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武士・サムライは日本しか存在せず、西洋の騎士や紳士ではなく、中国の士大夫・卿大夫・読書人でも、朝鮮の両班・花郎でもなかった。
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2024年9月8日 YAHOO!JAPANニュース 週刊SPA!「武士の身分はお金で買うことができた?日本史の常識「士農工商」制度は実は存在しなかった
日本史を勉強していた人なら「士農工商」という言葉は誰でも知っているはず。江戸時代の身分制度として習ったと思う。しかし、その制度がなかったとしたら!?
高校教師歴27年、テレビなどにも多数出演している歴史研究家で多摩大学客員教授などを務める河合敦先生によると、歴史研究が進んだことにより、今の歴史教科書と30年くらい前の歴史教科書では、記述が変わっているところがたくさんあるのだとか。
そこで、教科書を切り口にした歴史の新説や、教科書では紹介されない不都合な日本史などを河合先生から教えてもらった。
(この記事は、『逆転した日本史~聖徳太子、坂本龍馬、鎖国が教科書から消える~』より一部を抜粋し、再編集しています)
「士農工商」は、よくできたウソだった
小学校のとき、学校の先生から「江戸時代には士農工商という四つの身分があって、それぞれ厳しい上下関係になっている」と教わった人がたくさんいると思う。さらに次のように士農工商を詳しく解説されたものだ。
「一番上の士は武士(侍)のことで、農工商を支配するんだ。農は農民(百姓)、工は職人、商は商人だよ。
どうして農民が二番目に地位が高いかというとね、幕府や大名などの支配者が、お前たちは武士の次に偉いんだ、だからきちんと年貢を払うんだと、重税を課せられる彼らにプライドを持たせるためだったんだ。商人を一番下にしたのも、彼らは金持ちで贅沢しているけど、身分は一番下なんだよと農民たちを納得させるためだったんだ」
しかし河合先生によると、この話、よくできたウソなのだという。
「士農工商」の概念はどこから浮上したのだろうか
じつは江戸時代、士農工商なんていう身分制度は存在しなかったのである。ならば誰がこのつくり話を思いついたのだろうか?
「確かに昔の教科書には、確かに士農工商という身分制度は明記されていました。
私が高校生だった41年前の教科書には、『幕藩体制を維持し強固にするためには、社会秩序を固定しておく必要があった。そのために士農工商の身分の別をたて、支配者としての武士の地位を高め、農工商とのあいだには厳格な差をつけた』(『詳説日本史』山川出版社 1983年)とあります。
また、1997年の山川出版社の教科書(『詳説日本史』)でも、『近世社会は身分の秩序を基礎に成り立っていた。武士は政治と軍事を独占し、(略)さまざまの特権を持つ支配身分で、(略)被支配身分としては、農業を中心に林業・漁業に従事する百姓、手工業者である諸職人、商業をいとなむ商人を中心とした都市の家持町人の三つがおもなものとされた。こうした身分制度を士農工商とよんでいる』と記されています」(以下、すべて河合氏)
2000年代に入ると、教科書の「士農工商があった」という表記に変化が……
しかし2002年になると、教科書の記述の最後が「こうした身分制度を士農工商とよぶこともある」(『詳説日本史B』)となっていいて、「よんでいる」(1997年)から「よぶこともある」(2002年)へと、5年後に断言するのをやめている。
「別の教科書(『日本史B』実教出版 2018年)では『武士・百姓・職人・商人は士農工商(四民)といわれ、江戸時代では社会を構成する中心的な身分と考えられていました。
士は苗字・帯刀や切捨御免などの特権をもち、農工商に優越する身分であったが、農工商の順は必ずしも身分序列ではなかった。しかし、儒者などによってしだいに身分序列とみなす傾向が強まっていった』とあります。
さらに注書きに『農工商の各身分は、厳密に固定されていたわけではなく、百姓が都市に出て商人になるように、相互間の身分変更は、ある程度可能であった。また、百姓や商人が武士にとりたてられた例や、御家人株の購入により商人が御家人の養子となった例のように、被支配者身分の者が武士になることも、少数ながらあった』と補足されています」
そして、東京書籍の教科書(『新選日本史B』2018年)では「江戸時代の社会では、武士と百姓、町人(商人と職人)が、それぞれの職能によって区分された身分を形づくった」とあるだけで、「士農工商」という言葉自体が教科書から消えてしまっている。
そもそも「士農工商」という概念は古代中国のものだった
「じつは士農工商という概念は古代中国のもので、四つの身分というより“あらゆる人々”を意味しています。それを江戸時代に儒学者が、強引に日本の社会にあてはめ、それが誤った形で明治以降に伝わっていったのです。
正確には、江戸時代の身分には、支配者の武士と被支配者の百姓・町人という二つがあるだけで、百姓と町人については、村に住むのが百姓、町(主に城下町)に住むのが町人(職人と商人)というように居住区や職業別にすぎないのです」
しかも驚くべきことに、身分間での移動もできたのだとか。
「たとえば勝海舟の曽祖父は越後の農民だったが、お金持ちになって武士の権利を買っています。作家の曲亭(滝沢)馬琴も、金で孫のために武士の株を購入しましたし、正確な地図をつくった伊能忠敬や新選組の近藤勇は、その功績で幕臣(武士)に取り立てられています。
いっぽう三菱をつくった岩崎弥太郎の家は武士でしたが、その権利を売って農村で農民身分(土佐では地下(じげ)浪人と呼んだ)になっていました。しかし、弥太郎はのちに武士の権利を買い戻しています。
江戸や京都の大店(豪商)は、先祖の地に住む農民の子を多く店員として雇用し、その中から立派な商人になるものも少なくありませんでした」
身分間の移動ができたことも驚きだが、私たちがこれまで当然だと思っていた「士農工商」という概念が間違っていたことが一番の衝撃かもしれない!
文/河合 敦 構成/日刊SPA!編集部
【河合 敦】
歴史作家、多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965 年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』『日本史の裏側』『殿様は「明治」をどう生きたのか』シリーズ(小社刊)、『歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(青春新書)、『絵と写真でわかる へぇ~ ! びっくり! 日本史探検』(祥伝社黄金文庫)など著書多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017 年に上梓。
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武士・サムライとは、人斬り包丁(日本刀)を振り回して人を殺す事を職業とする「血と死」にまみれた、賤民(非人・えた)よりも穢れ、祖先が殺した人々の死霊・怨霊に祟られ呪われた存在であった。
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庶民は身分は低いが財産を持って豊かであったが、下級武士は身分は高いが貧困のどん底生活を強いられていた。
庶民は、儒教価値観に縛られる事なく、自分の才覚で自由に金を稼いでいた。
武士は、儒教価値観に縛られて、賄賂を取っても金を稼ぐ事が禁止されていた。
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中国と朝鮮を支配していた中華儒教の価値観は、日本には存在しない。
学んだ儒教は、日本と中国・朝鮮とでは全然違う。
儒教から言えば、日本儒教は異端であって中国儒教・朝鮮儒教の正統ではなかった。
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2022-06-01
🏞92)─2─庶民(金上侍)・下級武士から成り上がったお奉行様。~No.379No.380No.381 *
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2022-07-01
🏯29)─1・A─日本の身分制度と民族宗教。大名の神様。庶民(百姓・町人)が武士に、武士が庶民になる。~No.54 *
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戦後、敗戦利得者であったエセ保守とリベラル左派達は、民族宗教否定・神話物語排除の新たな歴史教科書を創作し、団塊の世代や団塊ジュニアに「古代から、日本は独裁者的天皇を頂点とした悪しき階級社会であった」とメディアや教育を使って洗脳してきた。
文化マルクス主義者は、日本で反宗教無神論・反天皇反民族反日の暴力的共産主義人民革命を成功させる為にプロレタリア階級闘争史観を日本に広めようとしてきた。
が、それはことごとく失敗した。
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福岡県弁護士会
弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
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2022年5月 1日
江戸のお勘定
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 大石 学 、 出版 MdN新書
江戸時代の人々のお金をめぐる話がたくさん紹介されています。知らないことがたくありました。
切米(きりまい)は、いわば現物支給の給料。春(2月)、夏(5月)、秋(10月)の3回、4分の1、4分の1、2分の1の割合で支給された。お米は食べるためだけでなく、売却して現金を得るためのものでもあった。旗本の56%、御家人の87%が、この切米取だった。
切米取の下が扶持取(ふちどり)。男性は1日玄米5合食べるとして、毎月人数分の扶持米が給付された。扶持取の下に給金取という最下級の武士がいる。3両1人扶持が与えられたことから「三一侍(さんぴんざむらい)」と呼んだ。
芝居に出演する人気役者は高給取りで、大坂の女形(おんながた)の芳沢あやめは千両(1億2千万円)だった。市川團十郎など、千両をこえる役者が何人もいた。この給金は一度には支払われず、年3回に分けて渡された。
幕府は役者の給金を最高5百両(6千万円)とするように指示したが、守られなかった。
寺子屋の入学金(束脩。そくしゅう)は1朱(7500円)か2朱(1万5千円)。大きな商家は1分(3万円)をもたせることもあった。月謝は200文(6千円)くらい。
授業は朝の五ツ(8時ころ)に始まり、昼の八ツ(2時ころ)まで。授業の中心は読み書きが中心で、算盤(そろばん)もあった。寺子屋では一人ひとりのスピードにあわせて進むので、落ちこぼれはなく、卒業も本人の都合により、何年間という定めはなかった。
江戸の人々は、大量の白米を食べたので、脚気(かっけ)が多かった。ビタミンB1を含む米ぬかを落としてしまうから。また、江戸時代には新米は人気がなかった。古米だと水を吸って、かさが増えるので、これをお得(オトク)と受けとめる人が多かったから。
かけそばは、そばを鉢に入れて汁をかけたもの。盛りそばは小さなせいろに盛って、そうめんのように食べた。
にぎり寿司は、初めは屋台で食べられていて、現在の寿司の2倍から3倍は大きかった。マグロの大トロは江戸の人々の口に合わず、捨てられていた。
豆腐は超高級品だった。1丁が56文(1680円)から60文(1800円)もした。
江戸の町では、朝一番に納豆を売りに来た。
卵は、生卵もゆで卵も1つ20文(600円)で、庶民には、なかなか買えない高級品だった。卵を食べると悪いことが起きるとか、地獄に落ちるという人がいたけれど、値段がそれほど高くないことから、大いに売れた。
半畳(はんじょう)を入れるというのは、非難や野次ること。芝居見物のとき、半畳の敷物を観客が不満なときに舞台に投げ入れたことからきている。
相撲が土俵でたたかわれたのは元禄のころ。それまでは、相手を倒すまで勝負が続けられた。
武士でない人がお金を出して武士になった人を「金上侍(かねあげざむらい)」と呼んだ。農民は50両(600万円)で名字帯刀が許され、250両(3千万円)で武士になれた。1000両もあれば、大番組という役職につけた。藩財政の足しになった。
いやあ、世の中は知らないことだらけですね...。でも、それがあるので、みんな学問するし、楽しいんですよね...。
(2021年8月刊。税込891円)
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江戸時代がわかるお役立ちサイト
江戸時Campus代
江戸時代の主役である侍たちのちょっと面白い生き様 > 武士の身分がお金で買えた?
江戸時代は農民でもお金を払えば武士になれたって本当?
ある程度の年齢の方は、江戸時代の人々は士農工商という四つの身分に分けられていたと学校で教わった記憶があると思います。
しかし、現代ではそれらは学説的に否定されており、学校の教科書からも「士農工商」の項目は削除されています。
とはいえ、江戸時代の職業が世襲制であったことには変わりなく、よほどのことがなければ武士の子は一生武士、農民の子は一生農民であったわけです。
ましてや、農民が武士になるなどということはありえないと一般には思われています。
しかし、驚くべきことに、世襲制であるはずの武士の身分を農民がお金で買うことができたのです。
武士になるための料金表が存在しました
特に江戸後期になると、お金を出して武士の身分を得る人が多かったようです。それだけ武士という身分に憧れる人が多かったのでしょう。
これらのお金で武士の身分を買った人々は「金上侍」と呼ばれました。
驚くべきことに、藩によっては武士になるための料金を表にしていたところもあるようです。
武士になるための料金表があるなんて信じがたいことですが、事実です。
例えば独眼竜伊達政宗で有名な仙台藩などは次のような料金体系になっていました。
「百姓に帯刀を許す」のに必要な料金は50両。
「百姓に苗字を許す」のに必要な料金は100両。
「百姓が武士の戸籍に入るのを許す」のに必要な料金は250両。
つまり、現代の貨幣価値になおして、およそ2500万円程度のお金を積めば、百姓から晴れて武士になることができたということです。
しかし、よほどの豪農でもなければ、おいそれと百姓が出せる金額ではありません。
やはり、武士になるにはそれなりに敷居は高かったと言えるでしょう。
料金があまりに高く希望者が少なかったためか、後にこれらの料金は半額にされたようです。
半額になったとはいえ高額であることには変わりなく、武士という身分を得るにはそれだけの価値があると仙台藩では考えられていたのでしょう。
格安料金で武士になれた盛岡藩
このように仙台藩で武士の資格を得るには、それなりの金銭的に高いハードルがあったのですが、同じく東北の盛岡藩の場合は仙台藩に比べるとかなり格安でした。
40両から50両で武士の身分を買うことができたようです。
現代の貨幣価値に直すと、400万円から500万円程度となりますので、仙台藩の料金と比べるとだいぶ割安感はありますし、現実的な気がします。
仙台藩が現代でいえば家1件分の料金なのに対して、盛岡藩は高級車1台分といったところでしょうか。
仙台藩と比べてだいぶ割安だった盛岡藩の料金ですが、それでもあまり希望者はいなかったようで、後にこの料金は3分の1に下げられたようです。
130万円から170万円程度で武士の身分が買えてしまうというのは、なんとも驚きです。
どこの藩も財政事情が厳しかったのでしょうか、武士の身分をお金で売っていたという事実にも驚かされますが、それが最後は投げ売り状態だったということに少なからぬ哀れみさえ感じてしまいます。
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ダヴィンチ
武士はお金次第で買えた身分? 江戸時代の格付けを徹底解説
暮らし 公開日:2017/8/31
『江戸時代の「格付け」がわかる本』(洋泉社)
江戸時代といえば、武士を頂点とする厳しい階級制度があったと多くの人が聞かされているだろう。そして、時代劇ドラマや映画でも高圧的に振る舞う武士がたびたび登場する。しかし、実際の江戸時代はフィクションと異なり、一筋縄ではいかない格付けが存在していた。
『江戸時代の「格付け」がわかる本』(洋泉社)は、歴史の教科書には載っていない江戸時代の身分制度について勉強できる本だ。本書を読んでみると武士は威張ってばかりではなかったし、町人も虐げられてばかりではなかったのだと理解できる。読者は江戸時代の暮らしをより身近に感じられるようになるだろう。
江戸時代の身分制度といえば「士農工商」という言葉が有名である。しかし、階級ごとにも細かく「格付け」があったと現代の調査では分かっている。大名、御家人、大奥など、上流階級とされていた身分の中でも、上下関係は存在していたのだ。
中でも面白いのは「徳川御三家」内の格付けである。世襲制である将軍家において、将軍直系の子息がいない場合、近縁にあたる尾張・紀伊・水戸の大名から後継者が選ばれることになっていた。しかし、御三家は決して対等な関係だったわけではない。石高や官位から察すると、尾張が一番格上に位置していたと見られる。ちなみに、格下とされていたのは水戸。『水戸黄門』で知られる大名家だっただけに、意外な扱いだ。
御三家から選ばれた将軍と言えば第八代・徳川吉宗が有名である。しかし、吉宗はもともと紀伊家の四男で、将軍はおろか紀伊家を継ぐ可能性すら少なかったという。第五代将軍・綱吉に接見し、越前国葛野藩の藩主に引き立てられたことから、奇跡の出世コースが始まる。紀伊家を継いだ兄たちは次々と早死にし、吉宗が紀伊藩主となったのが1705年。そして、1716年には第七代将軍・家継の急死によって一番血筋が近かった吉宗が将軍となる。このとき、将軍就任の話が突然すぎて吉宗には将軍に値するだけの官位がそなわっていなかった。急遽、正二位の官位を授かって無事、稀代の名君は誕生したのである。
そもそも、「士農工商」が身分制度だったという説自体にも疑問が投げかけられるようになってきている。現代の研究では、「武士」の肩書きを金銭次第で譲渡することも珍しくなかったと判明しているからだ。武士の中でも不自由なく暮らせるのは石高が大きい大名に仕える者だけ。大金で身分が売れるなら、生活はむしろ楽になる。また、裕福な商人からすれば、「武士」という名誉を手に入れられるメリットがある。仙台藩に関しては、藩の苦しい財政状況を救うため、町人相手に武士の身分を売り出していたという。このような事例を見ていくと、「士農工商」とは厳格な身分制度ではなく、単なる職業区分に過ぎなかったようにも思えてくる。
人間だけでなく、店舗にも格付けは存在していた。たとえば、料亭のランキングを表にした「見立番付」である。まるで力士の番付よろしく、東西の人気店が「大関」「関脇」「小結」といった具合に評されている。現代におけるミシュランガイドのようなものだろう。また、高級店は各藩の江戸居留守役たちによる情報交換の場として重用されていた。ただし、食事代がかかりすぎて藩の財政を圧迫することも少なくなかったとか…。
江戸時代といえば、身分に縛られた窮屈な時代というイメージが現代人の間に残っている。しかし、本書を通して伝わってくるのは見栄にあくせくする武士の悲哀や、経済や産業を支えていた農民や町人の威厳だ。本書を読み終えると、時代劇の見方も変わってくるのではないだろうか。
文=石塚就一
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歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義やマルクス主義に染まっていった。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
マルクス主義・共産主義の階級闘争史観やキリスト教の最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義・天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
日本を動かしているのは学閥である。
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保守には、正統保守やエセ保守など数多くの保守が存在する。
現代日本では、急速に新保守の守旧派とエセ保守が増えた。
正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
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現代日本人は外圧に弱いが、昔の日本民族は外圧には強かった。
それを証明するのが、聖徳太子である。
現代日本の歴史教育は、摂政・聖徳太子の存在を否定しようとしている。
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2022-01-24
⛩目次)ー10ー日本神道。宮中祭祀。和食。伊勢神宮。子供好き。マレビト。御霊神社。御嶽崇拝とカムイ崇拝。性差別。靖国神社。~No.1 *
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ムラの神様。処刑された百姓一揆の首謀者は神様。
2022-04-02
⛩49)─1─日本民族と百姓の神様。怨霊信仰と鎮守の森。~No.117No.118No.119No.120 *
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2022-01-28
🏯目次)ー13ー江戸は世界七大帝国。武士道と金上侍。百姓と村八分。百姓一揆。水争い。賤民と部落民。幕府の土木工事。~No.1 *
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武士。武士文化。武士道。
武士道は、主義主張ではなく哲学であった。
2018-03-01
🏯14)─1─武士道とは、平和な時代で戈(ほこ)を止める道であり、死を覚悟して生きる心得であった。~No.25No.26・ @
2022-06-20
🏯15)─1─古代から中世へ、官軍だった日本軍が私兵=武士になった理由。~No.27No.28 *
2018-05-17
🏯16)17)─1─武士は、高い教養で死を覚悟して辞世の句を詠んでいた。~No.29No.30No.31No.32No.33・ @
2018-06-09
🏯18)19)─1─隠居は、武士では過酷で、百姓・町人では自由で気楽であった。~No.34No.35No.36No.37・
2022-06-23
🏯20)21)─1─武士は松を好み椿を嫌った。武士道は桜ではない。〜No.38No.39No.40 *
2021-10-02
🏯22)─1─仮面ライダーの生き様と武士道。〜No.41 ③
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金上侍。成金武士。成り上がり武士。俄武士。
2022-05-15
🏯23)─1─日本剣道の目的は勝ち負けではなく人生の向上である。打って反省、打たれて感謝。~No.42No.43
2018-03-02
🏯24)─1─日本武道。剣術家・剣豪の多くは百姓・町人の庶民であった。オリンピック競技を拒否した剣道。~No.44・ @
2024-08-05
🏯24)─2─孤高の剣道。オリンピック競技となって日本ルールを失った柔道・空手。~No.45
2022-06-26
🏯25)26)─1─幕府や大名は、改革の為に庶民を俄武士に取り立てたが、改革に失敗すと責任を押し付けて切腹を命じた。~No.46No.47No.48No.49 *
2018-03-12
🏯27)─1─日本の姓名・名字・苗字。身分卑しい百姓でも武士のような名字を持っていた。~No.50No.51・ @
2018-03-12
🏯28)─1─外国人武士。中国人の薩摩藩。~No.52No.53
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2024-09-08
🏯29)─1・B─庶民は武士の身分を金で買って金上侍、成金武士になった。~No.54
2022-07-02
🏯29)─2─百姓キリシタン大名・田中吉政。洗礼名はパルトロメヨ。~No.55 *
2020-07-07
🏯30)─1─差別用語としての「士農工商」。抗議する部落解放同盟。~No.56No.57
2022-07-03
🏯31)─1─江戸時代は、御上(御公儀)の恐怖支配による暗黒時代ではなかった。武士の貧困。自由のない武士。~No.58No.59 *
2022-07-04
🏯32)33)─1─武士でもなく町人でもない身分の武家奉公人、徒若党、若党、中間、小者。~No.60No.61No.62No.63 ④ *
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庶民が大名となる。
2023-06-04
🏯33)─1─八百屋の小倅が姉の玉の輿で譜代大名に大出世した。~No.62No.63 ④
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武士道がない。
2019-05-22
🏯35)─1─現代日本には、武士道精神、百姓根性、商人矜持、職人意地はない。〜No.66No.67・
2018-07-18
🏯36)─1─日本民族はイジメを起こしやすい。武士社会はイジメとブラック社会であった。~No.68No.69・ @
2023-01-02
🏯37)─1─江戸時代の武士社会は深刻な貧困と格差の社会であった。~No.70No.71
2023-01-03
🏯37)─2・A─下級武士の懐事情は想像以上に厳しく日々倹約と内職の暮らしであった。~No.71
2023-02-25
🏯37)─2・B─下級武士は本業=お城勤め(本職)と副業(内職)で生活していた。~No.71
2023-03-27
🏯37)─2・C─江戸時代の下級武士の年収は3両1扶持米=4両=約40万円だった。~No.71
2023-05-08
🏯37)─2・D─260年間、武士の家禄は物価が高騰しても上がらなかった。~No.71
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2018-08-17
🏯38)39)─1─腐敗堕落し地に落ちた武士道。江戸時代同様に剣道の段位や称号は金で買える。~No.72No.73No.74No.75・ @
2022-08-06
🏯40)─1─武士道は、江戸時代にはなく、明治時代に作られた新語である。〜No.76No.77
2024-08-17
🏯41)─1─日本の武道は明治期に近代教育と近代軍隊の為に作られた新しい概念である。〜No.78No.78
2022-08-12
🏯42)43)44)─1─反戦平和と人権の戦後教育が武士道を潰し消し去った。〜No.79No.80No.81No.82No.83No.84 * ⑤
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職分。百姓。
2018-02-24
🏯45)46)─1─未調整、乱雑。徳川家康が作った閉鎖的封建社会。~No.85No.86No.87No.88・ @
2022-07-08
🏯47)48)49)─1─戦国時代のムラ社会は、働かない放浪人(解死人・下手人)を働く百姓が養っていた。~No.89No.90No.91No.92No.93No.94 * ⑥
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戦国時代の百姓は非情である。
武士が百姓を嫌ったのは、乱取り、落ち武者狩り、戦場荒らしで金を稼いでいたからである。
2022-08-13
🏯50)51)─1─戦国時代の兵士の7割以上が貧しい百姓で残虐であった。〜No.95No.96No.97No.98 *
2018-03-28
🏯52)53)─1─江戸時代の男は儒教に縛られて辛かった。~No.99No.10No.101No.102・ @
2018-03-22
🏯54)55)56)─1─日本の職分社会は、弱肉強食の原理で動く近代国家や国際経済には不向きであった。~No.103No.104No.105No.106・ ⑦
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日本の家制度。
2022-12-12
🏯57)─1─別居する親子・兄弟 日本の「家制度」のルーツは中世にあった。~No.107
2023-04-19
🏯57)─2─豊臣秀吉は家を潰し、徳川家康は家制度を確立した。~No.108
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江戸時代の百姓は強かであった。
2022-08-17
🏯58)─1─江戸時代は大開墾で人口が増加した。百姓とは副業を持つ人々であった。~No.109No.110 *
2022-07-10
🏯59)60)─1─大名にとって百姓は手を出しづらい嫌な相手であった。隠し田。隠れ里。~No.111No.112No.113No.114 *
2022-08-21
🏯61)─1─日本の家族システムは土地保護順送りの「職(しき)の体系」。天皇家の資産形成。武士の自力救済。~No.115No.116
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