♦ Ⅰ。目次=2 〜No.2

旧題名・「ユダヤ民族と日本民族は同族か? 天皇の祖先はユダヤ人か?」
   ・   ・   ・
 二つのブログを、五つに分けて建設する。
 プロフィールに、五つのブログを立ち上げる。↗
   ・   ・   ・   
 隠元禅師「日本の天皇こそ、まことに真命の天子である」
   ・   ・   ・   
Ⅲ)『普遍宗教キリスト教による、民族宗教殲滅計画』  
2、国内編

 多神教徒日本人と改宗ユダヤ人との、多種多様価値観を秘めた天皇心神話をめぐる宗教戦争
 『新約聖書』(マタイによる福音書10章37節)「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にはふさわしくない。また、自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない」

①、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)とキリスト教ユダヤ人(女系相続)との死闘。1549年=1〜No,17
①、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)とキリスト教ユダヤ人(女系相続)との死闘。1549年=2〜No.18

 聖人ザビエルは、邪教国日本をキリスト教に改宗しキリスト教国に生まれ変わらせる事を聖母マリアに誓い、福音を広めるという尊い使命を実現するべ日本に上陸した。
 ザビエルは、日本人の罪科を明らかにし、穢れた魂を浄化する為に悔い改めるべきだと説教して回った。
 第一条 日本人は、自分たち人間と、天地とを創造した唯一の神を拝まず、甚だしきは木と石を拝んでいる。
 第二条 人間の自然性に反する男色は、最も穢らわしく、厭うべきもので。絶対神の重い罰が下るであろう。
 第三章 日本で平気で行われている嬰児殺しと堕胎は人道に反する重罪である。
 福音を信じたキリスト教徒日本人の一部は、神社仏閣の破壊と、神官・巫女及び僧侶・尼僧の殺害あるいは追放した。高山右近ら一部の良心的指導者は、布教活動の為に寺社との対立を避けようとしたが、狂信的な信者は寺社破壊を信仰の証しとして行った。
 第105代後奈良天皇は、ザビエルとの謁見を拒否し、キリスト教の布教を勅許しなかった。天皇の改宗に失敗し、日本のキリシタン化は不可能となった。
 キリスト教会は、天皇を捨て、改宗させた戦国大名を軍事支援して日本を統一させ、新たな日本皇帝に据えて日本をキリスト教国にしようとした。
 ザビエル「あなたを心から愛し、あなたの救いの為に遠い国からはるばると来た者に、なぜそのような辛く当たりなさるのか」
 トルレス神父「日本人は、高い理性を持った国民です。理性によって支配されているのです。日本人は一度、霊魂が不滅である事を認めると、私たちに反攻して来た人々や、また、生まれてこのかた偶像を拝んで来た人々までが偶像を捨て、父母の反対も押し切って信徒になります。彼等は非常に人好きがよく、信心深い人達です」
 4大修道士会は、時に競い、時に協力しながら、日本を隣人愛でキリスト教化すべく全力を挙げた。
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 1488年 浄土真宗一向宗を信仰する百姓を中心とした門徒集団は、戦費調達の為に重税を課す戦国大名に反発し、各地で一向一揆を起こした。1592年には加賀の富樫氏を追放して、百姓が持つ国とした。
 1532年 京・山科で、日蓮宗による法華一揆が起き、浄土真宗の本山・山科本願寺が焼き討ちに遭った。第10世証如は、教団の本拠地を大阪に移して石山本願寺を建て、戦国大名に対抗する様に全国門徒衆に号令した。
 根来や雑賀など経済力と軍事力を付けた宗教勢力は、地上に仏教国家を建設する為に、各地の戦国大名に対して戦乱を引き起こしていた。
 1570年 天台宗比叡山延暦寺は、キリスト教を支援する信長を仏敵と決めつけ、浅井長政朝倉義景に協力した。
 織田信長は、石山本願寺に対して戦費を要求した。第11世顕如は拒否し、反織田連合軍に参加して、各地の一向門徒に信長と戦う様に命じた。門徒は、仏敵と戦って死ぬと極楽浄土に行けると信じて戦い、捕まって処刑すされる事もまた極楽に行く道と教えられた。門徒は、喜んで殉教の道を選んだ。
 キリスト教会は、仏教勢力と戦う織田信長を支援した。
 石山本願寺攻めは、明らかに宗教戦争であった。
 1571年 織田信長は、宗教勢力が経済力と軍事力を背景に政治的影響力を強める事を嫌い、比叡山を焼き討ちした。
 1574年に伊勢長島の一向一揆は皆殺しにあい、翌年には越前の一向一揆も惨殺の中で平定された。信長の、宗教弾圧は熾烈で、従わない者は惨たらしい処刑方法で虐殺した。キリスト教の宣教師は、神の御名によってその行為を祝福した。九州などのキリスト教会支配地域では、キリシタンを動員して政治勢力化した寺社仏閣を襲撃し、破壊した寺社仏閣の跡地に教会を建てた。
 1580年 信長は、武力による石山本願寺の破壊を断念して、和解するべく朝廷に調停を依頼した。
 本願寺側も、戦争に疲弊し、和解を受け入れた。石山から退去すると共に、経済力と軍事力を放棄し、宗教一途に専念し、信心を求める修行に打ち込み、今後は政治に一切口出さない事を誓った。顕如の長男である教如は、徹底抗戦を主張した。
 信長は、天皇による調停の為に以前の様な虐殺は行わなかった。
 狂信的なキリスト教徒は、異教徒の天皇の権威を借りた事と仏教勢力への不徹底な弾圧に幻滅を抱き、信長では神の大国は実現できないとして切り捨てた。日本をキリスト教化する為に、キリシタン大名の武力強化をポルトガルやスペインの商人に依頼した。

②、豊臣秀吉キリスト教弾圧。1587年=1〜No.19
②、豊臣秀吉キリスト教弾圧。1587年=2〜No.20

 経済と軍事を操るキリスト教徒白人による、異教徒日本人の奴隷化計画を阻止した。
 豊臣秀吉は、天下を統一し、戦乱を終焉させた。
 秀吉は、他の宗教勢力への見せしめとして、政治権力に逆らった本願寺を京都堀川に移転させた。後の、本願寺派本山西本願寺である。教如は、門徒を守る為に、門主の座を弟の准如に譲って隠退した。
 日本の発展の為には莫大な利益をもたらす南蛮貿易の維持を望んでいたが、キリシタンが抱えいる「二重の忠誠心」問題を避ける事ができなかった。
 キリスト教徒による腐敗し武装化した神社仏閣の破壊よりも、こちらの方がはるかに深刻であった。
 敬虔なキリシタンは、富を与えてくれる異教徒の主君・支配者への俗世の忠誠より、霊魂の救済をしてくれる神聖な忠誠心を優先した。
 キリスト教会は、キリシタン大名キリシタン武士にも信仰の為なら「ご恩と奉公」の忠勤を捨てる事を望んだ。
 人気取りの為にキリシタン宥和策を採用して今を無事に過ごしても、二重の忠誠心を抱えるキリシタンが急増すれば、子孫が宗教対立から宗教戦争に巻き込まれて惨殺される恐れがあった。
 秀吉は、キリシタンが今だ力を持たない時期を見計らって、1587年6月にキリシタン追放令を発布した。
 キリシタン大名高山右近は、真の信仰に生きる為に、棄教命令を拒否し領地を返上して出奔した。キリスト教会と多くのキリシタンは、絶対神への信仰を貫いた高山右近の行為を絶賛し、他のキリシタン大名にも同じ行為を取る事を期待した。
 他のキリシタン大名は、保身と領地を守る為に、建前で秀吉に対する俗世の忠誠心を受け入れた。だが、本音では絶対神への信仰を捨てず、神聖な忠誠心を持ち続けた。
 秀吉は、多くのキリシタン大名が俗世の忠誠心を表明し、キリスト教会も俗世の権力・権威を否定する様な布教活動を控えた為に、それ以上の禁止に伴う弾圧は行わなかった。
 だが、キリスト教が俗世の忠誠心を否定し、殉教しても絶対神への信仰を伴った忠誠心を求める以上は、異教徒の日本における弾圧は避けられなかった。
 キリシタン弾圧の元凶は、二つあった。一つは、世俗の主君への忠誠心と神聖な絶対神への忠誠心の何れを優先するかであり。もう一つは、民族宗教天皇心神話と神の裔・祭祀王天皇の宗教的権威を否定したからである。
 高山右近「右近は、卑怯な振る舞いや、罪や過失の為に領地を失ったのではなく、キリシタンの信仰を守る為にそうなったのですから、私たちとしてもそれは光栄に思っております。かねて覚悟もいたしていた事でございます」
 プレネスチノ神父「神の慈悲によって家臣達が、永遠の報いを得られる様に、また直ちに生活の道を求め、妻子の為に計るように、さらにまたよいキリシタンとして生涯を送る様に」

③、徳川家康の経教分離政策による国際交易。1604年=1〜No.21
③、徳川家康の経教分離政策による国際交易。1604年=2〜No.22

 キリシタンの犠牲者は、公式・非公式を合わせた数十万人に達すると言われている。キリシタンは、現世の限られた命を守るよりも天国での永遠の命を得る為に、狂喜して処刑台に向かい、殉教できる喜びを絶対神に感謝した。彼等は、命よりも信仰こそ第一として、武器をとって異教徒と戦う事を放棄していた。
 日本人の命を第一とする宗教的常識では、想像できない命を粗末にする狂気であった。
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 家康は、1563年の三河一向一揆の際、信仰を理由にして信用していた家臣に裏切られた苦い経験を持っていた。宗教が持つ、社会と自然を破壊する強大な力を身を持って体験していただけに、宗教が政治力を持って御政道に干渉する事に対して警戒を強めた。
 幕府は、浄土真宗が庶民の間で政治勢力化して反体制的になりやすい体質である事を恐れ、内部分裂を誘ってその秘めたる力を削ぐ事にした。
 家康は、隠退していた教如を担ぎ出し、京都七条烏丸に新たな本願寺を与えた。幕府寄りと批判された、大谷派山東本願寺の誕生である。
 神国日本は、宗教権威を神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)のみに集約して与え、それ以外の如何なる宗教団体にみ認めなかった。天皇の神聖を否定し神性を破壊する宗教や思想・哲学は、人類史的に優れていようと、国際社会で認められていようが、聞き耳を持たず問答無用に切り捨て、見抜きもせずに完全排除した。
 日本は、この伝統的保守思想で、おぞましい宗教的惨劇を未然に食い止める為に、数多くの宗教弾圧を繰り返して来た。その結果、閉鎖性が強くなり、キリスト教価値観に基づく近代化に遅れた。
 キリシタン弾圧の熾烈さも、キリスト教が持つ経済力と軍事力を背景にして巨大化し易い政治的体質に由来していた。
 何れにしても、大陸では日常茶飯事的な宗教に関わる対立や暴動は起きなかった。そして、人類史に欠かせない、永遠に怨念を残し、絶える事ない報復・復讐を繰り返すという、不毛な宗教戦争もなかった。
 日本は、その閉鎖性ゆえに、宗教に関して、大陸史はおろか、人類史からも、孤独に取り残された。
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 家康は、宗教の統制策として、寺社仏閣を安住させて無力化し、僧侶から向上心を奪う為に意欲的に他宗との宗論を競う事を禁止した。
 最大の統制政策が、キリシタンの取り締まりを目的とした寺請制度である。
 庶民を、強制的に、檀家として地域の檀那寺に拘束した。
 寺院に、一定の信者を与える事で、宗教家の本分である布教活動の意欲を奪った。
 ある地域は浄土真宗本願寺派の寺の管轄地であれば、そこの住人は強制的にその寺の檀家とされた。仕事やその他の理由で別の地域に移住した時、その地域が日蓮宗身延派の寺の管理地であれば、その寺の檀家にさせられた。さらに別の土地に移った時は、個人の信仰は無視されて違う宗派の檀家にさせられた。
 信者の過去帳を管理させる事で、葬儀や通行手形などの諸事務費を徴収させ安定した収入を保障した。
 各宗派は、信者を他宗に取られ報酬が減るのを恐れて、葬儀では僧侶を派遣して、他宗の僧侶と共に読経をあげて遺族に法外な供養料を要求した。
 心配事のなくなった僧侶は、俗物化して、布施を取っては酒を飲み女遊びなどで豪遊する生臭坊主となり、庶民から嫌われる存在となった。
 庶民は、僧侶の儲け主義に嫌気をさしていたが、僧侶の機嫌を損ねると死者を弔い葬る事ができなくなる為に、不合理を感じながらも従わざるを得なかった。
 こうして、日本仏教は多額の報酬を取るだけの葬式仏教へと堕落した。
 幕府は、僧侶達が求道心を失い世俗化して堕落する事以上に、過激な信仰心を求める狂信的な個人と教義で公儀の御政道を批判する反社会的宗教が深く交わる事を警戒した。
 大名格の寺社奉行は、ヤクザと手を組み、賭博や売春斡旋や高利貸しなどの犯罪行為を行った僧侶を破戒僧として捕縛し、世間への見せしめに厳罰に処した。御公儀に逆らう恐れのある反社会的宗教組織は、信者を増やして大きくなる前に見つけ出しては弾圧した。
 庶民は、業突く張りの生臭坊主を目の当たりにするや、修行を積んだ高僧もしょせん俗物と冷ややかに見る様になった。
 宗教への思い込みに幻滅を感じ、深い関係を持つ事に割の合わない違和感を感じた。
 財産を捨て命を犠牲にするという篤い信仰心を捨て、軽いのりの信仰心から苦しい時の神頼みにとどめた。
 日本人には、信仰の為に狂喜して命を捨てるキリシタンの殉教が理解できなかった。
 病気や災害などの最悪の事態が発生した時、寝食を忘れて熱心に祈ったところで奇跡は起こらないし、最終的には自分で全てを解決して前に進むしかないと割り切っていた。
 ここに、欧米では考えられないほどの宗教に関心の少ない信仰心の薄い日本人が誕生した。
 日本人は、無神論マルクス主義者の様に宗教を否定しなかったし、むしろ神道的な祖先を神・仏として敬う家族信仰を大事に受け継ぎ守って来た。
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 家康は、宗教・経済・軍事は一体と考えられた時代に、経教分離を断行して国際貿易から宗教と軍事を排除した。
 朝鮮通信使は、にこやかに友好の素振りを見せながら、日本の国情を探っていた。
 知識人の日本人は、朝鮮通信使と親しく話せる事を喜び、聞かれた事以上の国情を自慢げに話した。それが、どれだけ日本の安全を脅かすかに思いもいたらない。
 教養人の日本人は、秘密を隠しきれないほどのお喋りであった。
 彼等は、理性が働かないうえに、知恵も回らないほどの、浅はかであった。
 清国は、従属国朝鮮に対して、仮想敵国日本に関する事細かな報告を義務づけていた。

④、ユダヤ人を完全排除し、閉鎖空間・江戸。1641年=1〜No.23
④、ユダヤ人を完全排除し、閉鎖空間・江戸。1641年=2〜No.24

 日本の曖昧で多種多様な自然観・宗教観には、画一化された単一の絶対神信仰は存在しない。
 日本人には、「救世主待望論」「人類誕生の原罪論」「永遠の命が得られる天上論」といった、普遍宗教が強調する「愛」の信仰は理解できなかった。よって、絶対神の隣人愛による慈愛と寛容のヒューマニズムがないだけに、日本でキリスト教は普及しなかった。
 現代においても、キリスト教徒は人口の1%といわれている。対し、儒教倫理の韓国ではキリスト教が普及し、人口の50%近くが洗礼を受けているといわれている。彼等は、絶対神の聖なる戦士として、自己が信仰する教義・教理に従って異教徒の宗教施設を否定した。
 日本人は、柔軟で開放的な多種多様な宗教観を持ち、妥協なき硬直した単一の宗教観を受け入れず、御利益があると思われる貴い全ての神・仏を無条件に受け入れて拝んだ。
 希薄な信仰心しか持たない普通の日本人は、地球上にある神社、寺院、教会、モスクなど諸々の宗教施設で、そこに安置している神や仏に敬意を持って心から祈りを捧げた。
 この無節操が、日本人は宗教を持たない無信心者との謗りを生んだ。
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 宮本武蔵「神仏を祟びて、神仏に頼らず」
 菅原道真「心だに誠の道にかないなば 祈らずとも神や守らん」
 西行法師「なにごとのおわしますか知らねども かたじけなさに涙こぼるる」(伊勢神宮で) 
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 人間不信の正統派儒教と断絶して、排他的一国中心主義で自給自足体制を確立した。
 国際社会の進歩・発展から取り残された日本は、欧米や中国・朝鮮に比べて貧しくなっても、・人種民族的宗教的主義・主張的な他者との差別的対立を避けた為に、国内外での悲惨な大流血を起こさなかった。
 日本社会には、血塗られた富による繁栄とは無縁であった。
 日本人の生活は「個」の大陸人に比べて貧しかったが、「公」の神道価値観で日本流を追求して、心は大陸人よりもはるかに穏やかで豊かであった。
 日本人が大事にした美徳の心とは、キリスト教的な善・真の倫理とも、儒教的な仁・徳の道徳とも、異質なものであった。

⑤、改宗ユダヤ人による、日本のキリスト教国再計画。1873年=1〜No.25
⑤、改宗ユダヤ人による、日本のキリスト教国再計画。1873年=2〜No.26

 キリスト教植民地帝国の侵略に備えて、天皇中心の中央集権国家を樹立し、主権国家として「天皇と国民」、「国家と民族」、「国土と精神」を守る為に軍国主義的富国強兵政策を採用した。
 自国の安全保障を最優先して、反日的朝鮮を併合した。併合後に、日本侵略を計画する大陸帝国に協力する反日朝鮮人を弾圧した。キリスト教会は、秘かに、反天皇から反日朝鮮人の暴力テロを支援していた。
 戦前の日本は、外敵から「天皇と国家」を守る為に、武力には武力で対抗しようとした。

⑥、バチカンによる、日本と天皇・皇室のキリスト教化計画。1945年=1〜No.27
⑥、バチカンによる、日本と天皇・皇室のキリスト教化計画。1945年=2〜No.28

 反天皇マルクス主義者日本人と反宗教無神論者日本人は、反神社のキリスト教徒日本人と協力して、 2600年以上続いている世界最古の皇室を廃絶し、124代以上の天皇制度を廃止するべく活動を続けた。
 戦後の平和国家日本で、反日天皇的な左翼・左派は、地球上から民族国家日本を消滅させるべく、全ての日本を解体するべく共闘を組んだ。
 国際主義者が最優先事項として行っているのが、民族国家日本を否定する反ナショナリズム教育である。
 反戦平和教育の主眼は、日本を「悪」と決めつけて完全否定する事である。

Ⅳ)『島国日本が忌避した正統派儒教世界・東アジアの人災地獄』 
1、中国大陸における、終わる事のない悲惨な生き地獄=1〜No.29
1、中国大陸における、終わる事のない悲惨な生き地獄ー2〜No.30

 漢族系中国人以外は人と認めない自己中心主義から、中華思想の非人道的華夷秩序周辺諸国・地域・民族に押し付けた。
 そこは、強者による、厳格な上下関係・身分を強制する(男性的)「略奪・簒奪共生」社会であった。
 我欲による排他的な希望や夢の達成の為には、如何なる暴力・非合法的活動も容認された。
 正統派儒教で、士大夫以上の身分は罪に問われる事はないと保証されていた。特権階級は、如何なる権利もない下層民に対して、自己満足的に殺人や略奪や強姦など好き放題の犯罪行為を、支配者の権利として行った。虐待を受け続ける人民は、役所に訴えても救われないどころか、逆恨みを買ってどんな報復を受けるか分からない為に、泣き寝入りして諦めた。家族や身内が権力者から被害を蒙っても、我が身を庇って、助け様とはしなかった。
 正統派儒教の「徳」絶対価値観が、人治国家を理想として貪官汚吏を蔓延らせ、法秩序を破壊して不正と腐敗を助長し、天文学的貧富の格差社会を出現させた。
 東アジアでは、弱い者は強い相手に対してひたすら泣き寝入りするが、自分より弱いと見るや鬱憤晴らしとして居丈だけしく振る舞う。その傲慢さは、情け容赦がない。
 中国はモンゴルやチベットウイグルなど周辺地域を侵略し占領するや、征服者中国人は当然の権利として大虐殺を行われていた。中国に服従する証しとして、民族の姓名を中国風に創氏改名させた。
 中国人は、日本の侵略、占領、領土化を狙い、日本人を奴隷化する事を神聖な使命としていた。
 東アジアの国際的高度な知識人は、肉体労働に就く事を嫌悪し、労働とは教養のない小人の苦役であると馬鹿にしていた。
 権力者は、無能な小人を蟻と譬え、殺しても殺しても湧いてくる蟻の様な卑しい人間と軽蔑していた。小人の中に、「労働を美徳」とする勤勉な日本人も含まれていた。
 実力至上主義・能力優先主義によって、手段を選ばず他人から強奪する事は、人間が生来もっている正当の権利であると容認している。中国は、世界有数の犯罪多発地帯である。
 正統派儒教は、「死と暴力」による恐怖の一君独裁体制を理想社会と認め、貴き上下関係・身分を越える事を絶対に許さなかった。
 人治の漢字文化圏では、孔子老子などの世界に通用する哲学や思想は誕生したが、自己犠牲的な普遍的宗教は生まれなかった。
 「天」至上主義として、「愛」や「慈悲」を説く普遍的価値観の神や仏を絶えず大弾圧し、信奉者を根刮ぎ大虐殺した。
 中国史では、流血を伴う宗教弾圧は常識であった。
 自由な移動が可能な大陸世界では、自然は回復不可能な状態までに徹底的に破壊され、人はおろか如何なる生物も住めない様になるまで環境も崩壊した。
 多様な生物が豊かに生活していた大地は荒廃し、緑の生い茂る山野は枯れて不毛な砂漠となり、命を育んだ清水は汚濁に染めて命を奪う毒水と化した。
 「人」中心の彼らは、自分一人の役に立たないモノは無用の長物として容赦なく捨て、決して他人も利用できる様にしようとはしなかった。
 中国大陸は、人を人と認めない大虐殺と略奪の大流血世界であり、人間不信で謀略や隠謀が渦巻く約束事が存在しない「心」なき世界でもある。
 移動可能な大陸では、再生や再利用の考えは生まれない為に、古代の世界文明は人が住めない不毛の大地に廃墟として捨てられている。
 訒拓は、1937年に『中国救荒史』を出版した。57年に、中国共産党支配下での自然災害を加えて再版した。大躍進期は、「3分が天災、7分が人災」

2、朝鮮半島における苛酷な人災地獄〜No.31
2、朝鮮半島における苛酷な人災地獄〜No,32

 正統な儒教の現実は、けっして平和で平等な理想社会ではなかった。
 中華文明圏の一員として、東アジア的絶対価値観を無条件で受け入れ、苛斂誅求で庶民を苦しめ、恐ろしい恐怖の差別社会を生み出した。
 半島国の宿命として、自立心も独立心も捨て、大陸の軍事大国に阿諛追随する事大主義を採用した。
 漢字文化圏の一員として、朝鮮を古代中国の様な聖人君主が治める理想国にするべく、宗主国中国の正統派儒教を厳格に学んだ。漢書からの逸脱は反逆行為とみなされ、古典の新たな解釈による進歩発展は民心を堕落させる元凶として弾圧された。
 朝鮮は、統一新羅以来、中国の属国となっていた。その証しとして、先祖が残した古代朝鮮名を捨て、中国風の一字姓に創氏改名した。朝鮮は世界的に氏名の数が少ない民族であり、日本はその逆で氏名の数が多い民族である。
 朝鮮人は、混血の雑種民族日本人とは違って、正真正銘の単一民族として純血種主義を採用していた。
 中華文化圏の正統派儒教価値観から、インドから伝来した仏教とヨーロッパから渡来したキリスト教を大弾圧した。仏教は山の上や森の奥など人が行かない様な僻地へと追い遣られ、キリスト教は海の外に追放された。
 朝鮮は、中国に次いで高度な教養を持つ優秀な民族として、中国化を拒絶する日本への侵略と、中国姓への創氏改名を拒否する日本人の奴隷化の機をうかがうっていた。
 朝鮮人は、古代から反日的であり、劣等民族の日本との友好を望んではいなかった。
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 崔基鎬「李氏朝鮮は支配階級であった両班が、庶民をほしいままに搾取し収奪した、不正で暗澹たる社会だった。……(P.248)
 李朝は創建された時から、人類史上でもっともおぞましい、腐敗しきった暴力集団であった。李氏朝鮮はとうてい、国の対をなしていなかった。……(P.250)
 李氏朝鮮は堕落しきって、独立国の名に値しなかった。高宗はロシア公使館に逃げ込んだことによって、主権を放棄した。……(P.253)
 李朝時代は少数の両班にとってだけの『地上の楽園』であった。
 李氏朝鮮には人権がなかった。……(P.256)
 李朝は明を宗主国と仰ぎ、自国をその属国に変えて、自主独立精神を抹殺し、五世紀以上にわたって同胞をほしいままに搾取した。……(P.257)
 李氏朝鮮では王による専制独裁が行われ、王が恣意的に生殺与奪の権を行使した。主権といっても、王の邪な統治権しかなかった。人民は厳しい身分制度に分かれ、常民と賤民には一方的に収奪されるか、殺されるか、餓死する自由しかなかった。それに、中国を宗主国として仰ぐ属国であった。……(P.258)
 李朝を通じて農民は、両班による 苛斂誅求の対象でしかなかった。
 とにかく両班は、働くことを極度に賤しんで、良民である常民が生産し、収穫すれば、収租権として勝手に処分する権利を持っていた。両班は体を動かすことといえば、歩行することすら、権威にかかわるとみなして嫌った。……(P.260)
 両班は常民に対して生殺与奪の権を持っていたから、常民はいつ災いが降りかかるか、分からなかった。……(P.261)
 李朝五百十八年は、腐りきった中国の属国を志したものだった。李朝は自主独立を捨てて、中国に精神を預けて、儒教朱子学原理主義に立脚して、『小中華』を自称して、自国民を奴隷化した。良民たちは、私利私欲だけに駆られた両班の食べ物にすぎなかった。百姓は虐政に呻吟し、脱出するか、死の自由しかなかった。改革を試みた王世子や、愛国者は抹殺された。(P.268)」(『日韓併合の真実』)

3、自然災害多発地帯日本列島における神の裔・歴代天皇の祈り。〜No.33

 神の裔・祭祀王天皇が存在する事で、日本は国家として民族として一つのまとまりを得ていた。
 天皇のタブーという怪しげな神秘さが、日本人の心に重りとなって、良心・道徳を持たせ、安定した秩序を与えていた。
   ・   ・   ・   
 激変を繰り返す気候風土は、「個」の垂直的絶対価値観を拒否し、「公」の水平的相対価値観の神道を誕生させ、情理的情感的情緒的人と人の「絆」を重視するの曖昧な神格を生み出した。
 それが、「神の裔」である祭祀王天皇である。
 国民・民族と共に祈る。それが、祭祀王天皇の重要な責務であった。
 キリスト教などの普遍宗教は、生きている「個」の自分のみの現実な幸せと魂の救済と永遠の命を祈り、異教徒のまま死んだ先祖や友人を切り捨てた。
 神道には、他人を排除した強烈な「個」はなく、むしろ仲間としての「和」や「絆」を破壊する我欲として嫌った。
 絶える事のない天災の悲惨な自然環境においては、一神教的絶対真理や唯一の絶対価値観は馴染まず、よって無縁で有り生まれる事はなかった。
 国家の行く末と民族の安寧を真に祈る事ができるのは、神の裔である天皇と皇族のみである。それが、日本の伝統文化である。

Ⅴ)参考文献(た〜は)=2〜No.34
Ⅵ)コメント・Q&A─1〜No.35

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