🐢9:─1─世界の中で、皇室は冷酷な世界で皇室制度ははかない存在である。~No.20No.21 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族には数万年の歴史があり、日本天皇には数千年の歴史がある。
 現天皇家の正統性の根拠は、数万年前からの民族神話物語(最高神は女性神)である。
 皇室とは、神話宗教で閉ざされた王家である。
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 開かれた王家とは、国民の総意で、自国の貴種だけではなく他国の貴種でも優秀な人・徳のある人であれば自国の国王に即位させるという事である。
 つまり、「フランス人やドイツ人がイギリス国王に即位する」或いは「ギリシャ人やドイツ人の男性がイギリス女王と結婚し、その王子をイギリス国王に即位させる」と言う事である。
 血筋・世襲に拘らない憲法・法律を絶対根拠とする正当女系母系継承とは、そういう事である。
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2024-03-16
〖目次〗貼り付ける記事。:皇位継承と人口激減の原因はアメリカ大統領の道徳エゴであった。令和6年8月版。 
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 2022年1月14日 文春オンライン「《「徹子の部屋」出演》「皇室制度ははかない存在で、知恵と力を絞らなければ滅びていく」林真理子が“皇族の結婚の小説”で描きたかったこと
 林 真理子
 大正から戦後までの激動の時代を舞台に、韓国併合後の日本の皇族と大韓帝国最後の皇太子の縁談を『李王家の縁談』で描いた林真理子さんが、1月14日「徹子の部屋」に出演されます。番組放送に合わせて、林真理子さんのインタビューを再公開します。(初出:2022/01/07)
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 いつの時代も「高貴なる方々のご成婚」は世間の注目の的だ。明治の終わりから大正にかけて、娘である方子(まさこ)妃の結婚相手探しに尽力した皇族の梨本宮伊都子妃を主人公に、戦前の皇族・華族の結婚問題を描いた『李王家の縁談』が発売された。著者の林真理子さんは自他共に認める”皇族・華族フェチ”。執筆の舞台裏や、書き上げたからこそわかった現代の皇室の難しさについて語った。
 眞子さんの結婚と同時期になったのは「本当にたまたま」と語る林真理子さん
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 皇族の歴史の流れを知る必要があると考えた
――つい最近、秋篠宮家の長女眞子さんが小室圭さんと結婚しました。梨本宮方子女王の結婚を描いた『李王家の縁談』は、時宜を得た刊行になりましたね。
 林 いろいろな方に「狙ったでしょう?」と言われますが(笑)、この時期に刊行となったのは本当にたまたまです。3年前から書きたいと思っていたテーマなんです。
――書くきっかけは何だったのでしょう?
 林 旧宮家の復活や女性宮家の創設など、皇位継承問題についてさまざまな議論がされていますね。けれど、多くの方が皇族の成り立ちをご存知ないのではと感じました。そもそも幕末近くまで宮家は伏見宮桂宮有栖川宮閑院宮の4家しかなかったんです。皇位を継がない男子は出家すると決まっていた。けれど明治維新のうねりの中で彼らは次々と還俗し、新たに宮家をたてた。身分も公家筆頭の五摂家(近衛、九条、一条、二条、鷹司)より下だったのが、維新によって変わった。そんな歴史の流れを知る必要があると考えたのです。
 皇室はある種はっきりした冷酷な世界
――そこで焦点を皇族の結婚に絞ったのですね。
 林 今回書いたことで、いろいろな謎が解けました。例えば『徳川慶喜家の子ども部屋』(榊原喜佐子著)という本がベストセラーになったのを覚えていますか。最後の将軍慶喜のお孫さんが戦前の華族の暮らしを書いた本ですが、お姉さんは高松宮家に嫁ぎ、妹さんは新潟の元藩主に嫁いでいる。この差は何だろうと思っていたんです。すると、昔は正妻の子も妾腹の子も一緒に育てられるんですが、ただし、縁談で歴然とした差がつく。
――本書にも出自によって扱いが違う事例がいくつか出てきます。下々とは隔絶した観念で暮らす様子もよくわかります。
 林 ある種はっきりした冷酷な世界です。今の道徳では割り切ることはできない世界があったということです。
 方子女王の縁談は伊都子妃主導だった
――そこで展開するのが、方子女王の縁談です。日本に併合された朝鮮王朝の王世子、李垠(り・ぎん)がお相手ですが、この縁談を進めたのが母である梨本宮伊都子妃であるとしたのがこの小説の肝ですね。
 林 新城道彦フェリス女学院大学准教授の『天皇韓国併合』を読んでいたら、伊都子妃殿下から頼まれて縁談をまとめたという宮内省宗秩寮主事、小原駩吉の講演録が載っていたんです。伊都子妃は日記を書いていて、それをまとめた『梨本宮伊都子妃の日記―皇族妃の見た明治・大正・昭和』(小田部雄次著)はとても参考になりました。そこに「兼々あちこち話合居たれども色々むつかしく」(大正5年7月25日)と、方子さんの縁談に関する記述がありました。「あちこち」というのは他の皇族に頼んでいたという意味にとっていたんですが、そうではなく内々に進めていたのだと小原の講演録を読んで納得しました。
 これまで方子さんの結婚について、日本では韓国併合を進めるための政略結婚で、泣く泣く嫁いだ悲劇の女王と思われていました。そうではない、伊都子妃主導という視点に出合ったことがすべての始まりでした。
 資料を見ながら妄想して世界を作っていくのは楽しかった
――その視点があってこそ、内親王の結婚事情が無類の面白さになっています。日々の暮らしから伊都子妃の心情まで、皇族の内側に踏み込んでディテール豊かに描き出しているのは、まさに林ワールドです。
 林 私は実は皇族華族フェチで、本もたくさん読んできたんです(笑)。このテーマは自家薬籠中のものといっていいでしょう。資料を見ながら妄想して世界を作っていくのは、すごく楽しかった。
――方子女王は当初、皇太子裕仁殿下(のちの昭和天皇)のお后候補の1人と目されますが、従妹の久邇宮良子(ながこ)女王に敗れ李家に嫁ぎます。さらに妹の規子女王も山階宮家との縁談が不調となります。ここに至って伊都子妃が狂ったように泣き叫ぶところは読みどころの一つですが、これはフィクションですか。
 林 本当にあったことです。ヒステリーになって、治療を受けています。そこから雄々しく立ち上がって、お相手を「華族名鑑」から選んでやるわと猛然と調べ始めるというのは私の想像ですけれど(笑)。日記に沿って日常を構築していますから、そんなにでたらめなことは書いていません。
 皇室制度ははかない存在
――伊都子妃はどういう人物でしょうか。
 林 後の世の言葉で言えば合理的な人。ご出身である佐賀藩鍋島家が進取の気性に富んでいました。祖父の直正公は日本初の種痘を息子、つまり伊都子の父に施しています。環境が育み、十分な教育も受けた。いろいろ動いてくれて、描き甲斐がありました。
――その伊都子妃は方子さんの嫁ぎ先である李王家の妹や甥の縁談にもかかわります。一方で節子皇后(大正天皇の皇后)による皇太子とその弟たちの縁談も進められていく。そのため、皇族の結婚という大きなテーマになりましたし、さまざまな縁組のエピソードからこの時代の結婚観、皇室観が匂い立ってきます。
 林 李垠との結婚について悩む方子さんに対して、伊都子妃にこう説かせました。「私たちは皇族という、陛下のいちばんお側にいる者なのです。命を懸けても、陛下をお支えする。この日本という国を守らなければいけない立場なのです」。この時代の認識はこうでした。
 そういえば、『李王家の縁談』を書けたのは『西郷どん!』(2017年刊)の流れがあったかもしれません。幕末の江戸の人たちは天皇の存在を知らなかったけれど、明治の元勲のPR作戦があって、人々の心の中に天皇はすごいという観念が根付いた時代の話です。実はそんなに古いことではない。そう思うと、今の皇室制度がいかにはかない存在で、知恵と力を絞って守らなければ滅びていくものだということがよくわかります。
――時代は移ろい、物語は美智子さまの登場で幕を下ろします。そして眞子さんの結婚がこの間あったわけです。
 林 いい小説だと、現実が近づいてくることがあります。小説家が時代を見据えた結果リンクするのですが、そういうことがこの作品に起きたとしたらうれしいです。
 (取材・構成:内藤麻里子、撮影:深野未季/文藝春秋
 李王家の縁談
 林 真理子
 文藝春秋
 2021年11月22日 発売
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 2022年1月5日 文春オンライン「「昭和天皇は質実を叩き込まれ、華やかな方を望むのは“享楽的贅沢”と考えられていたふしがある」 磯田道史が“皇族や華族の頭の中に踏み込んで描ききった”と評した物語とは
 林真理子×磯田道史
 source : オール讀物
 新刊『李王家の縁談』で日本の皇族と朝鮮の王太子との縁談を描いた林真理子さん。本作の主人公は、長女・方子(まさこ)を朝鮮王家に嫁がせるなど、家柄を重んじた縁談を次々に進め国に尽くした、梨本宮伊都子(いつこ)だ。林真理子さんと歴史学者磯田道史さんが、「やんごとなき」方々の結婚について語り合った。(全3回の2回目。#1、#3を読む。初出:オール讀物2021年12月号。年齢、肩書等は掲載時のまま)
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 貞明皇后オールジャパン
 磯田 良子女王は何事にも動じない、落ち着いた方だったようですね。
 林 お写真を見ると、本当に日本人形のようで、ああいう顔立ちが昔の美女とされていたのですか?
 エリザベス女王来日時の、昭和天皇香淳皇后 ©文藝春秋
 磯田 そのようにも考えられますが、昭和天皇は幼時から質実を叩き込まれ、地味で実直な感じの方がお好きだったのではないかと思います。目鼻が大きくて目立つ華やかな方を望むのは“享楽的贅沢”と考えられていたふしがあります。
 林 続いて貞明皇后の次男の秩父宮の妃となった、松平勢津子(せつこ)さんは会津松平容保(かたもり)の孫ですから、これはすごい。かつての朝敵の子孫を皇室に迎え入れるという発想もなかなかできません。
 林真理著『李王家の縁談』
 磯田 維新に功績のあった薩長との力関係も含めて、貞明皇后は「オールジャパンノーサイド」を考えられた。政治方面の男性方とも相談をされた上でしょう。久邇宮家と梨本宮家の父である中川宮(朝彦親王)は、実は明治元年徳川慶喜に使いを出して維新政府の転覆を企てたとして、一時、親王位をはく奪されて広島に幽閉された皇族です。要するに、朝敵にされたり、けん責されたりした一族にも不満を持たせぬよう、名誉回復して体制に取り込む機能を、皇族の縁談はもっていたわけです。
 林 伊都子さんから見れば、勢津子さんは平民の外交官に嫁いだ妹の子です。身分としては自分の次女・規子の方が高いにもかかわらず、ここでも選ばれなかったという悲憤があったでしょうね。縁談の話がきた時、勢津子さんのご両親も、「地味で不器用で普通の子です」と何度もご辞退したそうですが、勢津子さんも決して派手な雰囲気はなくとも、本当に品よくまとまっていらっしゃって、貞明皇后にも可愛がられたそうですね。
 上流階級の女の子たち
 磯田 世間からの注目度が高いぶん、上流階級のお嬢様たちは、縁談に際して色々な悩みを抱えていらっしゃったと思います。そのひとつは嫡出子と非嫡出子の問題です。つまり、母親が正妻かどうかで縁談にも如実に差が出る時代でした。
 林 学習院はそういうことで差別はしない建前だったということですが、華族庶子柳原白蓮も最終的には東洋英和女学校に通いましたし、実践女学校を出ている方がいるのも、母親の出自によるところが大きかったようですね。
 磯田 もうひとつ差別の問題があって、それは容姿です。現代は世の中の女性たちは美しい女優さんに憧れを抱きますが、当時、女優は地位が低くイメージが今ほどよくない。皇族華族の令嬢こそが憧れの的でした。肖像写真が雑誌や新聞に載り、大衆の注目を集めたわけです。
 この小説のなかでも、貞明皇后が、色黒であることから「黒姫さん」というあだ名をつけられていて、ご本人も内心気にされていたことは有名な話です。さらに林さんの小説の中では、夫の大正天皇が新婚にもかかわらず、若く美しい伊都子さんに懸想気味だったというエピソードが出てきますね。
 (左から)昭和天皇貞明皇后秩父宮高松宮
 林 大正天皇が皇太子時代、日光の田母沢御用邸に滞在されていた折、鍋島家別邸にいた伊都子さんにダックスフントを押し付けていかれ、鍋島家が大層困惑したというのは本当の話です。ただ、伊都子さんは大名の娘ですから、皇太子に嫁げる身分になく、貞明皇后のライバルだったわけではないんですけどね。
 磯田 明治天皇の時代までは側室を置きましたが、条約改正もあって、欧米のキリスト教国に野蛮の王とされぬよう表向きは一夫一妻制にする必要が生じます。大正天皇は皇后のある身で有力な侯爵の令嬢を後宮に入れることはできません。西欧化のせいで伊都子が手の届かない、高嶺の花になっていたのが面白い。
 林 結局、伊都子さんは梨本宮家に嫁ぎ、娘の方子さんは皇太子に嫁げる身分を手に入れたわけですが、嫁ぎ先は朝鮮の皇太子の李垠ということになりました。この縁談が調ったとき、方子さんは学習院に通われていましたが、嫁ぐ前日荷飾りに同級生たちがわらわらと方子さんのところに集まってきたそうなんですね。「よその王子に嫁ぐあの人を見に行きましょう」という、上流階級の女の子たちの残酷さが表れていると思いました。
 悲劇の王妃は真実か
 磯田 もっとも母親の伊都子さんは考えが違う。今は異文化との縁組でも、いずれは朝鮮も「もうひとつの日本になる」とみた。方子さんの縁談は国のためにもなると本当に信じていました。さらに、李垠が皇太子として扱われるのであれば、宮中席次、位階の高さの点でも申し分ないとも考えていたでしょう。幕末の鍋島閑叟の血をひくだけあって、まったく先見第一の合理主義者です。
 よく「薩長土肥」と言われますが、実は佐賀(肥前)藩は鳥羽伏見の戦いには加わっておらず、戦ったのは薩長土と因幡伯耆鳥取藩でした。後から倒幕に加わった肥前は自慢の海軍力とアームストロング砲を提供。上野の彰義隊会津若松城をその火力で制圧し、維新のお手柄順位で四番目に滑り込んだわけです。薩摩の島津家に連なる良子さんが日本の皇太子の妃に内定し、鍋島系の方子さんが朝鮮王世子の元に嫁げば、序列的にも座りが良いと思われたこともあるでしょう。
 林 当時の日本には、朝鮮人は3000人しかいなかったそうです。ですから、李垠と方子さんの結婚は、日朝結婚の第一号のようなものだと言われています。伊都子さんの朝鮮に対する偏見のなさは、もっと評価されるべきだと思います。
 ©️文藝春秋
 磯田 日本と韓国についてはあまりにも複雑な問題が横たわっていますが、もともとは日本の天皇が「王」ではなく、「帝」を名乗ろうとしたことが根本にあり、この小説の通奏低音としても流れていると思います。帝と王の違いは、帝は王に王たるもの。つまり、帝は子分にあたる王国を下にもつのが条件なんです。中国は人口も多く、周王朝は天子が、秦から皇帝が周辺の王の国を従えてきた。
 しかし日本は中国との対抗上、ひとりぼっちでも帝を名乗り続け、ようやく明治の時代になって琉球王国を自分たちの版図の中に入れた。さらに日韓併合でふたりの王を従えた状態になり、さらに清朝最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)を連れてきて満州帝国を作り、これを傀儡状態におきます。2人ないし、3人の王を従える、あるいは連携している状態の帝国を一時的に作っていったのが、明治から戦前にかけてで、帝国の実態を作る作業も同時に行われました。そのひとつが日本の皇族と朝鮮王朝との縁組に関する法律規定であり、方子さんと李垠皇太子の婚約前にそれが作られています。(#3に続く)
 李王家の縁談
 林 真理子
 文藝春秋
 2021年11月22日 発売
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 2022年3月22日 文春オンライン「〈オリパラ開催〉〈眞子さん結婚〉は現代社会の「リトマス紙」…意見が分かれた2つのニュースに林真理子が感じたこと
 『カムカムマリコ』より
 林真理子さんによる「週刊文春」の大人気連載エッセイをまとめた『カムカムマリコ』。皇族の縁談について描いた『李王家の縁談』の著書もある林さんは、小室圭さん、眞子さんのご結婚に向けられる「反対派の過激な意見」に驚きます。オリンピック開催や眞子さんのご結婚への反応について、「リトマス紙のようなものかもしれない」と語るエッセイ「九月一日」をご紹介します。
 ©文藝春秋
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 九月一日
 9月1日というのは、私にとって特別の日である。
 亡くなった両親の誕生日だからだ。人に話すとウソ! と言われるのであるが、二人は同年同月同日、全く同じ日に生まれているのである。しかし性格は全く違い、生前は本当に気の合わない夫婦であった。
 そして大正4年生まれだから、9月1日の関東大震災を体験している。
 母の話によると、学校から帰り、配りものの紙をぽんと畳に投げたとたん、天地がひっくり返るほどの揺れが起こり、あの時は心底驚いたそうである。これは山梨での話。
 東京の下町生まれの父ははるかに深刻であった。地震直後、父は祖父の命で裏のせんべい屋に走った。そしてありったけのものを買い、それを担いで後楽園の林に逃げたそうである。大量のせんべいは人にも分け、自分たちも囓って生き延びたという。
 もっとたくさんのことを聞いておけばよかったと思うものの、もう二人はあちら側に行ってしまった。
 「孝行のしたい時分に親はなし」
 というけれど、
 「昔話聞きたい時分に親はなし」
 ということか。しかし若い時に、親の昔話を聞きたい子どもがそういるとは思えない。説教が混じってくるから、うざったらしいだけである。
 このコロナ禍、日本はよくやった
 最近私は、このオリンピック、パラリンピックが、後の世にどんな風に伝わるのかを考えるようになった。
 「大成功」とまでは言わないけれど、このコロナ禍、日本はよくやったと思う。最初はあれだけ叩かれたけれども、朝日新聞以外マスコミはみんな「手のひら返し」になり、いつのまにか「熱狂」と「感動」を繰り返すようになった。「やってよかった」という声は、読売新聞調べで64パーセントにも達した。
 それでますます朝日は意地になっているらしい。オリンピックがいかに金まみれの無用の長物だったか、キャンペーンを繰り広げるようになった。週刊朝日も含めて、知識人といわれる人たちが、口を極めてオリンピックを否定していく。
 このあいだは記者までが、
 「これほど国民からかけはなれたオリンピックがあっただろうか」
 と書いていて呆然とした。
 ©文藝春秋
 だけど開会式も競技も高視聴率。あれだけ多くの人がテレビを観てたんですが。
 私は思うのであるが、オリンピックをやってよかった、とても楽しかった、という人たちは違う意見の人たちに対して寛大である。
 「いろんな考えの人がいるんだね」
 というぐらいのものだ。
 しかし反対派は、賛成派に対しては攻撃的。怒りさえ持つ。なんと無知、無見識だと。
 「オリンピックを擁護した文化人、芸能人は責任をとれ」
 が、人が感動したことを誰に咎める権利があるだろうか。本当に感動し面白かったのだ。そしてそれはパラリンピックにも続いている。パラリンピックをこんなにじっくり観たのは初めてだ。そして目が離せなくなった。・・・・・
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 ・・・ 

 国家と民族の成立は、日本とヨーロッパと中国・朝鮮とでは三者三様で全然違う。
 現代の日本人には、その歴史的事実が理解できない。
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 世界の開かれた王家とは、人種・民族、出自・出身、身分・家柄、血筋・血統に関係なく、個人の才能・能力・実力で即位できる事である。
 王位の正統性は、宗教で、絶対神の代理である教会による宗教由来「神と国王」の王権神授説・帝位神授説である。
 王位の正当性は、人で、憲法・法律が設置した会議による人間由来「国民と国王」の社会契約説である。
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 世界の王国・帝国は、自国民でなくても他国民でも国王に即位させ、他国の女性でも自国の女王・女帝に即位させた。
 そこには、外国人に対する偏見や差別は存在しなかった。
 その意味において、日本の皇室は閉ざされた王家として世界の非常識で、人種差別・民族差別・宗教差別そして女性差別を含んでいる。
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 西洋諸王国の即位する正当必須条件とは、人種は白人、民族はゲルマン系、宗教は西欧キリスト教、職業が王族か軍人、人物・才能・能力優先で血筋・家柄・身分・階級は二の次、女性でも即位可能である。
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 イギリスの歴代国王の出身部族は、先住民ケルト人を征服したアングロ・サクソン系、ノルマン系、フランス系、スペイン系、ドイツ系であった。
 ヴィクトリア女王の共同統治者である夫アルバート公子は、ドイツ人でザクセンコーブルク=ザールフェルト公エルンスト(後のザクセンコーブルク=ゴータ公エルンスト1世)の次男。
 イギリス人のヴィクトリア女王は、インド皇帝を兼ねてインドを統治した。
 女王エリザベス2世の夫フィリップ (エディンバラ公)は、ギリシャ人(古代ギリシャ人との血の繋がりはない)でギリシャ王家の王子。
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 イングランドエドワード3世は、フランス王家カペー家の直系男児が断絶したのを好機としてフランスに領土を拡大するべく、自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統(女系相続)を主張して、フィリップ6世のフランス王位継承に異を唱えた。
 フランスの貴族や領主は、フランス国王派とイギリス派に分かれて内戦を始めた。
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 ウィキペディア
 百年戦争(英語: Hundred Years' War、フランス語: Guerre de Cent Ans)は、フランス王国の王位継承およびイングランド王家がフランスに有する広大な領土をめぐり、フランス王国を治めるヴァロワ朝と、イングランド王国を治めるプランタジネット朝およびランカスター朝というフランス人王朝同士の争いに、フランスの領主たちが二派に分かれて戦った内戦である。国家という概念は薄い時代であり、封建諸侯の領地争いが重なったものであったが、戦争を経て次第に国家・国民としてのアイデンティティーが形成されるに至った。現在のフランスとイギリスの国境線が決定した戦争でもある。百年戦争は19世紀初期にフランスで用いられるようになった呼称で、イギリスでも19世紀後半に慣用されるようになった。
 伝統的に1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の対立状態を指すが、歴史家によっては、実際にギュイエンヌ、カンブレーにおいて戦闘が開始された1339年を開始年とする説もある。いずれにしても戦争状態は間欠的なもので、休戦が宣言された時期もあり、終始戦闘を行っていたというわけではない。だが戦争状態が続いていた。
 両国とも自国で戦費を賄うことができなかった。フランスはジェノヴァ共和国に、イングランドヴェネツィア共和国に、それぞれ外債を引き受けさせた。
 背景
 詳細は「百年戦争の背景」を参照
 百年戦争の原因は、14世紀ヨーロッパの人口、経済、そして政治の危機にある。遠因はイングランド王国プランタジネット家)とフランス王国(ヴァロワ家)とのギュイエンヌ、フランドル、スコットランドにおける対立によってもたらされた。戦争の正式な理由はカペー家の直系男児の断絶である。
 フランス王位継承問題
 百年戦争前のフランス王家の家系図
 987年のユーグ・カペー即位以来フランス国王として君臨し続けたカペー朝は、1328年、シャルル4世の死によって男子の継承者を失い、王位はシャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップに継承された。フィリップは1328年、フィリップ6世としてランスでの戴冠式を迎えたが、戴冠式に先立って、イングランドエドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張して、フィリップ6世のフランス王位継承に異を唱えた。エドワード3世は自らの王位継承権を認めさせるための特使を派遣したが、フランス諸侯を説得することができず、1329年にはフィリップ6世に対し、ギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げて王位を認めた。
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 ロシア皇帝エカテリーナ2世は、ドイツ人でプロイセン軍少将の娘で、側近や反ピョートル勢力の貴族・軍隊・教会・その他の支持を得て宮廷クーデターを起こして夫ピョートル2世を廃帝して即位した。側近達は、後顧の憂いを断つ為にピョートル2世を幽閉先で暗殺した。
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 メキシコ皇帝マクシミリアンは、ドイツ人でオーストリアハンガリー皇帝フランツ=ヨゼフ1世の弟。
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 オーストリア皇帝は、スペイン国王を兼ねた。
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 スペイン国王は、ポルトガル国王を兼ねた。
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 フランス・平民階級出身のジャン=バティスト・ベルナドット将軍は、スウェーデンノルウェー連合王国国王に即位してカール14世ヨハンと名乗った。
 スウェーデンの政治家や国民は、フランス人国王を認め受け入れた。
 フランス・マルセイユの絹商人フランソワ・クラリーの末娘デジレ・クラリーは、ベルナドット将軍と結婚して王妃となる。
 カール14世ヨハンとクラリー王妃の王太子がオスカル1世として即位し、フランス系ベルナドッテ王朝第2代のスウェーデン国王およびノルウェー国王となった。
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 ギリシャは、15世紀以後イスラム教国オスマン帝国に支配されていたが、1829年に独立戦争に勝利し、1832年にキリスト教ギリシャ王国を建国して独立した。
 ギリシャ国会は、国王に南ドイツ・バイエルン王国を支配するヴィッテルスバッハ家出身のオソン1世を迎えた。
 ギリシャ軍は、1862年にクーデターを起こしてドイツ人オソン1世を退位させた。
 ギリシャ国会は、次の国王にデンマーク王(グリュックスブルク家)クリスチャン9世の息子ヴィルヘルムが迎えた。
 1863年 ヴィルヘルムは、ギリシャ正教に改宗してゲオルギオス1世として即位し、王妃にロシア大公女オリガ・コンスタンチノヴナを迎えた。
 男ドイツ系女ロシア系のグリュックスブルク朝ギリシャ王国は、1974年までギリシャを統治した。
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 グリュックスブルク家は、オルデンブルク家の流れを汲む由緒ある名家で、現在のデンマーク王国ノルウェー王国の王家で、一族からはギリシャ国王も出している。
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 オルデンブルク朝は、1448年から1863年まで続いた、デンマークを中心とした北欧の王朝で、祖先はドイツ・ニーダーザクセン州オルデンブルクの出身であった。
 オルデンブルク伯エギルマール1世(1108年没)はザクセン公家の家臣であったが、1180年に独立した。
 オルデンブルク家は、13世紀に同家はオルデンブルク伯系とデルメンホルスト伯系に分かれたが、15世紀前半のオルデンブルク伯ディートリヒがデルメンホルスト伯の女相続人アデルハイトと結婚し、デルメンホルスト伯領は本家に復帰した。
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 ケルト人は、以前は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族であると考えられていた。ケルトとは古代ローマで「未知の人」を意味し、もともとは民族を示す言葉ではない。
 大陸のケルト
 ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化(紀元前1200年 - 紀元前500年)を発展させたと考えられてきた。当時欧州の文明の中心地であったギリシャエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット文化はラ・テーヌ文化(紀元前500年 - 紀元前200年)に発展する。ちなみに、イギリスの世界遺産であるストーンヘンジはより古い新石器時代青銅器時代(紀元前3千年~2千年) の建造と以前は考えられていた。
 島のケルト
 ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかははっきりせず、以前は鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされていたが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民(ケルト以前の巨石文化の担い手)が大陸の文化的影響によって変質したとする説もある。いずれにしてもローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器をもつ部族社会が展開していたがこれらはケルト人とはいえない。
 現代のケルト系諸言語
 ケルト語派の言語が話される国はアイルランドスコットランドマン島ウェールズ、及びブルターニュである(これにコーンウォールを加えることもある)。しかし、その5ヶ国の人々の中で、まだケルト系言語を使って日常的生活を送る人の数は30%程度を超えない。
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 ゲルマン民族は、東方の文明・文化を持たない野蛮な蛮族であった。
 現代の西洋白人は、ゲルマン人の子孫である。
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 インド・ヨーロッパ語族は、東はインドから西はヨーロッパまでの起源を共有する言語で、イタリック語派(現代のロマンス諸語)、ゲルマン語派、スラブ語派 、インド語派(インド–イラン語派)など幾つかの語派が存在する。
 イタリック語派の一つであるラテン語には、古代ローマ帝国時代に民衆が話していた俗ラテン語(ラテン口語)があり、後にローマ・カトリック教会が正式に使用していた公用語である古典ラテン語がある。
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 古代ローマ時代、アルプス山脈の北、ピレネー山脈ライン川の間のガリアにはケルト人が居住していた。
 紀元前58年頃 カエサル(英語名シーザー)はガリアを侵略し、ケルト人のガリアとブリタニアゲルマン人ゲルマニアを征服してローマの版図を広げた。
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 古代ローマ帝国は、広がった帝国属領に総督・軍団長を派遣して支配しが、皇帝の権威が弱まると地方の総督・軍団長が帝位を求めて反乱を繰り返した為に帝国は弱体化し、有力な総督・軍団長が皇帝に即位し帝国はさらに衰退した。
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 4世紀頃から6世紀頃まで、ヨーロッパではゲルマン人による民族の大移動が起きていた。
 476年 西ローマ帝国は、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルの反乱で滅亡した。
 その後の異民族の侵略で、ローマは大火に包まれ大虐殺で死者の都となった。
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 ザクセン人(サクソン人)は、ゲルマン民族のうち西ゲルマンに属する一部族で、ゲルマン民族大移動でエルベ川北岸のホルシュタイン一帯に移住して定着し集落を営んだ。
 2世紀から4世紀にかけて徐々に生存圏を拡大していった。5世紀には一部のザクセン人がユトランド半島のアングル人・ジュート人と共にイギリスに上陸し、いわゆるアングロ・サクソン人の元となった。
 ザクセン人は、ザクセン公家として、中世から近世にかけて北部ドイツ地方一帯を支配してザクセン公国を樹立した。
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 フランク人は、ゲルマン民族の一部族で、民族大移動でフランス北部とベルギーに移住し、5世紀末に原住民のケルトガリア人(ゴール人)を攻めて征服してメロヴィング朝フランク王国を建てた。
 ヨーロッパの階級ピラミッドの原型は、征服した部族によって積み重ねられて築かれた。
 732年 メロヴィング朝の宮宰カール゠マルテルは、イベリア半島から侵略してきたイスラム軍をフランク領トゥール゠ポアチエで撃破して宗教侵略からキリスト教とヨーロッパを守り、メロヴィング朝における統治権を握った。
 751年 カール゠マルテルの子ピピン(小ピピン、短軀王。)は、フラン国王の王位を簒奪し、メロビング朝を廃してカロリング朝を開いた。
 768年 ピピンの長子シャルルマーニュ(大ピピンカール大帝、チャールズ大帝。)は、ザクセン公国と北イタリ・ランゴバルド王国(東ゲルマン族の一部族ランゴバルド人)を滅ぼして中部ヨーロッパとイタリアに領土を拡大してゲルマン諸部族をまとめ、イスラム勢力をピレネー山脈以西に追いやり、800年にローマ教皇から西ローマ皇帝の冠を授かり西洋キリスト教文明世界の守護者に任じられた。
 フランク王国が、現代ヨーロッパの原形であり、西洋キリスト教文明を成立させた。
 フランク王国は、後に西フランク(フランス)、東フランク(ドイツ)、中部フランク皇帝領(イタリア・オランダ・ベルギー)に3分割され、後に数多くの王国や公国が建国され領土を巡る戦争を繰り返して起きたが、再統一される事はなかった。
 ヨーロッパ人とは東方の侵略者・征服者ゲルマン民族の事で、古代ギリシャ古代ローマ古代ローマ共和国、古代ローマ帝国との直接的な繋がりは薄い。
 ヨーロッパ人に正統な統治者としての権威を与えたのは、西欧キリスト教文明のローマ・カトリック教会であった。
 当時、現代のようなフランス人、ドイツ人、イタリア人、オランダ人、その他の人々は存在しなかった。
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 ヨーロッパを政治的に統合されたのがEU(欧州連合)であるが、イギリスは離脱した。
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 962年 ドイツ王オットー1世は、ローマ教皇ヨハネ12世から皇冠を戴いて神聖ローマ帝国を建国し、西洋キリスト教文明圏の保護者となった。
 現代に繋がる欧州大陸部であるドイツ、フランス、イタリア、その他の諸国は、この混乱状況の中から建国され、各民族や諸国民が生まれた。
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 ヒトラーが自称した第3帝国ナチス・ドイツとは、アーリア人ゲルマン民族ドイツ人の事である。
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 ローマ教皇に即位する絶対条件は、西洋系欧州系白人男性である事であった。
 コンクラーベ教皇選挙会議)を構成する枢機卿になる資格は、敬虔な経験と教会活動の実績があれば人種や民族は問わないが、性差別として女性には資格が認められていなかった。
 
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 Gigazine
 2018年03月19日 06時00分サイエンス
 古代人のDNAを分析することで「人類が長い歴史の中でどのように変遷していったか」が明らかになりつつある
 by University of Michigan School for Environment and Sustainability's photostream
 本や文章などの記録がない時代の人類については、かつて考古学で研究されていましたが、「人種や民族がどのように移り変わっていったのか」は、ジェノグラフィック・プロジェクトの例に見られるように、今や考古学よりも遺伝学によって多くの事が分かりつつあります。
 Ancient DNA is Rewriting Human (and Neanderthal) History - The Atlantic
 https://www.theatlantic.com/science/archive/2018/03/ancient-dna-history/554798/?single_page=true
 遺伝学者のデヴィッド・ライヒさんが、クロアチアの洞窟で発見された4万年前のネアンデルタール人の骨から抽出したDNAサンプルを分析した結果、ネアンデルタール人が当時ヨーロッパに住んでいた現世人類と交配していたということが明らかになりました。また、現代のヨーロッパ人よりも東アジア人のほうがネアンデルタール人のDNAをより多く受け継いでいることが判明し、「ネアンデルタール人が滅んだ後、ネアンデルタール人と交配していた人類はユーラシア大陸を東に移動していった可能性が高い」とライヒさんは主張しています。
 by nmmacedo
 ライヒさんの研究によれば、ヨーロッパに住む人類は今から4万1000年前~3万9000年前に、ネアンデルタール人から現世人類へ置き換わっていったそうです。ヨーロッパで見つかった最古の現世人類は、現代のヨーロッパ人と遺伝的には全く関連していないとのことで、今では絶滅してしまった人種とみられています。
 現在のヨーロッパの狩猟採集民につながる人種は3万7000年前~3万5000年前から見られるとのことですが、その後に氷河期が訪れたため、北ヨーロッパに住んでいた人類の多くが南へ大移動を行ったとみられていて、氷河期が終わると、トルコ・ギリシャ・スペインなどから人類が北ヨーロッパへ再び移住したと考えられています。
 例えば、1903年にイギリスで発見されたチェダーマンは約1万年前の骨で、ヨーロッパの南東から北へ移り住んだ人種のものといわれています。実際にチェダーマンのDNAを分析した結果、現代の北ヨーロッパ人の特徴である白い肌と金髪は有していませんでしたが、青い目を持っていたことが判明しています。つまり、現代の北ヨーロッパ人は元より単一の人種なのではなく、1万年前に北ヨーロッパへ移住してきたさまざまな人種が混ざり合った結果である可能性が高まりました。
 by Fenners1984
 他にも、人種による遺伝的な免疫の差がそれぞれの人種の広がりに大きな影響を与えていたことも分かりました。古代の人骨から抽出したDNAを分析・比較することで、はるか昔にさまざまな人類種の交配や大移動が見えるというわけです。
 ただし、ライヒさんたちの研究で分かったことの一部が、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが主張していた「アーリアン学説」に重なると解釈される恐れもあると判断され、ライヒさんたちは研究を一時中断したそうです。特に考古学の世界においては、考古学の研究がナチス・ドイツプロパガンダにゆがめられて使われたこともあり、「人種・民族の変遷」というテーマには神経質になっていることも影響しているとのこと。
 ライヒさんは「おそらく考古学者や言語学者は、私たち遺伝学者が考古学の専門用語や考え方をちゃんと学んでいないことにいらいらしていると思います。しかし私たちは、古代人類のDNA分析という強力な道具を手に入れています」と語っています。さらに「これらの研究データによって、人種の違いはせいぜい数千年の歴史で生まれたものに過ぎず、どれもみんな交配を重ね、混ざり合った結果だと分かりました。私たちは民族移住や異人種交配にもっと心を開くべきです」と、ライヒさんは主張しています。
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