🏞111)─1・B─百姓や町人は努力・学識・実績・業績で幕臣となった。柴田収蔵。~No.430No.431No.432 

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 江戸時代の身分制度には、マルクス主義共産主義階級闘争史観・人民革命論は無意味である。
 現代のマルクス主義思考的作家が書く時代劇の多くは有害である。
 昔の日本は、現代の日本とは違って世界の非常識で、一口では説明できないほど特殊・特別であった。
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 日本の武士は、西洋の騎士とは違うし、中国の士大夫・読書人・武人・武芸家や朝鮮の花郎両班・武官とも違う。
 中国や朝鮮には、武士は存在しない。
 現代日本には武士はいない、現代日本人は武士ではない。
 武士道神話は偽物である。
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 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
 柴田収蔵 しばた-しゅうぞう
 1820-1859 江戸時代後期の地理学者。
 文政3年6月26日生まれ。中根半仙に漢学・書画を,伊東玄朴(げんぼく)に蘭方を,山路諧孝(ゆきたか)に天文地理をまなぶ。天文方手伝をへて,安政3年(1856)蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の絵図調出役となる。「新訂坤輿(こんよ)略全図」などを作成。安政6年4月10日死去。40歳。佐渡(新潟県)出身。姓は新発田ともかく。名は耘(うん)。字(あざな)は士登。号は拗斎,半嶋漁人。
 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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 測量・地図ミニ人物伝:柴田収蔵
 「測量・地図ミニ人物伝」
 柴田収蔵 (1820-1859)
 「柴田収蔵自画像」(東洋文庫より)
 柴田収蔵(しばたしゅうぞう)は、佐渡(さど)の四十物師(あいものし:魚のひものなどをつくることを仕事とする)で、名主でもあった長五郎の子として生まれました。
 彼は、小さいときから読書が好きで、書や図書を写すことをこのんでしたといいます。
 16歳の時から佐渡の石井夏海に絵などを学んでいましたが、絵図師量や地図作成も学んでふるさとに帰りました。
 佐渡では、医業(いぎょう:いしゃ)を開いたものの、ここでも地理や地図に対する魅力(みりょく)に勝てず、地図の作成を始めます。
 そして、自分で作った地球図を持って、江戸に出て、古賀謹一郎という先生につき、こんどこそ念願の?地理学の指導をうけました。
 先生が幕府洋学所頭取(ばくふようがくしょとうどり)につくと、ここに採用され、地図作成にあたりました。
 洋学所では、最新の情報が入った多くの地図を作成しましたが、長年の大酒がたたったのか40歳で亡くなりました。幕末に佐渡が生んだ異色の地理学者です。
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 柴田収蔵(しばたしゅうぞう 1820-1859)
 地理学者、「新訂坤輿略全図」などの製作者。
 柴田収蔵は、文政 3年佐渡宿根木の四十物師(あいものし:魚・干物加工業)で名主の長五郎の子として生まれた。小さいときから読書が好きで、書や図書を写すことを好んでしたといい、16歳の時から当地の石井夏海に絵画と篆刻を学んだ。
 当時、佐渡奉行所の地方(じかた)付絵図師であった石井夏海(1783-1848)は、江戸に出て司馬江漢から西洋式の測量術を学び、そのころ伊能忠敬の作成した「佐渡実測図」の修正を命じられていた。この石井に腕を見込まれた収蔵は、彼にすすめられて天保10年(1839)20歳の時に江戸で出て、地図技術者を目指して篆刻を学んだ。
 帰郷後は、引き続き石井夏海・文海父子の地図作成などの仕事を手伝うことになる。そして天保13年、忠敬の図が訂正されて、「佐渡一国山水図」として完成する。収蔵は、石井氏のもとで勤めながら、師が所蔵する「三国通覧」「伊能図」「蝦夷之全図」「天経或門」などの多くの地図と地理・天文書にふれる。そして翌年、再び江戸に出るのだが、なぜか異なる道を目指す。
 シーボルトに学んだ蘭学者伊東玄朴に師事し、医学・蘭学をおさめるのである。当時も庶民の子が医者になることは名誉であり、高い収入が保証されていたこともあるが、彼にとっては周囲を納得させるための手段でもあった。彼は、医学を学ぶ傍らで幕府天文方山路諧孝に測量・地図作成を学んで帰郷した。その後、故郷宿根木の称光寺末寺で医業を開いたが(1845)、地理や地図に対する魅力に勝てず、医業の傍ら「万国全図」の製作にも力を注ぐ。
 そして、小木の医師柴田昌琢の養子となって柴田姓を名乗り、自らが製作したこの楕円の地球図「改正地球万国全図、地球萬国山海輿地全図説」(1848出版)を持参して、三度目の江戸遊学を果たした(嘉永3年 1850)。このとき、師となる古賀謹一郎に同図の評を請うと同時に、こんどこそ念願の地理学の指導を受ける。
 師の古賀が幕府洋学所頭取に就くと、絵図調出役に採用された(安政2年 1855)。佐渡宿根木の商家の子倅が無類の出世をしたことになる。
 収蔵が作成した地図は、この「改正地球萬国全図、地球萬国山海輿地全図説」のほか、洋学所が改称された蕃所調所で手がけた1854年刊の「蝦夷接壌全図」、1852年刊の「新訂坤輿略全図」がある。「蝦夷接壌全図」は、山地表現にヨーロッパから地図から転用した「ケバ」を用いた最初のものではないかと思われ、正確な経緯度やスケールもついている。一方、卵型世界図「新訂坤輿略全図」には、島となった樺太のほか、アルジェリアのフランス領編入、ボストンやニューヨークの記入など最新の情報が盛られ、彼の研究の確かさを知ることができる。
 柴田収蔵は、幕末に佐渡が生んだ異色の地理学者であった。残念なことに、長年の大酒がたたったのだろうか蕃所調所の在職中に40歳で亡くなった。
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 佐渡市
 佐渡市指定 有形文化財:柴田収蔵世界図
 記事ID:0005056 更新日:2021年3月1日更新 印刷ページ表示
 佐渡市指定 有形文化財
 柴田収蔵世界図(しばたしゅうぞうせかいず)
 柴田収蔵世界の画像
 指定種別(員数) 古文書(1幅)
 指定年月日 平成16年3月1日
 所在地 佐渡市宿根木
 所有者または管理者 個人蔵
 柴田収蔵は小木地区宿根木出身の幕末有数の地図学者である。20歳のときに宿根木の廻船に乗って金比羅を参詣した際、船中で蘭医に出会ったことなどがきっかけとなり蘭方医学に興味を持ち、天保14年(1843)に江戸に出て蘭医伊東玄朴について蘭方医学を学んだ。やがて世界地図にも興味を持つようになり、嘉永元年(1848)に卵形式の世界地図「新訂坤与略全図」を作成し、安政元年(1854)には「蝦夷接壌図」を作成した。その後、安政3年に天文方山路諧考の推挙で天文方手伝となり、翌年には蕃書調所の絵図調出役を命ぜられ出仕したが、同年に40歳で没している。
 この世界図は、世界を地球的視野において作図する意図を持った、当時としては先進的で正確な世界図であり、歴史資料として貴重である。
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柴田収蔵日記―村の洋学者〈1〉 (東洋文庫)