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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
外圧に弱いのは、現代に日本人であって昔の日本ではなかった。
昔の日本がガ圧に弱かったら、敵国に侵略されて、民族系の神話物語、天皇家、国家は滅亡す、民族の伝統・文化・歴史・宗教・言語は消滅していた。
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歴史的事実として、日本は被害者であって加害者ではない。
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2024年9月13日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「国家が崩壊するとき…「この国は外圧がないと変わらない」と言う人が「誤解していること」
岩尾 俊兵(慶應義塾大学商学部准教授
わたしたちはいつまで金銭や時間など限りある「価値」を奪い合うのか。ベストセラー『世界は経営でできている』では、気鋭の経営学者が人生にころがる「経営の失敗」をユーモラスに語ります。
※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。
悪法の栄え:社会制度には耐用年数がある
政権が「国民が生き生きとして幸せになれる共同体を作る」という本来の目的を忘れると、一時期に権力を握った勢力も徐々に民心を失っていく。
政治的腐敗が進み、民心を得られない政権下では、市民も真面目に働くのが馬鹿らしくなる。
こうして、一時期に権勢を誇った王国や文明は軍事力と経済力の両方をみずから手放す。その結果として、常日頃から存在していた危機に対処できなくなり、国家は崩壊するのだ。
国家が崩壊するときの悲喜劇は世界中で同じである。
特定の王国や文明が稚拙な国家経営によって弱体化したとき、まるで狙ったかのように危機(異民族の侵略、大災害と飢饉、内乱と革命などなど)がやってくる。これは当たり前の話である。常に危機は存在していて、政権が弱体化しないと危機は危機にならないだけだ。
こうした特徴から、「この国は外圧がないと変わらない」などと言い出す人も世界中で見られる。すべての国にとって外圧は今この瞬間も存在しているのにである。
弱体化した末期症状の政権は、さまざまな危機に対する無為無策無能ぶりをさらけ出す。それもそのはずで、世の中が変化し続けていて、危機への適切な対処法も変化しているのに、政権内で権力を得る人を選抜する方法は変わっていないためだ。
たとえば、歴史のある時代、ある場所では、ラテン語をマスターした人、聖書に通じた人、四書五経を丸暗記した人、字の綺麗な人、詩作が上手い人などが、当代最高のエリートとして処遇された。もちろん、こうした能力が通用した時代もあったのだろう。
しかし、もしも現代の公務員の選抜基準が変わらず、ラテン語や四書五経だったらどうだろうか。パソコンも使えない頭でっかちの人ばかりが公務員になるという恐ろしい結末が待っている。
日本の幕末においても儒学・朱子学を究めた幕僚たちは黒船来航に右往左往するばかりだった。むしろ黒船来航から続く外圧の危機に対処できたのは、当時最高の教養を誇っていた旗本・御家人ではなく、伝統的教養から比較的自由だった下級武士たちだった。
こうしたことから分かるように、制度と行政には耐用年数がある。
たとえば共和制ローマにおける元老院制度は、各氏族の意向を反映できるという意味で部分的に民主政治を実現していた。しかし、元老院制度は国内での絶えざる政治闘争を生み出すため、外征が頻繁になる時代には向かなかった。だからこそ、カエサル、オクタウィアヌス(アウグストゥス)といった独裁者が台頭し、徐々に帝政に移行していった。
現代では江戸時代の愚策の代表のように扱われる鎖国体制も同様である。
当時の江戸幕府にとっては、戦国時代を終結させて太平の世を実現することが最優先だった。そのため、キリスト教の流入と国際政治の影響による内政の混乱を避け、再び戦国の世に戻ってしまわないために、鎖国を決めたと考えられる。
しかし、鎖国による太平の世は、同時に、日本が外交に疎くなる原因を作った。
つづく「老後の人生を「成功する人」と「失敗する人」の意外な違い」では、なぜ定年後の人生で「大きな差」が出てしまうのか、なぜ老後の人生を幸せに過ごすには「経営思考」が必要なのか、深く掘り下げる。
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日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
日本の開国・幕末・明治維新・戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義・民族主義ではなく、正しい軍国主義・国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
軍国日本の戦争は、積極的自衛戦争であった。
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「海によって日本は守られてきた」と、愚にも付かない戯言を言い触らす高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達は歴史が理解できない。彼らの言う事は信用しない方が良い。
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西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷もしくは人間以下の家畜、自由に殺してかまわない獣であった。
バチカン、ローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
つまり、中世キリスト教会は日本人奴隷交易を「神の御名」によって容認・公認していた。
心ある善意な宣教師達は、全知全能の神から与えられた「神聖な使命」として、日本人を奴隷から救う為に積極的に布教活動を行い、数十万人の日本人をキリシタンに改宗して「神に愛される自由人」に引き上げていた。
それが、中世キリスト教会が説く「隣人愛の信仰」であり唯一絶対神の御言葉である「福音による救済・恩寵・奇蹟」であった。
豊臣秀吉と徳川家康の江戸幕府は、その事実を知り、日本人奴隷交易を禁止する為に元凶となっているキリスト教を邪教として禁教とし、非人道的なキリシタン弾圧をおこなった。
が、その歴史的事実がハッキリしているにもかかわず、現代日本の歴史教育は「日本人奴隷交易」を否定する事なく黙認している。
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鎖国下の江戸時代、日本の文化はあるがままでの共存と共生であり、日本の生き方は身の回りでの絆と繋がりであり、日本の生活は目の前の地産地消であった。
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鎖国政策とは、中国や東南アジアから疫病を入れない水際政策であったが、それでもコレラ、ペスト、梅毒、インフルエンザなど日本にはなかった伝染病が侵入して大流行を引き起こしていた。
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対中国・対朝鮮交易は、富をもたらしたが同時に疫病を引き入れる事になった。
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徳川時代、江戸経済はオランダを通じて西洋中心の世界経済に繋がっていた。
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歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・野伏せり・悪党、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義やマルクス主義に染まっていった。
江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
マルクス主義・共産主義の階級闘争史観やキリスト教の最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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少数の高学歴出身の裕福資産家・AI強者 vs. 多数の低学歴出身の貧困労働者・AI弱者。
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近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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徳川幕府は、アイヌ人が住む蝦夷地、北方領土を日本の固有領土として統治し守っていた。
ロシアは、千島列島を南下していたが樺太には進出していなかった。
第119代光格天皇(在位1779~1817)。
1785(天明5)年 老中・田沼意次は、ロシアの侵略を警戒して蝦夷地探索隊を派遣した。
1789(寛政元)年 徳川幕府は、アイヌの蜂起クナシリ・メナシの戦いの背後にロシアが策謀していると疑い警戒した。
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1792(寛政4)年 老中・松平定信の寛政日露交渉。
水戸学による攘夷運動の始まり、神国日本意識と攘夷気運が全国に伝播した。
日本民族と民族主義の誕生、創作された皇国史観と愛国主義、軍国主義政策の採択、軍国日本への暴走。
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2022-07-31
🏞75)─1─ルイ16世は蝦夷地・樺太調査目的でフランス艦隊を派遣した。1785年。~No.308
2022-08-01
🏞75)─2─イギリスの蝦夷地植民地化計画と徳川幕府の対応。1796年。~No.309
2022-08-03
🏞75)─3─ロシアの対日戦略目的は初期は友好・交易で中期以降は領土・植民地であった。~No.310
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1806(文化3)年 文化露寇。ロシア軍艦による北方領土・蝦夷地・樺太における海賊行為。
YAHOO!JAPANニュース 2017年1月12日 THE PAGE「ロシア帝国が日本を攻撃した「文化露寇」 択捉島神社に安置された大砲の姿
紗那神社と古砲(千島連盟提供)
終戦から70年以上経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。終戦直後の1945(昭和20)年8月28日から同9月5日にかけて、旧ソ連軍の侵攻により、北方4島が占領されました。北方領土で暮らしていた人たちは、その後自力脱出したり、残された人たちは、旧ソ連兵とその家族らとの混住生活を強いられた後、1947~48(昭和22~23)年にかけて、強制的に島を追われ、樺太を経由して日本本土へ送還させられます。
島で撮影された写真の大半は旧ソ連に没収されました。しかし、元島民でつくる千島歯舞諸島居住者連盟(千島連盟)は自力で脱出できた島民が命がけで持ち出した写真を中心に約560点を収集。古くなり、劣化したものも多くなってきたことから、平成24年度デジタル化して保存する作業を行いました。千島連盟は「集まった写真は人物を写したものが多いですが、背景などから、島の当時の様子を知る大切な資料と考え、大切に保存しています」と話します。人々の表情や景色、風習…。一枚一枚の写真に、元島民が生き生きと暮らしていた証があります。
今回、千島連盟からそれらの貴重な写真の提供を受けました。
1800年ごろから、ヨーロッパ列強による日本接近が始まります。特に、通商を求めたロシア船が蝦夷地や根室など日本北方にたびたび現れるようになりました。将軍家斉の治世だった文化3ー4(1806ー1807)年には、ロシア帝国の外交使節ニコライ・レザノフが部下に命じ、日本の北方拠点を攻撃させたいわゆる「文化露寇」が発生します。
中でも、択捉島の中心地、紗那(しゃな)は、ロシア側からの銃撃や艦砲攻撃にさらされ、警護していた津軽・南部藩兵士が撤退。紗那の幕府会所は、ロシア兵が倉庫の米や美術品、武器などを略奪後、放火し、焼失します。責任者だった箱館奉行支配調役下役・戸田又太夫は撤退中に自刃しました。
この事件は、幕府が鎖国体制の維持と、海防強化に努めるきっかけになります。このロシアによる襲撃事件から間もない文政年間に造られたとされる大砲を安置した紗那神社の写真が残っていました。」
1807(文化4)年 徳川幕府は、蝦夷地防衛の為に東北諸藩に派兵を命じた。
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日本の積極的自衛戦争戦略はこの時から始まった。
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フランスやプロイセンなど西洋列強は、北太平洋航路を独占する為に蝦夷地(北海道)を植民地にするべく動いていた。
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徳川幕府は、ロシアなどのキリスト教国の軍事侵略・宗教侵略から日本を守る為に伊能忠敬に日本地図作成を命じた。
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徳川幕府は、戦争をしても日本を守るという覚悟の積極的平和主義から近代海軍を建設するべくオランダから蒸気軍艦を購入し、旗本・御家人を近代軍隊に改編する為に蘭学者達に命じて西洋軍隊を参考にして軍制改革や人材育成を進めた。
各藩も、西洋諸国から競って軍艦を購入・建造していた。
幕末日本は、海軍国として29隻の蒸気軍艦を所有していた。
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神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
徳川幕府の外交方針である経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、キリスト教布教をしない事を受け入れていただけに排除すべき攘夷の対象ではなかった。
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ロシアの日本侵略は、ヨーロッパ戦争と連動していた。
1729年~1796年 ロシア女帝エカテリーナ2世(ドイツ人将軍の娘)。
ロシアの海外戦略は、1,ウクライナ、黒海、バルカン半島への領土拡大、2,アラスカ・北米大陸の開拓、3,日本との交易であった。
1789年(~99年) フランス革命。
1796年~1815年 ナポレオン戦争。
1812年 ナポレオンのモスクワ遠征。
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1689年 ネルチンスク条約。ロシア帝国と清王朝は、国境線を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川(アムール川上流)を結ぶ線に定めます。
1858年アイグン条約。ロシアは、アムール川(中国名は黒竜江)以北のシベリアの地を強引に割譲させロシア領とした。
1860年 北京条約。ロシアは、アロー戦争に介入し英仏連合軍が北京を占領した所で講和を斡旋し、その見返りとしてウスリー川以東の沿海州を獲得し沿海州の南端の地にウラジオストクを建設した。
ロシアは、不当な手段で手に入れた領土は戦争に負けて奪われない限り返還する事はなかった。
ウラジオストクは冬でも凍らない不凍港で、日本海を南下して中国、朝鮮、日本への侵出を手に入れたが、目障りなのはウラジオストクにある樺太が日本の勢力圏にある事であった。
ロシアは、樺太を自国領にする為にロシア人の軍人や囚人を上陸させて、反日的先住民を味方につけ日本人や親日派アイヌ人に対する暴力事件を頻発させた。
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2018-12-23
🏞107)─1・A─アメリカ海軍は小笠原諸島と琉球王国を領有する為に占拠した。蕃書調所。1855年~No.413・ @
2021-12-04
🏞114)─1・A─水野忠徳と小笠原諸島。徳川幕府の優れた先見性と高い外交交渉力。1861年12月。~No.448No.449No.450
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2019-01-02
🏞114)─2─禁門の変。四ヵ国艦隊下関砲撃事件。ベルギー国王レオポルド2世は、日本を植民地とし所望した。1863年~No.451No.452No.453 @
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明治8(1875)年 樺太・千島交換条約。明治新政府は、ロシアとの戦争を避ける為に樺太問題を解決すべくロシア領千島との交換条約を結んだ。
日本側の戦略的利点は、ロシア海軍をウラジオストクと樺太の日本海内に封じ込め、宗谷海峡・津軽海峡・対馬海峡を抑えてしまえば太平洋への航路を遮断する事ができた。
ロシアの対アジア政策とは、限られた軍団と艦隊による日本海支配であって、大軍団と大艦隊による日本侵略ではなかった。
日本海を手に入れる為に、陸軍は満州から遼東半島・朝鮮半島に軍事要塞都市を建設して防衛軍団を配備し、海軍は対馬と樺太を手に入れ旅順・対馬・ウラジオストクを軍港要塞都市として守備艦隊を配置する、であった。
1891(明治24)年 ロシアはシベリア鉄道敷設工事を始めた。
文久元年の農奴解放以来、ロシアの農村は余剰労働力を抱えていた。農民の不満の高まりは、ロシアにとって命取りになる。そこで、鉄道沿線のシベリアへ、農民の入植を促進するのが最大の目的であった。
日本は、シベリア鉄道は軍事目的と見なして警戒し、ロシアとの戦争に備えて軍国主義政策を採用し、強権を持って国民生活を犠牲にして軍拡を進めた。
イギリスは、上海・香港の中国利権をロシアから守る為に日本に接近した。
日露戦争は不可避となり、開戦のその時が刻々と迫っていた。
日本の戦争は、領土拡大の帝国主義的侵略戦争ではなく祖国防衛の民族主義的自衛戦争であった。
明治33(1900)年7~8月 江東六十四屯虐殺(黒竜江=アムール川の悲劇)。
8月2日から3日 黒龍江・アイグン事件。ロシア軍兵士約2,000人は清国人移住者約2万5,000人を大虐殺した。
日本人は、ロシア人の蛮行に恐怖し激怒し復讐を誓った。
軍事力のない国は、如何に道理や信義があろうとも被害者として滅び滅亡する。
その事実を知っていた近代国家日本は、軍国主義政策を採用して国力(経済力・軍事力=民力)強化に努めた。
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弱小国日本にとって、強大国ロシアとの日露戦争は避ける事ができない戦争であった。
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日本には、大航海時代の中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易(被害者として)と日本軍部・陸軍・A級戦犯によるポーランド・ユダヤ人難民(数万人)をホロコーストから守ったという人道貢献(実行者として)を世界記憶遺産に申請する資格・権利がある。
これは、日本国家ではなく、生きている日本民族日本人としての責務である。
日本人奴隷交易とA級戦犯の人道貢献には、その事実を証明する・裏付ける公文書・古文書・キリスト教会報告書など歴史的証拠が国内外に数多く残っている。
もし、日本の申請が認められないというのならば、ユネスコとイコモスによる世界遺産・世界文化遺産・世界記憶遺産には存在意義はない、無意味・無価値という事である。
日本人奴隷交易の責任の一端は、乱取りで捕らえた日本人を奴隷として外国人に売った日本人にもある。
A級戦犯が有罪となって見せしめ的リンチ縛り首で処刑にされた罪状は、政治家・官僚・軍人として戦争を始めた平和に対する罪であって、拷問・虐待・惨殺・虐殺を行った人道に対する罪ではなかった。
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