・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
歴史は、国家や民族で違う。
・ ・ ・
2024-08-14
💖目次)─8─近代天皇・A級戦犯・靖国神社による歴史的人道貢献。~No.1 *
・ ・ ・
2024年12月4日 MicrosoftStartニュース クーリエ・ジャポン「中国が「南京大虐殺、抗日戦争勝利、戦死者追悼」を記念日に決めたワケ | 歴史はなぜ人を分断するのか?
新型コロナによるパンデミックを経験したこの世界では、権威主義的な政治が台頭し、リベラルな政治の後退した。人々が合理的になり、民族やナショナリズム、人種から解放され、グローバルな社会が実現し、社会の多様性や個人化が到来するはずだった時代に、なぜ怒りや敵意が政治の世界で繰り広げられるのか?
政治学者の吉田徹は、市民を有効に守れない国家の統治能力の脆弱性が白日のもとに晒されたことがその原因のひとつだと指摘する。歴史認識問題とテロの脅威が浮上するのも、大戦後に成立した共同体や権力が崩壊しているからだという。
※本記事は『アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治』(吉田徹)の抜粋です。
国民国家とは「記憶の共同体」だ
日本のいわゆる「自虐史観」を問題視する立場からは、日中戦争や太平洋戦争は必然だったことが喧伝され、さらに従軍慰安婦の強制連行や旧日本軍の南京大虐殺についての報道や教科書記載が指弾されるようになってから久しい。
こうした歴史修正主義の動きは、韓国や中国からの反発を招き、他方でこれらの国のいわゆる「反日教育」や「反日デモ」が日本の反発を招き、和解不可能な争点へと転化している。政策的な争点が解を見つけ得るのに対し、歴史認識問題はすぐれて価値的な問題であるゆえ、解決は容易ではない。
東アジアの市民社会同士の対立は、国の首脳同士の不仲へとつながっていく。安倍晋三首相が2013年末に靖国神社に参拝したこともあり、3年にわたって日中首脳会談が開催されないという異例の事態を招いた。竹島問題もあって、韓国とは2014年3月まで、約3年半も首脳会談が開催されないままだった。
安倍首相は2018年8月の時点で首相として歴代最多の世界76ヵ国の訪問を果たしたが、中国と韓国への単独訪問は実現することができなかった。
2018年に韓国の大法院(最高裁)が元徴用工への日本企業の賠償を認めたために、翌年には日本が安保問題を絡めて実質的な輸出規制をおこない、今度は韓国側が軍事情報に関する包括的保全協定(GSOMIA)更新を一旦、拒否した。歴史認識問題は、安全保障問題にまで波及するようになったのだ。
小泉純一郎元首相時代を含め、首相や閣僚の靖国参拝が問題になるのはここに太平洋戦争の戦犯、さらに日清、日露戦争の戦没者などが祀られているからだ。尖閣諸島や竹島の帰属問題など、日本と中韓両国の直接的な対立は領土問題のはずだが、こうした領土問題は原因ではなく歴史認識問題の結果に過ぎない。
互いの敵愾心を煽っているのは、過去の歴史についての異なる見解なのだ。
講演「国民とは何か」で有名な19世紀フランスの思想家ルナンは、「国民の本質とは、すべての個人が多くのことを共有していること」と、普仏戦争で帝政ドイツにアルザス゠ロレーヌの割譲を強いられた際に述べている。
そもそも国家という共同体そのものが、さまざまな対立や分裂を内包してきたものであることは、西南戦争、アメリカの南北戦争やフランス革命を思い起こせばよい。しかし、そうした事実を忘却し、互いに共有すべき記憶を担保できるからこそ、国家は完成をみた。
国民国家を指して「想像の共同体」といったのは文化人類学者ベネディクト・アンダーソンだが、これをルナン風に言い換えれば、国民国家とは「記憶の共同体」でもある。
だから共同体にとって、記憶をいかに処理するかは死活問題となる。日本が2013年にサンフランシスコ講和条約を記念した「主権回復の日」の式典を開催し、自らの主権を想起させたかと思えば、翌年にロシアと中国が「ドイツ・ファシズムおよび日本軍国主義への勝利70周年」を記念することで合意した。
2015年には中国が日本を除く先進国首脳と国連事務総長を招いた「中国人民抗日戦争ならびに世界反ファシズム戦争勝利70周年記念行事」を開催、自らの体制の歴史的正当性をアピールしたのも、「記憶の共同体」を維持するための当然の行為であった。中国は2014年、南京大虐殺、抗日戦争勝利、戦死者追悼の3つを記念日に制定している。
日本の植民地支配を受けた韓国も2017年に文在寅政権が発足し、翌年に慰安婦被害者をたたえる日を制定することを決め、その後、慰安婦に関する研究所と記念館を作る計画を発表した。存命する韓国の慰安婦は2017年夏の時点で37名を数えるだけだったが、それはすでに共同体全体の記憶になっている。
日本の首相や閣僚の靖国参拝に対する中国や韓国政府による非難を「内政干渉」として退けられるのは、記憶が国境を越えないかぎりにおいてだ。しかし、記憶が本質的に時間や空間を越えるものであるかぎり、歴史認識問題という争点の性質は、それまでのものと大きく異なる。(続く)
『アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治』
この記事はクーリエ・ジャポンの「今月の本棚」コーナー、11月の推薦人の岩崎稔がオススメした『アフター・リベラル 怒りと憎悪の政治』からの抜粋です。Web公開にあたり、見出しを追加しています。
第2回では、そもそも歴史とは何かを考える。吉田によれば、それは事実の集積というより、特定の共同体で集合的に作られていく「フェイク」だ。
・ ・ ・
フランス・ドイツ・イタリアの3カ国は、隣国同士で、長年戦争を繰り返し、殺し合い、領土を奪い合う不倶戴天の仇敵であったが、3カ国の歴史は一つであっり、それ故に歴史的和解は可能であった。
・ ・ ・
日本の歴史は、中国・朝鮮の歴史とは違う。
日本は、朝鮮とは違って中国に侵略されて占領されて傅いた属国・臣下・下僕ではなかった。
歴史的事実として、古代から、日本にとって中国と朝鮮は敵であり友好関係はなど存在しなかった。
・ ・ ・
原始時代、ヨーロッパにはネアンデルタール人が住んでいた、そこへ新人類であるホモ・サピエンスがアフリカから移り住んできた。
ホモ・サピエンスは定住してケルト人に進化していった。
現在の西洋白人の祖先は、先住民であるケルト人のガリアを侵略し、虐殺し、占領し、新たな征服者として君臨し、ケルト人を奴隷にするか北方へと追いやって数多くの西洋白人国家を樹立し、お互いに戦争をし殺し合った。
それは、アジア、東洋、中華でも同じ構図であった。
・ ・ ・
ウィキペディア
ケルト人は、以前は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語を用いていた民族であると考えられていた。ケルトとは古代ローマで「未知の人」を意味し、もともとは民族を示す言葉ではない。
大陸のケルト
ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期から鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化(紀元前1200年 - 紀元前500年)を発展させたと考えられてきた。当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエトルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット文化はラ・テーヌ文化(紀元前500年 - 紀元前200年)に発展する。ちなみに、イギリスの世界遺産であるストーンヘンジはより古い新石器時代~青銅器時代(紀元前3千年~2千年) の建造と以前は考えられていた。
島のケルト
ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかははっきりせず、以前は鉄製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされていたが、遺伝子などの研究から新石器時代の先住民(ケルト以前の巨石文化の担い手)が大陸の文化的影響によって変質したとする説もある。いずれにしてもローマ帝国に征服される以前のブリテン島には戦車に乗り、鉄製武器をもつ部族社会が展開していたがこれらはケルト人とはいえない。
現代のケルト系諸言語
ケルト語派の言語が話される国はアイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズ、及びブルターニュである(これにコーンウォールを加えることもある)。しかし、その5ヶ国の人々の中で、まだケルト系言語を使って日常的生活を送る人の数は30%程度を超えない。
・ ・ ・
ゲルマン民族は、東方の文明・文化を持たない野蛮な蛮族であった。
現代の西洋白人は、ゲルマン人の子孫である。
・ ・
インド・ヨーロッパ語族は、東はインドから西はヨーロッパまでの起源を共有する言語で、イタリック語派(現代のロマンス諸語)、ゲルマン語派、スラブ語派 、インド語派(インド–イラン語派)など幾つかの語派が存在する。
イタリック語派の一つであるラテン語には、古代ローマ帝国時代に民衆が話していた俗ラテン語(ラテン口語)があり、後にローマ・カトリック教会が正式に使用していた公用語である古典ラテン語がある。
・ ・
古代ローマ時代、アルプス山脈の北、ピレネー山脈とライン川の間のガリアにはケルト人が居住していた。
紀元前58年頃 カエサル(英語名シーザー)はガリアを侵略し、ケルト人のガリアとブリタニア、ゲルマン人のゲルマニアを征服してローマの版図を広げた。
・ ・
古代ローマ帝国は、広がった帝国属領に総督・軍団長を派遣して支配しが、皇帝の権威が弱まると地方の総督・軍団長が帝位を求めて反乱を繰り返した為に帝国は弱体化し、有力な総督・軍団長が皇帝に即位し帝国はさらに衰退した。
・ ・
4世紀頃から6世紀頃まで、ヨーロッパではゲルマン人による民族の大移動が起きていた。
476年 西ローマ帝国は、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルの反乱で滅亡した。
その後の異民族の侵略で、ローマは大火に包まれ大虐殺で死者の都となった。
・ ・
ザクセン人(サクソン人)は、ゲルマン民族のうち西ゲルマンに属する一部族で、ゲルマン民族大移動でエルベ川北岸のホルシュタイン一帯に移住して定着し集落を営んだ。
2世紀から4世紀にかけて徐々に生存圏を拡大していった。5世紀には一部のザクセン人がユトランド半島のアングル人・ジュート人と共にイギリスに上陸し、いわゆるアングロ・サクソン人の元となった。
ザクセン人は、ザクセン公家として、中世から近世にかけて北部ドイツ地方一帯を支配してザクセン公国を樹立した。
・
フランク人は、ゲルマン民族の一部族で、民族大移動でフランス北部とベルギーに移住し、5世紀末に原住民のケルト族ガリア人(ゴール人)を攻めて征服してメロヴィング朝フランク王国を建てた。
ヨーロッパの階級ピラミッドの原型は、征服した部族によって積み重ねられて築かれた。
732年 メロヴィング朝の宮宰カール゠マルテルは、イベリア半島から侵略してきたイスラム軍をフランク領トゥール゠ポアチエで撃破して宗教侵略からキリスト教とヨーロッパを守り、メロヴィング朝における統治権を握った。
751年 カール゠マルテルの子ピピン(小ピピン、短軀王。)は、フラン国王の王位を簒奪し、メロビング朝を廃してカロリング朝を開いた。
768年 ピピンの長子シャルルマーニュ(大ピピン、カール大帝、チャールズ大帝。)は、ザクセン公国と北イタリ・ランゴバルド王国(東ゲルマン族の一部族ランゴバルド人)を滅ぼして中部ヨーロッパとイタリアに領土を拡大してゲルマン諸部族をまとめ、イスラム勢力をピレネー山脈以西に追いやり、800年にローマ教皇から西ローマ皇帝の冠を授かり西洋キリスト教文明世界の守護者に任じられた。
フランク王国が、現代ヨーロッパの原形であり、西洋キリスト教文明を成立させた。
フランク王国は、後に西フランク(フランス)、東フランク(ドイツ)、中部フランク皇帝領(イタリア・オランダ・ベルギー)に3分割され、後に数多くの王国や公国が建国され領土を巡る戦争を繰り返して起きたが、再統一される事はなかった。
ヨーロッパ人とは東方の侵略者・征服者ゲルマン民族の事で、古代ギリシャや古代ローマ、古代ローマ共和国、古代ローマ帝国との直接的な繋がりは薄い。
ヨーロッパ人に正統な統治者としての権威を与えたのは、西欧キリスト教文明のローマ・カトリック教会であった。
当時、現代のようなフランス人、ドイツ人、イタリア人、オランダ人、その他の人々は存在しなかった。
・ ・
ヨーロッパを政治的に統合されたのがEU(欧州連合)であるが、イギリスは離脱した。
・ ・
962年 ドイツ王オットー1世は、ローマ教皇ヨハネ12世から皇冠を戴いて神聖ローマ帝国を建国し、西洋キリスト教文明圏の保護者となった。
現代に繋がる欧州大陸部であるドイツ、フランス、イタリア、その他の諸国は、この混乱状況の中から建国され、各民族や諸国民が生まれた。
・ ・
ヒトラーが自称した第3帝国ナチス・ドイツとは、アーリア人種ゲルマン民族ドイツ人の事である。
・ ・ ・
ローマ教皇に即位する絶対条件は、西洋系欧州系白人男性である事であった。
コンクラーベ(教皇選挙会議)を構成する枢機卿になる資格は、敬虔な経験と教会活動の実績があれば人種や民族は問わないが、性差別として女性には資格が認められていなかった。
・ ・ ・