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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
中華帝国において、日本が朝鮮や琉球とは違う別格扱いされたのには理由があった。
日本は、極東アジアの中でも特別・特殊な存在であった。
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儒教では、日本人は東海の蛮族「東夷」、海賊「倭寇」であった。
中華思想の華夷秩序では、上位が中国(教養高き文明人)で、中位が朝鮮(常識を持った礼法の民)で、下位が日本(未開の野蛮人)であった。
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道教では、日本列島は東海にある三神山の一つ「瀛洲(えいしゅう)」で、日本民族日本人は仙人ではないが神仙島に住む事を許された特異な人々の事であった。
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中華世界における「東海」とは、地理・地形や方向ではなく、道教の神仙思想であった。
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劉禹錫(りゅううしゃく)「山不在高、有仙則名(山は高きに在らず、仙有らば即{すなわ}ち名あり=山は高いだけでなく、仙人がいるかどうかで評価される)」
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2021年11月号 Hanada「知己知彼 石平
中国人の『日本観』の変遷(中)
前回の本欄は、秦の始皇帝の時代から唐代までの中国人の『日本観』の一端を垣間見た。古代中国の為政者や知識人たちにとって、海の向こうの日本は憧れの仙人の栖(すみか)であり、『雅風(がふう)のある文明国家』だったのである。このような日本観は古代から受け継がれ、中国最後の王朝である清王朝の時代においても、多くの中国人が抱いたものだった。
江戸時代末期から明治初期にかけて、中国の一部のエリート知識人が日本にやってきて、この憧れの地を実際に見聞した。たとえば1854年、米国のペリー艦隊が二回目に日本に来航したとき、羅森という広東省出身の知識人が随員としてペリーに同行し、下田や横浜に数回上陸。彼は帰国後に刊行した『日本日記』のなかで、自分の見た日本の様子をこう記している。
『いわば善政というのは地方によって違う。日本という国は中華より小さいけれども、横取略奪という気風は見なかった。その住居の玄関も張り紙であるが、盗賊の害もない。これによって治安の様子が分かる』
中国では昔から、『善政』(良き政治)が行われている時代の様子を描くときに使う常套句(じょうとうく)に、『夜不閉戸、路不拾遺』(夜になっても家が戸締まりしない、道端でお金などが落ちていても誰も拾わない)があり、羅森は江戸の日本でまさに『善政』が行きわたっていることを賛美しているのである。
明治時代になると、清王朝が日本に使節を派遣することとなり、多くの知識人官僚が実際に日本を見る機会を得た。何如璋(かじよしょう)は1877年に駐日公使として来日、のちに刊行した『使東述略』において、長崎で見た日本人の生活ぶりをこう描写している。
『日本人はきれい好きで、街もよく掃(は)き清められている。・・・客が来れば畳の上に座り、火鉢を囲んで茶をたてて客に出したり煙草(たばこ)を勧めたりする。家屋は小さくても庭には必ず花木を植え、池を掘って魚を飼い、生活には優雅な趣(おもむき)がある』
何如璋の『生活には優雅な趣がある』との一文を読んでいると、前回の本欄で取り上げた、唐王朝の魏徴(ぎちょう)らが編纂した『隋書・倭国伝』の『有雅風』(雅風あり)という表現を思い出す。『雅』という中華世界の最高の褒め言葉は、中国のエリート知識人が日本のことを描くときによく使う定番の表現となっていた。
近代になってから特筆すべき出来事の1つは、日清戦争が終結してから中国人留学生の大挙来日である。日清戦争における日本の圧倒的勝利は、明治維新以来の日本の近代化を当時の中国人に強く印象付け、『師法東洋』(日本に学ぼう)が時代の風潮となった。
最初の中国人留学生13名が清国政府によって日本に送られた1896年以来、年々その数は増え、官費・私費留学を含めて1906年には1万人を超え、1910年には数万人に達した。
こうして20世紀初頭の十数年間、数万人単位の中国人が日本へ留学してきて、史上空前の『日本留学大ブーム』を巻きおこした。彼らは日本で、政治・歴史・法律・文学・自然科学・商業・美術などあらゆる分野の新知識を学んで中国に持ち帰った。そしてそのことが、幅広い分野における中国の革命的変化を引き起こした。中国の近代化は彼ら日本留学組お手で進められていった。
1911年に起きた中国版近代革命と称される辛亥(しんがい)革命の主力、汪兆銘などはまさに日本留学帰りである。
革命の結果、1912年に清王朝が崩壊すると、中国史上最初の共和国である中華民国が成立、衆参両院からなる議会も設立された。1916年時点での中華民国衆参両院議員439名のうち、181名が日本留学組であって、議長クラスの4名全員が日本への留学経験者だった。
中華民国はやがて軍閥たちによって乗っ取られたが、1927年、日本で軍事を学んだ蒋介石が国民革命軍を率いて各方面の軍閥を撃破し、南京で新しい国民政府を再建する。この国民政府を構成する81名の『政府委員』のうち、約半分の40名が日本留学組である。南京国民政府の中枢には、日本留学帰りの汪兆銘や何応欽(かおうきん)、戴季陶(たいきとう)、張勲(ちょうくん)などの重要な歴史的人物もいた。
こうしてみると、明治になってからの日本は、中国知識人にとって引き続き『雅風の文明国家』であったと同時に、多くの中国人にとって日本こそ近代国家建設の見本であって、近代文明を学ぶための大事な師範格ということが分かる。
『近代文明を教えてくれる大事な師』。これこそ、近代における中国人の対日認識だったのである。」
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ウィキペディア
瀛洲(えいしゅう)は、
古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱・方丈)の一つ。
転じて、日本を指す。「東瀛(とうえい)」ともいう。日本の雅称である。
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デジタル大辞泉デジタル大辞泉
さん‐しんざん【三神山】
中国の古伝説で、東方絶海の中にあって仙人が住むという蓬莱(ほうらい)・方丈・瀛州(えいしゅう)の三つの山。
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日本大百科全書(ニッポニカ)「三神山」の解説
三神山 さんしんざん
中国の伝説上の神山。渤海(ぼっかい)湾中にあるといわれる蓬莱(ほうらい)山、方丈(ほうじょう)山、瀛洲(えいしゅう)山の三山をいう。その発生には、蜃気楼(しんきろう)説、山岳信仰説など諸説がありはっきりしないが、戦国時代(前5~前3世紀)の燕(えん)、斉(せい)の国の方士(ほうし)(神仙の術を行う人)によって説かれ、そこには仙人が住み、不老不死の神薬があると信じられた。戦国末期の燕、斉の諸王や秦(しん)の始皇帝(しこうてい)、あるいは漢の武帝(ぶてい)などが使者を出して海上にその神山を探させ、不死の薬を得ようとした。伝説によると、三神山は海岸から遠く離れてはいないが、人が近づくと風や波をおこして船を寄せつけず、建物はことごとく黄金や銀でできており、すむ鳥獣はすべて白色であるという。こうした記事は司馬遷(しばせん)の『史記』封禅書(ほうぜんしょ)に詳しく記されており、それは神仙説についての最古の記録とされる。しかし後世では説話のなかに伝承されて、むしろ神仙境の象徴的存在となっている。一説に、戦国時代における海上交易の盛行を裏づけるものともいわれる。
[山田利明]
[参照項目] | 蓬莱山
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日本大百科全書(ニッポニカ)「蓬莱山」の解説
蓬莱山 ほうらいさん
中国古代の戦国時代(前5~前3世紀)、燕(えん)、斉(せい)の国の方士(ほうし)(神仙術を行う人)によって説かれた神仙境の一つ。普通、渤海(ぼっかい)湾中にあるといわれる蓬莱山、方丈(ほうじょう)山、瀛洲(えいしゅう)山の三山(島)を三神山と総称し、ここに仙人が住み、不老不死の神薬があると信じられた。この薬を手に入れようとして、燕、斉の諸王は海上にこの神山を探させ、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)が方士の徐福(じょふく)を遣わしたことは有名。三神山中で蓬莱山だけが名高いのはかなり古くからで、漢の武帝(ぶてい)のとき方士の李少君(りしょうくん)が上疏(じょうそ)して蓬莱山について述べ、のちに渤海沿岸に蓬莱城を築いていることからも明らかである。また唐代には蓬莱県が設置され、李白(りはく)、白居易(はくきょい)、杜甫(とほ)、王維(おうい)などの詩人たちによって、蓬莱山が福(ふく)・禄(ろく)・寿(じゅ)の象徴として歌われている。日本でももっぱら蓬莱山のみ詩歌や絵画の題材として用いられ、庭園様式にもみられるのは、おそらく唐代ころの普遍化された蓬莱像がそのまま伝わったためであろう。
[山田利明]
[参照項目] | 三神山
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仙人(せんにん)また神仙(しんせん)、真人(しんじん) 、仙女(せんにょ)は、中国本来の神々(仏教を除く)や修行後、神に近い存在になった者たちの総称。神仙は神人と仙人とを結合した語とされる。仙人は仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得たもの。本来、仙は僊と書き、『史記』封禅書では僊人、『漢書』芸文志では神僊と記される。もともと神である神仙たちは、仙境ではなく、天界や天宮等の神話的な場所に住み暮らし、地上の山川草木・人間福禍を支配して管理す。仙人や神仙はいずれも自分の体内の陰と陽を完全調和して、道教の不滅の真理を悟った。彼等は道教の道(タオ)を身に着けて、その神髄を完全再現することができる。基本的に仙人という言葉は男性に指すが、女性の仙人もかなりいる。
「道教用語一覧」および「wiktionary:ja:仙人」も参照
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日本大百科全書(ニッポニカ)「仙人」の解説
仙人 せんにん
漢民族の古くからの願望である不老不死の術を体得し、俗世間を離れて山中に隠棲(いんせい)し、天空に飛翔(ひしょう)することができる理想的な人をいう。僊人とも書く。中国、戦国末(前3世紀)に山東半島を中心とする斉(せい)・燕(えん)(山東省、河北省)の地に発生した神仙説が、その後、陰陽家(いんようか)の説を取り入れた方士(ほうし)(呪術(じゅじゅつ)の実践者)によって発展し、さらに道家思想と混合して成立した道教によって想像された。『史記』の「秦始皇本紀(しんしこうほんき)」18年に「斉人徐(じょふつ)、上書していう、海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という。僊人(せんにん)これにいる。請(こ)う斎戒(さいかい)して童男女とともにこれを求むることを得ん、と。ここにおいて徐をして童男女数千人を発し、海に入りて僊人を求めしむ。」と記され、すでに秦代に海中の三神山に僊人がいると考えられていた。漢の武帝も、この僊人を尊んで、封禅(ほうぜん)(天子が行う天地の祭り)を修め、祀祠(しし)を設けている。仙人は、初め僊人といわれていた。の意味は、『説文解字(せつもんかいじ)』には「高きに升(のぼ)るなり」とあり、遷も「高きに登渉する」とある。僊の本義も「飛揚升高」で、これらはいずれも「高い所に昇ること」であった。そこで僊人とは、人間が高い所に昇って姿を変えた者と考えていたと思われる。仙の字も『釈名(しゃくみょう)』「釈長幼」に「老いて死せざるを仙という。仙は遷なり。山に遷入するなり」とあるので、世俗を離れて山中に住み、修行を積んで昇天した人を仙人と考えていた。この仙人も、六朝(りくちょう)時代になると、服用する仙薬などによっていろいろな段階があるとされた。『抱朴子(ほうぼくし)』では、天仙・地仙・尸解仙(しかいせん)(魂だけ抜けて死体の抜け殻となるもの)の三つに区分し、そして、仙人になる方法として、導引(どういん)(呼吸運動)、房中術(ぼうちゅうじゅつ)、薬物、護符、精神統一などがあるとしている。
中国には多くの仙人がおり、『荘子(そうじ)』には、800年も生きた彭祖(ほうそ)や、崑崙山(こんろんさん)に住む西王母(せいおうぼ)が記され、『史記』の「封禅書(ほうぜんしょ)」や『漢書(かんじょ)』の「郊祀志(こうしし)」には、安期生(あんきせい)、羨門子高(せんもんしこう)、宋母忌(そうむき)、正伯僑(せいはくきょう)、克尚(こくしょう)などの古仙人の名がみえる。また、それらを人間に仲介する方士(ほうし)としては、盧生(ろせい)、韓衆(かんしゅ)、李少君(りしょうくん)などが出ている。仙人の伝を記した最初の書は、前漢末に劉向(りゅうこう)が撰(せん)したとされる『列仙(れつせん)伝』で、そこには赤松子(せきしょうし)、馬師皇(ばしこう)、黄帝(こうてい)、握佺(あくせん)など70余人が記されている。また続いて出た葛洪(かっこう)の『神仙伝』にも、広成子(こうせいし)、老子(ろうし)、彭祖、魏伯陽(ぎはくよう)、河上公(かじょうこう)など92人の伝がみえる。そのほか『続仙伝』(南唐、沈汾(ちんふん)撰)、『仙伝拾遺(せんでんしゅうい)』(前蜀(ぜんしょく)、杜光庭(とこうてい)撰)、『集仙伝』(宋(そう)、曽慥(そぞう)撰)などがあり、『雲笈七籤(うんきゅうしちせん)』にも仙人の伝がある。清(しん)の『古今図書集成』「神異典」には、上古より清初までの仙人、1153人が網羅されており、中国にいかに多くの仙人がいたかを示す。
インドの仙人は、サンスクリット語でリシi、パーリ語ではイシisiといい、「聖仙」「聖人」「賢者」などとも漢訳されているが、これらは、中国の仙人の観念が仏教経典のなかに持ち込まれたものであろう。『マヌ法典』は、マリーチ仙など34人の偉大な仙人、すなわち大仙(たいせん)(マハリシmahai)をあげており、また7人の大仙の名もよくあげている。原始仏教経典の詩句(頌(じゅ))では、釈尊(しゃくそん)や諸仏のことも仙人の一種とみなしている。
中国およびインドの仙人は日本にも伝わり、天平(てんぴょう)年間(729~749)に三仙人とよばれた大伴(おおとも)仙人、安曇(あずみ)仙人、久米(くめ)仙人の伝説がみえている。大江匡房(まさふさ)の『本朝神仙伝』には、弘法(こうぼう)大師(空海)、沙門(しゃもん)日蔵、慈覚(じかく)大師(円仁(えんにん))などの僧が仙人とされ、虎関師錬(こかんしれん)の『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』神仙の項にも白山明神(はくさんみょうじん)、新羅(しんら)明神、法道(ほうどう)仙人、陽勝(ようしょう)仙人など13人の伝が記されている。
[中村璋八]
『村上嘉実著『中国の仙人』(1956・平楽寺書店)』▽『本田済・沢田瑞穂・高馬三良訳『中国の古典シリーズ4 抱朴子/列仙伝・神仙伝/山海経』(1973・平凡社)』
[参照項目] | 神仙思想
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東アジアの華夷秩序では、日本は上位で、琉球が中位で、朝鮮は最下位であった。
優雅 朝鮮が恨の心情で日本を嫌ったのは、儒教原理主義である朱子学の華夷秩序に基づいた上下関係からではなく、中華世界で特別待遇を受けている事への嫉妬である。
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モンゴル族・元朝と満州女真族・清朝以外の歴代中華帝国が日本を侵略しなかったのは、儒教や仏教ではなく道教が影響していた。
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道教に於いて、山東半島の先、東海に浮かぶ日本国は、仙人が住む冒してはならない穢してはならない神聖な神仙境であった。
何故か、それは老荘思想が説く宇宙の根源的真理である「道(タオ)」が日本にはあると信じられていたからである。
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天皇家・皇室の宮中祭祀は、石器時代・縄文時代からの自然崇拝にゾロアスター教・原始キリスト教・道教・仏教・その他の世界中の数多くの宗教要素が入り込み混ざった日本民族の象徴的宗教祭祀である。
反宗教無神論と反天皇反民族反日本のマルクス主義・共産主義は、神仏を否定し、宗教を破壊している。
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中国人の教養人と言っても、清王朝・孫文の中国国民党までの儒教価値観を身に付けた教養人と共産主義に毒され虐殺を繰り返してきた血に飢えた中国共産党統治下の教養人では全然違う。
つまり、同じ中国と行っても両者の間には明確に超えられない高い壁・深く広い溝が存在する。
現代日本人は、愚かにも、昔の好ましい中国像で現代の中国共産党を見ている。
昔の中国と現代の中国共産党は別物で繋がりはない。
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