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日本の方言と大陸国や半島国の方言とは違う。
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日本の方言
方言が生まれた理由は何ですか?
日本の地形には 険(けわ)しい山々や流れの激(はげ)しい川が多いです。 そのため以前はその自然の壁にさえぎられ自由に交流することができませんでした。 その結果、地域ごとに違った方言が生まれたのです。
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2024年10月31日号 週刊新潮「池谷裕二の全知全能 連載69
小さな島は『言語』の宝庫
島嶼(とうしょ)という言葉があります。嶼という字は難しくて私には書けません。常用漢字ではありませんし、『島嶼』とい熟語の中でしか見かけない珍しい漢字です。調べたところ、島嶼は『小さな島』を意味するようです。つまり、島嶼は『大小の島々』という意味になります。
世界地図を見れば、大陸部と島嶼部があることに気づきます。大陸部は大きく目立つため、すぐに判別できます。一方、島嶼部には、ゴマ塩をちりばめたように島々が大洋に浮かんでいます。ハワイ諸島や小笠原諸島など、『OO諸島』という名称で呼ばれていることが一般的です。
島嶼部では各島が海で隔てられています。だから、距離的に近くても固有種が独自の進化を遂げる傾向があります。かのガラパゴス諸島では、鳥のくちばしの形状が島によって異なることに気づいたダーウィンが、進化論への確信を深めたことは有名です。
島嶼は、生態系の多様性だけでなく、ヒトの言語の多様性にも関係しています。オーストラリア国立大学のブロンハム博士らは『島嶼は言語多様性のエンジンである』というユニークなタイトルの論文を先月発表しています。1万3,000の島を対象に、面積や孤立度、気候、地形などの要素と、そこに住む人々が話す言語の関係性が調査されました。
調査の結果、地理的、あるいは環境的に孤立した島など、その島固有の言語を有していることがわかりました。島嶼の固有言語では、用いられる音素の数が少なく、言語体系がシンプルでした。
世界には約7,000の言語が存在しています。そのうち約1,200が小さな島に固有な言語でした。これは、世界の言語の約17%が、陸地の面積のわずか0.71%にすぎない島嶼部に集中していることを意味します。それほどに島嶼は言語の宝庫となっているのです。
世界的にみると、言語の多様性は年々減少傾向にあります。毎年約9個の言語が、世界のどこで消えています。
言語の多様性を保護すべきか否かについては、それこそ『多様』な意見があります。グローバルなコミュニケーション促進のためには少数言語を統合したほうが効率が高まります。言語の保存にも莫大なコストがかかります。若い世代への教育も大変です。
一方、言語は文化遺産です。若い世代への教育も大変です。
一方、言語は文化遺産です。歴史や文化、伝統、知識を保存するうえで、言語は多様であったほうが好都合です。たとえば、現地の動植物の生態については、その言語でしか語られていない知識も多くあります
つまり、言語の多様性は、地球全体の生態系における多様性の多様性の保全にも役立つのです。ブロンハム博士らの論文が、言語学系分野の学術誌ではなく、『ネイチャー生態学&進化』誌に掲載されたのも、そうした背景があるのでしょう。
幸いなことに、島嶼の少数言語は、大陸部の言語にくらべて外部の言語にくらべて 外部からの干渉が少ないため、絶滅の危険度が比較的低いそうです。
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ウィキペディア
ロシアの日本語学校
「日本語学校」の記事における「ロシアの日本語学校」の解説
1696年、ロシア帝国のカムチャツカ半島に漂着した大坂出身の日本人伝兵衛は、ウラジーミル・アトラソフ探検隊に保護された後、モスクワでロシア皇帝ピョートル1世に拝謁した。日本の事情について聞いたピョートル1世は日本語学校の設立を命じ、1702年に伝兵衛を教師とした日本語学校が設立され、1705年にはサンクトペテルブルクに移転した。その後、1710年に1名、1728年に薩摩出身の2名の日本人漂流民が新たに教師となり、薩摩出身の権蔵(ゴンザ)は日本語学校長ボグダノフとともに世界初の露日辞典を作成した。 1744年、南部藩の多賀丸が千島列島の温禰古丹島に漂着し、生存した10名はイルクーツクに送られた。そのためロシア政府はイルクーツクに日本語学校を新設し、10名はイルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化したのち、日本語教師となった。ロシアがこのように日本語教育に熱心であった理由は、シベリアの慢性的な食糧不足を日本との交易によって解消しようとしたためで、1778年に厚岸で松前藩の役人と会談したパベル・レベデフ=ラストチキンは、多賀丸漂流民から日本語を習った通訳を伴っていた。多賀丸漂流民10名は1786年までに全員病死し、その後は多賀丸漂流民の遺児たちと教え子によって学校は維持されたが、生徒数は数人に減り、廃校寸前となった。 1789年、1783年にアリューシャン列島に漂着した大黒屋光太夫ら5名がイルクーツクに到着した。ロシア政府は光太夫一行に対し、ロシアに帰化して日本語教師になることを勧めるが、キリル・ラクスマンの支援を受けた光太夫の嘆願により、帰国が許可された。しかし、イルクーツクで結婚して帰化した新蔵と、病気になり洗礼を受けて帰化した庄蔵は現地に残留し、そのうち新蔵は日本語教師に就任している。 1794年、仙台藩の若宮丸がアリューシャン列島に漂着し、生存者15名はオホーツクに送られた。ここで若宮丸漂流民15名は3グループに分かれてイルクーツクに送られることになり、善六、辰蔵、儀兵衛の3名が最初にイルクーツクに到着した。3名の世話には新蔵と日本語通訳のトゥゴルコフがあたったが、新蔵たちは善六に目をつけて熱心に説得し、ロシアへの帰化と日本語教師就任を了承させた。善六は他の2人の説得を試み、辰蔵もロシアに帰化するが、帰国を強く望んでいた儀兵衛だけは洗礼を拒否したため、両者の仲は険悪になった。その後、後続の者もイルクーツクに到着するが、帰化と日本語教師就任に応じたのは2名のみであった。1803年、若宮丸漂流民の帰国許可が下り、津太夫ら4名は帰国し、9名はロシアに残留した。帰国者の送還に善六はロシア側随員として同行することになり、この航海途中に善六はニコライ・レザノフとともに露日辞典を作成している。 その後もイルクーツクの日本語学校は、新蔵や善六の手によって運営されたが、両者の死後である1816年に閉鎖され、ロシアにおける日本語教育は1870年まで途絶えることとなった。
※この「ロシアの日本語学校」の解説は、「日本語学校」の解説の一部です。
「ロシアの日本語学校」を含む「日本語学校」の記事については、「日本語学校」の概要を参照ください。
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雑学ネタ帳
「日本語」ではなく「国語」の理由
イギリスは英語、フランスはフランス語、ドイツはドイツ語、日本は日本語。しかし、授業ではなぜか「日本語」ではなく「国語」という科目である。
国語の教科書
なぜ学校の授業科目は「日本語」ではなく「国語」という名称なのか。それは国として日本を一つにするという意味が込められていたためである。
江戸時代、日本はそれぞれの大名が支配する300近くの地域に分かれており、それぞれ藩と呼ばれた。その藩という独立国が集まった状態が日本という国だった。そして、藩によって言葉はそれぞれ違い、生まれた藩から出ずに一生を終える人も多かった。
そのため、出身地の言葉である御国言葉(おくにことば)だけで何不自由なく生活できた。そして、江戸時代には日本の共通語は存在しなかった。その後、幕末の頃になると様々な地方から人が集まるようになったが、それぞれの言葉がずいぶん違い、お互いの言葉がよく分からない状況だった。
現在でも日本の国の中で北の地方と南の地方では言葉がずいぶん違い、会話をするのが難しい場合もある。江戸時代にはテレビやラジオはなく、普段使っている自分の地域の言葉だけで生活はできたが、国全体として見ると、どうしても共通の言葉が必要となる時代が到来していた。
明治時代、中央政府が全国を治めるようになった。そして、日本列島を一つ国、一つの国民だという形で、大日本帝国としての日本という国が制度化されていった。その中で、日本を一つの国にまとめ上げるための手段として、誰もが共通して理解できる標準語が必要との意見が高まっていた。
そして、日本を一つの国にする言葉を「国語」と呼ぶようになり、それを教える授業の名称も「国語」となった。東京帝国大学の文学部長であり、言語学者の上田万年(うえだ かずとし、1867~1937年)が「國語(国語)」という言葉を使い、日本の発展には言葉が重要だと説いたことも大きなきっかけとなった。
しかし、標準語を長く日本の中心であった京都の言葉にするか、首都である東京の言葉にするか、という問題があった。この問題は10年以上の長い年月の間、結論が出なかったが、最終的に1904年(明治37年)に標準語問題に決着がつき、東京の教養ある人々が使う言葉を標準語とし、それを子ども達に教えることが決定された。
このように「国語」には標準語により日本を一つにするという目的があった。そして、授業科目の「国語」において東京の言葉が日本の標準語として教えられ、日本の国民全員が同じ言葉を理解できるようになった。
リンク:Wikipedia、コトバンク
2020/1/18
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日本文教出版
2015.05.26
学び!と歴史
日本語と国語
―その精神の位相が語りかけるもの―
大濱 徹也(おおはま・てつや)
承前
日本列島は、亜寒帯から亜熱帯におよぶ弓状列島で、その姿を吉田松陰が蛇に、内村鑑三が天女に喩え、国の使命が語られております。このような列島のありかたは、各地域に固有の暮らしから生まれてきた文化があり、生活の場がもたらす地域的偏差をもたらし、地域によって話す言葉がことなりました。このことは、Vol.84「徳川の平和」で紹介しましたように、大坂郊外の住吉で在所の子供に手習い教授をはじめた奈良育ちの老人が村の童と言葉が通じないがため、謡を習ったという一事にもみることができます。
ちなみに明治期の北海道では、各地からの移住者間で話が通らない場合、謡曲の節回しで会話をすることがみられた、と老人がかたってくれました。琉球奄美、薩摩大隅から松前、津軽、南部、西南日本と東北日本の間にある言葉の落差をうめ、この地域固有の言葉を「方言」となし、列島に共通する言葉の「標準語」をつくることは、列島の住民をして、「日本国民」にする上で不可欠な作業でした。ここに国語の造型がはじまります。
日本語とは
日本列島の住民が共有する言葉を日本語とすれば、日本語とは何でしょうか。中華文明の圧倒的影響下にあったヤマトー日本は、漢字を学び、この表意文字で文章を書き、意思を表現しました。漢字こそは、「真名」と称されていますように、古代国家における公的世界の公的言語でした。それ以来というもの日本の公的な文書は漢字で表記されたのです。
平安時代には、この漢字を借用し、「かな」文字による表現がはじまり、漢字では表現できない心の動きを書き表わせる和語が成立し、『源氏物語』などの文学作品や和歌がさかんになります。ここに用いられた和語は、公的世界の言葉が「真名」文字である漢字であるがため、「かな」仮の言葉でしかありませんでした。平安時代以降は、和語であるかな文字が普及し、「いろは」を学ぶなかで庶民の識字力がたかまります。
明治維新による日本の近代化は、西洋文明を受け入れるため、外国語を「カタカナ」で表記することで、西洋の知識文物をとりこんでいきました。かくして日本語は、漢字、ひらがな、カタカナの混合した世界で、言語としての機能を果していきます。まさに近年の言語様式は、国際化の流れにのみ込まれたがため、カタカナ語の氾濫となっています。このような日本語の在り方には、国語という科目が現代文、古文、漢文で構成されていますように、外来文化を摂取し、自家薬籠とすることで己の文化を造型してきた列島住民の相貌が読みとれましょう。
それだけに明治日本は、列島住民が日本国民として一つにするために、地域的な固有性をおびた日本語をして、国民が共有しうる言葉としての「標準語」を「国語」として確立せねばなりませんでした。とくに軍隊は、命令伝達をするためにも、兵隊同志の言葉が通じなくてはなりません。そのためには、標準語が未確立であるため、軍隊固有の「兵語」ともいうべき軍隊用語をうみだします。そこでは、和語がもつ地域的偏差をのりこえるために、漢字の音読みがつかわれました。「誠心」を「せいしん」、「正直」を「せいちょく」、ズボンを「袴(こ)」、スリッパを「上靴(じょうか)」、洗濯物を干す「物干場(ぶっかんば)」、靴下を「軍足(ぐんそく)」等々と。いわば地域ごとにことなる呼称は、漢音読みをすることで、世界の共有がはかられたのです。
国語への思い
日本の言語学、国語学の開拓者上田万年は、列島の住民が日本国民として一つ世界を共有するために、「大和民族」としての言語、国語の確立が急務の課題となし、日清戦争で昨日「平壌を陥れ、今日又海洋島に戦ひ勝ちぬ。支那は最早日本の武力上、眼中になきものなり」という強い戦勝意識のおもむくままに、1894年(明治27)10月8日に哲学館(現東洋大学)で「国語と国家と」なる講演をし、国語によせる強い思いを高らかに問いかけました。
{日本の如きは、殊に一家族の発達して一人民となり、一人民発達して一国民となりし者にて、神皇蕃別の名はあるものの、実は今日となりては、凡て此等を溶化し去たるなり。こは実に国家の一大慶事にして、一朝事あるの秋に当り。われわれ日本国民が協同の運動をなし得るは主としてその忠君愛国の大和魂と、この一国一般の言語とを有つ、大和民族あるに拠りてなり。故に予輩の義務として、この言語の一致と、人種の一致とをば、帝国の歴史と共に、一歩も其方向よりあやまり退くかしめざる様勉めざるべからず。(略)
言語はこれを話す人民に取りては、恰も其血液が肉体上の同胞を示すが如く、精神上の同胞を示すものにして、之を日本国語にたとへていへば、日本語は日本人の精神的血液なりといひつべし。日本の国体は、この精神的血液にて主として維持せられ、日本の人種はこの最も永く保存せらるべき鎖の為に散乱せざるなり。故に大難の一度来るや、此声の響くかぎりは、四千万の同胞は何時にても耳を傾くるなり。何処までも赴いてあくまでも助くるなり、死ぬまでも尽すなり、而して一朝慶報に接する時は、千島のはても、沖縄のはしも、一斉に君が八千代をことほぎ奉るなり。もしそれ此のことばを外国にて聞くときは、こは実に一種の音楽なり、一種天堂の福音なり。}
まさに国語は、「帝室の藩屏、国民の慈母、国民の血脈」と位置づけられることで、日本国民の精神的紐帯とみなされたのです。この国語が負わされた使命こそは、一民族一国家一言語という「神話」を信仰し、日本国民の物語を説き聞かせ、列島がもつ多様性と多義性を無視する精神の営みを育んだものといえましょう。この営みこそは、異質な存在を排除し、己の世界観を絶対視する偏狭なナショナリズムを生み育てた根ではないでしょうか。それだけに国語に対峙する日本語への眼を自覚的に問い質したいものです。
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ウィキペディア
日本語の方言、すなわち日本語の地域変種(地域方言)について記述する。
日本語は語彙・文法・音韻・アクセントなどあらゆる面で地方ごとの方言差が大きく、異なる地方に転居や旅行した際に、言葉が通じず苦労する場合が少なくない。日本語の方言は大きく「本土方言」と「琉球方言」に分かれ、それぞれがさらに細分化できる(区分章を参照)。明治以降、東京方言をもとに標準語の確立と普及が進められ、地方の方言はそれを阻害するものとして否定的にとらえられるようになった。今日では共通語(第二次世界大戦後、学校教育やNHKなどで「標準語」から呼称が改められた)と方言の共存が模索されるようになったが、実際には各地の伝統的な方言は急速に衰退・変質している(歴史・近代以降章を参照)。
日本では「方言」という語は、共通語を比較基準として、「めんこい」「おもろい」「ばってん」のような地方特有の語彙や言い回し(「俚言」)、あるいは特有の抑揚や発音(いわゆる「なまり」)を指す場合が多い。しかし、言語学において「方言」は、共通語との相違だけにとらわれず、アクセント・音韻・文法などあらゆる面を対象とした「その地域社会の言語体系全体」を指し、一般には共通語と同一視されやすい東京周辺の言葉についても、東京という一地域の日本語の体系ととらえて「東京方言」として扱う。
「言語」と「方言」
断定の助動詞「だ」「じゃ」「や」の分布図
四つ仮名の分布図。緑色に塗られた地域の方言がいわゆるズーズー弁。
→「琉球諸語 § 言語か方言か」も参照
本土方言と琉球方言は、文献時代に入る以前に分岐し、その後の往来も少なかったため、一聴する限り外国語同士に聞こえるほどの差が生じた。そのため、琉球方言を「琉球語」として、本土の日本語とは独立した別言語とする考え方がある。また、琉球諸島は地域ごとの方言差が本土以上に著しいため、琉球諸島各地に存在する方言をそれぞれ別個の言語ととらえ、琉球方言ないし琉球語を「琉球諸語」として、異なる諸言語の集合と位置づける考え方もある。ただし、本土と琉球諸島の言語に対応関係があることは明らかであり、琉球方言を言語とみなす場合でも、日本語と琉球語(琉球諸語)はまったく無関係の別言語ではなく、日琉語族(日本語族)を構成する姉妹言語とされる。
そもそも「言語」と「方言」の客観的な区別方法はなく、言語差の大小よりも、政治的条件や正書法の有無、話者の意識などで判別される傾向にある。ユネスコが2009年に発表した消滅の危機にある言語の調査では、琉球方言および八丈方言は「国際的な基準だと独立の言語と扱うのが妥当」であるとして、八重山語、与那国語を「重大な危険」、沖縄語、国頭語、宮古語、奄美語、八丈語を「危険」の区分に独立言語として分類した。
アイヌ語・ウィルタ語・ニヴフ語も日本列島北部で話されている(話されていた)言語であるが、系統が異なるため日琉語族には含まれない。
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方言とは、中国大陸や朝鮮半島、樺太(サハリン)、千島列島、カムチャッカ半島などの海外から地方に上陸してきた外来語ではなく、日本民族の祖先である数万年前の縄文人(日本土人)、数千年前の弥生人・古墳人、千年前から権力闘争で敗れた落ち武者が日本全国に移り住み、彼らが話していた言葉が土着し変化して今日まで伝えられた言葉である。
その意味では、琉球民族やアイヌ民族も縄文人の子孫というのならば、琉球言語やアイヌ言語は日本列島の土着言語といえる。
もし、沖縄県民やアイヌ人の独立派が主張するように、琉球民族やアイヌ民族が日本列島の先住民である日本民族とは別種の民族として縄文人の子孫を否定するのであれば、琉球言語やアイヌ言語は新参の外来語という事になる。
アイヌ民族は、ロシアの少数民族ではない。
琉球民族は、中国の少数民族ではないし漢族の同族でもない。
日本には、数多くの偏見と差別が存在する差別社会であり、差別からイジメや意地悪が蔓延している人間関係がギスギスした社会である。
中央と地方、関東と関西、北日本と南日本などの住居に関する地域差別。貴種、家、家柄、出自、血筋などの人差別。金持ち、貧乏人の貧富の差別、出身校、業種、職業、役職、地位による社会差別、標準語、方言、外国語などによる言語差別。その他。
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人類学的に言えば、日本民族とは日本列島に住み日本国語を話す人の事である。
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日本の地方方言は、縄文人・弥生人・古墳人らの子孫が閉ざされて地域で独自に発展させてきた列島言語で、その数は数多く話されていた。
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日本の地方方言は、過酷な自然環境と閉鎖された地理的地形と濃密な人間社会で独自に発展してきた。
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日本国言語には、春夏秋冬、季節に関係なく、広範囲に同時多発的に頻発する複合災害多発地帯を生き抜く為の智恵が伝統文化として詰まっている。
日本国語の守護者と日本文化の主催者が、女性神・天照大神を最高神とする神話物語を正統の根拠とする男系父系天皇である。
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日本国語は、何時、衰退して消滅するか分からない生存能力が弱い言語である。
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拝米派のエセ保守は英語を公用語として日本国語を家庭内言語に切り換えようとし、反米派・反安保派・反自衛隊派の日本人は中国語を公用語にして日本国語を消滅させようとしている。
反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人は、民族的な伝統力・文化力・歴史力そして宗教力のない為に日本国語への愛着も持ってはいない。
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日本国語は、他に類似名兄弟言語を持たない孤独な言語であり、独立した言語として特殊ではあったが優秀な言語でもなく、当然、世界の中心言語にもなれない単なる辺境言語・土着言語・土人言語にすぎない。
日本民族・アイヌ民族・琉球民族が兄弟民族であるように、日本国語・アイヌ語・琉球語には似通った所がある。
日本列島における先住民の元祖は、数万年前の旧石器人(ヤポネシア人)・縄文人(日本土人)である。
日本と中国・朝鮮との関係は、対等関係の友好はなく、一衣帯水の関係でもなかった。
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日本列島に流れ着いた・辿り着いたホモ・サピエンスは、不毛の大地を切り開く開拓者でもなく、未開地に踏み込む冒険者でもなければ、野蛮な先住民を襲って土地から追い出した勇者でもない、むしろ生存競争における弱者であり、弱肉強食における敗者の類いであった。
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ヤマト大王・ヤマト王権は、日本統一に合わせて奈良方言を公用語として日本全国に広めた。
ヤマト大王・ヤマト王権による日本統一と奈良方言の公用語化は、中華帝国・朝鮮諸王朝からの分離独立の為に必要な避けては通れない国家プロジェクトであった。
が、中国帝国と朝鮮諸王朝は執拗に日本侵略を繰り返し、反ヤマト大王・反ヤマト王権勢力を支援するという内政干渉をおこなっていた。
中国帝国と朝鮮諸王朝の対日戦略は、大中華主義・儒教思想の華夷秩序で日本を朝貢冊封体制に組み込み、支配し間接統治する事であった。
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日本の日本国語は日本文化同様に、中国語・朝鮮語・韓国語のように他国言語異民族大国に侵略され、蹂躙・虐殺され、占領支配された事がない為に独自の言語・文化として発展してきたが、いつの時代でも開放的に貪欲に海外の言語や文化を取り入れてきた。
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単一言語と言われる日本国語は、明治の近代化・軍事化の為に創られた新造語であって、江戸時代までには存在せず、当時の日本人が話していた言語は国別・地域別の雑多な方言であった。
鹿児島弁の薩摩人と津軽弁の青森人が会話しても、お互いに相手の言葉が理解できなかった。
江戸時代における会話は、政治は徳川幕府の江戸弁であり、経済は大阪商人の大阪弁であり、文化は天皇・公家の京都弁であった。
江戸の町には、山手の教養あるお屋敷言葉と粗雑な下町の粋(いき)で鯔背(いなせ)な庶民言語がったが、時代によって流行方言が存在していた。
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パックス・トクガワの平和な時代であれば、数多くの地域方言が並立して存在しても良かった。
各地の大名は、地域方言を江戸弁・京都弁・関西弁などで統一言語を作って広めない事で領民と他領民の区別を図り、領地経営をおこなっていた。大名が恐れたのは、幕府が派遣してくる隠密(忍者・お庭番)であった。
ロシア帝国は、日本との交易を目指してオホーツク海沿岸に漂着した日本人の漁民や船乗りを教師として日本語学校を造って、ロシア人に日本国語を教えていたが、漂着者は別々の地方方言を話していた為に、漂着者が替わると教える日本国語が代わって統一性を無くしていた。
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明治新政府は、ロシアとの戦争に備える為に強力な軍隊を創設し精強な兵士を鍛える為に軍隊言語として日本国語を創作し、全国で新設する学校で地域方言に代えて統一言語の日本国語を義務教育として教えた。
単一言語とされる標準語・共通語である日本国語の創設は、日本を天皇中心国家・中央集権国家に造り替える為の軍国主義政策の一つであった。
つまり、江戸時代後期から日本に迫ってきていたロシアの軍事侵略という脅威・恐怖に対する狂奔した国防策であった。
新語の日本国語を広める事は、日本民族の同一性を高め民族主義・天皇主義で国民を一つにまとめ国防意識を強める事であった、同時に日本に害をなそうとするロシア人・中国人・朝鮮人を峻別する為であった。その選別が原因で起きたのが、関東大震災における日本人・朝鮮人・中国人惨殺事件である。それは、偏見と差別が理由ではなかった。
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日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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崇峻天皇は、蘇我馬子戯れ言を真に受けた思慮分別の浅い大陸系渡来人によって暗殺された。
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日本を占領したGHQのユダヤ人共産主義者は、日本を骨抜き国家へ大改造する為に、日本国語から近代軍隊用語を廃絶し現代平和用語へと切り換えるべく、敗戦利得者を走狗として宗教・教育・報道の左傾改革をおこなった。
その後押しをしていたのが、ソ連・中国共産党の国際的共産主義勢力であった。
それが戦後民主主義教育の実態であり、そこから数多くの戦後エリート層が生まれた。
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