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2024年12月9日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「子どもの喧嘩で母親が相手の父親の腕に噛みつき殺傷沙汰…「江戸時代の人たちはキレやすかった?」
「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉がある。江戸の二大名物のひとつが喧嘩。江戸っ子は気が早く喧嘩が多かったというのである。
【画像】「法を守る気ゼロ」…幕府もお手上げの「江戸時代の長崎の特殊な法意識」
では長崎ではどうだったのだろうか。江戸時代の裁きの記録として現存する、長崎奉行所の「犯科帳」には、当時の長崎の人々がキレたさまざまな事案が記録されている。
【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』より抜粋・編集したものです。】
子どもの喧嘩が親同士の殺傷沙汰に
元禄五(1692)年、子どもの喧嘩が刃傷沙汰にまで発展する事件が発生した。
北馬町の久三郎(一七歳)の弟と五兵衛の娘が喧嘩した。これを受け、五兵衛の女房が久三郎方に行って悪口を言い、のみならず久三郎に噛みついた。怒った久三郎は五兵衛の女房を包丁で突き殺した。久三郎は牢屋にて刎首となった(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)七三頁)。
つぎの事例もある。寛延二(1749)年五月二二日の夜、恵美酒町(恵美須町)の住人・勘左衛門と遊女町・寄合町の石見屋亀之助方の下女「せき」が口論となった。発端はわからないが、勘左衛門が「せき」を殴って傷を負わせた。この件で「せき」は当日に町預となり、勘左衛門は翌日、入牢となっている。
奉行所は、傷が治った「せき」を呼び出して吟味した。七月一三日に刑を言い渡されているのを踏まえると、全治二ヵ月程度の怪我をしていたことになる。
刑を執行するにあたって明らかになったのは、最初に手を出したのは「せき」であったことである。煙管(キセル)で勘左衛門を叩いたことから今回の件ははじまったのだった。怒った勘左衛門は「せき」を殴った後、彼女の主人・亀之助の家に踏み込み、亀之助の母親も殴って暴れた。勘左衛門は「せき」に殴られて頭に血が上り善悪の見境がなくなっていたのだろう。
「せき」は、先に勘左衛門に手を出したのはお咎めの対象だとされたが、傷を負った点を斟酌されて許された。他方、勘左衛門は、「せき」との一件には情状酌量の余地があるものの、それ以外では一方的な加害者であると長崎奉行は判断した。かくして勘左衛門は所払を命じられた(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(二)八六頁)。
口論の末に殺人
延享三(1746)年一〇月二九日の夜、東中町の伝次郎が、いかなる理由があったのかは不明だが、今籠町の貞次郎と口論になった。翌日夜、伝次郎は平助、幸八、平三郎、さらには忠次平、虎松、および平五郎を引き連れて貞次郎の所に行き彼を打擲した。この結果、貞次郎は死んでしまった。
伝次郎らは捕らえられて吟味され、まず伝次郎が紛れもない事実であると自白した。江戸への伺いの結果、翌四年五月一九日、伝次郎は家財を取り上げの上、下手人(死刑)を命じられた。通常、下手人の場合、田畑の闕所(取り上げ)を伴うが、伝次郎が田畑を所持していなかったのでその代わりとして家財取り上げになったのかもしれない(「長崎町乙名手控」)。
江戸の判断は、加勢した仲間についても同様であった。しかし、忠次平、虎松、平五郎の三人は、行動はともにしたものの貞次郎には手を出さなかったことが明らかになった。このことが斟酌され、罪一等を減じられ、所払に止まった。なお、一味の一人、虎松はこの下知が長崎に届く前に病死していて受刑できなかった。
では他の三人はというと、伝次郎同様、貞次郎を殴ったことは事実と認められたが、長崎奉行所は江戸に宥免を願い出た。これにより彼らの処分は家財取り上げの上での追放に止まった。
この事例で興味深いのは、それぞれの刑の執行日が同一であったのか、そうでなかったのかはわからないが、忠次平と平三郎が北の時津境から、平五郎、幸八は東の日見峠から、そして平助は南東の茂木境からと、長崎の異なる「口」から町使によって送り出されたことである。
仲間同士がその後、結果的に落ち合うのは致し方がないとしても、それぞれを別の街道から追放しているのである。こうした工夫も支配する側はしていたのだ(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(二)五七~五八頁)。
松尾 晋一(長崎県立大学教授)
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2022年6月17日 火事と喧嘩は江戸の華
古代から,日本は火事の多い国です。日本の家屋は,石造や土造ではなく木造ですので,やむをえません。江戸時代も各地で火災は起きましたが,中でも江戸は「火事と喧嘩は江戸の華」といわれたように,江戸名物に数えられたほどです。これは,江戸の下町に燃えやすい民家が密集していたことと,冬期に強い北西の空っ風が吹いたからです。
江戸っ子は気が短かく,何かというと「てやんでぇ」「べらぼうめ」と喧嘩になります。もっとも,その場かぎりで翌日には,けろっとしているのが江戸っ子です。日常ひんぱんにあった喧嘩と同じぐらい,火事も多く,何百軒あるいは何千軒もが焼けるという大火も八十数回に及んでいます。
江戸の町の大半が焼け,何千人あるいは何万人もの死者が出るという大火災も少なからずありました。「振袖火事」の名で知られる明暦の大火(1657年)では,何と十万二千人もの死者が出ました。「八百屋お七の火事」として知られる天和の火事(1682年)では,三千五百余人が焼死しています。また,元禄十六年の「水戸様火事」(1703年),享保六年の大火(1721年),明和九年の「行人坂火事」(1772年),文化三年の「丙寅(ひのえとら)の大火」(1806年),天保五年の「甲午の大火」(1834年),安政の大地震による大火(1855年)などで,いずれも数千人に及ぶ焼死者を出しています。
火事の原因の多くは火の不始末ですが,放火も少なからずありました。放火の罪は重く,死罪のうちで最も残酷な火刑です。生きたまま火で焼き殺すという刑罰で,八百屋お七が火刑に処せられたことは有名です。
火事を消すのは火消しの役割りです。しかし,江戸時代に強力な放水車などありません。火消しの役割りは,もっぱら,周囲の風下の家を壊して延焼を防ぐことでした。町火消しは,鳶口(とびくち)を持って家を壊すので鳶の者といわれましたが,彼らは容赦なく多くの家を次々に壊しました。
町火消しの制度を定めたのは,江戸町奉行の大岡越前守忠相(ただすけ)で,享保年間(1716~36年)のことです。二十町ごとに四十七の小組に分け,いろは四十七文字を組の名としました。ですが,「へ」「ら」「ひ」の三字は,語感がよくないというので省かれ,代わりに「百」「千」「万」を使用しました。その後本組が設けられて,町火消しは四十八組になります。
なお火消しには他に,大名火消しと定火消しがありました。大名火消しは,幕府の命で各大名が一万石につき三十人の人足を雇ってつくられ,主に武家屋敷の消火,ことに江戸域に火が移らないよう,破壊消火活動をしました。定火消しは,明暦の大火後につくられ,旗本がこの任に当たり,人足たちは臥烟(がえん)と呼ばれました。
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東京消防庁
宵ごしの銭と江戸の華
このページは、新 消防雑学事典 二訂版(平成13年2月28日(財)東京連合防火協会発行)を引用しています。
最新の情報ではありませんので、あらかじめご了承ください。
江戸四郎重継が、武蔵国豊島郡の一部であった今の皇居の地に、館を営んだのは平安末期のことです。 そして、長禄元(1457)年には太田道灌が築城、その後、上杉、北条の手を経て徳川家が幕府を開くに及んで、多いに繁栄したのが江戸の町です。 江戸に生まれ育った者を江戸っ子と呼ぶようになりましたが、こういう人たちには熊さん、八っつあんのような職人、江戸生まれの商人や鳶人足が多くいて、江戸に住むことを誇りにしていました。 こうした江戸っ子の間では「宵ごしの銭は持たぬ」の言葉にみられる気っ風の良さや、「火事と喧嘩は江戸の華」といわれる威勢の良さを自慢の種としていましたが、現代にもその気質は受け継がれているようです。 ところで、
江戸っ子の生まれぞこない銭をため
江戸っ子の死にぞこないは倉を建て
という川柳がありますが、その真意はどこにあったのでしょうか。
江戸は、日一日と繁栄していきました。
必然的に住宅も多くなり、土木建築関係の職人は、江戸のどこに行っても仕事にあぶれることはなく、遠く地方からも働き手が入ってきました。
加えて、大火でもあると復興の町づくりのため、大変活気に満ちた町となったようです。
そんなわけで、今日得た銭は全部はたいても、明日の収入があるから心配する必要はなかったのでしょう。
ここに宵ごしの銭不要論が出たとするのが一説です。
しかし、現実にはそんなに甘くなく、住まいはもちろん、貯えておいた銭までも灰にする大火が、たびたび発生していた時代ですから、火事になって一夜のうちに乞食になってしまうよりも、今日のうちに使ってしまえというすてばちな気持ちが多分にあって、この言葉が生まれたとする説が実際のようです。
火事を遠望する人々には、舞い上がる炎や火の粉は華に見えたでしょうが、たび重なる大火におびやかされる江戸の市民にとっては、死活の問題にもつながる深刻な悩みでした。
江戸の華などと言って、意気がってばかりはいられませんが、だからといって、江戸の町を捨てて出るには未練が残る。
そこで、ええい! ままよ! と、半ばやけっぱちの強がりが江戸の華をつくりあげ、それで自らを慰めざるを得なかったのだとみるべきでしょう。
『東京市史稿』(変災編)は、徳川家康が江戸城に入った天正18(1590)年から明治40(1907)年までの317年間に、江戸(東京)で起こった火災の中から主なものを記録していますが、それだけでも873件の火災が記録されています。
これをいわゆる大火とされるものだけに限ってみますと、110件となり、さらにこれから11件にも及ぶ江戸城の火災および1件ずつの兵火と地震による火災の計13件を除いた残りの97件が、江戸の町に発生した大火となりますので、市民がやけっぱちになるのも分かろうというものです。
樋口清之氏は、火事は江戸の華の語源を、大老酒井忠清の言にありとしています。
たび重なる大火に冠を曲げた大老は「かように頻繁に火事を起こすとは江戸のハジじゃぞ」と町人をたしなめたのですが、これを聞いた講釈師か狂歌師が、恥を華とすり替えたのが、「江戸の華」のいわれと言われています。
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2024年11月15日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「江戸時代の子ども」は「現代の大学生」も及ばない「高度な法意識」を持っていた!?…知られざる江戸時代庶民の「民事訴訟」リテラシー
「法の支配」より「人の支配」、「人質司法」の横行、「手続的正義」の軽視…
なぜ日本人は「法」を尊重しないのか?
【写真】日本は「隠れたハラスメントがとても多い」といわれる「驚きの理由」
講談社現代新書の新刊『現代日本人の法意識』では、元エリート判事にして法学の権威が、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。
本記事では〈日本は「隠れたハラスメントがとても多い」といわれる「驚きの理由」…現代社会に残る「喧嘩両成敗」的発想〉にひきつづき、江戸時代の民事訴訟に関する実証的研究やその研究から学ぶべき事柄をくわしくみていきます。
※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです。
江戸時代の民事訴訟に関する実証的研究
『現代日本人の法意識』第6章で言及する川島武宜の法社会学を始めとする戦後初期の法社会学には、当時の左翼思想の影響も手伝って、「日本社会は前近代的な後れた社会だったし、今もそうだ」との認識があった。また、日本人の法意識のうち、江戸時代以前に淵源をもつような、近代法の論理とは異なる部分についても、その客観的・中立的な検討を行う以前に、「前近代的」として切り捨てる傾向もかなり強かった。
こうした認識は一面的なものだったが、一方、私自身、現代日本社会の停滞、民主主義という側面からみての機能不全については、やはり、「ムラ社会の病理」がその大きな原因だと考えている。だから、本書の分析でも、日本人の法意識については、批判的に考察、検討する場合が多い。
そこで、公平かつ客観的なバランスを保つという観点から、また、近世の村社会がもっていた積極的側面、再評価されるべき側面をも押さえておくという観点から、江戸時代の裁判に関する歴史学者の実証的研究について紹介、分析しておきたい(渡辺尚志一橋大学名誉教授による分析。書物は、『武士に「もの言う」百姓たち──裁判でよむ江戸時代』、『江戸・明治 百姓たちの山争い裁判』、『百姓たちの水資源戦争──江戸時代の水争いを追う』、『百姓たちの幕末維新』〔以上、草思社文庫〕、『百姓の主張──訴訟と和解の江戸時代』〔柏書房〕、『百姓の力──江戸時代から見える日本』〔角川ソフィア文庫〕。以下の記述との関連が深くかつ比較的わかりやすいのは、最初に挙げた書物であろう。なお、各書物の記述には他の学者による研究の引用も含まれているが、以下では特に区別しないで論じる。また、以下の記述には、渡辺教授の記述に基づく法学者としての私の「解釈」も、一部含まれている)。
これらの書物における分析は、古文書に基づいて個々の現実の事件を追ってゆくスタイルであるため、訴訟の経過が鮮明な印象をもって実感される点が貴重である。従来の法制史研究を補い、具体化する意味があると考える。
江戸時代庶民の法意識は高かった
まず、渡辺教授は、江戸時代の「百姓」につき、兼業を含め、漁業、林業、商工業等に従事する人々をも含み、また、村の正規の構成員として認められた者(厳密には家の戸主)の呼称として、一つのステイタスシンボルだったともいう。以下、「百姓」という言葉はこの意味で用いる。
百姓の全体としての知的水準は、識字率や計算を含め、世界的にみても相当に高く、その上層には、土地の知識人や指導者的人物、また、江戸や他藩の武士階級にまで広いネットワークをもつような人物も、まま存在した。
そして、訴訟(後記のとおり、村と村の間の訴訟)についても、村役人たち(村方三役。百姓である)のみならず、子どもたちも、将来に備え、過去の訴訟記録を教材に、訴訟とはどのようなものかを学んでいた。
これはなかなかすごいことだ。江戸時代の村役人の子らや優秀な子どもは、現代の大学生でさえその大半が学んでいないような事柄を学んでいたのである。まさに、高度な「法教育」といえよう。なお、19世紀になると、実際の訴訟記録に代わり、さまざまな訴訟に対応できる雛形としての文例集(訴訟書類マニュアル)が広まった。
上のことからも想像されるとおり、江戸時代の百姓たちは、戦後の日本人について川島が評した(『現代日本人の法意識』第6章)ように「裁判嫌い」ではなかった。むしろ、自分たちの利益が侵されたと考える場合には、1で述べたとおり訴訟は建前上は「権利」ではなく領主等の慈悲、恩情によって行われるものにすぎなかったにもかかわらず、積極的に訴訟を行っており、また、管轄裁判機関での適切な裁きが期待できない場合には、戦略的に、他の裁判機関への各種の越訴をも行っていた。たとえば、代官でなくその上役の、また、自藩大名の裁きではなく幕府の裁きを求めるなどである。
越訴は、建前上は違法だったが、実際には、繰り返したりしない限り処罰されることはなく、しばしば受理されてもいた。また、集団訴訟である国訴(農産物の自由販売を求めて起こされたそれが有名)では、千以上の村々が参加したことさえあった。これは、百姓に広範なネットワークや組織力がなければ、およそ不可能なことである。
もっとも、渡辺教授が取り上げている民事訴訟は、村と村の争いや村の内部における村政・財政問題等をめぐっての争いである。具体的には、村と村の争いでは、山林等がいずれの村に属するか、また、山林や農業用水等の水資源の利用権がいずれの村にあるかといったことが争われ、村の内部では、名主(村方三役の筆頭で村運営の責任者)による村の運営上の不正等について争われている。後者のような訴訟は、現代の行政訴訟的な要素をも含むといえよう。
一方、村落共同体内部における純粋な個人間の訴訟は、あまりなかっただろう。したがって、そこでは、個人としての権利意識は未発達だったと思われる。しかし、「権利意識自体がなかった」とまではいえまい。「社会構造の中で規定される限定された権利意識」であり、ヨーロッパ近代のそれのように普遍的なものではなかったということであろう。
訴訟の実際と現代日本にも通じる諸要素
取り上げられている個々の訴訟をみると、法学者・元裁判官の私でも熟読しないと正確に経過を追いにくいほどに、込み入ったものが多い。そして、当事者の言い分(現在でいえば準備書面あるいは陳述書)の法的な水準は、訴訟当事者のための宿屋で出廷はできないものの訴訟関係書類の代書、訴訟技術の指導を行った公事宿等の援助を受けただろうとはいえ、また、渡辺教授の前記各書物では内容が整理されているだろうとはいえ、相当に高い。法律の相違を捨象してみるなら、現代の弁護士が作成したとしてもおかしくないレヴェルの論理性を備えているものも多いのだ。
さらに、領主の異なる村どうしの境界紛争では、領主の役人たちも、みずからの側の百姓たちに種々協力し、家臣が百姓に偽装して鮮やかな弁論を行ったために相手方がこれに抗議して出廷拒否をした例まであったという。身分制度の厳しかった江戸時代にも、百姓と武士が、相当程度に近代的・機能的な連携プレーを行うような事態があったのだ。
そして、証拠調べや事実認定も、かなり綿密に行われている。
もっとも、最終的には、内済(和解)で終わっているものが多い。これは、判断官である武士のほうが、温情主義、パターナリズム(家父長制的干渉主義)の観点から、また、判断を行ってもそれに問題があったり紛争が収まらなかったりすれば武士の威信に傷が付くことも手伝って、和解を熱心に勧めたことが大きい。さらに、同じ村や隣村どうしの争いが多いため、百姓の側としても、禍根を残さないために基本的には和解が望ましかったことにもよる。もっとも、時代が下るにつれて、百姓は、「理非による裁判」を求める方向により傾いていった。
なお、江戸時代にも内済批判派はかなりおり、その議論の根拠は、(1)内済では理非に基づく判断が明確に示されないので結果的に強い者勝ちということになりやすい、(2)そうした不合理な内済が裁判に代わるものとして強要されるのはよくない、というものだった。私は、本書でも随時ふれるとおり、日本の裁判官の和解押し付け傾向には大きな問題があると従来から指摘してきたので、江戸時代の市民の間にも同様の批判があったというのはきわめて興味深い。
判決についてみると、審理自体は綿密に行っているにもかかわらず、黒白をはっきりつけない、あいまいで喧嘩両成敗的な色彩を帯びた内容になりがちだったようである。その理由の一つに、判断官である武士としては、武士の面子を保つことが何よりも大切だったということがある。これは、武士が内済を強く勧める動機と同様である。
そして、渡辺教授が詳しく描写する19世紀の裁判の例では、判決言渡期日につき、百姓たちが判決に承服せず、抗議の声が上がるのを恐れて、そうした事態を避けるために入念な進行計画までが立てられている。抗議の声が上がったりすれば、お殿様の名声に傷が付き、役人たちの責任問題にもなるからだ(『武士に「もの言う」百姓たち』197頁以下)。こうした役人たちのパーソナリティーにも、現代日本の司法官僚裁判官に通じる部分がある。
なお、自白が決定的に重視された刑事訴訟のみならず、民事訴訟でも場合によっては拷問がありえたし、一時収牢等の措置もとられえた。また、訴訟費用はしばしば高額にのぼり、村を含めた関係者の大きな負担となった。訴訟に臨む村人、特にその代表者には相当の覚悟が必要だったわけである。
前記の研究から学ぶべき事柄
前記の各書物における著者の意図は、「しいたげられた悲惨な人々」あるいは「無知ながら純朴な農民」というステレオタイプの百姓イメージ・神話・幻想を払拭し、リアルで生き生きとした百姓像を提示するとともに、江戸時代の百姓集団や村がもっていた知恵、先進的側面に光を当て、そこから学ぶべきだというものである(なお、同様の視点を戦国時代の村について示していたものとして、『戦国の村を行く』〔朝日新書〕等の藤木久志教授の著作があった)。
確かに、江戸時代「市民」にこうした広範な知的蓄積があったからこそ、明治日本の「近代化」がまがりなりにも成り立ったのは事実であろう。
また、私たちは、江戸時代の村社会の長所をみることなくその全体を後れた社会として切り捨ててしまった結果、本来であればよく検討した上で継承してもよかった遺産(たとえば、実質的な法教育、身近な組織運営上の問題を司法等の手段で問う習慣)をも置き去りにしてきた一方、その短所(たとえば、司法の事大主義的、権威主義的なあり方や司法のイメージに関する同様のとらえ方)については、無意識のうちに、みえにくいかたちで引き継いでしまっている可能性があるともいえよう。
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さらに【つづき】〈たとえ法学部で憲法を学んでも、多くの日本人が「普遍的な法的価値や理念」を理解できていない「衝撃的な理由」〉では、明治時代から第二次世界大戦後までの法意識の歴史とその特質について、くわしくみていきます。
瀬木 比呂志(明治大学教授・元裁判官)
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11月13日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「たとえ法学部で憲法を学んでも、多くの日本人が「普遍的な法的価値や理念」を理解できていない「衝撃的な理由」
瀬木 比呂志明治大学教授
日本人はなぜ「法」を尊重しないのか?
講談社現代新書の新刊『現代日本人の法意識』では、元エリート判事にして法学の権威が、日本人の法意識にひそむ「闇」を暴きます。
本記事では、〈「江戸時代の子ども」は「現代の大学生」も及ばない「高度な法意識」を持っていた!?…知られざる江戸時代庶民の「民事訴訟」リテラシー〉にひきつづき、明治時代から第二次世界大戦後までの法意識の歴史とその特質について、くわしくみていきます。
※本記事は瀬木比呂志『現代日本人の法意識』より抜粋・編集したものです。
明治時代から第二次世界大戦まで
明治時代になると、以上の伝統を一挙にくつがえすようなかたちで、怒濤のようにヨーロッパ法が流入してきた。しかし、これは、ご存じのとおり、治外法権、関税自主権の喪失等を内容とする不平等条約撤廃のために近代的法制度を整えることを第一の目的としていた。すなわち、法継受の目的が外向きでいびつだった。この当時から、外圧で動きやすい国だったともいえる。
また、日本人起草者たちは明治日本の底力を示す一典型として非常に優秀な人々であったとはいえ、やはり、急いで作られた制定法は、従来の日本法とはあまりにも異質なものであり、それを無理矢理押し込めるかたちで成立した傾向が否定できなかった。したがって、それらは、特に当初の時点では、人々が漠然と意識してきた、また、意識している法とは、かけ離れたものであった。
その一例が、民法領域における土地所有権制度の改変である。江戸時代には、建前上は田畑の売買が禁止され、また一つの土地の上に入会権等の多様な慣習的権利が重畳的に存在しうるなど、土地所有権の内容が近代法のそれとは多くの点で異なっていた。しかし、明治になると、絶対的で制約のない近代的所有権が確立され、同時に、これに対する課税制度も整備された。
こうした制度改変に伴い官有地とされた多くの山林では、近隣住民の入会権等の慣習的利用権も制限されてゆき、たとえばそのような旧制度と新制度の軋轢から、多数の訴訟も起こっている。
さて、これらの新たな法律、法制度の頂点に立った大日本帝国憲法は、形式的には権力分立を規定していたが、それら機構の統治権は、「神聖にして侵すべからざる万世一系の天皇」が総攬することとされていた。現人神としての天皇のこうした大権は、イデオロギー的には天孫降臨神話によって正当性を付与され、「国体」の基本となった。忠君愛国の精神を浸透させるための「教育勅語」と「国家神道」がこれを補強した。
なお、権力分立といっても、司法については、裁判官が司法省の傘下にあり、行政の司法に対する優位は明らかだった。司法の機能も主としては治安維持であり、民事事件の比重は相対的に軽く、和解、調停重視の傾向が江戸時代からそのまま引き継がれた。
家族法の領域では、法制度としての「家制度」の確立が重要である。戦後の改革に伴いいくぶんかたちを変えつつも今日まで連綿と続いている戸籍制度は、家制度の基盤であった。明治の戸籍制度は、戸を単位とし、戸主には家の支配者としての大きな権限を与えていた。住民登録、親族登録、国民登録を兼ねる究極の身分登録簿といえる日本の戸籍は、ほかにあまり例のないものであり、これによって明治の「家制度」が可能になったともいえるのである。それは、税制、徴兵制、学制等々の国家的政策の基盤ともなった。
戦後約80年を経た今日でさえ、人々は、「で、籍はいつ入れるの?」、「もう籍は入れたの?」と、あたかも婚姻イコール戸籍への記載であるかのような言葉遣いを無意識のうちに行っている。日本人の法意識の無意識領域には、家制度の根幹であった明治の戸籍制度が色濃く尾を引いているのだ。戦後、法学者たちが、「家破れて氏うじあり、家破れて戸籍あり」との感想を漏らしたのも、自然な事態といえる。
以上から明らかなとおり、明治時代の法制度は、従来の法制度とは切断された近代的西欧的法制度を確立した側面とともに、天皇制や家族制という日本の固有法の要素をも含んでいた。しかし、注意すべきは、後者の固有法の要素については、明治政府の政治的イデオロギーによって新たに潤色、創作された部分、それに都合のいいようにねじ曲げられた部分も大きかったことである。
欧米列強に対抗するために、キリスト教に代替する日本なりの「普遍的原理」として創作された傾向の強い明治天皇制、絶対君主的な立憲君主と擬似的な一神教の神を混淆したような明治天皇制については、特にそういえた。
こうして築き上げられた大日本帝国、その法制度には、後発的帝国主義国家として発展してゆく素地とともに、そのたががゆるんでくれば容易にファシズム化の波に飲み込まれてしまいやすい傾向もまた、当初から存在していたといえよう。
それでも、明治から大正の日本には、「西欧を規範としつつ日本固有の事情をも加味した近代」の確立を唱え続けた指導的知識人たちの理想に沿って、欧米近代を、特にその本質的な部分を咀嚼、消化してゆこうという努力があった。たとえば、夏目漱石や森鴎外の文学にもそれは明らかだ。また、ジャーナリズムの機能もそれなりに果たされていて、すぐれた部分の水準は高かった。
しかし、昭和期に入ると、第一次世界大戦後の政治・経済情勢の影響もあって、日本は、ファシズム化の動きが顕著な国の一つとなり、いわゆる十五年戦争への突入に伴い、未だ萌芽の段階にあった民主主義も、封じ込められていった。特に、大正末の1925年に制定された治安維持法は、明らかにファシズム的な性格をもっていた。それは、次第に強化され、規制対象のあいまいさと拡張解釈から、左翼のみならず自由主義者までをも根こそぎにし、沈黙させていったのである。
第二次世界大戦後
太平洋戦争敗戦後の法の継受については、占領国であるアメリカ法の影響が決定的であり、日本国憲法がその典型だ。もっとも、日本国憲法は、比較憲法という観点からしても、すぐれた、充実した内容をもっており、それは、内外の研究者も認めるところである。また、各種の制定法も、新しい憲法に沿うかたちで改正され、あるいは新たに制定された。
この時期における法の切断については、明治期のものに比べれば小さいとはいえ、近代・現代憲法の掲げる諸価値がそこで初めて確立されたという意味では、やはり、無視できない重みがある。
侵すことのできない権利としての基本的人権、法の支配(統治する側の権力もまたより高次の普遍的な法によって拘束されるという原理)、手続的正義、人間の尊厳とそれを踏まえての法的な平等といった普遍的な法的価値・理念は、戦前の日本ではきわめて稀薄だったのであり、日本国憲法の下で、初めて明確に確認され、定着してきたといってよい。
しかし、ここでも、戦後の日本社会で、そのような理念が、本当に、十分に理解され、消化され、血肉化されてきたのか、またいるのかという問題は、今なお残っている。
そのことを示す一つの例が、日本の憲法学のわかりにくさ、その記述の内容に感じられるある種の「稀薄さ、何となくそらぞらしい印象」であろう。これは、基本的に、憲法判例の貧しさに起因するように思われる。
法学は判例によって発展する側面が大きいところ、今なお貧しい日本の憲法判例では素材が決定的に不足しているのだ。学者は、いきおい外国憲法学由来の難しい抽象論を展開せざるをえないが、何せ素材が乏しいので、その発展にも限りがある。私自身、「憲法が、人権擁護と法の支配のために、権力を厳しく規制、制限するものだ」ということを初めて実感として理解したのは、裁判官になってから留学準備のためにアメリカ法を本格的に学び始めた時のことだった。なお、アメリカに限らず、欧米諸国の憲法判例において、あらゆる人権が詳細に具体化、血肉化されている程度は、日本とは比べものにならない。
憲法を学ぶ学生は、法学部を始め非常に多いにもかかわらず、人権、法の支配、手続的正義等々の普遍的理念についての学生たちの認識は、それによって本当に深まっているといえるのだろうか?それがいささか疑問なのは、『現代日本人の法意識』第1章でふれた「アリスの法意識と現代日本人の法意識の対比」からも、明らかだろう。ことに、法の支配と手続的正義を踏みにじるハートの女王の暴言に、しつけのよい令嬢のアリスが、間髪を容れず、また敢然として、「たわごとよ、ばかげてるわ(スタッフ・アンド・ナンセンス)」と激烈な抗議を行っていることを思い出してほしい。七歳の少女のうちにも、先のような理念は、萌芽的なかたちではあれ、単なる「知識」にとどまらないものとして、根付き、血肉化されているのである。一方、日本の学生が大学の憲法の講義や演習で「優」をとったからといって、必ずしも憲法の精神が身についているとはいえないのだ。
さて、戦後の法の切断についてもまた、その陰の「屈折」という要素は存在する。憲法制定過程と天皇制の扱いである。
憲法については、日本側の改正案がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によってしりぞけられ、改正は、アメリカ側の草案によることとなった。これについては、私は、基本的には、やむをえないことであり、また、結果としてはオーライの事態でもあったと考えている。残念ながら、頭の中が基本的に大日本帝国憲法のままであった日本側の起草者が戦後の日本にふさわしい案を作成できなかったのは、否定しにくい事実だからだ。
しかし、上のような事情はあるにせよ、占領国のスタッフが原案を作成することになったのも事実であり、この事実は、日本の戦後に長い尾を引いた影をも落とすことになった。
また、アメリカが、効率のよい占領政策の遂行という観点から、旧来の統治機構を相当に温存、利用して、間接占領という形式の統治を行ったことも、新しいものの下に実は古いものが残存するという二重基準状態を定着させる結果を生んだ。
占領政策のために利用された要素が最も大きいのが、天皇制の扱いであろう。アメリカが早々と天皇制存続の方針を固めたのは、占領政策をスムーズに進めるためだった。
また、アメリカは、一方で日本の指導者たちの戦争責任を、法的根拠としては問題を含む極東国際軍事裁判(東京裁判)で問いながら、他方では、どうみても法制度上からは最高責任者としかみようのない天皇については、保守主義者、天皇制擁護論者の間にもけじめを付けるための現天皇退位論が相当に強くあったにもかかわらず、平和憲法の象徴としてそのままに在位させるという政治的決断を行った(小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉──戦後日本のナショナリズムと公共性』〔新曜社〕等)。後者の事実が、法的・政治的責任一般に関する戦後日本人の意識に影を落としたことも、否定しにくいであろう。
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本記事の抜粋元・瀬木比呂志『現代日本人の法意識』では、「現代日本人の法意識」について、独自の、かつ多面的・重層的な分析が行われています。ぜひお手にとってみてください。
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