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皇室と福祉
三笠宮家の彬子さま「父はよく、『皇族というのは国民の中に自ら入って行って、国民の求めることをするのが仕事だ』と言っておられました」
三笠宮妃百合子さま、100歳の誕生日「孫や曾孫の成長を楽しみに」
2024-01-08
💖目次)─8─近代天皇と軍部・陸軍の人道貢献・平和貢献。「歴史の修正」は悪なのか?~No.1 *
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2024年7月6日6:02 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「「愛子さまと佳子さまの結婚」を1人で邪魔している大物政治家の名前とは?
佳子さま Photo:SANKEI
● 皇位継承問題の決着は 立憲民主党の反対で先送りに
小泉内閣の時、女系天皇を可能にする案が検討されたが、悠仁さまの誕生で沙汰やみになった。とはいえ、公務の担い手は減っているし、悠仁さまに男子がいなかったときの備えも必要なので、各党間の意見集約が進み、この通常国会で合意しそうだった。ところが、立憲民主党の頑強な反対で先送りになった。
「なにも急ぐことではない」という問題ではない。「女性皇族が単独で結婚後も皇族身分を保持すること(単独残留)」と「旧宮家出身の男系男子を養子縁組で皇族とすること(旧皇族養子)」は、いずれも焦眉(しょうび)の急なのだ。
「単独残留」が可能になれば、佳子さまや愛子さまの結婚相手の条件は根本的に変わるため、見通しが立たないと縁談は進められない。
「旧皇族養子」も、養子を取る側の常陸宮殿下がご高齢なだけに、早期の決着が望ましい。
週刊誌「女性自身」は、『佳子さまら女性皇族をますます「結婚できない」状況に…天皇陛下も“ご苦言”呈された「岸田首相の大失態」』という記事を書いている。
もちろん、皇位継承という安倍元首相から引き継いだ宿題を仕上げると言いながら、腰砕けに終わった岸田首相にも責任の一端はある。
しかし、国会決議で設けられた安定的な皇位継承策を議論する有識者会議(座長・清家篤前慶応義塾長)の報告に基づく、先述の二つの提案(単独残留と旧皇族養子)に対し、自民・公明だけでなく、維新や国民までもが賛成に回ったのに、立憲民主党がかたくなに自説に拘泥したから頓挫したのだ。
そして、立憲民主党にあって「安定的な皇位継承に関する検討委員会」の委員長として一人で成案を妨害したと批判されるのが野田佳彦元首相である。
「単独残留」を否定し、配偶者や子どもも皇族にしろと要求し、「旧皇族養子」は、希望者がいるか具体的に確認してから制度を議論しろ、憲法上の疑義があると言い張った。
野田氏は首相時代、皇族女性が結婚したのち「女性宮家」を創設して配偶者や子も皇族とすることを画策した。だが、小室圭氏の出現により、皇族女子と国民が皇族にふさわしくないと感じる男性との結婚は杞憂(きゆう)でないことを立証され、支持を失った。
小室氏のケースは極端だったが、いずれにせよ、民間出身者が男性皇族になることのハードルが高くなり、佳子さまや愛子さまの結婚相手を見つけるのは困難になってしまう。
「単独残留」を否定する人たちは、夫婦や親子で法的な立場が違うのは異常だと主張する。だが、国際結婚した夫婦や親子であれば、国籍すら違ったままであることも多い。それと比べればなんということではない。
また、有識者会議の案は佳子さまや愛子さまの子孫が皇位に就くことの可能性を将来ともに排除しているわけでもない。悠仁さまに男子がいなかった場合、男系も女系も道を残しており、つまり、延長戦なのだ。また、佳子さまや愛子さま一人だけの家を、女性宮家と呼ぶことも可能だ。
女性皇族の配偶者の立場は、首相夫人と似たようなものになる。公人ではないが、公務にも参加する。また、社会的に好感をもたれていない人物や、利権に絡む企業の経営者などが関わるような、常識的に首相夫人に好ましくない仕事であれば、外遊や公の場所に首相夫人として同行させないようにする。特に政治家はそうだが、これは女性皇族の夫も同じだ。
● 「旧皇族養子」を否定する 野田氏の意図
「旧皇族養子」に対して、立憲民主党は「現実的に養子の対象となり得る方がおられるのか、その方の意思とともに、現実に確認した上で、制度設計の議論に移らねばならない」というが、無理難題だ。
旧皇族男子に対し、「養子になってくれと言われたら受けますか」と、成立もしていない制度を前提に質問されても、「受けます」とは言えないだろう。
私の知る限り、養子候補となる悠仁さま世代の旧皇族男系子孫は10人ほどいる。旧宮家の人々の多くは、「自分たちから希望しないが、正式な打診があれば、お役に立てるならお受けするのが自分たちの立場だ」と考えている。
実際には、制度ができたら、宮内庁で候補を調査し、政府にも相談し、皇族方のご意向を聞いて、打診するのではないか。年齢は、打診するのは中高校生以上、養子縁組の成立は大学生くらいがいい。特別の人生を歩むのだから、本人の意思確認をしたほうがいい。
また、民間人を皇族にするのは、憲法上問題というが、その考え方では、皇統断絶のリスクが大きい。佳子さまと愛子さまの女系子孫に皇位継承を認めたとしても、悠仁さまを含めてたった3人のいとこの子孫だけに皇位継承権を限定したら、近い将来、誰もいなくなる可能性がある。民間人から皇族に戻れないとしたら、いずれ皇室は店じまいになるしかあるまい。
野田氏の意図は、「単独残留」ではなく配偶者や子も皇族にする「女性宮家」を先行させて実現し、「旧皇族養子」は結論が出ないまま沙汰やみにしてしまうということだろう。
しかし、「単独残留」と「旧皇族養子」という二つの案を並列させたのは、男系派と女系派の妥協の結果である。男系派は、女系継承に道を開くことになりかねないから、結婚後の佳子さまや愛子さまが皇族として残留することを本当は好まない。
それでも、「旧皇族からの養子案が実現するなら」とワンセットでのんだ。
ところが野田氏は、自分の意図が100点満点で受け入れられなかったら制度改正が流れてもいいと開き直っている。これは政治家としていかがなものか。
● 「愛子天皇」という蜃気楼を 見せて議論を遅らせる人たち
なお、前述の週刊誌「女性自身」の記事で与野党間の合意の遅れを批判している神道学者は、別のメディアにおいて、皇室継承問題をこじらせているのは、「天皇陛下から秋篠宮殿下、さらに悠仁親王殿下へという今の皇位継承順序が“変更されない”範囲内で、事態の打開策を探ろうとしているからだ」と発言。まるで「愛子天皇」を実現すべきだと言いたいようだ。
しかし、野田氏ら立憲民主党関係者も、悠仁さまの継承は否定していない。すでに書いたように、生前退位のための法律で、わざわざ秋篠宮殿下を皇嗣殿下として皇太子と同様にすると決め、立皇嗣礼までしたのである。
にもかかわらず、一部の専門家と称する人たちは、皇太子は空席だとかデマを流したり、あたかも国会で議論されているのが、愛子天皇の是非だと印象操作をして、一般国民に「蜃気楼(しんきろう)」を見せてあおり、議論の進展を遅らせている。
付け加えると、ヨーロッパにおいて女王や女系継承が拡大しているのは事実だが、すでに生まれている王族の順位は変えないのが常識だ。したがって、日本においても、女系を認めたとしても、悠仁さまより後の話でないと、国際的にも非常識だ。
悠仁さまより愛子さまのほうが天皇にふさわしいという人もいる。だが、悠仁さまの資質については、学業、健康、帝王学としての経験などにおいて、何の問題も生じていない。大学進学後は、在学中にでも早く留学をされたり、両親だけでなく上皇陛下や天皇陛下から直接に薫陶を受けられたりすることだろう。
一方、愛子さまは、大学もわずかしか通学されていなかった。「成年の儀」も遅れた上、一連の行事を未達成のまま終わった。20歳前からするべき本格的な単独公務をまだ開始されていない。というように、これまでの皇族の常識にとらわれず自由に個性を発揮されている。
両陛下には、時間に制約されずに物事に取り組むという愛子さまの長所を伸ばしたいというお考えなのだろうが、将来の天皇となる可能性を少しでも念頭に置いておられるならありえないだろう。天皇というのは、何ごとも好き嫌いなく、決められたときに決められたことを要求される仕事だからだ。
(評論家 八幡和郎)
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2023年9月10日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「「佳子さまの結婚」は3年後?皇室評論家が語る3つの理由
八幡和郎:評論家
20世紀になって変化した
ヨーロッパの王族の結婚
全国都市緑化仙台フェアの会場を視察される秋篠宮家の次女佳子さま=24日午前、仙台市青葉区
全国都市緑化仙台フェアの会場を視察される秋篠宮家の次女佳子さま=5月24日午前、仙台市青葉区 Photo:JIJI
皇室・王室の結婚についての話題は、どこの国でも国民的な関心事でもある。しかも、彼らの結婚は、国民の結婚に対する考え方に大きな影響を与えてきた。そこで、日本のプリンセスたちの結婚の歴史を振り返り、併せて、眞子さま問題の総括、そして、佳子さまや愛子さまの結婚について予測したい。
プリンスやプリンセスのロマンスは、「シンデレラ」や「ローマの休日」のように庶民までもが胸をときめかす夢の世界のリアル版だ。
一方、王家のごたごたが政治や外交にも大きな影響を及ぼすことは、英王室を描いたNetflixのドラマ「ザ・クラウン」でもリアルに描かれた。余談だが、この番組のファンだった安倍晋三元首相がジョンソン元首相に「どこまで真実か」と聴いたところ、にやりとしてウインクしたと本人から聞いたことがある。
「ザ・クラウン」では、チャールズ国王とダイアナ元妃との離婚において、エリザベス女王の依頼で当時のメージャー首相が自ら交渉に当たったことも描かれていた。
かつては、ヨーロッパの王族では、君主一族同士のみが結婚し、平民はおろか一般の貴族との結婚すら「貴賤婚」として差別され、王妃として扱われなかったり、子どもが継承権を持たなかったりした。このため、国際結婚が原則で、同国人とはめったに結婚しなかった。
従って、王女は一生、プリンセスだった(ヨーロッパでは王女も妃殿下もプリンセスと呼ばれる)し、王妃も生まれながらのプリンセスだったので、特別の教育も必要でなかった。
しかし、20世紀になると、英国でも国内の貴族との結婚が増え、戦後には、エリザベス王女の妹のマーガレット王女や娘のアン王女は平民と結婚した。
昭和天皇の4人の
皇女のお相手
日本では、皇女の結婚相手は皇族が原則だった。例外的に五摂家に嫁ぐことがあったが、適当な相手がいないと出家して尼門跡になった。
江戸時代中期以降、霊元天皇の皇女が近衛家に嫁いでいるが、その後は、仁孝天皇の皇女和宮が徳川家茂に嫁いだのみだ。
明治天皇には、皇女が4人いて、北白川宮、朝香宮、竹田宮、東久邇宮に嫁いだが、皇統断絶に備えた配慮もあったのだろうし、皇族身分を保持できるというメリットもあった。
大正天皇は男子のみだが、昭和天皇には5人の内親王がいた(二女は夭折)。長女の成子さんは戦時中に東久邇宮盛厚王に嫁いだ。だが、1947年に、昭和天皇の弟が当主の4宮家を除いて11宮家を臣籍降下させたので、お相手探しが難しくなった。
そこで、3人の皇女は、旧華族に嫁がせた。三女の和子さんは、五摂家のひとつで交通博物館勤務の鷹司平通氏。四女の厚子さんは、岡山藩主家の池田隆政氏、五女の貴子さんは、島津家分家で日向佐土原藩主家の島津久永氏がお相手だった。
この4組の夫婦は、いずれも高祖父までの誰かと共通の先祖がいた。遺伝学者でもあった昭和天皇は、近親者との結婚は好まれず、三女の和子さんと母親同士が姉妹である東本願寺の大谷光紹氏との縁談が話題になったときには、難色を示されて破談にされた。
しかし、皇女をお迎えしようという勇気ある家も少なく、曽祖父や高祖父が共通することくらいは仕方なかった。
ただ、三男二女に恵まれた東久邇成子さんは別にして、鷹司和子さん、池田厚子さんには子どもがいないし、島津貴子さんも男子1人だけで、近親結婚が子孫をつくる力へ影響しているかもしれない。
この4人の結婚の年齢を見ると、17歳、20歳、21歳、21歳である。また、学歴はいずれも学習院の高等女学校卒、女子研究科(短期大学の前身)通学、女子短期大学卒、大学中退で時代の変遷を感じさせる。
恋愛結婚に対する偏見を
払拭した貴子さんのご結婚
結婚相手との出会いは、東久邇夫妻の場合は見合いすらなく周囲が決めた。鷹司夫妻は一般家庭のような見合いをした。池田夫妻は厚子さんが公務で岡山を訪れたときにお会いし、その後見合いをした。島津夫妻の場合は、久永氏が兄である現在の上皇陛下の学友であり、お見合いといっても気楽な出会いだった。
貴子さんは、記者会見で「私の選んだ人を見てくださって…」と恋愛結婚に近いものであることを強調し、宮崎県に新婚旅行をし、シドニーでの赴任生活をされるなど新しい時代の結婚像を示された。
この結婚は、当時はまだあった「恋愛結婚」に対する偏見をおおいに払拭したし、庶民が新婚旅行を楽しむきっかけになった。
陛下の妹である黒田清子さんは、学習院大学卒業後、山階鳥類研究所で勤務されていたが、1994年頃には公家の家柄で自身は東京大学の建築家である坊城俊成氏などとの結婚報道が盛んにあった。そこで、清子さん自身が、記者会見で「報道された男性に迷惑がかかるため自粛してほしい」と自ら要請された。
結局、36歳の時に兄である秋篠宮さまの同級生で東京都庁勤務の黒田慶樹氏と結婚された。兄の秋篠宮さまが主導権を取ってまとめ上げたといわれる。
三笠宮寛仁親王妃は、麻生太郎元首相の妹である信子さまである。高校生の16歳の時に求婚され25歳で結婚した。体調不良で殿下の晩年は公務にも出席せず、別居していた。
娘として彬子さまと瑶子さま、2人の女王がおられる。現在、41歳と39歳であるが、結婚されていない。二人とも父親っ子で、特に彬子さまは、三笠宮家(現在は祖母の百合子妃が当主)を継いで守りたいという意識をお持ちらしい。
高円宮憲仁親王妃久子さまは、三井物産勤務の鳥取滋治郎氏が父親だが、女系をたどっていくと幕末の関白・九条尚忠に行き着き、曽祖母の従姉妹が貞明皇后である。
高円宮には、3人の女王がおられ、次女の典子さんは、26歳で出雲大社の千家国麿氏に嫁いだ。三女の絢子さんは28歳で、日本郵船勤務の守谷慧氏と結婚し、2人の男の子がいる。長女の承子さまは、37歳だが未婚である。
眞子さんのご結婚は
何が問題だったのか
秋篠宮家の眞子さんの結婚については、何が問題であったかを総括しておこう。中学校から女子校だった眞子さんが、大学生になって手近なところで恋に落ちた。その相手である小室圭氏はインターナショナルスクール出身で、音楽などの教養もあって礼儀正しく、留学経験もある。そして父親は公務員だったというのだから、安心だと普通の親でも思うだろう。
いまは身辺調査などしたらトラブルのもとである。一般社会でもそうなのだから、皇室であればなおさらだ。それゆえ、小室氏の身辺調査などは行わず、二人が収入相応につつましやかに暮らしてくれたらそれでいいと秋篠宮ご夫妻も考えた。
しかし、後に明らかになったのは、小室家のぜいたくな生活を支えたのは、怪しげな手段で得た資金であり、父親や祖父母の自殺の原因の一端は母親のぜいたくにある疑念も出てきたし、人生設計のいい加減さも心配になってきた。それでも秋篠宮殿下は、小室氏が誠意ある対応をすることを条件にされたが、反応は不満足なものだった。
結局、眞子さんがどうしても結婚したいというので、1億数千万円の一時金を放棄し、皇室と当面、親戚付き合いはしないことで結婚した。それゆえ、最初から疑問を呈していた私だって歓迎したくはないが、秋篠宮家としても眞子さんもけじめを可能な限りつけたと褒めて良い。
小室家を巡る問題の浮上後、かなりの期間、「何が問題なのか、誹謗(ひぼう)だ」と言い続けたマスコミ多数派の付和雷同が、眞子さんに結婚を見直すべきタイミングを失しさせたし、その後の手のひら返しは彼女にとってマスコミ不信の原因になったと思う。眞子さんからすれば、けじめは最大限つけたのに、過度の攻撃を続けるのは理不尽だろう。
皇族報道では、明らかに批判するべきことを批判せず、よいしょに徹し、一方で、「この皇族は批判してやろう」という空気が出てくると、理不尽な袋だたきが行われる。
それに対して、「パーフェクト婚」などと言われる守谷夫妻の結婚により「ほどほどに常識的」な結婚がいいという価値観が大手を振って唱えられるようになった。これは社会にも良い影響を及ぼしていると思うし、佳子さまや愛子さまの結婚の選択肢を広げることになると思う。
佳子さまのご結婚は
2~3年先が適切な3つの理由
佳子さまの結婚については、適切なのは2~3年後くらいだと思う。というのは、現在、眞子さんがおられなくなり、愛子さまが「学業優先」で22歳に近づいても公務を開始されていない状況にある(眞子さんは16歳頃、佳子さまは19歳頃に単独公務を開始されている)。佳子さまはコロナ渦の収束の後、意欲的に公務に取り組んでおられ、少なくとも愛子さまの公務が円滑に進むまでは、結婚はないのではないか。
また、二つ目の理由は、悠仁さまの一連の成年行事が、2025年に予定されており、それまでは、佳子さまが皇室におられることが悠仁さまをサポートするために好都合だし、重要行事が連続しない方がよいから、結婚はその翌年くらいがよさそうだ。そして、三つ目の理由は、眞子さんが佳子さまの結婚式に参列されるためには、もう少し時間がかかりそうだということだ。
愛子さまは、ご結婚前に、それなりの期間、公務を行われて、皇女として恵まれた環境で育ってこられたことへの恩返しを両陛下に対しても国民のためにもすることが、期待されるのではないか。とすれば、余り早い時期の愛子さまの結婚は考えにくい。
ただ、公務については、制度論としていえば、結婚後の女性皇族が公務に類したものを手当をもらって続けられるようにすべきだ。そうすれば、安心して早く結婚もできる。そのために、女性宮家だとか、結婚後の女性皇族が本人のみ皇族であり続けられるようにする案もある。
しかし、私は結婚後の皇族や旧宮家の人々を、宮内庁嘱託とでもして、従来、公務として行われていたことを代行してもらえばいいと思う。
皇室とゆかりのある寺社への派遣や行事への参加、海外の王室の冠婚葬祭や日本との友好行事への参列、場合によっては見本市や経済界のミッションへの参加など、黒田清子さんとか、旧宮家の方々が行かれたら歓迎されるはずだ。現在は皇族の人数不足から、英国なら王族が出てくるような行事に参加できないのは残念だ。
手当は、頻繁なら給与として、たまになら単発の謝礼として支払えばいい。それは、結婚後の皇族女性の生活を安定させるためにも有益だ。結婚した女性皇族が、本人の特性、家庭状況などによって、その時々の希望に応じて皇室のために貢献できれば、本人のためにも、皇室や国家のためにも良いことだ。
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昭和天皇「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまう。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだ日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらいたい、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はない。そのためなら、自分はどうなっても構わない」(1945年8月10日聖断)
天皇にとって民(日本民族)は「大御宝(おおみたから)」である。
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天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇と日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
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日本人とは、日本民族と帰化人(外国系日本人)の事である。
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皇位継承権を持った皇族の確保が急務であって、継承権を持たない民間人皇族など有害であり、現皇室の消滅をもたらす。
愛子天皇待望論の真の目的は、民族神話を唯一の正統根拠とする天皇制度の廃絶と現皇室の断絶である。
国民の90%近くが愛子天皇の即位を熱望し、皇位継承権第二位の秋篠宮悠仁親王を廃嫡を求めている。その証拠が、開かれた皇族として秋篠宮家批判である。
戦前にあった天皇・皇族・皇室を守る不敬罪はなく、現代の一般国民を守る名誉毀損罪もない。
反天皇反日の国際機関は、女系を排して男系で独占する現皇室を女性差別に当たるとして非難している。
民族神話系皇室は、国内外の敵によって滅ぼされようとしている。
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皇族の結婚を阻んでいるのは、反宗教無神論・反天皇反民族反日的なメディアと教育界の中のエセ保守とリベラル左派である。
エセ保守とリベラル左派が目指すのは、世界常識である一般市民系王族を誕生させ、人神信仰の血神話に基づく血筋世襲制度の破壊である。
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昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者と無政府主義者テロリストとキリスト教系朝鮮人テロリストであった。
昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズム、ボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
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歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義やマルクス主義に染まっていった。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
マルクス主義・共産主義の階級闘争史観やキリスト教の最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義・天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
日本を動かしているのは学閥である。
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保守には、正統保守・エセ保守である。
現代日本では、急速に新保守の守旧派が増えた。
正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
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日本人の共産主義者・無政府主義者テロリストは、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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エセ保守とリベラル左派は昭和天皇を戦争犯罪者と断罪し、メディアと教育は天皇の戦争犯罪・天皇の戦争責任と天皇制度不要を教えている。
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天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲、万世一系の男系父系天皇制度である。
天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲で万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲で万世一系の男系父系天皇の神性である。
つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲で万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那岐命(イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
八百万の神々の正統な神性は、天皇神話は保証している。
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現代の日本人は、昔の日本人・日本民族とは別人のような日本人である。
戦後民主主義教育を受けた超エリート層の高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、特にリベラル左派のマルクス主義者・共産主義者といわれる日本人の多くは民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力が乏しいかない為に、日本民族の歴史・宗教・文化が嫌いである。
現代の国際常識、世界正義は、男女平等、女性権利の向上、フェミニズム、ジェンダーで、正統性男系父系天皇制度は悪とされている。
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日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲で万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。
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2022-07-07
🔯42」─1─英仏百年戦争はフランス国王の本家直系男子断絶と女系継承で起きた。~No.148No.149No.150
2019-07-13
🔯54」─1─マキアヴェッリ『君主論』。西洋の国王・皇帝・教皇、中華皇帝、日本天皇。~No.190
2024-01-30
🔯64」─3・K─ロンドンでは人口の3人に1人以上が外国人となりイギリスの総人口が増えていく。~No.240
2018-09-07
🔯66」─1─他国人に開かれた王家。フランス系スウェーデン王家。デンマーク系ノルウェー王家。~No.244No.245No.246 @
2023-01-11
🔯68」─1─ギリシャ人は王制廃止を国民投票で決めた。~No.253No.254No.255
2022-07-09
🎄3」─1─エカテリーナ女帝にはロシア人の血はないがロマノフ家ロシア皇帝に即位した。1762年。~No.8No.9No.10
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国家と民族の成立は、日本とヨーロッパと中国・朝鮮とでは三者三様で全然違う。
現代の日本人には、その歴史的事実が理解できない。
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世界の開かれた王家とは、人種・民族、出自・出身、身分・家柄、血筋・血統に関係なく、個人の才能・能力・実力で即位できる事である。
王位の正統性は、宗教で、絶対神の代理である教会による宗教由来「神と国王」の王権神授説・帝位神授説である。
王位の正当性は、人で、憲法・法律が設置した会議による人間由来「国民と国王」の社会契約説である。
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世界の王国・帝国は、自国民でなくても他国民でも国王に即位させ、他国の女性でも自国の女王・女帝に即位させた。
そこには、外国人に対する偏見や差別は存在しなかった。
その意味において、日本の皇室は閉ざされた王家として世界の非常識で、人種差別・民族差別・宗教差別そして女性差別を含んでいる。
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西洋諸王国の即位する正当必須条件とは、人種は白人、民族はゲルマン系、宗教は西欧キリスト教、職業が王族か軍人、人物・才能・能力優先で血筋・家柄・身分・階級は二の次、女性でも即位可能である。
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イギリスの歴代国王の出身部族は、先住民ケルト人を征服したアングロ・サクソン系、ノルマン系、フランス系、スペイン系、ドイツ系であった。
ヴィクトリア女王の共同統治者である夫アルバート公子は、ドイツ人でザクセン゠コーブルク=ザールフェルト公エルンスト(後のザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世)の次男。
イギリス人のヴィクトリア女王は、インド皇帝を兼ねてインドを統治した。
女王エリザベス2世の夫フィリップ (エディンバラ公)は、ギリシャ人(古代ギリシャ人との血の繋がりはない)でギリシャ王家の王子。
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イングランド王エドワード3世は、フランス王家カペー家の直系男児が断絶したのを好機としてフランスに領土を拡大するべく、自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統(女系相続)を主張して、フィリップ6世のフランス王位継承に異を唱えた。
フランスの貴族や領主は、フランス国王派とイギリス派に分かれて内戦を始めた。
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百年戦争(英語: Hundred Years' War、フランス語: Guerre de Cent Ans)は、フランス王国の王位継承およびイングランド王家がフランスに有する広大な領土をめぐり、フランス王国を治めるヴァロワ朝と、イングランド王国を治めるプランタジネット朝およびランカスター朝というフランス人王朝同士の争いに、フランスの領主たちが二派に分かれて戦った内戦である。国家という概念は薄い時代であり、封建諸侯の領地争いが重なったものであったが、戦争を経て次第に国家・国民としてのアイデンティティーが形成されるに至った。現在のフランスとイギリスの国境線が決定した戦争でもある。百年戦争は19世紀初期にフランスで用いられるようになった呼称で、イギリスでも19世紀後半に慣用されるようになった。
伝統的に1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の対立状態を指すが、歴史家によっては、実際にギュイエンヌ、カンブレーにおいて戦闘が開始された1339年を開始年とする説もある。いずれにしても戦争状態は間欠的なもので、休戦が宣言された時期もあり、終始戦闘を行っていたというわけではない。だが戦争状態が続いていた。
両国とも自国で戦費を賄うことができなかった。フランスはジェノヴァ共和国に、イングランドはヴェネツィア共和国に、それぞれ外債を引き受けさせた。
背景
詳細は「百年戦争の背景」を参照
百年戦争の原因は、14世紀ヨーロッパの人口、経済、そして政治の危機にある。遠因はイングランド王国(プランタジネット家)とフランス王国(ヴァロワ家)とのギュイエンヌ、フランドル、スコットランドにおける対立によってもたらされた。戦争の正式な理由はカペー家の直系男児の断絶である。
フランス王位継承問題
百年戦争前のフランス王家の家系図
987年のユーグ・カペー即位以来フランス国王として君臨し続けたカペー朝は、1328年、シャルル4世の死によって男子の継承者を失い、王位はシャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップに継承された。フィリップは1328年、フィリップ6世としてランスでの戴冠式を迎えたが、戴冠式に先立って、イングランド王エドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張して、フィリップ6世のフランス王位継承に異を唱えた。エドワード3世は自らの王位継承権を認めさせるための特使を派遣したが、フランス諸侯を説得することができず、1329年にはフィリップ6世に対し、ギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げて王位を認めた。
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ロシア皇帝エカテリーナ2世は、ドイツ人でプロイセン軍少将の娘で、側近や反ピョートル勢力の貴族・軍隊・教会・その他の支持を得て宮廷クーデターを起こして夫ピョートル2世を廃帝して即位した。側近達は、後顧の憂いを断つ為にピョートル2世を幽閉先で暗殺した。
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メキシコ皇帝マクシミリアンは、ドイツ人でオーストリア=ハンガリー皇帝フランツ=ヨゼフ1世の弟。
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オーストリア皇帝は、スペイン国王を兼ねた。
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スペイン国王は、ポルトガル国王を兼ねた。
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フランス・平民階級出身のジャン=バティスト・ベルナドット将軍は、スウェーデン=ノルウェー連合王国国王に即位してカール14世ヨハンと名乗った。
スウェーデンの政治家や国民は、フランス人国王を認め受け入れた。
フランス・マルセイユの絹商人フランソワ・クラリーの末娘デジレ・クラリーは、ベルナドット将軍と結婚して王妃となる。
カール14世ヨハンとクラリー王妃の王太子がオスカル1世として即位し、フランス系ベルナドッテ王朝第2代のスウェーデン国王およびノルウェー国王となった。
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ギリシャは、15世紀以後イスラム教国オスマン帝国に支配されていたが、1829年に独立戦争に勝利し、1832年にキリスト教国ギリシャ王国を建国して独立した。
ギリシャ国会は、国王に南ドイツ・バイエルン王国を支配するヴィッテルスバッハ家出身のオソン1世を迎えた。
ギリシャ軍は、1862年にクーデターを起こしてドイツ人オソン1世を退位させた。
ギリシャ国会は、次の国王にデンマーク王(グリュックスブルク家)クリスチャン9世の息子ヴィルヘルムが迎えた。
1863年 ヴィルヘルムは、ギリシャ正教に改宗してゲオルギオス1世として即位し、王妃にロシア大公女オリガ・コンスタンチノヴナを迎えた。
男ドイツ系女ロシア系のグリュックスブルク朝ギリシャ王国は、1974年までギリシャを統治した。
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グリュックスブルク家は、オルデンブルク家の流れを汲む由緒ある名家で、現在のデンマーク王国とノルウェー王国の王家で、一族からはギリシャ国王も出している。
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オルデンブルク朝は、1448年から1863年まで続いた、デンマークを中心とした北欧の王朝で、祖先はドイツ・ニーダーザクセン州オルデンブルクの出身であった。
オルデンブルク伯エギルマール1世(1108年没)はザクセン公家の家臣であったが、1180年に独立した。
オルデンブルク家は、13世紀に同家はオルデンブルク伯系とデルメンホルスト伯系に分かれたが、15世紀前半のオルデンブルク伯ディートリヒがデルメンホルスト伯の女相続人アデルハイトと結婚し、デルメンホルスト伯領は本家に復帰した。
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ケルト人は、以前は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族であると考えられていた。ケルトとは古代ローマで「未知の人」を意味し、もともとは民族を示す言葉ではない。
大陸のケルト
ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化(紀元前1200年 - 紀元前500年)を発展させたと考えられてきた。当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット文化はラ・テーヌ文化(紀元前500年 - 紀元前200年)に発展する。ちなみに、イギリスの世界遺産であるストーンヘンジはより古い新石器時代~青銅器時代(紀元前3千年~2千年) の建造と以前は考えられていた。
島のケルト
ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかははっきりせず、以前は鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされていたが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民(ケルト以前の巨石文化の担い手)が大陸の文化的影響によって変質したとする説もある。いずれにしてもローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器をもつ部族社会が展開していたがこれらはケルト人とはいえない。
現代のケルト系諸言語
ケルト語派の言語が話される国はアイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズ、及びブルターニュである(これにコーンウォールを加えることもある)。しかし、その5ヶ国の人々の中で、まだケルト系言語を使って日常的生活を送る人の数は30%程度を超えない。
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ゲルマン民族は、東方の文明・文化を持たない野蛮な蛮族であった。
現代の西洋白人は、ゲルマン人の子孫である。
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インド・ヨーロッパ語族は、東はインドから西はヨーロッパまでの起源を共有する言語で、イタリック語派(現代のロマンス諸語)、ゲルマン語派、スラブ語派 、インド語派(インド–イラン語派)など幾つかの語派が存在する。
イタリック語派の一つであるラテン語には、古代ローマ帝国時代に民衆が話していた俗ラテン語(ラテン口語)があり、後にローマ・カトリック教会が正式に使用していた公用語である古典ラテン語がある。
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古代ローマ時代、アルプス山脈の北、ピレネー山脈とライン川の間のガリアにはケルト人が居住していた。
紀元前58年頃 カエサル(英語名シーザー)はガリアを侵略し、ケルト人のガリアとブリタニア、ゲルマン人のゲルマニアを征服してローマの版図を広げた。
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古代ローマ帝国は、広がった帝国属領に総督・軍団長を派遣して支配しが、皇帝の権威が弱まると地方の総督・軍団長が帝位を求めて反乱を繰り返した為に帝国は弱体化し、有力な総督・軍団長が皇帝に即位し帝国はさらに衰退した。
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4世紀頃から6世紀頃まで、ヨーロッパではゲルマン人による民族の大移動が起きていた。
476年 西ローマ帝国は、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルの反乱で滅亡した。
その後の異民族の侵略で、ローマは大火に包まれ大虐殺で死者の都となった。
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ザクセン人(サクソン人)は、ゲルマン民族のうち西ゲルマンに属する一部族で、ゲルマン民族大移動でエルベ川北岸のホルシュタイン一帯に移住して定着し集落を営んだ。
2世紀から4世紀にかけて徐々に生存圏を拡大していった。5世紀には一部のザクセン人がユトランド半島のアングル人・ジュート人と共にイギリスに上陸し、いわゆるアングロ・サクソン人の元となった。
ザクセン人は、ザクセン公家として、中世から近世にかけて北部ドイツ地方一帯を支配してザクセン公国を樹立した。
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フランク人は、ゲルマン民族の一部族で、民族大移動でフランス北部とベルギーに移住し、5世紀末に原住民のケルト族ガリア人(ゴール人)を攻めて征服してメロヴィング朝フランク王国を建てた。
ヨーロッパの階級ピラミッドの原型は、征服した部族によって積み重ねられて築かれた。
732年 メロヴィング朝の宮宰カール゠マルテルは、イベリア半島から侵略してきたイスラム軍をフランク領トゥール゠ポアチエで撃破して宗教侵略からキリスト教とヨーロッパを守り、メロヴィング朝における統治権を握った。
751年 カール゠マルテルの子ピピン(小ピピン、短軀王。)は、フラン国王の王位を簒奪し、メロビング朝を廃してカロリング朝を開いた。
768年 ピピンの長子シャルルマーニュ(大ピピン、カール大帝、チャールズ大帝。)は、ザクセン公国と北イタリ・ランゴバルド王国(東ゲルマン族の一部族ランゴバルド人)を滅ぼして中部ヨーロッパとイタリアに領土を拡大してゲルマン諸部族をまとめ、イスラム勢力をピレネー山脈以西に追いやり、800年にローマ教皇から西ローマ皇帝の冠を授かり西洋キリスト教文明世界の守護者に任じられた。
フランク王国が、現代ヨーロッパの原形であり、西洋キリスト教文明を成立させた。
フランク王国は、後に西フランク(フランス)、東フランク(ドイツ)、中部フランク皇帝領(イタリア・オランダ・ベルギー)に3分割され、後に数多くの王国や公国が建国され領土を巡る戦争を繰り返して起きたが、再統一される事はなかった。
ヨーロッパ人とは東方の侵略者・征服者ゲルマン民族の事で、古代ギリシャや古代ローマ、古代ローマ共和国、古代ローマ帝国との直接的な繋がりは薄い。
ヨーロッパ人に正統な統治者としての権威を与えたのは、西欧キリスト教文明のローマ・カトリック教会であった。
当時、現代のようなフランス人、ドイツ人、イタリア人、オランダ人、その他の人々は存在しなかった。
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ヨーロッパを政治的に統合されたのがEU(欧州連合)であるが、イギリスは離脱した。
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962年 ドイツ王オットー1世は、ローマ教皇ヨハネ12世から皇冠を戴いて神聖ローマ帝国を建国し、西洋キリスト教文明圏の保護者となった。
現代に繋がる欧州大陸部であるドイツ、フランス、イタリア、その他の諸国は、この混乱状況の中から建国され、各民族や諸国民が生まれた。
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ヒトラーが自称した第3帝国ナチス・ドイツとは、アーリア人種ゲルマン民族ドイツ人の事である。
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ローマ教皇に即位する絶対条件は、西洋系欧州系白人男性である事であった。
コンクラーベ(教皇選挙会議)を構成する枢機卿になる資格は、敬虔な経験と教会活動の実績があれば人種や民族は問わないが、性差別として女性には資格が認められていなかった。
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