⚔30)─6・G・③─戦国武将と宗教との関わりを論じた宗教史。豊臣秀吉は年間1,000人以上を救った。~No.125 

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 豊臣秀吉は、明国征伐の為に朝鮮へ派兵した。
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 2024年12月9日 YAHOO!JAPANニュース nippon.com「【書評】戦国武将と宗教との関わりを論じたユニークな宗教史:本郷和人著『宗教の日本史』
 大河ドラマ時代考証や歴史解説でおなじみ、東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏が、日本の宗教史を分かりやすく解説する。そこは宗教学者の手による学術書とは違い、独自の考察も加えたユニークな読み物になっていて面白い。
 「富士山信仰」にも武士階級の影響が
 神話の時代から仏教の伝来というように、本郷氏は日本の宗教史をオーソドックスに説き起こしていくが、本書における著者の真骨頂は、まさに戦国武将と宗教との関わりについて論じているところにあるだろう。
 平安から鎌倉時代にかけて、現代の県知事に当たる「国司」は「大狩」と呼ばれる一大イベントを主催した。国司が狩猟で得た動物は「神々からの贈り物」とみなされ、この大狩への出席が許されることが「一人前の武士」として認められる証であった。鎌倉時代の歴史書吾妻鏡』によれば、源頼朝は富士の裾野で大巻狩を行い、息子の頼家が見事に鹿を射止めたことで後継者として認知されるようになったという。
 日本人の「富士山信仰」にも武士階級の影響を見る。鎌倉幕府の主要な担い手は、駿河、伊豆、相模、武蔵の出身者が占めた。いずれも富士山が見える地域である。著者は「富士山に近いエリア出身であること自体が、幕府内では一つの影響力を成立させていたのではないか」と推論する。江戸幕府を開いた徳川家康は、最晩年、静岡の駿府に移り住むが、その地は富士山に近く、江戸の町には「富士見坂」という地名が多かった。
 特権階級と結びついた日本の宗教
 奈良時代、朝廷は「仏教を通じて国を守る『鎮護国家』という思想」から、華厳宗東大寺など)と法相宗薬師寺)に代表される南都六宗を重用するが、平安京に遷都後は、最澄を開祖とする天台宗空海真言宗が貴族社会に根付き、平安から室町時代にかけて権威を持つようになる。著者の背景説明は納得できる。
 しかし、特権階級と結びついた宗教に「民衆の救済」という理念はなかった。救済をうたうキリスト教と比べ、同時代の宗教であっても「その目的や役割に大きな隔たりがあるのは歴史的に興味深いポイント」と著者は指摘する。
 鎌倉時代、日本でもようやく「民衆の救済」に目を向けた法然を開祖とする浄土宗や親鸞浄土真宗日蓮宗が民衆の支持を集めて勢力を伸ばしていくが、武家に人気があったのは禅宗であったという。何故なのか。著者によるその謎解きは興味深い。
 行きつくところ、民衆に支持される宗教と武士階級とは相性が悪かったようである。織田信長は、浄土真宗を源流とする一向宗を目の敵にし、勢力の強かった伊勢長島や越前で門徒を虐殺した。「戦国武将の戦いの根底には現世での成功や豊かさ」があり、「一向宗はそれを全否定する来世の教え」を目指している。「その教えは、戦国大名にとっては厄介なもの」だったのである。
 「デウス」に充てた単語が「大日如来
 武士と異教徒との関りを論じた章も出色である。豊臣秀吉の治世、今度はキリスト教が脅威となっていく。1949年、フランシスコ・ザビエルが来日、急速に信者を獲得していくが、著者によればその理由は翻訳の問題であったという。「デウス」に充てた単語が「大日如来」。日本人はあっさり受け入れた。
 当初、秀吉は融和的だったが、次第に警戒心を深めていく。戦国大名のなかにも熱心な信者が出現し、日本の富が海外へ流出していく。貧しい日本人が奴隷として売られていく状況もあり、秀吉は伴天連(バテレン)追放令を出すに至ったという。
 1600年、家康は関ケ原の戦いで勝利してから、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼすまで、実に15年の歳月を要した。それはどうしてなのか。背景にキリスト教徒の存在を指摘する著者の視点は独特であり、その後のキリスト教への弾圧が過酷なものになっていくのもうなずける。
 そこから著者の解説は明治維新へと進み、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)はなぜ起こったか。神道は本当に宗教なのかという考察を展開する。伊勢神宮のお伊勢参りを支えていたのは遊郭だったという指摘も面白い。そうした市井の生活史にも視野を広げるところがこの歴史学者の強みである。
 さて、年末年始、神社仏閣にお参りする機会もあるだろう。日本人にとっての宗教とは何か。本書を手に取って考えてみるのもまた一興であろう。
 【Profile】
 滝野 雄作
 書評家。大阪府出身。慶應義塾大学法学部卒業後、大手出版社に籍を置き、雑誌編集に30年携わる。雑誌連載小説で、松本清張渡辺淳一伊集院静藤田宜永佐々木譲楡周平林真理子などを担当。編集記事で、主に政治外交事件関連の特集記事を長く執筆していた。取材活動を通じて各方面に人脈があり、情報収集のよりよい方策を模索するうち、情報スパイ小説、ノンフィクションに関心が深くなった。
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 2023年4月2日 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂編集部「中世で外国に売られた日本人奴隷たち ~【年間1000人以上、豊臣秀吉が救った】
 奴隷貿易と聞くと、かつて西欧諸国によって行われていたアフリカ奴隷貿易の印象が強い。
 しかし過去には日本でも奴隷貿易が行われ、外国へ売られていった人々が存在した。
 目次 [非表示]
戦乱の世
南蛮貿易
イエズス会と人身売買
日本人奴隷の環境
奴隷貿易の禁止
戦乱の世
 戦国時代、農村地帯や城下町などで多くの戦闘が繰り広げられていた。この合戦時に、一般兵による略奪行為が横行していた。
 中世で外国に売られた日本人奴隷たち
イメージ画像 : 乱妨取り
 略奪行為は金品、食料はもちろん近隣の一般人も誘拐されていた。この行為は「乱妨取り」または「乱取り」といわれた。
 これは合戦に参加する一般兵は農民が多く、また食料や装備も自身で調達しなければならないこともあったからである。
 さらに乱妨取りは稼ぎでもあり金品や家財を奪った。そして人を誘拐し身代金を要求したり人身売買も行われていたという。
 大名達もこれらの行いを兵士の褒美としたり士気を保つために黙認していた。
 戦よりも乱妨取りを目的とした者もおり、乱妨取りは戦と切っても切れないものであった。
 南蛮貿易
 16世紀中期から、ポルトガルやスペインとの交易を主とした南蛮貿易が始まり、鉄砲やキリスト教が日本へ伝わった。特に鉄砲や火薬は武士の戦闘に必要不可欠であり、日本側は銀や刀剣を売り取引した。
 しかしそれだけでなく、戦時に捕らえた捕虜をポルトガル人に売るようになった。また捕虜以外にも誘拐されてきた人や貧困から家族に売られた人なども多くいた。中には借金から逃れる為など様々な事情を抱えた人が、自ら身売りすることもあった。
 中世で外国に売られた日本人奴隷たち
 イメージ画像 : 奴隷貿易 N.Y digitalcollectionより
 16世紀末には私貿易商人の船も多く日本へ渡航していた。自ら身売りした人がその乗組員としてマカオへ渡り、その後ポルトガル人の要塞などへ売られていったという。
 また奴隷貿易は日本やアジアだけで無く、中南米、ヨーロッパと世界的に行われ、ポルトガルによる人身売買が盛んに行われた時代であった。これによりポルトガル人は多額の利益を得ていた。
 他の奴隷では黒人をはじめ、中国人、インド人などがいた。
 イエズス会と人身売買
 キリスト教の布教をしようとするイエズス会は、人身売買を行うにはその正当性を確保する必要があるとしていた。それには「正戦」の概念が用いられたという。
 イエズス会キリスト教に改宗した大名などの戦で捕らえられた人々を「合法的な奴隷」としていた。しかし実際にその証拠が必要とされることは無く、その点は精査されず、合法性に関係無く長崎に連れて来られた人々は取引された。
 中世で外国に売られた日本人奴隷たち
 画像 : イエズス会員と日本人(1600年ごろ) public domain
 毎年平均して1000人以上の奴隷が中国・マカオへ送られたというが、実際にはそれ以上の人々がいたとされる。
 奴隷を購入したポルトガル人はその後奴隷に「洗礼」を受けさせた。これは洗礼を受けることで奴隷でも「キリスト教徒であり文明人」になれるという考えであった。
 そして宣教師はその奴隷が合法的であることを示す証書を発行した。この奴隷契約の証書には「終身契約」と「年季契約」があった。当時日本人側としては「年季奉公」という感覚があったとされ、この労働形態は日本でも見られた習慣であった。
 日本では「奉公」と言われるが、ヨーロッパでは「奴隷」契約と捉えられるものであった。奴隷の中には当初は年季契約だったものが、所有者が勝手に終身契約としてしまうこともあった。後になってそのことに気付き「自分は終身奴隷ではない」と解放を求めて訴える日本人も存在したという。
 また終身奴隷でも労働の内容により報酬を得られた。その資金を貯め、自身の身の代金を払えれば自由となれた。報酬が得られない奴隷が自由になるには、主人の遺言によって解放されるか、用済みとされ捨てられる場合のみであった。
 イエズス会の宣教師は日本人奴隷の取引が正当化される過程に事実上関与していたことになる。しかし宣教師による関与はキリスト教布教の拡大を妨げるということで、イエズス会は表向きには日本人奴隷禁止としていた。
 1570年にポルトガル国王が出した「日本人奴隷を禁止とする勅令」もイエズス会が働きかけたものであった。しかしその後も奴隷取引は続けられた。
 日本において奴隷貿易イエズス会の介入が完全に無くなったのは1598年以降のことであり、それまで約半世紀にわたり続けられたのである。
 日本人奴隷の環境
 外国での日本人奴隷の環境はどのようなものだったのか。アジアの例を紹介する。
・中国 マカオ
 マカオの奴隷の多くは港湾労働や下級船員に就き、これらの労働には賃金が払われた。これは奴隷の働く意欲を上げ主人にも都合が良かった。
 また先述したように奴隷が自由になれる手段にもなった。他にも家事奴隷がおり、主人に従って料理、掃除、主人の子の子守などをした。
 奴隷の中には主人が没した後、遺言状により自由になれる人がいたが、解放後、マカオに食料を売りに来る中国人を襲うなど犯罪に手を染める人々もいた。
 女性は生きるために売春を選んだりした。しかし中には、家族のように大切にされた奴隷や、解放後は現地の人と結婚し定住した日本人もいた。
・インド ゴア
 中世で外国に売られた日本人奴隷たち
 イメージ画像 : 奴隷 ※N.Y digitalcollection
 ゴアでは日本人奴隷は優秀な戦闘員として必要とされた。
 またポルトガル領のインドではポルトガル人兵士が不足しており、ゴア島の防衛にも日本人奴隷は不可欠であった。このように傭兵の役割をしたゴア在住の日本人奴隷は非常に多かったとされる。
 他にはある日本人女性奴隷の逸話がある。
 ポルトガル人が購入した日本人女性奴隷の歯が白いことを主人が褒めたところ、その妻が主人の留守中に召使いに命じて、その日本人女性奴隷の歯を砕かせたという。さらにその奴隷を夫が妾にしているのではと疑った妻は、召使いに命じて熱した鉄棒を女性奴隷の陰部に押し付けさせ、結果その女性奴隷は死んでしまった。しかし所有者の家族にはなんの罰則もなかった。このような奴隷に対する虐待は日常的だったとされる。
 またゴアからマカオに至るポルトガル領の港では、病気で働けない高齢の奴隷が道に捨てられ孤独死する姿もあった。このような利益も出せない上に生きる術も無い奴隷は、主人から自殺を命じられることもあった。
 後に教会当局は、このような奴隷は救貧院の院長らなどに身柄を引き取らせるようにした。
 奴隷貿易の禁止
 画像 : 豊臣秀吉 wiki c
 本能寺の変以降、豊臣秀吉が台頭すると、1586年に九州地方を制圧するため遠征を行った。
 秀吉が九州で驚いたことは「キリスト教に改宗した大名や信者の多さ、その大名の行い」だった。例えばキリシタン大名大村純忠は領内に教会を建てるために神社や寺を破壊し、さらには殺された僧侶もいた。そして人々を強制的に改宗させていたのである。また自身の領地である長崎もイエズス会に寄進していた。
 秀吉が何よりも許せなかったのは「日本人奴隷問題」であった。貧しい人々が奴隷としてポルトガル船に乗せられて売られていく現実があったのである。
 秀吉はすぐに日本での布教の最高責任者であるガスパール・コエーリョに詰問した。
 するとコエーリョは「日本人が売るからポルトガル人が買っている、もし止めたければ禁止すれば良い」と言い放った。
 秀吉は大名の暴挙や奴隷貿易は「宣教師が裏で関与している問題」と悟ったようである。そして1587年に奴隷貿易の禁止と宣教師を追放する「伴天連追放令」を出した。またコエーリョに日本人を取り戻すことも命じ、国内にも奴隷取引禁止を発した。
 しかし南蛮貿易による利もあり、当初は全面的に貿易は禁止せずキリスト教徒を弾圧することも行っていなかった。
 しかし1596年にスペイン船のサン・フェリペ号が土佐に漂着した際に、日本の奉行とスペイン船員に不和が生じた。その時にスペイン船員が「スペインは布教と武力によって世界を侵略している偉大な国である」という発言をし、この事を知った秀吉は宣教師への警戒を強めた。(※サン=フェリペ号事件)
 その後、キリスト教の布教に危険性を感じた秀吉は、スペイン人宣教師や日本のカトリック信者、合わせて26人を長崎に連行し処刑した。これは日本の植民地化を推し進めてくるスペインへの見せしめであった。
 処刑された宣教師たちや信者たちに罪があったとは言えないが、奴隷貿易が行われていたのは事実であり、この事件は日本の植民地化が食い止められた大きな一因であるとも云えよう。
 参考文献
 大航海時代の日本人奴隷 中公選書
 謎と疑問にズバリ答える!日本史の新視点 青春出版社
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 草の実堂編集部
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