🎑25)─1─日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」と国際研究チームが発表。日本国語の標準語〜No.62 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2021年11月13日 MicrosoftNews 毎日新聞「日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表
 日本語の元となる言語を最初に話したのは、約9000年前に中国東北地方の西遼河(せいりょうが)流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったと、ドイツなどの国際研究チームが発表した。10日(日本時間11日)の英科学誌ネイチャーに掲載された。
 日本語(琉球語を含む)、韓国語、モンゴル語ツングース語、トルコ語などユーラシア大陸に広範に広がるトランスユーラシア語の起源と拡散はアジア先史学で大きな論争になっている。今回の発表は、その起源を解明するとともに、この言語の拡散を農耕が担っていたとする画期的新説として注目される。
 研究チームはドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、米国などの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成。98言語の農業に関連した語彙(ごい)や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。
 その結果、この共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明。その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった。日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論づけた。
 研究チームの一人、同研究所のマーク・ハドソン博士(考古学)によると、日本列島では、新たに入ってきた言語が先住者である縄文人の言語に置き換わり、古い言語はアイヌ語となって孤立して残ったという。
 一方、沖縄は本土とは異なるユニークな経緯をたどったようだ。沖縄県宮古島の長墓遺跡から出土した人骨の分析などの結果、11世紀ごろに始まるグスク時代に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、それ以前の言語と置き換わったと推定できるという。
 このほか、縄文人と共通のDNAを持つ人骨が朝鮮半島で見つかるといった成果もあり、今回の研究は多方面から日本列島文化の成立史に影響を与えそうだ。
 共著者の一人で、農耕の伝播(でんぱ)に詳しい高宮広土・鹿児島大教授(先史人類学)は「中国の東北地域からユーラシアの各地域に農耕が広がり、元々の日本語を話している人たちも農耕を伴って九州に入ってきたと、今回示された。国際的で学際的なメンバーがそろっている研究で、言語、考古、遺伝学ともに同じ方向を向く結果になった。かなりしっかりしたデータが得られていると思う」と話す。
 研究チームのリーダーでマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロッベエツ教授(言語学)は「自分の言語や文化のルーツが現在の国境を越えていることを受け入れるには、ある種のアイデンティティーの方向転換が必要になるかもしれない。それは必ずしも簡単なステップではない」としながら、「人類史の科学は、すべての言語、文化、および人々の歴史に長期間の相互作用と混合があったことを示している」と、幅広い視野から研究の現代的意義を語っている。【伊藤和史】」
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 現代日本人が話している標準語は、明治政府(軍国日本)が近代的中央主権体制軍国主義国家建設(殖産興業・富国強兵・近代教育)を目的として新しく作った国語である。
 新国語創作は、軍国日本を建設する為の軍国主義政策の根幹であった。
 つまり、薩摩生まれの将校が津軽生まれの兵士に正しく命令を伝えて戦争をする為であった。
 それは、バベルの塔建設現場で1つの言語を複数にして混乱させた逸話の真逆で、複数の言語(方言)で混乱していた日本を1つの言語(標準日本国語)で統一する事であった。
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 日本民族の祖先である縄文人は、南方ルート、西方ルート、北方ルートから日本列島に漂着した、流れ着いた、移り住んだ雑多な人々が同居し乱婚して生まれた血が濁った・血が汚れた混血の雑種人間であった。
 混血の雑種人間ゆえに、新しく来た人々が持っていた、便利なモノ、合理的なモノを生活の中に積極的に取り入れ、不便な古いモノは捨てた。
 そうした中に日本国語の原点もあった。
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 ウィキペディア
 標準語(ひょうじゅんご、英: Standard language,独: Standardssprache)とは、公共の言説において人々の集団(民族、共同体、国家、組織など)によって用いられる言語変種である。あるいは、言語変種は文法や辞書における記述(英語版)[要リンク修正]のために整理され、こういった参考文献において記号化される際に起こる標準化の過程を経ることによって標準となる。典型的には、商業や政治の中心で話されている方言が標準化される言語変種となる。標準語は複数中心地言語(例えばアラビア語、英語、ドイツ語(英語版)、ペルシア語、セルボ・クロアチア語、フランス語、ポルトガル語スペイン語(英語版))にも単一中心地言語(例えばアイスランド語、イタリア語、日本語、ロシア語)のいずれもが選ばれる事例である。標準書記言語は「シュリフトシュプラーヘ」(Schriftsprache、ドイツ語で文章語の意)と呼ばれることがある。
 各言語における標準語
 日本語
 「方言#日本の方言政策」、「日本語の方言」、および「放送用語」も参照
 日本語においては、明治中期から昭和前期にかけて、主に東京山の手の教養層が使用する言葉(山の手言葉)を基に標準語を整備しようという試みが推進された(そのうち最も代表的で革新的だったのは小学校における国語教科書である)。これに文壇の言文一致運動が大きな影響を与えて、「標準語」と呼ばれる言語の基礎が築かれた。なお、「標準語」という用語は岡倉由三郎によるStandard Languageの日本語訳である。官公庁の公式文書などには、普通文が主に用いられる。
 太平洋戦争以後は国家的営為としての標準語政策は行われなくなり、各地の方言を見直す動きが現れたり、国家が特定の日本語を標準と規定することに否定的な考えが生まれたりした。そのような中、「(全国)共通語」という用語が登場し、NHKなど一部では「標準語」が「共通語」に言い換えられるようになった。
 現在の日本には標準語を規定する法律や公的機関は存在しないが、一般に「標準語」と言った場合、日本の首都である東京の方言から特定の地域・階層に偏る要素(下町地域で見られるシとヒの交替など)を除いたものを指すことが多い。口頭言語ではアナウンサーのアクセントやイントネーションが標準的として認識されているが、時代と共に変化している。例えば、「電車」のアクセントは従来「デンシャ」が正しいとされてきたが、「デンシャ」(太字は高く発音)も広がりつつあり、メディアや駅の案内放送でも2通りのアクセントが混在している。
 近代以前は平安時代の京都の貴族語に基づく文語体が標準的な書記言語として広く通用し、口頭言語についても、江戸言葉が成熟する江戸時代後期までは京言葉が中央語であり、京都を中心に新語が日本各地に伝播していったとされる(方言周圏論やアホ・バカ分布図も参照)。京都方言がかつて中央語だった名残は現代共通語にも残っており、例として、古風な文体で「わしは知っとるのじゃ」のような近世上方語風の表現が使われること(老人語参照)、「残っており」「寒うございます」「ありません」などの文語・敬語表現、「怖い」「しあさって」「梅雨(つゆ)」などの語彙が挙げられる。
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 産経新聞「標準語普及に奔走 「漱石の生みの親」 山口謡司さん「日本語を作った男 上田万年とその時代」
 2016/4/25 14:20
 「激変する社会情勢に言葉で対応しようとした万年の情熱の一端でも描けていたらうれしい」と話す山口謡司さん(春名中撮影)
 激動の明治期。話し言葉と書き言葉を一致させ、全国民が理解できる日本語(標準語)を作ろうと奔走した男がいる。日本人初の言語学者上田万年(1867~1937年)。生誕150年を前に、初めての本格的な人物評論『日本語を作った男 上田万年とその時代』(集英社インターナショナル)を出版した大東文化大准教授、山口謡司さん(53)に、万年の果たした役割を聞いた。
 山口さんによると、明治維新により江戸が東京に変わったが、東京の呼び方は「とうきやう」「とうけい」などさまざま。書き言葉(文書)は漢文か候文で、旧仮名遣いによる文語体は、西洋の分析的な説明文を書くには向かなかった。そのため、明治前半には漢字を捨てて英語を国語にしようという意見や、ローマ字で日本語をつづる改革が真剣に論じられたという。
 また、当時は標準語の概念がなく出身地や階層の違いによりそれぞれ異なる話し言葉を使っていた。このため、ドイツ留学などを経て27歳で帝大(東大)教授となった万年は、全国民が理解できる標準語を作ろうと奔走。明治28年には、標準語の必要性を説く初の論文「標準語に就(つ)きて」を発表した。その後、東京の中流家庭で話されていた言葉を母胎にした「標準語」による全国共通の国定教科書制定(36年)に尽力した。
 「明治期の国語学者や文豪たちは、言葉は日本人らしさの核を覆う細胞膜のような存在だと直感していた。膜が破られれば日本人も失われると、多くが危機感を抱き、新時代にふさわしい日本語を作ろうとした」と山口さん。
 本書には、万年を軸に、明治維新後初の言文一致小説とされる『浮雲』を発表した二葉亭四迷国定教科書の仮名遣いを決める委員だった森鴎外など、近代日本語の成立に関わった約250人が登場する。
 なかでも、万年と同年に生まれた夏目漱石との関係は深い。万年らが創刊した文学誌『帝国文学』の会員だった漱石は、38年に標準語の言文一致小説『吾輩は猫である』を発表する。鴎外の『舞姫』が「石炭をば早や積み果てつ」と文語体の名文なのに対し、漱石の小説は「吾輩は猫である。名前はまだ無い」から始まる簡潔な現代文だ。
 山口さんは「万年らが広めたかったのは、漱石の小説のように誰もがまねができる文章。漱石の裏には万年がいた。万年なしには文豪、漱石は生まれてこなかっただろう」と推測する。
 しかし、第二次世界大戦後は一転して、標準語を普及させる万年らの活動が方言の衰退を招き、「日本語は日本人の精神的血液なり」などと民族の精神性と日本語を結びつけた言論が、植民地での日本語教育の強制を招いたと批判された。
 だが、山口さんは「当時の状況を考えれば、誰もがわかる日本語がなければ列強に対抗できないという認識は当然」と理解を示す。「標準語がなければ日本の公用語は英語になっていた可能性すらある。近代日本語の成立に果たした言語学者の熱い思いを知ってほしい」と話している。(村島有紀)
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 文化庁
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 国語問題要領
3 国語問題の歴史的展望
(1)国字改良の意見とその実行
 近代になって国字改良のために発表された意見としては,慶応2年(1866)に前島密(ひそか)が建白した漢字御廃止之(の)議が最初であり,これが動機となってローマ字論やかな専用論が現れ,明治16年(1883)にはかなのくわいが作られた。今のカナモジカイ(大正9年,1920―)の運動は,この考えかたの系統を引いたものである。
 漢字の全廃は,現実の問題として実行が困難であるという理由から,別に漢字節減論が現れたのも明治初期のことである。福沢諭吉,矢野文雄などはその代表的論者であり実行者であった。
 ローマ字採用の意見は,明治2年(1869)南部義籌(よしかず)の修国語論の主張に始まり,17年(1884)には羅馬(ローマ)字会が作られ,後にローマ字ひろめ会(明治38年,1905―)と日本ローマ字会(大正10年,1921―)とが設けられた。
 このほか,明治初期以来,新しい文字を考案したものもかなりあるが,それは行われなかった。
(2)国語政策の実施
 政府は,早く国語問題の重要性をみとめ,明治35年(1902)文部省に国語調査委員会を設けて,この問題の解決に着手した。さらに大正10年(1921)には臨時国語調査会を設け,12年(1923)に常用漢字表,14年(1925)に仮名遣改定案を発表した。これとともに国語問題に対する社会の関心もしだいに高まり,特に昭和6年(1931)には,以上の二つを修正して作った案を国定教科書に採用しようとして,はげしい反対にあい,社会的に大きな反響を呼んだ。
 ついで昭和9年(1934)には,国語審議会が文部大臣の国語改善に関する諮問機関どして設けられ,昭和17年(1942)には,この審議会の手で標準漢字表・新字音仮名遣表が発表されたが,一般に行われるようにはならなかった。
 戦後になってこの審議会は,従来の国語改善に関する成績を検討して,昭和21年(1946)には当用漢字表・現代かなづかいを決定し,別に義務教育のための当用漢字別表,当用漢字音訓表,つづいて当用漢字字体表を決定した。これらはすべて政府によって採択され,内閣訓令ならびに告示として公布された。そしてそれが,法令・公用文・教科書に実行される一方,一般の新聞・雑誌なども多くはこれと歩調を合わせている。なお,昭和24年(1949)には,中国の地名・人名を現代の中国標準音によってかな書きにする案が発表された。
 ローマ字についても,政府は,教育上・学術上または国際関係上,そのつづり方統一の必要をみとめ,早く昭和5年(1930)に臨時ローマ字調査会を設けてその審議に着手し,昭和12年(1937)内閣訓令としてその方式を発表した。
(3)口語文と話しことば
 書きことばを口語に近づけようとする,いわゆる言文一致の運動や標準語の簡題も明治初年におこった。やがて言文一致は文芸作品と教科書とに実現され,今日の口語文にまで発展した。特に戦後,日本国憲法が公布されてからは,官庁の文書もおいおい口語に改められるようになった。
 いわゆる標準語は,義務教育に用いられる国語教科書や放送などを通じてしだいに全国にゆきわたってきたが,話しことばについては,社会生活の上からも,国語教育の上からも,従来その重要性があまりみとめられず,指導の点にも具体的な方策が確立されていない。
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 東京新聞
 明治150年と日本語
 2018年11月17日 02時00分
 近代化の道を急ぎ足で進み始めた明治の日本。そこでは言葉も問題になった。誰にでも通じる「標準語」が求められ、戦後は「共通語」と呼ばれることも多くなった。ことしは明治維新から百五十年。日本語はどう変化してきたのか、これからどう変わっていくのか。
 <明治の国語問題> 近代化を進めるために日本語を改良する必要があるという意見は幕末にもみられるが、議論が本格化したのは明治に入ってから。漢字の廃止・制限、ローマ字採用など主張は入り乱れた。国語問題の一つとして、全国で通じる「標準語」形成の議論があり、教育を通して普及が図られた。太平洋戦争後は「共通語」と言われることが多くなったが、専門家の中には今でも使い分ける人もいる。
◆言葉が生まれる好機 作家、立教大教授・小野正嗣さん
 大分の田舎から東京に来て、最初は共通語に違和感を持ちながら勉強を続けました。そこで思ったのは、学習すること、大学で学んだり本を読んだりすることは基本的に共通語でなされているということです。田舎に戻って「おまや(おまえは)大学で何しよるんか」と聞かれても、方言ではうまく説明できない。知の言語は共通語と結び付いていると帰省のたびに感じました。
 ただ、僕の周りの方言をしゃべる人たちは、確かに書物の文化からは遠いですが、知的に劣っているかというと全くそんなことはない。人間として非常に魅力的で、機知に富む面白い話をするおじさんやおばさんがたくさんいる。東京で会話をしていると、そこに出てくる人物は意外と少ないんです。田舎では皆、他人に興味があって、過疎地だけど話の登場人物は圧倒的に多い。「○○さんって、どこん人か?」「おまえのお父の同級生のいとこじゃが」とかね。次々と別の人が呼び込まれ、生きている人も死んでいる人もごっちゃに出てくる。死者と生者がつねに共にある。それは文化的に豊かということではないですか。
 僕が研究しているカリブ海地域の小説は、島に固有の言葉でしゃべる魅力的な人物で満ちています。その言葉の影響を受けたフランス語で書かれ、そこに生きる人たちの口承性が息づいています。それを読んでますます自分の田舎は書くに値するところだと確信を得ました。
 文学は日本の近代化において言文一致を通じて「国語」の形成に一定の役割を果たしました。新聞小説が典型です。しかし、フランスの作家プルーストが言うように、優れた文学とは国語を用いながら「外国語(=異質な言語)で書く」ことなのです。普段慣れ親しんでいるのとは異質な言葉を作ること。新聞で傑作を次々と発表した「国民作家」の夏目漱石が代表ですが、「国語」を作る一方で壊す。それが日本語の可能性を広げる。
 そもそも今の日本語は明治時代、いろんな地方の言葉が混じってできたと思うのです。それがよりグローバル化して、今や違った母語や文化を持った人たちが日本にやって来ている。何を言っているかは分からないけれど、異質な言葉の響きは耳に残る。その中から新しい言葉、文学が生まれてくるかもしれない。これは日本語にとってチャンスだと思います。
 (聞き手・大森雅弥)
 <おの・まさつぐ> 1970年、大分県生まれ。専門はフランス語圏文学。2015年に「九年前の祈り」で芥川賞。近著は『ヨロコビ・ムカエル?』(白水社)。NHK「日曜美術館」の司会を務める。
◆放送用語は一モデル NHK放送文化研究所主任研究員・塩田雄大さん
 書き言葉としての標準語は大正初期にはほぼ成立していました。そして、それを読み上げれば標準語の話し言葉になると思われていました。ところが、一九二五(大正十四)年にラジオ放送が始まると、いろいろな問題が起きました。アナウンサーがなまっているという苦情もあったようです。
 話し言葉について国は何も決めなかったので、放送局が主体になって放送用語や発音・アクセントの調査や研究に取り組んできました。「放送用語委員会」が発足したのは三四(昭和九)年です。耳で聞いて分かりやすい言葉が放送には適しています。漢語は同音異義語が多いので分かりにくい。だから大和言葉を使おう、場合によっては外来語も使おうという方針が採られました。ただ、戦時中には轟沈(ごうちん)とか玉砕とか勇猛果敢な漢語も使われていました。
 委員会が発足した当初は全国ニュースは東京の言葉、ローカルニュースは各放送局のある地域の方言で放送するという案もありました。しかし、委員会で否決されたようで、結論としては全国、ローカルを問わず放送では標準語を使うという形になりました。ニュースについてはそれが現在まで続いています。
 放送が各地の方言を壊したとか衰退させたと言う人がいます。しかし、放送用語はあくまで一つのモデルです。それを採用するかどうかは個人の問題だと思います。関西の人も全国放送を見聞きしていますが、日常生活ではふつう方言で話しています。その地域の人が個人で選択しているからだと思います。
 調査をすると、NHKのアナウンサーが話す言葉が共通語の手本と考えている人が多くいます。共通語の定義は人によって違いますが、私は地域や世代を超えて意味が通じれば共通語だと考えています。放送用語だけが「正しい言葉」とは思っていません。放送という場面で「ふさわしい言葉」とは言えますが。アナウンサーの言葉は、いわばタキシードです。普段の生活には向きません。言葉がふさわしいかどうかは文脈や場面で変わります。放送には適していなくても友達同士の会話なら何の問題もない言葉もあります。
 タキシードをどう着るべきかも時代によって変わります。だから、時代の空気や価値観の変化を注意深く見ながら放送用語にも微調整を加えています。
 (聞き手・越智俊至)
 <しおだ・たけひろ> 1969年、神奈川県生まれ。学習院大大学院博士課程修了。博士(日本語日本文学)。著書に『現代日本語史における放送用語の形成の研究』(三省堂)など。
◆政治的思惑に注意を 社会言語学者安田敏朗さん
 近代国家を効率よく運営していくためには、できればひとつの均質な言語がある方がよい。それが標準語の原則です。国民皆兵、義務教育。近代国家が一人一人の人間を把握し、均質な国民として制度に取り込むためには、同じ言葉を使う必要がある。標準語は、「国家制度を動かすための国語」を具現化したものです。
 日清・日露戦争が起きた一九〇〇年代前後に国民国家の形成が進むと、国家的な統一言語を構築しようとする流れが急激に進みました。〇二年には文部省に「国語調査委員会」が設置され、基本方針のひとつに「方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト」が示された。一六年に公表された同委員会の調査報告『口語法』では、「東京ニ於テ専ラ教育アル人々ノ間ニ行ハルル口語」、つまり東京の山の手言葉を標準語の基準にするとされました。
 「国語に国民精神が宿る」といういい方で、国語普及を後押しした側面もありましたが、強制というよりも標準語を習得することで社会的上昇ができる、つまり立身出世できると人々が考えた側面も忘れてはいけません。いま、英語ができれば何でもできると考えてしまうことと同じです。
 標準語は力のある側が使う言葉です。東京の山の手言葉の代わりに、関西弁が標準語になっても同じこと。だからこそ言葉をめぐる政治性にはもうちょっと注目してもいいと思います。
 二〇〇〇年ごろから「国語」に過度の精神性を付与する動きが、再度目立ち始めています。文部科学省文化審議会の答申「これからの時代に求められる国語力について」では、「情緒力」などと言い出した。「近年の日本社会に見られる人心などの荒廃」を治癒するものとして「国語」を位置づけています。社会の分断を回復させる力が「国語」にあるのでしょうか?
 今後は日本に移民が増え、日本語の位置づけが変わるはずです。移民への日本語教育だけでなく、母語の継承教育も必要になる。かつての日本にも植民地などからの人の移動があったこと、アイヌ語琉球語の存在、そして方言もひとつの言語と考えれば、日本はこれまでも多言語社会でした。多言語社会でわれわれは生きてきたし、これからも生きる。そんな意識が大事だと思います。
 (聞き手・出田阿生)
 <やすだ・としあき> 1968年、神奈川県生まれ。一橋大教員。近代日本言語史専攻。近著に『漢字廃止の思想史』(平凡社)『大槻文彦言海」-辞書と日本の近代』(慶応大学出版会)など。
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 日本の標準語誕生の歴史
・標準語誕生の時代背景
 明治時代になり、日本はアメリカやヨーロッパの進んだ文明に対抗するため、全国を統一し、急いで国力をつける必要があると感じていた。新しい国をつくるには、教育が重要となる。子どもはみな学校に行くという義務教育がはじまり、国を支える国民の教育が大事にされた。そうして今までバラバラだった言葉を統一する必要がでてきたのだ。当時、話し言葉といえば、全国各地の方言しか存在していなかった。近代日本において公的な学校教育がスタートしたのは明治5年の学制発布である。「国語」という教科はまだなく、日本語に関するいくつかの教科に分散していた。その一つに「会話(コトバヅカヒ)」がある。当時の文部少丞であった西潟訥氏の説諭に、陸羽(北東北)の人と薩遇(鹿児島)の人との間で言葉が通じない例を挙げ、全国共通に通用する口語の教育が会話科において意図されていたことが知られる。また、同じ説諭の箇所に、「通語」という漠然とした表現の具体的実質についてほとんど明確でないものの、全国共通に通用する日本語のヴァラエティー(=標準語)を話すことが教師の望ましい資質と考えられていた。ただし、この段階では「標準語」という名称は、その概念とともに日本語の世界に確立されておらず、方言は不可というだけで、全国に通じる言葉に指針は示されていなかった。そのような時代背景のもとで標準語は誕生することとなった。
・標準語誕生への動き
 「標準語」作りが国家事業として推進されるようになるのは明治時代もなかば過ぎからである。帝国大学言語学科の初代日本人教授となった上田万年が、『国語のため』ではじめて日本語において「標準語」の必要を説いたのが明治28年、これを受けて文部省に国語調査委員会が設置されたのが明治35年。明治ももう残り10年という時期であった。同委員会は全般的に近代日本語の基盤作りを行うことが任務であったが、その調査指針のひとつに「方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト」という柱が立てられており、明治39年には全国調査を踏まえて『口語法調査報告書・同分布図』が刊行され、はじめて方言実態が科学的に明らかにされた。これを踏まえてトップダウンに「標準語を選定する」という国家事業が推進された結果、標準語の具体的規範が明瞭となり、その成果は逐次学校教育に反映されることになる。  明治33年には従来分散されていた日本語関係の教科が「国語科」として統合され、36年からは教科書が固定化されていく。国定教科書編纂にあたっては、『尋常小学読本編纂趣意書』に「文章ハ口語ヲ多クシ用語ハ主トシテ東京ノ中流社会二行ワルルモノヲ取リカクテ国語ノ標準ヲ知ラシメ其統一ヲ図ルヲ務ムルト共ニ・・・」と明記され、実質を備えた標準語が学校教育を席巻していく歴史的条件が明治後期において整ったことになる。この後、方言を使った罰としての「方言札」に象徴されるような過度の標準語励行運動、そして海外植民地における皇民化教育の一環としての日本語強制等、また、大正14年から始まったラジオ放送で話される標準語により、共通の日本語、標準語は広まっていき、日本の国語政策は突き進んでゆくことになる。
 引用:『どうなる日本の言葉』佐藤 和之・米田 正人編著 
   『方言はまほうのことば』彦坂 佳宣著 
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 NHk
 日本人なのに通じナイ!? 明治標準語ことはじめ
 ●本放送 平成28年10月 7日(金) 20:00~20:43 総合 全国
 ●再放送 平成28年10月21日(金)
16:05~16:48
 総合
 全国
 ※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。
【本放送日時がことなる地域があります】
中部地方 10月22日(土)10:05~10:48 
四国地方 10月28日(金)20:00~20:43 
鳥取県  10月30日(日)13:05~13:48
 出演:【キャスター】井上あさひ
 【案内役】厚切りジェイソンワタナベエンターテインメント
エピソード1 日本の夜明け大ピンチ! 言葉が通じない・・・
 明治維新後の廃藩置県で300近くあった藩が無くなり、日本は一つの国に。文明開化も進んで、さぞやいい世の中になるかと思いきや、待っていたのは、互いの言葉が理解できないという思いがけない状況でした。これでは国が立ちゆかないと、日本語を一から作り直し、ローマ字表記にしたり、英語にあらためるという意見も出ます。日本語は、無くなってしまうかもしれないという瀬戸際に追い詰められていました。
エピソード2 日本語を救った「おかあさん」
エピソード3 子どもたちに届け! 新しい日本語
 参考文献
 『日本語を作った男 上田万年とその時代』(山口謡司 集英社インターナショナル
 『日本語の歴史』(山口仲美 岩波新書
 『東京語-その成立と展開-』(田中章夫 明治書院
 『江戸語・東京語・標準語』(水原明人 講談社現代新書
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