は神の御国にあらぬけにや、いと上つ代よりして、よからぬ人のみ多くて、あじきなきふるまひ絶えず、ともすれば民をそこなひ国をみだりて、世の中穏しからぬ折がちなれば、それをしずめ治めむとては、万に心をくだき、思ひをめぐらしつつ、とにかくよからんことをたどりもとむるほどに・・・げに国を治め人をみちびき教へなどするにはさもありぬべきことなれど、これみなつくり飾れるうはべの心にて、実の心の有様にはあらざるなり」
これに対して日本はと言えば、「わが御国は天照大神の御国として、他国々にすぐれ、めでたく妙なる御国なれば、人の心もなすわざもいふ言の葉も、ただ直く雅やかなるままにて、天の下は事なく治まり来ぬれば、人の国のやうにこちたくむつかしげなることは、つゆまじらずなむありける」
つまり、中国人が物の道理にうるさいのは、彼らがみな悪人ばかりであって、その彼らを治めるには物の道理によることが必要だった、それに対して日本人は、神の国の人として心素直な人ばかりなので、わざわざ物の道理をこと上げせずとも、世の中はうまく治まるし、したがって心の自然な感情を流露してもいささかの不都合も生じなかったのだ、と言っているわけである。ここまで行くと、比較文明論の枠を超えて、人種差別に陥りかねないところだ。
ところで、「もののあわれを知る」なかでも最も人の心を動かすのは恋である。「恋は万のあはれにすぐれて深く人の心にしみて、いみじく堪へがたきわざなるゆゑなり。さればすぐれてあはれなる筋は、常に恋の歌に多かるなり」。宣長はこう言って、日本の歌に恋の歌が多い理由を説明している。宣長自身は言及していないが、たしかに日本人が古来恋の歌を最も多く歌い続けてきたことは、万葉集に始まり、勅撰和歌集を経て、その後のあらゆる歌集にわたって言えることである。これは丸谷才一も言っていることで、日本人が恋の歌に拘るさまは、中国人が恋の詩を徹底的に抑圧してきたのと著しい対照をなしている。
宣長が恋を重んじる心は、僧侶の恋に対しても寛容となる。勅撰和歌集の中には、僧侶が恋を歌った歌が多く収められ、なかにはそれを捉えて不謹慎だとする意見もあるが、それは心得違いだといって、宣長は僧侶の恋を擁護する。その理屈が面白い。僧侶の恋を非難するものは、それが仏の道に反しているというが、しかし、「さやうのよき悪しきことの定めは、その道々にてこそともかくもいひあつかふことなれ、歌は筋異なることにて、必ず儒仏の教へにそむかじとするわざにもあらねば、そのしわざのよき悪しきなどはとかくいふべきにあらず」。つまり、歌の道と仏の道は異なるのであるから、仏の道を以て歌の道を云々するのは筋違いだといっているわけである。
ここには、そもそも僧侶が歌を読むことの是非については言及していない。僧侶も歌を読むのは人間として当然のことという前提がある。その歌の道で、「限りある花紅葉をさへめずる心に、限りなき女の色をばいかでかめでたしとは思はざるべき」と宣長は言うのである。歌を歌うからには、女のめでたさを歌うのは当たり前ではないか。「よき女を見ていささかも心を動かさざらんむは、まことの仏なるべし。さらずは鳥虫にも劣りてむげに情なき岩木のたぐひとやいはまし」というわけである。
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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2016
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林秀雄に学ぶ塾 同人誌
好*信*楽
連載 小林秀雄「本居宣長」全景
池田 雅延
六 もののあはれを知る
「もののあはれ」という言葉は、今日、文学などにはまるで関心がないという人にもよく知られている。ましてや、小説が好き、短歌が好き、俳句が好きといった人であれば、知らぬ人はないとさえ言っていいだろう。これはひとえに、江戸時代の半ば、本居宣長が出て「もののあはれ」の論を展開した、そのことが今日の教科書に載り、「もののあはれ」という言葉は現代語のなかにも生き続けることになった、そう解して大過はないだろうと思う。
そして今日、その「もののあはれ」が何かの拍子で出てくると、たいていの人はまず四季の情趣を意識する、そう言うにおいても大過はないと思われる。しかし、宣長が説いたところはそうではない、宣長の言う「もののあはれ」は、そうした四季の情趣に留まらず、情趣や情緒からは遠いとさえ言っていい世帯向きのこと、すなわち日常生活のやりくりにまで及んでいた、したがって、今日の私たちが漠然とであれ頭においている「もののあはれ」は、宣長の説からすれば片端と言ってよいのである。
それに加えて、「もののあはれ」には、もうひとつの誤解があるようだ。今日、多くの人は、「もののあはれ」は感じるものだと思っている。だが宣長は、そうではないと言う。「もののあはれ」は、感じるだけではいけない、知るということがなければいけない、人生でいちばん大事なことは、「もののあはれを知る」ということだと言い、小林氏は、宣長の学問は、人生いかに生きるべきかを問う「道」の学問であった、その「道」の中心には、「もののあはれを知る」ということがあった、と言うのである。ではその「もののあはれを知る」とは、どういうことなのだろうか。
ここですこし、また後戻りする。前回、「もののあはれ」という言葉は、江戸の中期に宣長が登場し、そこに独自の意味合を読み取ってみせるまで、どういうふうに使われていたかを見た。それと同じように、「もののあはれを知る」という言葉は、いつごろから見られるようになって、どういう場面で言われていたか、そこを遡っておこうと思うのだ。
というのは、宣長は、「もののあはれ」と一対で「もののあはれを知る」ということを強く説いたが、「もののあはれを知る」という言い方自体は宣長の発明ではない。宣長は、「もののあはれ」という言葉と同様に、平安時代からずっとあり、宣長の時代に至るまでごくありふれた言葉としてあった「もののあはれを知る」を取り上げて、独自の思想で染めたのである。宣長は、「もののあはれ」という言葉に、はちきれんばかり自分の考えを詰め込んだ、その様相を、前回、つぶさに見たが、「もののあはれを知る」という言葉にも、あふれんばかりの意味合を盛った。
「もののあはれ」という言葉が、文字に記された最初は平安時代、紀貫之の「土佐日記」であった。「楫取り、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば……」とあるそのなかに、早くも「もののあはれを知る」は見えていた。
さらには、同じく平安時代、「古今集」に続いた勅撰集「後撰集」に、ある女から「あやしく、もののあはれ知り顔なる翁かな」と言われて、と詞書した貫之の歌がある。「もののあはれを知る」は、こうして最初から、「もののあはれ」と一体だったのである。
これを承けて、『日本古典文学大辞典』はこう説いている。平安時代にあっては、歌を詠むこと、それがすなわち「もののあはれ」を知ることであった、逆にいえば、「もののあはれ」を知る者なればこそ歌を詠まずにはいられない、したがって、平安時代の「もののあはれ」は、「貴族の日常生活のなかで要求された美的情操に関わる生活用語」であったと言え、それを「知る」ということは、「趣味を解し、世間の情理をわきまえた節度のある知恵教養」を身につけるということであった。
時は流れて、藤原俊成の歌が生まれた。小林氏が「本居宣長」第十三章で取り上げている、「恋せずば人は心もなからまし 物のあはれもこれよりぞ知る」である。俊成は、平安末期から鎌倉初期にかけての人で、第七の勅撰集『千載和歌集』を独りで編み上げるほどの大歌人だったが、この歌自体は彼の私家集『長秋詠藻』にあると知られてはいたものの、その平明さから歌学や歌論に取り上げられることはまずないまま何年もが過ぎ、江戸時代になって近松門左衛門や浮世草子、随筆類の文中に、俊成の歌とはことわることなく織りこまれて広く知られるようになったという(田中康二氏『本居宣長の国文学』<ぺりかん社刊>による)。
そしてその江戸時代である。新潮日本古典集成『本居宣長集』の校注者日野龍夫氏は、「解説」で、次のように言っている。「物のあわれを知る」という言葉は、江戸時代人の言語生活の中ではごくありふれた言葉であった、したがって、その言葉によって表される思想も、江戸時代人の生活意識の中ではごくありふれた思想であった、通俗文学の中でも最も通俗的な為永春水の人情本に、「物のあはれを知る」ないし「あはれを知る」という言葉がしばしば出てくるほどである……。
「もののあはれを知る」という言葉は、こういう歴史を辿った。宣長は、その歴代の「もののあはれを知る」に人生の大事を嗅ぎつける。
紀貫之は、平安時代を代表する歌人であったが、最初の勅撰集「古今集」の編纂にあたっても中心的な位置を占め、いわゆる「仮名序」を書いた。
――やまと歌は、ひとつ心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。……
この「仮名序」を目にして、宣長は、「石上私淑言いそのかみのささめごと」巻一に次のように書いた。これが宣長の「もののあはれ」の論の起点となったのだが、同時にこれは、「もののあはれを知る」論の起点でもあった。「本居宣長」第十三章に引かれている。
――古今序に、やまと歌は、ひとつ心を、たねとして、万よろづのことのはとぞ、なれりける、とある。此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也。次に、世中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、みる物きく物につけて、いひいだせる也、とある、此この心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也。上の、ひとつ心をといへるは、大綱をいひ、ここは其いはれをのべたる也。……
そして、俊成の歌である。ある人が宣長に問うた。宣長二十九歳の年の「安波礼弁あわれのべん」から、同じく第十三章に引かれている。
――俊成卿ノ歌ニ、恋セズハ、人ハ心モ無カラマシ、物ノアハレモ、是ヨリゾシル、ト申ス此ノアハレト云フハ、如何ナル義ニ侍ハベルヤラン、物ノアハレヲ知ルガ、即チ人ノ心ノアル也、物ノアハレヲ知ラヌガ、即チ人ノ心ノナキナレバ、人ノ情ノアルナシハ、只タダ物ノアハレヲ知ルト知ラヌニテ侍レバ、此ノアハレハ、ツネニタダ、アハレトバカリ心得ヰルママニテハ、センナクヤ侍ン。……
俊成の歌に歌われている「あはれ」とは、どういう意味なのでしょうか。「もののあはれ」を知るということが、すなわち人の心があるということであり、「もののあはれ」を知らないということはすなわち人の心がないということだとすれば、人に情こころがあるかないかは「もののあはれ」を知っているか知らずにいるかです、するとこの「あはれ」ということも、ただ「あはれ」と感じているだけでは意味がないということなのでしょうか……。
「安波礼弁」の行文上、この質問は「ある人」が宣長に問うたとなっているが、実のところは宣長が、宣長自身に問うたと解してもよいだろう。「あしわけ小舟」「石上私淑言」等、宣長の著作には問答体が目立つが、それらはすべて、読者を説得し、納得させるためのいわば文章術であると同時に、宣長自身の自問自答と言ってよいのである。
そういうところにも思いを馳せて、この「安波礼弁」の質問を読み返せば、宣長は二十九歳、京都での遊学中に、もう「もののあはれを知る」を平安時代の貴族たちとはよほどちがった関心で受取っていることがわかる。すなわち、「もののあはれ」を「貴族の日常生活のなかで要求された美的情操に関わる生活用語」とは受取らず、「もののあはれを知る」も「趣味を解し、世間の情理をわきまえた節度のある知恵教養」を身につけることとは受取っていない。人間の心というものの深さ、広さ、さらに言えば不思議、不可解、そこに向き合ってきた先人たちの経験、それが「もののあはれを知る」ということだと宣長は受取っているのである。
そして、宣長はそうと明確に言っているわけではないが、「もののあはれを知る」という言葉の微妙繊細、そこに思いを致させてくれたのが俊成の歌だったと言うのである。「古今集」の仮名序に対する発言が見える「石上私淑言」は、「安波礼弁」の五年後である。「石上私淑言」になると、もう必死というほどの口調で「此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也」「此心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也」と畳みかけている。実際、宣長は、俊成の歌と出会ったことによって、「あはれ」と「もののあはれを知る」とが立ち上がってくるのを見た。その興奮がどれほどのものであったかは、「ある人」の質問に答えている宣長の回答が、あえて自らの興奮を抑え、自重を促しているかのようにも読めることからもわかる。小林氏の意図からはずれるが、ここもやはり小林氏の引用を借りて引く。
――予、心ニハ解サトリタルヤウニ覚ユレド、フト答フベキ言ナシ、ヤヤ思ヒメグラセバ、イヨイヨアハレト云フ言コトバニハ、意味フカキヤウニ思ハレ、一言二言ニテ、タヤスク対ヘラルベクモナケレバ、重ネテ申スベシト答ヘヌ、サテ其人ノイニケルアトニテ、ヨクヨク思ヒメグラスニ従ヒテ、イヨイヨアハレノ言コトバハ、タヤスク思フベキ事ニアラズ、古キ書又ハ古歌ナドニツカヘルヤウヲ、オロオロ思ヒ見ルニ、大方其ノ義多クシテ、一カタ二カタニツカフノミニアラズ、サテ、彼レ是レ古キ書ドモヲ考ヘ見テ、ナヲフカク按アンズレバ、大方歌道ハ、アハレノ一言ヨリ外ホカニ、余義ヨギナシ、神代ヨリ今ニ至リ、末世無窮ニ及ブマデ、ヨミ出ル所ノ和歌ミナ、アハレノ一言ニ帰ス、サレバ此道ノ極意ヲタヅヌルニ、又アハレノ一言ヨリ外ナシ、伊勢源氏ソノ外アラユル物語マデモ、又ソノ本意ヲタヅヌレバ、アハレノ一言ニテ、コレヲ蔽オホフベシ……
こうして時は江戸となり、貴族であった俊成の歌が、近松門左衛門や浮世草子といった大衆相手の作品世界に取り込まれ、「もののあはれを知る」は地下じげの娯楽のなかでもてはやされるようになるのだが、『日本古典文学大辞典』には、この時代、「もののあはれ」は浄瑠璃や小説類でも用いられ、そこでは日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味することが多かったとあった。「もののあはれを知る」は江戸期、永く貴族の社会においてありふれた言葉であったのとはまた別の意味で、ありふれた言葉になっていたのである。
しかし宣長は、少なくとも表面上は、江戸期の「もののあはれを知る」に頓着はしなかったようだ。小林氏にも言及はない。小林氏にしてみれば、宣長が赫々と照らし出した古代・上代からの「もののあはれ」と「もののあはれを知る」に、自分はどこまで肉薄できるか、そこに思いは集中していたであろう。したがって、宣長がそうとはっきり顧みていない以上、小林氏も江戸期の「もののあはれを知る」にかまけている暇はなかったのだ、とは言えるだろう。
だがいま、こうしてこの稿を書きながら、日野氏の『本居宣長集』の「解説」を読み返していて、おのずと脳裏に浮かんだことがある。前回、折口信夫の指摘に沿って、宣長の「もののあはれ」は平安時代の用語例を超え、「うしろみの方の物のあはれ」すなわち世帯向きのことまで抱えこんでいたということを見たが、この「うしろみの方の物のあはれ」は、宣長が江戸時代人、すなわち宣長と同時代の人たちの生活意識、そこから汲み上げたものではなかっただろうか、そういう思いが浮かんだのである。
宣長は、「源氏物語」、「古事記」と、ひとことで言えば古典という「雅」に生きた人だが、人並み以上と言っていいほど「俗」にもひたっていた。日野氏によれば、「京都遊学中の宣長は、よく学ぶと同時によく遊んだ。『在京日記』には、人形浄瑠璃・歌舞伎に強い関心を持ち、しばしば劇場に足を運んだことが記されているし、その他、友人たちと作った狂詩、島原の灯籠見物、石垣町の料理屋での飲食、巷の情痴の人殺しの噂などの記事がある。落語史研究の資料となる米沢彦八についての記事などもある」…… (「宣長と当代文化」、筑摩書房刊『宣長と秋成』所収)
こうして、宣長の俗文化三昧にも目を配ってみると、「本居宣長」の第五章で言われている「好信楽」、第十一章で言われている「聖学」「雑学」が思い起されてくる。以下、第十一章から、小林氏の文章である。
――在京中の宣長の書簡に、「好ミ信ジ楽シム」という言葉がしきりに出て来るに就いては、既に述べたが、この言葉の含蓄するところは、もはや明らかであろう。宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。従って、彼の「雑学」を貫道するものは、「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる。……
――学問とは物知りに至る道ではない、己れを知る道であるとは、恐らく宣長のような天才には、殆ど本能的に摑まれていたのである。彼には、周囲の雰囲気など、実はどうでもいいものであった。むしろ退屈なものだったであろう。卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考え方ではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。……
京都に遊学中、宣長は堀景山という儒医に師事したが、景山は、前時代の官僚儒学や堂上(公家)歌学の偏見から逃れて自由になった、無碍むげの学者の先駆けであった。以下、第四章の終盤からである。日野氏が写し取った宣長の在京生活は、小林氏の眼にはこういうふうに映っていた。
――宣長という魚が、景山という水を得た有様は、宣長の闊達な「在京日記」に明らかである。と言うのは、彼の日記に書かれているのは、言ってみれば、水の事ばかりだという意味にもなるようである。「日記」を読むと、学問しているのだか、遊んでいるのだかわからないような趣がある。塾の儒書会読については、極く簡単な記述があるが、国文学については、何事も語られていない。こまごまと楽し気に記されているのは、四季の行楽や観劇や行事祭礼の見物、市井の風俗などの類いだけである。……
小林氏は小林氏で、宣長を取り巻く江戸時代人の生活意識を、独自に嗅ぎ取っていたようだ。しかし宣長は、ただ浮かれていただけではなかった、こうして「雑学」を好み、信じ、楽しみながら、「聖学」の志は確と胸中に秘めていた。小林氏の文は続く。
――「やつがれなどは、さのみ世のいとなみも、今はまだ、なかるべき身にしあれど、境界につれて、風塵にまよひ、このごろは、書籍なんどは、手にだにとらぬがちなり」(宝暦六年十二月二十六、七日)というような言葉も見られるほどで、環境に向けられた、生き生きとした宣長の眼は摑めるが、間断なくつづけられていたに違いない、彼の心のうちの工夫は、深く隠されている。……
田中康二氏の前掲書によれば、宣長が俊成の歌と出会ったのも景山の著書『不尽言』によってであったらしい。この俊成の歌をどう読むか、これは彼の心のうちに最大の工夫課題として深く隠され、宝暦七年十月、松坂へ帰って「紫文要領」「石上私淑言」の筆を執ったとき、一気に心の外へ躍り出たのであろう。そしていったん躍り出た後は、「もののあはれを知る」は「恋せずば人は心もなからまし」から「うしろみの方の物のあはれ」まで、一瀉千里であったのであろう。むろん貫之の「仮名序」の「心」を、「此こころといふがすなはち物のあはれをしる心也」と読んだとき、そこにはすでに「うしろみの方の物のあはれ」もしっかり読み取られていたはずである。
小林氏は、第十三章で、次のように言っている。
――貫之にとって、「もののあはれ」という言葉は、歌人の言葉であって、楫とりの言葉ではなかった。宣長の場合は違う。言ってみれば、宣長は、楫とりから、「もののあはれ」とは何かと問われ、その正直な素朴な問い方から、問題の深さを悟って考え始めたのである。彼は、「古今集」真名序の言う「幽玄」などという言葉には眼もくれず、仮名序の言う「心」を、「物のあはれを知る心」と断ずれば足りるとした。(中略)それも、元はと言えば、自分は楫とりに問われているので、歌人から問われているのではないという確信に基く。「あはれ」という歌語を洗煉󠄁せんれんするのとは逆に、この言葉を歌語の枠から外し、ただ「あはれ」という平語に向って放つという道を、宣長は行ったと言える。……
ここまでくれば、前回引いた第十五章の次の文は、もう目睫もくしょうと言っていいだろう。
――「物の心を、わきまへしるが、則すなはち物の哀をしる也。世俗にも、世間の事をよくしり、ことにあたりたる人は、心がねれてよきといふに同じ」とまで言う事になったのだから、「世帯をもちて、たとへば、無益のつゐへなる事などのあらんに、これはつゐへぞといふ事を、わきまへしるは、事の心をしる也。其つゐへなるといふ事を、わが心に、ああ是はつゐへなる事かなと感ずる」事は、勿論、「うしろみのかたの物の哀」と呼んでいいわけだ。……
では、さて、宣長が見通した「もののあはれを知る」の「知る」は、何をどう知るのかである。小林氏の文を読んで行こう。
宣長は、和歌史の上での「あはれ」の用例を調査して、先ず次の事に読者の注意を促す、と前置きし、小林氏は第十四章に、「石上私淑言」の巻一から引く。
――阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、情ココロの深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし。……
「あはれ」とは、古来、人の心の動くさま、感じるさま、それを言う言葉として用いられてきた、が、いつのまにかこれに「哀」の字を充てて特に悲哀の意に使われるようになった、宣長の「源氏物語玉の小櫛」二の巻によれば、「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」である。――心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される……。
――宣長が「あはれ」を論ずる「本モト」と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。放って置いても、「あはれ」の代表者になれた悲哀の情の情趣を説くなどは、末の話であった。そういう次第で、彼の論述が、感情論というより、むしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ。彼の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった。……
その「物のあはれを知るとは何か」を、宣長自身はどう言っているか。「紫文要領」巻上からである。小林氏は、同じく第十四章に引く。
――目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是これ事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、猶なほくはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也。……
ここで言われている「事の心」「物の心」の「事」とは出来事、「物」とは文字どおり物と受取り、それらの「心」とは「本質」ということであろうが、「本質」をさらに言うなら「事」の場合はそれが出来しゅったいした理由、「物」の場合はそれが存在していることの意義と、ひとまずは言っていいだろう。むろん、こう簡単に言ってすまされるわけのものではないが、ともあれこれを承けて小林氏は言う。
――明らかに、彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめもわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない。……
「もののあはれを知る」の「知る」は、「感じる」でもあり「知る」でもある。「知る」をさらに言うなら、知識を得る意味の「知る」でもあろうし、「心得る」「弁える」の「知る」でもあろうし、何かを見聞きしてそれと「認める」の「知る」でもあろう。宣長の言う「もののあはれを知る」の「知る」は、そういう「感じる」と「知る」とが瞬時になしとげられる「知る」、すなわち全的な、直観的な認識のことだと小林氏は言うのである。
しかし、先に引いた「紫文要領」の、「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて……」を、小林氏が「彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」と読んだについては、やや飛躍があると言えば言えるだろう。そこは小林氏も承知していて、これを言う前に「紫文要領」の説明は明瞭を欠いているようだが、彼の言おうとするところを感得するのは難しくあるまいと、ここから先は自分の読解だとことわって言っている。が、これに先立って、「もののあはれを知る」にまつわる宣長の論述が、感情論というよりむしろ認識論とでも呼びたいような強い色を帯びているのも当然なのだ、とも言っていた。認識……、認識論……、実はここが、小林氏が宣長に覚えた最大の共感点とも言えるのである。
小林氏の批評活動は、文壇登場論文の「様々なる意匠」以来、一貫して人生の認識活動であった。若き日、小林氏はボードレール、ランボーらとともに、アンドレ・ジイドに熱中したが、氏の生涯の盟友、河上徹太郎氏が、河上氏自身もジイドに熱中した理由をこう書いている。
――ジイドが他の作家と較べて際立って魅力があった所以は、彼が物語ったり歌ったりする作家ではなく、「識る」、つまり人間や世界の存在の意味を探ることを窮極の目標として創造する文学者であったからなのである。……(「認識の詩人」、『私の詩と真実』所収)
同じ理由が、小林氏にもあったと言っていい。晩年、氏は真夏の九州で開かれた「全国学生青年合宿教室」に積極的に足を運び、朝から学生たちに講義をするとともに彼らの質問に答えたが、そのなかにこういう問答がある。
――学生 小林さんは自分の経験を表現するために評論というフォームを選ばれたということですか。それは、他の人が短歌で経験を詠むのとまったく一緒ということですか?
小林 そうです。僕の表現の形式が評論の形に定まったということは、一つの運命みたいなものだと思っています。こういう形に定まろうとは思っていませんでした。僕ははじめ小説でも書こうかなと思っていたからね。そうしたら、どうも小説を書くよりも、評論というフォームを取るようになっていった。自然にそうなったのです。これはいろんな原因があるでしょう。その原因をこうだと見極めることはできないけれども、そこには何か必然的なものがあったのでしょうな。……(新潮文庫『学生との対話』より)
小林氏が、「何か必然的なものがあったのでしょうな」と言った必然とは、氏生来の「識る」「認識する」ということに対する烈しい欲求であったと見ていい。この生まれついての性向が、小林氏を批評家にしたと言ってよいのである。そのことは、昭和七年、三十歳で書いた「Xへの手紙」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第4集所収)が証している。この作品は、雑誌『中央公論』から小説をと言われ、小林氏自身も小説を書くつもりで書いた、しかし、出来上がった作品は、小説と言えば言えなくもないが、文体の手触りは評論である、すなわち、描写ではなく認識行為の所産である。小林氏は「Xへの手紙」で、自分自身の人生を苛烈に認識し、この「Xへの手紙」を分水嶺として、小説家志望から批評家、すなわち人間および人生の認識家となったのである。
小林氏の語録に、批評とは他人をダシにして己れを語ることだ、がある。先回りしていえば、『本居宣長』は小林氏が、本居宣長をダシにして己れを語った大著であるのだが、ここに露出している「彼(宣長)は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである」は、それこそ具体的、現実的に小林氏が己れを語った言葉であり、ここから氏は本居宣長という鉱脈を掘っていくのである。
そしてその鉱脈は、ただちに紫式部に通じていた。ここまでにも何回か引用した「紫文要領」の「紫文」とは「源氏物語」の意であり、「紫」は紫式部のことである。紀貫之の「古今集」序から藤原俊成の歌へと深まっていた宣長の「もののあはれを知る」とは何かの思索は、「源氏物語」との出会いによって一気に加速した。小林氏は、宣長は「源氏物語」の味読によって開眼したとまで言っている。
先の、明らかに宣長は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである、と言った文に続くくだりを引こう。
――よろずの事にふれて、おのずから心が感ウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が「わが心」と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きた情ココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、「物のあはれを知る」という「道」なのである。彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝情趣の描写家ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった。……
前々回、小林氏は現行の第十一章を書いた後、昭和四十一年十一月号から翌年三月号まで、連載を休んで「源氏物語」を熟読したと紹介した。この「源氏物語」を読むということは、宣長が「源氏物語」を読んで知った「もののあはれ」を、小林氏自身もしっかり知ろうとしてのことであった。その「もののあはれを知る」ときが、私たちにも訪れている。
(第六回 了)
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「本居宣長」自問自答
本居宣長の「告白」――やまと心と漢から意ごころ――
橋本 明子
言うまでもなく、本居宣長は人生の半分、三十五年をかけて「古事記伝」を著した学者です。「古事記」は、それまで誰も読むことのできなかった、宣長の生きた江戸時代から見ても千年以上前に漢字のみを使って書かれていた書物です。その「書物」を、当時の、ということは古代の日本人の心で解読するという、今日では想像することさえ容易でない偉業を成し遂げたのですが、本人は自身の学問について、晩年の随筆集「玉勝間」に「おのれとり分て人につたふべきふしなき事」と題する文章を残し、「自分には別段人に伝えるべき教えなどない」と言っていて(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28 集p. 100)、ますます宣長は偉大だと思わせられますし、宣長への関心はいっそう深まります。
私は昨年、「本居宣長」第四十三章の「御典ミフミを読むとは、わが心を読むという事であった」という件くだりに目が留まり、この一文が何を伝えるものか理解したいという思いから、今年の一月、自問自答を行いました。
第四十三章に、小林先生が「御典ミフミを読むとは、わが心を読むという事であった。この道を行けるところまで行ったのが、自分が『此身の固め』に心を砕いたという、その事であった」と言われているのは、宣長が、道を究めようと弛たゆまず続けてきた取組みを振り返って述べた、感想でしょうか。それは言い換えれば、誰も読むことのできなかった「古事記」を読むため、わが心に漢から意ごころが染みついてはいないかと常に疑い、漢意の欠けらでもあれば徹底的に捨て去る、これを繰り返し繰り返して、とうとう、生きとし生けるものであれば誰もが持つ、自身のまごころに気づいた、そういうことでしょうか。……
ここに見られる「御典」は「古事記」を指すと、宣長の学問論「うひ山ぶみ」で言われていますが、宣長はその「うひ山ぶみ」で、「詮せんずるところ、学問は、ただ年月長く、倦ウマず、おこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて」と言っているとおりに三十五年間、毎日「古事記」に向かい、その間ずっと、自分の心に漢意が染みついていないか、確かめ続けたというのです。その理由を記した件があります。
わが国の古典を明らめる、わが国の学者の心構えを、特に「やまと魂」と呼ぶには当たらぬ事だ。それは、内の事を「外ヨソにしたるいひやう」で、「わろきいひざま」であるが、残念乍ながら、その心構えが、かたまっていないのだから、仕方なく、そういう言い方もする。何故かたまらないかと言うと、漢意儒意に妨げられて、かたまらない。――「からぶみをもまじへよむべし、漢籍を見るも、学問のために益おほし、やまと魂だによく堅カ固タまりて、動くことなければ、昼夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はさるゝうれひはなきなり、然しかれども世の人、とかく倭ヤマト魂ダマシヒかたまりにくき物にて、から書をよめば、そのことよきにまどはされて、たぢろきやすきならひ也、ことよきとは、その文辞を、麗ウルハしといふにはあらず、詞ことばの巧にして、人の思ひつきやすく、まどはされやすきさまなるをいふ也、すべてから書は、言巧にして、ものの理非を、かしこくいひまはしたれば、人のよく思ひつく也、すべて学問すぢならぬ、よのつねの世俗の事にても、弁舌よく、かしこく物をいひまはす人の言には、人のなびきやすき物なるが、漢籍もさやうなるものと心得居べし」(同、第27集p. 284)
倭魂はかたまりにくく、漢書を読めばすぐに惑わされ、たじろいでしまう。「古事記」を読むということは、目で文字を追い、書かれた内容を客観的に分析するのではなく、やまと心をもって「古事記」の心を理解することであると、宣長は考えていました。自身のやまと心に漢意が染みついていないかを確かめ続け、いつのまにか染みついている、染みつきそうだ、と思えた漢意は徹底的に捨て去る、この継続は生半可な覚悟ではできず、容易ならぬ経験を味わった、とあります。
もし此身の固めをよくせずして、神の御典ミフミをよむときは、甲冑をも着ず、素膚スハダにして戦ひて、たちまち敵のために、手を負うがごとく、かならずからごゝろに落入べし。(「初山踏」)
「小林秀雄に学ぶ塾」の池田雅延塾頭は、「何事であれ漢意は人に理屈を押しつけようとし、人間の生き方にまで勝手な理屈を押しつけてきます、宣長はそこを見ぬいていたのです」と説明され、私の自問自答にある「感想」という言葉はあまりに軽く、ここは漢意はどんなに手強い敵であったか、その手強い敵と宣長はどう戦ったか、戦いぬいたかの「告白」なのだと教えてくださいました。
さらに宣長は、「やまと心」は説明が適わないものだから、自分の歌を一首、見てもらう、この歌の姿を素直に受け取ってほしいと言います。これを受けて小林先生は、先に引いた「わが国の古典を明らめる、わが国の学者の心構えを、特に『やまと魂』と呼ぶには当たらぬ事だ。……」の文章の最後で、「『やまと心』とは何かと問われても、説明が適かなわぬから歌を一首、歌の姿を素直に受取って貰もらえば、別に仔細しさいはない、と宣長は言うのである」と言われています。その歌とは次の一首です。
しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花
「やまと心って、どんな心なんですか?」と人に訊かれたら、私はこう答える、澄んだ春の青空を背に、朝のやさしい日差しを受けて美しく柔らかく咲く山桜、あの山桜のような心です、と……。そうであるならば、やまと心は「道」の中心にある、人のまごころではないでしょうか。
まごころについては、本塾の塾生の溝口朋芽さんが考えを深められていて、本塾の別の回で、「まごころ」とは「人の心のおのづからなるありよう」を言った言葉、言い換えれば、人なら誰もが生まれつき与えられている純朴な心であると話されていました。
また、第三十七章には、次のような一節があります。「そういう次第で、明らかに、宣長の歌学の中心にあった『物のあはれを知る心』が、『道』の学問では、そのまま『人のまごころ』となるのである」(「小林秀雄全作品」第28集p. 66)。
美に接すると思わず震え、その場に坐りこみさえするような、柔らかで、時に弱々しい、人の心のおのずからなるありようを素直に認める、自分の心が、無意識のうちに漢意に囚われていないかと疑って、よくよく見つめる、こうした姿勢で生活することが、よく生きるということだと、このたび「本居宣長」から学びました。しかし、宣長にしてみれば、「あなたが生まれながらに持つ心、まごころを大切にしているのであれば、「おのれとり分て人につたふべきふしなし」ということなのかもしれません。
(了)
物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅲ
――古代人の心ばえへ →
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