⚔30)─6・G・②─豊臣秀吉のバテレン追放令と宣教師・信徒26人処刑は国民保護法と危機管理であった。~No.125 

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 戦国時代の中世キリスト教会・イエズス会伝道所群による日本布教は、キリスト教の日本伝来ではなくキリスト教会の日本宗教侵略であった。
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 2024年11月27日 YAHOO!JAPANニュース 夕刊フジ豊臣秀吉の「バテレン追放令」は日本初の安全保障法制だ 渡来ポルトガル人ら連行…いわば〝国民保護法〟危機管理に優れた武将
 阪城内の豊國神社に建つ豊臣秀吉公像
 【井上和彦 永田町よ先人に学べ】
 時は戦国時代の1543年、ポルトガル商人が種子島へ漂着し、鉄砲(火縄銃)を初めて日本に伝えた。その後、ポルトガルとの交易が広がったが、ポルトガルは日本を植民地にしなかった。この頃のポルトガルの振る舞いを考えると、実に不可思議なことではないだろうか。
 イタリアのイエズス会巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノはこう言っている。
 《日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら(中略)国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服可能な国土ではない》(波多野毅著『世界の偉人たちが贈る 日本賛辞の至言33撰』ごま書房)
 イエズス会が日本征服をあきらめた理由について、波多野毅氏は、死をもいとわぬ武士の存在、日本人の進取の気風と民度の高さを挙げている。つまり、「武士という防衛力」と「行き届いた教育」が日本を守ったのだ。これまさしく防衛力整備の基礎である。
 豊臣秀吉の治世では、ポルトガルをはじめ外国との貿易も行ったが、秀吉はキリスト教の拡大を警戒し、1587年に「伴天連(バテレン)追放令」(伴天連=宣教師・神父)を出している。現代の歴史認識では、キリスト教徒の宣教師・神父に対する迫害といった一面だけが流通しているが、実は、これは秀吉の〝安全保障政策〟でもあったのだ。
 実はポルトガル人は、日本人を奴隷として連れ去り、世界各地で売買したりしていたのだ。日本人女性をまさしく性奴隷として買ったりしていたという。
 秀吉はこう述べている。
 《予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう、と》(ルイス・フロイス著、松田耕一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史4―豊臣秀吉編』中公文庫)
 つまりバテレン追放令は、日本人を守るいわば〝国民保護法〟であり、「日本初の安保法制」だったわけである。
 秀吉は危機管理に優れた武将であったのだ。
 現代の政治家は、いかなることがあっても「国民を守る気概」と「安全保障感覚」を秀吉に学ぶべきであろう。
井上和彦(いのうえ・かずひこ) 軍事ジャーナリスト。1963年、滋賀県生まれ。法政大学卒。軍事・安全保障・外交問題などをテーマに、テレビ番組のキャスターやコメンテーターを務める。産経新聞「正論」執筆メンバー。フジサンケイグループ第17回「正論新風賞」、第6回「アパ日本再興大賞」を受賞。著書・共著に『日本が戦ってくれて感謝しています』(産経新聞出版)、『封印された「日本軍戦勝史」』(産経NF文庫)、『歪められた真実~昭和の大戦(大東亜戦争)』(ワック)、『今こそ、日台「同盟」宣言!』(ビジネス社)など多数。
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 敬虔なキリスト教徒は、日本をキリストの絶対神に捧げ、異教徒を根絶して神の王国を築こうとした。天皇勢力によってキリスト教化が不可能と知るや、九州だけでもキリスト教徒の持ちたる国として日本から分離独立させ、長崎を教皇領として軍港要塞都市を建設し、日本人キリシタン武士団を糾合し神聖騎士団を組織して異教徒との聖戦に備えようと陰謀をめぐらせた。
 それは、日本人キリシタン神聖騎士団と異教徒日本武士団による「天使と悪魔の最終戦争=宗教戦争」であった。
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 日本人奴隷は、人足・小物・足軽らによる戦場での乱取りで集められ、イエズス会など伝道所が仲介して白人キリスト教徒商人に売られて海外に輸出されていた。
 戦国大名は、表向き乱取りを禁止していたが、実際には厳罰で取り締まると合戦への協力が拒否される為に黙認していた。
 人足・小物・足軽らにとっては、乱取りは貴重な現金収入になる為に止める気はなかった。
 その為に、負けた側の人足・小物・足軽は勝った側の百姓に見付かると容赦なく惨殺された。
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 2024年11月27日 YAHOO!JAPANニュース KTNテレビ長崎「「天正遣欧少年使節」を知ってほしい!歴史研究者などが「長崎令和使節団」
 16世紀にローマ教皇に謁見した「天正遣欧少年使節」を多くの人に知ってもらおうと、歴史研究者などがヨーロッパを巡っています。
 ヨーロッパ訪問を前に、県庁で会見を開いたのは歴史研究者など20人で作る「長崎令和使節団」です。
 長崎令和使節団(日本二十六聖人記念館館長)デ・ルカ・レンゾさん
 「(長崎の)世界遺産のことも潜伏キリシタンのことも(海外の人は)あまり知らない。興味を持ってもらえれば」
 「天正遣欧少年使節」は1582年、キリシタン大名大村純忠有馬晴信によってローマへ派遣された少年4人を中心とした使節団です。
 「令和使節団」は、この史実を広めようとスペインやポルトガルの大使館訪問に加えて、11月30日には少年使節も謁見したローマ教皇に会うということです。
 稲富裕和 団長
 「(ヨーロッパの人が)日本人を知ったのは天正遣欧少年使節がきっかけ。それを知ってほしいと思う。長崎の文化でもある」
 使節団は 帰国後、訪問の記録をまとめた書籍を出版し、長崎でも少年使節の史実を広めたいとしています。
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 2021年6月8日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済ONLNE「「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断
 海外連行された被害者はざっと5万人にのぼる
 なぜ豊臣秀吉は「バテレン追放令」によって、キリスト教布教を禁じたのか?(写真:Universal History Archive/Getty)
 当初は織田信長の政策を継承し、日本でのキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉。だが、後に「バテレン追放令」によって布教を禁ずるようになる。秀吉がキリスト教の布教を防ごうとした背景には、ポルトガル人による「奴隷貿易」があった。5万人の日本人が国外に連行されたという、その実態とは? 作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。
 日本にキリスト教が伝わったのは、戦国乱世まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩、今の鹿児島・祇園之洲に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであった。
 このザビエルからバトンを受け継ぐように永禄6年(1563年)、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されたこともあって、京都や西九州中心にキリシタンが急増した。信長が本能寺で斃れた天正10年(1582年)ごろには全国で約15万人の信者がいたと言われている。
 この数字は当時の京都の全人口のほぼ半数に匹敵するものだった。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ信長のキリシタン保護政策を踏襲したが、天正15年になり、突然手のひらを返すかのように「伴天連(ばてれん)追放令」を発する。伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものだという。
 秀吉にはこのとき、布教や商用のために日本にやってくる西欧人に対し、どうしても許せないことがあったのだという。それは一体何だったのだろうか。
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 2023年4月5日 YAHOO!JAPANニュース ZAKZAK「本当に強かった日本
 スペインに日本征服を断念させた武力と知性(上)大航海時代になぜ植民地にならなかった? 宣教師が伝えた「日本人に勝てる民族はいない」
 教科書の日本史を見ても、なかなか分からないことがある。例えば、「日本が大航海時代に植民地にならなかったのはなぜか」という疑問もその一つ。この謎は、世界との関係の中に答えがありそうである。当時の欧州人が戦国日本をどのように見ていたか探ってみよう。
 イエズス会フランシスコ・ザビエルの報告には、以下のようにある。
 「あらゆる民族の人々と話してきたが、日本人こそ一番良い発見であった。キリスト教以外の宗教を信仰する民族の中で、日本人に勝てる他の民族はいない」「人々の大半が読み書きの能力を備えている」「神の法を理解するのにとても便利」
 同じく、イエズス会のコスメ・デ・トーレスは「彼らはとても賢く、スペイン人のように理想的に自らをおさめることができる」「彼らは、何でも知りたがるのである。世界中に彼らのような民族はいない」と評価している。
 この時、イタリアはルネサンス円熟期である。
 イタリア人宣教師、ニェッキ・ソルディ・オルガンティーノは「われわれヨーロッパ人は互いに賢明に見えるが、彼ら日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私は真実、毎日、日本人から教えられることを認めている。私には全世界中でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる」と語っている。
 日本にあまり好意的でなかったアレッサンドロ・ヴァリニャーノでさえ、「道徳と学問に必要な能力について語るならば、私は日本人以上に優れたる能力ある人々のあることを知らない」と記録している。
 フランシスコ・ザビエル
 欧州の上流階級出身者からなる宣教師の知的水準は高い。その彼らの見た戦国日本は、国としての水準が高かったのである。
 宣教師は、日本の武力をどう見たのであろうか。
 ヴァリニャーノのフィリピン総督宛ての書簡に、「日本国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので征服は困難だ」とある。
 日本を、軍事力で征服することは不可能であるが、キリシタン大名を味方にすれば、キリシタン大名の兵力数千人の動員は容易で、スペイン本国派遣軍と合わせて1万人程度で、明の討伐可能と提案している。
 彼らは、明が基本的に文人の国で戦争を厭(いと)うところが強く、国の中枢の人間が、贅沢を旨として戦いを好まないので、1万の軍で制圧可能と考えていたのである。
 1596年10月、マニラ港からメキシコを目指していたスペインの豪華貨客船サン・フェリーペ号が台風のため土佐の浦戸湾において座礁沈没した。
 現地の大名、長宗我部元親豊臣秀吉に直ちに報告したところ、秀吉は積み荷を没収することを決め、現地に増田長盛(奉行職)を派遣する。増田奉行は事情聴取の結果、スペインは宣教師を尖兵として送り込み、侵略の手先として広大な版図を手にしたという事実認識を報告した。
 秀吉は、スペインに「侵略の下心あり」として、サン・フェリーペ号の事件を契機として、マニラ総督の派遣したフランシスコ会宣教師や、信徒26人を磔(はりつけ)の刑に処する。
 スペインが、秀吉に対して武力を持って報復しなかったのは、日本の武力が強大であったからである。
 内藤克彦(ないとう・かつひこ) 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。環境省地球総合環境政策局環境影響審査室長、水・大気環境局自動車環境対策課長、東京都港区副区長などを経て、京都大学大学院経済学研究科特任教授。個人的に歴史研究を深めている。著書に『展望次世代自動車』(化学工業日報社)、『五感で楽しむまちづくり』(学陽書房)など多数。
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 2023年4月6日 YAHOO!JAPANニュース ZAKZAK「スペインに日本征服を断念させた武力と知性(下)高い技術水準、世界トップの鉄砲保有国           
 イエズス会は高価な硝石交易で大名に接近
  戦国日本の武力は、欧州諸国と比べて、どうだったのか。
 『鉄砲を捨てた日本人』(中公文庫)という著書がある米ダートマス大学のノエル・ペリン教授によると、1589年に英国がフランスに軍を派遣するに際して、英国全土から集めた銃の数は1100挺足らずであった。
 だが、その14年前の1575年の長篠の戦いで、すでに織田・徳川は3000挺、武田は500挺の鉄砲を動員していた。鉄砲伝来(1543年)からわずかの期間で、わが国で鉄砲は大量生産され、性能も改善され、全国的に普及し、当時の「世界トップの鉄砲保有国」になっていたのである。
 戦国日本に鉄砲がどれだけあったかについては「30万丁」との説もあるが、江戸太平の幕府軍役義務でも1万石に25丁の鉄砲で、全国総石高2000万石とすると、諸藩等合計で5万丁となる。欧米が正面から武力侵攻できる状態ではなかった。
 ペリン教授によれば、「日本の技術水準がその当時すでに高かった。日本の銅はヨーロッパの銅よりも良質とみられ、価格も安かった」「例えば、オランダ人は、日本銅をアムステルダムまで運んでなお利益を上げた」「英国は、ヨーロッパ随一の鉄製造国で、スペインは、…敵国英国から、鉄製大砲を苦労して輸入した。しかし、英国の東インド会社が1613年に日本に商館を開設し、鉄インゴット販売しようとしたが、日本では買い手が全く見つからなかった」「日本鉄に比べて品質が劣るとみなされた」という。
 鍛鉄で作られた日本の鉄砲は、多量の火薬にも耐えた。
 一方、火薬の原料である硝石の日本生産量は限られ、大量消費の戦国期は輸入に頼っていた。イエズス会は高価な硝石交易により大名などに接近する。
 豊臣秀吉による九州征伐の行軍記録『九州御動座記』に、「宣教師から硝石樽を入手せんため、大名、小名はいうにおよばず、…己のしもべや…を南蛮船で(奴隷として)運ぶ」(徳富蘇峰『近世日本国民史』)とある。
 東大史料編纂所大航海時代の日本人奴隷』によれば、ポルトガルでは、人身売買には聖職者の署名付き証書が必要であったが、イエズス会は、この証書を発行している。
 ポルトガル出身の宣教師、ガスパール・コエリョの1587年のローマ総長宛て書簡で、「パードレたちが、…奴隷証書を発行することから、商人たちは大きな不正を日本人奴隷売人とともに行っている」とある。高価な硝石と引き換えに奴隷が売られた。
 これらの鉄砲は、戦国日本の技術力により支えられていた。
 コエリョは秀吉に明出兵計画を提案する。「今に見ておれ、太閤を海外遠征に引き込んで、さんざんな目に遭わせてやる」というコエリョの策謀を見抜き、秀吉がコエリョに叩き付けた五箇条の中に、「なにゆえにお前たちはお前の国民が日本人を購入し、奴隷としてインドに輸出するのを容認するのか」とある。
 織田信長や秀吉らと会見し、戦国研究の貴重な資料となる『日本史』を記したイエズス会宣教師、ルイス・フロイスによると、『伴天連追放令』に際し、秀吉は「伴天連らは、…大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。…このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ」と述べている。
■内藤克彦(ないとう・かつひこ) 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。環境省地球総合環境政策局環境影響審査室長、水・大気環境局自動車環境対策課長、東京都港区副区長などを経て、京都大学大学院経済学研究科特任教授。個人的に歴史研究を深めている。著書に『展望次世代自動車』(化学工業日報社)、『五感で楽しむまちづくり』(学陽書房)など多数。
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