💄19)─1─江戸の風俗街は階級社会。性風俗において遊女よりも美少年(男色)の方が高級であった。~No.39No.40No.41 

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 江戸時代は、イギリス同様に男性による同性愛者が多かった。
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 キリスト教会は同性愛者は絶対神の戒律を破る異端者と糾弾し、政府は同性愛者を犯罪者として罰していた。
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 2024年12月1日18:17 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「遊女は「人参10本分の値段」だが、美少年なら30万円…次のNHK大河の見どころ「江戸の風俗街」の驚きの階級社会
 歌川広重「東都名所・吉原仲之町夜桜」(画像=Honolulu Museum of Art/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
 来年のNHK大河ドラマの主人公・蔦屋重三郎が活躍した江戸時代の吉原遊郭とは、どのような場所だったのか。永井義男(監修)『蔦屋重三郎の生涯と吉原遊廓』(宝島社)より、一部を紹介する――。
 【画像】次のNHK大河ドラマの主人公は、この人
■吉原遊廓の「遊びの心得」
 吉原遊廓で遊ぶ際には、一定の形式がある。まずは吉原のタウンガイドである吉原細見を見て、どの妓楼やどの遊女がよいのか、自分の懐具合と適った場所を探す。
 目当ての妓楼・遊女があれば、直接、妓楼へ行って張見世で遊女を見物したり、見世番に相談したりする。
 客が直接、登楼することを「直きづけ」と呼ぶ。その場合、主にふた通りの遊び方がある。初会(初めて遊ぶ場合)の客の場合には、先述したように張見世で遊女を眺め、見世番に好みの女性を告げれば、案内してくれる。すでに馴染みの場合には、そのまま登楼し、心得た若い者が馴染みの遊女を手配してくれる。
 直きづけのほかに、引手茶屋を介して、登楼する場合もある。引手茶屋で遊女を斡旋してもらう方法だ。支払いはすべて引手茶屋が立て替えるため、初会の客はそれなりのお金が入った財布を茶屋に預ける必要があった。引手茶屋の2階で軽く飲み食いした後に、頃合いで女将や若い者の案内で妓楼へ向かう。
■「3回目でないと体を許さない」はウソ
 また、妓楼から遊女を呼び寄せるという場合もある。もっとも贅沢で、金のかかる遊びである。大概は花魁が妓楼から呼ばれた。指名された花魁は、新造や禿、遣手らを引き連れ、引手茶屋へとやってくる。茶屋の二階座敷で酒宴が催され、幇間や芸者なども呼ばれた。そして、頃合いで花魁らを引き連れて、若い者の手引きで妓楼へと向かうのである。引手茶屋は客が登楼した後も、つきっきりで面倒を見るのが通例であった。
 客が遊女とともに寝床についたのを見届けると、妓楼を後にする。そして、翌朝の指定された時刻に、若い者が寝床まで来て起こしてくれる。いたれりつくせりである。
 初めての遊びを「初会」と呼ぶ。2回目を裏(「裏を返す」という)、3回目からは馴染みとなる。同じ妓楼では初会の遊女から、別の遊女に替えることは禁止されていた。また、俗に花魁は3回目の馴染みになってからでなければ、体の交わりを許さないと言われる。しかし、これには史料的裏付けはなく、俗説に過ぎない。
■「大河ドラマの主人公」が活躍した時代
 宝暦以降の吉原遊廓は、元吉原以来から続いた伝統やシステムが一変した時代である。1750(寛延3)年に生まれた蔦屋重三郎は、吉原の転換が進んだ宝暦期にはまだ幼少である。まさに転換期の吉原に生まれ育った。
 吉原遊廓の衰退と転換の一因は、岡場所や品川・内藤新宿などの宿場の女郎屋が台頭してきたことにある。吉原よりも安価で遊べたのと併せて、岡場所の場合には江戸市中にあったため、通うのにも便利だった。面倒な格式や制度もないため、元禄のバブルがはじけて以降、経済的に退潮ぎみの世にあっては、自然と岡場所に客が流れていった。
 豪遊する大名や豪商も少なくなり、吉原もより大衆化路線に舵を切らざるを得なかった。多額のお金がかかる揚屋制度を廃止し、太夫の位もなくなった。紋日も大幅に削減することで、客の負担も軽くした。また、商売敵である非公認の岡場所に対して、吉原側は町奉行に取り締まりを要請したりもした。
 松平定信寛政の改革下では、岡場所に徹底的な取り締まりが行われた。このときに捕らえられた岡場所の私娼たちは、そのまま公許の遊廓である吉原に引き取られた。
 しかし、これによって、ますます吉原の質は低下することとなった。元私娼が増えたことで、吉原の格式もより薄れてしまったのである。
 そのような時代に、吉原で本屋を始めた蔦重は、出版を通じて、衰退しつつある新吉原を盛り上げていった。吉原細見の改良、吉原を舞台とした洒落本・黄表紙の大量出版、喜多川歌麿の美人大首絵を通じて遊女のイメージアップを図ったのである。こうして、吉原遊廓は多くの人が一度は行ってみたいと憧れる遊興の地となったのである。
■江戸時代を通じて18回も全焼した
 木造の家々がぎっしりと軒を連ねた人口過密の江戸は、たびたび大火に見舞われた。江戸市中の郊外にある吉原遊廓も例外でなく、火災によって全焼することもしばしばであった。1657(明暦3)年の新吉原の開業以来、1768(明和5)年4月の火災を皮切りに、幕末の1866(慶応2)年11月の火災まで、江戸時代を通じて合計18回もの全焼を経験している。
 頻発する吉原での火事は、類焼もあるが、妓楼が火元となったケースも多かった。その多くが、遊女によるつけ火だったという。苦界のつらさに耐えかね、火を放ったのだろう。なかには、楼主や女房からのひどい仕打ちに耐えきれず、複数人の遊女が共謀で火をつけたこともあった。
■放火犯は「火炙り」に処せられたが…
 江戸では放火は大罪であり、たとえ小火でも、犯人は火罪(火炙り)に処せられた。しかし、吉原での遊女によるつけ火の場合には、火罪ではなく、流刑(遠島)に減刑されていた。苦界のつらさに耐えかねた遊女に対する、奉行所側の情状酌量であったと思われる。
 火事で営業ができなくなった場合、町を再建するまでに、期間を決めて浅草や本所、深川、中洲などで仮営業をすることが幕府から許可されていた。これを仮宅と呼ぶ。仮宅は江戸市中で営業したため、普段の吉原よりも通いやすかった。また臨時営業であるため、吉原独自の格式や伝統も簡易化され、遊女の揚代もディスカウントされた。
 仮宅の調度品もあくまでも仮のもので、経費もかけずに営業できたため、むしろ商売は繁盛したという。
■「人参10本分の価格」で体を売る非合法風俗
 江戸には幕府公認の吉原遊廓以外にも、さまざまな遊里があった。無認可の遊里は岡場所と呼ばれた。時代によって変遷はあるが、江戸市中だけでも40~50カ所の岡場所があったとされる。無認可営業であるため、そこで働く遊女は私娼であった。
 江戸市中に点在したことから通うのにも便利で、かつ安価に遊ぶことができた。幕府もほとんど黙認しており、下級武士や江戸庶民の間で人気を博した。
 岡場所のなかでも、最も安く遊べたのが、切見世と呼ばれる盛り場である。浅草堂前、あひる入江町、根津、音羽桜木町などで無認可営業が行われた。長屋と同じく、狭い路地の両側に間口4.5~6尺、奥行2.5~3間ほどの店が軒を連ねた。まさに、俗に言う「ちょんの間」である。10分の情交で揚代はわずか100文程度だ。これは当時の人参10本分に相当する価格である。野菜と同じ値段で体を売る切見世の遊女らは、その揚代の価格から「お百さん」とも呼ばれたという。
■遊女よりも「美少年」と遊ぶほうが高級
 他方、宿場の旅籠(はたご)屋には、飯盛女という遊女を置くことが、道中奉行から認められていた。江戸四宿の品川、内藤新宿、板橋、千住は、江戸市中からも近いために、江戸の男たちからも手頃な遊里として人気を集めた。そのほか、茣蓙(ござ)1枚を持って夜道に立った街娼である夜鷹もまた、安価で自らの体を売っていた。いわば「立ちんぼ」である。
 また、陰間(かげま)と呼ばれる男娼もいた。陰間を置く陰間茶屋は、現在の日本橋人形町付近の芳町で賑わいを見せた、10代の若く美しい男子が、振袖に袴姿に白粉を塗り、あたかも歌舞伎の女形のような格好で、自らの体を売った。客は料理茶屋の座敷に呼び出して遊ぶため、陰間買いは普通の遊女を買うよりも高くついた。
 平賀源内の『江戸男色細見(菊の園)』によれば、「一切り」(約2時間)で金1分(約2万5000円)、店から「他行所」で連れ出すならば金2両(約20万円)、「仕舞」まで丸1日自由に買うならば、金3両(約30万円)もしたという。

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 永井 義男(ながい・よしお)
 小説家
 1949年生まれ、97年に『算学奇人伝』で第六回開高健賞を受賞。本格的な作家活動に入る。江戸時代の庶民の生活や文化、春画や吉原、はては剣術まで豊富な歴史知識と独自の着想で人気を博し、時代小説にかぎらず、さまざまな分野で活躍中。

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 12月1日 YAHOO!JAPANニュース PRESIDENT Online「NHKは「吉原の闇」をどこまで描くのか…次の大河の舞台「江戸の風俗街」で働く遊女4800人の知られざる生活
 "水揚げ"されるケースはほとんどなかった
 永井 義男
 来年のNHK大河ドラマの主人公・蔦屋重三郎とは、どのような人物なのか。小説家の永井義男さんは「『江戸の出版王』と呼ばれる蔦屋重三郎は、幕府公認の遊郭があった吉原で生まれた。幼少期から吉原遊郭の世界に接していたことが、彼のキャリアに大きな影響を与えた」という――。
※本稿は、永井義男(監修)『蔦屋重三郎の生涯と吉原遊廓』(宝島社)の一部を再編集したものです。
 江戸時代の日本の通り写真=iStock.com/jaimax
 約4800人の遊女が住む吉原で生まれ育った
 吉原遊廓については「江戸の文化の発信地」であるとか、「江戸の流行の源泉」とかさまざまな言われ方があります。しかし、その根本は公許の遊廓、つまり「風俗街」であり、そこで働く遊女は「風俗嬢」であるということです。吉原遊廓の本質はそこにあることを、まずは押さえなくてはいけないと思います。公許の遊廓としてスタートした吉原は、1657(明暦3)年に、現在の日本橋人形町から台東区千束へと移転して、浅草寺の裏手に広がる田圃の中に新吉原が作られました。
 時代によって多少の増減はありますが、千束へと移った新吉原の場合、2万坪ほどの敷地に、およそ1万人が居住していたとされます。
 1846(弘化3)年の「町役人書上」によれば、男性1439人、女性7339人と総人口は8778人とされます。女性のうち遊女は4834人ですから、まさに女性たち、とりわけ遊女たちの活躍で成り立つ世界でした。
 俗に「遊女三千」と言われますが、おおよそ実際の数字と合っているのではないかと思われます。
 このおよそ1万人の吉原の住民のひとりとして生まれたのが、蔦屋重三郎でした。蔦重の両親もおそらくは遊女に関わる仕事をしていたはずです。たとえ妓楼ぎろうの生まれでなくとも、蔦重は子供の頃からそうした世界に接していたことでしょう。
 生粋の吉原っ子であり、吉原のことを知り抜いていた。それが、蔦重の版元としてのキャリアに大きな影響を与えました。
 大名や豪商が夜な夜な豪遊した「伝説的な時代」
 吉原遊廓の歴史を江戸時代で区切るとすれば、およそ250年の歴史をもつと言えます。
 最初の40~50年が、今の日本橋人形町に設置された元吉原です。1657(明暦3)年3月に明暦の大火が起こりますが、その後に現在の千束付近に移転し、これが新吉原となります。
 まだ江戸市中にあった元吉原の頃が最初の40~50年であり、第1期とすれば、江戸の郊外にあたる千束に移った新吉原が第2期となります。それからおよそ100年の時が経過して、宝暦年間(1751~1764年)の頃に、吉原のシステムが一変します。ここからの100年間を第3期とします。
 吉原の全盛のひとつは、やはり第2期の宝暦以前の新吉原であり、それは端的に「太夫たゆう」がいた時代でした。太夫とは吉原の最上級の遊女に対する呼称です。太夫時代の吉原遊廓で遊ぶには、客は莫大な資金を要しました。本当に選ばれた者しか、吉原遊廓では遊べない時代です。その分、格式があり、大名や豪商ら夜な夜な豪遊した、伝説的な時代でした。
 文化面では、江戸よりも関西のほうが「上」だった
 当時の江戸は、元禄のバブル期へと突入し、大変潤った頃です。経済的には大きく成長した江戸ですが、しかし、文化面ではまだまだ、上方のほうが上でした。蔦重が参入する出版にしても、当時はまだ上方中心です。有名な近松門左衛門井原西鶴も、みな関西の出版界で活躍していました。彼らが書く遊里とは、京都の島原遊廓、大坂の新町遊廓を題材としていることがしばしばでした。
 しかし、元禄のバブル期が落ち着いてくると、やがて江戸でも独自の文化が発達してきます。大名ら武士階級が経済的な痛手を被り衰退していく一方で、急速に発展してきたのが、江戸の商人たちであり、江戸庶民でした。
 庶民文化が興隆してくる最中で、吉原遊廓のシステムがガラッと変わります。宝暦以前は、妓楼に所属する遊女たちを揚屋に呼び出して遊ぶというのが通例でした。現代風に言えば、デリバリー・ヘルスです。揚屋方式は、客の負担が非常に大きい遊び方です。呼び出し料も必要ですし、揚屋の部屋代、飲み食い代も必要です。妓楼から揚屋まで、太夫が客の元に向かう際には、新造しんぞうや禿かむろ、若い者を従えていくわけですから、その分のお金もすべて工面しなければなりません。
 バブル崩壊で、時代劇でもお馴染み「吉原」が誕生
 ただ、逆に言えば、妓楼に直接上がらなくても、揚屋に遊女を呼べば大名も気兼ねなく遊べましたし、宝暦以前はそれだけの大きな額を負担できるほどの経済力がありました。
 しかし、元禄のバブルが弾けてしまうと、たちまちに財政難となり、大名も豪遊ができなくなりました。吉原も劇的な転換を迫られたのです。こうして、宝暦末までに、徐々に揚屋のシステムに変更が加えられていきます。「太夫」や「揚屋」がなくなると、客が直接に妓楼で遊ぶ仕組みへと変わりました。いわば、今の店舗型の風俗店になったのです。そして、妓楼と客の仲介役・紹介役を引手茶屋が務めます。まさに風俗の案内所です。
 時代小説や漫画などの題材となり、現代人が思い描く吉原とは、この宝暦以降の、「太夫」がいなくなった吉原なのです。
 吉原の遊女(明治時代)吉原の遊女(明治時代)〔画像=Kusakabe Kimbei/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons〕
 「時代の転換期」に生まれた蔦屋重三郎
 この吉原の転換期と同じ時期、出版界においても大きな転換期が訪れました。江戸にも独自の本屋・版元が生まれ、上方中心だった出版文化が江戸へと移ってきたのです。その渦中で、本屋を開業したのが、蔦屋重三郎でした。
 蔦屋重三郎蔦屋重三郎(1750年~1797年)〔画像=江戸ガイド/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons〕
 蔦重は吉原大門前の五十間道ごじっけんみちに店を出しますが、そこで吉原遊廓のタウンガイドである『吉原細見』を売り出します。吉原細見は各妓楼にどんな遊女が所属しているのか、茶屋や吉原の芸者たちの情報や金額などを含めた、吉原の総合ガイドブックです。正月と7月の年2回発行されますが、妓楼内の遊女の移り変わりも激しいため、改訂版なども随時、刊行されました。
 そのため、新興の本屋としては、確実な定期収入になる、堅い仕事でした。
 吉原細見を作っていくには当然、吉原の人たちの協力が不可欠です。吉原出身の蔦重に、吉原の人たちも全面的に協力してくれたのでしょう。またそれは、吉原にとっても益のあることでした。江戸市中の外にあり、庶民の生活とは隔絶した世界であった吉原遊廓を、出版物を通じて巧みに宣伝・プロデュースしたのです。
 蔦重は盟友である山東京伝さんとうきょうでんらとともに吉原を舞台にした流行の大人向け絵本である黄表紙や洒落本を、多数刊行します。また、勝川春章や北尾重政といった既に浮世絵界の重鎮である絵師とともに、吉原遊廓を美しく表現した絵本を出版しました。寛政期に入ると、早くから目をかけていた喜多川歌麿の才能を見抜き、美人絵の作者として起用します。吉原の遊女をまるで、ファッション・スターのように描いて売り出したのです。
 巧みな「ブランディング戦略」で文化の発信地に
 そうすることで、吉原遊廓は江戸庶民の流行文化の発信地となり、蔦重の出版物が売れるほど吉原のブランド価値も高まっていきました。黄表紙や洒落本、浮世絵を通じて巧みに吉原を演出し、これに惹かれた人々がこぞって吉原を訪れ、遊んでいく。まさに蔦重は吉原とウィンウィンの関係を築きました。
 また、当時、戯作者の多くは下級の武士たちでした。基本的には原稿料は出ない趣味の範囲で、教養ある武士が戯作を書いていたのです。そうした戯作者を、自分の版元に繫ぎ止めるために、蔦重は吉原を活用しました。このような武士たちは、基本的には家禄で食べていけるけれども、吉原で遊べるほどのお金はない人間たちです。蔦重は彼らを吉原の馴染みの茶屋に呼んで接待し、妓楼まで面倒を見たのでしょう。まさに作家を銀座の高級クラブで接待するようなものです。蔦屋から本を出せば吉原で遊べるとなれば、みんな蔦屋から出したいと思うわけです。
 ですから、さまざまな意味で蔦重は吉原を利用し、活用していました。反対に吉原のほうも、蔦重の作る出版物によって、吉原自体の価値を高めることができた。蔦重が吉原の宣伝・広告を担うことで、吉原遊廓も賑わい、さらに発展していく。吉原との持ちつ持たれつの蜜月が、蔦重の生涯を通じて続いたのです。
 加速していった「華やかで煌びやかなイメージ」
 蔦重が売り出した出版物によって作られた、吉原の華やかで煌びやかなイメージは、それ以降もさらに加速していきます。より幕末に近づくにつれて、女性連れの江戸観光も増えましたが、江戸見物の一環で、浅草寺の観音様を訪れたついでに吉原見物もするというのが定番の観光コースとなりました。吉原で遊ばなくとも、あくまで見物に来る。今で言うなら、東京見物に来たらディズニーランドに寄るようなものです。
 新撰組の前身である浪士組を組織した清河八郎という勤王志士がいます。彼は庄内藩、今の山形県出身ですが、郷里の母親をつれて旅行で江戸を訪れています。母親が見たいとせがむので、清河は母と一緒に、吉原遊郭に見物に行ったという記録があります。
 このような観光地としてのイメージは、蔦重の登場以降、より強まったと言えます。それだけにこと吉原遊廓に注目すると、蔦重が果たした役割はとても大きいのです。
 裏側には、「苦界」と呼ばれた過酷な境遇
 しかし、冒頭でお話ししたように、どんなにエンタメ化されようとも、吉原遊廓の本質はあくまでも風俗街であり、そこに働く遊女は風俗嬢です。お金で遊女を買い、性交渉を行う場でした。
 永井義男(監修)『蔦屋重三郎の生涯と吉原遊廓』(宝島社)永井義男(監修)『蔦屋重三郎の生涯と吉原遊廓』(宝島社)
 そこで働く遊女のほとんどが、借金のカタに売られた女子たちです。遊女は妓楼と契約を交わし、借金を返し終わるまで働かされるわけですが、それは実質的な人身売買でした。
 また当時の未発達な公衆衛生や病気に対する意識の低さによって、多くの遊女が性病に苦しみ、あるいは無理な堕胎によって、亡くなっています。亡くなった遊女は、葬式もあげられず、投げ込み寺に送られるだけです。また、年季明けまで勤め上げ、吉原遊廓を無事に出た遊女は決して多くありません。仮に吉原から無事に出られたとしても、その後の人生も自由なものではありませんでした。
 吉原遊廓という場所を見るとき、蔦重が巧みに演出した華やかな吉原遊廓の光の側面と、その裏で「苦界」とも呼ばれる過酷な境遇のもとで亡くなっていった無数の遊女たちがいたという闇の側面があります。吉原の歴史を見る際には、この光と闇の二面性を、改めて心に留めておきたいものです。
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