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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
戦国時代。キリスト教伝来とは、中世キリスト教会やイエズス会伝道所群による宗教侵略であり、白人キリスト教徒商人による日本人交易である。
バチカンのローア教皇は、スペイン帝国とポルトガルによる日本侵略を承認していた。
彼らの陰謀を食い止めるべくキリシタンを弾圧したのが、豊臣秀吉と徳川家康、徳川幕府であった。
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日本へのキリスト教伝来を例えるなら、それは「地獄への道は善意で舗装されている」であった。
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2026-04-25
⚔13)─2─西洋の宗教侵略。ローマ教皇ニコラウス5世による異教徒人身売買許可そして日本の悲惨。〜No.42
2020-06-29
⚔14)─2─イエズス会の陰謀。日本征服計画。日本キリスト教国家計画。アイヌや琉球への布教。~No.49
2025-03-20
⚔30)─6・④─海外へ売り飛ばされた日本の少年少女。豊臣秀吉の人道貢献。~No.125
2018-09-16
⚔47)─1─敬虔なキリシタンは、神の王国を九州に建国し分離独立する事を望んだ。~No.200No.201No.202 @
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2026年10月23日 YAHOO!JAPANニュース「秀吉はなぜ忠臣・高山右近から6万石を奪ったのか…棄教拒否の背後にあった思惑
高槻城跡の高山右近像(写真:イメージマート)
豊臣秀吉は、天下取りに貢献した忠実な家臣であっても、容赦なく処罰することがあった。その代表例が、キリシタン大名として知られる高山右近である。右近は秀吉の天下取りに貢献し、播磨国明石6万石を与えられた功臣だった。それにもかかわらず、秀吉は右近から領地を取り上げ、追放してしまったのである。
右近が処罰された直接の理由は、キリスト教の信仰を捨てなかったことにあるが、秀吉はそれまでキリスト教の布教を容認していた。なぜ秀吉は方針を転換し、忠実な家臣を処罰したのだろうか。その背景には、天下統一を進める秀吉の宗教政策と、大名を統制しようとする政治的な狙いがあったと考えられる。
秀吉の天下取りを支えた忠実な家臣・高山右近
高山右近は天文21年(1552)、摂津国の高山氏の家に生まれた。少年時代に父・友照とともにキリスト教の洗礼を受け、ジュストという洗礼名を与えられた。のちに、右近は摂津国高槻城主となり、織田信長に仕えた。
天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長が横死すると、右近は羽柴秀吉に味方し、山崎の戦いで明智光秀と戦った。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いにも秀吉方として参加し、その後も秀吉に仕え続けた。秀吉が勢力を拡大する過程で、右近は重要な役割を果たしたのである。
天正13年(1585)、右近は摂津高槻から播磨国の明石へ移され、6万石を与えられた。右近は明石でも教会を建設するなど、キリスト教の布教に熱心だった。右近は黒田官兵衛や小西行長らがキリスト教に入信するうえでも影響を与え、キリシタン武将の中心的な存在になっていたのである。
秀吉はなぜキリスト教を危険視するようになったのか
天正15年(1587)、秀吉は九州征伐を行い、島津氏を降伏させた。その後、博多周辺に滞在していた秀吉は、キリスト教に対する政策を大きく転換する。同年6月18日付の11カ条の「覚」では、キリスト教の信仰は本人の意思によるべきものとし、領主が領民に入信を強制することを禁じた。
また、一定規模以上の領地を持つ者がキリスト教に入信する場合、公儀の許可を得ることも求めた。注目すべきは、キリシタンの結束を一向宗と比較していることである。「覚」では、一向宗が加賀国で領主を追放し、政治的な勢力となったことを挙げ、キリシタンにも同様の危険があると警戒していた。
つまり、秀吉はキリスト教の信仰そのものだけでなく、宗教によって結束した集団が政治的な力を持つことを問題視していたのである。さらに、翌19日付の5カ条の「定」では、日本を「神国」と位置づけ、宣教師による布教や神社仏閣の破壊を非難した。
そして、宣教師に20日以内の国外退去を命じた。これが一般に「伴天連追放令」と呼ばれるものである。一方、秀吉はポルトガル船による貿易を引き続き認めた。布教と貿易を区別し、南蛮貿易の利益は確保しようとしたのである。
なぜ高山右近は領地を没収されたのか
天正15年(1587)6月19日、秀吉は高山右近にキリスト教の信仰を捨てるよう命じたが、右近はこれを拒否した。右近にとって、秀吉の命令に背くことは、大名としての地位を失うことを意味した。それでも右近は信仰を守り、明石6万石を没収されて改易となったのである。
ここで重要なのは、右近以外にもキリシタン大名が存在していたことである。小西行長や有馬晴信らもキリスト教を信仰していたが、右近と同じように全員が改易されたわけではなかった。6月18日付の「覚」も、すべてのキリシタンに棄教を命じたものではない。
なぜ右近に厳しい対応が取られたのかという問題が残る。右近はキリシタン武将の有力者だったため、その処分には、宗教上の結びつきよりも秀吉への服従を優先させるという政治的な意味があったと考えられる。もっとも、秀吉が右近を見せしめにする意図を持っていたと明言する史料があるわけではない。
右近自身が領民に改宗を強制したことを、改易の直接的な理由と断定することもできない。改易後、右近は小西行長の庇護を受け、小豆島などに身を寄せた。天正16年(1588)には加賀国の前田利家に迎えられたが、信仰を捨てることはなかった。
まとめ
秀吉が高山右近から領地を奪った直接の理由は、右近が棄教命令を拒否したことだった。しかし、その背景には、宗教勢力を統制し、大名たちを自らの命令に従わせるという政治的な課題があった。秀吉は、家臣がキリスト教を信仰することを一律に禁止したわけではなかった。
にもかかわらず、右近には棄教を迫り、拒否されると改易したのである。右近は武将として秀吉に忠実だったが、信仰だけは譲らなかった。秀吉にとっては天下の支配者としての権威が重要であり、右近にとっては領地や地位よりも信仰が重要だった。その価値観の衝突が、右近の改易につながったと考えられる。
その後、右近は慶長19年(1614)、徳川幕府の禁教政策によって国外へ追放され、翌年、フィリピンのマニラで生涯を閉じた。秀吉に領地を奪われても、最後まで信仰を捨てることはなかったのである。
※今後もこのテーマで記事を投稿して参りますので、著者フォローして温かく見守っていただけたら嬉しいです。
渡邊大門
株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に、『論争 本能寺の変』星海社新書『羽柴秀長と豊臣政権 秀吉を支えた弟の生涯』ちくま新書、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。
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キリシタン大名の一覧
九州
大友義鎮(宗麟)
有馬晴信
大村純忠
関西
高山右近
小西行長
蒲生氏郷
黒田孝高
筒井定次
東海
織田秀信
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日本の歴史ガイド「秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか|博多・筥崎の五か条と、領地より信仰を選んだ高山右近
高槻城:キリシタン大名で有名な高山右近重友(ジュスト右近)
この記事のポイント
・天正15年(1587)6月19日、九州攻めを終えた秀吉は、筑前の筥崎で「バテレン追放令」を出し、キリスト教の宣教師(バテレン)に20日以内の国外退去を命じました
理由として、キリシタン大名による寺社の破壊、長崎が教会の領地になっていたこと、日本人が海外へ売られていたことなどが挙げられています
・ただし南蛮貿易は続けてよいとされ、宣教師もすぐには追い出されませんでした。追放令は徹底されたものではなかったのです
・このとき、キリシタン大名の高山右近は、信仰を捨てるか領地を捨てるかを迫られ、信仰を選んで領地を失いました
『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」では、秀吉がキリシタン大名の高山右近を呼び出し、領地か信仰かを選ばせる場面があると伝えられています。この場面の背景にあるのが、九州攻めの直後に出された「バテレン追放令」です。この記事では、秀吉がなぜ追放令を出したのか、その中身と、信仰を選んだ高山右近のその後を紹介します。
高山右近像
高槻城跡に立つ高山右近の像(高槻城)
目次
1|バテレン追放令はいつ、どこで出されたのか
2|追放令の中身 ─ 五か条
3|秀吉はなぜ追放令を出したのか
3-1|① 寺社の破壊
3-2|② 長崎が教会の領地になっていた
3-3|③ 日本人が海外へ売られていた
3=4|④ 一向一揆のような反乱への警戒
4|領地より信仰を選んだ高山右近
5|その後のキリスト教と右近の最期
6|よくある質問
7|まとめ
バテレン追放令はいつ、どこで出されたのか
九州攻めを終えた秀吉は、天正15年6月7日に筑前の筥崎に入り、九州の国分けを行いました(九州攻めはどう終わったのか)。その筥崎で6月19日に出したのが、バテレン追放令です。前日の6月18日付で、11か条の「覚」も出されています。
追放令の中身 ─ 五か条
6月19日付の追放令は五か条からなり、おおよそ次のような内容です。
・日本は神の国であり、キリスト教の国から邪な教えを広めるのはよくない
・大名が領民をキリシタンにして、寺や神社を壊させるのは許さない
・宣教師(バテレン)は、20日以内に日本から立ち去ること
・ポルトガルの貿易船は商売のために来るのだから、これまでどおりでよい
・今後も、仏法のさまたげをしない者なら、商人以外でも往来してかまわない
注目したいのは、貿易は続けてよいとしていることです。秀吉はキリスト教を広めることを禁じた一方で、南蛮貿易の利益は手放したくありませんでした。また、一般の人が自分の意思で信仰することまでは禁じていません。大名がキリシタンになるには、秀吉の許可が必要だとされました。
▶ 前後の放送回の史実解説
・高橋紹運はなぜ763人で玉砕したのか
・家康の上洛に従った家臣、岡崎に残った家臣
・臣従した家康は何を得たのか
・家康はなぜ秀長の屋敷に泊まったのか
・家康はなぜ秀吉の陣羽織を所望したのか
秀吉はなぜ追放令を出したのか
秀吉が追放令を出した理由には、いくつかの説があります。
① 寺社の破壊
九州では、キリシタン大名が領内の寺や神社を壊し、領民を改宗させる動きがありました。秀吉は、こうした行いを天下の秩序を乱すものと考えました。
② 長崎が教会の領地になっていた
肥前の大村純忠は、長崎をイエズス会に寄進していました。日本の土地が外国の教会の領地になっていることを、秀吉は問題視したとされます。
③ 日本人が海外へ売られていた
前日に出された11か条の「覚」には、日本人を南蛮へ売り渡すことを禁じる項目があります。ポルトガル商人によって日本人が奴隷として海外へ連れ出されていたことも、秀吉の怒りを買いました。
④ 一向一揆のような反乱への警戒
11か条の「覚」には、キリシタンを一向宗にくらべる項目もあります。信長が苦しめられた一向一揆のように、信仰で結びついた人々が大名の言うことを聞かなくなるのを、秀吉は恐れたと考えられます。
領地より信仰を選んだ高山右近
追放令が出されたとき、秀吉は家臣のキリシタン大名・高山右近に、信仰を捨てるよう迫りました。右近は摂津の高槻城主として知られ、このころは播磨の明石を治めていました。多くの大名に信仰を勧めた中心人物でもありました(高山右近とは)。
右近は、信仰を捨てるくらいなら領地を返す、と答えたと伝わります。秀吉はすぐに右近の領地を取り上げ、右近は大名の地位を失いました。その後の右近は、小西行長にかくまわれ、やがて前田利家に招かれて加賀で暮らします。前田家のもとでは、金沢城の改修や高岡城の縄張りにも関わったとされます(高岡城跡)。
高槻城跡
高山右近が城主を務めた摂津の高槻城の跡(高槻城)
▽ よく語られる話
バテレン追放令で、キリスト教は日本から徹底的に追い出された。
▼ 史実ではこうです
追放令は出されたものの、宣教師たちはすぐには国外へ出ず、長崎ではイエズス会の活動が続きました。秀吉も南蛮貿易を重んじて、追放令を厳しくは守らせませんでした。キリスト教が本格的に禁じられるのは、江戸幕府の禁教令(1612〜1614年)からです。
その後のキリスト教と右近の最期
追放令のあとも、秀吉は京都の南蛮寺を壊し、天正16年(1588)には長崎を直轄地にするなど、キリスト教への締めつけを強めていきます。慶長元年(1596)のサン・フェリペ号事件をきっかけに、翌年には長崎で26人のキリシタンが処刑されました。
高山右近は、江戸幕府の禁教令によって慶長19年(1614)に国外追放となり、フィリピンのマニラへ渡りました。そして到着からわずか40日ほどで病に倒れ、翌年63歳で亡くなります。領地より信仰を選んだ右近は、2017年、カトリック教会から「福者」に列せられました。
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」は11月1日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、物語は天正15年9月、聚楽第の完成から始まります。あらすじでは、秀吉が高山右近を聚楽第に呼び出し、領地か信仰かを選ばせる場面があり、右近が信仰を選ぶと、秀吉はすぐに領地の没収を命じるとされます。放送後にこの枠を更新します。
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よくある質問
Q. バテレン追放令はいつ出されたのですか?
A. 天正15年(1587)6月19日、九州攻めのあとに筑前の筥崎で出されました。前日の18日付で11か条の「覚」も出されています。
Q. バテレン追放令の内容は?
A. 宣教師に20日以内の国外退去を命じ、大名が領民を改宗させて寺社を壊すことを禁じました。一方で、南蛮貿易は続けてよいとされました。
Q. 秀吉はなぜバテレン追放令を出したのですか?
A. 寺社の破壊、長崎が教会の領地になっていたこと、日本人が海外へ売られていたこと、一向一揆のような反乱への警戒などが理由に挙げられています。
Q. 高山右近は追放令のあとどうなったのですか?
A. 信仰を捨てることを拒んで領地を失い、小西行長や前田利家のもとで暮らしました。のちに江戸幕府の禁教令で国外追放となり、マニラで亡くなりました。
まとめ
バテレン追放令は、九州攻めを終えた秀吉が、筥崎で出した宣教師の追放命令でした。寺社の破壊や長崎の教会領化、日本人の売買などへの怒りが背景にありましたが、南蛮貿易は続けられ、追放令は徹底されませんでした。その中で、信仰を捨てるより領地を捨てることを選んだのが高山右近です。第42回で描かれる右近の決断は、天下人の命令に信仰で向き合った、数少ない武将の姿なのです。
参考:「天正十五年六月十九日 定」(『松浦家文書』)/「天正十五年六月十八日 覚」(『御朱印師職古格』)/ルイス・フロイス『日本史』
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名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館
刀剣の豆知識
キリシタン大名の歴史
「キリシタン大名」とは、カトリック(キリスト教)の教徒となった大名のことです。鉄砲伝来を機に、日本には「西洋文化」が伝来し、キリスト教は一度支持されたものの、「豊臣秀吉」が「バテレン追放令」を発布し、「徳川家康」が「キリスト教禁止令」を発布したことにより、激しく弾圧され衰退していきました。今回はキリシタン大名とキリスト教の象徴「十字架」にまつわる美術品について、詳しくご紹介します。
目次
・キリシタン大名とは
・十字架の種類
・十字架が描かれた美術品
キリシタン大名とは
キリシタン大名の歴史と概要
フランシスコ・ザビエル
「キリシタン大名」とは、室町時代後期から江戸時代にかけて、キリスト教のカトリック(旧教、聖職者は神父と呼ぶ)の教徒となった大名のことです。「キリシタン」はポルトガル語「Christao」の発音そのままで、キリスト教徒という意味。
1543年(天文12年)、種子島(現在の鹿児島県)に鉄砲が伝来したことは有名ですが、この鉄砲を運んできたのが、ポルトガル国の船でした。これ以降、ポルトガル人は、毎年九州の諸港に来航して、貿易を開始。これに伴い、1549年(天文18年)にやってきたのが、キリスト教のカトリック(イエズス会)の宣教師「フランシスコ・ザビエル」です。
フランシスコ・ザビエルは、ポルトガル王の要請にしたがってインドのゴアに赴き、そこで「ヤジロー」(薩摩国出身の日本人)から日本の話を聞いて興味を抱いて、薩摩国(現在の鹿児島県)に来航。室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)に布教の許可を求めるため京都に上りましたが叶わず、周防国(すおうのくに:現在の山口県)、豊後国(ぶんごのくに:大分県)などで布教しました。
約2年で、フランシスコ・ザビエルは中国へと移動しますが、「日本人は予の魂の歓びなり」と日本を高評価。後任の宣教師「トレス」が足利義輝に布教を許され、「ガブラル」、「ルイス・フロイス」も「織田信長」に謁見して寵愛されるなど、熱心に布教しました。この結果、カトリックは九州や畿内を中心に広まったのです。
大村純忠
日本で最初にキリシタン大名となったのは、1563年(永禄6年)に洗礼を受けた肥前国(ひぜんのくに:現在の長崎県)の大村領主「大村純忠」(おおむらすみただ:洗礼名はバルトロメヲ)。大村純忠は、福田港、長崎港を開港し、南蛮貿易を積極的に行いました。
また、キリシタン大名となった有馬城(現在の長崎県南島原市)城主「有馬晴信」(ありまはるのぶ:洗礼名はジョアン・プロタシオ)、豊後国の臼杵城(うすきじょう:現在の大分県臼杵市)城主「大友宗麟」(おおともそうりん:洗礼名はドン・フランシスコ)とともに、ローマに「天正遣欧使節」(てんしょうけんおうしせつ)を派遣しています。
高山右近
この他にもキリシタン大名は、京都の南蛮寺建立に尽力した高槻城(現在の大阪府高槻市)城主「高山右近」(たかやまうこん:洗礼名はジュスト)や、堺(現在の大阪府堺市)奉行「小西隆佐」(こにしりゅうさ:洗礼名はジョーチン)・「小西行長」(こにしゆきなが:洗礼名はアウグスチヌス)親子、「蒲生氏郷」(がもううじさと:洗礼名はレオン)、「黒田官兵衛」(くろだかんべい:洗礼名はシメオン)などが有名です。
また、女性のキリシタンとして「細川ガラシャ」(明智光秀の娘で細川忠興の妻)がよく知られています。
バテレン追放令とキリスト教禁止令
日本で好意的に思われていたカトリックですが、突然「豊臣秀吉」は1587年(天正15年)、「バテレン追放令」(キリスト教禁令)を発布。これは、キリシタン大名達が領民をキリスト教に改宗させ、キリスト教の洗礼を受けた日本人を、大量に海外に奴隷として売買していることを知ったからです。また、1580年(天正8年)にポルトガル国がスペイン帝国に支配されたことを知り、このままでは日本も、ポルトガル国と同様にスペイン帝国に支配されると危惧したからだと考えられます。
このとき、有力だったキリシタン大名の大村純忠、大友宗麟はすでに死去。存命だった有馬晴信、蒲生氏郷、黒田官兵衛達は、信仰を棄てることを余儀なくされて改宗しました。信仰を棄てられなかった高山右近は、領地と大名の地位を奪われますが、「前田利家」に保護されます。また、小西隆佐・行長親子はなぜか見逃されますが、小西行長は1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で西軍に付き、捕らえられて斬首となりました。
このバテレン追放令により、イエズス会は布教を自粛。しかし、貿易は制約されなかったため、スペイン系のカトリック(フランシスコ会)の布教活動が活発となりました。しかし、1596年(慶長元年)に土佐国(現在の高知県)浦戸にスペイン船が漂流する「サン・フェリペ号事件」が起きて、事態が悪化。漂流者を救助しないで拘留したことに憤った乗組員が「スペイン帝国の国王は、小国・日本に宣教師を先に遣わし、布教事業と共に征服事業をしている」ということを言ったため、フランシスコ会の宣教師や日本人信徒が捕らえられ、長崎で処刑される「日本二十六聖人」殉教事件が起きたのです。
江戸時代になると、江戸幕府初代将軍「徳川家康」も禁教令を踏襲したものの、キリスト教は貿易に利用できたため黙認します。これにより、キリシタンはまた増えていきました。
ところが、1612年(慶長17年)、江戸幕府は突然「キリスト教禁止令」を発布。これは、新たに貿易をするようになったプロテスタント(キリスト教の新教。聖職者は牧師と呼ぶ)を信仰するオランダ・イギリスが、江戸幕府に、「カトリックを信仰するポルトガル・スペインが日本の国土を侵略しようとしている」と、誹謗中傷してきたため。これにより、徳川家康は、すべてのキリスト教を禁止して、宣教師などを国外へ追放。高山右近も国外追放となり、フィリピン国のマニラにて死去しました。
徳川家康は、踏み絵を強いて改宗させるなど、キリシタンを徹底的に弾圧。これに抵抗したキリシタン「天草四郎時貞」(あまくさしろうときさだ:洗礼名はジェロニモ、またはフランシスコ)達が起こしたのが、1637年(寛永14年)の「島原の乱」と言えますが、江戸幕府が何とか鎮圧。さらに1641年(寛永18年)までに、日本は鎖国を行い、オランダ、中国、朝鮮以外との国交を閉ざしました。
なお、キリシタンは、「吉利支丹」、「切支丹」、「鬼里至端」などと表記されましたが、1680年(延宝8年)以降、「吉」の字は江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」の名前に用いられているため、敬避され使用されなくなっています。
明治時代になると、1873年(明治6年)、明治新政府はキリシタン禁制を撤廃。1903年(明治36年)に、「シュタイシェン」(キリシタン史を研究した神父)が発表した「切支丹大名記」には 、日本でのキリシタン大名の数は46家 61人、キリシタンは250,000人いたことが書かれています。
十字架の種類
キリスト教にとって十字架とは、神の子「イエス・キリスト」が処せられた磔刑(たっけい:はりつけの刑)の刑具です。これにより、キリスト教徒にとって十字架は、尊敬、犠牲、贖罪(しょくざい:罪ほろぼし)の象徴となりました。日本には、その十字架の形に似た、いくつかの家紋があります。
島津十字
「島津十字」(しまづじゅうじ)は、豊臣政権下での大大名「島津氏」が鎌倉時代から使用していた家紋です。
これは、中国三大宗教(儒教、仏教、道教)の道教の教え、「十字を切る」という厄災除けの呪符にちなんだもの。
キリスト教の十字架とは無関係です。
丸に十文字
「丸に十文字」(まるにじゅうもんじ)は、島津氏が江戸時代から使用しはじめた家紋。
島津十字は、当時のカトリック宣教師も驚くほど、キリスト教の象徴である十字架に似ていたため、禁教令がでたときにキリスト教とは無関係だと主張して、丸囲みをするようになったと言われています。
久留子紋
花久留子紋
「久留子紋」(くるすもん)とは、キリスト教の十字架をモチーフとした家紋。
信者達は、自分の家紋に十字架を忍ばせ信仰を続けていましたが、禁教令が出ると、十字架がモチーフと知られた久留子紋は使用禁止になり、轡紋(くつわもん:馬の口に嚙ませる「轡」に由来している家紋)や「矢筈十字紋」(やはずじゅうじもん:矢を十字にした家紋)などと呼び方を変えました。
久留子紋には、「花久留子紋」、「十字久留子」、「堀久留子」、「中川久留子」など、様々なものがあります。
中結祇園守紋
「中結祇園守紋」(なかゆいぎおんまもりもん)は、キリシタン大名の小西行長が使用していた家紋です。
祇園守とは、京都の八坂神社が発行するお守りで、2本の巻物が十字に描かれているのが特徴。
この十字に気づいたキリシタンが、好んで家紋にしたと言われています。
十字架が描かれた美術品
青貝微塵笛巻塗鞘 半太刀形打刀拵
切竹矢筈十字紋
「青貝微塵笛巻塗鞘 半太刀形打刀拵」(あおがいみじんふえまきぬりさや はんだちがたうちがたなごしらえ)は、「刀 銘 丹後守兼道」(かたな めい たんごのかみかねみち)のために作られた拵です。
この刀と拵は、戦国時代にキリシタン大名として知られた摂津能勢地方(せっつのせちほう:現在の大阪府豊能郡)領主「能勢家」(のせけ)に伝来した物。
刀を作刀したのは「二代丹後守兼道」です。
二代丹後守兼道は、菊花紋を切ることを許された初代丹後守兼道の嫡男。刃文は濤瀾風(とうらんふう)大互の目乱れで、華やかな1振です。
拵は、能勢氏の注文により作られ、上等な青貝塗り、洗練された筋塗り、家紋「切竹矢筈十字紋」(きりたけやはずじゅうじもん)が散りばめられ、高品質な仕上がりとなっています。
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刀剣ワールド
キリスト教の迫害
豊臣秀吉が1587年(天正15年)に「伴天連追放令」(ばてれんついほうれい)を発令した頃から、日本でのキリスト教の布教は制限され、外国人宣教師や洗礼を受けてキリシタンとなった日本人達への弾圧が次第に目立つようになりました。ただし、発令された当初の伴天連追放令は「禁教奨商」(きんきょうしょうしょう:キリスト教は禁止するが貿易は奨励する)を基本的な方針としており、ポルトガルとの南蛮貿易(なんばんぼうえき)において、必ずしも大きな効力を発揮するものではありませんでした。フランシスコ・ザビエルの所属するイエズス会がキリスト教の布教と貿易を一体化する方針を固めていたため、南蛮貿易によって大きな利益を手にするためにはキリスト教の布教も黙認せざるを得なかったのです。
目次
・キリスト教迫害のきっかけとなったサン・フェリペ号事件
・日本二十六聖人の殉教はなぜ起こったのか
・江戸時代にも進んだキリスト教迫害
・再び長崎で起こった大規模な殉教事件
キリスト教迫害のきっかけとなったサン・フェリペ号事件
ペドロ・バプチスタ
1590年(天正18年)に天下統一を果たした豊臣秀吉は、キリスト教に対してより強硬な姿勢を示すようになります。その発端となったのがスペイン系修道会「フランシスコ会」の宣教師であるペドロ・バプチスタの布教です。
1549年(天文18年)に伝来して以来、日本でのキリスト教の布教は40年以上の間ポルトガルのイエズス会が独占していたのですが、1593年(文禄2年)にフィリピン使節として来日したスペイン・フランシスコ会のペドロ・バプチスタらは、イエズス会が表立った布教を控えていた禁教下の京都で公然と布教活動を開始。
教会や病院を建てるなど、次第に活動範囲を広げていったのです。そして、豊臣秀吉がキリスト教を弾圧することになる決定的な出来事が起こりました。1596年(慶長元年)の「サン・フェリペ号事件」です。フィリピンからメキシコに向かっていたスペイン船のサン・フェリペ号が台風で遭難し、土佐国浦戸(とさのくにうらど:現在の高知県高知市)に漂着。
土佐国の守護大名である長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)からその報告を受けた豊臣秀吉は、豊臣政権・五奉行(ごぶぎょう)の第3席である増田長盛(ましたながもり)を浦戸に派遣しました。その際、サン・フェリペ号の船員は「スペインはまず宣教師を派遣してキリスト教の信者を増やし、やがてその国を征服する」という趣旨の発言をしたとされ、増田長盛が豊臣秀吉にそれを報告したところ、豊臣秀吉は激怒。
日本がいずれスペインに占領されるかもしれないという危機感から、京都で布教を行っていたフランシスコ会の宣教師達を捕縛します。この捕縛にはもうひとつ理由がありました。それは、漂着したサン・フェリペ号の積載品を手に入れるためでした。
当時の豊臣政権は1592年(文禄元年)の「文禄の役」(ぶんろくのえき:朝鮮出兵)や「慶長大地震」(けいちょうおおじしん)で財政が悪化しており、サン・フェリペ号に積まれた価値の高い品々を手に入れるための正当な理由が欲しかったのです。そこで豊臣秀吉は伴天連追放令を根拠に、乗船していた宣教師を捕縛するとともに、莫大な積載品を没収しました。
そしてこれらの出来事は、最終的に日本で最初の大規模な殉教(じゅんきょう:自分の信仰する宗教のために命を捨てること)と言われる1597年(慶長2年)の「日本二十六聖人の殉教」(にほんにじゅうろくせいじんのじゅんきょう)へと発展します。
日本二十六聖人の殉教はなぜ起こったのか
日本二十六聖人の殉教
豊臣秀吉は当時の京都奉行だった石田三成(いしだみつなり)に、京都や大坂で布教活動をしているフランシスコ会の宣教師と、キリスト教の洗礼を受けてキリシタンとなった日本人を捕らえ、処刑するように命じました。
捕らえられたのは、先のペドロ・バプチスタをはじめとするフランシスコ会宣教師やイエズス会宣教師を含む計24名。1597年1月3日に京都の牢獄から出された24名は、見せしめのために左耳たぶを切られた上で3人ずつ計8台の荷車に乗せられ、京都の町を引き回されました。
その後、道中で捕縛者が2名加わり、26名は1ヵ月弱をかけて長崎へ連行されます。そして2月5日午前10時、4,000人の群衆が詰めかけた西坂(現在の長崎市西坂町)の丘の上で26名は十字架にかけられ、役人達に槍で突かれて処刑されました。
26名の内訳は、外国人が6名、日本人が20名。日本人のなかには12歳や14歳の少年も含まれていました。なぜ豊臣秀吉は26名をわざわざ長崎まで連行して処刑を行ったのか。それは、キリスト教の布教と信仰の自由に対する自身の考えを明確に知らせ、警告するためだったと言われています。
南蛮貿易によって長崎の町は栄えていましたが、その一方で宣教師達の居住や日本人の信仰が黙認され、伴天連追放令は大きな効力を持たない、形だけのものになっていたのです。
その状況を戒め、国内外に自らの威信を示す必要があった豊臣秀吉は、没収したサン・フェリペ号の積載品の返却と宣教師らの処刑の賠償を要求してきたフィリピン総督のドン・フランシスコ・テーリヨの使者にも強気で対応。すべては日本の法令に則ったものであるとして譲歩することはありませんでした。
江戸時代にも進んだキリスト教迫害
徳川家康
キリスト教の迫害は江戸幕府においてさらに進み、日本のキリシタンは受難の時代を迎えます。
1598年(慶長3年)の豊臣秀吉の死後、急速に地位を高めた豊臣政権・五大老(ごたいろう)のひとりである徳川家康は、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)において同じ五大老の毛利輝元(もうりてるもと)や五奉行の石田三成らを倒し、1603年(慶長8年)に江戸幕府を開設。
1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」、1615年(元和元年)の「大坂夏の陣」で豊臣氏を滅ぼし、政権を完全に掌握しました。
徳川家康も、最初はキリスト教の布教を黙認していました。しかし、依然として布教を貿易の条件として譲らないイエズス会及びポルトガルへの不満からスペインとの国交を積極化したため、スペイン系修道会「ドミニコ会」などの布教が活発に。1605年(慶長10年)には、日本のキリスト教信徒は約700,000人いたと言われています。
そして増え続けるキリシタンへの脅威から、徳川家康は、1612年(慶長17年)に「キリスト教禁止令」を発令します。江戸や大坂、京都、長崎で教会が破壊され、各地で多くの殉教者が出るようになり、キリシタン大名の高山右近(たかやまうこん)やキリシタン武将の内藤如安(ないとうじょあん)らをマニラに追放した他、信者を強制的に仏教に改宗させるために様々な拷問が行われるようになりました。
再び長崎で起こった大規模な殉教事件
まず、日本二十六聖人の殉教から25年後の1622年(元和8年)、同じ長崎の西坂にて55名のキリシタンが火あぶりや斬首といった残酷な方法で処刑されました。
続いて1627年(寛永4年)には肥前国日野江(ひぜんのくにひのえ:現在の長崎県南島原市)の松倉重政(まつくらしげまさ)が、雲仙地獄(うんぜんじごく:現在の長崎県雲仙市にある温泉地の噴気帯。高温の湯や蒸気が至るところから噴出し、硫黄臭が立ち込めていることから地獄に見立てられ、この名で呼ばれる)の熱湯を改宗のための拷問に使った他、1628年(寛永5年)にはキリシタンに聖画像(イエス・キリストや聖母マリアを描いた金属製の板)を踏ませて改宗を迫る「絵踏」(えぶみ)も行われるようになりました。
そのなかでも特に大きな殉教事件となったのが、1637年(寛永14年)に起きた「島原の乱」です。肥前国島原(現在の長崎県島原市)と肥後国天草(現在の熊本県天草市)は、それぞれキリシタン大名の有馬晴信(ありまはるのぶ)と小西行長(こにしゆきなが)の旧領であったため、領民にキリスト教信仰が広く浸透していました。
しかし、のちに両地の守護大名となった松倉重政と寺沢広高(てらさわひろたか)が徹底したキリスト教弾圧を図るとともに重税を課したため反発が高まり、島原のキリシタンを含む農民が中心となった大規模な一揆が起きたのです。
当時わずか16~17歳だったと言われる天草四郎(あまくさしろう:本名は益田四郎時貞[ますだしろうときさだ])を主将として島原半島の原城(はらじょう)に籠城した農民達は果敢に幕府軍と戦い抵抗を続けましたが、翌1638年(寛永15年)に城内の食糧と弾薬が底をついたところに総攻撃を受け、原城は陥落。女性や子どもを含む全員が皆殺しとなりました。
島原の乱でキリシタンの結束力の高さを実感した幕府は、ますます禁教を強化していくことになります。国民がいずれかの寺院の檀家(だんか:その寺院に所属して、布施によって寺院の財政を助ける人あるいは家族)になることを義務付ける「寺請制度」(てらうけせいど)などが定められ、キリスト教は形の上では国内から根絶されました。
しかし、九州の天草地方や五島列島にはそのあとも密かにキリスト教を信仰する「隠れキリシタン」と呼ばれる人々が存続し、本来のキリスト教とはまったく異なる信仰内容や行事を持つ宗教として代々受け継がれていくこととなります。
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豊臣秀吉は、世界の常識である「領主の宗教は領民の宗教」を否定し、キリスト教棄教を拒否するキリシタン大名高山右近を国外追放した。
豊臣秀吉がキリスト教会を怖れたのは、中世キリスト教会やイエズス会伝道所群による宗教による日本侵略と白人キリスト教商人による日本人を商品とする交易であった。
ローマ教皇は、日本人キリシタンの商品化は禁止したが、改宗を拒否した非キリスト教日本人の国外輸出は認めていた。
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徳川家康と徳川幕府は、領民の個人的な信仰の自由を否定し、全ての日本人を仏教徒として仏教寺院の支配下に置いた。
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