🌏13)─9・①─日本の近代化の成功は「幕末の人材登用」術にあった。~No.45 

   ・  ・   ・    
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 幕末・明治の人材登用術とは、「昨日の敵は今日の友」という将棋方式、そして身分・家柄・出自・血筋に囚われる事ない「ト金」、現代日本から消えた破壊的イノベーション、継続的リノベーション、逆境へのバイタリティーである。
 敵味方を一つにまとめ、賊軍の罪を帳消し、敗者を復権させたのは天皇の御威光であった。天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説。
   ・   ・   ・   
 徳川慶喜は、無位無官だったのが明治5(1872)年に従四位に叙されて官位が回復し、明治21(1888)年には従一位に昇叙され「従一位は公爵相当の礼遇を受ける」という叙位条例に従って公爵に叙された、宗家の徳川家達に並ぶ礼遇を享受できるようになった。
 松平容保は、会津戦争で賊軍の将で敗軍の将であったが、明治2(1869)年に天皇への反逆した罪は許され、実子の容大は家名相続が許され華族に列し子爵を授かり、陸奥国3万石の支配を命じられた。 
 榎本武揚は、箱館戦争で賊軍の将で敗軍の将であったが、恩赦によって罪が許され明治新政府の高官となった。
   ・    ・   ・   
 2024年12月2日 YAHOO!JAPANニュース 夕刊フジ「学ぶべきがあまりにも多い「幕末の人材登用」術 かつての敵、身分も関係なし 優秀な人材は「国家のため」要職に
 【井上和彦 永田町よ先人に学べ】
 明治政府は1869(明治2)年、現在の防衛省にあたる「兵部省」を設置し、英国式の海軍士官養成を行う海軍操練所を東京・築地に開設した。海軍力の整備・増強は、最重要課題だったのである。
 徳川幕府も海防の必要性を痛感し、55(安政2)年に「長崎海軍伝習所」を開設していた。ここでオランダから海軍を学んだ勝海舟は後に軍艦奉行を任じられ、神戸に海軍操練所を開設した。坂本龍馬もここで学んでいる。
 明治政府は70(明治3)年11月、海軍操練所を「海軍兵学寮」と改称した。日本海軍にとって、オランダ海軍は〝生みの親〟であり、明治維新後は、英国海軍が日本海軍の〝育ての親〟となったのだ。
 72(同5)年、兵部省が廃止されて「海軍省」と「陸軍省」が新設された。初代「海軍卿」(のちの海軍大臣)には勝海舟が就いた。
 特筆すべきは、第3代海軍卿は、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて新政府軍と戦い、函館の「五稜郭の戦い」で敗北して降伏した榎本武揚だったことだ。
 榎本武揚は、長崎海軍伝習所で学んだ勝海舟の後輩であり、海軍を学ぶためにオランダ留学した、日本きっての海軍軍人だったのである。
 当時の日本は、かつて敵として戦った相手であろうと、優秀な人材を要職に登用して「国家のため」に働いてもらったのだ。
 薩摩藩主、島津斉彬の人材登用術も忘れてはならない。
 1860(万延元)年、日米修好通商条約の批准交換のために米国に派遣された「咸臨丸」には、艦長の勝海舟福沢諭吉のほか、通訳として「ジョン万次郎」こと中浜万次郎が乗り込んでいた。
 漁師だったジョン万次郎は遭難から10年後の51(嘉永4)年、米国の船で琉球に上陸した。このとき薩摩藩主の島津斉彬が、彼の造船術をはじめとする豊富な知識や英語力に着目して、さまざまな分野の教育者として重用したのだった。
 この当時、オランダ語のできる者はいたが、英語のできる者は貴重な存在だったのである。正確な英語力を備えたジョン万次郎がいなかったら、日米修好通商条約とその後の日米交渉はどうなっていただろうか。ジョン万次郎の果たした役割は極めて大きい。
 いかなる身分でも、卓越した能力や技能、そして豊富な知識を持った者であれば、重用して社会に貢献させる島津斉彬の先見の明こそが、日本を救ったといえよう。ちなみに、下級武士だった西郷隆盛という傑物を見いだしたのも、この島津斉彬だった。
すべては「国家のため」だったのである。
 世界の荒海へ船出した新生日本を、何とかして西洋列強諸国に伍(ご)してゆける一人前の国家にしようとした当時の日本人の愛国心に学ぶべきはあまりにも多い。 (軍事ジャーナリスト)
   ・   ・   ・   
 官吏制度
 明治政府の官吏任用制度は明治2 (1869) 年7月8日の職員令附録官位相当表の公布に端を発し,同月 27日には勅任官,奏任官,判任官の別が定められた。 1885年 12月 23日内閣制度創始とともに,内閣総理大臣伊藤博文によって示された「官紀五章」に官吏登用の記述があり,それをきっかけとして,87年7月 20日文官試験試補及見習規則が公布されるに及んで,新政府の官吏任用は法制化され一本化された。 89年発布された明治憲法は,第 19条で,一般国民を文武官に任用することを臣民の権利として保障したが,93年 10月 31日公布の文官任用令,文官試験規則は,官吏の任用が門地門閥に左右されることなく,個人の才能によって行われることを明確化した。官吏の一般服務規律は,82年7月 27日制定の行政官吏服務紀律および,それを改正した 87年7月 29日の官吏服務紀律によって規定された。また,懲戒については,76年4月 14日設けられた官吏懲戒令に,譴責,罰俸,免職の3種の懲戒が定められ,99年それを改めた文官懲戒令が公布された。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
   ・   ・   ・   
 「近代日本人の肖像」は国立国会図書館の電子展示会です。
 明治政府を支えた幕臣
 明治維新により、政権は江戸幕府から明治政府へと交代しました。新しく発足した政府には、首脳となるべき人材はいましたが、その手足となって首脳を補佐する人員が不足していました。政権の担い手は薩長土肥や官軍側の旧藩だけでは経験や人員が不足しており、政府は旧幕府側の人物(以下、幕臣等)を登用することで不足部分を補填しました。ここでは明治政府に登用された幕臣等を紹介してみましょう。
 登用されたのは幕末の段階で洋学等の新知識を身につけていた幕臣等です。大久保一翁は蕃書調所総裁、外国奉行を歴任、由利公正横井小楠から科学や実学の影響を受けました。前島密は開成所数学教授であり、林董は順天堂創始者で洋学者の佐藤泰然が実父です。勝海舟榎本武揚は幕末に長崎海軍伝習所で学び、勝は咸臨丸で渡米します。榎本・津田真道西周は、文久2(1862)年にオランダに留学しました。榎本は砲術、造船術、機関学国際法等を習得、津田は自然法国際法統計学等を、西は法学、哲学、経済学、国際法等を学びました。明治政府は、既に洋学・実学・留学等で新知識を持つ彼らを用い活用しました。
 登用後の彼らの業績を簡単に紹介しましょう。由利は会計部門で活躍、太政官札の発行を行い、また五箇条御誓文の起草にも携わりました。前島は出仕後にイギリスに留学し、近代郵便制度を確立しました。林は外交で活躍、初代駐英公使として日英同盟に尽力しました。榎本は駐露公使として樺太・千島交換条約を締結しました。津田・西は法整備にあたり、津田は陸軍刑法を作成、西も軍人勅諭の起草に携わりました。勝は海軍卿、参議となり、大久保は第5代東京府知事となりました。
 このように、明治政府は発足当初から幕臣等の知識や技術を活用することで、政権基盤を作り上げていきました。明治4(1871)年の廃藩置県で、基礎が固められると、維新時に登用された人々は徐々に政府から去っていきました。維新直後の明治政府は、幕臣等と藩閥が両輪のように国家形成に携わり、近代国家への道を歩みました。
 参考文献
 清水唯一朗『近代日本の官僚:維新官僚から学歴エリートへ』 (中公新書 2212) 2013【AZ-341-L14】
 門松秀樹『明治維新幕臣:「ノンキャリア」の底力』(中公新書 2294) 2014【GB421-L69】
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 志士(しし)は、一般に日本の江戸時代後期の幕末において活動した在野の人物を指す歴史用語。
 概要
 『論語』衛霊公第十五にある「志士仁人(ししじんじん)は(中略)身を殺して以て仁を成すこと有り」が語源であり、天下泰平のために正しいと信じたことを、生命をかけて貫く人物像を指した。
 多くは、尊皇攘夷の思想を持って革命運動を行った者を指す。
草莽とも呼ばれる。
 比喩
 また、比喩的に他の時代の人物や外国人に対しても使われることがあり、第二次世界大戦中に日本へ亡命したスバス・チャンドラ・ボースなどのインドの独立運動家を指して「インド独立の志士」とも呼んだ。
 尊王志士の活躍
 鎖国と攘夷に揺れた幕末から明治維新後の国家建設の先駆けとなったのが、尊王志士である。当初、尊王志士は尊皇攘夷のもとで異国との交わりを忌み嫌い、天皇を中心とした国家の建設が不可欠として、江戸幕府に対して尊皇攘夷の履行を徹底すべきと考えたが、やがて幕府の求心力が急速に低下すると、これを打倒することで江戸幕府に代わる天皇を中心とした統一政体の確立を望んだ。江戸幕府長州藩の幕長戦争などで有力な大名家である雄藩が幕府と対立を深めた結果、薩摩藩長州藩による薩長連合の成立を経て、ついに戊辰戦争によって倒幕を成し遂げた。
 政治運動に命をかける人物のモデルにもなり、板垣退助など自由民権運動の活動家や、明治社会主義者の一部にも「志士」という理想像が共有されていた。
   ・   ・   ・   


 何故、それが成功したか。
 官軍倒幕派にしても賊軍佐幕派にしても、江戸時代後期に日本に押し寄せてきたロシアの日本侵略という脅威に対して、外敵から如何にして日本天皇・神国日本・日本民族を守るかというのが根本原因であったから、敵として戦った敗者でも積極的に登用し、戦争に負けた敗者でも敵の誘いに応じた。
 昨日の敵は今日の友、それが将棋方式であったが、それが通用したのは単一性の強い日本民族内での話しで、異質な中国人や朝鮮人には当てはまらなかった。
 それ故に、キリスト教朝鮮人テロリストや共産主義朝鮮人テロリストは、昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
 中国共産党は、ロシア共産党の指示を受けて反天皇反民族反日テロリストを支援していた。
   ・   ・   ・   
 明治新政府は、近代的官吏任用制度によって新しい人材が成長するまで有能な旧幕臣を実務官吏として登用していた。
   ・   ・   ・   
 諫山創「人はいずれ死ぬ。ならば人生には意味がないのか? 死んだ仲間もそうなのか? あの兵士たちも、無意味だったのか? いや違う‼ あの兵士に意味を与えるのは我々だ‼ あの勇敢な死者を‼ 哀れな死者を‼ 想うことができるのは生者である我々だ‼ 我々はここで死に、次の生者に意味を託す‼」(『進撃の巨人』)
   ・   ・   ・   
 映画・スペック「生と死を峻別する事に意味はない。
 他者が認ずれば死者とて生命を持ち、
 他者が認ずる事なければ生者とて死者の如し」
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
   ・   ・   ・   
 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
   ・   ・   ・   
 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
   ・   ・   ・   
 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
   ・   ・   ・   
 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
   ・   ・   ・   
 保守には、正統保守やエセ保守など数多くの保守が存在する。
 現代日本では、急速に新保守の守旧派とエセ保守が増えた。
 正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
   ・   ・   ・    
 現代日本人は外圧に弱いが、昔の日本民族は外圧には強かった。
 それを証明するのが、聖徳太子である。
 現代日本歴史教育は、摂政・聖徳太子の存在を否定しようとしている。
   ・   ・   ・    
 明治維新とは、ロシアの軍事侵略から如何にして神国日本を守るかという体制選択であった。
 伝統的な徳川将軍家を中心とした諸国・諸藩連合の地方分権体制か、革新的な天皇を中心として一国中央集権体制かである。
 佐幕派は前者であり倒幕派は後者であった。
 つまり、日本の生き残りを賭けた、佐幕派の継続的変革リノベーションか倒幕派の破壊的新生イノベーションかの選択戦争であった。
 何れにせよ、世界が大きく激変する時代において、戦争を避ける話し合いによる外交での継続的変革リノベーションには未来はなく滅亡し、戦争を覚悟した外交での破壊的イノベーションのみが未来で生き残る正解の選択であった。。
 それは、現代でも変わる事のない普遍的大原則である。
 日本の近代的軍国主義政策は、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、そして最も恐ろしいマルクス主義共産主義イデオロギー侵略が原因であった。
   ・   ・   ・   
 日本民族は、個人主義集団主義を車の両輪として生きてきた。
   ・   ・   ・   
 江戸時代の封建体制は個人主義で、明治の近代体制は集団主義である。
   ・   ・   ・   
 日本の歴史で、個人主義時代は平和な時代で、集団主義時代は戦争の時代であった。
   ・   ・   ・   
 明治維新戊辰戦争とは、徳川幕府による個人主義体制か明治新政府による集団主義体制かの体制選択内戦であった。
   ・   ・   ・   
 弱小国日本、財政赤字で破綻していた明治新政府の国際的信用の根拠は、天皇の存在であった。
 天皇の存在で、近代日本は普通の国家として世界に受け入れられた。
 それが、天皇国家元首としての統治権であった。
 欧米列強は、殺しのプロである武士集団ではなく、日本民族の主権者であり祭祀王の天皇の存在ゆえに日本を侵略しなかった。
 そこが、日本国とムガル帝国の違いである。
   ・   ・   ・   
 ムガル帝国はいとも簡単に内部崩壊で滅亡し、インドはイギリスの植民地となり、インド人はイギリス人の奴隷となった。
 日本が教訓として学ぶべきは、清王朝の中国ではなくムガル帝国のインドであった。
   ・   ・   ・    
 日清戦争は、世界を巻き込んだ第ゼロ次世界大戦の日露戦争の前哨戦であった。
 日露戦争は、日本にとって江戸後期・徳川幕府当時から避けられない、何時かは戦わねばならない「やむなき戦争」であった。
 日本の近代化・軍国主義化とは、弱小国家から中程度国家にまで発展させ、世界的大帝国であるロシアと日露戦争に勝つ為であった。
 三国干渉による臥薪嘗胆とは、そうした意味があった。
 世界の常識からして、日本がロシアに勝つなど誰も想像いていなかった。
   ・   ・   ・   
 歴史的事実として、数万年前の石器時代縄文時代から日本民族は戦争・殺し合いが嫌いで、他人と争う事、競う事、比べる事が苦手な民族であった。
 つまり、「人は人、自分は自分、他人は他人」、「分相応の生き方」という事である。
   ・   ・   ・   
 明治から昭和初期までに起こした戦争は、領土拡大の侵略戦争ではなく、現人神天皇、神国日本、神仏の子孫である日本民族を、外敵である夷狄(ロシア・中国・朝鮮)の軍事力と邪教キリスト教)の信仰力から守る為の積極的自衛戦争であった。
 が、現代日本はおろか、中国、韓国・朝鮮、ロシアを含む全ての国々、国際世論は、日本を血に飢えた邪悪・凶悪・残忍な戦争犯罪者と認定・断定している。
 それが、東京裁判史観=自虐史観=日本人凶悪・残虐・極悪・非道の重犯罪人史観である。
 日本民族が最も恐れたのは、石器時代縄文時代から数万年かけて先祖が護ってきた日本らしさ・日本の国柄・日本の有り様を根底から消滅させる意図を見せていた信仰宗教のキリスト教マルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 が、現代日本歴史教育に深刻な影響をもたらしているのが、そのキリスト教マルクス主義共産主義である。
   ・   ・   ・