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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
江戸時代の日本人が近代西洋文明と遭遇したのは、ペリーの黒船艦隊ではなくロシアのロシア使節のアダム・ラクスマンであった。
アメリカは軍事力の砲艦外交であったが、ロシアは平和による紳士外交であった。
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左翼化した戦後民主主義教育における現代の歴史教育には、虚偽や捏造が多い。
1980年代以降、子供達は偏向された嘘の歴史をマルクス主義者から洗脳的に教えこまれてきた。
2000年代以降の政治的エリートや進歩的インテリ達は、戦後民主主義教育の歴史教育を受けてきた優等生である。
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2025年11月11日 YAHOO!JAPANニュース ゆうゆうtime「【べらぼう】松平定信(井上祐貴)の悲惨な失脚劇、ロシア船来航との関係は?
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第43回より ©NHK
© ゆうゆうtime
横浜流星さんが主人公・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう/蔦重)を演じる、2025年NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめものがたり)〜」。当時の文化や時代背景、登場人物について、戦国武将や城、水軍などに詳しい作家・鷹橋 忍さんが深掘りし、ドラマを見るのがもっと楽しくなるような記事を隔週でお届けします。今回のテーマは、松平定信の失脚とロシア船の来航です。
NHK大河ドラマ『べらぼう』第42回「招かれざる客」、第43回「裏切りの恋歌」が放送されました。第43回では、井上祐貴さんが演じる松平定信(さだのぶ)が失脚し、老中職を解かれました。今回は松平定信の解任と、ドラマの中でもたびたび言及されるロシア船の来航を取り上げたいと思います。
ロシア船の来航
寛政4年(1792)9月3日、ロシア使節のアダム・ラクスマンが率いるロシア船が、蝦夷地の根室(北海道根室市)に来航しています。ラクスマンは国交を開き、通商を行うことを求める書状を携え、献上品も持参していました。また、ロシア船には大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)ら合計3名の日本人漂流民が同乗しており、ラクスマンは彼ら日本人漂流民を、幕府に直接送り届けるように命じられたといいます。そのためラクスマンは、江戸への回航を求めました。同年10月4日、現地から報告を受けた、えなりかずきさんが演じる松前道廣(みちひろ)は幕府に書面を送り、この件を知らせています。書面は10月19日に幕府に届き、対応が議論されました。この時に対応を主導したのは、老中首座である松平定信です(岩﨑奈緒子『〈ロシア〉が変えた江戸時代 世界認識の転換と近代の序章』)。
ロシア船を江戸に回航させたくない理由は?
ラクスマンは江戸への回航を望んでいましたが、幕府は彼らを江戸に入れたくはありませんでした。なぜなら、当時の江戸は無防備といっていいほど、海の軍備が整っていなかったからです。丸裸同然の江戸湾にロシア船を入れ、もし交渉が決裂して武力行使に踏み切られたら、江戸は大混乱し、幕府の権威に著しく傷が付きます。はっきりと書き残されているわけではありませんが、松平定信はそんな事態を恐れたのではないかとみられています(藤田覚『松平定信 政治改革に挑んだ老中』)。ですが、むやみに江戸来航を拒めば、ロシアとの紛争を招きかねません。そこで、ラクスマンらの江戸来航を阻止し、角を立てることなく帰国させるために策が練られました。
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第43回より ©NHK
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苦肉の策でラクスマンを帰国させる
幕府は、幕府の役人を松前に送り、ラクスマンと面会させる方針を固めました(岩﨑奈緒子『〈ロシア〉が変えた江戸時代 世界認識の転換と近代の序章』)。松平定信は同年11月11日に、石川忠房と村上義礼の二人を宣諭使(せんゆし/幕府の意向の代弁者)に任命し、様々な指図を与えて、翌寛政5年(1793)松前に派遣しています。同年6月21日、宣諭使たちは日本側の要請により松前に来たラクスマンと面会し、「国法書」を伝達させました。国法書には、「日本の国法によれば、外交交渉の地は長崎であり、江戸への来航は禁じられている。ゆえに、通商要求は、長崎の地で行なうべきである。ただ、突然に長崎を訪れても入港できないので、入港許可証となる信牌(しんぱい)を渡そう」とあり(藤田覚『松平定信 政治改革に挑んだ老中』)、これを伝達した直後、大黒屋光太夫ら日本人漂流者は宣諭使に引き渡され、ラクスマンは宣諭使から信牌を受け取りました。実は、国法なるものは存在しないのですが(高澤憲治『人物叢書 松平定信』)、松平定信らは国法に反するとして、ロシアの要求を退けようとしたのです。その結果、ラクスマンは長崎に向かうことなく、同年7月13日に日本を後にしています。こうして危機は去ったのですが、これは皮肉な結果を招くことになります。
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第42回より ©NHK
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松平定信、失脚
この頃、独裁的傾向が強い定信に対して、幕閣内部で反感が高まっていました。水面下では生田斗真さんが演じる一橋治済(はるさだ)や、矢島健一さんが演じる本多忠籌(ただかず)、福山翔大さんが演じる松平信明(のぶあきら)などにより、反定信派が確立されつつあったといいます。また、定信の諸政策に対して世間は不満を募らせており、大奥も定信に反感を抱いていました。寛政5年(1793)7月、本多忠籌は、定信の独裁的傾向が、城桧吏さんが演じる第11代将軍・徳川家斉(いえなり)の親政を妨げることを未然に防ぐため、家斉の実父である一橋治済の賛同を得て、定信を将軍補佐と老中の双方から解任するという案を、老中の評議にかけています。その結果、定信は7月23日に依願辞任の形で将軍補佐と老中を解任されました。定信、36歳の時のことです。同年7月13日にラクスマンが去り、危機を脱したことにより、この政変を断交する状況が整ったとみられています(高澤憲治『人物叢書 松平定信』)。ドラマと同じように、定信も悔し涙を流したかもしれません。
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第43回より ©NHK
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鷹橋 忍
1966年神奈川県生まれ。洋の東西を問わず歴史が好きです。大河ドラマを楽しみにしています。
著作『水軍の活躍がわかる本』、『城の戦国史』、『戦国武将の合戦術』、『滅亡から読み解とく日本史』(以上、KAWADE夢文庫)
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徳川幕府は、アイヌ人が住む蝦夷地、北方領土を日本の固有領土として統治し守っていた。
ロシアは、千島列島を南下していたが樺太には進出していなかった。
第119代光格天皇(在位1779~1817)。
1785(天明5)年 老中・田沼意次は、ロシアの侵略を警戒して蝦夷地探索隊を派遣した。
1789(寛政元)年 徳川幕府は、アイヌの蜂起クナシリ・メナシの戦いの背後にロシアが策謀していると疑い警戒した。
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1792(寛政4)年 老中・松平定信の寛政日露交渉。
水戸学による攘夷運動の始まり、神国日本意識と攘夷気運が全国に伝播した。
日本民族と民族主義の誕生、創作された皇国史観と愛国主義、軍国主義政策の採択、軍国日本への暴走。
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1806(文化3)年 文化露寇。ロシア軍艦による北方領土・蝦夷地・樺太における海賊行為。
YAHOO!JAPANニュース 2017年1月12日 THE PAGE「ロシア帝国が日本を攻撃した「文化露寇」 択捉島神社に安置された大砲の姿
紗那神社と古砲(千島連盟提供)
終戦から70年以上経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。終戦直後の1945(昭和20)年8月28日から同9月5日にかけて、旧ソ連軍の侵攻により、北方4島が占領されました。北方領土で暮らしていた人たちは、その後自力脱出したり、残された人たちは、旧ソ連兵とその家族らとの混住生活を強いられた後、1947~48(昭和22~23)年にかけて、強制的に島を追われ、樺太を経由して日本本土へ送還させられます。
島で撮影された写真の大半は旧ソ連に没収されました。しかし、元島民でつくる千島歯舞諸島居住者連盟(千島連盟)は自力で脱出できた島民が命がけで持ち出した写真を中心に約560点を収集。古くなり、劣化したものも多くなってきたことから、平成24年度デジタル化して保存する作業を行いました。千島連盟は「集まった写真は人物を写したものが多いですが、背景などから、島の当時の様子を知る大切な資料と考え、大切に保存しています」と話します。人々の表情や景色、風習…。一枚一枚の写真に、元島民が生き生きと暮らしていた証があります。
今回、千島連盟からそれらの貴重な写真の提供を受けました。
1800年ごろから、ヨーロッパ列強による日本接近が始まります。特に、通商を求めたロシア船が蝦夷地や根室など日本北方にたびたび現れるようになりました。将軍家斉の治世だった文化3ー4(1806ー1807)年には、ロシア帝国の外交使節ニコライ・レザノフが部下に命じ、日本の北方拠点を攻撃させたいわゆる「文化露寇」が発生します。
中でも、択捉島の中心地、紗那(しゃな)は、ロシア側からの銃撃や艦砲攻撃にさらされ、警護していた津軽・南部藩兵士が撤退。紗那の幕府会所は、ロシア兵が倉庫の米や美術品、武器などを略奪後、放火し、焼失します。責任者だった箱館奉行支配調役下役・戸田又太夫は撤退中に自刃しました。
この事件は、幕府が鎖国体制の維持と、海防強化に努めるきっかけになります。このロシアによる襲撃事件から間もない文政年間に造られたとされる大砲を安置した紗那神社の写真が残っていました。」
1807(文化4)年 徳川幕府は、蝦夷地防衛の為に東北諸藩に派兵を命じた。
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日本の積極的自衛戦争戦略はこの時から始まった。
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フランスやプロイセンなど西洋列強は、北太平洋航路を独占する為に蝦夷地(北海道)を植民地にするべく動いていた。
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徳川幕府は、ロシアなどのキリスト教国の軍事侵略・宗教侵略から日本を守る為に伊能忠敬に日本地図作成を命じた。
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徳川幕府は、戦争をしても日本を守るという覚悟の積極的平和主義から近代海軍を建設するべくオランダから蒸気軍艦を購入し、旗本・御家人を近代軍隊に改編する為に蘭学者達に命じて西洋軍隊を参考にして軍制改革や人材育成を進めた。
各藩も、西洋諸国から競って軍艦を購入・建造していた。
幕末日本は、海軍国として29隻の蒸気軍艦を所有していた。
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日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
日本の開国・幕末・明治維新・戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義・民族主義ではなく、正しい軍国主義・国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
徳川幕府の外交方針である経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、キリスト教布教をしない事を受け入れていただけに排除すべき攘夷の対象ではなかった。
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ロシアの日本侵略は、ヨーロッパ戦争と連動していた。
1729年~1796年 ロシア女帝エカテリーナ2世(ドイツ人将軍の娘)。
ロシアの海外戦略は、1,ウクライナ、黒海、バルカン半島への領土拡大、2,アラスカ・北米大陸の開拓、3,日本との交易であった。
1789年(~99年) フランス革命。
1796年~1815年 ナポレオン戦争。
1812年 ナポレオンのモスクワ遠征。
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1689年 ネルチンスク条約。ロシア帝国と清王朝は、国境線を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川(アムール川上流)を結ぶ線に定めます。
1858年アイグン条約。ロシアは、アムール川(中国名は黒竜江)以北のシベリアの地を強引に割譲させロシア領とした。
1860年 北京条約。ロシアは、アロー戦争に介入し英仏連合軍が北京を占領した所で講和を斡旋し、その見返りとしてウスリー川以東の沿海州を獲得し沿海州の南端の地にウラジオストクを建設した。
ロシアは、不当な手段で手に入れた領土は戦争に負けて奪われない限り返還する事はなかった。
ウラジオストクは冬でも凍らない不凍港で、日本海を南下して中国、朝鮮、日本への侵出を手に入れたが、目障りなのはウラジオストクにある樺太が日本の勢力圏にある事であった。
ロシアは、樺太を自国領にする為にロシア人の軍人や囚人を上陸させて、反日的先住民を味方につけ日本人や親日派アイヌ人に対する暴力事件を頻発させた。
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2019-01-02
🏞114)─2─禁門の変。四ヵ国艦隊下関砲撃事件。ベルギー国王レオポルド2世は、日本を植民地とし所望した。1863年~No.451No.452No.453 @
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明治8(1875)年 樺太・千島交換条約。明治新政府は、ロシアとの戦争を避ける為に樺太問題を解決すべくロシア領千島との交換条約を結んだ。
日本側の戦略的利点は、ロシア海軍をウラジオストクと樺太の日本海内に封じ込め、宗谷海峡・津軽海峡・対馬海峡を抑えてしまえば太平洋への航路を遮断する事ができた。
ロシアの対アジア政策とは、限られた軍団と艦隊による日本海支配であって、大軍団と大艦隊による日本侵略ではなかった。
日本海を手に入れる為に、陸軍は満州から遼東半島・朝鮮半島に軍事要塞都市を建設して防衛軍団を配備し、海軍は対馬と樺太を手に入れ旅順・対馬・ウラジオストクを軍港要塞都市として守備艦隊を配置する、であった。
1891(明治24)年 ロシアはシベリア鉄道敷設工事を始めた。
文久元年の農奴解放以来、ロシアの農村は余剰労働力を抱えていた。農民の不満の高まりは、ロシアにとって命取りになる。そこで、鉄道沿線のシベリアへ、農民の入植を促進するのが最大の目的であった。
日本は、シベリア鉄道は軍事目的と見なして警戒し、ロシアとの戦争に備えて軍国主義政策を採用し、強権を持って国民生活を犠牲にして軍拡を進めた。
イギリスは、上海・香港の中国利権をロシアから守る為に日本に接近した。
日露戦争は不可避となり、開戦のその時が刻々と迫っていた。
日本の戦争は、領土拡大の帝国主義的侵略戦争ではなく祖国防衛の民族主義的自衛戦争であった。
明治33(1900)年7~8月 江東六十四屯虐殺(黒竜江=アムール川の悲劇)。
8月2日から3日 黒龍江・アイグン事件。ロシア軍兵士約2,000人は清国人移住者約2万5,000人を大虐殺した。
日本人は、ロシア人の蛮行に恐怖し激怒し復讐を誓った。
軍事力のない国は、如何に道理や信義があろうとも被害者として滅び滅亡する。
その事実を知っていた近代国家日本は、軍国主義政策を採用して国力(経済力・軍事力=民力)強化に努めた。
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弱小国日本にとって、強大国ロシアとの日露戦争は避ける事ができない戦争であった。
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日本には、大航海時代の中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易(被害者として)と日本軍部・陸軍・A級戦犯によるポーランド・ユダヤ人難民(数万人)をホロコーストから守ったという人道貢献(実行者として)を世界記憶遺産に申請する資格・権利がある。
これは、日本国家ではなく、生きている日本民族日本人としての責務である。
日本人奴隷交易とA級戦犯の人道貢献には、その事実を証明する・裏付ける公文書・古文書・キリスト教会報告書など歴史的証拠が国内外に数多く残っている。
もし、日本の申請が認められないというのならば、ユネスコとイコモスによる世界遺産・世界文化遺産・世界記憶遺産には存在意義はない、無意味・無価値という事である。
日本人奴隷交易の責任の一端は、乱取りで捕らえた日本人を奴隷として外国人に売った日本人にもある。
A級戦犯が有罪となって見せしめ的リンチ縛り首で処刑にされた罪状は、政治家・官僚・軍人として戦争を始めた平和に対する罪であって、拷問・虐待・惨殺・虐殺を行った人道に対する罪ではなかった。
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