💄36)─1─男尊女卑の儒教が支配する日本での女性の権利。相続・女性当主。結婚・三行半。 ~No.74No.75 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の仕事は、男性だけでは立ちゆかない為に、女性の協力や支援が欠かせなかった。
 日本の社会は、女性の「内助の功」がないと成り立たなかった。
 表面的には中国や朝鮮の様な男尊女卑に見えても、その実はそうでもなかった。
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 2017年5月20日 朝日新聞「千葉真由美の村人の歴史学
 女性当主。
 なつは一人で家を守り抜いた
 一家の主=当主といえば、今も昔も男性のイメージが強い。江戸時代の村でも書面や帳簿に家の代表者として書かれているのは、ほとんど男性の名前である。女性の名前もあるが、父親や夫が亡くなるなどで『後家』となり、その後、息子などが成長するまでの一時期である場合が多い。とはいえ、長きにわたり、たくましくその務めを果たし、能力を認められていた女性もいた。武蔵国多摩郡大沼田新田(現・東京都小平市)の『なつ』を紹介しよう。
 なつは孫兵衛家の娘として天明6(1786)年に生まれた。兄が一人いたが、体が弱く農業ができないという理由で家の相続を放棄、なつは26歳(年齢は数え年、以下同)で孫兵衛家を相続した。その後、婿をとり、娘2人、息子2人をもうける。しかし、40歳ごろに夫が亡くなったのか、再び当主となった。なつ44歳の時点で、長男弥太郎は8歳。まだ家を相続できる年ではなかった。
 十数年後の天保14(1843)年、弥太郎が村の名主に宛てて一通の証文を出した。書き出しは次のようにある。『私は普段から農業を怠り、態度も悪く、いさめられることもあったが聞き入れず、特に母の意向に背いてあちこち遊び歩き、組合の者の言うことも聞かずわがままをしてきた』。加えてこの年、近隣の村人けんかを仕掛けて騒動となり、村の収穫時期に迷惑をかけた。さらには酒に酔って前後不覚の状態で名主宅へ倒れ込み、処分はどうなるかなどと言い、またも村人たちを憤慨させた。弥太郎は証文の最後にこう書いている。
 『今後は母の意向に従い、組合の厄介にもならないよう改心し慎むように言われたこと、承知いたしました』
 証文は弥太郎の反省文であった。名主が弥太郎に、なつの意向に従うよう諭したことも書かれている。なつが名主から信頼され、親として当主としての能力を認められていたことがうかがえる。
 証文には弥太郎とともに、弟の吉五郎も名を連ねていた。このとき弥太郎22歳、吉五郎は19歳、成人といえる若者たちである。神妙な反省文をきっかけに弥太郎は改心・・・とはならなかった。
 翌年7月、弟吉五郎が家出、さらに次の年には弥太郎も家出してしまう。親の心子知らずか、子の心親知らずか。傍(はた)からみると、勝手放題の息子たち。娘2人はしでに家にいない。なつはその後、一人で家を守り続けた。夫亡き後、なつが当主を続けたのは30年の長きにわたった。苦労の連続だったことは想像に難くない。
 図版は宗門人別帳に押されたなつの印である。夫が亡くなって数年後に夫とは別の印を使用し始めており、当主としての確かな意思を感じる。
 家出から13年後、弥太郎が妻を連れて戻ってきた。弥太郎37歳。翌安政6(1859)年には家名の孫兵衛と改名、ついに家を相続した。安心したのだろうか。翌年なつは没した。75歳であった。女性当主なつは、家を守り抜いたのである」
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 日本人は、人として、良い日本人もいたが悪い日本人もいて、善い事もしたが悪い事もした。
 悪い事をした悪い日本人は、裁かれ、罰を受けた。
 現代の日本人は、歴史となった悪い日本人が行った犯罪に対して負い目を感じる必要はないが、忘却する事なく覚えておく責任がある。
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 2017年8月12日 朝日新聞「文化・文芸 あなたへ往復書簡 
 渡辺京二より 酒井若菜様へ
 三下り半は妻のため 鮮やかな逆転
 ……
 江戸時代についての認識が変わり始めたのは、昨今のことではなくて、もう4、50年にもなりましょうか。あなたは身分制度について書いておられますが、例えば『三行半』という言葉をご承知ですか。
 これは江戸時代に行われた離縁状の形式で、文字どおり三行半の文言でできているのですが、男性側からの一方的な専権離婚を示すものと理解されておりました。それがまったくの誤りであることが明らかにされたのは、高木侃(ただし)『三くだり半』(1987年、平凡社)によってです。
 三下り半が夫からの一方的な離婚権を示すと解されたのは、文言中に『我等(われら)勝手に付』という言葉が使用されることが多かったからで、これが離婚は夫が好き勝手にしていいことだと解されたのです。
 しかし、三下り半の言う『勝手』とはわがままという意味なのです。つまり離婚は自分のわがままのせいで、離縁される妻に落ち度はないと言っているのです。だからこれは離縁する妻への再婚許可状で、妻の側から夫に交付が請求されたのです。
 何と鮮やかな逆転ではありませんか。これは男女関係に関わることですが、ここ数十年の研究は、江戸時代についての暗いイメージを次々と吹き飛ばしてきました。
 どうしてこういうことが起こるのか。それは歴史研究にはどうしても時代の風潮というものがはいりこむからでしょう。明治以来、歴史学を支配して来たのは、近代化をめざす市民主義であり、さらにそれを継ぐマルクス主義でした。つまり日本の近代歴史学には、江戸時代を悪者にせねばならぬ動機があったのです。
 では、どうして江戸時代がにわかに見直されるようになったのかと言えば、それは市民主義ないしマルクス主義史学が錦の御旗にしていた『近代』が、様々な意味で反省にさらされるようになったからでしょう。
 もともと認識は正・反・合というコースをたどるもののようです。ある命題があるとすれば、いつしかそれを否定する命題が現れます。しかしまた、それに対する否定が現れるわけで、反の反となればもとの正に戻ることになりますが、その場合正は一度反を通化した高いレベルにあるという次第です。
 これはずっと昔に、ヘーゲルという大思想家が説いたことですけれど、どうも歴史の認識のされかたを見ていると、つねにこういった正・反・合の繰り返しが行われていて、それがより高く豊かな認識に導けばよいのですけれぢ、単に流行の尻馬に乗っただけに終わる危険も常に存在しているようです。昨今の江戸時代評価の逆転は、当然根拠のあることですし、豊かな認識をもたらしていますが、江戸時代万歳みたいになると、困りものです。
 あなたのおたずねはこういう時代認識の変化が、どの程度教科書に反映されるべきかという点につてでした。私は今日の歴史教科書がどうなっているか、まったく知らないし、教科書が歴史学の新しい動向を、どの程度のペースでとりこんでゆくべきかにつても、深く考えはありません。
 義務教育における歴史という課目は、むしろ旧態依然であってはならないのでしょうけれど、あまり『科学的』にならず、日本人として知っておくべき事件や人物について、もっとおおらかに楽しく教えるものであって良いのかも知れませんね」
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 日本の高等教育は、戦前からマルクス主義に染まっていた。
 日本の歴史は、戦後のマルクス主義唯物史観階級闘争史観による歴史教育で醜悪に歪められた。
 マルクス主義者の手から、日本の歴史を日本民族日本人の物語として解放する必要がある。
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 1980年代からは、日本国内のマルクス主義史観だけではなく、中国共産党や韓国・北朝鮮など国際的反日派勢力からの歪曲・捏造・改竄された歴史認識でさらにおぞましい歴史へと毒されている。
 日本民族日本人中心物語を日本の歴史として、中国共産党や韓国・北朝鮮など国際的反日派勢力から取り戻す必要がある。
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 同じ儒教と言っても、日本儒教は異端派で中華儒教(中国儒教・朝鮮儒教)は正統派で全く異なっていた。
 日本儒教は、人の道としての道徳を主に説く相対的価値観であった。
 中華儒教は、政治・経済・軍事・外交から生活全般を支配する絶対的価値観であった。
 身分制度においても、日本儒教は曖昧であったが、中華儒教は不寛容にして排他的な絶対的なものであった。
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 相続は、男性優位であったが女性にも権利があり、女性が家業を継ぐ事もあった。
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 江戸・京・大坂などの都会では、男性が多く女性が少なかった。
 結婚できず、生涯独身で死んだ男性が多かった。
 一人暮らしの男性は、長生きする事なく短命であった。
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 江戸・京・大坂などの大都市に住む庶民は、借家暮らしで自宅などは持っていなかった。
 江戸時代は大火が多く、自宅や財産を持っていてけも、いつ何時火事に襲われ全てを失うか分からなかったからである。
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 女性は、何度でも結婚し、場合によっては資産を相続した。
 江戸時代に幾度も再婚した女性は、現代日本で問題になっている性悪な「後妻業の女」とは違う。
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